薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

2017年03月31日 21:44

710 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/31(金) 13:20:31.22 ID:9PH8Y6mL
薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

鹿児島で「これもち」(一部地域では「これがし」)と呼ばれるお菓子は、小豆餡と米粉をこね合わせた蒸し菓子(棹物菓子)で
漢字では「高麗餅」(高麗菓子)と書き、その名が示す通り朝鮮から伝来したものである。
鹿児島に伝わったのは、慶長三年(1598年)朝鮮の役により、豊臣秀吉の命を受けて出兵した島津義弘が、
李朝の陶工たちを南原(ナモン)から連れ帰った折に陶工から伝えられたとされている。

義弘に連れてこられた陶工たちのうち、四十数人が串木野の島平に窯を開いた。
しかし生活苦や周囲との折り合いの悪さから、五年後には島平から苗代川(日置市東市来町美山)に移住した。
この地に移住した人々は、毎年春秋には周囲で最も高い舞楽岡に登り、遥か遠く海上に浮かぶ甑島の島影を通し故郷を偲び、
望郷の心を慰めていた。在る夜、海の彼方より大きな火の玉が飛来し、蜂巣ヶ谷の大石の上に落ちた。それ以来大石は鳴動し、
夜毎赫々と異光を放ち乍ら宙天に上った。これを見た村人は恐れおののき、筮者にトして貰ったところ、
朝鮮宗廟の神「檀君」が村人を保護するために来国したということであった。
そこで、この自然石を御神体として檀君を祀る神社を創建し(玉山神社)、玉山宮とも高麗神とも称した。

玉山神社では祭事や行事の際に高麗餅を奉納し「高麗餅返し」の儀式を行っていた。
「高麗餅返し」の儀式は祝子(はふり)が執り行い、美山の各家庭で作った蒸し器(セロ)に入ったままのこれもちを
祝詞を唱えながら回し竹籠(バラ)にひっくり返す。バラに近づき、一回転してこれもちの表面が上なら吉、
一度で表にならないと縁起が悪いとされている。
これもちの真ん中を神刃(シンカル)で方形に切り、御幣と柴の小枝を立て、お神酒・新米・刺身とともに高杯に乗せて供える。

玉山神社は今の社殿になるまでは、朝鮮様式で建立されていて、祭事や行事の際の服や言葉や祭器すべて朝鮮様式
で取り揃えていたが、数十年前に最後の伝承者が亡くなると「高麗餅返し」をふくむすべての儀式が途絶えてしまいました。
(「かごしま文庫 鹿児島の伝統製法食品」、美山での史料展示(昭和四十二年頃の写真あり)など)

※鹿屋市笠之原にも「高麗餅返し」があり、美山に移り住んだ陶工の一部の人が、時を経て笠之原に移住している。
ここには陶土がなく陶芸文化は廃れたが、望郷の為に「玉山宮」を建立し、高麗餅を作って儀式を伝えたことが推察される。
笠之原では、高麗餅を「シロ」と呼び、地域の玉山宮では祭事や行事の際に高麗餅「シロ」を奉納し「餅返し」の儀式を行っていた。

※ 小豆をふんだんに用いて餅とサンドイッチ状に仕上げた韓国のお菓子「シルットク」は、祝いや祈願の折に用いられてきました。
古くは五穀豊穣を祈り、現在では転居の際に新居の安全を祈って供えられています。京都や名古屋で製造されている「村雨」や、
鹿児島の「高麗餅(これもち)」の原型が、このシルットクであるといわれています。

参照 高麗餅(これもち)


시루떡(シルットク)
https://namu.wiki/w/%EC%8B%9C%EB%A3%A8%EB%96%A1



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そこに一人の山伏が現れた。

2016年11月24日 14:36

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 09:47:03.80 ID:GifEEbwp
島津兵庫頭(義弘)は関が原の合戦に負け、伊勢路を通り、伊賀国を経て和泉国に出、住吉の浦より
船に乗り、白地に黒十文字の旗を立て尼崎の方へ向かった。

この時、立花左近(宗茂)も西軍敗戦により大阪から船にて国元へと下っていた。すると横より
十文字の旗を立てた船が来るのを見て、宗茂は「加藤左馬介(嘉明)の船か、と思ったが、
その船より、『島津兵庫頭が合戦に負けたため国に下る船であること。同道いたしたい』との
使いが参ったため、同道して筑後国の国境まで同道した。

その先の肥前国は、当時の情勢として通過するのが非常に難しい国であったため、立花左近は兵庫頭に、
薩摩に行くのを諦め、一旦筑後に留まるようにと様々に説得したが、兵庫頭は謝絶し、薩摩へと
向かうことに成った。

しかし肥前と筑後の間には大河があり、しかも船がなく、どうやって船を求め川を越えようかと
思い悩んでいた所、そこに一人の山伏が現れた。

山伏は言った「この河は歩いて渡ることが出来ます。瀬を教えましょう。」
そうして兵庫頭一行を案内したが、その言葉に相違なく、無事大河を歩いて越えることが出来た。

兵庫頭は河を超えた所で山伏を呼んだが、山伏の姿は見えなくなっていた。
そのあたりの住民に山伏について色々と尋ねたが、彼らは一様に「そもそもこのあたりに
山伏はいません。」と答えた。
その後も島津兵庫頭、立花左近は様々に尋ねたが、ついに山伏は見つからなかった。

これは後年、立花殿が語ったことである。

(慶長年中卜斎記)



346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 10:30:52.61 ID:1sU8tIY/
パーフェクト伝説がまた増えたか

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 13:44:40.94 ID:3l/VneXT
薩摩まで船でいけないんだな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:48:30.13 ID:8D69oZrn
>>345
山伏じゃなくてモーゼだったか

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:19:13.59 ID:R0KKCQ/z
>>345
なんで筑後方面に行ったんだろ?

豊後水道通って日向から薩摩に行ったほうが良いような?
勝手にそのルートだと思ってたんだが違ったのか。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:49:07.97 ID:8D69oZrn
黒田や伊東が東軍だからじゃないかな?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 22:19:18.84 ID:DqhLpzHV
義弘と宗茂は9月26日に周防国の大島で対面するまでは同行してたようだけど
その翌日に豊後水道を北と南に別れて、義弘は日向の佐土原に行ってから薩摩に帰ったみたい

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 23:06:03.85 ID:7ZS6/8Wc
まぁ実際は義弘の船は筑後方面には行ってないよね

だから黒田勢と別府湾あたりで海戦に及んでるし、日向の細島湊から上陸した際は、
島津方の村尾重侯らが伊東勢と合戦に及びながら義弘を迎えに来ている

彼は義士である

2016年05月27日 17:57

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 21:05:11.45 ID:Fuik+Qgj
天正6年7月6日、島津は大友家に付いた日向国石ノ城を攻めることとし、伊集院忠棟を大将に大軍を
送ったが、石ノ城は大友より派遣された長倉祐政、山田匡徳を中心として頑強に守り、島津勢は500が負傷、
また多くの討ち死にを出し終に撃退された。

同年9月15日、島津は島津彰久を大将、伊集院忠棟、平田光宗、上井覚兼らを副将とし、さらなる大軍を以って
再度石ノ城へと押し寄せ、総攻撃を行った。
これにも石ノ城勢は三日三晩にわたって頑強に抵抗したが、元より小勢のなか、兵糧も尽きたことにより、
講和を受け入れ城を開城することと決まった。

講和が決まると、石ノ城の大将である長倉祐政は城の明け渡しのため島津義弘の陣所へと参った。
義弘は長倉に言った
「今回のことは貴方にとって残念ではあるが、これより後は私に従わないか?」
そう言って三方に土器の杯を据えて長倉へと差し出した。主従の礼を取ろう、ということである。

しかし長倉

「確かに残念限りないことです。ですが二君に仕えるのは義士の成さぬ所です。」

そう言うや土器を三方の縁に当てて打ち砕き、その座を立ち退こうとした。

この場の島津勢の人々はその無礼を見て激怒し、彼を討ち果たそうと騒いだが、義弘はそれを制して
「いやいや、彼は義士である。また、その主人のために働いた人を殺すのは不義である。」
そして長倉に

「あなたは此処から何国に立ち退くのか?」

「豊後へ。」

そこで義弘は侍大将二人に命じて、長持ち二つを用意させ、
一つには沓や鞍、雑具の類を入れ、もう一つには食物などを入れさせた。
それを持たせ、豊後との国境まで彼を送ったとのことである。

(日向纂記)



島津義弘と道案内役

2016年02月17日 18:17

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 00:29:18.18 ID:OUAq51ED
島津義弘公の決死の関ヶ原敵中突破の後、
道案内役として拉致された文右衛門(恐らく正しくは又右衛門)さんなんだけど、どうやら堺まで一緒だったようです。

後日談があって、慶長16年夏、義弘公77歳の時にわざわざ大隅国加治木まで訪問して再会していたりします。
文右衛門さん曰く、ご存命のうちにもう一度お会いしたかった、とのこと。
もちろん義弘公も大喜びして大歓迎。
関ヶ原の思い出話に花を咲かせて、さらにその後もあの時のお礼と言わんばかりに宴三昧、ご褒美をたくさん与えたようです。

なおこの文右衛門さんですが、どこの国で苗字は何なのか、正体不明のままです。
大小の刀を差していたことから士分であったことは間違いないようですが。

素性がバレて義弘公の逃亡を手伝った罪に問われる事を防ぐため、島津家なりの配慮なのでしょう。

ただそれが敵中突破後の退却路がよく分からん、という結果にも繋がっているのだと思います。

関ヶ原後日談に見る、身分違いも気にしない義弘公とその戦友の良い話。

(帖佐彦左衛門宗辰覚書)



【話題】島津義弘小説、6月からウェブで公開

2015年05月28日 17:14

84 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/27(水) 21:48:19.61 ID:9GfvjNwH
初めて書き込みさせていただきます。至らないところもありますがお願いいたします。

大河ドラマ化に弾み 島津義弘小説、6月からウェブで公開
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=66690
 戦国武将・島津義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区の
「義弘公大河ドラマ誘致委員会」は、徳間書店と共同で、義弘の生涯を描く小説を企画している。
作家・井川香四郎さん書き下ろしの「島津三国志」。6月から、ウェブマガジン「歴史行路」
で公開する。関係者は「ドラマ化には原作の必要性も指摘されており、弾みになる」と期待を寄せる

85 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/27(水) 23:12:39.29 ID:9GfvjNwH
84の続き
小説は約一年間毎月掲載され、閲覧は無料で書籍化も予定しているそうです。
(南日本新聞2015年5月27日記事より)

少し前に「義弘公大河ドラマ誘致委員会」主催の講座を聞きに言った時、
「最近の大河が振るわないのは、歴史に関心のある人が脚本を書いてなく、
いい原作がないからと思い徳間書店と共同で企画を考え、小説を書いて
もらっています。夏にはウェブで公開予定です。」と言ってましたが
本当に予定通りに進んでる…
あと、宮崎県えびの市に義弘の銅像を立てる計画も順調に進んでいる
そうです。



86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 00:35:05.46 ID:LkWj94pc
ウェブマガジンってのはどうなのよ?
もっとメジャーな文芸誌や新聞とか週刊誌じゃないと
知名度上がらないし…

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 07:26:31.84 ID:Yy790yKb
島津だけでは正直薄いよなあ
やはりあの時代は暗黒太閤と化した秀吉あってこそ
しかし秀吉のキャラ立ちは圧倒的なので島津が食われかねない
だからといって九州内の覇権争いだけを描いてもなあ

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 13:38:32.93 ID:w8Exbow6
義弘を主役に派手さを狙うのは甘え
義久を主役にして権謀術数渦巻く知略戦を描くべき

89 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 14:31:42.63 ID:3nQUdxjC
義弘が主役なのは、義弘ゆかりの地である姶良、日置、湧水、えびのの4地区
の所が企画しているから当たり前のことですしねぇ。
(日置市と姶良市は義弘にまつわる歴史的なつながりなどから姉妹都市ですし
姶良市の市長さんの名前は笹山義弘さんですが、父親が島津義弘にあやかって
名づけたそうです)
義久を主役にした小説…読みたいけれど、多くは望みません。
ただ、今回の小説で義久が悪く書かれないよう祈るだけです。

90 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 14:36:24.17 ID:3nQUdxjC
なぜか、IDが変わってました。
84・85・89は同一人物が書きました。

92 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/28(木) 21:09:57.42 ID:3nQUdxjC
84・85の補足です。
南日本新聞2015年5月27日記事の紙面の方には
井川さんは「これまでの猛々しいイメージとは異なり、東アジアから
世界へ向けた視線、家族愛や同胞愛など慈愛に満ちた義弘公を描きたい」
としている。
姶良市誘致委員会の会長さんは「多くの人に読んでもらい、大河ドラマ
の実現へ向けた機運の醸成につながれば」と話した。

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 00:15:09.60 ID:1I/mC1ZA
既に怪しい雰囲気が醸し出されてるなあ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 00:59:48.83 ID:kUwDtlwJ
加藤清正のタイガードラマはよ

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 03:12:59.38 ID:6LcORnJI
>>92
つまり、島津ドラマ化のネックになっている朝鮮人皆殺しや琉球侵略を
「きれいなジャイアン」でごまかすってことかw

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 06:26:43.57 ID:05Bd7qhS
>>85
平清盛を見れば現実離れした見解だよなぁ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:20:57.75 ID:uBMgoFHx
バカ知事が何か言いそうw

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:51:37.37 ID:X1R2YQCf
>>92
義弘が、「儂は戦は嫌じゃ」とか言い出しかねんなw

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 07:55:35.24 ID:mcDINiea
>>92
部下に優しくて敵には猛々しい義弘にできんのか。火鉢エピとか大工エピとか性格出てると思うんだが。

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 08:33:20.77 ID:TH6fkjnm
島津は映像化できないだろ・・・色々と悲惨すぎる

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 10:54:25.41 ID:5bj3lFUm
奴隷を南蛮に売ってたっけ?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 17:01:26.02 ID:zdzYrMsl
日本じゃなくて東アジアからって書いてある時点で制作スタッフ臭すぎでしょ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 20:46:50.48 ID:wwV7liSe
鉄砲伝来とか重要イベントあるから(震え声)

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 21:09:32.57 ID:7e3CBtA7
>>101
うん、大友とか大村とかもね
インドのゴアでは原住民対策の兵員として重宝したらしい

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 02:18:09.14 ID:CWM9Z+LL
>>98
代わりに義久さんが全ての原因になるんですねわかります

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 07:17:33.57 ID:5P1QqS+E
戦国の世の家族愛や同胞愛ってとっても猛々しいよねw

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 00:32:49.85 ID:DaNyHf8r
ラスボスの秀頼への家族愛で何人も死んだ

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 16:05:45.71 ID:EF3ETCaI
家族愛に満ちた父の教えを受け継いだ息子はその教え通り子を沢山成したというわけですね

【ねこ大好き】島津義弘、近衛前久に猫を贈る

2015年05月08日 18:55

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:26:10.43 ID:Igh/VUP+
【ねこ大好き】島津義弘近衛前久に猫を贈る

慶長年間の事と推定されるが、島津義弘近衛前久に猫を贈った事があった。
その結果近衛前久から礼状が贈られてきたのであるが、その内容は
「本望の至り、年来待っていたところ、ことさら美しく見事で、一段満足している」
という前置きを置いて「さらに猫を頂きたい。」との要求であった。
その理由は
「その猫は夫人に取られてしまい、自分の手元にはいないから、もう一匹送ってもらえないか。決して他人に譲るのではない。娘も懇望しているけれど、それは無視していい。まず自分の分を一匹ほしい」
ということであった。
(「旧記雑録附録二」二七〇号)


まとめサイトのコメント欄で紹介して頂いた逸話なのですが
シャイな※主様が他の人に投稿頼むと仰ってた&猫好き魂を鷲掴みにされましたので
僭越ながら※主様ご紹介の南日本新聞の「さつま人国誌」(2015年5月4日付)を
出典として要約し投稿させて頂きました。
元記事には他にも犬に関する逸話等が記載されております。



953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:29:37.28 ID:B0Sjzqyc
関白のくせに、ペットをねだる調子のいい話?w

954 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/07(木) 20:48:37.66 ID:hya75fci
やはり島津家はNNNの支部だったのか

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:54:43.78 ID:xD7IsRlR
>>952
娘の分も暗にねだってるw

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:58:46.83 ID:UFTPDb99
なぜかプリンのコピペ思い出した

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 22:42:31.46 ID:jkzHWnJt
薩摩はネコの産地だったのか?朝鮮にも連れて行ってたし

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 00:29:10.45 ID:xc36Xewg
三斎様も忠利に猫クレクレしてたけど、
この時代の猫って貴重で探して捕まえてたんだっけかな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 02:13:42.34 ID:Y5kEKSGr
ここの猫ってのはペルシャ猫のことかな?
それとも日本には元々猫がいなかったとか

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 06:13:58.72 ID:ARjUb34o
井伊直孝「猫と聞いて」

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:02:21.04 ID:Np3grdNi
猫って鼠が殖えるまでは紐に繋がれて飼われてたよね

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:21:15.93 ID:HjLXgSyq
板倉勝重「ワシが猫を開放した」

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:35:37.68 ID:MvSWJ74j
最上義光「ぬこ…」
天庵さま「うちの子だって!」

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:48:17.67 ID:MvSWJ74j
これは近衛卿側の逸話になるのかな?

それと鶴が逃げても動じなかった秀吉が、猫が逃げて衰弱してるからおそらく秀吉も猫好き。

検索したら猫好きの人の性格が出て来た。

「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」な傾向とか。

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:01:11.95 ID:MvSWJ74j
日本猫(和猫)は、8世紀頃に大陸から経典を鼠から保護するために日本に伝わったとされるが、長崎の弥生時代の遺跡からも古来の猫の骨が見つかっている。
889年(昌泰2年)宇多天皇の唐の黒猫の飼育日記があったり、花山天皇が皇太后に愛玩動物として猫を贈った話もある。

東南アジアや琉球から貿易を経由して日本に都度都度猫が入り、日本に家猫や野良猫が定着したのは江戸時代頃とも言われる。
日本猫で代表的なものは、「白猫」「黒猫」「サビ猫」「トラネコ」「ブチネコ」「三毛猫」の6種類。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:17:09.22 ID:0PPEkGvE
(⌒▽⌒)

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:20:18.99 ID:9cl0PIMM
鍋島直茂「ネコなんて大嫌いだあああっ!!」

968 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/08(金) 10:28:05.42 ID:At7WWQV/
天久院「猫程度にうろたえるとは軟弱な」

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 12:25:01.99 ID:MvSWJ74j
>>952
犬の話も気になる

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:28:01.94 ID:MvSWJ74j
「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」

猫ブロガー宇多天皇、豊臣秀吉、近衛前久、伊達政宗、最上義光、小田氏治、井伊直孝…

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:31:42.47 ID:MvSWJ74j
A=B=C、つまりA=Cである

A=伊達政宗
B=猫好き
C=細川忠興

つまりまーくんは三才様だったんだ(違います)

君子 三の戒

2014年12月15日 18:45

15 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 12:03:19.05 ID:+mpcXuzM
 君子 三の戒

 慶長二年(1597)の八月。全羅道(チョルラド)の南原(ナムウォン)城を攻略すべく、宇喜多秀家を大将とする左軍の軍議が行われ、議定一決して諸将が陣に戻った後の事である。
 (ちなみに右軍の大将は毛利秀元、総大将は釜山の小早川秀秋)

 島津義弘は、忠恒とその近習を召し寄せ、こう語った。

「君子三の戒にも、その壮なるに及んでや血気まさに剛(こわ)し。これを戒める事、闘いあり」

 是、文宣王(孔子)の格言にして千歳不易の論なり、と義弘が説いたのは、論語の一説だった。

 孔子曰「君子有三戒。
 少之時、血気未定。戒之在色。及其壮也、血気方剛。戒之在闘。及其老也、血気既衰。戒之在得」。

 君子は、少壮の時は色欲、壮年の時は闘争欲、老いては利欲を戒めなければならない。

「今や忠恒は壮にして、血気もっとも盛んなり。然れば分捕りの高名、独り懸け等これを戒めよ」

 自身が兄・義久の守護代として参陣しているのに対して、忠恒は義久の女婿として三州の太守を嗣ぐ身である以上、軽々しく敵陣で分捕りや一騎駆けに出るな、と戒めたのだ。

「吾、久保を唐島(巨済島)の地に亡くし、追憶未だ止まず」

 最後に実父として子に先立たれる辛さを述べるや、左右の家臣は皆が落涙し、忠恒も父の説く理に納得した。

16 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 12:03:56.75 ID:+mpcXuzM
 そして、八月十三日より南原城への攻撃が開始された。

 三日間の攻城戦の末、小西行長の計略により城兵が油断した十五日夜の奇襲で南門が破られると、明軍の副総兵・楊元の率いる遼東兵が西門より脱出した為、遂に落城。

 その退路には、全州(チョンジュ)の城から南原に後詰の軍勢が来る事を警戒していた島津義弘と加藤嘉明の軍勢が待ち伏せていた。

 戦死者と逃亡者により、遼東兵が思肆館まで撤退した時には、残存兵力は百人余りに減じていた(その為、楊元は明軍で処刑され漢城の南大門で獄門にされた)。

 この時、島津勢が討ち取った首級は四百二十一、佐土原勢(島津忠豊)が十三首。

 特に、島津勢の首級のうち三首は、義弘自身が斬り獲ったものだった。

 その事を聞いた途端、忠恒の中で何かがキレた。

「老巧(ママ)すらかくの如し。吾、壮にして何ぞこれを忍びんや!」

 と叫んで、制止する近臣を振り切り、単騎突出。

 その勇姿に、向かう敵は一人もなかった。……既に、戦闘は終結していたので。本当に、敵はいなかった。死体以外に。

 故に握刀の功なくして、ようやく払暁に至り帰還する。その憤怒は猛然としていたと『征韓録』は記す。

 『征韓録』の「南原之城陥事、附全州城明退事」より抜粋。義弘の活躍と(忠恒と連名ながら)秀吉より賜った戦果を賞する朱印状に続いて、忠恒の個人戦果なしの逸話を乗せ、〆に忠豊の朱印状を持ってくる構成。

 作者(編纂の総裁は島津久通)は、忠恒(家久)に含むところでもあったのだろうか?




20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/15(月) 20:09:59.98 ID:6REdTz3o
>含むところ

忠恒の場合心当たりが色々とありすぎるからなw

それがしは遂に功を挙げる事が出来ませんでした

2014年02月27日 19:09

467 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/26(水) 20:34:20.52 ID:sCDBYhIN
「それがしは遂に功を挙げる事が出来ませんでした」
とある老武士が、話相手の老武士に言った。
二人は主従であり、話しかけたほうが従者である。
言われた側、即ち主人の方の老武士は怪訝な顔をした。
ともに隠居するまで、それはそれは数え切れぬほどの戦場に出ては生還してきた。
「功がないわけがなかろう」という主人の疑問である。

これに従者が笑って曰く
「兵と見れば殿が槍をふるって追い払い、将と見ればこれまた殿が御自ら討ち取っておられましたので」
大将が自ら陣頭に立って槍を振るう、従者としては頭と胃が痛くなるような悪癖が
「とうとう隠居するまで直りませんでしたなあ」と軽く皮肉ったのである。

これに主人はうまく返すこともできず「ああ、そうだったそうだった」と
苦笑いするばかりだったそうな。

関ヶ原も大阪の陣も過去となった泰平の世。
島津兵庫頭義弘と中馬大蔵重方主従の会話である。





島津義弘と膝跪栗毛

2012年11月01日 19:52

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 22:11:22.22 ID:K68WsBuF
島津義弘と膝跪栗毛


元亀3年(1572年)、薩摩の島津と日向の伊東が戦った『木崎原(きさきばる)の戦い』でのこと。

この合戦の前、島津勢の指揮官、島津義弘はある夢を見た。自分の乗っていた馬が
足を折ってしまうという夢だった。
夢の内容を菊一という盲目の僧に占わせると、それは次の合戦に島津が勝つという
お告げであるという。

馬が足を折ったなら当然馬から降りなければならない。

馬を降りるということは歩くことになる。

歩くこと、すなわち「徒歩(かち)」なので「勝ち」

なのだと。

(続く)

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 22:11:55.45 ID:K68WsBuF
そして木崎原の戦い本番。ダジャレ、もといお告げが当たったのか、戦いは島津の勝利となった。
義弘が戦場を馬で回っていると、敗走する伊東勢の中で殿軍をつとめる騎馬武者が
目にとまった。

「我は島津兵庫頭なり! いざ勝負せよ!」

と大音声で呼ばわれば騎馬武者も名乗り返し、

「総大将御自らとは光栄! 柚木崎丹後守、参る!」

馬を駆って向かってきた。柚木崎(ゆきさき)丹後守正家は日向柚木崎城の城主で、
伊東勢の大将のひとりである。

義弘と丹後守は二度三度と槍を合わせるも、丹後守が馬から落ちて地面に転がる。
こうした場合、本人が馬から下りて討つか、徒歩で付き従う家臣郎党が討つのだが、
このとき主人の意を真っ先に察したのは義弘の乗馬だった。
この馬が前足の膝を折り曲げて地面につけたのである。義弘は槍を下に向けて突き、
みごと丹後守を討ち取った。

義弘は夢のお告げを正夢にしたこの馬を「膝衝栗毛(ひざつきくりげ)」と命名し、
非常に大切にした。
『名将言行録』によれば、義弘は生涯52回の戦いのうち20回余りをこの膝衝栗毛に跨って
臨んだという。
膝衝栗毛は馬としては非常に長命の86歳まで生き、鹿児島県姶良市の亀泉院跡に墓が残されている。

加藤清正の帝釈栗毛、鬼武蔵の百段にも劣らぬ、島津義弘の愛馬のお話。



186 名前:172-173[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 08:26:31.27 ID:DKgNWerh
ひとつ書き忘れ。

記録によると膝衝栗毛は牝馬(メス)だったようで。
戦のたびに駆り出されてると、繁殖はできなかったんじゃないかなあ。

義弘お兄ちゃん動物にもモテモテというお話。




175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 23:12:18.05 ID:kN4VqeVH
>>173
馬だったら、超長命でも40歳くらい?実は象だったんじゃ?w


176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 00:04:53.06 ID:g5WrITFm
実はその馬お兄ちゃんが中に入ってたんじゃね?

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 01:00:19.97 ID:+VLFSbrt
>>175
かの三冠馬シンザンが日本の軽種馬の最高齢記録を保持していたけど、
それでも満35歳。40歳なんてまずありえんと言い切っていいレベル。
ましてや80歳以上だなんて…

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 01:39:47.49 ID:504Z1GA8
この手の図抜けた長命の動物の話って、単なるホラ話というよりは、
事情を知らない一般人が二代目や三代目の死亡年から逆算した勘違いでは。
そんなに縁起のいい馬なら、繁殖させたりもするだろうし、
二代目三代目が居ても不思議じゃない気がするけどね。

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 02:02:03.47 ID:c293RWN0
あるいは暦で示されててちょうど60年分勘違いしてるかもな
26歳なら普通すぎるかw

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 02:42:28.49 ID:YrMp6V1+
なんかの脱字か何かじゃないかな?

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 03:45:36.73 ID:aDa6Tlf6
>>175
鬼武蔵さんの愛馬も相当長生きだったよね

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 04:29:58.01 ID:eL3tFQLr
膝衝栗毛ハ十六歳マデ生キマシタ。


187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 14:31:09.77 ID:gJQfI2k2
>義弘は生涯52回の戦いのうち20回余りをこの膝衝栗毛に跨って

乗ってない時は馬が産休入ってたからかもよw

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 15:16:34.08 ID:504Z1GA8
そうだな
「出産前後くらいは日頃の感謝をこめて・・・サンキュー」とか言ってたかもな

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 15:30:00.19 ID:V46KQ4t9
>>188
発音的にはテンキューではないかと武田左馬助様が申しております

妙円寺参りの歌

2011年10月23日 22:01

436 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/22(土) 21:43:24.22 ID:bb6xDf1n
妙円寺参りの歌
今日は伊集院で妙円寺参りがあったから見に行ったよ!妙円寺参りの歌って悪い話かな?
場違い、スレチ、かぶっていでしたらすみません。後、歌が22番目まであります。
にわかですので、説明は短く間違っております!多分


時は1600年。天下分け目の戦いとして知られる関ヶ原の戦いの折、豊臣方として戦った島津勢は
徳川方の敵中を突破し帰鹿を果たしました。鹿児島城下の武士たちは往時の苦難をしのび、いつからともなく
妙円寺詣りとして参拝するようになりました。
  当日は鎧冑に身を固めた勇壮な武者行列のほか、市内を代表する民俗芸能などが披露され県内各地から
多くの人が訪れます。(鹿児島三大行事のひとつ)


明くれど閉ざす雲暗く 薄(すすき)かるかやそよがせて 嵐はさっと吹き渡り 万馬いななく声高し

銃(つつ)雷(いかずち)ととどろけば 太刀稲妻ときらめきつ 天下分け目のたたかいは 今や開けぬ関ヶ原

石田しきりに促せど 更に動かぬ島津勢 占むる小池の陣営に 鉄甲堅くよろうなり

名だたる敵の井伊本多 霧にまぎれて寄せ来るや 我が晶巌ら待ち伏せて 縦横無尽にかけ散らす

東軍威望の恃みあり 西軍恩義によりて立つ 二十余万の総勢の 勝敗何れに決戦や

戦い今やたけなわの 折しも醜(しこ)の小早川 松尾山をかけくだり 刃(やいば)返すぞ恨めしき

前に後ろに支えかね 大勢すでに崩るれど 精鋭一千われひとり 猛虎負嵎(もうこふぐう)の威を振るう

蹴立てて駒の行くところ 踏みしだかれぬ草もなく 西軍ためにきおい来て なびくや敵の旗の色

家康いたくあらだちて 自ら雌雄を決っせんと 関東勢を打ちこぞり 雲霞の如く攻めかかる

かかれ進めと維新公 耳をつんざく雄叫びに 勇隼人の切先の 水もたまらぬ鋭さよ

払えば叉も寄せ来たり 寄すれば叉も切りまくり 剛は鬼神を挫けども 我の寡勢を如何にせん

運命何れ生か死か ここを先途と鞭ふるい 奮迅敵の中堅に 活路(みち)を求めてかけ込ます

譜代恩顧の将卒ら 国家(くに)の存亡この時と 鎬(しのぎ)をけずる鬨(とき)の声 天にとどろき地にふるう

篠を束(つか)ねて降る雨に 横たう屍湧く血潮 風なまぐさく吹き巻きて 修羅の巷のそれなれや

薙げど仆(たお)せど敵兵の 重なり来たる烏頭坂 たばしる矢玉音凄く 危機は刻々迫るなり

骸も染みて猩々緋 御盾となりし豊久を見るや敵兵且つ勇み 群り寄する足速し

賜いし御旗ふりかざし 阿多長寿院駈け入りて 兵庫入道最期ぞと 名乗る雄々しき老いの果て

欺かれたる悔しさに 息をもつかず忠吉ら くつわ並べて追い来しが 返す我が余威また猛し

牧田川添いひと筋に 行く行く敵をけちらして 駒野峠の夜にまぎれ 伊勢路さしてぞおち給う

献策遂に容れられず 六十余年の生涯に 始めて不覚をとらしたる 公の無念や嗚呼如何に

興亡すべて夢なれど 敵に背(そびら)を見せざりし 壮烈無比の薩摩武士 誉は永久に匂うなり

無心の蔓草(つるくさ)今もなお 勇士の血潮に茂るらん 仰げば月色縹渺(ひょうびょう)と うたた往時のなつかしや

島津的にも悪ければ小早川的にも悪い話って言うか歌でしょうか?
でも、武士をしのんで歌ったのでいい話(歌)かもしれませんね
長文失礼しました(_ _)





437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 00:10:57.70 ID:sgrQgA4S
すんません、おバカ用に三行でお願いします

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 00:29:03.79 ID:fqpql2FA
歌が
いっ
ぱい

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 01:08:39.19 ID:v/0/cc88
>>437
ざっくり要約すると、

・暗雲雷雨の中、大勢力と名だたる将を繰り出し攻めてくる悪の帝国(東軍)。
・恩義ある西軍についた大正義島津軍は、待ち伏せなどを駆使して勇戦したが、醜い小早川の裏切りと
兵の少なさのせいで劣勢に。
・負けたのは卑劣な裏切りと、兵数と、上が献策入れなかったせいであって、本当は薩摩島津は最高だぜ。

という負けず嫌いな歌。

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 01:16:24.48 ID:xJ8MUZx2
妙円寺参りは歴史があるけど、家康と呼び捨てにしている歌なんて
本当に幕府時代に歌ってたんだろうか

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 04:59:46.57 ID:EdqBg3KP
諱を呼び捨てって敵でもなければしなさそう
討幕軍時代のなのかな

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 06:22:22.94 ID:p9ppFA2P
妙円寺参りに関して悪い話をしよう
地元民の学徒は半強制で休日に20Km歩かされる為、敵中突破に関して冷めた史観を持つ
鎧武者役で20Km歩かされる地元青年団等に関しては敵中突破を憎んですらいる
参加者はスタート地点の市内まで電車が無料の為、逃亡兵が続出する
名前は妙円寺参りだが実は20m手前の徳重神社にお参りする行事です
マジで行事期間中に妙円寺まで来る人が皆無な為に坊さんが嘆いてます
平時の妙円寺近辺の道は人気の無い通学路でもあり、学生カップルの間では愛のメモリアルロードと呼ばれている

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 06:38:40.59 ID:y5v3wUby
>>441
まあ正直この漢文調は明治っぽいなw

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 07:11:58.87 ID:DDGd8F14
20kmぐらいたいしたことないだろ。
うちの高校は深夜40km遠足とかしてたぞ。

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 08:22:11.82 ID:3/kCtAhC
レプリカとはいえ鎧兜の二本差しに慣れないわらじ履きと、体操服に運動靴を一緒にしたらアカンやろ

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 08:31:15.68 ID:EdqBg3KP
時代錯誤の脳筋イベントってどこでも強制なんだな

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 08:39:31.61 ID:FIWQzZP1
え、あれ先祖が藩士でないとハブられるつーて鹿児島出身の上司から聞いたぞ。


448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 11:45:20.12 ID:GScqVlj0
かといって他のイベントは・・・唐入りは論外だし熊撃ちとか戸次川はカドが立つしな。ところで倍の戦力あれば
勝てたと思うのは俺だけか?

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 11:49:49.20 ID:O9fMlMRX
当時の足軽の装備は全部で重さ30kgぐらいあったって聞いた事があるが
鍛えているわけでもない今の学生にその装備で20km歩かせたら途中で死者が出そうだ

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 12:22:26.62 ID:fMMLMDR5
>>446
当然だろ、強制じゃなかったら誰がやるんだ
何が悲しくて御影から宝塚まで山道歩かにゃならんねん

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 12:35:09.53 ID:lz/kR7iX
>>448
無理だな。島津が倍になったところで石田や大谷隊が抜かれたら状況は変わらないし
西軍全体が倍になった場合東軍に内応する数も倍になるw


452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 12:49:21.04 ID:cgbjz+VP
さすがに西軍全体が倍になったら内応をやめる奴が出そうな気がするw
てか宇喜多が倍なら福島を跳ね返しちゃうんじゃね。

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 12:51:26.13 ID:5PkRQgiW
>>451
さすがに西軍全体…とかなった場合、
あまりの大勢力ぶりに内応出来ないという状況になりかねないけどな
まぁそんな事態を起こさないのが秀吉の遺訓とかガン無視して婚姻外交とか連発した、
家康の多数派工作の成果なんだけど

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 13:00:14.39 ID:b5ZbQWav
if…モノは結論が出ないことをgdgd語るから面白いんだけどな~

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 13:39:44.67 ID:AmQ/9jLT
>>444
うちの会社は中津城ゴールの100kmウォークに40歳以下の社員は強制参加させられるけどな

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 14:09:59.46 ID:p2kOJVnA
島津が大兵を抱えて参陣出来た場合、東西どっちにつくんだろ
つか維新入道は明らかに捨て城の伏見入城して何するつもりだったんだ

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 14:28:32.66 ID:vwjYPMKh
島津が大兵連れてきたら黒田と加藤に抑えられてTHE ENDぢゃね

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 16:34:18.30 ID:p9ppFA2P
>>456
西軍に付く→本国では黒田加藤と戦う為に兵力がいる→増援無理→関ヶ原は寡兵で頑張れ
東軍に付く→伏見城防衛しなきゃ死ぬ→増援は間に合わない→伏見城防衛は寡兵で頑張れ
正解は伏見城にいかずに大阪の人質救出して薩摩に帰り中立を保つ

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 16:50:47.43 ID:o+XPHyCH
島津は義弘の手勢で会津に行くつもりだったけど、出遅れて気づいたら周りはみんな敵になってた。で、とりあえず
伏見城に避難しようと思ったら鳥居元忠に追い帰された。

五千、一万の大軍だったら西軍も簡単には手出し出来ないから、そのまま会津に行ったんじゃない?

島津義弘の妻宰相殿

2011年10月19日 22:02

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/18(火) 22:47:51.20 ID:pfcAesF5
島津義弘の妻宰相殿は若い頃、あかしと呼ばれていた。
あかしが家の前で大根を洗っていると、鷹狩中の義弘が通りかかった。
義弘はあかしに「その大根をくれ」と話しかけた。
あかしは義弘の顔を知らないため義弘だと気付かなかったがただ者ではないと思い
脇に置いてあった菅笠を取り、被る方ではなく上の部分を凹ませ
そこに大根を乗せ義弘に差し出した(被る方にしなかったのは失礼だと思ったため)。
このさりげない優しさに感動した義弘は、
島津家より遥かに家格の低い家出身のあかしを正室として迎え入れた。

『盛香集』より




158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 00:01:15.72 ID:VxGL+uyc
鰯で恋に落ちたナベシマンといい、
男のハートは胃袋に隣接しすぎww

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 00:06:59.75 ID:c/frY2zZ
島津歳久も年上で身分違いの女性と結婚してなかったっけ?
あと義久の最初の妻は伯母

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 01:55:22.75 ID:LSkHHtMc
>>159
しかも義久の二番目の妻は従姉妹じゃなかったっけ
島津はなんか血縁近い結婚多いのだろうか

悪家久もいとこ婚だよなあ

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 02:13:31.23 ID:/Wl1gmcv
いとこ婚くらいは、中世日本なら上から下まで普通のこと
さすがに伯父伯母は珍しいけどな

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 06:38:36.56 ID:ZFV9D1dm
現代でもたまにあるな
前の総理とか

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 06:50:02.42 ID:FAVBohdD
>>161
伊達成実の父は伊達家14代伊達稙宗の3男伊達実元、母は父の兄である15代伊達晴宗の娘で、
妻は晴宗の娘と二階堂盛義に生まれた娘で、二階堂盛義の母も伊達稙宗の娘ですが。

ああややこしいw




164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 09:39:33.51 ID:wx3iGtPV
>>163
そんなにややこしいのはレアケースだw

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 09:40:20.96 ID:5rHefL28
よくわかんないけど、すごいインブリードだってことは理解した

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 11:24:58.44 ID:vQLvaafl
東北は みーんな親戚みたいなもんだからなぁ

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 12:02:47.65 ID:kRoMtUgJ
つか大名は腹違いとか多いのを考慮しないと血縁(兄弟)関係を濃く見積もり過ぎてしまうかも

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 20:33:13.16 ID:u0Hgmgbh
>>157
良い話なんだけど、鷹狩り中になぜ大根なんて欲しがったのかわからないw
大根は口実で、一目惚れして話しかけてみたかっただけだろ絶対w

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 20:43:07.98 ID:dtNycMRs
>>173
 なんと声をかけていいか判らずとりあえず近づいてから咄嗟に出た言葉が
「その大根をくれ」だった?

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 20:43:35.68 ID:XgThtTCL
>>173
『今夜もまたお前を夢をみたよ…まさに今、この場で出会ったようだった』
って唐入り中の手紙の追伸に書くくらいだもんな

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 21:17:30.48 ID:u0Hgmgbh
>>174
「その大根をくれ」で菅笠から受け取ったものの、扱いに困って
鬼島津「の、喉が乾いておったのだ有難い」ボリボリボリボリ
あかし「・・・お待ちくださいませ、すぐに水をお持ちいたします」←家の真ん前

なにその萌え島津

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 10:03:50.20 ID:gOh7RepR
>>158
亀レスだが…。
「手づくりの肉じゃがでイチコロ」と似たようなものか。
九州の男は純情なのか、はたまた単純なだけなのか…。

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 10:32:59.71 ID:IpsKCk5f
良い方に受け取ってやろうぜ

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/22(土) 12:37:17.04 ID:CUTbNDTb
九州男児は女性が強いとダメなんだよ。
立花さんとか悪久さんとかさ。

島津義弘「過去の事を槍玉に挙げて、窮地にある味方を見捨てたとあらば」

2011年06月26日 23:13

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 09:46:29.28 ID:legXsIAX
>>368

さっき遅めの朝食を取ってきました。
お腹が満たされたところでこんな逸話を。

朝鮮の役では補給が途絶えがちであり、 兵糧不足に悩まされることも度々であった。
慶長の折、五島氏の使いが「兵糧が幾らか不足しており、分けて頂きたい」と島津義弘の陣を訪れた。

兵糧不足はどこも同じであり、五島氏の使いが方々で断られていたことを家臣達は知っていたので
「お気の毒ですが断るしかありますまい」という意見が大勢であった。これに対し義弘は
「他家へ使者を出すということは余程兵糧に困っているのであろう。その困窮は『幾らか』どころではあるまい。
 当家の兵糧も些か心もとないが、コメの一粒も余裕がないわけではなかろう」
といったが家臣たちは承服しがたい様子。
島津家が秀吉に九州制覇の野望を挫かれたに対し、
五島氏は即座に秀吉に属し本領を安堵されていたことも関連していたかもしれない。

だが義弘は続けた。
「かの家と当家はいきさつこそ違えど、今は供に太閤殿下の下で戦う間柄ではないか。
 過去の事を槍玉に挙げて、窮地にある味方を見捨てたとあらば、今後当家と友誼を結ぼうとする者はおるまいぞ。」

この言葉に承服した家臣に重ねて義弘は命じた。
「少しでもよい、分けて進ぜるように」
そこで兵一人あたりの一食の量を少しづつ削ることで兵糧を工面し、五島氏の陣へ届けさせた。

「過去に拘って今の味方に仇をなすな」と五島氏を助けた義弘が
後の関ヶ原で立花宗茂に同じような言葉で救われていることを思うと
いろいろ考えさせられる逸話です。




371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 13:21:11.46 ID:c5tRMKNJ
情けは人のためならず

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 16:37:06.31 ID:Lb+cSQ1C
>>369
島津の情けある行為は、朝鮮在陣の諸将の間で評判になったはず。
当然、完璧超人の耳にも届き、記憶に残る。
これが関ヶ原後の、親の仇は過去のこと、今は味方の島津を助けよ
につながるんだろうね。

島津退き口と落ち武者狩り

2011年06月22日 23:34

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 07:25:48.90 ID:Uoilh+uy
慶長5年(1600)9月15日の夕暮れ、薩摩武士・帖佐彦左衛門宗辰は、関が原からの脱出に成功した島津義弘の命を受け、
郎党五、六人を連れて食料調達に向かった。
道中の村で五十人ほどの食事の用意を頼んでみた宗辰に、村長は快く準備を引き受けてくれた。

ひとまず安心した宗辰は、東軍の追っ手を警戒して村を巡回していたが、ある一軒家に多くの村人が集まって何事か
相談しているのを発見した。
「……宵の内か…明け方か………」などと話しているのは聞こえたが、それ以上は聞き取れない。
そこで、物見の術に秀でた郎党の大町余市に密かに聞き取らせたところ、恐るべき事を相談している事が判明した。


明智光秀・穴山梅雪の命を奪い、徳川家康をも危難に陥れた、畿内の落ち武者狩りである。


平静を装いつつ宗辰は村長に「仲間が遅れているので見てくる」と言い、愛馬を引いて郎党を連れ、村外に出た。
一町ほど進むと、宗辰に気づかなかったのか、それとも違和感を感じたのか、はるか前方に義弘一行の姿が見える。
これはいかんと馬に飛び乗った瞬間、「逃すな!」「討て討て!」と、村人たちがどこからか現れ、襲ってきた。


宗辰は必死で太刀を振るい道を切り開いたが、徒歩の郎党たちは次第に宗辰に遅れ、最後に宗辰が振り返った時には
村人に捕らえられ、袋叩きに会っていた。
(すまぬ……すまぬ!!)見捨てざるを得なかった郎党に詫びながら駆け続けた宗辰は、義弘一行に追いついた。

関が原の陣に十人の郎党を率いて参戦した宗辰だが、乱戦の中で三人が死亡、続く落ち武者狩りで五人が死亡、
残る二人も行方不明となり、薩摩に帰国できたのは宗辰一人だけだったという。
(旧記雑録より)


戦史に残る撤退戦を切り抜け、島津家が武名を高めた陰で、多くの名も無き侍たちが散った、そんな話。




732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 16:14:34.36 ID:yQpav8Tb
>>729
過酷な話やの。
負けた側は辛いわ。

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 17:33:05.53 ID:McSMcLKg
50人分用意しろって言ったのがまずかったな
1000人分とか言っておけばよかったかもしれん
少人数なのがばれた

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 20:08:12.79 ID:bSqxA0UK
千人分も用意できんじゃろ
断られてしまうわな
下手したら周囲の村と協調されて、それこそ殲滅されかねん

まあ、不馴れな土地での調達には危険が伴うわな
ましてや、ゲリラの村みたいな処なんだし

島津義弘、夜空を見上げて

2011年04月30日 00:01

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 19:03:04.08 ID:MF38ldLN
>>273

その頃、忠恒さんの実家では…

島津義弘は天文にも造詣が深く、時折自邸から夜空を見上げていたのだが、
ある時、ふとつぶやいた。
「ああ、大坂城の命、旦夕に迫る」

大坂城の落城を星を観て知ったのである。
さらに小姓を顧みて深く嘆いたそうな。
「もし自分が城中にあったなら・・・」

義弘さん、大坂城に入る気満々だったのか、入ったらどうするつもりだったのか…


まあ、この大坂の陣の頃の島津家の行動を見てると創作の疑いが濃い逸話ですが、
(まず、こんなヤバイ発言は記録に残せないと思う)
秀頼と幸村の薩摩での存命説といい、この逸話といい「島津ならこのくらいはやりかねん」
と世間から思われていたのかもしれません。




277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 20:39:39.24 ID:uykut7S6
秀頼の存命説もあるよね☆


278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 20:42:56.56 ID:wFm5oINr
星を観て運命を読むとかw
三国志の読みすぎです

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 20:57:31.97 ID:6S7LDyF3
三国志をマンガみたいに言うんじゃねえw


280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:11:37.41 ID:XZYgntNR
やー、三国志演義読んでる戦国武将はいても、三国志読んでる戦国武将はいないんじゃね?
そもそも日本に入ってたのか?

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:22:45.34 ID:tqOJ4im5
>>276
義弘「ああ、大坂城の命、旦夕に迫る」

小姓「大殿、まことにございますか。(まーた呆けてアホな事言ってるわ・・・)」

義弘「もし自分が城中にあったなら・・・」

小姓「大殿がいれば徳川勢など蹴散らすのは容易でございましょう(1人で飯も満足に食えないのに大坂城にいても足手まといになるだけだろ・・・)」

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:34:08.44 ID:HsCO0D+4
>>280
一般に知られていたかはともかく、三国志自体は8世紀には伝来してきてる。
むしろ江戸初期にようやく記録が増えだした三国志演義の方が読んでるかすごく微妙

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:47:10.40 ID:dKG3VviG
>>280
信長が姉川合戦の時、本多平八の活躍を「張飛のようだ」と称えた伝説があるな。
江戸時代に作られた話のような気もするが・・

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 21:49:49.34 ID:DxZW69P/
武士は(世界中の戦士階級に見られる傾向だが)かなり縁起担ぎを気にした。
後世だと作戦参謀だと思われる軍師も、実際は占い師みたいなもんだったし。
多少は星読みとかの素養があってもおかしくはないと思うが。

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 22:08:52.85 ID:tAmUvmZK
>>284
一方迷信を打破するため鳩を撃ち殺した晴信



鳩かわいそう・・・

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 22:11:30.97 ID:9cHOwgF8
竹中半兵衛の息子が「豊鑑」で、半兵衛の死について
「秀吉限りなくかなしび 劉備(or劉禅)孔明を失ひしにことならず」
って書いてなかったっけ

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/29(金) 23:02:31.55 ID:PCnNMvEP
>>288
重門かよw

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 00:19:07.17 ID:iQew9bV8
>>284
星ではないが、天正10年2月14日に近畿地方を中心に東の夜空が赤焼けするという気象現象がおこった。
それを見た奈良の僧侶は「その空の赤焼けは信濃浅間山が焼けたのが原因だ。浅間山が焼けたら信濃・
甲斐が滅びるという故事がある。」と記した(多聞院日記)。
一方で、信長も同様の感想を持ったようで「これは武田が滅びるという吉兆だ」と喜んだようだ(立入隆佐
日記)。

そして、4月22日今度は彗星が現れ安土山に落下した(フロイス日本史)。修道僧はこれは何か不吉な前兆
であると噂したという。


292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 01:15:08.30 ID:ihc9jMRm
>>276
てか、義弘さんってそこまで豊臣政権に思い入れないだろうかと・・・

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 03:02:06.30 ID:xbzwM9Xw
四兄弟の中でトキ役の義弘に死兆星が見えても不思議では無い

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 08:25:09.79 ID:ucQQnyCT
島津家ではきれいなジャギ様


295 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/30(土) 09:56:28.92 ID:onIA688L
拳王様は引きこもり・・・

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 12:39:19.71 ID:1Uup/6jv
末弟がキリングマシーンなのは同じだな

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 12:59:25.63 ID:Vb/lN7H7
>>294
死に方が「うわらばっ」な気も

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 13:00:24.95 ID:2At0Z2B4
この海のリハクの目をもってしてもすてがまりとは読めなんだ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 02:46:07.62 ID:heuk8b7p
島津百裂剣はヤバい

島津の退き口のわけ

2011年01月20日 00:01

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/18(火) 23:45:10 ID:3bCKS5bK
いい悪いどっちにしようか迷った島津義弘の話。


島津の退き口のわけ

島津の勇名を天下に知らしめた、関ヶ原の「島津の退き口」
敵中を“前に向かって退いて”関ヶ原を縦断し、伊勢街道に抜けたわけだが、
このルートを選んだのは以下の理由からだと言われている。

第一に、戦局に寄与せずただ撤退するのは、島津家の面目が許さなかったこと。
第二に、天満山を背に布陣していた島津軍が北(北国街道)や西(中山道)に
向かおうとすると山を登らねばならず、このとき65歳でかなり肥満していた
島津義弘が、山登りを面倒くさがったこと。




438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 00:58:11 ID:Noof9hdA
個人的には先に崩れた石田・小西・宇喜多・大谷隊の兵士で溢れかえっていて
事実上殿になって撤退どころではなく手薄な伊勢街道に抜けるのが敵の意表もついて
最も合理的だったと考えている

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 01:04:50 ID:KXjjqLfZ
ってか輿に乗ってるんだから山登りめんどくさいとか関係ないのでは?

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 01:06:14 ID:OzGs+Brm
めんどくさいで家老含む数多の勇者をすり潰したのならちょっと悪いじゃねぇな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 01:11:23 ID:/Cs2bbU3
まあ個人的には戦場に取り残されて敵の薄いところを選んで移動していたら、
結果的に中央突破っぽくなった、と思ってる。

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 01:23:59 ID:bxu/GW0W
>>440
全員志願兵だから文句は言えない

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 02:08:42 ID:yX8hlm7U
まあ個人的にはやけくそだったであろうと考える。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 02:12:21 ID:QH2gKQ2y
まあ個人的には1500人で中央突破出来るなら
1万人で家康の首取れたと思う

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 03:11:37 ID:nhzlIoLa
>>444
島津のは中央突破などという撤退行動ではなく、端的に壊滅、壊乱と呼ぶべき状況。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 03:18:47 ID:eotCypAf
戦国時代全体で見ても大名の首取った事例なんて数えるほどしかないのに
そこまで都合のいい思考をできる444に乾杯

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 03:28:43 ID:lc3Vo/pG
その少ない例の家久の繋がりの野郎どもだから期待したくなっちゃうんじゃない?
確か燃え萌え戦国武将対決!鍋島直茂VS島津家久って番組で言ってた

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 03:48:11 ID:bxu/GW0W
1500しかいなかったから、東軍外様勢と徳川先鋒の隙間をすり抜けることが出来た
1万もいたら、黒田なり福島なりと正面衝突してるよ

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 05:00:33 ID:2LZG+p4J
どうでもいい事だけど1500人じゃなくて300人

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 06:52:17 ID:/j0WTPoF
逃げる途中に、馬をつぶして食ったとき「殿を担ぐ雑兵の分が先で、殿に食わせる分はない」と
義弘の分の馬肉を奪い取った雑兵がいたそうだし
やっぱり太ってて居たのもさることながら、雑兵の負担を考えて山登りルートを避けたのもあると思いたいなあ

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 12:26:31 ID:N4EeK6Fi
吉川広家書状という一次資料などから、島津は三千なのが事実

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 18:57:15 ID:aaeKndE5
少数精鋭の突撃には弱い事で定評のある徳川

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 19:00:38 ID:nhzlIoLa
>>452
つーかいわゆる「関ヶ原退き陣」で島津はたしかに家康本陣と遭遇したが、
堂々と突破したとかではなく、東軍のふりをしてコソコソ通り過ぎただけだぞ。
そもそも島津の記録にそう書いてある。

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 19:40:06 ID:M81Z+1fL
>>452
だって小牧長久手から16年もブランクあるし……
島津なんてつい2年前まで朝鮮でドツキ合ってたんだし仕方ないよ(´・ω・`)

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 20:27:44 ID:N4EeK6Fi
>>452
天王寺の戦いも実際は豊臣方は家康本陣にすらたどり着いていない可能性がある

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 21:17:57 ID:ZyeoQhJl
>>450
それって中馬だろw
前そんな逸話がここに投稿されてた

中馬を「ちゅうま」だとばっか思ってたのは良い思い出

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 21:44:57 ID:OzGs+Brm
>>455
普通にたどり着いてないよ。本陣に一切損害ねーもんw
まぁ物語やからね

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 22:28:01 ID:1htvNvph
>>457
大久保彦左衛門がなんかかいてなかったっけか

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 22:35:18 ID:ZyeoQhJl
>>461
それは陣を下げた、いや、下げてないってことじゃなかったか?
旗が立ってた、立ってなかったうんぬんだったかもしれないが
とにかく彦左衛門が言いたかったのは「最近ワシら老臣に冷たくない?」ってことだろ

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 22:36:36 ID:N4EeK6Fi
>>461
あれは後退する際に旗を乱したという話だからなぁ

山城・大和国境の怪しい集団と文右衛門

2010年12月15日 00:02

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 00:58:16 ID:S1SBfOqb
慶長5年(1600)、9月19日頃のことか。
山城と大和の国境あたりのことであったようだ、

そこに文右衛門(又右衛門とも)と言う男がいた。年の頃40ほど。髪や髭に白いものが混じり始めた。
大小の刀にさらに鉈を差して山の中に入った。
そこに

「あっ!?」

50人ほどの集団がいた。衣服も垢や埃にまみれ、皆疲れきっているようだ。
そのうちの一人が文右衛門に声をかけてきた

「やあやあ、我々は全く怪しくない者たちなのだが、君はこのへんの地理に詳しいかな?」

怪しい。露骨にあやしすぎる。むしろ怪しさが人の形をとって集まったような集団である。
文右衛門もこのような連中に関わりたくはなかっただろう。
が、人が良かったのか

「え、ええまあ、このへんに住んでいるものですから…」

つい言ってしまった。
怪しい集団の目が、光った

「で、では、泉州の堺まで出る道を知っておるか!?」
「は、はあ。まあ一応…」
「よし、堺まで案内をいたせ!」

ちょっと待ってほしい。文右衛門は思った。このような怪しい連中、どうせまっとうな集団ではあるまい。
これ以上こいつらに関わると、後々どんな目に合うか知れたものではない。

「そ、それがその、私はこの先に妻子を待たせており、急いでおります。案内はどうか他のものに…」

と、集団の横をすり抜けようとした。そこで腕を掴まれる。
数人が襲いかかり気が付けば道に抑えこまれ、大小の刀も奪い取られた。
そして集団の中の一人がにこやかに、強い訛りのある声でいう

「案内せんなら、おはんの命ここで奪いもす。そいどん案内するなら、過分の礼をしもんそ。」

目が本気だ。
文右衛門は致し方なく彼らの要求を受諾。堺まで案内した。
堺まで到着するとこの集団は文右衛門を開放。約束通り多くの銀子を与えられた。

後でわかったことだがこの集団、関ヶ原より退却中の、島津義弘の一団だったそうである。

そんな、島津義弘関ヶ原退き口のヒトコマ。




島津義弘さん、愚痴る

2010年11月23日 00:00

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 23:13:57 ID:djmKJfZM
義弘さん、愚痴る


天正19年(1591)、上方の島津義弘より、国元の家老、鎌田政近宛書状より

『もうね、困ってるの。

今の世の中で国持の大名といえば、まず毛利殿に徳川殿、その次くらいに来るのが
我らが島津家なんだよ。世間ではそのくらいの認識なんだ!なのに…、
上方でその島津家が関白様(秀吉)の御用のお役に立つことは、一つもないんだ!
何故か!?

例えばどこかの国で一揆が起こったとしよう。
我ら島津家がその鎮圧の先手(先鋒)に加えてもらおうとしても、無理なんだ!
軍勢が無いから!

では、先手は無理でも関白様のお側を守るお役目に加えていただいてはどうだろう?
それも、無理。
今俺がこの上方で率いられる騎馬武者、数人だけ。
わずか数人でどの面下げて

『これが日本有数の大名、島津の人数でございますー!』

って言えると思う!?

先手できない、お側も守れない。じゃあ御前向きの御咄衆の役でもするのかといえば、
…まあ、解っていると思うが、無理だ。
さらに人数が無いから御普請のお役も出来ない。
なあ?こんな公儀に対し何に役にも立たない家、長く持たせる事が出来ると思う?

我が島津家の家士は、京大阪を往復するときの、5騎・3騎の供衆さえ、槍を1本持っているだけという
体たらくなんだ。同じ九州の大名である龍造寺、鍋島、立花、伊東達にも劣っている有様なんだぞ!
言語道断、沙汰の限りとはこの事だ!

今の京の島津家がどういう立場か言ってみよう。

関白様に対し何の忠義もなく。人並みの振る舞いも出来ず、他所に優れているのは
借銀(借金)の額だけ。

もう、露ほどの希望もないよ…』


島津義弘、上方で深刻な絶望感に浸る。と言うお話。




695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 23:28:35 ID:G+XKskO8
そのグダグダさのおかげで関ヶ原で減封も無く生き延びれたんだから
おにいちゃんに感謝してもらいたいなっ

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 23:37:43 ID:JyqEQqUU
意図的に派兵してなかったのかそれとも出来なかったのか…

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 03:04:28 ID:d5Oy4Pni
>>697
伊集院の反乱と朝鮮討伐で本当に苦しい財政状況


699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 08:55:20 ID:Gsk9phxT
つまり悪久の伊集院忠棟謀殺はそこまで見通した苦肉の策だったんだな。



なわけないか。

1600年、伊賀山中にて

2010年10月25日 00:02

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 21:51:53 ID:AO20nKeJ
昨日は関ヶ原合戦の日だったのですね。
ではこんな話を。

敵中突破を果たした後の島津義弘一行は伊勢から近江へと向かっていた。
但し、街道を堂々と行くわけではない。山中に潜みながら慎重に進んでいたのだが
運悪く途中で僧体風の男とばったり出くわしてしまった。

これはいかん、正体を偽るべきか、あやしげな素振りを見せれば口を封じるか、
物騒な雰囲気の中、一行の中から後醍院喜兵衛宗重が進み出て大声で告げた。

「あいや御坊、これより東軍へ行って告げられよ。
 こちらにおわすは島津兵庫頭、戦いに利あらずして本国へ引き上げるものである。
 されど決して遁走するのではないぞと申してくれよ」

馬鹿正直に正体を明かしたばかりかそのまま通してしまったのである。
これに周りの面々は大激怒。

「いま殿が難儀にあって潜行しようというのにわざわざ正体を明かすとは
 なんと馬鹿なことを!」

これに宗重答えて曰く
「卑怯なことを申されるな、わが殿は必死を帰して生存の御志はないのだ。
 この上は草葉の蔭まで名を残すのが薩摩武士というものぞ。」

義弘も宗重の言を良としたが、敵の捜索の手が迫っている最中である。
一行の言い争いを納めさせるとスタコラ山中を進み始めたとさ。

410年前の伊賀山中での会話でした。




薩摩、禁煙のお触れに

2010年09月26日 00:01

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 23:41:20 ID:A46wgv94
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4659.html
の通り一時期、薩摩では禁煙のお触れが出されたわけですが、それについての首脳陣↓


島津忠恒(家久)は、父・義弘に怒りをブチまけた。

「こないだ鎌田左京を通じて伝えたけど、タバコ吸ってた侍は知行召し上げだからな?皆によーく言っといてくれよ!?
話によると、比志島宮内とか鎌田又七郎みたいな上士も吸ってるんだとか。シャレになんねーから!
そんなだから鹿児島城中の女房衆まで平気でプカプカやってんだよ。とにかく、言ってもやめないヤツは重罪人な!?」
(をしいたしのミ候者ハ、深々敷キ罪人にて候)

義弘も、これに答えた。
「そっち(江戸)じゃ、タバコが大流行だとかで、おまえも煙の臭いで大変だろう。まぁ他国の人がどうだろうと、
こっちじゃ歴々に起請文まで出させたし、「流行りだから」とか「みんなやってるから」って薩摩では許さんもんね。」
(自然世上ニはやり候とて(略)、其科遁間敷由)



薩摩の禁煙令、わりと殿様の好みと、おじいちゃんの「近ごろの若いモンは・・・」に左右されてたという話。
まあ正直なところ、禁令の効果はほとんどなかったわけですがw

♪花は霧島 タバコは国分 燃えて上がるは おはらハァ桜島~ ハーヨイヨイヨイヤサット (・∀・)y─┛~~





慶長11年(1606)2月、島津義弘から島津忠恒あて書状

2010年09月26日 00:01

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 23:42:12 ID:A46wgv94
おまけ、というか蛇足

慶長11年(1606)2月、島津義弘から島津忠恒あて書状

“一、江戸からの帰り道、よく京に立ち寄ってるみたいだけど、みんな「何事か」と心配するので、京・伏見でムダな
日数過ごさず、まっすぐ帰って来なさい。

一、江戸城へ登城するのに、ワシらみたいな田舎者が上方武士の真似しても見苦しいだけです。
田舎者は田舎者らしくしてりゃいいんです。

一、新将軍(秀忠)は酒がキライと聞きました。おまえ、江戸・京で(いつもみたく)呑みすぎるんじゃありませんよ?
公家衆の寄り合いなんぞに誘われてノコノコ出かけるとか、もっての他ですよ?

一、家督を継いだ時は、「右も左も分からんだろうから奉行衆に任せて、おまえはあちこちに顔出せ」と言いました。
でも、おまえももういい年(31歳)なんだから、政治向きは細かい所も自分で直接、携わりなさい。

一、噂によると去年、江戸城で御前能があった時、おまえは能に心奪われて役者のマネして踊りだし、それが
諸侯に喜ばれたと聞きます。
だからって、それは素人芸がたまたまウケただけで、おまえが舞の稽古にうつつを抜かす理由にはならんから!
そんなこと毎日続けてれば、乱のもとですよ!?”



・・・で結局、忠恒さんは公家衆と遊びまくって蹴鞠の免許をもらい、上方でカッコつけて三歳様あたりに笑われ、
酒癖が直らず、いろいろ任された伊勢貞昌のストレスがマッハで過労死しかけるのでした。

悪久様、オヤジの言うこと聞かん人が禁令出しても聞く耳持つ人いないと思うのですが・・・





274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 23:46:42 ID:PZFUOW8f
お小言うるさいねw
姑みたいな義弘w

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/24(金) 23:50:16 ID:2HVMNf9m
と、息子をあしらいつつもやはり義弘さんは格が違っていたw
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