fc2ブログ

永禄六年八月四日、毛利隆元を毒殺した

2020年12月07日 17:24

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/07(月) 16:44:25.42 ID:BqGHKMK4
山陰騒動多かりければ、京都より、尼子・毛利の和睦の勅使として、三宝院僧正義堯が派遣された。
しかし両軍、累年の遺恨が募る上は勅意を容れず、月日を移していた所、尼子右衛門督晴久が逝去したが、
その跡を子息の三郎四郎義久が継いで、なおも合戦は止まなかった。

このような所に、晴久(義久の間違いか)は内々に、備後の住人である和智又九郎豊郷(誠春)と
親しみ深く、彼と策を用い、永禄六年八月四日、毛利隆元を毒殺した。

これによって陸奥守羽林(毛利元就)は憤激し安からず、怨敵への憤りはいよいよ増し、
勅使も空しく帰っていった。

雲州軍話首

毛利隆元毒殺説ですね



476 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/08(火) 17:18:06.63 ID:VXO61z9T
『史籍集覧』の第百八十六に「雲州軍話首」とあるが、冒頭には「雲州軍話の首(序)」と書いてあるだけなので
書名は「雲州軍話」が正しい。総目解題でも「雲州軍話」。
著者は南宗軒多々良一龍(後太平記作者)、尼子視点で書かれたとのこと。
スポンサーサイト



豊前陣撤退から毛利隆元の死去まで

2020年04月09日 18:07

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 22:36:47.37 ID:7j1OFAgQ
山中鹿介による尼子再興軍挙兵の報が)毛利元就に注進され、山口の高峯城へと告げられると、
この頃元就は、山口の隙きを明け諸勢を豊前に渡そうと思っていたのだが、思いの外の報の到来に、
豊前での取り合いを嫡男・隆元に任せ、豊前に派遣する予定だった軍勢を召し連れ山口を打ち立ち、
夜日を継いで雲州上日郡(原文ママ)に陣を据えた。山中鹿介も雲州に打ち出て山際に陣を取って対陣した。

このような中、豊前国の毛利隆元の陣に、その御代の公方・光源院殿(足利義輝)より、毛利大友和平の
御扱いとして(筆者注:実際には足利義昭による扱いである)、毛利家へは聖護院(道増)、大友へは
久我殿が御下向し、上意の旨は、

『前々大内が分国、防長両国の義は毛利元就が切り取った地であるので、毛利の分国とするものである。
西海九ヶ国の内、豊前筑前の義は存ずべからず。大友が只今保持しているものである。
諸士はこの旨に相従い、国々を堅固とするように。』

との仰せであった。上意に任せ、大友の軍は引き退き、毛利隆元も松山の城に籠め置いた口羽常吉、
その他諸軍を召し連れ長門国に帰陣した。そして聖護院殿のお供申し、宮島に渡った。
聖護院殿の御宿は座主、隆元の御宿は大願寺であった。

また、元就は雲州上日郡より聖護院殿に使者として福原貞俊を派遣して、
『御尊顔を拝する事が尤もであるのですが、軍陣の状況のため御免させて頂きます。畏まり、
忝ない事ですが、隆元がそこに居りますので、御請方々、頼み奉ります。』
と伝えた。

宮島には二十日ほど御逗留し、御馳走として神前にて能などが仰せ付けられ、御会釈相調い、
聖護院殿は御帰洛された。

そこから毛利隆元は直に雲州へ登られ、吉田郡山の麓も通られたのだが、元就は先陣に在るという事で、
その時は郡山城に御立ち寄りなく、佐々郡と申す所まで御越しになり、人数を揃えるためとして
一両日逗留したのだが、この時、不意に頓死された。享年四十一歳であった。
各々仰天したが、是非無く、この事を元就が聞くと、心の塞がりようは浅からぬものであった。
さりながら、「隆元を弔うための手切れの合戦であるべし」と、山中鹿介の陣山近くに陣を寄せた。

毛利元就記

毛利隆元の死去までについて。



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:13:19.77 ID:FV4Nvjb2
何も前触れのない突然死だったんだな。毒殺とも言われてるんだっけか。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:34:26.86 ID:uuQ9h7Na
赤川さんを殺してしまった元就の悪い話…和智もほんとに暗殺したのかわからんけど

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 21:06:33.59 ID:6VXTQWG8
そういえば、3本の矢の話が、「元就が死に際に3人の息子に言った」みたいに紹介されてることがあるけど、何をどう間違えばそういう話になるんだろうな

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:52:12.88 ID:uuQ9h7Na
>>958
戦前の教科書にのってたらしいしその影響じゃないの
自分はドリフのコントで知ったけどw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 02:07:49.95 ID:pF+bUfNd
>>958
あれ、元の話だと、隆元元春隆景じゃなくて、庶子三人だったらしいぞ
修身の教科書になるぐらいで、隆元以下に改変されたらしい

毛利隆元と芸豊和平

2018年07月24日 17:54

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:51:59.22 ID:lDBGrq6m
永禄6年、大友宗麟毛利元就とは昔日は和睦していたのだが、大内義長切腹の後不和となった。
元就は考えた、「大友宗麟は無双の弓取りである。その上防長両国には大内義長に好の有る者達も
多い。彼らは何か有れば、志を変じ大友に靡き従う可能性もある。」
そこで元就は長男隆元を両国の押さえとして周防に下し、岩国の永興寺に在陣した。

このような所に、大友宗麟はこの年の2月中旬、豊前国神田の松山城を2万余騎もいぇ取り囲み
攻め破ろうとしたが、ここを守る天野紀伊守が能く城を守り、非常に堅固であったため。大友は
遠攻めへと戦術を切り替えた。

しかしこの事は、九州の高橋、長野といった国衆達が元より毛利に志深かったため、毛利隆元
飛脚を以って知らされた。隆元は即座に「後詰めの軍勢を出す!」と彼自身が防府まで進み防長の
軍勢を集結させた。

ここで、京の将軍である光源院(足利)義輝公より、毛利には聖護院、大友へは久我大納言殿が
使いとして派遣された

『近年諸国兵乱の事、これらは偏に、上を蔑ろにするが如き所業である。然らば、大友毛利は
速やかに和睦し、中国九州を静謐にする事こそ肝要である。』

こう言った旨が仰せ下され、両家は大樹の高命に従い和平を成した。

これによって九州表は無為となったが、隆元は「今なら大友も強く反発しない」と判断し、
門司、下関の城に兵卒を入れその支配を固めた。
その上で周防を出立し出雲へと向かったが、途中の芸州佐々部の宿にて急病を患い、8月14日、
享年41にて終に逝去されたのである。

(安西軍策)

毛利隆元が、将軍による大友との和平を利用して関門海峡を確保していたというお話。しかし直後…。



102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:58:21.15 ID:UveR13y3
隆元といい義信、信康といい長男早死にの呪いでもかけられてたんか??

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 22:49:38.07 ID:ADf4FCYr
>>102
真田信之「ですよねー」

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 04:18:49.02 ID:009fkQrR
>>102
義信じゃなくて義興だろ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 05:33:19.95 ID:RtqkchvC
>>102
武田信繁「せやろか?」

槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

2016年12月04日 10:29

382 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/04(日) 07:02:14.27 ID:sRqYOh7K
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

>>345の続き
毛利隆元率いる吉田勢と吉川元春率いる新庄勢は仕寄をつけ井楼を組み上げ間断なく城を攻め立てた。
城中はたまりかねて、平賀新四郎隆保・大林和泉守が切腹することで
諸卒の命に替わりたいと申し入れてきたので、それを許可した。
平賀はいよいよ自害するときになって、介錯の者に向かい、
「私が合図するまで打つな。もし合図よりも前に打ったならば、悪霊になって憑り殺してやるぞ。そのときになって私を恨むでない」
と介錯の者に言った。
隆保は刀を抜いて西へ向かい、八識田中に阿字の一刀を下し、
「生死又截、涅槃又截」と唱えて腹を十文字に掻き切ると、臓物をつかんで手繰り出し、何度も切り刻んで捨てたけれども、まったく弱る様子がない。
新四郎は槌山城主の菅田たちに向かって、
「腹を掻き破ったらもう死ぬしかない。どうすれば私は死なないでいられるだろう。
硯と料紙をくれ。最後に歌を詠もう」と言い、
すぐに硯と料紙が整えられた。

隆保は硯を引き寄せ筆を浸して、歌を一首詠んだそうだ。
筆の勢いや墨の乗り方は、平常のときとまったく変わらなかったという。
「昔の物語でならこのようなことを聞いたことがあるが、
今目の前でこのような勇士を目にするとは」と、人々は皆舌を巻いた。
その後、新四郎は「さあ、首を打て」と言ったので、介錯の者は首を打ち落とし、隆保は漸く果てた。
大林はこれを見届けた後、腹を一文字に掻き切り介錯を受け隆保に続いた。
槌山開城の後、尾和秀義大内義隆から派遣されていた者らは皆帰され、これを受け志和の米山城に籠る天野隆綱は元就に従い大内義長に属する事となった。

隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

2016年11月24日 14:35

345 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/24(木) 14:09:02.66 ID:BJS/7tYa
隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

>>332-333の軍令違反者による合戦は毛利方に大勢の手負いを出したものの、二宮・粟屋らの奮戦により敵方も城主、菅田一族の者が討死するなど両軍とも進退極まり兵を収めた。
普段ならば隆元や元春が士卒の功を称し、負傷した者の元を訪れ涙ながらに傷を撫でてくれるのであるが、今回は固く定めた軍法を破ったが為、労いの使者すら送られてこなかった。
一方、元春は隆元の元へ宮庄次郎三郎元正を使者として遣わし、この度の軍令違反者についてこう述べさせた。
「今回、我が手の者どもが軍法を破り、一戦を遂げました。
これにより味方は九十六人も手負いが出て、
そのうちの綿貫兵庫助と申す者が討ち死にしました。
このくだらない合戦を仕掛け、味方に多数の負傷者を出したのは、
粟屋・二宮の責任が大きいので、即刻首を刎ねなければなりません。
しかし、一歩引いて愚案を巡らせるに今回は陶と一味して初の戦となります。陶にその証を立てる為にも一戦交えるのが良かったのではないでしょうか?
そのうえ、元就公のご出馬がなく、隆元公と元春の二人が出てきています。
若い隆元公に私のような者がお供して、大将を名乗って打って出ていますので、
一戦しないのもいかがかと思います。
ですから今回は、どうかお許し願えないでしょうか」と再三申し入れた。
しかし隆元は
「そのように聞くと、確かにそのとおりだと心を緩めたくもなる。
だが固く制定した軍法に背いたのだから、これからの諸卒への見せしめのためにも、許すことはできない」と返答した。
これもまた道理なので、元春もどうにもできず、その後は何も言わなかった。

また、隆元と元春は武永四郎兵衛尉を父元就の元へ遣わしこの日の戦を報告させた。
元就は武永と対面すると、「詳しく様子を報告してくれ」と言い、武永は粟屋・二宮の鑓働きの様子やそのほかの諸卒の働きを細々と語った。
元就はすっかり上機嫌になって「お前たちはその戦場には行かなかったのか」と尋ねると、
武永は「私も及ばずながらそこに駆けつけ、鑓の者の脇で弓を使って補佐していましたが、
軍法を破る行為でしたので、隆元様・元春様のご機嫌を損ねてしまいました」と答えた。
元就様は愉快そうに笑うと、「軍法を破ったことは不義の至りだが今回は陶に一味してから初めての出陣だ。
陶との同盟の証拠として一合戦しなければならないところだ。
その若者たちは、よくそこに気がついて一戦してくれた。
粟屋の怪我は深いのか。二宮はどうだ」などと詳しく尋ね聞き、
武永にも盃を与えて褒美を取らせた。
元春への返事にも「今回は陶に一味した証拠に、それらしい合戦をしなければならかなった。
そこに御手の衆が比類なき働きをしてくれたのは、
今に始まったことではないとはいえ神妙の至りである。
戦功の軽重をただし、勧賞を行ってやりなさい」と送った。
これで、昨日合戦をしでかした者たちも胸を撫で下ろしたということだ。

この時、総大将の隆元が何を思ったかは誰も知らない。

続き
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子


346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:14:06.21 ID:8D69oZrn
自殺したくもなるね

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:52:23.92 ID:sw+eGJaZ
>>345
元春と元就の言い分が全く同じとか、お兄ちゃんの立つ瀬がねえw

隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事

2016年11月23日 14:08

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 08:51:29.00 ID:RkWuuHXG
隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事


天文20年(1551年)、陶隆房が大内義隆に謀反し大寧寺の変が勃発。安芸の国では陶の依頼を受けた毛利元就が義隆派の平賀隆保が籠る頭崎城を落とし、更に隆保が逃げ込んだ菅田氏の槌山城を息子の隆元と吉川元春率いる4000の軍に攻めさせた。
隆元は抜け駆け禁止令を出し、これを破る者は例え抜群の戦功を上げても厳罰に処すと固く命じた。
隆元麾下の吉田勢はこれを守り抜け駆けをする者は居なかったのだが、元春率いる新庄勢の若者達はこっそり抜け出すと敵城の切岸を登り矢戦を始めた。
敵も応じて矢を散々に射かけ、新庄勢は怪我人が続出して寄手はたちまち劣勢となる。
隆元は坂新五左衛門を元春の元へ遣わし、
「お前の兵が抜け駆け禁止令を破って戦を始めている。まったくどうしようもない。
残らず捕らえて首を刎ねよ」と殊の外に激怒した。
元春は新庄勢に「早く引き上げるように」と何度も下知したが、
新庄勢は敵と真っ向から取り結んでいるので、引き返しようがなかった。

333 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 08:55:15.20 ID:RkWuuHXG
この時、元春は陶から贈られた近江黒と言う馬に跨り矢戦を見物していたが、戦気に当てられたか、近江黒が逸るので二宮杢助(俊実)に近江黒の口を抑えさせていた。
元春は二宮杢助に「お前行って味方を引き上げさせて来い」と命じ、二宮は「かしこまりました」と、鑓を持った小者一人連れ駆け出して行くと、途中60ほどの兵と率いた味方の安国紀伊守とすれ違った。安国は
「これは二宮殿。我らも一競り合いしたく思って駆けつけましたが、
敵が猛勢で合戦を待ち望んで待ち受けておりますので、この少人数で不利な戦を仕掛け、
敵に利するよりはと、引き退いておりました。
二宮殿も小勢のようですな。早々にお引き取りください」と言った。
二宮はこれを聞いて、
「吉川の手の者は、敵が大勢であっても引き返すことはありません。
好機を見計らって一合戦してきます」
と言い捨てて味方のもとに駆けつけていった。
二宮は味方を引き上げさせることなど念頭にはなく、逆に
「皆よく狙って鑓の者の脇を射抜け。一合戦してやろう」と味方を勇気付けて、
後に続く勢を今か今かと待ち受けた。
すると藪の中から粟屋弥七郎がつっと走り出てきて、
「来たな杢助。私も先ほどから一競り合いしようと味方が続いてくるのを待っていたのだ。
よく来てくれた。嬉しいぞ。
さあ、勇気を出して心を合わせ、一合戦しよう」と言う。
二宮も「それがいい」と、真っ先に立って攻め上った。
そこへ抜け駆け禁止令を守っていた吉田勢から楢崎市允・波多野源兵衛尉・尾崎新五兵衛尉・赤川源左衛門・桂善左衛門・福原左京などがこっそりと駆けつけてきて、後に続いた。
忽ち乱戦となり、二宮・粟屋ら抜け駆け毛利勢は奮闘の末に傷付きながらも城方の菅田三郎左衛門を討死させる功を上げる。


なお、この矢戦では槌山城は落ちず、隆元の怒りは止まなかった。



334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:20:45.99 ID:l4Jdq11w
お兄ちゃんの面子丸潰れ

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:38:14.04 ID:TQklu1C2
抜け駆けはギャンブルだからね~成否が士気にかかわるのよ

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 14:33:01.39 ID:h9ZIC5Bw
受け流せればいいけど隆元のストレスが凄そうだ

337 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 15:17:04.05 ID:88DTlVBL
>>336
先にバラしておくと、この抜け駆け禁止令違反者の処分で意外なところから追い打ちが来る

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 15:51:33.76 ID:crbvyM3Z
てか、大内攻めじゃん
お兄ちゃんのストレスはそれだけでヤバイだろ

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 15:56:49.00 ID:4exxIwvo
ボスの鶴の一声でフィニッシュ

340 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 19:41:46.65 ID:88DTlVBL
>>338
ひょっとすると、隆元は無理攻めせずに降伏させて助命する気だったのかもね
入れ違いだけど平賀隆保はYSTK様の寵童仲間だし

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 22:10:29.64 ID:gNTnZHYo
またホモか…

342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 22:26:26.85 ID:88DTlVBL
>>341
そりゃあもう、中国北九州界隈で義隆の元に人質でいた上に名前に隆の字貰ってる辺りの武将は大体…

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 23:09:07.43 ID:gNTnZHYo
大崎義隆 蘆名盛隆 「俺たちはセーフだな!」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 23:46:02.15 ID:fRWdHM4A
そりゃそうだろとしか

毛利隆元のお風呂マナー講座 ~主人と一緒の時~

2016年03月25日 18:24

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 22:22:56.31 ID:hbwHPgnY
ちょっと訳しきれなかった所あるからあやふやだけどご勘弁


毛利隆元のお風呂マナー講座 ~主人と一緒の時~

一、目上の方とご一緒する時は、下にむしろを敷いてはいけません。

一、風呂の湯殿に入る時は、自分の垢をきれいに掻き落としてからむしろを敷きます。
  主人が上がったら、いつまでも湯殿の中に残っていないで上り殿へ上がりなさい。
  本当に上がる時もちゃんと上り殿にいて、主人が帰った後は小風呂に入りなさい。

一、元結やさくすは小者に言って取ってもらいないさい、自分で取り寄せるんじゃない。
  湯殿の衆が上り殿に出てきたのに、小者達を上り殿に上げずにいたらこういう用がこなせません。
  前もって小者を上げておくこと。


当時の風呂も裸の付き合いとか言いながら、
会社の慰安旅行みたいに色々気を遣わなきゃいけないとこあったんだろうなーと
悲哀を感じたので悪い話で。
こんなマナーをメモに残しておくなんて、お兄ちゃん何かあったの……?




422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 22:29:41.72 ID:gM8E/NV1
蒸し風呂とはいえあまりそこいらにあるものじゃないから、
使用方法に慣れてなかった人が多かったんじゃあるまいか

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 22:43:06.27 ID:VMlfcDmH
さくすって何?

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 23:11:11.56 ID:o+FjbNAE
さくすでググったらスクラマサクスって剣が出てきました

425 名前:421[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 23:14:41.69 ID:SiAtBDJm
>>423
すまん、自分もさくす分らんかった
元結と一緒に書かれてるから身の回りの品なんだろうとは思うんだが

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 11:13:55.44 ID:OLtmf2Ma
サクスもだけど、元結ってなんでしょうか?

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 11:59:42.46 ID:ZcUwe5A0
サクス…ザ・シンプソンズでリサが吹いてるやつだろ

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 12:03:06.67 ID:tbZyYa43
文七元結という人情噺でしったが髷を縛る紐

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 13:25:17.28 ID:10Tr2RE8
髷を結う紐だから、それに関係する物じゃないかな?
櫛とか椿かなにかの植物油とか、あるいは酢かもしれん

毛利隆元の急死

2013年01月06日 19:54

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/06(日) 11:02:16.22 ID:gKzfWS5Z
永禄6年(1563)、毛利隆元公は大友との和平締結に成功すると、7月10日、本拠地吉田郡山に帰還。
翌日、城内にあった嫡子・幸鶴丸(輝元)公と正室福原殿を城下の宿舎に呼び寄せ、三献のあとお供の衆も
召し出し、近年の戦局の次第、今回の大友との和睦のこと、公方方からの上意のこと、そして何より、
父・元就公が数年にわたり油断なくお心遣いされており、ご苦労されているのだということを、心静かに
仰せられた。

そうして幸鶴丸公母子を御城に帰されたが、久しぶりの妻子との再会だというのに、あまりうちとけない物であった。

腰を落ち着かせる間もなく、翌12日には尼子攻めの出雲戦線に合流すべく吉田を立ち、佐部という場所で
軍勢の集結を待ち、8月5日には出雲に向けて出立するということになった。

その直前の3日夜、和智誠春に招待されそこで夕食を取り、本陣に帰られた。
翌4日夜、にわかに体調が崩れ、そのまま隆元公は急死した。
これに下々に至るまで嘆き悲しむこと、言語を絶する程であった。

御遺体は吉田大通院に納められ、葬礼相調えられた。御法名は花渓常栄大居士とされた。

隆元公はその御一生の間、行跡能く御孝行を第一に考えられていたので、『平重盛以来の御名将である』と、
他国の人々も揃って唱えていた。

隆元公が最期に吉田に帰られた時も、2日ほど滞在されたのに、遂に御城には入られなかった。
どうしてかと尋ねられると、隆元公は

「今、父上は雲州において、昼夜ご苦労されているのだ。そんな所に、例え一夜であっても自宅に立ち寄るというのは、
あまりに気ままのように思う。
まあ、父上に対する敬意だよ。」

そう仰ったのだという。

御孝行の事など書き付けるのは、畏れ多いことだとも思うが、旧記によればこの様であったとの事である。
(吉田物語)

吉田物語より、毛利隆元急死に関する記事である。




42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/06(日) 15:19:37.82 ID:6Fgka5PV
平重盛とかw後世の作り話かよ
子供がいたら三好義興も揶揄されていたんだろうか

隆元死後に書簡を読んだ隆景と元就の反応

2012年08月01日 20:56

805 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/31(火) 20:31:19.30 ID:gQleTZO7
改めて確認したところ、隆元死後に書簡を読んだ隆景と元就の反応についてはまだ挙がっていなかったためまたもや拙い訳ながら投稿。


小早川隆景書状
書簡を拝見致しました。常栄(隆元)の書き置き数通を読みましたが、誠に是非に及ばぬ次第であります。
これ程までに思い詰めていたとは、言うべき言葉もありません。
おおよそ全ての事は紙面から伝わりましたので、更に論ずるまでもありません。
今世、来世の二世までもあなた様にお頼み申し上げておりましたようですので、
安芸に上国されて隆元のために一寺を建立して頂く事を肝要に思います。このこと、
私と元春も力の限りを致すつもりでおります。
元就の御心底についてはお察し下さい。
一寺建立の儀については急ぎお願いしたいとの事であります。
詳しくは昇蔵司に申し含めておりますので、よろしくお願い致します。恐惶謹言。
卯月十一日 隆景(花押)

(『毛利家文書 七六三』)
毛利元就書状
寄越して頂いた隆元の書き置きを日々拝見しております。
何と言えばよいのか、とても言葉では言い表せず(原文:言語道断)、感涙に堪えません。
これ程までに禅師を頼られているとは知らず、とても感謝しております。
是非とも御上国下さい。
また、お越しになられた際には隆元の菩提を弔ってやりたいと思います。
詳しくは昇公に申しております。恐惶謹言。
卯月十二日 元就(花押)

(『毛利家文書 七六四』)

元就の文書に関しては隆元の書簡を読んだ元就が本当に「言語道断」であったが如く、短い文であります。


関連
毛利隆元の苦悩
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6646.html


806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 21:36:30.36 ID:41vm73fE
隆元って大内家からすごく厚遇受けてたんじゃなかった?
毛利の時期当主だからと言うだけじゃなくて個人的に気に入られていたとしか思えないくらいだったような

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 22:37:19.87 ID:JY1+A6Vs
家康もあれで今川から結構厚遇されてたしなあ
世継ぎを人質ってのはうまく教育(洗脳)して自分たちのシンパにしてしまうって意味もあるからね
厚遇しない理由がない

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 23:34:42.82 ID:+6SRIQEk
家康が武士としての礼儀に五月蠅いのは今川家の教育が効いているのだろうか

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 00:02:08.86 ID:tn5qtDWN
これだけショックを受けるってことは隆元の表の姿と相当落差が激しかったんだろうな。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 10:42:16.50 ID:lDuJTCjx
お兄ちゃんはミもココロも大内で教育された人だからなあ

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 11:14:20.55 ID:lnubV3dS
親父がいるとはいえ、当主の隆元が書簡にあるような心中を表に出してたら
家臣が逃げ出さない?

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 16:57:27.13 ID:ObEW6HMJ
(●ω^)「そんなネガティブじゃ家臣逃げ出しちゃうよ!俺みたいしてなきゃ。」

毛利隆元の苦悩

2012年07月30日 20:56

775 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/29(日) 19:51:59.08 ID:X5+SVVPC
毛利隆元の苦悩
天正二十三(1554)年三月十二日付けで、当時三十二歳であった隆元が、深く慕っていた一つ年上の
竺雲恵心に送った有名な手紙。
前にもちょこっと挙がってたけど、拙い訳で全文挙げてみる。



「恵心公宛隆元自筆書状」
謹述胸念
一、来世の善所(極楽)の事については、強く心に留め置いております。ですから、心の及ぶ限りに
  善根(善い行い)を積むように致したく思っております。

一、娑婆(現世)については、果報は一つもないと見ておりますので、何を恨む事がありましょうか。
  これも前の世の報いと弁えておりますので、殊更思い悩む事もありません。

一、私の一生は、先の易にも見えておりますから重ねて申し上げるまでもありませんが、私は
  無才無器量であるだけではなく、これは必然であるのかも知れません。

一、我が家も、父・元就の代で終わりと見えます。
  私の代で家運が尽きてしまうのも因果の道理に従っており、これも必然の道理であります。

一、他の諸家の有様については論じてませんが、この国も悉く変わりました。
  それは至って明白な事であります。
  また、そのような中で、当家だけがこの世に今日まで存続して居るのは不思議な事に思います。
  これは、偏に父・元就の信心の故と思います。
  私にはそのような信心がないため(原文:サノミハナキ習ニテ)、毛利の家運の尽きる時に当たり
  生まれたのだ、と思っております。

一、当家は代々名を留めた当主が多いと言う中でも、父・元就ほど先代を超えた者はありません。
  ですから、私に才覚器量があったとて、到底父には敵わない事でしょう。
  私が形ばかりとて当主として存在していても、家臣や人の覚えは莫大の劣れがあり、況んや
  他国一円においては沙汰の限りではありません。

一、その上、私には無才無器量に加えて良く補佐してくれる家臣もおりません(原文:家ニ無人候)。
  只今はこのように思っておりますが、ただ偏に父の一心の心遣い、心労によってこのような状況です。
  家に賢佐良弼もおりません。これは物事を見知る以前のことでしょうか。

(続く)

776 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/29(日) 19:52:50.73 ID:X5+SVVPC
一、「灯火消えんとする時、光りを増す」の例えのように、家運もまさにこの時まででしょうか。
  この理は能く悟っておりますから、迷う事はありません。

一、兎も角、今生においては十分に良く知っています。偏に来世安楽の念願は骨髄に染みております
  (原文:偏ニ来世安楽之念願骨随ニ染ミ候間)ので、お頼み申し上げます。

一、右、私の心の内を申すままとしました。

一、このように申したとて、国家を保つ事は努々(ゆめゆめ)油断なく、力不足と言えども、
  懸命にその心がけを果たす覚悟でおります。
  その次第については、少しも疎かにしないようにしております。

一、右の心中については、胸の奥に納める覚悟であります。
  何れにしても、帰真の道理を覚悟するまでの事であります。

一、盛者必衰 一、生者必滅 一、会者定離
  此の理は悉く覚(さと)りました。
  一、天道満ヲカク、
  此の理を以って覚(さと)りました。


右の理を更に深く理解せずに迷っておりましたので、速やかに分別して悟りました。
誠に恐れ多いとは思いますが、確かに現世・来世の二世共にお頼みしたいので、私の念を
残すところ無く申し上げました。重ねてお頼み申します。恐惶。

天文廿三 三月十二日 拝進 恵心公
足下
タカ元(花押)

777 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/29(日) 20:00:00.81 ID:X5+SVVPC
出典は毛利家文書の七六一、「毛利隆元自筆書状」より
初めてこれをみた時、思わず涙がこぼれてしまいました。
この書状を隆元の死後に読んだ隆景、元就の反応について(毛利家文書七六三、四)は既出であったと思います。
長文失礼致しました。
 


関連
隆元死後に書簡を読んだ隆景と元就の反応
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6650.html


778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 20:00:37.39 ID:7LkG5TlJ
暗っ!ネガティブすぎるだろお兄ちゃん…

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 20:08:39.58 ID:yai3/TVz
>良く補佐してくれる家臣もおりません
家臣涙目

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 20:18:05.61 ID:CQQ1pKt3
ネガティブなのに金を集められる人って言うのは余程相手に信頼感を感じさせる人柄だったんだろうな

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 20:18:31.06 ID:CW530lSZ
こんだけ悲観的に見てても結局代々存続して「うむ、そうせい」に行き着いちゃうのね

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 20:22:31.77 ID:xiCdRbje
しかしそうせい公は名君だぞ。財政改革で文字通り藩内全体から憎まれた村田清風への信任を
最期まで曲げずに貫いた人だ。

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 20:38:43.36 ID:t6G27uqv
これ毛利が陶と対立する直前のものだから隆元はこの時自分の代で毛利家滅亡を覚悟していたんだよね。
しかしそれが逆に毛利家を大大名へと飛躍させるきっかけを作ったんだから大したものだ。

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 00:24:30.22 ID:cFBHc3UN
>>782
攘夷と真逆の航海遠略策を長井雅楽に言われるままに
藩論にしてるし何でもそうせい言ってた単なる馬鹿だろ。


790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 10:17:15.10 ID:kNykqfY1
>>788
何でもそうせい言ってた単なる馬鹿なら藩内から憎まれたという村田清風は早々に排除されるのでは?

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 19:49:02.88 ID:qrNaWWrX
>>788
もののみごとにそうせい候に騙されてるなあw
幕府はこれで長州をなめきってやられた。

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 20:55:24.84 ID:ayx0Ezqt
>>790
「あいつムカつくんでやっちゃってイイっすか」
「そうせい」

こうなるわな

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 22:53:13.64 ID:ffqDqkYL
担ぐ神輿は軽くてパーがいい

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 23:20:43.99 ID:+FETX6Hb
おっと権現様の悪口はそこまでだ。

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 01:02:14.86 ID:SHqZ/elM
つまり義昭公サイコーと

802 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/31(火) 04:27:48.16 ID:gQleTZO7
>>783殿の仰る通りこの時期は正に毛利家存亡の時で、
昨年の天文二十二年には三村元親と結んで尼子氏側の備中猿掛城を攻略し
雲州進出を目論んでいた頃に当たり、隆元の嫡男・幸鶴丸(輝元)が生まれたのも
この年だった。

毛利家内部では関係がギクシャクしてきた陶晴賢と断交するか否かで家中が
真っ二つに割れていて、隆元は元春、隆景、口羽道良ら重臣たちと「力のある今こそ、
大内義長を擁して賢(陶晴賢)を破るべきだ」
と元就に進言するけれど、
元就自身は「しかし仕損じては陶、尼子から挟撃され、毛利は末代まで失せる。
ならば晴賢に味方して家を保つべき」
と晴賢との断交に消極的な態度を取っていた。

評定は結局堂々巡りのままに過ぎたが、天文二十三年の三月に入って
晴賢の安芸国内の調略が明るみに出、遂に元就も断交の意志を固めた。
しかし陶方の兵力は圧倒的、今は吉見氏を攻めているために動けないが、
近いうちに進撃して来るのは必定だろう――

と、そんな状況の中で>>775-776の書状をしたためたと考えてもらえれば
より隆元の胸中、特に
>国家を保つ事は努々油断なく、力不足と言えども、懸命にその心がけを
 果たす覚悟でおります
なんて所についてはわかって頂けると思い申す。

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 08:08:01.19 ID:26quZrkC
むしろ、親父を押し切ろうと、主戦派の筆頭みたいになってたお兄ちゃんの内面がこうだってのがすごいよね。
相変わらず、外見と内面が一致しない人だ。

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 14:51:32.67 ID:dL+82e8W
元就-隆元間の手紙でも陶こえーから援軍に行くわという元就に
陶は信用できない父ちゃんが闇討ちされたら毛利家は潰れると泣き脅しだからな
結局らちあかないと陶からの使者を国司元相に討たせて強制断交w

雑談・毛利隆元の事など

2012年06月08日 21:01

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 01:01:16.73 ID:qGpnwX1I
話題に乗り遅れた
先月末までサントリー美術館でやってた毛利展に行ったら、教養品たくさんあって「毛利家って
すげーインテリじゃん」て驚いたよ

隆元お兄ちゃんはトップに立つべき者として、文武の武に重きを置かないといけない時代に文に寄りすぎた
評価されてるのはトップが下に任せるような財政能力だし
氏真同様、生まれる時代もしくは生まれた身分を間違えた人


827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 01:22:10.29 ID:juVd+845
隆元兄ちゃん、武の働きもソツ無くこなしてない?
厳島とか大友戦とか

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 01:33:11.00 ID:Rn8z5zww
素人目だと隆元兄ちゃんの絵ってうまいと思うんだが、プロが見るとどうなんだろう
考え方というか残した言葉は後の長州藩の訓戒とかに影響を与えたみたいだし、
もうちょい安定した時代のほうが本人の「精神的」には生きやすかったんじゃなかろうか
ただ、スイッチ入るとやけに好戦的なところを垣間見るに、やっぱり戦国時代の人だなと思う

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 06:03:39.50 ID:bDzxPwSe
>>827
本人も言ってるように活躍が父親の影に隠れて全く目立ってないだけですから。
ほんと早死にが悔やまれる。

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 06:20:15.89 ID:+fkYE8yS
>>827
厳島にいたっては二の足を踏んで決断できない元就に「今戦わないんでどうするんだ!」って強引に
決戦に持っていったのが隆元だしね。

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 07:49:03.99 ID:rjtYOVWQ
>>827
厳島、大友との戦いの時にはそれなりの歳で場数も踏んでるしね
元就に「能とかに現抜かしすぎ」と怒られているのはたしか人質から帰ってきて数年とかそのあたりだったと思う
この時、パパンに怒られて武にも力入れるようにしたんでね


834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 07:57:18.96 ID:rjtYOVWQ
>>829
少なくとも手慰みで描いたような絵ではないよね
そりゃ元就も嫡男がガチであんな絵描いてたら「それよりももっと武芸をがんばりなさい!」って言いたくもなると思うw

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 09:17:35.63 ID:QO8Ri9EP
出来がいいからむしろ心配になったという事か

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 12:15:44.72 ID:qGpnwX1I
隆元が長生きして本能寺も起きなかったらどうなっていたかな
隆元の卑屈な性格に信長がぶちギレるか?


837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 12:25:14.66 ID:Bcq7TOx1
隆元兄ちゃん、プライベートはともかく対外には「ガンガン行こうぜ」だし
大内伝来カルチャースキルとコミュ力でうまくやるんじゃないの

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 13:45:12.73 ID:UybD+u7K
信長が死ななきゃ誰がやっても同じ。

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 16:10:30.16 ID:QJ9mNjJD
>>836
卑屈な性格は手紙の中だけの話で
行動力は父の元就から見てもとても頼もしい当主なんだけどね

隆元が長生きしていれば毛利は大友や尼子残党に不覚を取らないで西日本をほとんど制覇してたかも
こうなると流石の信長も同盟堅持するしか手がなくなると思う
[ 続きを読む ]

元就と隆元が末っ子に会いに行ったようです

2011年11月25日 22:00

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 08:01:13.43 ID:vL8kGYKT
元就と隆元が末っ子に会いに行ったようです
毛利元就父子雄高山行向滞留日記)

永禄四年(1561年)
 3/26 元就・隆元吉田発、椋梨に宿泊
    隆景から挨拶の使者が送られる
 3/27 一行、隆景の居城雄高山(新高山城)到着、隆景が麓まで出迎える
    元就は井上春忠私邸に滞在、井上の饗応に隆景がご相伴
    隆元は巨眞寺に滞在、夜になって隆景が小魚持って訪ねてきたので数時間一緒に酒を飲む
    熊谷信直(元春の名代と思われる)・保利中務が到着、元就・隆元に炭薪などを贈る
 3/28 会所にて大宴会、能・七五三膳
 3/29 元就・隆元、御女中様(隆景妻・その母など)に御礼、饗応
 3/30 桂右衛門大夫の私邸にて宴会、五三々膳
閏3/01 会所にて大宴会、能・五三々膳 生鶴(鶴の刺身?)
閏3/02 連歌会、蹴鞠の会
    茶湯の間にて太平記読み、この夜隆元は奥の座敷に泊まる
閏3/03 会所にて宴会
閏3/04 隆元、宿所にて隆景をもてなす
閏3/05 お別れの大宴会、能・五三々膳
閏3/06 元就・隆元出立
    帰路のついでに栖眞寺で滝を見物
    見送りに来た隆景が栖眞寺で一行(近習衆まで含め百人余り)に一献を振舞う

約十日間ほぼ連日宴会とか、「生鶴」って何そのメニューとかいろいろツッコミたいが
とりあえずこれだけは言いたい

隆元と隆景だって仲いいんじゃん
でなきゃ何時間も一緒に酒飲まないよ
疎外されてないよ、自信持ってよお兄ちゃん!





737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 10:01:42.41 ID:H4stbxKS
生鶴w
なんかハードなスケジュールだな(胃腸的な意味で)

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 10:29:16.63 ID:9HSimLpx
鶏の刺身はあるらしい。
鶴はわからん。

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 11:09:14.58 ID:UHoEpYcf
あるらしいってw
今でもあるじゃん

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 11:41:19.60 ID:fG26fPDD
つーかこの場合の「生鶴」は、鶴の刺身とかではなく、「生きた鶴をその場で〆て料理したよ」
ということだろう。

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 15:50:54.42 ID:8zPYxI2l
鳥は血抜き処理と羽根むしるのに時間かかるで
その場で殺して食うとか無理だと思うで


742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 16:07:18.76 ID:IfoxjoTk
鬼武蔵さん大蛇を生で食ってたような…

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 16:14:43.19 ID:6NgHtMm6
隆元が弟と仲良く酒飲んでる姿を想像してほっこりした
そして連日宴ってすごいなぁ 島津(善)家久の話でもあったけど
昔は持て成しっぷりが半端ねぇ

生鶴といえば、織田信長から近衛前久によく鷹狩で取った獲物を贈られたというけど
天正八年十二月に贈られた鶴が「生鶴」で、前久はそれを座敷に掛け置いて
吉田兼見に見せたらしい そして二人は生の鶴を見たのがこの時初めてだったそうな
(兼見卿記より)
二人ですっげーとか言ってる姿想像したら、なんか和んだ

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 17:06:39.31 ID:pMvdd0Hm
平安時代の話だけど…
三河では風祭という生贄の習慣(生きながらに料理とか)があった。
三河守大江定基は、彼の郎党たちがキジをとらえてきたのを見て、
「この鳥を生きながらに食べるより、もっといい味になる方法を試してみよ」
とさとしたが、郎党たちは勘違いして、キジの毛をむしり、生きたまま火あぶりにしたために、声を上げて泣いた。
そしてその日のうちに国府を出て京へ上り、出家して寂昭と名乗った。後に唐に渡ったらしい。

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 18:49:21.95 ID:h3bopwSe
幽斎さんなら生きたのでも一瞬でやってくれるかもしれんw

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 19:59:45.97 ID:hUDrpAZQ
原始人みたいだな

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 20:06:15.20 ID:KfWxEQIV
生きたまま火あぶりにしたら血が回りすぎてまずくなると思う

隆元の孝心

2011年09月05日 22:05

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 20:21:53.74 ID:UU7jyu51
ほいじゃそれがしも地味兄ちゃんのお話を。

永禄六年(1563年)七月、将軍家の仲裁によって毛利と大友の和睦が成立し、
毛利隆元が防州から出雲へと向かう途上のこと。
隆元は途中、厳島に滞在していた聖護院道増(将軍・足利義輝の使者)に挨拶した。

「長いこと防府に駐屯してたので、愚父・元就にずっと会っておらぬのですよ。
日に日に老い、さぞ疲れも溜まっていることだろうと心配しておりましたが、
将軍様の調停で大友との和睦が成立したので、
やっと父に会いに行くことができて、最高に嬉しく思っています。
大友征伐が完遂できなかったのは本意ではありませんが、
ともあれ、父に会えるのは喜びのきわみでございます」

さらに数日後、吉田郡山の麓に到着した。
帰城して4、5日なりとも休息をとってから出立しましょうと言う家臣に、隆元、

「長らく父上のお顔を見ていないのだから、大友と和睦がなったうえは、
できるだけ急いで父上のもとに見参すべきだ!
父上はこの六・七年ほど、出雲の大敵・尼子に対峙して、
お眠りになるにも席をお空けにならず、食事をなさるにも味をお忘れになるほど、
心身を削っていらっしゃるのだ。
それなのに子の私が、一人だけ楽をするために家に帰ろうなど、
不孝もはなはだしく、天に顔向けできることではない!」

と言って目の前の家城には立ち寄りもせず、一路出雲を目指した。
人々は口々に隆元の孝心を賞賛したそうな。

大友征伐に意外にもイケイケだった隆元。
どんだけ父ちゃんが恋しいねん、というお話。
まあ、会う前に死んじゃうんですけどね。




464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 20:35:01.98 ID:UuF0Kzeq
>>463
隆元本当にお父さん大好きなんだなあ…尊敬しているというよりお父さん子な印象だ
大友征伐したかったとか、さらっと物騒なこと言ってるが、やはり隆元も戦国時代の人間なんだな

>>まあ、会う前に死んじゃうんですけどね。
何たる悲劇…

天文七年三月七日・山口の大火事にて

2011年09月01日 22:02

367 名前:sage[] 投稿日:2011/09/01(木) 00:54:00.60 ID:2OZgzHLc
防災の日&毛利隆元の命日らしいので

天文七年二月下旬から三月上旬にかけて、山口では火事が多発していた。
二月二十五日、二十七日、翌月三月三日、七日と、放火なのか事故なのかはわからない。
なかでも三月七日に本町で発生した火事は「七日、本町家百はかり燃候」と記録されている。

この大火事のときに、鎮火のために奔走した集団がいた。
去年の天文六年十二月に、山口に人質としてやってきた毛利隆元が従えていた者達である。
隆元の山口での人質生活を書き留めている「毛利隆元山口滞留日記」には、

「此方衆走あひ、火をしつめられ候、其時内藤彦太郎殿爲御使、御館様御褒美にて候」

と記されており、具体的に何をどうしたのかは書かれていないが、大内義隆から褒美をもらうほど活躍したらしい。

のちに「優柔不断」と父・元就に評されてしまう隆元だが、一大事という時には部下を適切に動かすことはできたのだ。
まあ、隆元が自主的に動いたんじゃなくて「人手が足りないから手伝って!」とか言われたからかもしれんけど。

山口で人質中の隆元十六歳と、その配下のちょっといい話。




369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 01:03:57.55 ID:6aZ2QESu
隆元の逸話きたー 16歳で凄いなあ
防災の日と隆元の命日が一緒なんだ 災いを防ぐ日なのに…

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 01:55:43.80 ID:YDkSPVnw
子孫が後の消防士である

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 06:15:18.50 ID:gjgHNumR
隆元の指揮下で動いてたというより
勝手に消火活動に奔走してたって感じの文だな

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 07:33:41.12 ID:5chSyWAG
>>370
火付け役だろ
>>371
頑張れば若さまの評判も良くなるからね

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 09:59:58.04 ID:MpLLgyi8
>>371
だよな
毛利隆元が指導力を発揮したなら具体的に書くはず、毛利側の史料なんだから

毛利隆元『名将の子供には、必ず…』

2011年01月05日 00:01

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/03(月) 23:37:36 ID:YjbfaFUK
『名将の子供には、必ず不運な者が生まれるものだと世間では申しています。
その言葉の意味、私にはよくわかります。』

(名将の子ニハ、必ず不運の者が生まれ候と申し候事、存知あたり候。)

これは毛利隆元が、彼が帰依する国清寺惠心に送った書状の一節である。
隆元の苦しみが垣間見られる、印象的な言葉であろう。




261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/03(月) 23:45:20 ID:lW+pdgvy
どこまでもキャラがぶれないな、隆元・・・鬱々としておられる

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/03(月) 23:54:12 ID:AnZ71xIa
小田政治「・・・・・・まさか・・・」

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 08:28:45 ID:+m6wm3n+
武田勝頼「私にもよくわかります。」

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 08:42:49 ID:WQ2dx8im
必ず不肖の子が生まれるもの、と言い換えても当てはまるな

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 08:59:16 ID:vkIJz2Mv
伊達さんとこの跡継ぎが相当まともに育ったのが不思議で仕方がない
庶長子はそれなりにやんちゃもしたようだが

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 09:00:56 ID:/jAvkES6
義元「麻呂の息子がこんなに不肖のはずがない」

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 09:32:28 ID:PBPQzyho
大友義鑑「どうしてああなった・・・」

大友宗麟「こ れ は ひ ど い」

大友義統「」

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 09:36:13 ID:7P8wkj8U
上杉謙信「よそから貰ってくれば問題無い」

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 09:45:46 ID:9w/ZIwOS
親へのコンプの他に
兄弟へのコンプもこじらせると生きづらくなる
この流れだと勝頼とか義統が隆元に近いかもな

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 10:39:03 ID:vxqR593n
隆元兄ちゃん…

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 14:37:18 ID:yP2btYx9
常真殿…

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 17:38:50 ID:3/vQfZQL
>>267
宗麟の言い分
「ふざけんなよクソ親父。幼いころ母を亡くして傷心の俺をほったらかして若い後妻といちゃいちゃしやがって、
おまけに付けてくれた御守役は裏切り者で、俺の廃嫡に賛成する始末、結局俺の廃嫡をだしにして有力家臣を粛清
しようとしたら逆襲されてアボーン。
その後病弱な体に鞭打って、やたらと騒がしい家臣共をまとめ、戦国一の陰険謀略厨の元就のちょっかいをかわし、
なんとか家を守ってきたんだぞー。あーよだきー、温泉にでもいってこよう。」
義統の言い分
「親父が悪い。宗茂が悪い。太閤が悪い。三成が悪い。内府が悪い。官兵衛が・・・」

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 21:48:50 ID:EXCmga44
>>268
関八州市の美少年のボクがいれば万事OKですよ。

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 22:38:57 ID:keNnEIrP
>>272
都で公家の娘を襲って犯した口が何を言うw

毛利隆元の死と赤川元保

2010年08月01日 00:00

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/31(土) 19:41:34 ID:4qq2R40e
旧暦の八月四日は毛利隆元の命日だってね
そろそろ近づいてきたから隆元の死に関係した話を投下するよ

毛利家中に赤川元保という男がいる。
生年は伝わっていないが毛利元就が毛利家当主を継ぐ際に出した起請文に署名している事から、おそらく
元就と同世代かそれより上であろう。
長らく元就の直臣として仕えていた元保だったが、隆元が当主となった後は隆元付きとなった。
毛利家で五奉行制度が始まると、元保は五奉行筆頭となり隆元派として幅を利かせ、
他の重臣で元就派の桂氏や児玉氏と諍いを起こすまでに隆元に入れ込んでいた。
そんな家中きっての隆元派だった元保だが、主・隆元とは決していい関係ではなかったようで
隆元は書状で何度も元保について愚痴をこぼしている。曰く、「赤左(元保)は思案無き者で
傲慢な振る舞いが多い」と。
元保がこの隆元の愚痴に気付いていたかどうかは分からないが、この主従には微妙な温度差があったようだ。


さて、永禄六年(1563年)八月三日のこと。
出雲遠征に向かう途中、佐々部の地に滞在していた隆元のところに地元の城主、和智誠春から饗応の誘いがあった。
出立を控えた時期に饗応など…と元保は強く反対する。
しかし、日ごろから元保の言を疎ましく思っていた隆元は元保の意見を聞き入れる事はなかった。
予定通り和智氏の館で饗応を受け帰路についたその時、隆元が突然苦しみ出した。
傍にいた者達は慌てて医者を呼ぶが、介抱虚しく八月四日の早朝、隆元は息を引き取った。
この件を陣中で聞いた元就は元保に下関の防備を命じ、尼子攻めに加わる事を許さなかった。
元就は隆元は暗殺されていたと考えており、元保と和智誠春こそがその首謀者だと考えていたからだ。

時は流れて永禄十年(1567年)、長年の宿敵尼子氏を降伏させ一段落ついていた元就は四年越しに
隆元の死に関して動くこととなる。
まず三月三日、元保に隆元頓死の責任を取らせ切腹を命じた。
確たる証拠がなかったためか元保を自害させることには家中から反発はあったが、
元就は「向こうが警戒しているのだからこちらが先に動かねば家の大事になる」と言って取り合おうとはしなかった。
更に元保の養子・又五郎と元保の弟・元久の住居を襲撃し二人を討ち取った。
そして出雲遠征には従軍を許されていた和智誠春とその弟を問答無用で捕え、厳島神社傍に監禁。
二人は脱走して厳島神社に立てこもったため、元就は翌年、兵を向けて厳重に神社を囲った上で
この兄弟を討ち取った。
こうして元就による四年越しの復讐劇は終わる。

しかしこの後、元就は元保が隆元に対して和智氏からの誘いを断るよう強く反対していた事を知る。
自らの過ちを悟った元就は輝元と連名で元保の甥に詫びの書状を送ると共に、赤川家の再興を許したのだった。

なんか報われない赤川元保の話




265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/01(日) 06:40:47 ID:aZaI5eMB
>>258
毛利元就は厳島の合戦の後には厳島神社を掃除しただけなのに
和智氏を討ち取った後は社殿が穢れたとして建て直しを行っている
普通逆だろと思うが、金に余裕が出来たって事だな

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/01(日) 07:58:21 ID:/5v+EQKb
>>265
厳島の戦いは外に流れついた死体の掃除と砂浜の清浄だけでよかったけど
>>258のは社殿の中で直接ドンパチやったので改修が必要だったんだ

毛利関係の小説でも元保犯人説は多いからやっぱり報われていない

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/01(日) 13:31:25 ID:ib3TxPH6
どう控えめに見ても隆元の死にかこつけて
発言権を持ちすぎた奉行を葬った元就の方がえげつないだろうに、報われないよな>元保

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/01(日) 15:16:43 ID:JJHun3aT
でもまあやっぱり、日頃の行い、言動には気をつけないとな・・・。

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/01(日) 19:27:50 ID:X4vJUq1a
大河では隆元頓死の責任を取って自害という書き方になってたな。>赤川
しかし、対立した家臣を誅殺しておいて、その後継に
「お父ちゃん殺っちゃったの、あんまよくなかったね、ゴメン。」
って再興を許すのがお家芸のような気がする。
桂広澄、元澄親子に渡辺勝、通親子に。

隆元の愚痴に対する、元就の返事

2010年06月19日 00:00

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/17(木) 23:09:30 ID:2EZSViyD
毛利隆元が父元就にあてた
『弟たちは私を助けようとする心がけなど微塵もありません。
吉田にやってきても直ぐ自分の領地に帰りたがるし。
何につけても隆元をのけ者にして、二人だけでヒソヒソとやっているのです。』

と、愚痴を綴った書状は有名だが、これに対する元就の返書は意外と知られていない。
それに曰く

『今朝、書状を拝見しました。元春、隆景についてお前が思っていること、よくわかった。
本来なら馴れ馴れしいほど親密であるべきなのに、だんだんと疎遠になっていくと言うのは
本当に困った事だ。

しかし隆景の奴はお前だけでなく、私に対してもだんだんと疎遠になって来て、
腹の立つことが多いのだ。私でさえそうなのだから、お前がどのように考えているか
良く解るよ。怒るのももっともだ。

ただ、元春に関しては昔から細々と付き合うことをしない性格だったからなあ…。
あいつに関しては、仕方ないとあきらめろ。』


次男吉川元春、どうも家族の中でも浮いた性格だったらしい。
と言うお話。




452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/17(木) 23:56:59 ID:UHDuxQa7
なんか年齢だけ気にしないと反抗期みたいに見えるな

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/18(金) 06:31:21 ID:pL5B0t0w
>>451
細々と付き合う事をしないとは言っても
現に隆元は>隆元をのけ者にして、二人だけでヒソヒソとやっているのです
と感じている訳だから実際元・隆景ラインができてたんだろう

まあ隆元が生きてる頃は隆元が弟達と疎遠だったおかげで
隆元 対 元春・隆景という形が出来ていたから
それなりにうまくやってたけど、
輝元の頃にはどっちが宗家の舵を握るかで吉川と小早川のパワーバランスが崩れて
元春と隆景の仲がだんだん微妙になってしまった

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/18(金) 10:33:07 ID:IBD8O2LX
>>451-453

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1144.html の現代語訳版でしゅね。

 弟ズに構って貰えずスネて父ちゃんに愚痴る地味兄ちゃん……moemoe

毛利隆元の意外に偉大なお話

2009年05月20日 00:09

708 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/19(火) 16:56:49 ID:iUFjJjsM
ただせさえ、影の薄いさえない長男坊こと毛利隆元の意外に偉大なお話

毛利元就には、ご存知の3兄弟がいる。オヤジの戦国謀略大王毛利元就の子は
次男:負け知らずの吉川元春、三男:調略王子の小早川隆景、そして・・・・・

影の薄さは日の本一の長男、毛利隆元

である。とにかくこの男は影が薄い。手柄は立てるもオヤジが偉大すぎる。
軍を指揮するにも元春の方が有名だ。調略やれば隆景の口には絶対に負ける。
さて、毛利の尼子攻めもついに佳境に入り、増援が必要になったので隆元が援兵を
率いて向かった途中で和智誠春の饗応を受けた後に

ぽっくり死んでしまった。(食中毒らしいが死因が未だはっきりとはわかっていない。)

本当に日の本一影の薄い男の最後はあっけなく「ぽっくり」である。
その死後に毛利家に大事が起きてしまった。
元就「尼子攻めを続行する。ついては、元春は徴兵を、隆景は調略を担当しろ。国人からの援軍は
  宍戸の婿殿に交渉を頼もう。謀略と兵糧と金子はワシが担当しよう。隆元が死んだからワシが行うよ。
  保証人の名義は全部ワシの名前で良い。隆元より信用はあると思う。隆元でも出来たんじゃ。
  お前達でも大丈夫だろう。」
元春「わかりました。」(今まで兄者がやっていたから簡単じゃろう。)
隆景「わかりました。」(調略の金子は兄者がやっていたがオヤジでも出来るだろう。)
宍戸の婿殿「わかりました。」(国人の交渉は隆元義兄上がやっていたが、私でも大丈夫だろう。)

その見込みが甘かった事を思い知るのはすぐであった。

続く

709 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/19(火) 17:31:11 ID:iUFjJjsM
>>708続き
数日後
元就「あの頼んだ件はどうなった?うまくいったろう?」
元春「兵が思うように集まっていません。(大汗)」
隆景「調略は何とか進めておりますが、『保証交渉』で困難しています。(大汗)」
宍戸「国人の交渉が困難を極めております。出兵の出し惜しみが・・・(大汗)」
元就「なぜ?ワシの名を使ったろう?うまくいくはず・・・何じゃ?」
家臣「兵糧及び予算調達に関して商人から返答が来ました。」
つ『融資はご希望額の6割が限度です。兵糧は掛け売りではなく現金決済をお願いします。商人某より』
        元_就
       /⌒  ⌒\         ━━┓┃┃
      /(  ̄)  (_)\         ┃   ━━━━━━━━
    /::::::⌒(__人__)⌒:::: \         ┃               ┃┃┃
   |    ゝ'゚     ≦ 三 ゚。 ゚                       ┛
   \   。≧       三 ==-     
      ゙ヽ, ,__    ,. -ー"ヽヽ

元就「な!?何じゃこりゃー!ワシの名前はダメなのか?あそこは隆元の生きていた時は
   すぐに貸してくれたぞ!」
一同「実は・・・皆が言うのです。『隆元様が生きていたら何とかするのに。』と・・・・」
元就「ワシの方がネームバリューが上のはずではないか!?」
一同「あんたが三度のメシより謀略好きだから、一番信用無いっちゅうねん!」

『毛利隆元が死んだ』

たったこれだけの事なのに元就も生きているのに、世間では、思いも寄らない事が起こっていたのである

「毛利家に対する信用不安」 

財政を得意としている人ならわかるかも知れないが、『信用』が重要である。
財政基盤がしっかりしているから税金が入り、投資(戦国期は軍事)、
公共事業(石見銀山開発や中国との交易)が出来るのである。
そこに必要なのは財政を理解するトップとその信用である。
一気にそれが無くなった。そして毛利家には財政困難(信用崩壊)が来ていた。
金がなければ国人との交渉も戦費調達も調略も元就の老後の楽しみの謀略も何にも出来ない。
今までオヤジと他の兄弟が戦争を安心して出来たのも隆元のくれる「お金(予算)」の上で
やっていたのである。
武士の価値観では絶対にはかれなかった隆元の価値だが、世間一般の商人や国人は
隆元をこう見ていたのだ。

歩く信用手形(それもプラチナカード級の信用)=毛利隆元

その後毛利家は財政難に陥ったが、何とか立て直した。無理矢理でも何とかした。
よほど大変だったのだろう隆元死後に書かれた元就の手紙にはこう書いてあった。

「隆元が生きていた頃は心強かった(隆元候ツル時ハ世上ノオソレモスクナク候テ罷リ居リ候)」

ちなみにオヤジの元就は隆元が死んだとき三日三晩泣いたとか。
そりゃ泣くわな。
元就「隆元ぉぉぉぉぉぉ!誰がワシの隆元を殺したぁぁぁ!打ち出の小槌がいなくなったぁぁぁぁぁ!」




710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 18:03:14 ID:cIJ7CrBB
それにしてもなんで隆元にそれほどの力があったのか

と思ってしまうのもさえない地味キャラと言うイメージに毒されてるからなのかな

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 18:47:44 ID:bCvD5d99
俺は隆元を過小評価していたようです

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 18:51:14 ID:ORR5l38L
いつも親父から説教されてるせいでイジケちゃって、
「早く死んで楽になりたい」とか言ってたらしいけどな、降元さん。

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 19:01:36 ID:JUT0ojx1
あの人たちにはついていけねーよとか我が身可愛い一般人達を影でフォローしてたんじゃないだろうか
ゴーイングマイウェイな人々と一般人の調整役として疲れ果てて楽になりたいと・・・

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 19:06:37 ID:f6Fit6pX
隆元は書状と実際が、かなり別人格。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 19:09:58 ID:AHbW0ZFy
身内に宛てた手紙には普段他人には見せられない聞かせられない弱みやぼやきや
愚痴などが出てくるもんだ

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 19:19:07 ID:03EWVm0U
>708-709うぃ、㌧クス

お兄ちゃんシリーズも、まとめスレかなりログが増えたなあ。
真田信之と(総領息子なのに地味な)お兄ちゃんシリーズ、
織田信忠や徳川秀忠と(先代が偉大すぎる)二代目シリーズで被ったり混ざって
「雑談」カテゴリーに入ってるのが多いが)
……あと長生きネタなw

>715
早々と陶晴賢との対決を覚悟完了して元就までその気にさせたり、
毛利大友の紛争で幕府の調停を突っぱねたりね。

いい話/悪い話スレに来るようになって、よく知らんかった隆元ネタたくさん読んだわ

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 19:52:05 ID:pz6SPym7
隆元は平清盛の長男(こちらも結構な苦労人)に自分の姿を重ねていたらしいね。
偉大な親父を持った二代目ってのはいつの時代も…

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 20:00:15 ID:YP56sxRS
南蛮人にすげぇと言われた小早川隆景の治政も、隆景は「いや私など兄には(ry」だもんな。
毛利家真のラスボスだったのだろう。

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 20:15:51 ID:01mmRi2V
>南蛮人にすげぇと言われた小早川隆景の治政
kwsk

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 20:51:55 ID:Po6rlctq
>>720
フロイスの評では

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 21:02:03 ID:zkjG07/j
なんだフロイスか

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 21:07:33 ID:vVPeLODU
隆元が死んだ時に「毛利はもうおしまいだ」
とうろたえまくったのは隆景だっけ

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 21:23:16 ID:f6Fit6pX
>>723
そう。あの隆景が半狂乱になったらしい。

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 21:33:45 ID:JUT0ojx1
地味に王者の風格が漂ってそうだな

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 21:35:27 ID:11yUT6Te
元就の種のハズレ無し度はスゴイよな

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 21:44:36 ID:Po6rlctq
>>722
がっかりすんなw

729 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/19(火) 21:53:05 ID:FM4EK1Ux
毛利隆元が死んだときに一時期、毛利家の財政が悪化したのは事実で、
他の国人達との交渉も一気に難しくなったそうだ。
特に財政難はかなりひどかったようで、毛利元就が

「天下を狙わず家を残す事を第一にしろ」

という遺言を書いたのは、隆元が死んで財政が悪化した事で戦費調達が難しくなったため
何が何でも家を残す事を優先させざるを得なかったからとも言われている。

続・輝と輝のパパ上・いい話

2009年02月22日 00:23

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 23:05:31 ID:xc4jwCVK
>>68続編とはいかないかもしれないけど

続・輝と輝のパパ上

大友そーりんとの戦いに明け暮れていた隆元
隆景と一緒に豊前に出兵したり石見に移動したり
非常に忙しかった
もちろん家に帰ることなど出来ない隆元
しかしこの時の隆元は忘れていなかった
息子が9歳になった事を!

隆元は輝にお手紙を書いた↓

「紐直しの儀式おめでとう!おじいちゃんにも言いました
 帯を頂くそうですね、おめでとう!本当におめでとう!」
日付:11月13日

11月13日が大安で11月15日が先勝なのでどちらかで
行われた様子

紐直しとは、幼児が付帯をやめ、初めて帯を用いる儀式だそうです
ちなみに、おじいちゃんのところは「ちいさま」と書かれています
「ちいさま」って書くだけで元就が何だか可愛く思えてしまいますね

ただ輝が可哀相なのは、この儀式、親族の男は全員戦場に出ている
ため、立ち会ったのは尾崎の局ママだけ…
でもパパも遠くから輝の事を大事に想っていたんだよ

隆元が謎の死を迎える2年前の心温まるお話




86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 23:23:15 ID:SwN2kgSD
大河でも吉川親子をうらやましそうに見てたな輝元

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 23:49:58 ID:PfMJ6j7d
>>85
ここまで息子を思っていたパパに先立たれたのは大きいな>輝

かといって人の女房取るような人格に育ったのはどうかと思うがw

毛利隆元、隆景を案じる・いい話

2009年02月22日 00:21

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 23:30:11 ID:xc4jwCVK
隆元続投スマン↓

隆元、隆景を案じる

例の大内義隆のお家に元就・元春・隆景の三人が出向くこと
になり、隆元兄ちゃんはお留守番をしていた時のこと

隆元27歳から隆景17歳に宛てた手紙
「何度もいうけどねっ、大内さん家に行ったらこういう風にするんだよっ!
まず…(長いので省略。概要「ハンカチちゃんと持った?」的な内容)
何でもパパと元春兄ちゃんとかお寺の人とか大内さんとこの人に
相談するんだよっ!ああっもう心配で仕方ないよ」

もしかして一緒に行きたかったのか?




88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 23:49:58 ID:PfMJ6j7d

>>87
一緒にいきたかったんだろうな
だって大内の殿は隆元の元かr(ry

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 23:51:44 ID:GpgcbTRY
>87
ん? 後方不敗?

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/21(土) 01:01:28 ID:f7oceIqY
>>87
反抗期な若い隆景が嫌がる顔が目に浮かぶようだ