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今はこれまでぞ。さらば、さらば。

2021年02月03日 18:01

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/03(水) 14:52:38.05 ID:Hr476j/4
吉村又右衛門は人の知りたる武勇の人である、と申されていた。

私(著者)が中国へ罷り下ろうとしていた頃、暇乞いとして、彼が夜中に来た。
「又いつ会えるか知れないから。」と言って、酒を飲んで過ごし、様々な事を心静かに語った。
そして「もう夜も深くなってしまった。では。」と言って帰ろうとし、私はそれを門の外まで送り、
「命あらば、又逢おう。」と言って立ち別れようとすると、吉村は名残惜しげに、私の手を取って
「今少し送れよ。」と言った。そこで二、三町ばかり語らいながら歩いていると、この時吉村は
こう語った。

「人が終わろうとする時、必ず一言を残すものだという。私は老いた。これは今生の御暇乞いである。
その方は年が若い。相かまえて、”つらくつなき”者からは遠ざかるように。尤も主人童僕であっても
その心得があるべきだが。貴人も賤しきも、人を知るという事を、心得るべきだ。

今はこれまでぞ。さらば、さらば。返すがえすも命あらば。」

そう言って立ち別れた。その時のことは、老後の今も忘れがたい。
眼にも耳にも残っている。

”つらくつなし”とは俗語で、例えば我儘で、異見も聴き入れないような、気儘な者の事を言うのだと理解している。

備前老人物語



912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/03(水) 20:41:30.83 ID:cMyRziqo
吉村又右衛門さんって福島の家老から極限の貧乏に転落した人か
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吉村宣充は落魄中

2012年12月24日 19:53

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 23:57:08.25 ID:x9+yeZTt
吉村宣充は落魄中、追々家士従僕にも暇を取らせ、子供を一族に託し、
今は馬一頭だけが残っていた。

時に馬の売買・仲介を業とする人が来て「馬を売り払い給へ」と言う。
それを聞いて宣充は「只今まで用に立ってくれた馬だ。この上、売り払う
なんて可哀想だ」と、馬を阿部野へ解き放った。

――『名将言行録』




「それがお前にはわからぬか」

2012年12月18日 20:00

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 01:04:07.34 ID:HmoTXQtY
福島家が改易となった時、吉村宣充は家人下僕に至るまで金銀家財を与えて
暇を遣わし、自身は伊勢で暮らして吉村又右衛門と大筆に宿札を掛け置いた。
生活の中で夫婦や娘は段々と困窮して食事もままならず、妻は衣服に困り、
娘は泣き伏して飢えに及んだ。

ある時、古い朋輩の大崎長行が訪ねて来て、紀州家に召しだされたので
又右衛門の添え状が欲しいという。宣充は添え状を用意すると、
「路銀はあるのか」と尋ね、長行は無いと答えた。

すると宣充は具足櫃から金三百両を出して五十両を分け与え、さらに
沓籠から銭を出して一貫文を渡した。長行は大いに喜んで武具等を
調えて奉公に出て行った。

その後、宣充の女房は怒って「あんなに金銭があったというのに妻子の飢えを
見て見ぬふりをしたのですか」と暇を乞うた。

これに宣充は「武士は売買の道を知らない。この金が尽きた時は今のような
生活になるだけだ。つまりは少し遅いか早いかでしかない。それならば我が
武勇の名を落とすまいと万が一の用を心掛けているのだ。それがお前には
わからぬか」と、言って妻と離別したという。

――『名将言行録』




吉村宣充の、福島正則への提言

2009年12月02日 00:16

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 17:58:36 ID:utM4WvRM
大阪の陣、いよいよ勃発と言う頃、福島正則家臣、吉村宣充は、江戸に抑留されている
正則の下に密かに駆けつけた。

吉村は言う
「我が家は関ヶ原での軍功で、安芸と備後を賜りました。
あの頃世の人々は、『福島家は他の家に比べて恩賞が過分だ』と噂したそうです。
ところが家康公はこれを聞いても
『福島の功は戦功のみにあったのではない。最初に清洲を明け渡し、そこに入った
他の諸侯十三家、数万人を引き受け、40日にわたって兵糧をまかなった。
この功に安芸一国では不足であるから、備後もあてがう事にしたのだ。
決して過分な恩賞ではない。』
と、仰せられたと承りました。

あの時、我が家と徳川家との間には伊奈図書の事件がありました。にもかかわらず
その不満の気持ちを少しも表に出さず備後を我らに下さった事、これはまことに名将の所業で
ありますが、わたしは『平穏な時代になれば我が家に何か圧力がかかってくるに違いない。』と、
ずっと心配していました。

ところが、今まで十数年にわたり平和な時代が続きましたが、我が家に圧力がかかることは
ありませんでした。

今、私が考えますに、これは『大阪城を落とすまで諸大名の心を取っておこう』と言う
計算があるためでしょう。
つまり、大阪城の落城が、我が福島家に大変が起こる前兆となるのです。

殿!大阪が落城いたしましたら、どうかそのときは直ぐに『天下弓治めのお祝い』として
備後を幕府に献上なさいませ!そうする事が、当家安泰の礎となるでしょう。
この事、なにとぞ御考察ください!」

しかし、正則はこれを受け入れる事はなかった。
その後の福島家改易は、皆、知るところである。




762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/01(火) 18:09:24 ID:BggSIZaL
>>761
それを教訓にした正則は
後年信濃、越後二ヶ国にまたがる四万五千石を領有していたが、
嫡男死後、信濃二万石のみ残し二万五千石を幕府へ返上した。
しかし教訓は役に立たず、改易になった。

吉村宣充、助言を注意した武士を

2009年09月29日 00:28

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 00:10:53 ID:GAGgYi1U
念のために・・・

福島正則や松平定綱にも仕えた吉村又右衛門宣充がまだ、とある家に仕えていた時の事である。
同輩の家に招かれ、家中を見回っていると囲碁を中心に人だかりが出来ていた。
宣充もこれに加わって観戦していたが、片方に少しばかり助言をした。
すると、対戦相手は怒って
「分別のある武士は助言なんてしないものだぞ。」
とからかった。
宣充はこれが相当頭にきたが、その場は何も言わずに立ち去った。

その後、囲碁が終わって皆が退出する際に、宣充は先ほどの男に声をかけて男を難なく討ち取った。
さて、退却しようと門まで出た所で宣充はふと思ったのである。
宣充「又右衛門ほどの者が慌ててトドメも刺さずに逃げていった、なんて
後々馬鹿にされたらたまったもんじゃないな・・・」
すると宣充はゆっくりと引き返して、慌てずにトドメを刺してから再び去っていった。




867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 00:56:44 ID:6RvsZedv
その宣充って短気者は逃げた後どうなったんだろう。

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 01:05:48 ID:r6+tq4gG
助言するのはマナー違反なんじゃないっけ。よく分からんけど。
ああ、だから悪い話なのか・・

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 02:49:37 ID:fsPRXQ1s
助言することがマナー違反だと聞いた
つまりマナー違反しといてやんわり指摘されたのを
根に持って殺したDQNってことだとおも


871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 09:27:38 ID:NM4eea2u
>>869
同意。そして逃げた。どうしようもねえクズだな。


吉村宣充、岐阜城抜け駆け

2009年09月29日 00:27

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 11:51:07 ID:GAGgYi1U
吉村宣充の逸話をもう一つ紹介する

岐阜城抜け駆け

岐阜城総攻撃の前日のことだ。
宣充は同輩に明朝抜け駆けの誘いをした、しかし、同輩は軍法を犯す事は重罪で
絶対にそんなことするんじゃないぞ、
と逆に窘められた。
宣充は黙って陣所に帰り、一人でよ~く考えたがやっぱり単騎でも抜け駆けしようと決意して、
まだ暗い時間から馬を岐阜城に向けた。

すると、10メートルほど先に馬を走らせる武者の姿を見つけた。宣充は
出し抜かれたと思い、こちらも馬を急がせた。
しばらくすると、敵城の手前に少し小高くなっている場所があった。
先に行った武者はこれを右から回りこんで城に近付こうとしたが
櫓から鉄砲によって討たれてしまった。これを見ていた宣充は左回りに進み、
難なく櫓まで辿り着いたのである。
すると、宣充は馬から降りて大胆にも門を叩き、こう言った。

宣充「俺は偵察に出てた者だ、門を開けてくれ!」

しかし、門番は宣充を疑って門を開けようとはしなかったので、続けてこう言った。

宣充「敵がもう、そこまで来てるんだよ、早く、早く櫓に上げてくれ!」

これには門番は大慌てになり、すぐさま宣充を櫓に上げた。
すると、宣充は隙を見て、隙間から小旗を出した。その旗にはこう書かれていた

 福 島 左 衛 門 大 夫 内 吉 村 又 右 衛 門

友軍が明け方に岐阜城に攻め込むと、この旗を見つけ
「げぇ、又右衛門が抜け駆けしてもう攻め込んでるぞ!」
「又右衛門を討たせるな!」
などと叫び、喚いて一気に攻め立て遂に岐阜城を墜としたのである。


吉村宣充の逸話は前にも書かれたことがあるんだよね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-654.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1892.html




875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 16:15:32 ID:kI2wZV1O
>>873なんというか、市松さんの家臣は武断なわりにデキるやつが多い…w

戦国時代末から江戸の幕藩体制へ転換期の武将の中では
(特に戦場じゃ)意地を通すけど、家や家臣を守るためなら我慢もする、こういう武士の話が
様々な角度で出てくるね。


吉村又右衛門物語・いい話

2008年11月30日 00:02

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/28(金) 00:24:04 ID:7fqsM08T
>>821
大崎玄蕃は、福島家が改易されてからその逸話にいたるまでの、おっそろしい頑固貧乏話が
面白いよねw



867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 00:52:41 ID:5DXt8oUn
>>823
>おっそろしい頑固貧乏話が
たぶんこの人の話↓


吉村又右衛門物語

福島正則の家臣に、吉村又右衛門という武将がいた。
福島家改易により又右衛門は妻子と伊勢の関に寓居した。
寓居中の貧窮ぶりはすさまじく「女房は丸裸に、娘は泣き伏して飢えに及ぶ(原
文より)」という有り様。

そんな中、福島家の同僚・大崎玄蕃が訪ねてきた。要件は、紀州に仕官できそう
なので又右衛門に紹介状を書いて欲しいというもの。
又右衛門は快く紹介状を書いてやり、
「玄蕃殿は路銀をお持ちかな?」と聞く。
玄蕃がないと答えると、具足櫃から金50両と銭1貫を取りだし玄蕃に与え、玄蕃は
喜んで帰った。
それを見ていた女房は「家族を飢えさせながら、他人に大金を与えるなどあり得
ない!」と激怒した。
対して又右衛門は、
「武士はそろばん勘定はしないものだ。あの金は我が武名を落とさないためのも
のじゃ。そんなことも分からないのなら武士の女房とは言えぬ。離縁申し付ける
。」と言った。

さて、又右衛門の武名を聞いた松平定綱から仕官話が来た。
又右衛門はボロの着物のまま定綱に会いに行こうとした。
定綱の使者が「せめて馬か駕に乗って下さい。」と頼んでも、
「浪人は恥ずるものではない。」と一向に聞かず徒歩で登城した。

めでたく仕官がかない又右衛門は定綱の重臣になったが、連日ボロ具足・古葛籠
を担いだ百姓が広島からやって来た。
あまりに異様な光景に定綱の家臣が驚いて又右衛門に理由を聞くと、
「彼らは皆ワシの譜代の家臣じゃ。再起の時のため広島の村々に預け百姓をさせ
ていた。彼らをいつか役立てようと浪人中も彼らに隠し扶持を与えていたのだ。
」と答えた。

そんな又右衛門が子供に残した遺言は、
“ワシは武功を持って大禄を得た。しかし、貴様には武勇武功もない。よってワ
シの所領は殿様に返上せよ。
もし貴様に新たな所領が与えられたなら、小禄でも文句を言ってはならんぞ”
(名将言行録)



871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 01:18:27 ID:H657N+pQ
>>867
このあたりがなんというか、安土桃山以降江戸時代の武士の価値観になるのかね。

戦国までの武士は一族郎党家族家来を養い保護するのが第一義。