「小袖餅」由来

2016年12月12日 20:58

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 23:13:35.11 ID:GUidPEWx
名和顕忠は後醍醐天皇に使えた忠臣、名和長年の末裔であり、あれやこれやあって
今では肥後国の宇土城を領していた。

さて永正十四年(1516年)のこと、顕忠はひとりお忍びで城下へ出た。
民の暮らしぶりをつぶさに視察し、これを今後の政へどう反映していくか頭をひねりつつ、
それはそれとしてお腹が減ったので、顕忠はとある茶店に寄った。

老いた母と若い娘が切り盛りする小さな店だったが、そこで出されたお餅が存外うまい。
顕忠は大いに気に入り、何皿もペロリとたいらげた。
お腹もくちくなった顕忠、「美味かったぞ、ではな」と出て行こうとしたが、娘に袖を引っ張られる。
「お代を…」

顕忠、いくら私が領主でも無銭飲食はいかんよなと懐をさぐってみたが、財布を持ってきてないことに気づく。
冷や汗が額をつたい、こちらをうかがう娘の表情もどんどん険しくなっていく…
とはいえ、これから逃げても途中で追いつかれて銭取とかイヤな地名が生まれてしまうに違いない。
ほとほと困った顕忠は着物の小袖を切って渡し、これと引き替えにお城まで取りに来なさいと言って帰った。

小袖を置いてかれた茶店の娘も困ったが、よくよく見るとそれには名和家の紋が入っていることに気づいた。
領主様を食い逃げ犯と疑うとは、無礼どころの騒ぎではない…
娘は覚悟を決めると、夜ひとりお城へと向かった。

娘は顕忠の前で平伏し、自分は処刑していただいても構いません、その代わり母の命はお助けくださいと懇願。
その孝心にうたれた顕忠は(別に怒ってもいなかったので)お代に加えたくさんのご褒美をさずけたという。
今に伝わる「小袖餅」の由来である。
http://www.howdy.co.jp/dining-express/archives/2005/12/images/1134356598.jpg
1134356598.jpg



403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/12(月) 02:33:55.51 ID:BGWYzQtu
普通にいい人でほっこりした

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/12(月) 03:09:02.01 ID:+ZJM20LU
サラッと権現様をディスるのはやめたまへ!

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/12(月) 10:12:47.75 ID:TlGO0ljq
権現様だったら味噌の臭いも付いてきますがな

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/12(月) 13:14:04.42 ID:JzPMsX8y
>>402
>銭取とかイヤな地名が生まれてしまうに違いない。
コラw

407 名前:402[sage] 投稿日:2016/12/12(月) 15:22:06.53 ID:GatY/UWE
すいません、逸話では「名和伯耆左衛門尉」という名前になっており、
永正十四年の城主ということで顕忠にしたのですが、
いま調べたら顕忠ではなくひ孫の顕孝だという話があるらしいんですよ。
でもそれだとだいぶ時代が合わないんですよね…(生まれてない



408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/12(月) 20:24:53.74 ID:UGct9Ayn
逸話ではよくあること


410 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/13(火) 02:02:22.20 ID:blUMbrT3
>>405
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8378.html

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/13(火) 22:38:10.44 ID:XyiN44sd
>>402
まんが日本昔話しにありそう

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/14(水) 06:55:03.64 ID:8BFODaSn
>>414
昔話なら
そのまま走って逃げたあげくに掴まって叩きのめされてる


大仏さまが

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/20(土) 19:10:28.12 ID:txSeAh6R
>>414
かなり亀だが先月か先々月頃に時代劇専門chでやってたまんが日本昔話で見たぞこの話

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/20(土) 19:27:34.88 ID:gijPN1he
>>918
すでにほんとにやってたのかよw。
まあ元々いい話だし不思議でもないか。

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/20(土) 19:40:15.74 ID:H0hdwj6h
>>918
これかDVDに収録されてるからみてみる
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=449
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長崎諏訪明神の事

2016年07月09日 19:24

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/09(土) 09:33:18.62 ID:LRd9WXBI
長崎諏訪明神の事


 長崎の諏訪神社は長崎が始まったころ、耶蘇宗が制禁となった事で建立されたという。

 慶長元和の頃だったか、長崎はとかく耶蘇に帰依していて、
数々の制禁があったが役に立たなかった。
 そこである修験者か又は神職かが思いつき、
諏訪明神を勧進して国俗を清道に導きたいと願い出た。
 その願いに任せて御入用で御建立されたが、
なにぶん耶蘇を信仰している輩なので、諏訪の社頭へ参る者がなかった。
 時の奉行は、市中に大きな穴を掘って薪炭を積み火を放ち
「長崎中で耶蘇信仰の者は残らず焼き殺すべし」
と念を押した。
 長崎の者は初めて死を恐れ改宗して諏訪明神の氏子となったという。

 これからこの諏訪明神には三度の祭礼の時も、奉行は今でも出席し
祭礼が済んだことを江戸へ注進する。
 まことに厳重な事だという話である。
(耳袋)



「蛍丸」

2016年02月10日 18:50

129 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/10(水) 00:20:03.96 ID:/thGEHa4
宮崎県五ヶ瀬に伝わるお話。
400年程前高千穂の三田井家落城の際、逃げてきた侍が五ヶ瀬の内の口の甲斐繁左衛門の家に
「助けてくれ」と駆け込みました。
繁左衛門は屋根裏の桶の中に侍を隠します。
しばらくすると、追っ手が繁左衛門の家にやって来ました。
「この家に落ち武者が来たはずだ」
しかし繁左衛門は
「その者なら、いましがた、あちらの方向に走っていきました。うそだと思うなら家中をさがしなさるがよい」
と答えました。繁左衛門があまりにきっぱりと言うので、追っ手の兵はあきらめてその家を出て行きました。
その後侍は礼を言い山道を再び逃げますが、近くまで追っ手が迫っていたので息をひそめ隠れました。
しかしその時、腰に差していた「蛍丸」という刀がまさしく蛍のように光り、気付いた追っ手に討たれてしまいます。
哀れに思った村人たちは、侍を手厚く葬り、祠を建てその霊を慰めたといわれています。
その祠が恵良八幡神社の始まりといわれ、また繁左衛門の子孫宅には侍をかくまった「半切桶」や「はしご」が現存しており、
この物語が語りつがれています。
(ひむか神話街道 第三十一話恵良八幡の伝説 など)

ゲームで有名になった「蛍丸」とは別の刀のお話。



原田氏の転変

2015年08月02日 13:53

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:08:53.43 ID:S4HvM1GE
面白そうなスレだ……

天正十四年 豊臣秀吉の九州征伐が始まると信種は娘を逃し、自身は居城の高祖城籠城を決める。
しかし小早川隆景の軍に囲まれ、黒田官兵衛の降伏勧告を受諾。信種は秀吉の前に引き出された。

秀吉「僕に楯突くなんて中々やるじゃん。それで君の領地はどこだったかなぁ?」
信種(これはチャンス。過小報告すれば全部の領地を取り上げられずに済むぞ)「私は伊都のみを治めているものでございます」

信種の言葉を聞くと秀吉は急に恐ろしい顔つきになり、こういった。

秀吉「お前は嘘つきだ。事前調査でお前の領地は全て把握している。この場で嘘をつくなど、人の上に立つ器ではない」

信種は一言の失言により全ての領地を没収され、佐々成政の配下に組み込まれてしまった。
秀吉に嘘をつき、それが即バレした事が記録に残ってるおそらく唯一の人。

佐々が懲罰で切腹した後は、後釜の加藤清正配下となる。
朝鮮出兵の際は、清正に付き従い朝鮮へ従軍したが、名護屋城に信種をしたって五百人余りの旧臣が集結し、そのまま朝鮮へ帯同したという。
しかし帰国後、次代の原田嘉種が清正と対立し追放されてしまう。
原田家は次に寺沢広高の配下となった。
島原の乱の際は富岡城に立て篭り、城代が戦死すると、代わりに指揮を取り富岡城を守りぬく。
が、島原の乱の責任で寺沢も改易。
にっちもさっちも行かなくなった原田は江戸に出て天海に窮状を相談すると……

天海「原田が豊臣に反抗したのは、徳川に尽くしたのと同義だ」

そう言葉をいただき、会津の保科正之を紹介されその配下となった。
漢の霊帝を祖先と公称し、元寇で功を上げ、朝鮮出兵にも胎動した生粋の九州人が、
一言の過ちで秀吉の怒りを買い、ついには故郷を去ることになった顛末。

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:11:44.02 ID:S4HvM1GE
戦国時代ではないが、それから数百年後……
慶応四年の幕末の戊辰戦争時、上は松平容保から下は兵卒の女房子供まで抱えて、会津藩は籠城戦を行った。
その中には原田氏の子孫、原田対馬がいて、彼はその優秀さから籠城戦突入時に家老にまで引き上げられていた。
戊辰戦争の会津の悲惨さは白虎隊などで伝えられている通りであるが、
実はそれ以上の悲劇が、籠城した城内で起こる寸前だった。
急な籠城戦になったため、食料の備蓄が足りなくなっていたのだが、
この解決方法を下問された家老が、口減らしのために
一緒に立てこもっていた婦女子全員を斬首することを提案し、あわやこれが実行寸前にまでなる。
その時、敢然と異を唱えたのが原田対馬であった。
原田の反対もあり婦女子の斬首は取りやめとなり、その後すぐに会津は降伏した。
なんとなく後の戦陣訓ってこの辺の東北の風土から出た気がするのと、
九州人は生きる事に意地汚いというお話し。

……というよりも原田氏からすれば、たかだか一度の籠城戦に敗れた程度で
死のう死のう団になる東北人が理解できなかったのかもしれない。

戦国時代までは悪い話だけれど、数百年後に会津の婦女子を救う、原田氏のいい話。



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:14:06.86 ID:S4HvM1GE
あ、前半の出典は糸島戦国史と糸島伝説集です。

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:52:34.57 ID:FR9tdf2C
いきなり信種と書かれても困っちゃうのう
ちゃんと原田信種と書いて欲しかったわさ

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 10:51:37.45 ID:pqHJNuIX
いや、分かるだろ

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 12:46:39.59 ID:tzOLS/j8
浅利信種「…俺の知名度って」

豊前城井氏の滅亡

2015年05月24日 13:38

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/23(土) 17:35:33.18 ID:47Lo43ok
中津城において城井鎮房が討たれると、野村太郎兵衛は城内にいる城井の家来たちを「追い払い申さん!」と
表口に走り出た。黒田長政はあらかじめ、「城井を討ち取れば、次の間に控えている者達は早々表へ出て、
侍たちにその事を申し聞かせ、城井の家人たちを打ち殺すべし。」と言いつけてあった。
そのため、城井が討ち取られると同時に、次の間に控えていた侍たちは速やかに玄関に飛び出て呼びかけた。

「只今城井を討ち止められた!彼の郎党たちを追い払え!」

これを聞いて、表に並み居た侍たちは、城井が討たれることを待ち受けていたので、その家人たちを
我先に討たんと駆け出した。

城井の家人たちはその主人が討たれたことを知ると、大勢が中津城の玄関から中に斬り込もうとした。
しかし玄関には戸がさしてあったため、露地口を押し破って侵入しようとしたが、黒田側も
ここを破られてはならぬと、面々命を惜しまず防ぎ戦ったため、城井の家人の内、屈強の者達多く討たれ、
残る兵たちは皆、門外に追い出された。この時野口藤九郎は城井方数人を斬り防いだ。
益田興介は玄関にあった番鑓を取り、大勢をせり付け外に追い出した。黒田宇兵衛も敵を討って手柄を表した。
大野九郎左衛門はかねてより鑓を持って厩の中に隠れていて、城井を討ったと聞くと即座に突いて出て、
敵3人を突き伏せ数人を追い散らした。その他敵を討ったもの多かった。
台所にも敵5,60人が切り込もうとしたが、そこに居合わせた武士数人、並びに中元、小物、台所の下部ら
まで出合い防ぎ戦った。

この口で討ち漏らした敵達は皆門外に追い出し、そして城門を閉ざした。味方の中にも内海甚左衛門らが
討ち死にした。その他負傷したものも多かった。

敵は城外に皆集まっていた。中津城下に住む味方の諸侍は早鐘の音を聞きつけ、何事かと思い速やかに
駆けつけたが、鎧を着る暇もなく、素肌で取るものもとりあえず出てきた者もあり、或いは
素早く鎧を着て出てきた者もあり、鉄砲頭は足軽に鉄砲を持たせて急ぎ駆けてきた。
大手の門を固めて、鉄砲を討たせつつ敵を防いだ。そうしている内に城下の味方も追々に駆けつけ、
城井の家人たちに討って懸かり、逃げる彼らを追い討ちにして数多討ち取った。
その中でも、城井の家老である塩田内記という武功の名のある者をも討ち取った。
残る者達は皆敗北し、澤田の方面へと逃げ帰った。

そうすると黒田長政は、「城井の邸宅のある澤田に押し寄せ、残る者達を尽く討ち果たすべし!」と
自ら出馬した。澤田に残っていた城井の家人たちはあまりに突然のことなので混乱し、出撃して防ぎ戦ったが、
黒田方はこれを物ともせず、鉄砲で撃ちすくめ攻め入った。搦手に回った黒田の兵たちは、城井の館近くの
民家に火をかけると、やがて館に延焼して、男女尽くあちらこちらに逃げ惑った。

城井の家人はあるいは討ち取られ、あるいは逃げ散った。
城井の館は瞬く間に攻め破られ、城井の妻子も皆捕虜とされ、たちまちの内に彼の地は平定された。
城井鎮房の父である長甫は、豊後を目指して落ちようとしたが、途中で追手にからめ捕られ殺された。

長政はその日の内に中津城に帰った。城井の父子一族13人、中津にて磔に掛けられた。
城井を討ったことは長政より孝高(官兵衛)に注進され、城井の嫡子・弥三郎も肥後にて誅せられた。

おおよそ、この城井中務(鎮房)は勇猛さを誇り、その上城井谷は極めて良い要害であったので、
他所から侵し攻めてくる事がなく、その切所を頼んで、ますます近隣を侵略したが、彼は時勢を知らず、
小を以って大に仕えるという理をわきまえなかった。そのため、公の命に従わず叛逆をなし、ついに
先祖より久しき家を滅ぼし、その身も滅ぼしたのだ。愚かな事である。

(黒田家譜)

城井氏滅亡に関しての、黒田家譜の記事である。



841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/23(土) 23:01:15.64 ID:ts/FSc7D
騙し討する奴がよく言うぜ

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/23(土) 23:02:50.05 ID:42ZDHsJt
家譜だからな

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/23(土) 23:22:00.15 ID:v7JEP0jI
最後の一節はまあ事実というか

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/24(日) 11:17:14.24 ID:jncOzvIq
じじつというよりは、まりでしょ。

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/24(日) 21:22:44.21 ID:T/Voltrr


846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/24(日) 22:04:23.98 ID:Zt4BT1+C
黒田は家は残したが汚い名前を残したのは事実
死のうは一定なんとやら

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/25(月) 00:04:57.55 ID:uSD+J2WA
家譜は既に身分の上下が固まってきた時代に書かれた書物だから仕方ない
とは言え読んだらカチンとくるのも事実

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/25(月) 00:53:32.38 ID:bH4oaLsP
誅殺の影響か
鎮房の怨念で黒田家の男系血筋も絶えたし
フィフティーフィフティーさ

西肥前の領主の攻守同盟

2014年11月19日 18:52

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 17:43:08.79 ID:bm2j5plX
西肥前の領主の攻守同盟

応仁の乱が終結した後、戦国の乱世は肥前にも波及していた。
東肥前は少弐政資が勢力を回復させていた。
西肥前は小城の九州千葉氏、高来の有馬氏、平戸松浦氏や相神浦松浦氏が鎬を削っていた。
その間に挟まれるように肥前後藤氏は領していた。

当時の後藤家の当主は後藤職明であった。
彼は一帯を領する豪族や領主たちと連合で対抗できる同盟を考えた。

1483年6月、職明の呼びかけのもと、3人と同盟を結んだ。
潮見城主・渋江公直(渋江氏はのちに職明の養子を輩出することとなる)
鹿島の在尾城主・大村胤明
『鬼王殿下』とおそれられ、1556年に94歳で没したとされる伊万里城主・伊万里仰

その後、鹿島の大村氏は不明だが、約40年もの長い間、この攻守同盟の関係は続いたのであった。




【雑談】城井城址

2014年09月23日 18:21

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 08:33:23.26 ID:Wa3gJHuA
【雑談】
他スレでも公表したけども、5月に城井谷の城に行ってきた。
大河で城井(宇都宮)朝房が肥後で殺され、鶴姫が脱走(黒田説でもねえじゃん)ということで。
一応タイムリーな話題で。

http://i.imgur.com/hRY6Ae8.jpg
hRY6Ae8.jpg

http://i.imgur.com/A9etGTe.jpg
A9etGTe.jpg

http://i.imgur.com/VTdOR7W.jpg
VTdOR7W.jpg

http://i.imgur.com/FeN6XnB.jpg
FeN6XnB.jpg

http://i.imgur.com/6E5hasx.jpg
6E5hasx.jpg

http://i.imgur.com/aZ6VbCy.jpg
aZ6VbCy.jpg

http://i.imgur.com/QYOko5q.jpg
QYOko5q.jpg

http://i.imgur.com/bsnxHSr.jpg
bsnxHSr.jpg

http://i.imgur.com/x4v6yNT.jpg
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http://i.imgur.com/cXAeKv4.jpg
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http://i.imgur.com/peCETYF.jpg
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http://i.imgur.com/5kDKnRY.jpg
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http://i.imgur.com/jDh7KHb.jpg
jDh7KHb.jpg

http://i.imgur.com/P7lnjEA.jpg
P7lnjEA.jpg

http://i.imgur.com/AEIrkQV.jpg
AEIrkQV.jpg

http://i.imgur.com/7q86bH9.jpg
7q86bH9.jpg

http://i.imgur.com/UOBfcrP.jpg
UOBfcrP.jpg


黒田長政はよくこんな城を攻めようとしたよね。
城井(宇都宮)鎮房もよく守ったよ。

本拠地の大平城とは3kmしか離れてないそうだけど

ところで何故この城の写真を撮ったかって?
エロゲーの題材に使うからだよw





335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 09:16:08.04 ID:9SIFTDCn
>>334
なんか凄いな
古めかしい天守?櫓?もあるけど現存物では無いんだよね?

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 12:48:53.77 ID:TSBI00DD
城井氏って自分で宇都宮を名乗ったことあるの?

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 13:18:17.35 ID:Wa3gJHuA
>>338
宇都宮が本姓だから、文書によって宇都宮と城井を分けてたと思う

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 13:22:39.97 ID:Wa3gJHuA
>>335
三丁弓の岩の看板の上のやつは地元の自衛隊の方の手作りらしい

自然の門とか入口とかあったね。

何も残ってない。
籠城するための城は確かみたい

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 13:28:09.18 ID:LxEW4jTe
ミニチュアっぽいな

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 13:37:41.96 ID:sGawgak6
僅かな手勢で道案内しただけで得た伊予12万石を蹴って本領にしがみつく愚かさよ

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 16:49:09.32 ID:/gS95BtJ
城井って何万石だっけ?

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 20:15:26.88 ID:Wa3gJHuA
>>343
どっかから聞いたけど3万石くらいだったらしいよ

桑山刑部と小少将

2014年08月20日 18:54

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/19(火) 21:27:21.81 ID:CFo03HzL
以下、『諸県の伝説』という宮崎県の地方誌にあったもの


北郷時久の侍女に小少将という飯野郷出身の天性美女があり、城内若武者の憧れであった。
或る年の秋、蹴鞠の会があり、ここで最も見事な技を披露したのが桑山刑部少輔親基であった。
多くの侍女がそれに見蕩れ、小少将も殊の外真剣な目で声援を送った。
双方共に思慕を打ち明ける機会を窺っていたが、侍女と臣下の恋愛は御法度である。

堪りかねた刑部は或る日一首を届けた。
「わが恋は、山下滝つ岩の瀬に、心くだけつ、つまぞ恋しき」
小少将は思い悩んだ挙句、
「わが恋は、山下しげき夏草のまたも憂き身を思ふ君かも」
と返歌、二人はいつしか忍び合う仲となる。
城山の南端に大きな松の老木があり、刑部は夜毎忍んで、小少将が垂らした白い布を伝って
城に入り逢瀬を重ねた。

天正元年8月7日の夜、城の大手門から一人の若武者が供を連れて出て行った。
翌朝、見張りの看守が城門の傍に何やら貼り付けてあるのを見つけた。
「今日出でて、明日は帰らぬ旅の道、いづくの土か、われを待つらん」
との歌であった。小少将が若武者に変装して刑部と共に城を出て行ったのである。

二人は夜道を本野原から狐塚、高牟礼の麓まで行くと道に迷う。
この頃、城では小少将が見えないと騒ぎとなり、時久も知る処となる。
「この城に宿直の者はいないか? 城を出ていく者を取り締まる番人はいないのか?
まだ遠くまで行くまい。一刻も早く天長寺へ行き、和尚に足止めの秘法を頼んで来い」
と、怒気も荒く命じた。天長寺は厳命であるからと秘法を修めた。

その頃、小少将は六石原を出て七折集落の一軒家の農家へ辿り着き、
「我々は福山寺まで行く者で御座る。夜道に迷い難儀しておる。人目につかぬ所で
休ませてもらいたい」と頼み、幾らか所持金を与えた。百姓は二人を匿ったが、
怪しいと思い城へ知らせる。

城中には小杉・川上・中馬・土持らが詰所にいたところへ百姓から報せが入り、
300騎が刑部召し取りに動いた。
天長寺の和尚は秘法が刑部の為のものと知ると、
「しまった、刑部であれば逃してやるところであった」と悔やみ、300騎が向かう後ろから
牛の背に跨り桜の枝を鞭に後を追った。

小少将らは怪しい気配を察し、自害しようと考える。
小少将は既に身籠っており、刑部は「お前は女の身なれば、よもや殺されなどすまい。
どうか無事に生きて、身二つとなり我が児を育て上げてくれ」と言ったが、
小少将は「ここまで連れ立って供をし、なんぞ城へ帰れましょう。
釣れない御言葉とも存じまする。今更、生まれ故郷の飯野に帰っても頼る人とておりませぬ。
さぁ早く殺して下さい」と縋りつく。追手は既に迫っており、二人は共に自害して果てた。
刑部29歳、小少将19歳という。

二人の墓は財部町七村集落の一番高い丘に立つ。




975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/20(水) 09:35:31.63 ID:kJkEoFmT
この小少将はいい小少将

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/21(木) 07:50:36.24 ID:hPijiYfc
>>974
牛の背にまたがって追いかけた和尚はなんなのw

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/21(木) 09:20:59.23 ID:Xs688Zd7
あの世に帰るとこだったんだろう

後藤純明の生涯

2013年11月04日 19:02

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/04(月) 14:54:11.31 ID:mndIJySd
後藤純明は元々は日鼓城主渋江公勢と後藤職明の娘の間に生まれた長男で、幼くして職明の養子となり後藤家を継いでいた。
公勢は日鼓城に母違いの兄妹の次男公政、三男公親とともに暮らしており、三男公親を嗣子と考えていた。
ところが公政の乳母は、かねてから公親を暗殺して公親を後継者にしたいと企んでいたのである。

大永7(1527)年3月、公勢は公政、公親らとともに蹴鞠で遊んでいたところ、公親は水を求めた。
これを好機と見た乳母は、毒入りの葛水を公親に渡したのだが、なんとこの葛水を公勢が取って先に飲み、その飲み残しに公政が飲んでしまったのである。
乳母の思惑は見事に外れ、公勢公政の親子は急死、渋江の当主はまだ幼い13歳の公親が継ぐことになってしまった。
この事件を知った後藤純明は軍勢を率いて日鼓城を攻め、公親は母親の出身である波多氏の元へと逃亡し、ついに渋江氏の栄華も潰えてしまったのである。

その後純明は実父剃髪して月湖浄圓と名乗り、冥福を祈った。
また公親は十三年後に波多氏の支援で日鼓城を回復するものの、純明に再び追われ、肥後国山鹿へ逃れた。
後年純明の養子後藤貴明の招きにより旧領へ復活するが、有馬家に攻められ再び逃亡。
ついに慶長5(1600)年、波佐見の地で波乱の生涯を終えた。





腹が減っては戦はできぬ

2012年07月29日 20:53

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 03:29:27.65 ID:wCCV8kBY
腹が減っては戦はできぬ

元亀二年(1571年)、九州大隅の国人である禰寝重長は
摺ヶ浜で島津義久の軍と戦い激戦となった。

戦いは苛烈を極め戦場のどこにいようとも安全とは言い難い状態となった。
そんな中、時刻は昼時となった。

すると長重は、いきなりその場に座り込み平然と昼飯を取り始めた。

心配した家臣が、
「このような場所で危険です。おやめ下さい!」

と言うと、長重は
「古来より腹が減っては戦ができぬという。
それにもし、飯の最中に命を落としてしまうならばその男は所詮それまでだったということよ」

と答え、昼飯を食べ続けたという。

禰寝重長の豪胆な話





767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 06:10:42.44 ID:f/1B3mzs
危険というか迷惑というかw

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 06:28:52.94 ID:CW530lSZ
秀元「お昼ゴハンはちゃんと食べないとダメだよぉ~鮭弁美味いよねぇ」

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 06:41:23.00 ID:CQQ1pKt3
こういう時に弓や鉄砲で狙い撃ちにするのは武士の名折れになるのだろうか
みな悩んだ末に結局誰も狙わないということになりそうな

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 06:53:18.51 ID:n+J2+2oy
直家「あの豪胆な者にこのお茶を贈って差し上げよ。」

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 07:59:28.73 ID:3N4zQMPg
>>769
朝倉宗滴なら迷わず撃つね

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 08:35:49.12 ID:3BMsO3c2
敵前で弁当むしゃむしゃといえば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4044.html
>謙信は
>「確かにお前の言うことはもっともだ。
> が、人間は死のうと思えは生き、生きようと思えば死ぬものだ。
> 心を集中して動じていなければ、火に入っても焼けないし
> 水に入ってもおぼれぬ、とある人に言われたのだよ」
>そう言って笑った。

和仁御前

2012年03月19日 21:50

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 14:29:55.22 ID:E27nUpQz
天正十五年(1587)肥後国人一揆勃発。
三加和村田中城主、和仁親長は一揆側として反乱に加わったが、佐々成政の軍勢に攻められ落城。
和仁親長は討ち死にする。

この時、先に城より落ちていた和仁親長の夫人と娘、そして侍女たちは、和仁川の赤池淵のほとりにて
田中場の落城を知り、前途に絶望しここにて自害すると決した。
そして夫人は自分の娘、当時13歳であったという、を手にかけようとしたが、さすがにわが子を自らの手にかけることは
忍びず、自分に付いてきた老僕に、この娘を淵に落として、溺死させるよう命じた。

老僕はあまりのことに恐れ躊躇したが、夫人は何としてもと命じたため、致し方なく彼は、姫を岩の上から淵へと
落とした。

ところがこの姫は一端は沈んだものの、再び浮かび上がり岸へとたどり着いた。
老僕は夫人に攻められ、再び姫を淵へと落とす。しかし姫は再び浮かび上がり、岩へとしがみついた。

これを見て夫人は、自ら水の中に入り、姫の側へと行った。
姫は泣き叫んだ

「母上様!お許し下さい、どうかお許し下さい!」

夫人は姫の頭を縦に持ち、そのまま水に沈めた
「未練です。許してください。許してください。」

姫は、水に沈んだ。

これを見た侍女たちは、それぞれ着物の上から紐で足を縛り、次々に赤池淵に身を投げた。
そして最期に夫人は、あの老僕に

「そなたには今まで、一方ならぬ世話になりました。
もし、生き延びることができたならどうか、私たちの菩提を、弔ってやってください。」

そう言って、娘の沈んだ淵に身を投げた。
その後、夫人の遺体は下流の菊池川の淵に流れ着いたという。


それから、夏の夜になると、赤池淵に不意に楽の音する時があった。
こんな時は、付近の人々は「和仁御前」のお帰りだとして、酒やお供えなどを、淵に投げ込んだのだという。
そんな時は必ず、突然の雨が降ったのだそうだ。

肥後に伝わる、和仁御前の伝承である。




379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 15:12:06.95 ID:4/3O5p70
熊本に住んでるときワニ氏の事を秀吉に最後に逆らった男ってやたら持ち上げてた記憶があるが、秀吉に逆らったんじゃなく佐々に逆らっただけだよな

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 18:30:09.34 ID:06h3IzB+
>>379
田中城は豊臣秀吉の命令で小早川・立花・鍋島などの諸将も参加して、2月攻めて
最終的に安国寺恵瓊の謀略で落としてるから。結構頑張ってたんだよ。
当時は和仁親長の子の親実、親範、親宗の3兄弟が守ってたようだけど

母親が南蛮人だったという親宗の話は昔出てたかな。


382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 18:40:23.10 ID:p5WXmmX+
>>378
身を寄せる場所が無くなった武家の夫人娘の最期は悲惨だな
最期に自決する場合と尼になって生き長らえる場合の違いは何なんだろうな

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 18:50:41.39 ID:ss7sJ+5+
一人くらい生き残らないと真実が後世に伝わらないとか
可能性はゼロに近くとも家名再興の望みを捨てられないとか
そういう理由じゃないかね

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 19:14:37.21 ID:Fgv+RMCy
>>382-383
単純だけど、進退窮まった(実際の所はともかく本人的に)かどうかってのが結局の所
最大の判断基準じゃないかな、菩提を弔うというのも一つの役割ではあるだろうし。

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 19:35:41.72 ID:06h3IzB+
>>383
和仁氏の一族の一人が立花家で保護されて、
小野和泉の義弟として生き残ってるけどね。

日本のマルコポーロ

2011年02月14日 00:00

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/12(土) 22:54:32 ID:PzZQvijq
日本のマルコポーロ

有名なペトロ・岐部、彼の話はまだ出てこないようなので。

1584年に豊後の豪族、岐部家に生まれ有馬のセミナリオにてキリスト教神学を学ぶ。
1614年、幕府によってマカオに追放される。が、この地では日本での布教が
はなはだ困難と知った教会は彼らを見捨てる。

これからが彼の執念の物凄さ、マカオからゴアへ、司祭の叙階を受けられないと知ると歩いて
イラン、アラビア半島を陸路西に向かい、日本人として初めてエルサレムに巡礼を成す。
バチカンに向かい、イエズス会を驚かせるが司祭に叙階。

日本に帰りついたのは1630年、激しい弾圧の中をキリシタンの隠れ里を密かに訪ね訪ねの伝道。
1639年、ついに捕縛される。この時期、彼は幕府にとっての最過激カルト集団の親玉であったから、
将軍家光直々の詮議があった。また転ばせ屋のプロ、井上筑後守も悪魔のごとき甘言、或いは
必殺逆さ吊りで攻め立てるもギブアップせずに殉教。
「沈黙」のモデル、横で吊るされた管区長代理フェレイラ神父はあえなく棄教。

岐部はあっさりと去っていくフェレイラを散々に呪いつつ死んだとか。




789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 01:29:27 ID:53rR/VRw
>>787
呪って死ぬんじゃ殉教の甲斐もないような。
キリスト教的には違背者呪う分にはセーフなのか?

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 09:43:43 ID:goQl1g6w
岐部家は豊後海峡の水軍を司だった武門の家。
豊後は大友宗麟の庇護下にキリスト教が盛んだったから、
彼のようなハードコアな人物が出てきたのであろう。

岐部自身は、かなり意固地で功名心にはやる人だったらし
くマカオやゴアではうとまれていたらしい。
一人で托鉢しながら砂漠を歩いて行ったとか。

伝説では、遥かな地、バチカンのイエズス会の文書の中に、
豊後での布教に尽くした己が父の名を見つけ、涙したとか。
以後、焦る気持ちを抑える冷静さ、統率力を身につけたらしい。


791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 10:38:15 ID:x/b+taMa
ペトロの殉教とフェレイラの棄教を知った海外の宣教師は発奮し
カトリックの意地を見せるとばかりに日本に密入国しまくり殉教しまくったと聞いた
なんかブームの真っただ中に置かれてしまった日本のお役人の胃の明日はどっちだ

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 11:25:47 ID:cULL00l1
>>789
この場合の呪うってのは呪術的な意味ではなく恨んでいったということでは?

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 12:50:12 ID:7Owo/IJZ
暗黒面に堕ちたな。

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 16:57:55 ID:h69winbY
>>787
勿体無いなあ。処刑せずにどんな経験をしてきたか口述筆記でもさせれば
いい情報が手に入っただろうに。

原田了栄の戦い

2010年08月20日 00:00

535 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/18(水) 23:42:47 ID:exlXwPYr
九州ネタに便乗しマイナー小ネタ

秋月種実の宗家(大蔵系嫡流)の原田氏だが、大友と竜造寺の争いに板挟みになった
原田氏で比較的に知名度があるのが原田了栄なのだが、彼には4人の息子がいた
二男は草野家に養子となり男子を設けて無くなったのだが、長男と三男は、大友家との戦いで戦死。
了栄は4男・親種に家督を譲った。

それからしばらくして天正2年、雷神・道雪が原田家に強硬なクレームを捻じ込んだ
原田家は先年、大友家臣の臼杵一族の者と争いになり、これを討ってしまった
それを今頃になって糾弾してきたのだ
臼杵とのことは口実で、実際は竜造寺寄りになってきた原田氏に対する牽制のための抗議だった
竜造寺家には、すでに9年も前に亡き二男の息子を人質に出しており、
いまさら縁を切るというわけにもいかず、かといって大友にも逆らえない
苦悩する了栄を見た、4男の親種は高楼に登って叫んだ

「父、了栄の代わりに我が首を大友に持って行くが良い!!」
と、言い終わるやいなや切腹し、自ら首を切り落としたのだった
自分で自分の首を切り落とせるのか、という疑問はさて置き、原田氏の無念さが伝わる

この4男の死で了栄には息子が一人もいなくなってしまった
残るは二男の子で、竜造寺へ人質に出していた孫の信種だけだった
竜造寺から原田を引き離そうとしたのが、結果的に竜造寺に近しい人物が家督を継ぐという皮肉な結果になる
了栄は息子の仇をとるため天正7年に、生松原の戦いで道雪に挑み戦死する

武勇と忠義を称えられる道雪だが、望んでもいない大国同士の争いに巻き込まれ
やられちゃう人たちは堪らないだろう
近年、原田了栄の墓が発見されたらしいので、郷土史に新たな足跡が刻まれるのは喜ばしいと思う




536 名前:sage[] 投稿日:2010/08/18(水) 23:45:22 ID:exlXwPYr
>>535
一か月ぶりに投下したんでsage忘れた
ちと、宇喜多さんとこで茶の指南を受けてくる

537 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [] 投稿日:2010/08/18(水) 23:47:59 ID:QQv7ibNc
死ななくていいから了栄の諱を教えれ。


540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/18(水) 23:55:00 ID:9xI26xk6
>>537
原田隆種……かな?
「隆」の字はクマーから貰ったんでしょうね。

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 00:00:17 ID:GaCD4SgN
>>535
大友宗麟に池田川原合戦の責任を問われ了栄の首を要求されると親種は櫓に駆け上り、腹を掻き切り
「我が首を渡せ」と叫び自ら首をはねた。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/Strumgeschutz-3/harada.kasin.htm


四天王の一人が私の先祖

マジで

542 名前:sage[] 投稿日:2010/08/19(木) 00:02:00 ID:hdwkBnRe
>>537
>>540
隆種だけど「隆」の字は大内義隆から貰った
もともとは大内義隆の配下だったから

孫の信種がクマーから「信」と妻を貰ってる


543 名前:sage[] 投稿日:2010/08/19(木) 00:08:18 ID:hdwkBnRe
>>541
マジ?大蔵系が好きなんで羨ましい
紹介されたサイトの方が、自分がネットから拾ったのより詳しいな
ありがとう

544 名前:540[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 00:14:54 ID:Lqyx/9Wd
>>542
あ、そうか。大内義隆がいましたっけ。
つか、クマーの「隆」の字がそもそも大内から貰ったモノでしたね。

四十九池神社由来

2010年08月19日 00:00

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/18(水) 00:29:35 ID:mfAQCiNU
ちょくちょく九州の話題が出ているので便乗して一つ。

熊本県玉名市築地(ついじ)に、四十九池神社という神社がある。
現在、周りを畑や住宅地に囲まれた同神社内に広場がある。
この広場は近隣の子供達が和気藹々と遊具で遊んだり、サッカーや野球をやるなど、のどかな風景が広がっている。
(かくいう自分も高校時代友人たちとこの場所で草野球をやった事もあります)
さて、その当時は気にしていなかったが、後に調べてみると悲劇的な成り立ちがあった建物や場所と言うものは
誰にでもあるのではないだろうか。
かつて、熊本県玉名市周辺を本拠としていた大野氏という一族がいた。
この大野氏、扶桑略記を著した皇円上人が誕生した蓮華院誕生寺を庇護していたり、応和元年(961)に
同じく玉名市にある繁根木八幡宮を地頭として建立し、総鎮守としたと伝えられている。

戦国時代、肥後守護の座から追われていた菊池義武が天文十九年に起こった二階崩れの変を好機と捉え、
隈本城に復帰した。
その際、大野氏は菊池氏側に付き、三池・大津山・和仁氏らと共に小代氏を攻撃した。
だが、小代実忠の奮闘により果たせなかった。
そして大友義鎮は筑後、肥後平定の為自ら出陣。
三池氏らを下した後、大野氏は小代実忠によって諸城を攻略され、恐らく大友氏に降伏したと思われる。

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/18(水) 00:34:00 ID:mfAQCiNU
そしてもう一方、同じ熊本県にある、荒尾市野原周辺を本拠としていた小代氏という一族がいた。
小代氏は武蔵七党児玉党の入西(にっさい)資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を称したことに始まると言われる。

南北朝時代は北朝方、戦国時代においては菊池氏の嫡流が絶え、菊池義武が実家の大友氏と敵対した際には
大友氏側に付き奮闘。
その功にて肥後北部から筑後南部までの広大な領土を獲得し、肥後でも有数の国人へと成長した。
だが、天正六年、大友氏が耳川の戦いで壊滅的ともいえる大敗北を島津氏に喫すると、当然その余波は
肥後にも降りかかる。
そう、これを好機とみた肥前の熊、日本のカエサルこと龍造寺隆信が肥後へ侵攻を開始したのである。
この時期の大野氏の動向はよくわからないが、小代氏は天正七年、福岡県大牟田市の三池氏が
龍造寺勢に攻撃されると、三池氏の当主三池鎮実が小代氏当主小代親忠の岳父という縁もあり、救援を送る。
だが、鍋島勢に妨害され果たせず、三池鎮実は遁走を余儀なくされる(後に龍造寺氏に服属)。
当然ながら小代氏にも龍造寺勢の攻撃の手は及ぶ。
攻撃を受けた小代親忠・親泰父子は筒ヶ岳城、梅尾城へと篭り、龍造寺勢と激戦を繰り広げたが多勢に無勢であり、
龍造寺氏に降伏する。
この後、龍造寺隆信は島津氏に通じたと言われる蒲池鎮並を謀殺。
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4527.html)
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1190.html)
残った蒲池一族が篭る柳川城攻めを行うが、その際には小代氏も筑後の国人、田尻氏と共に攻囲の中に
加わっている。



525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/18(水) 00:35:26 ID:mfAQCiNU
さて、前振りが長くなってしまったが、ここからが本題である。
天正九年、大野氏は島津氏に通じており、龍造寺隆信は小代親忠に対し、玉名侵攻を命じる。
金山焼石原(恐らくは荒尾市金山)にて激突した両軍は激戦の末、小代氏が勝利を収める。
小代氏はこの勢いで上村城、高道城、次いで大野氏の詰め城である日嶽開田城(旧岱明町)への攻撃を開始。
城主大野親祐は小代勢を迎え撃ったが、衆寡敵せず、城内の女性を逃がした後、全員が討ち死にし、
大野氏は滅亡した。
そしてこの戦いで討ち死にした49人の武士の魂が四十九池周辺に現れた為、かつて小代山中の四岐(よまた)に
祭祀していた阿蘇神社から迎えていた四の宮の神霊をこの池周辺に移したと言われる。
またもう一つの伝承として、落ちた大野氏方の女性49人がこの四十九池に身を投じた為とも言われ、
これが今日に伝わる四十九池神社の成り立ちである。



輝姫の伝説「落石さま」

2010年06月30日 00:00

987 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/29(火) 20:52:05 ID:hhJXXK2Y
埋めに大蔵系嫡流原田氏最後の姫君、輝姫の伝説「落石さま」

話は天正14年(1586年)4月、当主の原田信種が一人娘の輝姫14歳を逃がすとこから始る
当時は豊臣秀吉の九州征伐で、原田氏は島津に従がっていたので、いつ攻撃を受けるか分らない状況だった

信種「姫は乳母とともに乳母の郷里に逃げるのだ」
輝姫様「いやです!弟の嘉種も残るのでしょう?!姫も共に戦います!」
信種「嘉種は若年だが嫡男ゆえ城に残るのだ。女子のそなたは今後、原田の家がどのように零落しても生き延びるのだ!」
姫君は乳母と供を一人だけ連れ高祖(たかす)城を出た


乳母「おちいさま(輝姫を乳母は、こう呼んでいた)お労しい・・・」
城の中しかしらぬ姫君が慣れぬ足で歩き続け、乳母の郷里で漁村の野北(のぎた)浦に辿りついた
乳母の夫は「殿様が・・・ワシら夫婦を頼れを言って下さったのか・・・もったいねぇ!」
と喜んで受け入れ、村人たちも姫君の境遇に同情し海の幸、山の幸と食糧を提供した

やがて野北浦に父の高祖城が秀吉軍によって落城した話が伝わる
それを聞くと姫君は、立ち上がり振袖の裾を千切ると乳母夫婦に宣言した

輝姫「今日よりは一人の娘です。いつまでも人様の情にすがり続けるわけには参りません。私は魚を行商して稼ぎます」
乳母夫婦が必死で止めたが姫君の決意は固く、その日から魚を担いで村々を回り売り始めた
姫様は名前を輝姫からテルと改め、手広く行商し、かつて姫君として暮らした高祖まで売り歩きました


村人は「なんと雄々しい姫様じゃ。ワシらの娘にも見習わせよう」と褒め称え
野北浦では「娘は魚の行商を経験してからが一人前の女だ」とまで言われるようになる
やがて輝姫・・いえ、おテルは村の漁師と結婚し平凡だが幸せな家庭を築いたそうだ

姫君が亡くなると村人は彼女を「行商の神」として祀りお堂を建てました
それが福岡県志摩町野北の戒宝寺に残る「落石さま」堂です
名前の由来は、乳母が輝姫様を「おちいさま」と呼んでいたのが
「落石(おちいし)さま」に転化したと言われています
今は訪れる人も疎らとなっていますが、毎年9月1日が御祓いの日だそうです

ソースは糸島市史を紹介したHP




988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/29(火) 21:16:42 ID:3Wh1ryy3
おちいさまと結婚した漁師になりたい

989 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/29(火) 21:24:36 ID:hhJXXK2Y
通常なら手が届かぬ高嶺の花で神様に祀られるほど稼ぐ働き者の女房
漁師は人生の勝ち組















料理の腕はメシマズな可能性

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/29(火) 21:28:00 ID:ogfLxMdC
一瞬「原田氏最強の姫君」にみえて、筋肉モリモリの姫が巨岩を投げて戦う話かと思った。

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/29(火) 21:37:09 ID:bQ3hroq7
ここのスレ見てるとそういう話もどこかにありそうに思えてくるから怖いw

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/29(火) 21:38:26 ID:45Jml0ua
大坂で原田直政が死ななければもらったかも知れないのかな。

993 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/29(火) 21:41:34 ID:hhJXXK2Y
>>990殿を婿候補として、ぜひ手合わせ願いたいと某本○家の姫君が捜してます

高千穂神社の生贄

2010年06月05日 00:00

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 19:45:11 ID:UwllS4Jp
三田井家が治める高千穂では毎年秋に高千穂神社の神主が矢を放ち、その矢が落ちた家の娘が
生贄にささげられる、という慣習があった。

そして1570年、本年も慣習に従って神官が弓を放ったところ、その弓は甲斐宗摂の家に落ちた。
それを知った宗摂は非常に悲しんだが、古くからの慣習に逆らうわけにも行かず
泣く泣く娘を生贄にする準備を始めた・・・のだが、ここで宗摂は逆ギレした。

「なんで俺の娘を生贄に捧げなければならないんだ!生贄など猪で十分だ!」

宗摂は三田井家の執政家老という立場を利用し、無理やり古来からの儀式を改変してしまった。
生贄に苦しんでいた人々は非常に喜び、宗摂を褒め称えたが宗摂の主君である三田井親武は
先祖代々伝わる慣習をぶち壊されたため激怒し、宗摂との仲は非常に険悪になってしまった。

この一件は後に宗摂が高千穂に侵攻してきた高橋元種に内応する一因となったという。
ちなみにこの儀式、今も「猪掛祭」として行われている。




217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 19:55:07 ID:lPaGfd7G
>>216
これは良かったのか悪かったのか…
でもまぁそれまでは風習に従ってたんだろうし
自分の娘に降りかかってきたから破るってのは卑怯な振る舞いだな

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 20:37:15 ID:N0lyTKei
三井田は器ちっちゃいのう
よし!とすれば家臣もより働くのに

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 20:42:41 ID:dcXcd0NK
>>224
科学とか発達してる今の時代ならともかく、当時でそれは中々難しいんじゃねーかなあ。

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 20:47:11 ID:NYo2pK/r
>>224
当時の人の感覚では器が小さいのは宗摂の方だと思う。
何にしろ、九州の山奥はさすがに遅れてるなぁ。

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 22:19:13 ID:5PkuGTex
リアル人身御供なんてもっと昔の時点でやめてそうなもんだが
戦国時代あたりまでやってるとこもあったんだな

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 22:27:30 ID:Pgm1OOtH
これ以外にも人柱の話とか結構あるしなぁ

まぁソースの無い事は話半分にしとけ
ここは2chだ

宇都宮(城井)鎮房謀殺

2010年04月13日 00:04

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:42:49 ID:GjrCDrzG
豊前つながりでちょっと書いたんで貼ってみる。黒田は主人公じゃないけど。

312 名前:1[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:43:48 ID:GjrCDrzG
秀吉  おまえにくれてやった豊前の国に、城井なんちゃらって地侍がいるだろ
官兵衛 はい
秀吉  あいつ、転封命令に従わないでゴチャゴチャ言ってるから、殺しといて
官兵衛 はっ

313 名前:2[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:44:31 ID:GjrCDrzG
鎮房  あの猿は、父祖伝来の土地を朱印状ひとつで取り上げるつもりか
朝房  どこで聞きつけたのか、当家の家宝も召し出せと言って来ております
鎮房  今度ばかりは覚悟を決めた。鎌倉の世よりこの地に住んで四百余年、民百姓と共に耕した城井谷の山河が我らの枕ぞ
朝房  とーちゃんかっこいい!

314 名前:3[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:45:47 ID:GjrCDrzG
長政  鉄砲もろくに扱えぬ田舎侍どもめ。コテンパンに叩きのめしてやる
又兵衛 親父殿にも相談せずにおまえが総大将なんて、大丈夫かよ
長政  うるさい。農民が教えてくれたこの山道から攻め込まれるとは鎮房も予期してないはずッ
旗本A 若様!前方の岩陰より猛烈な矢の雨!待ち伏せされていたようです
又兵衛 おいおい・・・
長政  相手はせいぜい千五百、こちらは毛利の援軍含めて二万。負けるはずがない!突撃!!
旗本B さらに左右より兵!狭い山道にて我が軍は身動き取れず、隊伍が分断されております!
長政  なんの、相手は寡兵!押しつぶせ!まだ俺のターンだ!
旗本C 背後に軍勢!旗印は左三ツ巴!城井勢です!
長政  なんの、相手は(ry
旗本C もはや下知も届きません!ここは早くお逃れくだされ!
又兵衛 あ~あやっぱりな・・・

315 名前:4[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:46:48 ID:GjrCDrzG
官兵衛 (城井に呼応して近隣各地で地侍が蜂起か。面倒なことになったな・・・)
恵瓊  拙僧にお任せを。城井の鶴姫と長政殿の婚姻を条件に和睦を纏めてみせますぞ
長政  え?ぼくにお嫁さん!?
官兵衛 かたじけない。ではその間に他の乱を平定するとしよう
長政  美人系?それとも可愛い系?
又兵衛 おまえもう氏んで良いよ

316 名前:5[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:47:59 ID:GjrCDrzG
鎮房  中津城にて鶴姫の婚儀だと
家老  典礼にかこつけた黒田の謀でしょうか
鎮房  まあよい、これも時代じゃ。ご先祖の高恩には先の戦で報いた。父上、よろしいですな
長房  頭領の貴様が好きにせい
鎮房  谷も色づき、もう収穫期じゃ。領主の座を守るために田畑を荒らすは本意ではない
家老  殿!
鎮房  儂は武士として死にに参る。朝房の身重の嫁御を実家に逃す手筈だけは整えておけ
家老  はっ・・・

317 名前:6[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:49:33 ID:GjrCDrzG
長政  父上、いよいよ鎮房を騙し討ちですな!
又兵衛 静かにしろ馬鹿
長政  馬鹿とはなんだ馬鹿
官兵衛 いいから黙れ馬鹿。おまえの嫁に聞かれたらどうする
長政  (´・ ω・`)
官兵衛 (緒戦でこっぴどく負け、娘を人質に誘き出して騙し討ちか・・・残したくない歴史だな)

鎮房  やあやあ、婚儀と聞いて参りましたが、随分簡素な席ですな
長政  武家の不調法、お許し下され。時にお供衆はどちらに?
鎮房  ご城下の合元寺に置いて参った。ほんの四十名ほどなので安心めされよ
長政  寡兵にござるな。安心いたした
又兵衛 (この馬鹿が・・・)
鎮房  名高き後藤殿がお相手とは、この鎮房一生の誉にござる
又兵衛 ・・・

318 名前:7[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:51:40 ID:GjrCDrzG
鎮房は小姓と二人で数十名を道連れにし、最後は又兵衛の槍にかかった。
城井谷の館は急襲を受け、老父長房ほか一族が誅せられた。
同じ頃、事前に肥後一揆鎮圧の与力として参陣させられていた朝房も、逗留先で夜討ちに遭って果てている。
合元寺では血で血を洗う激闘が繰り広げられ、寺の土壁は赤く染まった。
その後、洗っても洗っても血の色が滲み出てくることから、同寺は赤壁寺とも呼ばれるようになった。
中津城下では城井の怨霊伝説が囁かれ、官兵衛は城井神社を祀って慰霊に努めた。

豊前宇都宮氏は城井谷の地で代を重ねて城井氏となり、領民に愛され、一族郎党は結束して戦国の世を勇戦した。
武門の名を惜しみ潔く散った鎮房が見事なら、かの地から一族を引き離すが肝要と見た秀吉の慧眼もまた見事と言える。
こうして、城井家は歴史の表舞台から去った。

朝房の妻・竜子は進壱岐守らに護られて英彦山に逃れ、忘れ形見の男児を産んだ。子は朝末と名付けられた。
江戸初期、朝末を城井谷の領主として迎えるべく遺臣たちが諸方に働きかけた記録が残るが、ついに願いは叶わなかった。
朝末は福井松平家の旗本として一生を終えたという。

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 19:00:04 ID:GjrCDrzG
以上、前に見聞きした話をベースに書いた。多少端折ってるけど一応史実のはず。




320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 19:19:41 ID:ees48gsC
まあ既出ではあるが謀殺の内容と後日談は初出ですな
しかし福井の松平さんも秀康以来多種多様な人材を召抱えているなw

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-167.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-893.html

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 19:56:46 ID:eDNoMnDm
悪意のある書き方だなあ。せめて悪い話に書くべき。

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:06:58 ID:+DFSwLNX
戦国期はこういう謀殺を汚点とは考えないよね
長政はこの時城井さんを殺った刀をずっと持ち歩いてたし

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:08:55 ID:NGAJTAnG
>>319
中津周辺の出身?
別に逸話スレだから史実じゃないけどいいですよ

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:09:39 ID:141DWTZy
本当に汚点みたいな暗殺は歴史の表舞台には出てこないだろうしね

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:10:15 ID:/c2nrwOw
宇都宮一族のなかでも一番悲惨な結末に思えるけど、
鎮房の華麗な散り際は、感銘を受けるいい話なんじゃないだろうか?

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:17:40 ID:+DFSwLNX
そういや、フロイスは殺したい相手を饗宴に招いて油断させたところを騙し討ちにするのがこの国の慣習、とか書いてたな

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:21:40 ID:vkhWPP4N
中央の政局に関わってないローカルな話だから有名じゃないけど
城井谷関連の怨念の史実浸食ぶりはやばいからなあ…
黒田節とかマジで歌うのタブーらしいよ

酒は飲め飲め飲むならば
日の本一のこの槍を
飲みとるほどに飲むならば

「宇都宮鎮房に酒を飲ませて騙し討ちした歌」だから

前にどっかのスレで黒田関連の話題になった時、自称地元の人がとんでも説を書き込んで
フルボッコされてたけど、実は本人は地元に伝わる伝説に懐疑的な人だったらしく
「まだ現実味のある話を選んだのにこれもデタラメですか…」と落ち込んでいたのが印象的だった

328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/12(月) 20:39:12 ID:zspGITFZ
こういう暗殺話や直家さんの暗殺劇に慣れ親しむと
今の実生活でも暗殺くらいいんじゃないかと思ってしまうから困る。

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:49:51 ID:GjrCDrzG
祖先が城井の殿様に仕えてた(自称)から、バイアスが掛かってるのは間違いない。
でも別に謀殺酷いウキョー!!ってつもりも無い。個人的には苦労人の孝高さんも好きだし。

流れを読み誤って滅びた一地方領主にも、ちゃんと通すべき筋目があったって話を
書きたかった。荒らしてしまったならスマン

>>327
子供の頃聞いた昔話の「いい殿様」はたいてい「うつのみやのお殿様」だし、
地元の人に愛されてたのはきっと事実なんじゃないかと。
あと、黒田節が歌われてるのは確かに聴いたことがなかった。なるほどタブーなんだw

史実が浸食される課程としては、文中に挙げた猟官運動の経緯が入るだろうね。
徳川さんに「こんなに正当な領主なんですよ!」って主張するために、偽書屋で
書物を偽造するのが当たり前だったらしいし。
そのための資金集めをするのが遺臣の仕事だったってことも宇都宮本に書いてた。

深町理忠、龍造寺隆信を救う

2010年03月29日 00:12

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/28(日) 21:39:14 ID:hOxsLVuk
龍造寺家の臣、土橋栄益は目障りな隆信を追放するべく他の城主達と
つるんで隆信を包囲した。城には鍋島ら家臣もいたが状況は絶望的であった。

  「もはやこれまで…潔く腹を切ろう…」

隆信を始め全員が覚悟した時、敵側の将小田政光の家臣、深町理忠が城までやって来た。

  「今日は敵でも明日は味方となるのが武士の習いにござる。
  こたびの事を痛ましく思い、主君や諸将とも協議いたしました。
  隆信公の安全は保障いたしますゆえ、今宵のうちに城をお開きください。」

しかし隆信は理忠の申し出を信じようとしない。

  「馬鹿な、信じられぬ。騙し討ちされるくらいならここで腹を切る。」

すると再び理忠がやって来た。

  「神に誓って嘘ではござらぬ。かくなるうえは某が人質になりもうす。」

理忠は丸腰で城に入って行った。ここに至ってようやく信用した隆信はその夜、
2百人ほどで城を出て、敵の大軍の中を女子供にいたるまで柄を切った槍を構えて
駆け抜けていった。

それから8年後、理忠は隆信の急襲により討死した。
理忠の死を知った隆信はその死を惜しんだという。




117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/28(日) 22:41:44 ID:UlDLro1i
なんかよくわからんけど長宗我部と竜造寺ってかもし出す雰囲気が俺の中でかぶる



関連
蒲池鑑盛。龍造寺隆信を匿う
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3917.html

波多三河守親の悲劇

2009年10月13日 00:07

波多親   
404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 12:00:39 ID:Eso3Tdak
波多三河守親の悲劇

肥前松浦半島には、平安の昔から松浦党と呼ばれる武装集団があり、
嵯峨源氏、あるいは平氏、中には奥州の安倍氏を祖とするとされる
家々であった。

元寇の時には勇敢に戦い、大いにその名を広め、下っては倭寇の頭目、
あるいは海外との交易にも意を注いだ。

戦国時代も数十家の国人らが協力、あるいは鎬を削っていたが、
その中に今の唐津周辺を根拠地にする波多氏が有力であった。
当主、波多三河守親は、南からの龍造寺隆信の侵攻に対抗し、
ある時は降り、更に島津家に鞍替えし、難攻不落の巨大な城、
岸岳城を整備し、これを根拠地として北松浦半島を支配下にした。
彼は、早くから兵農分離をなし、また朝鮮半島、遠くは中国からも
招いた陶工らに窯を作らせ、盛んに作陶をさせ、その領地の経営、整備に
励んだのであった。

ところがそこに独裁者、秀吉がやってきた。九州征伐である。
機を見るに敏な松浦法院、有馬、大村、龍造寺、鍋島氏らはすぐに
博多に参陣、秀吉に恭順し、島津征伐に参加の旨を表するも、
波多三河守親は遅参してしまった。島津には庇護を受けた経緯があった。
今一つの機敏さ、決断力に欠ける男だったようである。

秀吉、へそを曲げ会ってくれない。
困り果てた波多三河守親、石田治部、浅野弾正にとりなしを頼みこみ、
何とか本領八万石を安堵してもらった。また、彼の所領でなした美麗な茶器を多数献上し、
秀吉のご機嫌をとることができた。当時の名品は、後に利休の銘が入り、
三斎公、鴻池家の手を経て今日に伝わっている。

ところが次にやってきたのが文禄の役である。秀吉の命の下、鍋島勢らと共に
千人の兵と共に渡海した。散々泥沼の戦ののち、1593年、波多三河守親を
待ち受けていたのは、改易であった。朝鮮での戦いぶり、卑怯、あるいは勝手な振る舞い、
まことにけしからぬ、という理由。
誰やら不明の三人の奉行の讒言があったとか。

実際の彼は、卑怯どころか、兵を三百までに減らしつつ鍋島勢と共に敵兵二万を
撃退した奮戦ぶりであったのだが。

秀吉としては、根拠地名護屋を古来領する波多氏が邪魔、目障りであった、
真の理由はそれにつきるのである。代わりにこの地を拝領したのは
秀吉お気に入りの寺沢志摩守でしたから。
兵農分離し、行き場を失った家臣百名が腹を切ったとか。

今一つ、時勢を見る目のなかった武将の悲劇。




405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 12:27:42 ID:GfkRXIQM
>>404
人質に出された奥方が、秀吉の前で不注意から懐剣を取り落としてしまったのが
不興を買った原因だとか。殺す気か、というわけ。

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 12:37:14 ID:Eso3Tdak
奥方、美人だったとかの言い伝えが。

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 12:56:15 ID:/n2v2wD2
>>405
甲冑姿で秀吉に拝謁した大名夫人もいたってホント?
それって、人質である夫人たちの貞操が危なかったの?

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 13:42:48 ID:Y4JiRFqP
諸侯の奥方に手を出そうとする→失敗(´・ω・`)
はテンプレみたいなものだから

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 13:45:40 ID:5Foi65W3
立花千代
甲冑姿に槍、侍女に鉄砲を持たせて拝謁。
秀吉もさすがに手を出すのをあきらめたが、宗茂は手を付けられたと信じ、
以降夫婦仲は冷えて行ったという・・・・・が
もともと千代が城主で、宗茂は入り婿のため、
勝気な千代が事々に口を出していたので、疎ましく思っていたということらしい。


410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 15:39:20 ID:Eso3Tdak
闇千代の場合、日常甲冑を着用して常に臨戦態勢だったのでは?

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 17:14:03 ID:0jPEBcRo
S田N之「ウチの嫁は甲冑着ていなくても常に臨戦態勢です…」

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 18:18:05 ID:BOLcWOUB
浮気する方が悪い

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 18:51:59 ID:dNyosvY3
>ウチの嫁は~常に臨戦態勢
常時濡れてて合体準備おkって事かと思った

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 19:00:06 ID:dmvYI8E2
そっち方向に解釈したのが俺だけじゃなくて安心した

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 19:49:41 ID:cYAKpOhS
利家殿の奥さんとか
利常殿の奥さんとか
子だくさん故に常に臨戦態勢のイメージがある

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 22:17:45 ID:GiOvYxKc
>>404
波多氏って名前が一文字だった気がするけど
波多三河守親って「はた みかわのかみ ちか?」って読むのか
「はた みかわ もりちか」って読むのかな?

波多 三河守 守親だったら語呂がいい気がする

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 22:24:19 ID:UTgLdO1o
>>419
波多 親であってる。読みは「はた ちかし」
だから波多三河守親は「はた みかわのかみ ちかし」ですな。

あの渡辺綱以来の、由緒ある一文字名前。

421 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/12(月) 22:42:34 ID:tvP9wbyU
>>411
T川秀T「うちの嫁さんもですよ。出し抜いてよそで作ったときは殺されないかとびくびくしてました」

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 23:19:27 ID:amZ2/2Ih
>>404
まとめスレに波多三河守親の奥さんは竜造寺から後家を押し付けられたってなかったっけ?

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 23:22:46 ID:amZ2/2Ih
事故解決
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1008.html

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 23:41:26 ID:AUpOWyN2
>409
千代は領国から出たことが無く名護屋にいってないから
秀吉に会ったことがないんじゃなかったっけ。


425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 23:45:02 ID:GiOvYxKc
家康が恐れた男みたいに秀吉が人妻にコナかけられたって逸話は
テンプレみたくなってる気がする

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 23:53:29 ID:GiOvYxKc
>>420
「ちかし」って読むのか、勉強になりました
「親」って字を見るとなんか長宗我部のイメージが強い

「菊池」と「菊地」

2009年10月12日 00:04

375 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/11(日) 16:21:47 ID:qwmPAdhw
南北朝時代の菊池千本槍で有名な、菊池武重の肥後菊池氏は戦国期には
家督争いなんかで没落し、他家からの養子を当主にさせられるくらい弱っていた。
なんせ最後の当主は大友宗隣の叔父でその前2代は阿蘇氏の人たち(全部養子)
結局大友さんによって菊池氏は滅びるんだけど、このとき離散した方々が当然いる。
しかも数代に渡って家中が揉めていたから結構いたらしい、その一部は山奥にひっこもり、
水地を離れたのだからと菊池から菊地と名を変えた者もいたらしい、
それが菊池と菊地の起源と熊本県民から聞いた。

ただ、普通に宇喜多と浮田とか徳川と松平みたいなかんけいじゃね?とか思いもする。