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尼子勝久・通久兄弟の切腹

2020年03月17日 18:03

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 12:10:13.79 ID:DxVeY+n/
上月城の戦いの終盤

吉川治部少輔元長は山陰道の勢二万余騎を率い、卯月(四月)十一日の朝陽に、織田の援軍の在る高倉山へ
討ち向かい、有無の合戦と憤る。その来鋭奮発として、大地震え山裂けるが如し。北國武者の勇気は氷雪の
気色を表し、烈々として厳しければ、佐久間右衛門尉(信盛)、瀧川左近将監(一益)らは

「あの手の者達はどうやら鬼吉川の勢のようだ。彼と戦い、例え利を得たとしても、上月城を囲んでいる
十万余騎の敵は、それを見て我等に討ち掛かることをどうして堪えるだろうか。
若大将である織田信忠を、生死知らずの者共の鋒前に掛けてはならない。早くこの陣を引くのだ。」

として、高倉山の陣を引き払ったが、吉川元春はこれを追い、同国書写山に追い詰めた。

こうして上月城では、後詰めの味方が敗軍したと聞くと城兵の大半は落ち散り、防ぐべき戦術も盡きた。
尼子孫四郎勝久、助四郎通久兄弟は「今はもはや自害せねば」と思い極め、山中鹿介幸盛を呼んで

「如何に御辺は、今一度降人となり、芸州長田に御座す、前伊予守義久入道瑞閑を忍び出し、再び
素懐の旗を立て給え。
先年、秘蔵せし松虫の轡を捧げて、織田信長の憐憫を得た。今また、尼子家の什宝である荒身國行の太刀、
並びに大海の茶入を進ぜよう。これは我等の形見とも、又は武略の種ともし給え。」

そう遺言し早くも自害の用意急であれば、幸盛は涙を流し
「さても無念の次第です。これも尼子の家運が滅びるべき時が至ったのか。であれば、人手に掛かるよりも
疾く自害されますように。幸盛は今一度、思う仔細がありますから、御跡に留まって後世を弔い進ぜます。」
そう言って酒を進め、宴など催し。天正六年五月二十九日(筆者注・実際には七月三日とされる)、
勝久通久兄弟、自害して名を滅亡の跡に留めた。哀しいと云うも愚かである。

雲州軍話首

尼子勝久・通久兄弟の切腹についてのお話。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 14:00:05.78 ID:uq7TRT/o
織田勢転戦しすぎててちょっと記憶が薄いんだけど
佐久間と滝川と信忠って山陰の方出張ったっけ
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尼子経久の嫡男・政久の死

2009年09月30日 00:08

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 14:52:29 ID:C1PIIUTr
信玄の他にも笛の音に誘われて殺されたとされてるのいなかったっけか?

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 14:59:21 ID:vBEzCNf8
信長だろ 笛の音に誘われて本能寺にいったら明智に襲われたっていう

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 15:08:17 ID:3DFo0nb9
笛を吹いてたら殺されたのが尼子経久の嫡男だっけ




900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 15:11:24 ID:F6j2U0RO
>>897

尼子経久の嫡男・政久は文武両道の武将で、とりわけ横笛の名手であった。

1518年に桜井宗的が磨石(とぎし)城にて反旗を翻すと、尼子経久は政久を総大将して
磨石城の攻略を命じた。
しかし、尼子の大軍をもってしても容易には落ちず、長期戦の様相となり始めた。

政久は敵を油断させるため、櫓を築いて毎夜酒宴を開いては戦を
怠けているかのように見せかけ、政久自らも毎晩決った場所で笛を奏でた。
しかしこの手に櫻井宗的は乗らず、ある夜に城兵側の弓自慢が
笛の音が聞こえるほうに向かって矢を放った。
その一本が政久の喉に当たり、尼子政久は即死してしまったという。




901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/29(火) 15:22:54 ID:vBEzCNf8
戦をなまけてるようにみせたっていうか実際怠けてたんじゃ…