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それがしは遂に功を挙げる事が出来ませんでした

2014年02月27日 19:09

467 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/26(水) 20:34:20.52 ID:sCDBYhIN
「それがしは遂に功を挙げる事が出来ませんでした」
とある老武士が、話相手の老武士に言った。
二人は主従であり、話しかけたほうが従者である。
言われた側、即ち主人の方の老武士は怪訝な顔をした。
ともに隠居するまで、それはそれは数え切れぬほどの戦場に出ては生還してきた。
「功がないわけがなかろう」という主人の疑問である。

これに従者が笑って曰く
「兵と見れば殿が槍をふるって追い払い、将と見ればこれまた殿が御自ら討ち取っておられましたので」
大将が自ら陣頭に立って槍を振るう、従者としては頭と胃が痛くなるような悪癖が
「とうとう隠居するまで直りませんでしたなあ」と軽く皮肉ったのである。

これに主人はうまく返すこともできず「ああ、そうだったそうだった」と
苦笑いするばかりだったそうな。

関ヶ原も大阪の陣も過去となった泰平の世。
島津兵庫頭義弘と中馬大蔵重方主従の会話である。





島津義弘と膝跪栗毛

2012年11月01日 19:52

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 22:11:22.22 ID:K68WsBuF
島津義弘と膝跪栗毛


元亀3年(1572年)、薩摩の島津と日向の伊東が戦った『木崎原(きさきばる)の戦い』でのこと。

この合戦の前、島津勢の指揮官、島津義弘はある夢を見た。自分の乗っていた馬が
足を折ってしまうという夢だった。
夢の内容を菊一という盲目の僧に占わせると、それは次の合戦に島津が勝つという
お告げであるという。

馬が足を折ったなら当然馬から降りなければならない。

馬を降りるということは歩くことになる。

歩くこと、すなわち「徒歩(かち)」なので「勝ち」

なのだと。

(続く)

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 22:11:55.45 ID:K68WsBuF
そして木崎原の戦い本番。ダジャレ、もといお告げが当たったのか、戦いは島津の勝利となった。
義弘が戦場を馬で回っていると、敗走する伊東勢の中で殿軍をつとめる騎馬武者が
目にとまった。

「我は島津兵庫頭なり! いざ勝負せよ!」

と大音声で呼ばわれば騎馬武者も名乗り返し、

「総大将御自らとは光栄! 柚木崎丹後守、参る!」

馬を駆って向かってきた。柚木崎(ゆきさき)丹後守正家は日向柚木崎城の城主で、
伊東勢の大将のひとりである。

義弘と丹後守は二度三度と槍を合わせるも、丹後守が馬から落ちて地面に転がる。
こうした場合、本人が馬から下りて討つか、徒歩で付き従う家臣郎党が討つのだが、
このとき主人の意を真っ先に察したのは義弘の乗馬だった。
この馬が前足の膝を折り曲げて地面につけたのである。義弘は槍を下に向けて突き、
みごと丹後守を討ち取った。

義弘は夢のお告げを正夢にしたこの馬を「膝衝栗毛(ひざつきくりげ)」と命名し、
非常に大切にした。
『名将言行録』によれば、義弘は生涯52回の戦いのうち20回余りをこの膝衝栗毛に跨って
臨んだという。
膝衝栗毛は馬としては非常に長命の86歳まで生き、鹿児島県姶良市の亀泉院跡に墓が残されている。

加藤清正の帝釈栗毛、鬼武蔵の百段にも劣らぬ、島津義弘の愛馬のお話。



186 名前:172-173[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 08:26:31.27 ID:DKgNWerh
ひとつ書き忘れ。

記録によると膝衝栗毛は牝馬(メス)だったようで。
戦のたびに駆り出されてると、繁殖はできなかったんじゃないかなあ。

義弘お兄ちゃん動物にもモテモテというお話。




175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 23:12:18.05 ID:kN4VqeVH
>>173
馬だったら、超長命でも40歳くらい?実は象だったんじゃ?w


176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 00:04:53.06 ID:g5WrITFm
実はその馬お兄ちゃんが中に入ってたんじゃね?

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 01:00:19.97 ID:+VLFSbrt
>>175
かの三冠馬シンザンが日本の軽種馬の最高齢記録を保持していたけど、
それでも満35歳。40歳なんてまずありえんと言い切っていいレベル。
ましてや80歳以上だなんて…

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 01:39:47.49 ID:504Z1GA8
この手の図抜けた長命の動物の話って、単なるホラ話というよりは、
事情を知らない一般人が二代目や三代目の死亡年から逆算した勘違いでは。
そんなに縁起のいい馬なら、繁殖させたりもするだろうし、
二代目三代目が居ても不思議じゃない気がするけどね。

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 02:02:03.47 ID:c293RWN0
あるいは暦で示されててちょうど60年分勘違いしてるかもな
26歳なら普通すぎるかw

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 02:42:28.49 ID:YrMp6V1+
なんかの脱字か何かじゃないかな?

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 03:45:36.73 ID:aDa6Tlf6
>>175
鬼武蔵さんの愛馬も相当長生きだったよね

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 04:29:58.01 ID:eL3tFQLr
膝衝栗毛ハ十六歳マデ生キマシタ。


187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 14:31:09.77 ID:gJQfI2k2
>義弘は生涯52回の戦いのうち20回余りをこの膝衝栗毛に跨って

乗ってない時は馬が産休入ってたからかもよw

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 15:16:34.08 ID:504Z1GA8
そうだな
「出産前後くらいは日頃の感謝をこめて・・・サンキュー」とか言ってたかもな

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 15:30:00.19 ID:V46KQ4t9
>>188
発音的にはテンキューではないかと武田左馬助様が申しております

妙円寺参りの歌

2011年10月23日 22:01

436 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/22(土) 21:43:24.22 ID:bb6xDf1n
妙円寺参りの歌
今日は伊集院で妙円寺参りがあったから見に行ったよ!妙円寺参りの歌って悪い話かな?
場違い、スレチ、かぶっていでしたらすみません。後、歌が22番目まであります。
にわかですので、説明は短く間違っております!多分


時は1600年。天下分け目の戦いとして知られる関ヶ原の戦いの折、豊臣方として戦った島津勢は
徳川方の敵中を突破し帰鹿を果たしました。鹿児島城下の武士たちは往時の苦難をしのび、いつからともなく
妙円寺詣りとして参拝するようになりました。
  当日は鎧冑に身を固めた勇壮な武者行列のほか、市内を代表する民俗芸能などが披露され県内各地から
多くの人が訪れます。(鹿児島三大行事のひとつ)


明くれど閉ざす雲暗く 薄(すすき)かるかやそよがせて 嵐はさっと吹き渡り 万馬いななく声高し

銃(つつ)雷(いかずち)ととどろけば 太刀稲妻ときらめきつ 天下分け目のたたかいは 今や開けぬ関ヶ原

石田しきりに促せど 更に動かぬ島津勢 占むる小池の陣営に 鉄甲堅くよろうなり

名だたる敵の井伊本多 霧にまぎれて寄せ来るや 我が晶巌ら待ち伏せて 縦横無尽にかけ散らす

東軍威望の恃みあり 西軍恩義によりて立つ 二十余万の総勢の 勝敗何れに決戦や

戦い今やたけなわの 折しも醜(しこ)の小早川 松尾山をかけくだり 刃(やいば)返すぞ恨めしき

前に後ろに支えかね 大勢すでに崩るれど 精鋭一千われひとり 猛虎負嵎(もうこふぐう)の威を振るう

蹴立てて駒の行くところ 踏みしだかれぬ草もなく 西軍ためにきおい来て なびくや敵の旗の色

家康いたくあらだちて 自ら雌雄を決っせんと 関東勢を打ちこぞり 雲霞の如く攻めかかる

かかれ進めと維新公 耳をつんざく雄叫びに 勇隼人の切先の 水もたまらぬ鋭さよ

払えば叉も寄せ来たり 寄すれば叉も切りまくり 剛は鬼神を挫けども 我の寡勢を如何にせん

運命何れ生か死か ここを先途と鞭ふるい 奮迅敵の中堅に 活路(みち)を求めてかけ込ます

譜代恩顧の将卒ら 国家(くに)の存亡この時と 鎬(しのぎ)をけずる鬨(とき)の声 天にとどろき地にふるう

篠を束(つか)ねて降る雨に 横たう屍湧く血潮 風なまぐさく吹き巻きて 修羅の巷のそれなれや

薙げど仆(たお)せど敵兵の 重なり来たる烏頭坂 たばしる矢玉音凄く 危機は刻々迫るなり

骸も染みて猩々緋 御盾となりし豊久を見るや敵兵且つ勇み 群り寄する足速し

賜いし御旗ふりかざし 阿多長寿院駈け入りて 兵庫入道最期ぞと 名乗る雄々しき老いの果て

欺かれたる悔しさに 息をもつかず忠吉ら くつわ並べて追い来しが 返す我が余威また猛し

牧田川添いひと筋に 行く行く敵をけちらして 駒野峠の夜にまぎれ 伊勢路さしてぞおち給う

献策遂に容れられず 六十余年の生涯に 始めて不覚をとらしたる 公の無念や嗚呼如何に

興亡すべて夢なれど 敵に背(そびら)を見せざりし 壮烈無比の薩摩武士 誉は永久に匂うなり

無心の蔓草(つるくさ)今もなお 勇士の血潮に茂るらん 仰げば月色縹渺(ひょうびょう)と うたた往時のなつかしや

島津的にも悪ければ小早川的にも悪い話って言うか歌でしょうか?
でも、武士をしのんで歌ったのでいい話(歌)かもしれませんね
長文失礼しました(_ _)





437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 00:10:57.70 ID:sgrQgA4S
すんません、おバカ用に三行でお願いします

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 00:29:03.79 ID:fqpql2FA
歌が
いっ
ぱい

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 01:08:39.19 ID:v/0/cc88
>>437
ざっくり要約すると、

・暗雲雷雨の中、大勢力と名だたる将を繰り出し攻めてくる悪の帝国(東軍)。
・恩義ある西軍についた大正義島津軍は、待ち伏せなどを駆使して勇戦したが、醜い小早川の裏切りと
兵の少なさのせいで劣勢に。
・負けたのは卑劣な裏切りと、兵数と、上が献策入れなかったせいであって、本当は薩摩島津は最高だぜ。

という負けず嫌いな歌。

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 01:16:24.48 ID:xJ8MUZx2
妙円寺参りは歴史があるけど、家康と呼び捨てにしている歌なんて
本当に幕府時代に歌ってたんだろうか

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 04:59:46.57 ID:EdqBg3KP
諱を呼び捨てって敵でもなければしなさそう
討幕軍時代のなのかな

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 06:22:22.94 ID:p9ppFA2P
妙円寺参りに関して悪い話をしよう
地元民の学徒は半強制で休日に20Km歩かされる為、敵中突破に関して冷めた史観を持つ
鎧武者役で20Km歩かされる地元青年団等に関しては敵中突破を憎んですらいる
参加者はスタート地点の市内まで電車が無料の為、逃亡兵が続出する
名前は妙円寺参りだが実は20m手前の徳重神社にお参りする行事です
マジで行事期間中に妙円寺まで来る人が皆無な為に坊さんが嘆いてます
平時の妙円寺近辺の道は人気の無い通学路でもあり、学生カップルの間では愛のメモリアルロードと呼ばれている

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 06:38:40.59 ID:y5v3wUby
>>441
まあ正直この漢文調は明治っぽいなw

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 07:11:58.87 ID:DDGd8F14
20kmぐらいたいしたことないだろ。
うちの高校は深夜40km遠足とかしてたぞ。

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 08:22:11.82 ID:3/kCtAhC
レプリカとはいえ鎧兜の二本差しに慣れないわらじ履きと、体操服に運動靴を一緒にしたらアカンやろ

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 08:31:15.68 ID:EdqBg3KP
時代錯誤の脳筋イベントってどこでも強制なんだな

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 08:39:31.61 ID:FIWQzZP1
え、あれ先祖が藩士でないとハブられるつーて鹿児島出身の上司から聞いたぞ。


448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 11:45:20.12 ID:GScqVlj0
かといって他のイベントは・・・唐入りは論外だし熊撃ちとか戸次川はカドが立つしな。ところで倍の戦力あれば
勝てたと思うのは俺だけか?

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 11:49:49.20 ID:O9fMlMRX
当時の足軽の装備は全部で重さ30kgぐらいあったって聞いた事があるが
鍛えているわけでもない今の学生にその装備で20km歩かせたら途中で死者が出そうだ

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 12:22:26.62 ID:fMMLMDR5
>>446
当然だろ、強制じゃなかったら誰がやるんだ
何が悲しくて御影から宝塚まで山道歩かにゃならんねん

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 12:35:09.53 ID:lz/kR7iX
>>448
無理だな。島津が倍になったところで石田や大谷隊が抜かれたら状況は変わらないし
西軍全体が倍になった場合東軍に内応する数も倍になるw


452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 12:49:21.04 ID:cgbjz+VP
さすがに西軍全体が倍になったら内応をやめる奴が出そうな気がするw
てか宇喜多が倍なら福島を跳ね返しちゃうんじゃね。

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 12:51:26.13 ID:5PkRQgiW
>>451
さすがに西軍全体…とかなった場合、
あまりの大勢力ぶりに内応出来ないという状況になりかねないけどな
まぁそんな事態を起こさないのが秀吉の遺訓とかガン無視して婚姻外交とか連発した、
家康の多数派工作の成果なんだけど

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 13:00:14.39 ID:b5ZbQWav
if…モノは結論が出ないことをgdgd語るから面白いんだけどな~

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 13:39:44.67 ID:AmQ/9jLT
>>444
うちの会社は中津城ゴールの100kmウォークに40歳以下の社員は強制参加させられるけどな

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 14:09:59.46 ID:p2kOJVnA
島津が大兵を抱えて参陣出来た場合、東西どっちにつくんだろ
つか維新入道は明らかに捨て城の伏見入城して何するつもりだったんだ

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 14:28:32.66 ID:vwjYPMKh
島津が大兵連れてきたら黒田と加藤に抑えられてTHE ENDぢゃね

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 16:34:18.30 ID:p9ppFA2P
>>456
西軍に付く→本国では黒田加藤と戦う為に兵力がいる→増援無理→関ヶ原は寡兵で頑張れ
東軍に付く→伏見城防衛しなきゃ死ぬ→増援は間に合わない→伏見城防衛は寡兵で頑張れ
正解は伏見城にいかずに大阪の人質救出して薩摩に帰り中立を保つ

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 16:50:47.43 ID:o+XPHyCH
島津は義弘の手勢で会津に行くつもりだったけど、出遅れて気づいたら周りはみんな敵になってた。で、とりあえず
伏見城に避難しようと思ったら鳥居元忠に追い帰された。

五千、一万の大軍だったら西軍も簡単には手出し出来ないから、そのまま会津に行ったんじゃない?

島津義弘の妻宰相殿

2011年10月19日 22:02

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/18(火) 22:47:51.20 ID:pfcAesF5
島津義弘の妻宰相殿は若い頃、あかしと呼ばれていた。
あかしが家の前で大根を洗っていると、鷹狩中の義弘が通りかかった。
義弘はあかしに「その大根をくれ」と話しかけた。
あかしは義弘の顔を知らないため義弘だと気付かなかったがただ者ではないと思い
脇に置いてあった菅笠を取り、被る方ではなく上の部分を凹ませ
そこに大根を乗せ義弘に差し出した(被る方にしなかったのは失礼だと思ったため)。
このさりげない優しさに感動した義弘は、
島津家より遥かに家格の低い家出身のあかしを正室として迎え入れた。

『盛香集』より




158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 00:01:15.72 ID:VxGL+uyc
鰯で恋に落ちたナベシマンといい、
男のハートは胃袋に隣接しすぎww

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 00:06:59.75 ID:c/frY2zZ
島津歳久も年上で身分違いの女性と結婚してなかったっけ?
あと義久の最初の妻は伯母

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 01:55:22.75 ID:LSkHHtMc
>>159
しかも義久の二番目の妻は従姉妹じゃなかったっけ
島津はなんか血縁近い結婚多いのだろうか

悪家久もいとこ婚だよなあ

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 02:13:31.23 ID:/Wl1gmcv
いとこ婚くらいは、中世日本なら上から下まで普通のこと
さすがに伯父伯母は珍しいけどな

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 06:38:36.56 ID:ZFV9D1dm
現代でもたまにあるな
前の総理とか

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 06:50:02.42 ID:FAVBohdD
>>161
伊達成実の父は伊達家14代伊達稙宗の3男伊達実元、母は父の兄である15代伊達晴宗の娘で、
妻は晴宗の娘と二階堂盛義に生まれた娘で、二階堂盛義の母も伊達稙宗の娘ですが。

ああややこしいw




164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 09:39:33.51 ID:wx3iGtPV
>>163
そんなにややこしいのはレアケースだw

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 09:40:20.96 ID:5rHefL28
よくわかんないけど、すごいインブリードだってことは理解した

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 11:24:58.44 ID:vQLvaafl
東北は みーんな親戚みたいなもんだからなぁ

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 12:02:47.65 ID:kRoMtUgJ
つか大名は腹違いとか多いのを考慮しないと血縁(兄弟)関係を濃く見積もり過ぎてしまうかも

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 20:33:13.16 ID:u0Hgmgbh
>>157
良い話なんだけど、鷹狩り中になぜ大根なんて欲しがったのかわからないw
大根は口実で、一目惚れして話しかけてみたかっただけだろ絶対w

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 20:43:07.98 ID:dtNycMRs
>>173
 なんと声をかけていいか判らずとりあえず近づいてから咄嗟に出た言葉が
「その大根をくれ」だった?

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 20:43:35.68 ID:XgThtTCL
>>173
『今夜もまたお前を夢をみたよ…まさに今、この場で出会ったようだった』
って唐入り中の手紙の追伸に書くくらいだもんな

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 21:17:30.48 ID:u0Hgmgbh
>>174
「その大根をくれ」で菅笠から受け取ったものの、扱いに困って
鬼島津「の、喉が乾いておったのだ有難い」ボリボリボリボリ
あかし「・・・お待ちくださいませ、すぐに水をお持ちいたします」←家の真ん前

なにその萌え島津

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 10:03:50.20 ID:gOh7RepR
>>158
亀レスだが…。
「手づくりの肉じゃがでイチコロ」と似たようなものか。
九州の男は純情なのか、はたまた単純なだけなのか…。

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 10:32:59.71 ID:IpsKCk5f
良い方に受け取ってやろうぜ

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/22(土) 12:37:17.04 ID:CUTbNDTb
九州男児は女性が強いとダメなんだよ。
立花さんとか悪久さんとかさ。

島津義弘「過去の事を槍玉に挙げて、窮地にある味方を見捨てたとあらば」

2011年06月26日 23:13

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 09:46:29.28 ID:legXsIAX
>>368

さっき遅めの朝食を取ってきました。
お腹が満たされたところでこんな逸話を。

朝鮮の役では補給が途絶えがちであり、 兵糧不足に悩まされることも度々であった。
慶長の折、五島氏の使いが「兵糧が幾らか不足しており、分けて頂きたい」と島津義弘の陣を訪れた。

兵糧不足はどこも同じであり、五島氏の使いが方々で断られていたことを家臣達は知っていたので
「お気の毒ですが断るしかありますまい」という意見が大勢であった。これに対し義弘は
「他家へ使者を出すということは余程兵糧に困っているのであろう。その困窮は『幾らか』どころではあるまい。
 当家の兵糧も些か心もとないが、コメの一粒も余裕がないわけではなかろう」
といったが家臣たちは承服しがたい様子。
島津家が秀吉に九州制覇の野望を挫かれたに対し、
五島氏は即座に秀吉に属し本領を安堵されていたことも関連していたかもしれない。

だが義弘は続けた。
「かの家と当家はいきさつこそ違えど、今は供に太閤殿下の下で戦う間柄ではないか。
 過去の事を槍玉に挙げて、窮地にある味方を見捨てたとあらば、今後当家と友誼を結ぼうとする者はおるまいぞ。」

この言葉に承服した家臣に重ねて義弘は命じた。
「少しでもよい、分けて進ぜるように」
そこで兵一人あたりの一食の量を少しづつ削ることで兵糧を工面し、五島氏の陣へ届けさせた。

「過去に拘って今の味方に仇をなすな」と五島氏を助けた義弘が
後の関ヶ原で立花宗茂に同じような言葉で救われていることを思うと
いろいろ考えさせられる逸話です。




371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 13:21:11.46 ID:c5tRMKNJ
情けは人のためならず

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 16:37:06.31 ID:Lb+cSQ1C
>>369
島津の情けある行為は、朝鮮在陣の諸将の間で評判になったはず。
当然、完璧超人の耳にも届き、記憶に残る。
これが関ヶ原後の、親の仇は過去のこと、今は味方の島津を助けよ
につながるんだろうね。

島津退き口と落ち武者狩り

2011年06月22日 23:34

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 07:25:48.90 ID:Uoilh+uy
慶長5年(1600)9月15日の夕暮れ、薩摩武士・帖佐彦左衛門宗辰は、関が原からの脱出に成功した島津義弘の命を受け、
郎党五、六人を連れて食料調達に向かった。
道中の村で五十人ほどの食事の用意を頼んでみた宗辰に、村長は快く準備を引き受けてくれた。

ひとまず安心した宗辰は、東軍の追っ手を警戒して村を巡回していたが、ある一軒家に多くの村人が集まって何事か
相談しているのを発見した。
「……宵の内か…明け方か………」などと話しているのは聞こえたが、それ以上は聞き取れない。
そこで、物見の術に秀でた郎党の大町余市に密かに聞き取らせたところ、恐るべき事を相談している事が判明した。


明智光秀・穴山梅雪の命を奪い、徳川家康をも危難に陥れた、畿内の落ち武者狩りである。


平静を装いつつ宗辰は村長に「仲間が遅れているので見てくる」と言い、愛馬を引いて郎党を連れ、村外に出た。
一町ほど進むと、宗辰に気づかなかったのか、それとも違和感を感じたのか、はるか前方に義弘一行の姿が見える。
これはいかんと馬に飛び乗った瞬間、「逃すな!」「討て討て!」と、村人たちがどこからか現れ、襲ってきた。


宗辰は必死で太刀を振るい道を切り開いたが、徒歩の郎党たちは次第に宗辰に遅れ、最後に宗辰が振り返った時には
村人に捕らえられ、袋叩きに会っていた。
(すまぬ……すまぬ!!)見捨てざるを得なかった郎党に詫びながら駆け続けた宗辰は、義弘一行に追いついた。

関が原の陣に十人の郎党を率いて参戦した宗辰だが、乱戦の中で三人が死亡、続く落ち武者狩りで五人が死亡、
残る二人も行方不明となり、薩摩に帰国できたのは宗辰一人だけだったという。
(旧記雑録より)


戦史に残る撤退戦を切り抜け、島津家が武名を高めた陰で、多くの名も無き侍たちが散った、そんな話。




732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 16:14:34.36 ID:yQpav8Tb
>>729
過酷な話やの。
負けた側は辛いわ。

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 17:33:05.53 ID:McSMcLKg
50人分用意しろって言ったのがまずかったな
1000人分とか言っておけばよかったかもしれん
少人数なのがばれた

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 20:08:12.79 ID:bSqxA0UK
千人分も用意できんじゃろ
断られてしまうわな
下手したら周囲の村と協調されて、それこそ殲滅されかねん

まあ、不馴れな土地での調達には危険が伴うわな
ましてや、ゲリラの村みたいな処なんだし

島津義弘、夜空を見上げて

2011年04月30日 00:01

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 19:03:04.08 ID:MF38ldLN
>>273

その頃、忠恒さんの実家では…

島津義弘は天文にも造詣が深く、時折自邸から夜空を見上げていたのだが、
ある時、ふとつぶやいた。
「ああ、大坂城の命、旦夕に迫る」

大坂城の落城を星を観て知ったのである。
さらに小姓を顧みて深く嘆いたそうな。
「もし自分が城中にあったなら・・・」

義弘さん、大坂城に入る気満々だったのか、入ったらどうするつもりだったのか…


まあ、この大坂の陣の頃の島津家の行動を見てると創作の疑いが濃い逸話ですが、
(まず、こんなヤバイ発言は記録に残せないと思う)
秀頼と幸村の薩摩での存命説といい、この逸話といい「島津ならこのくらいはやりかねん」
と世間から思われていたのかもしれません。




277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 20:39:39.24 ID:uykut7S6
秀頼の存命説もあるよね☆


278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 20:42:56.56 ID:wFm5oINr
星を観て運命を読むとかw
三国志の読みすぎです

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 20:57:31.97 ID:6S7LDyF3
三国志をマンガみたいに言うんじゃねえw


280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:11:37.41 ID:XZYgntNR
やー、三国志演義読んでる戦国武将はいても、三国志読んでる戦国武将はいないんじゃね?
そもそも日本に入ってたのか?

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:22:45.34 ID:tqOJ4im5
>>276
義弘「ああ、大坂城の命、旦夕に迫る」

小姓「大殿、まことにございますか。(まーた呆けてアホな事言ってるわ・・・)」

義弘「もし自分が城中にあったなら・・・」

小姓「大殿がいれば徳川勢など蹴散らすのは容易でございましょう(1人で飯も満足に食えないのに大坂城にいても足手まといになるだけだろ・・・)」

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:34:08.44 ID:HsCO0D+4
>>280
一般に知られていたかはともかく、三国志自体は8世紀には伝来してきてる。
むしろ江戸初期にようやく記録が増えだした三国志演義の方が読んでるかすごく微妙

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:47:10.40 ID:dKG3VviG
>>280
信長が姉川合戦の時、本多平八の活躍を「張飛のようだ」と称えた伝説があるな。
江戸時代に作られた話のような気もするが・・

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:49:49.34 ID:DxZW69P/
武士は(世界中の戦士階級に見られる傾向だが)かなり縁起担ぎを気にした。
後世だと作戦参謀だと思われる軍師も、実際は占い師みたいなもんだったし。
多少は星読みとかの素養があってもおかしくはないと思うが。

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 22:08:52.85 ID:tAmUvmZK
>>284
一方迷信を打破するため鳩を撃ち殺した晴信



鳩かわいそう・・・

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 22:11:30.97 ID:9cHOwgF8
竹中半兵衛の息子が「豊鑑」で、半兵衛の死について
「秀吉限りなくかなしび 劉備(or劉禅)孔明を失ひしにことならず」
って書いてなかったっけ

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 23:02:31.55 ID:PCnNMvEP
>>288
重門かよw

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 00:19:07.17 ID:iQew9bV8
>>284
星ではないが、天正10年2月14日に近畿地方を中心に東の夜空が赤焼けするという気象現象がおこった。
それを見た奈良の僧侶は「その空の赤焼けは信濃浅間山が焼けたのが原因だ。浅間山が焼けたら信濃・
甲斐が滅びるという故事がある。」と記した(多聞院日記)。
一方で、信長も同様の感想を持ったようで「これは武田が滅びるという吉兆だ」と喜んだようだ(立入隆佐
日記)。

そして、4月22日今度は彗星が現れ安土山に落下した(フロイス日本史)。修道僧はこれは何か不吉な前兆
であると噂したという。


292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 01:15:08.30 ID:ihc9jMRm
>>276
てか、義弘さんってそこまで豊臣政権に思い入れないだろうかと・・・

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 03:02:06.30 ID:xbzwM9Xw
四兄弟の中でトキ役の義弘に死兆星が見えても不思議では無い

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 08:25:09.79 ID:ucQQnyCT
島津家ではきれいなジャギ様


295 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/30(土) 09:56:28.92 ID:onIA688L
拳王様は引きこもり・・・

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 12:39:19.71 ID:1Uup/6jv
末弟がキリングマシーンなのは同じだな

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 12:59:25.63 ID:Vb/lN7H7
>>294
死に方が「うわらばっ」な気も

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 13:00:24.95 ID:2At0Z2B4
この海のリハクの目をもってしてもすてがまりとは読めなんだ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 02:46:07.62 ID:heuk8b7p
島津百裂剣はヤバい

島津の退き口のわけ

2011年01月20日 00:01

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/18(火) 23:45:10 ID:3bCKS5bK
いい悪いどっちにしようか迷った島津義弘の話。


島津の退き口のわけ

島津の勇名を天下に知らしめた、関ヶ原の「島津の退き口」
敵中を“前に向かって退いて”関ヶ原を縦断し、伊勢街道に抜けたわけだが、
このルートを選んだのは以下の理由からだと言われている。

第一に、戦局に寄与せずただ撤退するのは、島津家の面目が許さなかったこと。
第二に、天満山を背に布陣していた島津軍が北(北国街道)や西(中山道)に
向かおうとすると山を登らねばならず、このとき65歳でかなり肥満していた
島津義弘が、山登りを面倒くさがったこと。




438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 00:58:11 ID:Noof9hdA
個人的には先に崩れた石田・小西・宇喜多・大谷隊の兵士で溢れかえっていて
事実上殿になって撤退どころではなく手薄な伊勢街道に抜けるのが敵の意表もついて
最も合理的だったと考えている

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 01:04:50 ID:KXjjqLfZ
ってか輿に乗ってるんだから山登りめんどくさいとか関係ないのでは?

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 01:06:14 ID:OzGs+Brm
めんどくさいで家老含む数多の勇者をすり潰したのならちょっと悪いじゃねぇな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 01:11:23 ID:/Cs2bbU3
まあ個人的には戦場に取り残されて敵の薄いところを選んで移動していたら、
結果的に中央突破っぽくなった、と思ってる。

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 01:23:59 ID:bxu/GW0W
>>440
全員志願兵だから文句は言えない

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 02:08:42 ID:yX8hlm7U
まあ個人的にはやけくそだったであろうと考える。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 02:12:21 ID:QH2gKQ2y
まあ個人的には1500人で中央突破出来るなら
1万人で家康の首取れたと思う

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 03:11:37 ID:nhzlIoLa
>>444
島津のは中央突破などという撤退行動ではなく、端的に壊滅、壊乱と呼ぶべき状況。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 03:18:47 ID:eotCypAf
戦国時代全体で見ても大名の首取った事例なんて数えるほどしかないのに
そこまで都合のいい思考をできる444に乾杯

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 03:28:43 ID:lc3Vo/pG
その少ない例の家久の繋がりの野郎どもだから期待したくなっちゃうんじゃない?
確か燃え萌え戦国武将対決!鍋島直茂VS島津家久って番組で言ってた

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 03:48:11 ID:bxu/GW0W
1500しかいなかったから、東軍外様勢と徳川先鋒の隙間をすり抜けることが出来た
1万もいたら、黒田なり福島なりと正面衝突してるよ

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 05:00:33 ID:2LZG+p4J
どうでもいい事だけど1500人じゃなくて300人

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 06:52:17 ID:/j0WTPoF
逃げる途中に、馬をつぶして食ったとき「殿を担ぐ雑兵の分が先で、殿に食わせる分はない」と
義弘の分の馬肉を奪い取った雑兵がいたそうだし
やっぱり太ってて居たのもさることながら、雑兵の負担を考えて山登りルートを避けたのもあると思いたいなあ

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 12:26:31 ID:N4EeK6Fi
吉川広家書状という一次資料などから、島津は三千なのが事実

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 18:57:15 ID:aaeKndE5
少数精鋭の突撃には弱い事で定評のある徳川

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 19:00:38 ID:nhzlIoLa
>>452
つーかいわゆる「関ヶ原退き陣」で島津はたしかに家康本陣と遭遇したが、
堂々と突破したとかではなく、東軍のふりをしてコソコソ通り過ぎただけだぞ。
そもそも島津の記録にそう書いてある。

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 19:40:06 ID:M81Z+1fL
>>452
だって小牧長久手から16年もブランクあるし……
島津なんてつい2年前まで朝鮮でドツキ合ってたんだし仕方ないよ(´・ω・`)

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 20:27:44 ID:N4EeK6Fi
>>452
天王寺の戦いも実際は豊臣方は家康本陣にすらたどり着いていない可能性がある

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 21:17:57 ID:ZyeoQhJl
>>450
それって中馬だろw
前そんな逸話がここに投稿されてた

中馬を「ちゅうま」だとばっか思ってたのは良い思い出

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 21:44:57 ID:OzGs+Brm
>>455
普通にたどり着いてないよ。本陣に一切損害ねーもんw
まぁ物語やからね

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 22:28:01 ID:1htvNvph
>>457
大久保彦左衛門がなんかかいてなかったっけか

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 22:35:18 ID:ZyeoQhJl
>>461
それは陣を下げた、いや、下げてないってことじゃなかったか?
旗が立ってた、立ってなかったうんぬんだったかもしれないが
とにかく彦左衛門が言いたかったのは「最近ワシら老臣に冷たくない?」ってことだろ

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 22:36:36 ID:N4EeK6Fi
>>461
あれは後退する際に旗を乱したという話だからなぁ

山城・大和国境の怪しい集団と文右衛門

2010年12月15日 00:02

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 00:58:16 ID:S1SBfOqb
慶長5年(1600)、9月19日頃のことか。
山城と大和の国境あたりのことであったようだ、

そこに文右衛門(又右衛門とも)と言う男がいた。年の頃40ほど。髪や髭に白いものが混じり始めた。
大小の刀にさらに鉈を差して山の中に入った。
そこに

「あっ!?」

50人ほどの集団がいた。衣服も垢や埃にまみれ、皆疲れきっているようだ。
そのうちの一人が文右衛門に声をかけてきた

「やあやあ、我々は全く怪しくない者たちなのだが、君はこのへんの地理に詳しいかな?」

怪しい。露骨にあやしすぎる。むしろ怪しさが人の形をとって集まったような集団である。
文右衛門もこのような連中に関わりたくはなかっただろう。
が、人が良かったのか

「え、ええまあ、このへんに住んでいるものですから…」

つい言ってしまった。
怪しい集団の目が、光った

「で、では、泉州の堺まで出る道を知っておるか!?」
「は、はあ。まあ一応…」
「よし、堺まで案内をいたせ!」

ちょっと待ってほしい。文右衛門は思った。このような怪しい連中、どうせまっとうな集団ではあるまい。
これ以上こいつらに関わると、後々どんな目に合うか知れたものではない。

「そ、それがその、私はこの先に妻子を待たせており、急いでおります。案内はどうか他のものに…」

と、集団の横をすり抜けようとした。そこで腕を掴まれる。
数人が襲いかかり気が付けば道に抑えこまれ、大小の刀も奪い取られた。
そして集団の中の一人がにこやかに、強い訛りのある声でいう

「案内せんなら、おはんの命ここで奪いもす。そいどん案内するなら、過分の礼をしもんそ。」

目が本気だ。
文右衛門は致し方なく彼らの要求を受諾。堺まで案内した。
堺まで到着するとこの集団は文右衛門を開放。約束通り多くの銀子を与えられた。

後でわかったことだがこの集団、関ヶ原より退却中の、島津義弘の一団だったそうである。

そんな、島津義弘関ヶ原退き口のヒトコマ。




島津義弘さん、愚痴る

2010年11月23日 00:00

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 23:13:57 ID:djmKJfZM
義弘さん、愚痴る


天正19年(1591)、上方の島津義弘より、国元の家老、鎌田政近宛書状より

『もうね、困ってるの。

今の世の中で国持の大名といえば、まず毛利殿に徳川殿、その次くらいに来るのが
我らが島津家なんだよ。世間ではそのくらいの認識なんだ!なのに…、
上方でその島津家が関白様(秀吉)の御用のお役に立つことは、一つもないんだ!
何故か!?

例えばどこかの国で一揆が起こったとしよう。
我ら島津家がその鎮圧の先手(先鋒)に加えてもらおうとしても、無理なんだ!
軍勢が無いから!

では、先手は無理でも関白様のお側を守るお役目に加えていただいてはどうだろう?
それも、無理。
今俺がこの上方で率いられる騎馬武者、数人だけ。
わずか数人でどの面下げて

『これが日本有数の大名、島津の人数でございますー!』

って言えると思う!?

先手できない、お側も守れない。じゃあ御前向きの御咄衆の役でもするのかといえば、
…まあ、解っていると思うが、無理だ。
さらに人数が無いから御普請のお役も出来ない。
なあ?こんな公儀に対し何に役にも立たない家、長く持たせる事が出来ると思う?

我が島津家の家士は、京大阪を往復するときの、5騎・3騎の供衆さえ、槍を1本持っているだけという
体たらくなんだ。同じ九州の大名である龍造寺、鍋島、立花、伊東達にも劣っている有様なんだぞ!
言語道断、沙汰の限りとはこの事だ!

今の京の島津家がどういう立場か言ってみよう。

関白様に対し何の忠義もなく。人並みの振る舞いも出来ず、他所に優れているのは
借銀(借金)の額だけ。

もう、露ほどの希望もないよ…』


島津義弘、上方で深刻な絶望感に浸る。と言うお話。




695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 23:28:35 ID:G+XKskO8
そのグダグダさのおかげで関ヶ原で減封も無く生き延びれたんだから
おにいちゃんに感謝してもらいたいなっ

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 23:37:43 ID:JyqEQqUU
意図的に派兵してなかったのかそれとも出来なかったのか…

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 03:04:28 ID:d5Oy4Pni
>>697
伊集院の反乱と朝鮮討伐で本当に苦しい財政状況


699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 08:55:20 ID:Gsk9phxT
つまり悪久の伊集院忠棟謀殺はそこまで見通した苦肉の策だったんだな。



なわけないか。

1600年、伊賀山中にて

2010年10月25日 00:02

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 21:51:53 ID:AO20nKeJ
昨日は関ヶ原合戦の日だったのですね。
ではこんな話を。

敵中突破を果たした後の島津義弘一行は伊勢から近江へと向かっていた。
但し、街道を堂々と行くわけではない。山中に潜みながら慎重に進んでいたのだが
運悪く途中で僧体風の男とばったり出くわしてしまった。

これはいかん、正体を偽るべきか、あやしげな素振りを見せれば口を封じるか、
物騒な雰囲気の中、一行の中から後醍院喜兵衛宗重が進み出て大声で告げた。

「あいや御坊、これより東軍へ行って告げられよ。
 こちらにおわすは島津兵庫頭、戦いに利あらずして本国へ引き上げるものである。
 されど決して遁走するのではないぞと申してくれよ」

馬鹿正直に正体を明かしたばかりかそのまま通してしまったのである。
これに周りの面々は大激怒。

「いま殿が難儀にあって潜行しようというのにわざわざ正体を明かすとは
 なんと馬鹿なことを!」

これに宗重答えて曰く
「卑怯なことを申されるな、わが殿は必死を帰して生存の御志はないのだ。
 この上は草葉の蔭まで名を残すのが薩摩武士というものぞ。」

義弘も宗重の言を良としたが、敵の捜索の手が迫っている最中である。
一行の言い争いを納めさせるとスタコラ山中を進み始めたとさ。

410年前の伊賀山中での会話でした。




薩摩、禁煙のお触れに

2010年09月26日 00:01

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 23:41:20 ID:A46wgv94
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4659.html
の通り一時期、薩摩では禁煙のお触れが出されたわけですが、それについての首脳陣↓


島津忠恒(家久)は、父・義弘に怒りをブチまけた。

「こないだ鎌田左京を通じて伝えたけど、タバコ吸ってた侍は知行召し上げだからな?皆によーく言っといてくれよ!?
話によると、比志島宮内とか鎌田又七郎みたいな上士も吸ってるんだとか。シャレになんねーから!
そんなだから鹿児島城中の女房衆まで平気でプカプカやってんだよ。とにかく、言ってもやめないヤツは重罪人な!?」
(をしいたしのミ候者ハ、深々敷キ罪人にて候)

義弘も、これに答えた。
「そっち(江戸)じゃ、タバコが大流行だとかで、おまえも煙の臭いで大変だろう。まぁ他国の人がどうだろうと、
こっちじゃ歴々に起請文まで出させたし、「流行りだから」とか「みんなやってるから」って薩摩では許さんもんね。」
(自然世上ニはやり候とて(略)、其科遁間敷由)



薩摩の禁煙令、わりと殿様の好みと、おじいちゃんの「近ごろの若いモンは・・・」に左右されてたという話。
まあ正直なところ、禁令の効果はほとんどなかったわけですがw

♪花は霧島 タバコは国分 燃えて上がるは おはらハァ桜島~ ハーヨイヨイヨイヤサット (・∀・)y─┛~~





慶長11年(1606)2月、島津義弘から島津忠恒あて書状

2010年09月26日 00:01

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 23:42:12 ID:A46wgv94
おまけ、というか蛇足

慶長11年(1606)2月、島津義弘から島津忠恒あて書状

“一、江戸からの帰り道、よく京に立ち寄ってるみたいだけど、みんな「何事か」と心配するので、京・伏見でムダな
日数過ごさず、まっすぐ帰って来なさい。

一、江戸城へ登城するのに、ワシらみたいな田舎者が上方武士の真似しても見苦しいだけです。
田舎者は田舎者らしくしてりゃいいんです。

一、新将軍(秀忠)は酒がキライと聞きました。おまえ、江戸・京で(いつもみたく)呑みすぎるんじゃありませんよ?
公家衆の寄り合いなんぞに誘われてノコノコ出かけるとか、もっての他ですよ?

一、家督を継いだ時は、「右も左も分からんだろうから奉行衆に任せて、おまえはあちこちに顔出せ」と言いました。
でも、おまえももういい年(31歳)なんだから、政治向きは細かい所も自分で直接、携わりなさい。

一、噂によると去年、江戸城で御前能があった時、おまえは能に心奪われて役者のマネして踊りだし、それが
諸侯に喜ばれたと聞きます。
だからって、それは素人芸がたまたまウケただけで、おまえが舞の稽古にうつつを抜かす理由にはならんから!
そんなこと毎日続けてれば、乱のもとですよ!?”



・・・で結局、忠恒さんは公家衆と遊びまくって蹴鞠の免許をもらい、上方でカッコつけて三歳様あたりに笑われ、
酒癖が直らず、いろいろ任された伊勢貞昌のストレスがマッハで過労死しかけるのでした。

悪久様、オヤジの言うこと聞かん人が禁令出しても聞く耳持つ人いないと思うのですが・・・





274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 23:46:42 ID:PZFUOW8f
お小言うるさいねw
姑みたいな義弘w

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 23:50:16 ID:2HVMNf9m
と、息子をあしらいつつもやはり義弘さんは格が違っていたw
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1978.html

「壮絶!薩摩拳」

2010年08月15日 00:00

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/14(土) 03:55:30 ID:PTk54TSO
九州ネタがきてるので逸話とは言えんが便乗して
「壮絶!薩摩拳」
それは島津義弘が朝鮮にて編み出し帰国後に広めたと言われている
朝鮮での義弘と言えば石曼子の二つ名や7匹の猫が有名だが
薩摩拳もまた義弘の武勇伝の一つに数えられよう
時に素人が軽い気持ちで薩摩拳に手を出すと死ぬとも言われている
さて、その薩摩拳とは如何なるものなのか
史料によると
対戦者は向かいあい
お互いにカズトリ(10cmの棒)を3つ持ち
幾つかを拳に隠して握りしめ
両者はお互いに握りしめた棒の合計の言い当てっこをします
負けた方は焼酎を一気飲みします
勝った方も「花」と称して献杯したりします
とりあえず最後まで立ってた方が勝者だと思われます
開祖の島津義弘は薩摩拳の達人だったと言われている
この時季は酒の席等多くなりますが気をつけましょう
そんな島津の悪い話
地元ではナンコ拳と言われ
同好会による公式戦もあるみたい




448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/14(土) 07:06:44 ID:HnIespnj
越後の軍神がアップを始めました


449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/14(土) 07:32:38 ID:hNwBdV6U
>>447
現在でもやってるよね
テレビで見た事あるかもw
漫画かなんかでも見たかも
でも勝ったほうも飲む事があるとは知らなんだ
数当て関係ねー!w

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/14(土) 09:07:06 ID:ps7uHkIG
>>447
土佐の箸拳みたいだ

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/14(土) 10:03:42 ID:CFA40ydq
>>447
名前見て薩摩に伝わる武術か何かかな?と思ったらw

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/14(土) 13:48:26 ID:0UrzsTXH
>>453
朝鮮で大暴れした島津が、朝鮮で薩摩拳という凄いモノを体得してきたらしい
とか向うで騒いだら面白いことになりそうな気もするが
てか数当てで献杯って、大陸では昔からあった気がするけど国内ではなかったのかなあ

「鬼石曼子」の独白

2010年05月17日 00:04

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/16(日) 14:05:58 ID:EUKL1v67
「…オレはありがたい事に、名君・義久公の実弟として生まれ、ガキの頃に自分から進んで戦場に身を置いた。
(予、辱(かたじけな)くも義久公之舎弟と為り、少之時自ずから身を弓箭之事に委ねる。)

わが島津家が、始めは周囲の国を懐柔してきたが、後に関係が危うくなり、他家と対峙せざるを得なかったからだ。
主命を奉じてからは、幾度も危険な山野を駆け抜け、数十年の間、まともな屋根のある家で休む事は少なかった。

おかげで東に戦い、西を討ち、日本国中を甲冑を着て巡り、ついには数年間、朝鮮にまで足を運んだ。
しかし、そうしてオレが敵を斬り、功を立てた事により、今の世に及び天下泰平、国家安寧の時を迎えたのは、
オレにとって実に生前の本懐、死後の名誉ではある。」



島津惟新入道義弘、「鬼石曼子」と呼ばれた猛将晩年の、自信に満ちた独白である。



967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/16(日) 14:34:41 ID:Whm/VX48
辞世の句はなんか寂しいのになぁ

『鬼石曼子』誕生秘話

2010年01月11日 00:16

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/09(土) 23:10:05 ID:gpYi2DD+
朝鮮の陣も終わりに近い慶長3年(1598)10月初め、島津義弘率いる7千人が篭る泗川城は
明軍数万(一説に20万)に囲まれた。
義弘は城中を巡察して出撃を固く禁じ、門を固く閉ざし、鉄砲を撃つことさえも戒めた。
「よいか、弱きを装い敵を驕らしめ、その鋭気が衰えたところを討つのだ!」

明軍が城壁に取り付き始め、義弘が矢弾での応戦を許した頃、嫡子の忠恒がやって来た。
「父上、あれを!」二匹の狐が城中から走り出て、明軍の群がる中に消えて行った。

「人を恐れる狐でさえ、明軍を恐れぬ。あれこそ我ら島津の守護神、稲荷明神の使いが
反撃の時を示すものなり!」
そう言った忠恒は、みずから鉄砲を取って数人を撃ち殺した。その高揚に乗った兵によって
城門が開かれると忠恒は馬に飛び乗り、単騎駆け出した。

忠恒は敵を斬り伏せながら風の如く駆け抜け、丘に至って休息した。ようやく追いついた
近習たちは彼を諌めた。「軽々しく進んで士卒と功を争うのは、良将とは言えませんぞ!」
しかし、伊勢貞昌が血刀を振るっているのを見た忠恒は、
「あれを見ても、まだそんな事が言えるか!」と怒り、また百余人ほどの部隊に突き進んだ。

これに対し、明軍からは三人が同時に忠恒を襲った。忠恒は馬から飛び降りながら一人を
斬り殺して首を取り、残る二人を近習に追い払わせた。また馬に乗って進んだ忠恒は、
北郷三久が敵と組打ちをしているのに出くわし、この敵を斬り、その首を北郷の家臣に与え、
さらに攻め入った。
忠恒の武勇に奮い立った島津軍は敵3万余を討ち取って大勝利し、忠恒は都合7つの首を
取った。明軍が去った跡には、狐の死骸が残された。

義弘「つまりアレか、ただの野狐を神の使いと称して、大将みずから一騎駆けしたと。」
忠恒「・・・はっ。」
義弘「何が「はっ。」だ!軽率かつ危険なマネを・・・近習たちも、なぜ止めなんだ!?」

近習の一人、川上四郎兵衛が進み出た。
「お言葉ですが、その軽率によって全軍が一丸となって、勝利しました。その事を思えば、
忠恒様の行為、危険と言うに足りません。」
「むうぅ・・・よかろう、今回は許すが、厳重に叱り置くものである!」
「ははーッ!申し訳ござらん、父上!!」という、『鬼石曼子』誕生秘話。


豊久「そんな事言っちゃって、伯父上だって自身太刀を取って首を4つも・・・」
義弘「やめてよして、恥ずいからみんなには言わないで!!」←ホントに言った




580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/09(土) 23:44:51 ID:MY1ixghP
見事に話しのオチがついたなwww
可愛いよ鬼島津www

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/10(日) 02:48:56 ID:1x6AzRAj

>579 帰国したら、ぬこ神社を造営してお稲荷さんにもお礼の品を奉納するんですねー

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/10(日) 11:00:22 ID:UaxLXPd8
>>579
いいオチだw

でも義弘自身も若い頃は自分で突っ込んで鬼武蔵(善)にお説教されてるよね。
やっぱり血は争えないようで。

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/10(日) 14:59:05 ID:tbq43g4u
義弘は若い頃、川上久朗を犠牲にしてしまったからなあ…

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/10(日) 19:17:32 ID:aYszjBNH
>>583
実は義弘、豊久や鬼武蔵だけでなく中馬にも
「殿が陣頭で働いていては、我々は手柄が立てられません」
と遠まわしに諫言されてたりする。
自ら陣頭に立つ癖はなかなか直らなかったようで。

島津義弘の家臣北山内助が早退したいと言ってきた

2009年11月23日 00:10

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/22(日) 22:56:33 ID:PwaR6ekd
ある時、島津義弘の家臣北山内助が義弘に早退したいと言ってきた。

「なぜ早退するのだ。理由を言え」
「実は家の馬が病気でして」
「うまぁ?馬ごときで早退か!?」

義弘が笑うので内助は続けて言った。

「はい。馬は足の代わり、ご奉公に必要なものです。
それがしの家にいる蟻や蜘蛛が病気でも、それが貴方のお役に立つなら帰ります」
「ううむ、さような心掛けであるか」

義弘は納得した。




島津義弘、伊賀山中で、

2009年11月08日 00:13

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 15:07:24 ID:oDR7O8KT
関ヶ原の敗北により、島津義弘が逃走していたときの事である。

島津主従、伊賀山中において道に迷い、ついに進退窮まった。
ところが、ここで一人の老人が現れ、義弘らに道を教えた。このおかげで彼らは無事、
伊賀を抜けることが出来た。
義弘は老人に大変に感謝をし、彼に、十文字の紋の付いた猩々緋の羽織を与え、

「我らが無事に帰国したと聞いたら、これを持って薩摩に下ると良い。きっと褒美を取らすであろう。」

と、言い含めた。

さて、このような事があって義弘は薩摩に無事帰国したが、いつまでたっても
あの老人が薩摩に現れる事はなかった。
義弘と共に逃げ帰った者たちからも、だんだんとその事が忘れられた頃、
かねてから島津家の信仰の厚い、大隈の八幡宮の祭礼があり、そのため普段厳重に閉められている
宮の扉が開けられた。その社殿の中に、

あの時義弘が老人に与えた、羽織が置かれてあった。

これを見た人々皆、奇異の思いに打たれたと、伝わる。




179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 15:24:15 ID:y3lSEvBj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2328.html

↑の別バージョンか
どっちのオチも昔話っぽいな
個人的には義弘らしいと感じるけど

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 15:28:47 ID:4dhpskJb
狐に地蔵に八幡か
やたら神様に愛される気質だな義弘w

島津義弘、加治木の城下のお祭りで

2009年11月08日 00:12

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 21:36:10 ID:b7VJhgcZ
では義弘の話をもう一つ。

義弘が隠居後に近習と出掛けたとき、加治木の城下ではお祭りをしていた。
義弘の父、貴久に由来する鈴懸祭りという大層賑やかなお祭りである。

お殿様のお出掛けと聞いて、町の者達は一旦踊りや囃子を止めてお通ししようとしたが
義弘は「よいよい、そのまま続けよ」と町人達の踊りの中を馬で通り過ぎようとした。
だが、先導の者の馬が太鼓の音にビクついたのか前に進もうとしない。

これを見た義弘は苦笑して「先導のものは若輩ゆえ馬の扱いに馴れて居るまい。
誰か手本を見せてやれ」
左右を省みて年配の者達に先導を代わるよう命じた。
ところが年配の者達も馬を思うように扱えず、どうしても踊りの中を通る事が出来ない。
誰一人として馬を満足に扱えないのを見かねた義弘、ついに
「もう良い!わしがやる!」と言い出した。

これには近習たちも驚き「殿ももはや80近く。そのお年ではどんな怪我をするか分かりません。
どうかお止めください。」
と懇願したが「そこで見ておれ、わしが手本を見せてやる!」と言うが早いか先導の馬に乗り、
まるで無人の野を行くが如く踊りの中を通り過ぎてしまった。

これには町人も拍手喝采、近習たちも自分の主君に対する尊敬の念を新たにした。
だが義弘はこのことを誇るでもなく
「敵味方が喚きあい、矢唸りに鉄砲が鳴り響く戦場を往来するは武士として当然のことである。
 『治において乱を忘れず』じゃ。お前達も常々馬術や武芸の稽古に励むように」
と訓戒した。

このとき以降、加治木では馬術を競い合う「馬責め祭り」なる行事が行われるようになったとか。




182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 22:37:33 ID:VA4mkiHs
立花宗茂も島原の乱の時に、
今時の武士は平和ボケになってるみたいなこと言ってるから、
戦国を知る歴戦の猛者から見たら、
江戸初期の武士はたるんでるように見えたのかな

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 22:46:30 ID:y3lSEvBj
「責め祭り」だけ見てカナマラ祭みたいなのを妄想した俺を誰か責めてくれ…

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 23:36:02 ID:tcx4268f
>>183
貴殿には馬より△木馬が相応しいようじゃのう

朝鮮出兵と七匹の猫

2009年10月24日 00:06

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/23(金) 05:15:13 ID:d2zdxnm7
唐代の「酉陽雑俎」、江戸時代の「和訓栞」に書かれているように、中国日本では
猫の目、虹彩を見て時を計っていた。

鹿児島市郊外、薩摩藩島津家の別邸地跡磯庭園の森林の中を川が流れる広大な敷地の
一角に「猫神神社」がある。小さな鳥居をくぐると、両側に石灯籠があり、正面に
小さな石碑が鎮座している。
ここには、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍した猫たちが祀られているというのだ。
文禄慶長の役(1592~98)秀吉の命を受けて出征した島津家十七代義弘公の軍団に、
7匹の猫がお供をしたのだ。お役目は時を告げるため、まさに“陣中時計”だ。
7匹というところから想像すると、部隊同士で攻め込むタイミングを示し合わせるために、
それぞれが猫の目をのぞき込んだのではないだろうか…?
猫の瞳とがっちりと目を合わせて「それいくぞー、エイエイオー!」と出陣したとすると
すごいことだ。
このエピソードについては、当時書き残された確固たる資料は何もない。
言い伝えられてきたものを、後の時代になって書きとめたものだけである。
しかし、これは実際にあったことだと思いたくなるようないい話が残っているのだ。
7匹のうち生還した猫は2匹しかいなかった。そのうちの一匹は、義弘の二男久保に
可愛がられ、“ヤス”という名だった。白地に黄色の波紋があり、つい最近まで地元の
人たちは、この模様の猫をみんな“ヤス”と呼び敬ったというのだ。
そして、毎年6月10日の「時の日」には、鹿児島市の時計業組合の人たちが、
ヤスたち7匹の小さな霊をなぐさめるために、猫神神社にお参りするのだという。


ぬこ好き2ちゃの皆さんへちょっといい話。
島津義弘するか二男久保(ひさやす)にするかどっちだろ?




839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/23(金) 07:18:07 ID:QomoWYek
犯人はヤス

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/23(金) 08:36:54 ID:kAqN8Bpm
く…久保…

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/23(金) 17:03:11 ID:jeVF1/cc
>838
鍋島直茂どのが猫神人事やに供物を捧げるから堪忍して下さいと……