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佐川田昌俊の有名な歌と、それにまつわる不思議なお話

2011年01月30日 00:01

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 22:05:14 ID:iRVaeWLn
佐川田昌俊という人は下野に生まれ、上杉景勝に仕え、やがて関ヶ原の後永井直勝に仕えた
武勇優れた武士であったが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-515.html
ここに書かれているよう、武士としても勿論、歌人としても名が高く、当時を代表する文化人としても知られていた。

さて、彼の主君永井尚政が山城国淀城主となった頃のこと、永井家よりの禁裏への使者として、昌俊が
遣わされた。
この時朝廷の公卿たち、昌俊が和歌の達人であるとの評判を聞いていたため

「喜六(昌俊)よ、一つ歌を詠んでくれないか?」

とせがんだ。これに昌俊

『吉野山 花待つ頃の朝な朝な 心にかかる峰の白雲』

この歌に公卿たちは感嘆し、当時の京で大変な評判となったそうだ。


さて、それから数年の後のことである


ある公卿が嵐山に遊んだ時、その山奥に小さな庵を見つけた。
このような山奥にと、公卿は珍しく思いその庵を訪ねると、庵主である僧に招き入れられた。
そこで公卿と僧は宮中の式礼について、和歌についての興味深い話など色々と面白く語り合った。

この僧が非常に学識深く風雅の道にも造詣が深い事かったため話は興に乗り、春のことであったため、
ふとこの公卿、かつて佐川田昌俊が詠んだあの、吉野山の歌を吟じた。

「さてさて面白い歌であろう?堂上にてもこれほどの歌を讀めるものはおらんよ。」

そういう公卿にこの僧

「それほど褒めるような歌ではありませんよ。この歌は昔、東下総守(東常縁)が詠んだ

『朝な朝な 雲たち添うる小倉山 峰吹く風は花の香ぞする』

という古歌によって詠んだものでしょう」

と言った。


さて、この公卿が帰ってきて親友にこの事を話すと、この友驚き
「それは他の者ではない!佐川田昌俊が隠遁して世をのがれ、そこに住んでいるのだろう!」

翌日公卿とその友はうち連れて再び嵐山に分け入り、かの庵室を訪ねたが、その庵は既に崩し捨てられ、
庵主はどこかへ行き去った跡だったという。

佐川田昌俊の有名な歌と、それにまつわる不思議なお話。




456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 22:08:37 ID:hii+OybT
言葉のなまりで分かるだろ、とか突っ込んじゃだめ?

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 22:46:31 ID:Alsf5Fmn
なまりだけで個人を特定出来るものなのかとも思う
京の都だし・・・

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 23:02:48 ID:UxDpwWfS
ケンミンSHOWのマスターみたいな人かw
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佐川田昌俊の不思議な生活・いい話

2009年02月16日 05:55

839 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/15(日) 13:31:05 ID:Eu0Q92Dn
佐川田昌俊という武士がいた。
彼は関ヶ原における大津城攻めにおいて、西軍の一員として真っ先に城壁を駆け上り、
城兵と槍を数度合わせたことで有名となり、戦後、徳川家の重臣永野直勝に招かれ、
その家臣となった。

彼の生活はかなり変わっていた。
彼は500石の扶持を得ていたが、それをそのまま町の富商に運用を任せ、
自分はと言えば、茶道具と硯の他、何も持たなかった。
身に着けるものも、冬であれば白羽織二重があるだけ。5,6日ごとに富商から、新しい
白羽織二重が届けられていた。
また食事も、朝夕に富商の方から献立が届けられ、食べたいものに印をつけると、それが
膳に乗せられ運ばれてくる、と言った按配であり、金銀の類は一切持たなかった。

こんな昌俊であったが、武人であるとともに歌人としても高名であった。

ある時、直勝の後を継いだ永井尚政に、将軍、徳川家光がその白扇に一首書いて与えた事があった。
尚政はありがたく押し頂き、屋敷に帰ってから大喜びで昌俊に自慢をした。

「お前は日ごろから歌道に熱心だから、特別に見せてやろう。将軍様がお書きになった
この和歌は、近頃都でも評判のものだそうだぞ!」

それを拝見した昌俊は驚き、これは身に余る光栄ですと言い出した。

「お前が光栄に思うこともあるまい」

と尚政が怪訝な顔をすると、昌俊は

「実はこの歌、拙者が作って中院通村卿に差し上げたものでござる」

これには尚政も、大いに驚いたと言うことである。





841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/15(日) 13:35:56 ID:W2rOXycU
>>839
あの時代に俸禄全ての運用を富商に任せてたってのは物凄く時代を先取りした革新的な事に見えるなw
運用は上手くいってたのかが気になるな。

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/15(日) 13:46:03 ID:TYgNzcQb
>>841
毎日のご飯と季節の節目のお召し替えの付け届けが運用利益として届いていたということだから
ビックリするような赤字にはなってなかったんだろうと思われ
最も大黒字でもそのことは昌俊には報告されずに、上記の付け届けのみだったとも受け取れるけどw

万が一大赤字だったら
先日話題になった「大阪一の女相場師」みたいに突然夜逃げされる罠w

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/15(日) 14:02:55 ID:fsSQFCrk
運用とかできたのか?まだ米相場とかないし。
ま、500石って言えば江戸初期ならかなり贅沢な生活できるぐらいな余裕あるし
金使わない生活しているっぽいから
その生活の余りもらえれば十分なんだろうけどさ。
・・・てか、奥さんとか子供とかいなかったのかな?この人

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/15(日) 14:06:02 ID:+B2e2B89
秀吉の頃から大規模戦、築城、街造りでバブル景気が発生し、
秀長や秀次、家康なんかが貸付という形で投資に励んでいた

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/15(日) 14:07:59 ID:EnIXeBPT
まあ役人が自分達で運用したり経営したりする何とか基金とかよりマシでしょ

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/15(日) 14:16:35 ID:UOXeRu/r
秀長と家康は何でもやるなホントに

847 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/15(日) 14:32:36 ID:Eu0Q92Dn
個人で貿易もやってるね>家康

ちなみに家康の貿易担当機関の名称は、「お買い物係」。マジでw

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/15(日) 16:34:15 ID:C99j22v6
>847側室のために朱印船出したりね。

ま、まだお説教がクドくさえならなければ大丈夫っっ…、大丈夫だ……