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蠣崎氏の台頭

2009年10月03日 00:10

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 21:33:28 ID:p/bFVAWk
>>1乙武蔵
新スレ記念(?)で、蠣崎の(一応)良い話と悪い話を投下
まず、こっちに"蠣崎氏から見て"良い話。

蠣崎氏の台頭

鎌倉幕府成立以降、蝦夷島は流刑地として使用されるようになり、
やがて土着した人々(和人)はそこで支配者化し、アイヌ民族と対立するようになっていった。
15世紀中ごろの道南には、安東氏の配下の上之国・松前・下之国の三守護と、
各守護の下に全部で九の領主が居り、蠣崎氏は上之国守護であった。

1456年春、鍛冶職人とアイヌ人青年との間でマキリ(アイヌの小刀)の出来・値段をめぐって
争いになり、
鍛冶職人は遂に青年を刺殺してしまった。
これに端を発したアイヌ民族の蜂起は数十年間断続的に起こるのだが、
中でも最大のものが1457(長禄元)年の「コシャマインの戦い」である。
東部アイヌ首長のコシャマイン率いるアイヌ軍の勢いは凄まじく、道南にある十二の館のうち
十の館が陥落。
残ったのは下之国守護の安東家政(安東政季の弟)と、上之国守護の蠣崎季繁の館のみとなった。

ここで登場するのが、蠣崎氏の客将であった武田信広である。
信広は和人軍の惣大将として出陣すると、コシャマイン父子を射殺
さらにその他のアイヌ人を斬殺し、蜂起を鎮圧した。
この活躍に、家政と季繁は信広の武勇をを賞して大刀を与え、信広も家政に大刀を進じた。
さらに安東政季の娘を、嫡子のいない季繁の養女としたうえで、信広に嫁がせ、
蠣崎の家督を継がせた。
これにより、蠣崎氏は蝦夷の正当な支配者として安東氏から認められたのである。
また、1512~13(永正九~十)年のアイヌの武装蜂起により、蠣崎を除く
各地の守護・領主たちはほとんど滅亡。
かくして和人の指導者としての地位も手に入れた蠣崎氏は、近世大名松前氏となっていくのである。


蠣崎氏にとって(家運の上がった)いい話。
…もっともアイヌの人たちからすれば、後の圧政の始まりとも言える悪い話でもあるが。




10 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/02(金) 22:39:29 ID:4stZsGet
そして松前藩はアイヌに勘違いしていくのである。
アイヌへの差別や搾取をしても良いと考えていたためアイヌは度々放棄している。
アイヌが蜂起したら大半は、人間とは思えない和議と見せかけた騙まし討ちを蠣崎氏は行った。
シャクシャインの乱では松前藩で圧政にあっていた、
アイヌが決起をし松前藩を圧倒したが日本側の圧倒的勢力で鎮圧されている。

松前藩は徹底してアイヌ搾取をした。
アイヌへは重労働がかされて、アイヌの人間は松前藩に搾り取られていった。
日本人に好きでもないのにアイヌの娘は強制的に犯され、逆らうものは殺されていった。
アイヌへの人道的な意識は無かった。アイヌは土人であり松前藩が搾取しても問題ない。
このような考えをしていたのだろう。差別もされていたと考えられる。
松前藩からの被支配史はアイヌにしてみれば圧政と差別の歴史であり、現在でも禍根が残っている。

そして交易では鮭との交換などでは始め、1-10、終わりに見られるような行為を行っている。
これははじめと終わりを入れて12個を鮭を持っていっている
心底なめ切った行為であり、アイヌの土人扱いをしている行為である。

最後に起きた乱は、北方四島での決起である。日本人の搾取に耐えかねて
アイヌはついに反乱を起こした。
商人がアイヌへの酷い労働を負わせていためだ。いろんな人間が入りアイヌを搾取していたのだろう。
幕府はお金を得ていた。日本の商人がアイヌに入り、アイヌを使って金儲けした。

アイヌが決起して商人は次々に殺されていったという。これはこれで酷い話だが
鎮圧されたアイヌは大量に殺されていった。結局全て決起したアイヌは殺された。
松前藩下のアイヌ統治ではこのような酷いことが行われていたのである。




11 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/02(金) 22:47:57 ID:Pv5WYzlM
悪い話しは悪い話しスレに。

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 22:53:16 ID:37KDcm1F
しかし極悪すぎる話しだなw

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 22:56:30 ID:0O6+BZC0
どこでも弱者は惨めなものだな

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 00:00:05 ID:TmOiL+4O
アイヌも決して一枚岩ではなく、日本人と組んで「金儲け」をしていたアイヌも多く存在した。
アイヌ同士の抗争も珍しくなかった。

この視点はよく無視され、あたかもアイヌ支配が、日本人とアイヌ人の民族抗争で
あったかのように言われがちだが、そんな単純なものでは決して無い。

アイヌにも複層的な階級と勢力があり、それぞれにアイヌ社会の中での立場も、そして
日本人とのかかわり方も違っていた。
「日本人側」についたアイヌもまた多かったのだ。


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