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一向他国の風を似せ申間敷

2021年10月24日 16:07

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/24(日) 13:40:41.53 ID:ennThT4i
島津義弘公は若い頃、寒中に生竹を枕元に置かれ、毎朝目覚めると同時にその生竹をひたと握って
剛毅の気象を養成されたそうである。公の御意にも

「他国の風に似せてはならない。人の身成は国の風儀である。軽薄な所に心を寄せてしまえば、
正直も大仰に成り行くものだ。」と仰せに成られた。また、かねがね御側衆に向かって

「郷談(他国風、都風の言葉遣いのことか)を使い、他国の風を真似る時節ともなってしまえば、
薩州は則ち弱くなるだろう。
今日の勢いに於いてはたちまちに郷談流行し、身内までも余所者のようになるだろう。」と仰せられた。

義弘公の時代には、「一向他国の風を似せ申間敷」旨、上洛する諸侍は誓紙を差し上げたということである。

軍神島津義弘公



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仁愛を以て衆を率いるに若かず

2021年10月20日 18:00

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/20(水) 17:08:03.84 ID:OZ7buXZc
ある時、島津忠恒公より、父・義弘公へ申し上げられた。

「当国の諸士は我儘であり、触れ渡した事であっても間々背いてしまいます。
最近、私は上方に上った折に、他国の風を聞き申した所に、福島左衛門大夫(正則)などは
背く者には死罪を用いている故に、何事を申し渡しても家中の皆々畏まって受け入れるそうです。
当国も見せしめとして二、三人も成敗申し付けてはいかがでしょうか。」
そのように御相談された。すると義弘公の御返答に

「尤もな事を申される。ではあるが、私は悪しき者を見出すほどの横目を持っていないので、
御身もよくよく気をつけて、そういう人物を見出すように。私も気をつけて見出すようにしよう。

さてまた、福島左衛門大夫の事を申されたが、彼はきっと一代にて家が断絶するだろう。
諸人に死罪を当てて恐れさせるよりも、先ず我が身の行いを正しくし、仁愛を以て衆を率いるに若かず。」
との御意であった。

軍神島津義弘公



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/21(木) 22:12:23.94 ID:OldyoVL2
>>703
父親の忠言などどこ吹く風だった忠恒の悪い話かな?

殿様、お召し上がりください

2021年10月17日 16:25

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/17(日) 13:14:14.09 ID:bbP7T4U9
島津義弘公は、関ヶ原御退き口の砌、ある山中へ差し掛かった折に召し上がるものが全く無く、
従臣一同当惑した。中馬大蔵は夜に入って白坂大学坊と共に山中を忍び出て、付近の民家に押し入り、
若干の餅を徴発して来た。公は手ずからその餅を切って、悉くこれを従臣たちに分け与えた。

これを見て御側衆より「殿様、お召し上がりください。」と申し上げたが、公は頭を振って
「私には未だ干飯も残っている。各々などは私を大事に思ってくれているからこそ、このように
付き従って帰国するのであるから、もしも各々が草臥れては私が難渋をするのだぞ。」と
仰せになられ、如何に御勧め申し上げても、この餅の一切れも召し上がらなかった。
大蔵を始め御供の面々は、有難さに涙に掻き暮れ、暫くその頭を上げることが出来なかったという。

軍神島津義弘公



695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/17(日) 13:30:19.39 ID:HzHAbcB0
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-391.html
中馬大蔵、島津義弘の兵糧を奪う・悪い話


中馬さん「殿様はいざという時切腹するだけの体力があればいい
この馬の肉は駕籠を担いでいる我らが食うべきだ」

こっちの逸話の方が有名だけど真相は

寺は人を救けるために

2021年10月16日 15:17

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/16(土) 00:11:20.52 ID:MYzB5DE6
島津氏領内の寺院には、従来山門が設けられていなかった。
そこで島津義弘公の時代に、「山門が無ければ盗難の禍が有り、ついては何れの寺院も山門を建立すること
勝手たるべき。」旨の御許を受けたいと願い出た。

公は一応、その願いを聞き届けられたが、「ただし、寺は人を救けるために建てられたものである。
門を立てれば、人に追いかけられるなどして寺を頼み来る者に不便が多いだろう、であれば、門を
閉めても寺に入れるように、門の戸に添柱を立てて、これを登り越せるように致せ。」
との御諚であった。

そこで薩摩藩の寺院はその後、山門に添柱を立てて、横木を入れる事となった。
こういった事は他藩の寺院には絶えて無き事である。

軍神島津義弘公



老鼠死而猫憂

2021年10月13日 16:08

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 13:19:07.11 ID:vp1BtXuF
加藤清正死去の報が薩摩に伝わると、島津義弘の御家老衆は御居間に伺候して、目出度いことであると
祝辞を申し述べた。すると義弘公は以ての外の御不興にて、突と奥に入られた。皆々その御心底を
解しかねて当惑していた所、公は奥より御書付を持って出てこられ、それを近臣一同へ下し置かれた。
列座の諸士が恐る恐る拝見すると、そこには一枚の奉書に

 老鼠死而猫憂

との六文字が認めてあった。
これは清正存生の間は、この方にも備えが有ったが、彼が死んでしまえばそういった心がけも薄くなって
しまう事を、深く憂慮するとの御意を顕されたものであった。

軍神島津義弘公



670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 13:55:02.26 ID:zU7uTRPh
書状からもだけど
島津ほんと清正のことだいっきらいよね

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 22:57:42.30 ID:l1O4yBxb
>>670
それだけ清正が島津から見て優秀だったって事かね?

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:01:49.18 ID:JEQYkWX+
庄内の乱なんかでも清正が裏で画策してて家康から確か怒られてるし
関ヶ原の後も兵寄せていつでも攻められますって状態にしてたんで、表に裏に清正は島津に攻めたかったんだろな感
唐入りで領内財政傾いてたようなんで、隣国攻めて改善したかったのかもね

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:23:33.58 ID:1Mbk+OEt
隣の外様は潰したいでしょ
島津なら攻めても幕府に怒られないだろうという読みもあったのでは

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 03:05:32.35 ID:qyPo8WuQ
>>673
もっと後の西南戦争で、熊本城攻めに苦労した西郷どんが「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」って言うくらいだし

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 06:58:07.60 ID:UqMma+8p
武士が農兵に負けたからって惨めな言い訳だなあ

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 10:21:47.09 ID:tCMgCT74
それだけ城の縄張りが優れてたってことかな。
あと装備も違うだろうし。

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 11:29:38.38 ID:MtEDOuhq
近世城郭を近代兵装で破れないわけないから単に装備が不足だったってことだよね
そうは言えないから清正公にやられたってだけで

ところでこの話しは俺は司馬遼太郎の小説でしか知らんのだけど、司馬が引いてきた原典はなんなんだろ

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 15:54:05.97 ID:qyPo8WuQ
>>683
原典はともかく、薩摩人がこれを聞いたら「なら仕方ないな」って思ってしまうような空気はあったんだろうなと思う

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 16:02:17.43 ID:ClkTPPgG
創作でなければ、肥後の諸隊の誰かじゃないの、佐々友房とか

戦線を下げるにあたって見捨てた旧肥後藩士の歓心を買う必要もあったろうし
もともと熊本城は先祖菊池氏の旧跡で、薩摩藩の敵でもあった清正を
旧薩摩藩士の前で持ち上げる理由はなさそう

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:20:53.63 ID:s+R41qBP
清正は江戸時代になんの脈絡もなくお話に出しても盛り上がるくらい人気あるキャラになってたみたいだし、スーパーヒーロー化されてそう

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:22:25.04 ID:JgA33ZBN
出陣するとキヨマーコールが起こってたらしいな

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:07:04.53 ID:TyVjd+04
さしたる用もなかりせば、これにて御免
は義経だけかと思ったら清正もか

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:17:40.74 ID:9xaF32fH
清正は熱心な法華教徒だったことから、死後早い段階で
法華宗の守護神みたいに受け取られていたらしく、それが
江戸期の人気のベースに成ったらしい。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:46:27.96 ID:RaZ70FYM
そうかそうか

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:52:15.88 ID:X49hgEcq
ホーホケキョ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/16(土) 06:32:38.56 ID:TFPoCrbq
>>689
清正が生前に描かせた肖像の下書きが没後すぐに法華宗寺院に納められ、早くから御神影として拝まれていたというから
当時の法華宗信者には清正が自分達のヒーローであり死しては同じ宗旨の自分達の守護神となってくれると期待されたのは間違い無い。
ただそれとは別に熊本地域のみで清正人気は高かったらしく、清正神格化は日蓮・法華宗が全国的だが熊本だけ単に神として江戸時代神社に祀られた例もある。
全国的な清正神格化は明らかに日蓮・法華宗の影響だが、熊本単独での神格化は他県の人間には正直わからない。

明日は一緒に討ち死にじゃ

2021年10月10日 17:39

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/10(日) 00:23:46.01 ID:I/RT7GDO
島津義弘公が高麗在陣の砌、肥前の五島家より『兵糧が切れてしまったので貯穀をお貸し下されたい。』
との旨の申込みが来た。実はこの時、薩摩の陣中にも余分の貯穀は無く、僅かに三日間を支え得る
のみであった。そのため、家老衆をはじめ諸人皆、これを断るべきだとの旨を談合した。

しかし義弘公はこの事を聞いて頗る残念に思し召され、直ちに老臣を召されると、言葉厳かに言った

「偶々、武士が頼みに来たのに兵糧無しと返答するというのは、義理に外れている。
少しであっても遣わすように。明日は一緒に討ち死にじゃ。」

そのように仰せに成り、御家老衆も是非無く、貯米の半ばを割いて五島家へ送ることとした。
この時薩摩の陣中では

 五島若衆は浜千鳥
   みめはよけれど磯せせる

と、歌い囃したそうである。その後三日を経ない内に、本国より兵糧船が到来して皆々愁眉を開いた。

軍神島津義弘公



656 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 09:40:58.99 ID:WUvroWhc
どの程度必要だったのかというとこだが、まとめ過去のこれだと、五島家の軍勢は実戦部隊160人、輸送下働きが300人ってとこか

立花統虎(宗茂)8万国・(高橋)統増2万国に対する軍役等
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12691.html

658 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 23:19:07.78 ID:WUvroWhc
>>655-656
島津軍のあくまでも史料上の参戦当初の数値では総勢10800ね

659 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 23:21:05.45 ID:WUvroWhc
もちろん、自家よりはるかに小勢だから気前よく分けてやれよってお話でもありませんが

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 17:10:10.65 ID:QttkdCRV
まあ1万人の3日分で9万食分手持ちがあって、500人の同じ3日分で1500食分分けるなら
1.66%だから少し分けてやって恩を売っとくか、みんな少なめに食べとけとなるが

半分もやったんかーい

あれこの当時って1日2食だったりするか?

663 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/11(月) 20:48:03.95 ID:VItcYL67
>>662
江戸中期辺りから庶民が徐々に三食取るようになりだした。社会の安定化と米供給の安定・都市の肉体労働的職務の発達で自然と三食へ変化したらしい。
でも上流階級は基本三食取ってた訳でなく結構後まで三食というより二食と中間のオヤツ程度で、戦国時代なら上流低層問わず二食が普通で三食取る事自体無かった。
だからこの逸話の時期なら多分二食。

更に主従の区別も無いほどであった

2021年10月03日 16:29

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/03(日) 15:22:34.27 ID:BDVYgDQG
島津義弘公が高麗在陣の砌、綿入れ二枚を重ね着していた者をご覧になって
「男児たるものがそのように大着をするものではない!」
とお叱りに成られた。そのため出征の将士たちは、皆綿入れ一枚で羽織も着ず寒さを凌いだそうである。

また寒中滞陣の砌は、陣小屋に大囲炉裏を長く拵え、それに火をいっぱいに焚き、何れも両方より
足を差し出して、火に当たりながら夜を明かすのを例とした、義弘公もこの時ばかりは、
味方の雑兵と一緒に打ち交わって火に当たられ、更に主従の区別も無いほどであった。

加藤清正がこれを聞いて、「薩州は平生主従の区別無きまで親しみ合うが、一旦表立つ場合には
君臣の礼儀がしっかりと立ち分かれる事、実に以て感心の外無し」
と誉めたそうである。

軍神島津義弘公



島津義弘公が乗っていた女馬は

2021年10月01日 17:03

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 17:23:55.43 ID:IxxOrnKo
木崎原御合戦伝記」の他の逸話
島津義弘公が乗っていた女馬は83歳まで生き、
袖木崎丹後が斬りかかってきた時、膝をついて義弘公の槍の手助けをしたため、膝つき栗毛と言ったそうだ。
亀泉庵に葬り、今は石塔・碑文があるという
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6971.html
上の「名将言行録」の逸話では長寿院栗毛という別名も持っていて86歳まで生きたことになってるが、83歳でも86歳でもさすがに無理が



645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/02(土) 09:12:45.01 ID:XwoUHwJj
>>641
牝馬は牡馬を発情させて陣を乱れさせるらしいから勝てたのはそのお陰だろう
のちに伊東祐兵から聞いた淡河定範がパクった

ささ、存分に飲み候へ

2021年10月01日 17:02

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 20:45:03.75 ID:h5Dj7Yx0
島津義弘公が加治木在城のみぎり、御殿の語普請が有った。
その日は冬の最中で、北風強く吹きすさび猛烈な寒気で、耐えられないほどであった。
しかしながら義弘公はこの寒天にもかかわらず、折々作事場に出てこられた。

その時、御普請奉行である白尾帯刀は、今義弘公がその背後に居ることも知らず
「この寒天に御老人様が折々御出になるなど無用の儀じゃ!」
と独り言をした。

が、俄に気付いて後ろを振り向くと、何ということか、義弘公は仁王立ちに立ってその大きな目を
ぎょろつかせておられた。
白尾帯刀は即座に飛び下がって地面に平伏したが、義弘公は何事も仰せに成らずそのまま御居間に
入られた。

しかし、やがて使者を以て帯刀を召された。帯刀は「御手討ちであろう」と覚悟して、是非無く
御前に罷り出ると、どうしたことか義弘公は殊の外上機嫌で
「この寒天に大義である。」
と仰せになり、児小姓に命じて大杯を持って出させ、帯刀に向かって
「今日は一段と冷える。ささ、存分に飲み候へ」
と、この大杯を帯刀に下された。

軍神島津義弘公



643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 21:26:49.19 ID:IiZBsJ25
大工接待の逸話だけではなかったのか。

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/01(金) 07:50:00.94 ID:gEbcyYW5
>どうしたことか義弘公は殊の外上機嫌で
ここの理由が知りたいところだけど、この逸話が出来たときは書かなくても分かるような理由だったのかな

「明赫記」忠平公木崎原御合戦の事

2021年09月29日 18:35

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/29(水) 14:41:14.01 ID:nYYkWdlb
明赫記」忠平公木崎原御合戦の事

本文のあらまし
元亀三年五月四日、伊東軍数千人が加久藤城に攻めてきて放火をしてきた。
忠平公(義弘)は慌てずわずか四、五十騎を連れて木崎原に打って出、
敵の伊東又二郎、落合源左衛門尉の大軍を打ちまかし、両大将も討ち取った。
忠平公自身も打ち掛かってきた柚木崎丹後守と肥田木玄斎を斬り伏せた。

原注:「木崎原御合戦伝記」によれば以下のようなことがあったとされる
・忠平公は夜中のうちに五十人の兵を相手の逃走経路に伏せ、遁走する兵を討ち取れと伝えてあった
・加久藤城の兵が本道を通って飯野亀ヶ城に移動するところを敵に見せ、城についたらそのまま間道から加久城に戻し、加久藤城を空城のように見せ、「攻めたら簡単に陥せるだろう」と敵に思わせた
・忠平公の奥方に仕える忠義な女中の密通が露見したため処罰のため縛られた。
奥方が哀れに思い女中を逃してやったところ、女中は伊東方に保護された。あとは↓の話とだいたい同じ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2473.html

・忠平公が、戦場で自分の馬の腰が折れる夢をみた。凶兆ではないかと占い名人の座頭・兼一に夢の内容を告げたところ
「馬の腰が折れたら御徒(おかち)になるので吉夢です」と言われ御機嫌がよくなった。
また兼一は琵琶法師として敵領にも自由に出入りできたので、敵将の賢愚、軍法についても情報を得てきた。
・白鳥山の光厳上人に白旗を用意させ、戦闘開始の際、山の高いところで百姓たちに白旗を上げさせ大軍がいるように見せた。
また紙で作った人形を配置し、白鳥権現の使いである白衣の神人の神助があるように見せた。
・不動寺の僧が陣僧をよそおって敵に近づき、隠し持っていた銃で敵将を狙撃し撹乱した。



島津勢の、伏見入城について

2020年12月23日 17:27

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 13:57:37.67 ID:brU/Qaa4
惟新(島津義弘)の家老である新納旅庵、並びに本田助之丞と申す者は、関ヶ原の敗北後、出京して
鞍馬の寺中に忍び居た所を、探し出され生け捕りと成った。

検使の山口勘兵衛(直友)はこの両人をよく存じていた者故、惟新が逆徒に与した理由を委細に尋ねた。
これに旅庵は申し上げた

「惟新は権現様より御懇意にされていましたが、殊に伏見の御城に関して、御預かりに成るように、
予てより上意もありましたので、御味方申し伏見に籠もる旨を、私を以て鳥居彦左衛門(元忠)、
内藤彌次右衛門(家長カ)に申し遣わした所、彼らは『上意はそうであったかも知れないが。現在
伏見城は家康公より、両人に御預けに成られている以上、他人を籠めるというのは罷り成るまじき。』
と申し切られた故、是非無く敵に加わったのです。」

山口勘兵衛よりこの内容が上聞に達した所、惟新、疎意有るまじきと思し召されたと、非常に良い
反応であった。殊に、「龍伯(島津義久)、忠恒は在国のためこの事を知らないだろう、早々に
御断を申し上げるように」と、井伊兵部少輔(直政)、山口勘兵衛方よりの書状を相添えて。
本田助之丞を国元に差し下した。

島津家譜

島津勢の、伏見入城についてのお話



783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 14:05:04.01 ID:5tzL6S0O
鳥居が島津を伏見城に入れなかったのはなんでなんだろうな
単なる連絡ミスか、このように島津が西軍につかざるを得なくする遠謀か(考えすぎか)
そもそも当時関東の監視役で上杉攻めに連れて行ってもおかしくない鳥居を
伏見城に入れて使い捨てにしたのもよくわからん

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 14:20:09.68 ID:TT5hiS0Z
これ島津の言い訳で本当に伏見城に入ろうとしたのかかなり怪しい、西軍首脳になる連中と連絡取り合ってたはずでしょ義弘
そしてそもそも乱がおきるとかこれっぽっちも思っていなかったから、信用できる部下を使い捨てにするわけないでしょ
後世でこそ乱がおきるのを予期してたって扱いにされてるが、そもそも気づける訳ないだろと

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 15:00:44.43 ID:5tzL6S0O
>>784
上方で乱が起きない前提で上杉討伐に行ったのなら、なおさら関東に領地を持つ鳥居を連れていかないのはおかしな話じゃないか
先鋒として使うだろうし調略にもいた方がいいだろ

家康と鳥居が別れの前の夜に酒を酌み交わしたとかって話は信憑性低いんだっけ?

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 17:01:06.36 ID:IBgVS5v+
>>785
信憑性低いよ
信用できる人間に政務で重要な伏見城の留守任せることがそんなにおかしいか?
万が一の為の留守番はかなり重要な役目でよほど信用できる人間じゃないと任せられないぞ
ただ、それは使い捨てとは言わない

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 17:07:03.62 ID:IBgVS5v+
逸話の信憑性もろくに見ないで今まで語られてたのがなくなってきただけの話でしょ
それをファンタジーとか言っちゃう時点で、ろくに史学の研究がどう進んだのかもわかってない無知ですってひけらかしてるよ

789 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/23(水) 17:16:35.25 ID:H68PMpJI
神祖様の天下が270年も続いたのになんで都合の悪い逸話くらい消せなかったの?
やっぱり反感持たれてたんじゃないのw

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 19:51:01.53 ID:A/TETz5b
乱が起こると思ってたら息子くらい国に残すだろ

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/23(水) 20:08:57.02 ID:RJRIPgSi
だいたいが後日談だろ

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/24(木) 09:40:05.63 ID:BF3EMBhL
>>789
「神祖でも誤る事があった」→「だから現役の俺らが誤る事もあり得るよね」
という理屈の為に積極的に訂正せず残していたという説は聞いた事がある。

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/31(木) 22:15:47.90 ID:VGYMyiZN
>>787
家康が西の丸に移ってからは大坂城が政治の中心も兼ねてて、伏見城の重要性はかなり下がってると思う。
だからこそ、忠誠心は厚いだろうけど、家康の留守中に代理が務まるような能力や格の持ち主じゃない鳥居を城代として置いて行ったんだろ。

鳥頭坂の退却戦

2020年12月22日 18:33

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/22(火) 16:40:01.56 ID:7X5EPM0s
慶長五年九月十五日未明、関東勢(東軍)の御先手諸将は関ヶ原に出張して、戦を取り詰めていた最中、
筑前中納言(小早川)秀秋が裏切りを致し、大谷刑部(吉継)備えを切り崩した。故に石田を始め、
(西軍)諸将の備えは尽く敗北致した。

その時惟新の旗本は、先手との間が隔たっていた。そこに中務(島津豊久)が旗本に馳せ来て
「戦も是迄と見え候。それがしこれにて防戦すべし。その間に一方を駆け敗退してください。」
と申し上げた。しかし惟新はこれに
「今度の合戦に於いて討ち死にし、再び国元には帰らないと決意して出陣した以上、一足も
退くことは出来ない!」
と、大いに怒った。中務は重ねて

「家の存亡、この時に有り。よくよく思慮あるべし!」
そう声高に言い捨て
「よし、戦も激しくなってきたようだ。」と、相従う士卒十三騎にて、大勢の中に駆け入討ち死にした。

惟新も続けて駆け入ろうとしたところ、家老の長寿院盛淳が馬を駆け寄せ
「大将が死を軽くせざる事はかねてお知りに成っているはずです!それがしが名代として討死
仕るべし。中務の申した如く、家の為ですから、必ず退いてください!」
そう断って諌め、馬廻りの者共に堅く申し含めた上で、長寿院は大勢の中に駆け入り
「島津兵庫入道惟新!」
と名乗って討ち死にした。この時に、士卒も多く戦死した。

その時、関東勢は左右に分かれ、伊吹山の方に西国勢が敗走しているのを追いかけ、馳せ向かっていた。
そのため、その跡の道が少しばかり開いていた。惟新入道は残った人数をまん丸に備え、福島左衛門大夫正則の
備えの前に押しかけたが、左衛門大夫はあえてこれに取り合わなかった故に、左衛門大夫備えの前を、
いかにも静々と押し通った。

その跡より、「井伊兵部少輔」と名乗る百騎ばかりが追いかけてきた。これに対し、惟新自身が太刀打ち
までして追い返し、その合間に下知して静かに退かせたが、すぐに兵部少輔人数は追いつき、殿をしていた
後醍院喜兵衛宗重、木脇休作秋秀と戦闘になった。両人が危うく見えた時、川上四郎兵衛忠兄が取って返し、
下知をして鉄砲を撃たせた、四郎兵衛の若党である柏木源藤と申す者が、鉄砲を以て大将と見えた人物を
撃ち落とし、「川上四郎兵衛!」と名乗った。その時、従っていた人数は撃ち落とされた人物に馳せ集まり、
引き退いた。後にこの人物が兵部少輔直政であったと承っている。

その後惟新は、高き所に備えを立てた所、方々より人数馳せ集まり、ようやく三百ばかりとなり、
これによって帰路についての評議をし、権現様(徳川家康)の御本陣に川上四郎兵衛を差し遣わした

『この度黙視難き次第のために、思いもかけず出陣致した事について、我々が日頃の御懇意を
忘却したのだと考えられては、我らの本意に背きます。只今御陣頭をうち通りますが、
憚りながら使者を以てそのことを申し上げます。委細は国元より申し上げるでしょう。』

そう言上し、それより駒之峠に向かった。

島津家譜

関ヶ原の戦いにおける、島津の「鳥頭坂の退却戦」について



何の方便もなく一戦の上、討死に相究めたり

2020年12月21日 16:57

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/21(月) 16:07:51.96 ID:6LzXeZVW
権現様(徳川家康)が奥州に御発進(会津征伐)の跡に、五奉行たちが諸大名を相催し、権現様に
背き奉る企てが有るとの風聞が有った。

七月中旬、初めて惟新(島津義弘)の所に五奉行より、自分たちに一味するように申し越してきた。
惟新は「存じよらぬ儀であり、一味仕ることは出来ない。」と、二度にわたって返答したが、
その時奉行より

「今度のことは全く私の遺恨ではない。偏に秀頼様の為の企てである。あなたも最前、
秀頼に相背きまじきことを誓紙にし、かつ又、太閤の厚恩を忘却していないのであれば、
この度に及んで異議はありえないものである。もし同意しないのなら、あなたの今までの儀は
皆表裏に似たものである。」

このように、余儀のないことであると申しかけてきた。惟新は誓紙を黙視できないと考え、
是非無く五奉行に同意した。

この時、惟新の甥である島津中務太輔豊久は惟新に対して
「今度の合戦の勝負を考えてみましたが、権現様が御利運を得られるのは確実だと存じます。
詮無きことに与し、家を亡ぼされるのは嘆かわしい事です。その上権現様の、多年の我らに対する
御懇意は、並々ならぬものでした。早々に権現様へ御味方に参り、家を立てるべきです。」
そのようにたって諫言を申し上げた。これを惟新は承り

「其の方の申す通り、私もそう考えている。しかし余儀なく申し懸けられ、結果的に誓紙を破って
しまっては、たとえ権現様に味方申し上げたとしても、権現様は頼もしく思し召さず、
またそれ以後、島津家の誓紙誓言は偽事と考えられ、長く家の疵とも成るだろう。

私はあえて、これまでの御芳志を忘れ奉るのではない。これによって国元より人数を召し集めず、
有り合わせの人衆ばかりで出陣いたし、何の方便もなく一戦の上、討死に相究めたり。
さてまた、家の事は龍伯(義久)、忠恒が在国しており、この事についてはまったく存じては
居ないのだから、この事は重ねて御訴訟申し上げればよい。」

と、申し切られた。

島津家譜



778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/21(月) 16:57:30.84 ID:YtiveTFr
弁明のための創作なのは(恐らく当時でも)明白だからなぁ

義弘君が、死人に口無しをいいことに作った自分(と島津家)に都合のいい話だな

薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

2017年03月31日 21:44

710 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/31(金) 13:20:31.22 ID:9PH8Y6mL
薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

鹿児島で「これもち」(一部地域では「これがし」)と呼ばれるお菓子は、小豆餡と米粉をこね合わせた蒸し菓子(棹物菓子)で
漢字では「高麗餅」(高麗菓子)と書き、その名が示す通り朝鮮から伝来したものである。
鹿児島に伝わったのは、慶長三年(1598年)朝鮮の役により、豊臣秀吉の命を受けて出兵した島津義弘が、
李朝の陶工たちを南原(ナモン)から連れ帰った折に陶工から伝えられたとされている。

義弘に連れてこられた陶工たちのうち、四十数人が串木野の島平に窯を開いた。
しかし生活苦や周囲との折り合いの悪さから、五年後には島平から苗代川(日置市東市来町美山)に移住した。
この地に移住した人々は、毎年春秋には周囲で最も高い舞楽岡に登り、遥か遠く海上に浮かぶ甑島の島影を通し故郷を偲び、
望郷の心を慰めていた。在る夜、海の彼方より大きな火の玉が飛来し、蜂巣ヶ谷の大石の上に落ちた。それ以来大石は鳴動し、
夜毎赫々と異光を放ち乍ら宙天に上った。これを見た村人は恐れおののき、筮者にトして貰ったところ、
朝鮮宗廟の神「檀君」が村人を保護するために来国したということであった。
そこで、この自然石を御神体として檀君を祀る神社を創建し(玉山神社)、玉山宮とも高麗神とも称した。

玉山神社では祭事や行事の際に高麗餅を奉納し「高麗餅返し」の儀式を行っていた。
「高麗餅返し」の儀式は祝子(はふり)が執り行い、美山の各家庭で作った蒸し器(セロ)に入ったままのこれもちを
祝詞を唱えながら回し竹籠(バラ)にひっくり返す。バラに近づき、一回転してこれもちの表面が上なら吉、
一度で表にならないと縁起が悪いとされている。
これもちの真ん中を神刃(シンカル)で方形に切り、御幣と柴の小枝を立て、お神酒・新米・刺身とともに高杯に乗せて供える。

玉山神社は今の社殿になるまでは、朝鮮様式で建立されていて、祭事や行事の際の服や言葉や祭器すべて朝鮮様式
で取り揃えていたが、数十年前に最後の伝承者が亡くなると「高麗餅返し」をふくむすべての儀式が途絶えてしまいました。
(「かごしま文庫 鹿児島の伝統製法食品」、美山での史料展示(昭和四十二年頃の写真あり)など)

※鹿屋市笠之原にも「高麗餅返し」があり、美山に移り住んだ陶工の一部の人が、時を経て笠之原に移住している。
ここには陶土がなく陶芸文化は廃れたが、望郷の為に「玉山宮」を建立し、高麗餅を作って儀式を伝えたことが推察される。
笠之原では、高麗餅を「シロ」と呼び、地域の玉山宮では祭事や行事の際に高麗餅「シロ」を奉納し「餅返し」の儀式を行っていた。

※ 小豆をふんだんに用いて餅とサンドイッチ状に仕上げた韓国のお菓子「シルットク」は、祝いや祈願の折に用いられてきました。
古くは五穀豊穣を祈り、現在では転居の際に新居の安全を祈って供えられています。京都や名古屋で製造されている「村雨」や、
鹿児島の「高麗餅(これもち)」の原型が、このシルットクであるといわれています。

参照 高麗餅(これもち)


시루떡(シルットク)
https://namu.wiki/w/%EC%8B%9C%EB%A3%A8%EB%96%A1



そこに一人の山伏が現れた。

2016年11月24日 14:36

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 09:47:03.80 ID:GifEEbwp
島津兵庫頭(義弘)は関が原の合戦に負け、伊勢路を通り、伊賀国を経て和泉国に出、住吉の浦より
船に乗り、白地に黒十文字の旗を立て尼崎の方へ向かった。

この時、立花左近(宗茂)も西軍敗戦により大阪から船にて国元へと下っていた。すると横より
十文字の旗を立てた船が来るのを見て、宗茂は「加藤左馬介(嘉明)の船か、と思ったが、
その船より、『島津兵庫頭が合戦に負けたため国に下る船であること。同道いたしたい』との
使いが参ったため、同道して筑後国の国境まで同道した。

その先の肥前国は、当時の情勢として通過するのが非常に難しい国であったため、立花左近は兵庫頭に、
薩摩に行くのを諦め、一旦筑後に留まるようにと様々に説得したが、兵庫頭は謝絶し、薩摩へと
向かうことに成った。

しかし肥前と筑後の間には大河があり、しかも船がなく、どうやって船を求め川を越えようかと
思い悩んでいた所、そこに一人の山伏が現れた。

山伏は言った「この河は歩いて渡ることが出来ます。瀬を教えましょう。」
そうして兵庫頭一行を案内したが、その言葉に相違なく、無事大河を歩いて越えることが出来た。

兵庫頭は河を超えた所で山伏を呼んだが、山伏の姿は見えなくなっていた。
そのあたりの住民に山伏について色々と尋ねたが、彼らは一様に「そもそもこのあたりに
山伏はいません。」と答えた。
その後も島津兵庫頭、立花左近は様々に尋ねたが、ついに山伏は見つからなかった。

これは後年、立花殿が語ったことである。

(慶長年中卜斎記)



346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 10:30:52.61 ID:1sU8tIY/
パーフェクト伝説がまた増えたか

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 13:44:40.94 ID:3l/VneXT
薩摩まで船でいけないんだな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:48:30.13 ID:8D69oZrn
>>345
山伏じゃなくてモーゼだったか

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:19:13.59 ID:R0KKCQ/z
>>345
なんで筑後方面に行ったんだろ?

豊後水道通って日向から薩摩に行ったほうが良いような?
勝手にそのルートだと思ってたんだが違ったのか。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:49:07.97 ID:8D69oZrn
黒田や伊東が東軍だからじゃないかな?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 22:19:18.84 ID:DqhLpzHV
義弘と宗茂は9月26日に周防国の大島で対面するまでは同行してたようだけど
その翌日に豊後水道を北と南に別れて、義弘は日向の佐土原に行ってから薩摩に帰ったみたい

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 23:06:03.85 ID:7ZS6/8Wc
まぁ実際は義弘の船は筑後方面には行ってないよね

だから黒田勢と別府湾あたりで海戦に及んでるし、日向の細島湊から上陸した際は、
島津方の村尾重侯らが伊東勢と合戦に及びながら義弘を迎えに来ている

彼は義士である

2016年05月27日 17:57

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 21:05:11.45 ID:Fuik+Qgj
天正6年7月6日、島津は大友家に付いた日向国石ノ城を攻めることとし、伊集院忠棟を大将に大軍を
送ったが、石ノ城は大友より派遣された長倉祐政、山田匡徳を中心として頑強に守り、島津勢は500が負傷、
また多くの討ち死にを出し終に撃退された。

同年9月15日、島津は島津彰久を大将、伊集院忠棟、平田光宗、上井覚兼らを副将とし、さらなる大軍を以って
再度石ノ城へと押し寄せ、総攻撃を行った。
これにも石ノ城勢は三日三晩にわたって頑強に抵抗したが、元より小勢のなか、兵糧も尽きたことにより、
講和を受け入れ城を開城することと決まった。

講和が決まると、石ノ城の大将である長倉祐政は城の明け渡しのため島津義弘の陣所へと参った。
義弘は長倉に言った
「今回のことは貴方にとって残念ではあるが、これより後は私に従わないか?」
そう言って三方に土器の杯を据えて長倉へと差し出した。主従の礼を取ろう、ということである。

しかし長倉

「確かに残念限りないことです。ですが二君に仕えるのは義士の成さぬ所です。」

そう言うや土器を三方の縁に当てて打ち砕き、その座を立ち退こうとした。

この場の島津勢の人々はその無礼を見て激怒し、彼を討ち果たそうと騒いだが、義弘はそれを制して
「いやいや、彼は義士である。また、その主人のために働いた人を殺すのは不義である。」
そして長倉に

「あなたは此処から何国に立ち退くのか?」

「豊後へ。」

そこで義弘は侍大将二人に命じて、長持ち二つを用意させ、
一つには沓や鞍、雑具の類を入れ、もう一つには食物などを入れさせた。
それを持たせ、豊後との国境まで彼を送ったとのことである。

(日向纂記)



島津義弘と道案内役

2016年02月17日 18:17

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 00:29:18.18 ID:OUAq51ED
島津義弘公の決死の関ヶ原敵中突破の後、
道案内役として拉致された文右衛門(恐らく正しくは又右衛門)さんなんだけど、どうやら堺まで一緒だったようです。

後日談があって、慶長16年夏、義弘公77歳の時にわざわざ大隅国加治木まで訪問して再会していたりします。
文右衛門さん曰く、ご存命のうちにもう一度お会いしたかった、とのこと。
もちろん義弘公も大喜びして大歓迎。
関ヶ原の思い出話に花を咲かせて、さらにその後もあの時のお礼と言わんばかりに宴三昧、ご褒美をたくさん与えたようです。

なおこの文右衛門さんですが、どこの国で苗字は何なのか、正体不明のままです。
大小の刀を差していたことから士分であったことは間違いないようですが。

素性がバレて義弘公の逃亡を手伝った罪に問われる事を防ぐため、島津家なりの配慮なのでしょう。

ただそれが敵中突破後の退却路がよく分からん、という結果にも繋がっているのだと思います。

関ヶ原後日談に見る、身分違いも気にしない義弘公とその戦友の良い話。

(帖佐彦左衛門宗辰覚書)



【話題】島津義弘小説、6月からウェブで公開

2015年05月28日 17:14

84 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/27(水) 21:48:19.61 ID:9GfvjNwH
初めて書き込みさせていただきます。至らないところもありますがお願いいたします。

大河ドラマ化に弾み 島津義弘小説、6月からウェブで公開
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=66690
 戦国武将・島津義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区の
「義弘公大河ドラマ誘致委員会」は、徳間書店と共同で、義弘の生涯を描く小説を企画している。
作家・井川香四郎さん書き下ろしの「島津三国志」。6月から、ウェブマガジン「歴史行路」
で公開する。関係者は「ドラマ化には原作の必要性も指摘されており、弾みになる」と期待を寄せる

85 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/27(水) 23:12:39.29 ID:9GfvjNwH
84の続き
小説は約一年間毎月掲載され、閲覧は無料で書籍化も予定しているそうです。
(南日本新聞2015年5月27日記事より)

少し前に「義弘公大河ドラマ誘致委員会」主催の講座を聞きに言った時、
「最近の大河が振るわないのは、歴史に関心のある人が脚本を書いてなく、
いい原作がないからと思い徳間書店と共同で企画を考え、小説を書いて
もらっています。夏にはウェブで公開予定です。」と言ってましたが
本当に予定通りに進んでる…
あと、宮崎県えびの市に義弘の銅像を立てる計画も順調に進んでいる
そうです。



86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 00:35:05.46 ID:LkWj94pc
ウェブマガジンってのはどうなのよ?
もっとメジャーな文芸誌や新聞とか週刊誌じゃないと
知名度上がらないし…

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 07:26:31.84 ID:Yy790yKb
島津だけでは正直薄いよなあ
やはりあの時代は暗黒太閤と化した秀吉あってこそ
しかし秀吉のキャラ立ちは圧倒的なので島津が食われかねない
だからといって九州内の覇権争いだけを描いてもなあ

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 13:38:32.93 ID:w8Exbow6
義弘を主役に派手さを狙うのは甘え
義久を主役にして権謀術数渦巻く知略戦を描くべき

89 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 14:31:42.63 ID:3nQUdxjC
義弘が主役なのは、義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区
の所が企画しているから当たり前のことですしねぇ。
(日置市と姶良市は義弘にまつわる歴史的なつながりなどから姉妹都市ですし
姶良市の市長さんの名前は笹山義弘さんですが、父親が島津義弘にあやかって
名づけたそうです)
義久を主役にした小説…読みたいけれど、多くは望みません。
ただ、今回の小説で義久が悪く書かれないよう祈るだけです。

90 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 14:36:24.17 ID:3nQUdxjC
なぜか、IDが変わってました。
84・85・89は同一人物が書きました。

92 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 21:09:57.42 ID:3nQUdxjC
84・85の補足です。
南日本新聞2015年5月27日記事の紙面の方には
井川さんは「これまでの猛々しいイメージとは異なり、東アジアから
世界へ向けた視線、家族愛や同胞愛など慈愛に満ちた義弘公を描きたい」
としている。
姶良市誘致委員会の会長さんは「多くの人に読んでもらい、大河ドラマ
の実現へ向けた機運の醸成につながれば」と話した。

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 00:15:09.60 ID:1I/mC1ZA
既に怪しい雰囲気が醸し出されてるなあ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 00:59:48.83 ID:kUwDtlwJ
加藤清正のタイガードラマはよ

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 03:12:59.38 ID:6LcORnJI
>>92
つまり、島津ドラマ化のネックになっている朝鮮人皆殺しや琉球侵略を
「きれいなジャイアン」でごまかすってことかw

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 06:26:43.57 ID:05Bd7qhS
>>85
平清盛を見れば現実離れした見解だよなぁ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:20:57.75 ID:uBMgoFHx
バカ知事が何か言いそうw

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:51:37.37 ID:X1R2YQCf
>>92
義弘が、「儂は戦は嫌じゃ」とか言い出しかねんなw

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:55:35.24 ID:mcDINiea
>>92
部下に優しくて敵には猛々しい義弘にできんのか。火鉢エピとか大工エピとか性格出てると思うんだが。

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 08:33:20.77 ID:TH6fkjnm
島津は映像化できないだろ・・・色々と悲惨すぎる

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 10:54:25.41 ID:5bj3lFUm
奴隷を南蛮に売ってたっけ?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 17:01:26.02 ID:zdzYrMsl
日本じゃなくて東アジアからって書いてある時点で制作スタッフ臭すぎでしょ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 20:46:50.48 ID:wwV7liSe
鉄砲伝来とか重要イベントあるから(震え声)

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 21:09:32.57 ID:7e3CBtA7
>>101
うん、大友とか大村とかもね
インドのゴアでは原住民対策の兵員として重宝したらしい

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 02:18:09.14 ID:CWM9Z+LL
>>98
代わりに義久さんが全ての原因になるんですねわかります

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 07:17:33.57 ID:5P1QqS+E
戦国の世の家族愛や同胞愛ってとっても猛々しいよねw

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 00:32:49.85 ID:DaNyHf8r
ラスボスの秀頼への家族愛で何人も死んだ

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 16:05:45.71 ID:EF3ETCaI
家族愛に満ちた父の教えを受け継いだ息子はその教え通り子を沢山成したというわけですね

【ねこ大好き】島津義弘、近衛前久に猫を贈る

2015年05月08日 18:55

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:26:10.43 ID:Igh/VUP+
【ねこ大好き】島津義弘近衛前久に猫を贈る

慶長年間の事と推定されるが、島津義弘近衛前久に猫を贈った事があった。
その結果近衛前久から礼状が贈られてきたのであるが、その内容は
「本望の至り、年来待っていたところ、ことさら美しく見事で、一段満足している」
という前置きを置いて「さらに猫を頂きたい。」との要求であった。
その理由は
「その猫は夫人に取られてしまい、自分の手元にはいないから、もう一匹送ってもらえないか。決して他人に譲るのではない。娘も懇望しているけれど、それは無視していい。まず自分の分を一匹ほしい」
ということであった。
(「旧記雑録附録二」二七〇号)


まとめサイトのコメント欄で紹介して頂いた逸話なのですが
シャイな※主様が他の人に投稿頼むと仰ってた&猫好き魂を鷲掴みにされましたので
僭越ながら※主様ご紹介の南日本新聞の「さつま人国誌」(2015年5月4日付)を
出典として要約し投稿させて頂きました。
元記事には他にも犬に関する逸話等が記載されております。



953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:29:37.28 ID:B0Sjzqyc
関白のくせに、ペットをねだる調子のいい話?w

954 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/07(木) 20:48:37.66 ID:hya75fci
やはり島津家はNNNの支部だったのか

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:54:43.78 ID:xD7IsRlR
>>952
娘の分も暗にねだってるw

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:58:46.83 ID:UFTPDb99
なぜかプリンのコピペ思い出した

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 22:42:31.46 ID:jkzHWnJt
薩摩はネコの産地だったのか?朝鮮にも連れて行ってたし

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 00:29:10.45 ID:xc36Xewg
三斎様も忠利に猫クレクレしてたけど、
この時代の猫って貴重で探して捕まえてたんだっけかな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 02:13:42.34 ID:Y5kEKSGr
ここの猫ってのはペルシャ猫のことかな?
それとも日本には元々猫がいなかったとか

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 06:13:58.72 ID:ARjUb34o
井伊直孝「猫と聞いて」

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:02:21.04 ID:Np3grdNi
猫って鼠が殖えるまでは紐に繋がれて飼われてたよね

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:21:15.93 ID:HjLXgSyq
板倉勝重「ワシが猫を開放した」

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:35:37.68 ID:MvSWJ74j
最上義光「ぬこ…」
天庵さま「うちの子だって!」

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:48:17.67 ID:MvSWJ74j
これは近衛卿側の逸話になるのかな?

それと鶴が逃げても動じなかった秀吉が、猫が逃げて衰弱してるからおそらく秀吉も猫好き。

検索したら猫好きの人の性格が出て来た。

「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」な傾向とか。

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:01:11.95 ID:MvSWJ74j
日本猫(和猫)は、8世紀頃に大陸から経典を鼠から保護するために日本に伝わったとされるが、長崎の弥生時代の遺跡からも古来の猫の骨が見つかっている。
889年(昌泰2年)宇多天皇の唐の黒猫の飼育日記があったり、花山天皇が皇太后に愛玩動物として猫を贈った話もある。

東南アジアや琉球から貿易を経由して日本に都度都度猫が入り、日本に家猫や野良猫が定着したのは江戸時代頃とも言われる。
日本猫で代表的なものは、「白猫」「黒猫」「サビ猫」「トラネコ」「ブチネコ」「三毛猫」の6種類。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:17:09.22 ID:0PPEkGvE
(⌒▽⌒)

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:20:18.99 ID:9cl0PIMM
鍋島直茂「ネコなんて大嫌いだあああっ!!」

968 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/08(金) 10:28:05.42 ID:At7WWQV/
天久院「猫程度にうろたえるとは軟弱な」

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 12:25:01.99 ID:MvSWJ74j
>>952
犬の話も気になる

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:28:01.94 ID:MvSWJ74j
「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」

猫ブロガー宇多天皇、豊臣秀吉、近衛前久、伊達政宗、最上義光、小田氏治、井伊直孝…

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:31:42.47 ID:MvSWJ74j
A=B=C、つまりA=Cである

A=伊達政宗
B=猫好き
C=細川忠興

つまりまーくんは三才様だったんだ(違います)

君子 三の戒

2014年12月15日 18:45

15 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 12:03:19.05 ID:+mpcXuzM
 君子 三の戒

 慶長二年(1597)の八月。全羅道(チョルラド)の南原(ナムウォン)城を攻略すべく、宇喜多秀家を大将とする左軍の軍議が行われ、議定一決して諸将が陣に戻った後の事である。
 (ちなみに右軍の大将は毛利秀元、総大将は釜山の小早川秀秋)

 島津義弘は、忠恒とその近習を召し寄せ、こう語った。

「君子三の戒にも、その壮なるに及んでや血気まさに剛(こわ)し。これを戒める事、闘いあり」

 是、文宣王(孔子)の格言にして千歳不易の論なり、と義弘が説いたのは、論語の一説だった。

 孔子曰「君子有三戒。
 少之時、血気未定。戒之在色。及其壮也、血気方剛。戒之在闘。及其老也、血気既衰。戒之在得」。

 君子は、少壮の時は色欲、壮年の時は闘争欲、老いては利欲を戒めなければならない。

「今や忠恒は壮にして、血気もっとも盛んなり。然れば分捕りの高名、独り懸け等これを戒めよ」

 自身が兄・義久の守護代として参陣しているのに対して、忠恒は義久の女婿として三州の太守を嗣ぐ身である以上、軽々しく敵陣で分捕りや一騎駆けに出るな、と戒めたのだ。

「吾、久保を唐島(巨済島)の地に亡くし、追憶未だ止まず」

 最後に実父として子に先立たれる辛さを述べるや、左右の家臣は皆が落涙し、忠恒も父の説く理に納得した。

16 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 12:03:56.75 ID:+mpcXuzM
 そして、八月十三日より南原城への攻撃が開始された。

 三日間の攻城戦の末、小西行長の計略により城兵が油断した十五日夜の奇襲で南門が破られると、明軍の副総兵・楊元の率いる遼東兵が西門より脱出した為、遂に落城。

 その退路には、全州(チョンジュ)の城から南原に後詰の軍勢が来る事を警戒していた島津義弘と加藤嘉明の軍勢が待ち伏せていた。

 戦死者と逃亡者により、遼東兵が思肆館まで撤退した時には、残存兵力は百人余りに減じていた(その為、楊元は明軍で処刑され漢城の南大門で獄門にされた)。

 この時、島津勢が討ち取った首級は四百二十一、佐土原勢(島津忠豊)が十三首。

 特に、島津勢の首級のうち三首は、義弘自身が斬り獲ったものだった。

 その事を聞いた途端、忠恒の中で何かがキレた。

「老巧(ママ)すらかくの如し。吾、壮にして何ぞこれを忍びんや!」

 と叫んで、制止する近臣を振り切り、単騎突出。

 その勇姿に、向かう敵は一人もなかった。……既に、戦闘は終結していたので。本当に、敵はいなかった。死体以外に。

 故に握刀の功なくして、ようやく払暁に至り帰還する。その憤怒は猛然としていたと『征韓録』は記す。

 『征韓録』の「南原之城陥事、附全州城明退事」より抜粋。義弘の活躍と(忠恒と連名ながら)秀吉より賜った戦果を賞する朱印状に続いて、忠恒の個人戦果なしの逸話を乗せ、〆に忠豊の朱印状を持ってくる構成。

 作者(編纂の総裁は島津久通)は、忠恒(家久)に含むところでもあったのだろうか?




20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/15(月) 20:09:59.98 ID:6REdTz3o
>含むところ

忠恒の場合心当たりが色々とありすぎるからなw