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二つの記録に登場する三成

2014年01月30日 19:15

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:02:55.52 ID:uE2pb5xB
過去ログ見ずに投稿。かぶってたらすいません。


関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いで西軍は敗北、岐阜城は陥落した。

勢いに乗る東軍は、次の目標を大垣に定め、長良川の河渡の渡しにおいて
石田三成の部将・杉江勘兵衛らと交戦、これを討ち取っている。
揖斐川の呂久の渡しの守備についていた三成と小西行長は、事態を憂慮、
墨俣を守っていた島津義弘と協議し、その結果大垣城へ退くこととなった。


このとき、島津義弘はわずかな供廻りしか連れておらず、兵のほとんどは
墨俣に残っていた。石田・小西両勢が撤退してしまえば、島津勢は敵中に
孤立してしまう。おのれのみあくまでも退こうとする三成に対して、義弘の
家臣新納弥太左衛門と川上久右衛門が三成の馬の口を取り、考え直すよう
迫ったが、三成を翻意させることは出来なかった。司馬遼太郎の歴史小説
『関ヶ原』でも採り上げられている話であり、小説では卑怯と責められた
三成が馬上で「卑怯ではない、卑怯ではない」と独白する場面もある。
これがもとで義弘は三成を信頼できなくなり、合戦当日に非協力的な態度を
とるにいたる―というのが小説の筋。上記の話は実際に従軍した島津家家臣
大重平六の覚書がもととなっている。無論、三成独白の場面は司馬の創作で
ある。


一方、あまり知られてないが、こんな話も残っている。



退却が決まり、墨俣の島津勢は前線から大垣城目指して急いでいた。はや
日も暮れようとする頃、行く手より一騎の武者が駆けてくるのが見えた。
その出で立ちは、黒の具足・水牛の角の立物の兜を被り、供廻りも従えず
ただ一騎のみで急ぎ駆けてくる…。

「あっ、あれは治部少輔殿だ」

そう、三成であった。

島津勢が墨俣からの退却に難渋していると聞き、見舞いに駆けつけたのだ。


出典は、これも島津側に残った神戸久五郎の覚書。


二つの記録に登場する三成、まるで正反対w。
ひょっとしたら、先の話は島津家がお家のために創作したのかも。




246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:15:18.76 ID:pnHGcZ8r
島津義弘は最初から東軍が勝つと思っていたんだよな
で東軍に入りたかったけど、ご存知の通りでご破算

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:18:47.90 ID:pZ7zDfLS
検地で三成と親しかったし、もとから西軍派だったけど負けたから死人に口なしってことで
西軍についた責任を鳥居におっかぶせただけじゃないか

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:45:19.32 ID:9Cqd3mn5
義弘は最初から中央の要請で上杉征伐行くつもりで大坂行ったらきな臭いことになってたから
やむなく流れで入っただけでしょ

三成に協力してくれなんてことは一度も連絡されてないし西軍なんてもんは知らんよ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 14:47:53.84 ID:pnHGcZ8r
井伊の赤備え VS 島津ステガマリ は関ヶ原のクライマックスにふさわしいね

253 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/30(木) 16:26:51.41 ID:8Eq9Z+rj
>245
司馬の小説でその後の話も載ってたような。

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:35:31.66 ID:Ygv7vstz
>>253
色眼鏡で三成見てるなあ。
それでなくては小説家になれんのかな?

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:58:30.35 ID:AuvVqLon
>>255
色眼鏡って言うかどっちも資料に残ってる話をミックスさせただけじゃないの?

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:59:03.27 ID:YH16w5ma
ミックスさせればそうなるよな

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 18:15:28.36 ID:4KLIDOmA
>>233
立花家の道雪の甥の立花統春が、加藤家から逃げてきた罪人を匿ったことで
騒動になって切腹した話もあるね

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 18:38:04.13 ID:HkdSXETq
>>254
つ「やる夫が山形城に生まれたようです」

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 22:49:05.67 ID:w60+8gyk
>>245
水牛の角で黒田長政が単騎で突撃してきたかと思った

雑残・忍城攻めについて

2013年10月20日 19:14

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 22:24:04.84 ID:JTo68RAX
こうやって歴史は改竄される

【埼玉】三大水攻めの舞台、ポツンと水に浮かぶ難攻不落の「忍の浮き城」に、歴女もうっとり…「のぼうの城」で再び脚光、行田・忍城址
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1382186218/

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 22:45:01.61 ID:89+jMl0r
忍城って工事中に戦争終わっちゃったとこだっけ

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 22:50:49.63 ID:Be3/gGQ4
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7588.html
このコメントだと水攻め初出が17世紀末の軍記物だから
三成「あとちょっとで堤ができて秀吉様の言われたとおり水攻めができる」
成田「小田原自体が開城したんで、降伏します」
三成「なんだったんだろうな今までの努力は」
て話が有力みたいだ

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 10:53:36.96 ID:B1EW+Wv+
>>525
そら軍記に書かれてるような
「勝手に水攻め→味方に大被害」なんて失態をマジでやらかしてたら
あの場にいた誰かが何らかのお咎め受けないとおかしいしな。

石田三成、捕縛されて

2013年08月01日 19:53

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 00:59:56.75 ID:dTvFgpKp
関ヶ原の戦に敗れて、石田治部少輔三成は、家人をも召し連れず、落ちゆく勢びうちに紛れて歩いていたのを、
田中兵部少輔(吉政)の家人・田中傳左衛門がこれを発見し、

「治部殿でありますな!今はあなたの御運も尽きんとする時ですぞ、とどまり給え!」

そう叫んで走りかかり、押し留めた。これに三成は

「いやいや、名も無き下人である。治部ではない。人違いをされては困る。」

と言い逃れようとしたが

「見忘れられましたか?田中傳左衛門です。関白殿(秀次)の元で幾度か見参いたしました。」

そう言ってこれを押し捕えた。
その場所は近江の古橋というところで、先ずこの辺りの寺に伴い、そして陣所に連行して
兵部少輔(吉政)に注進した。

このとき三成は、1尺3寸の放し目貫の脇差を佩び、柿色の帷子ひとつを着て、米5合ほどを
袋に入れて腰につけていた。
その脇差の目貫は黄金の駒であったが、裏側には目貫はなかった。
これを見て田中傳左衛門が聞いた

「これはどうして、裏の目貫がないのでしょうか?」

「家人が一人つきまとったので、この目貫を抜いて与え、これを印として大阪城に赴くようにと
言って、落としてやったのだ。」

そして三成は傅左右衛門に向かい

「父である石田木工、その他の人々はどうなったのか?もし知っているのなら教えてほしい。」

と尋ねた。傅左右衛門は

「木工殿は妻子を刺し殺し、その身は潔く御自害をされました。その他の方々も同じ道を取られました。」

そう申し上げると、三成は心良さげに笑われ

「ざっとすんだ。」

と言った。
これを見て傅左右衛門は思わずこう尋ねた

「大事の合戦に敗れたというのに、どうして御自害されず、このように囚われの身となったのでしょうか?」

この言葉に、しかし三成は

「これはお前の解るような事ではない。こう言う時に潔く自害などするのは、お前たちのような者共が
することだ。私はそんな事は出来ないのだ。」

そう嘲笑ったという。
(話園)

石田三成が捕らえられた時の逸話である




114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 18:21:02.52 ID:tkS35PAS
>>112
木工は兄じゃないの?原文で父となってるのかな

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 21:29:45.60 ID:pQIUAOae
>>112
ふむ。

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 21:33:20.68 ID:lucOSRHD
>>114
木工は兄貴の方だね

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 06:16:03.75 ID:sQqwgHtB
>>114
投稿したものですが、これは原文から父になっていました

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 09:35:58.76 ID:V9sJiln7
てことは、原文の作者が勘違いしたんかね?

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 20:25:30.73 ID:Re+10w4C
それなら仕方ない

石田三成「奉公人は主君より受けた物を」

2013年02月12日 19:50

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 18:38:01.96 ID:yJpl3w0k
石田三成はいつも言っていた。
「奉公人は主君より受けた物を使い切って残してはならない。残すのは盗みだ。
使い過ぎて借銭するのは愚人だ」と。

――『老人雑話』




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 19:11:37.15 ID:clvCvojD
利家「しみったれだなw」

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 19:30:14.44 ID:1MKziXPE
予算はきちんと調整して過不足なく消化すべきだよな

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 20:10:42.54 ID:Hb/1GD5J
ホントみみっちい小物の発想だよな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 22:20:42.95 ID:Ir7CtSXw
>>371
予算をきっちり使い切るため無駄な道路工事する
馬鹿役人と同じ

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 22:45:34.96 ID:Hb/1GD5J
こんな調子じゃ飢饉とか不測の事態に絶対対応できないな。

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 23:05:38.42 ID:WeaS37Sw
まぁせっかく経費節減して予算残しても翌年その分減らして組まれるからな

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 23:13:38.95 ID:2AuNZxn8
>>377
×予算を使い切る為に工事をする
○予算を使い切らなければならないほど工事がたまっている 不測の事態のために年末まで残さざるを得ない

スレチなんでこれ以上は自重するけど

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 00:14:04.16 ID:7//QQLH9
てか大久保利通やサラディンにも似たような話があるのに
三成だからってひねくれた視線で見すぎだろお前ら。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 08:59:10.90 ID:PRh5nkEm
>>381
いつもの事じゃないか

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:09:02.62 ID:SLzEI9g/
公費のことなのか?
単純に下賜された私財の話かと思ったけど

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:13:57.63 ID:7rGOf7Yj
まあ予算の話じゃないわな。この時代の武士の場合、なにか命じられたらその執行は自弁が基本だから。
主君から資金を下賜された場合、それを私するのは罪だし、足りなくなるのはアホだ、って話だわな。

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:14:59.77 ID:Fhk0QbMO
>>383
貰った領地から上がる収入のことかと思った

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:23:22.59 ID:7rGOf7Yj
信長が佐久間信盛折檻状で、領地を持ってるのに家臣を抱えないって怒ってたのと同じで、
家臣に与えられた物は私財ではなく、主君のために働くための資本金なのだから、その資本はフルに有効に
使い切れってことやね。カネを眠らせるな。
だからといって首の回らなくなるような状況になったら身も蓋もないからそういうことにはするな。

「主君より受けた物」を予算だと考えると、根本的に解釈を間違う話だな。

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:34:52.39 ID:6EGghE3n
予算を「主君のために働くための資本金」のつもりで言ってるんじゃないのか
収入と支出の計画ではなく

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 21:19:46.11 ID:X0ymwCLR
島左近の逸話とかその辺の話だろうねえ


捕縛後の三成

2013年02月12日 19:50

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 20:13:26.65 ID:+YqTz4/J
このことについては日付は忘れたが、関ヶ原の決戦のあと、逃亡した石田治部少輔(三成)を捕縛するよう
田中兵部少輔(吉政)に仰せ付けられ、田中兵部は近江の国北の郡を草を分けるかのように細かく探索したが
それでも行方は知れなかった。

或夜、吉政の宿舎の前を、夜中だというのに一人通るものがあった。
番の者がこれに気が付き、お前は何者かと尋ねると、台所に水汲みに行くのです、と答える。

「水汲みであっても、何者も通すことは出来ない!」

怪しいと感じた番の者達はこの男を取り囲み捕らえた。
その夜は小雨が降り、暗い夜であった。火を燈してこの男の顔を照らしてみると、
なんと、この者は石田三成であった。
この時のいでたちは、綾の茶の小袖、裏は浅黄。笠をかぶり腰蓑をして端折れの脇差を差していた。
この脇差を取って見てみると、これは吉光作の名物であった。

三成は大津まで連行され、そこで本多上野(正純)に預けられた。
この時三成は下痢を患っており、食事も殆ど取れず昼夜寝ていたそうである。

本多中務(忠勝)が見回りに来た時、三成と対面した。
忠勝は三成の前で畏まり、両の手を前について申し上げた

「治部少輔殿、あなたは分別を間違えたために、そのような体に成られたのですぞ!」

しかし三成は何の返事もせず、ただ寝ていたと言う。
これは本多正純の家臣で、三成の番をしていたものが後に語ったことである。
(慶長年中卜斎記)

慶長年中卜斎記より、捕縛後の三成の様子についての非常に興味深い記録である。







三成の家康暗殺の刺客

2012年10月24日 20:02

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 20:01:50.82 ID:rtrEvqkq
美濃の国の住人に加々江彌八郎という者があり、大剛の早業の侍で、石田三成とは刎頚の友であった。

さて関ヶ原の役の勃発直前、三成は加々江彌八郎を招き寄せ、今回の挙兵の次第を説明した。
彌八郎はこれを聞いて

「私が以前、太閤のご命令を背いた時、あなたの取り扱いによってお許しを頂くことが出来た。
この厚恩は忘れられぬものである。であればこの一命をあなたに奉ることは、第一には秀頼公への忠節であり、
第二にはあなたへのご恩返しでもあるので、まったく簡単な事である。」

そう言い切った。これに三成は大いに喜び

「ならば秀頼公からの慰問のお使いとして江戸に赴き、家康に対面して、その時彼を刺し殺してほしい!」
家康の暗殺を依頼した。これに彌八郎は少し戸惑い

「仮に世情静謐の刻ならば、幼君のお使いとあれば内府が対面しないということはないだろう。
しかし今は会津征伐もあり世の中は立ち騒いでおる。この様な折に内府ほどの老巧の者が、そう簡単に
対面などするだろうか?」

しかし三成は諦めない
「家康が対面しなければ是非無いことである。しかし、もし近寄るべき機会があれば!
偏に頼み入る。これを果たした時、あなたの子息に、相違なく一国を与えるだろう!」
そう言って起請文を書き、彌八郎の目の前で血判をしてこれを渡した。
彌八郎もこれを見て決意し、起請文を懐中に仕舞い、莞爾と笑って退出し、早速江戸へと下った。



家康に秀頼公よりの御使者の故を申し上げても、案の定家康は対面しなかった。
それどころか奏者(取次)の者達すら彌八郎をまともに相手にせず追い返し、これにはさしもの大剛の
彌八郎も呆れ果て、頼る人もいないまま、力及ばぬ有様にてすごすごと帰っていったそうである。

三成の家康暗殺の刺客、誰からも相手にされず。というお話
(玉露叢)




980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 20:55:48.01 ID:ppGrbvHA
>>976
加賀井重望と微妙に名字とやったことがかぶっている気がする

石田三成 小名浜に来たりて言う

2012年10月20日 19:59

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 14:09:22.78 ID:Nh5KBDq5
石田三成 小名浜に来たりて言う 『この浜、末は大繁盛の地とならん』と

宝暦六年(1756)に、岡小名村の日蓮宗安立寺住職日忍が記した「�集咄」(れんしゅうばなし)と題する、
怪談や昔ばなしを集めた本があった。日忍の自筆本は伝わらず、写本によってその内容を知るだけである。
その別名を岩城名所談ともいう。その中に、小名浜について記した次のような一節がある。

(文中略)古老の言ひ伝えに、天正年中、石田治部少輔此処に来たり、屋の上に登り上下を見渡し、
此浜末は大繁盛の地にならんと言いしとかや、不審なれ。(文中略) 

秋田藩家蔵文書にある天正十八年(1590)十月九日付の白土右馬助書状に「石田殿今日平へお着き」文書を
見いだしたことから、なるほど、これなら小名浜に来たとしても無理はないと考えた。さらに、「屋の上に登り」とある箇所は、
屋根に登るいうのは不自然であり、屋は崩し字では臺と紛らわしくなるので、「臺の上」であろうと推定した。(文中略)

小名浜の某寺の寺伝より引用しました。個人サイトなので詳しくは『小名浜 石田三成』で検索すれば出てきます。
公共サイトにもこの出来事について詳しい投稿記事があったので、こちらはリンクしておきます。

いわき地域情報総合サイト『いわきアイアイ』 ttp://www.i-iwaki.jp/modules/myalbum0/photo.php?lid=949

豊臣秀吉の奥州検地での出来事のようです。某寺院の開基は嘉吉3年(1443)、岩城下総守・岩城親隆とあり、
当時、小名浜は佐竹義重の三男である岩城貞隆の所領。岩城氏所有の館があったらしいとの記述も見えます。

後年、江戸時代に東回り航路が河村瑞賢により開発され、近隣の『平潟』『中の作』などが発展したそうですが、
近代になってからの小名浜港の発展と重要性は言うまでもありません。石田三成の『慧眼』の程が窺い知れます。

皆さんの地域の歴史や社寺の故事来歴を調べると、有名武将の『ちょっといい話』が埋もれているかも知れませんよ





10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 16:57:10.55 ID:76qgw/5G
ほう
興味深いな
たしかに郷土の寺の書や伝説はいろいろ掘ったら面白そうだ
でも小名浜自体はそんなに有名ではないとは思うがw

いわきのサイトおもしろいなwフラ丼食いたい

石田三成の嫡孫と幕府のちょっとした関わり

2012年10月11日 20:22

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 14:57:16.93 ID:AdLUoIWj
石田三成の次男が関が原後に杉山源吾と名乗って弘前藩にいた、というのは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5858.htmlで挙げられたが、その杉山源吾の長男の杉山八兵衛吉成のお話

寛文9年(1669)のシャクシャインの乱で、松前藩は弘前藩に援軍を求めたが、その年は弘前藩主津軽信政が参勤交代により江戸にいた。
国元の重臣たちは集まり江戸藩邸に指示を求めた。
藩主からの指示は「松前への援軍は津軽喜左衛門、杉山八兵衛を当て、緊急の場合は杉山八兵衛を先発とすること」という内容であった。

やがて、老中稲葉美濃守正則からの書状により杉山八兵衛を総大将とする700人程の弘前藩の援軍が出発した。
松前に無事に着いたは良いが前線への出動はなく、特に何もないまま津軽に戻ってきた。

帰国した杉山八兵衛はすぐに藩主信政の書状を持ち、江戸城に向かった。
江戸城では藩主信政の姉婿土井利房以外の全ての幕閣が待っており、将軍家綱の口上書と土井利房の口上書が読み上げられ、その後祐筆の則田安信は「幕閣諸侯と杉山八兵衛との会話は之を略す」と記しており、酒肴を賜り、歓談が行われたようである。


逸話でもなんでもないけど、石田三成の嫡孫と幕府のちょっとした関わり。既出だったらごめんなさい。




885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 16:27:12.70 ID:7y7v6tMy
この時代でもまだ蝦夷やアイヌと戦うことあったんだな

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 17:02:37.66 ID:Z/ryKddj
顔が石田に似てたりはせんのかのう

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 23:54:46.28 ID:RTURwGJQ
>>884

三成の孫だったかひ孫が家光の側室になったとかいう説もあったな
その娘が尾張家に入ってるんだっけか

退魔寺由来

2012年09月18日 20:26

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 03:53:01.83 ID:rLDRY1Tr
群馬の伊勢崎に退魔寺という寺がある。元々は1371年に香華院という名で建立された。
寺の伝承によると、ある時この寺付近で夜な夜な妖怪が現れ
付近住民達が難儀していたところ、偶然現地に立ち寄った石田三成によって妖怪は退治された。
以来、この寺は寺紋に石田氏と同じものを使うようになり退魔寺と呼ばれるようになったという。

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 03:56:46.02 ID:rLDRY1Tr
どういう妖怪でどうやって解決したのかという詳細は残念ながらよくわからず
異説もありますが、三成が妖怪退治というかなり意外でユニークなエピソードなので紹介します。
因みにこの寺はその名の通り、魔除けや開運に御利益があるそうです。




516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 09:00:47.26 ID:SxCuHzyl
三成が頑張ったよい話なのに、だれにも触れてもらえない憐れさ

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 09:04:38.59 ID:/kFK5gl6
>>516
三成「破ーっ!!」

した話だけどもうちぃっと中身が欲しいッスね


518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 09:20:57.87 ID:TaHAp6Fu
SF作家、豊田有恒「退魔戦記」でたしか退魔、という言葉は不自然な言葉だから
本来はない言葉のはずだ、という場面があったが
そんな名前の寺が

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 10:04:46.71 ID:ELXhib7U
よし、その寺で相撲大会だ

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 10:48:35.41 ID:fVvg/iSg
>517
寺生まれのIさんだ!

522 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/18(火) 11:37:34.06 ID:/ArkAxyN
www

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 13:25:49.79 ID:Um4w4ZLW
>>519
それは野見宿禰と大麻蹴速の故事にかかってるのか?

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 14:08:10.99 ID:JnSHtoIl
>>517
水で攻めたのか、茶で攻めたのか…

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 16:27:10.66 ID:cfjdAnJP
>>510
ネットで検索した限りでは、
・三成自ら一刀のもとに叩っ斬った
・兵を遣わして退治した
という二説があるようですな。

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:05:29.37 ID:dppfpZmO
大麻ではなく当麻のような

527 名前:523[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:17:16.63 ID:Um4w4ZLW
ごめん
読みばかり頭にあってそのまま変換したw
そりゃ大麻になるよなw

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:24:06.40 ID:7lyVOqbv
じょうじょうたいま
いや、なんでもない

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:26:42.07 ID:CwYnrZCa
>>517
酒持った爺さんとすれ違った瞬間
「あの爺、妖怪に違いない!」とたたっ斬るくらいの描写は欲しいよな

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:33:03.79 ID:RSgyjJ8e
その人を知るには、友人を見れば分かるっていうけど、
閻魔直江が親友な時点でかなり嫌な奴だったのは間違いないな。

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:39:21.02 ID:4hdCfDY/
信之も親友という感じだが
大谷は実はそうでもないという話だけど

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:55:33.11 ID:LRZJi5c4
>>530>>531
三成の話?
なぜ直江が閻魔なのかわからんが直江も信之も外交相手というだけで
別に親友じゃないよ

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 18:22:25.04 ID:SxCuHzyl
>>532
処刑された罪人の親族が還してくれと泣きついたので、自分で閻魔に掛け合って来いとぶっ殺した

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 19:11:55.55 ID:u4pHuFrF
>>533
それは慰謝料もらってもごねた
モンスタークレーマー相手だったから

大谷吉継・石田三成恋人説:原文

2012年09月07日 20:38

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 18:51:28.13 ID:LYC4+IFH
近デジの武功雑記読んでたら

大谷吉継石田三成恋人説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5215.html

これのおそらく原文見つけたので、短いので書いてみる

・石田治部少輔を度々大谷刑部少輔しかり、又は頭をはり候。
 石田大谷に恋慕して、知音になり候。
 それより頭をはらるるも、忝と云うやうにもてなし候。
(武功雑記 巻十二)

なんだかホントに異様な関係性だなw



関連
大谷吉継石田三成恋人説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5215.html


357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 18:56:10.05 ID:qAOThYD4
頭をはる、て
漫画の風雲児たちの大谷吉継がハリセンで三成どついているのって、
元ネタあったのか

359 名前:357[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 20:33:53.85 ID:g4K+jpQy
てリンクのまとめサイトのこの話のコメントみたら
風雲児たちネタがいくつかあった

石田三成と佐和山城のお話

2012年06月13日 21:01

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 20:56:28.51 ID:WQppCoo7
石田三成と佐和山城のお話

豊臣秀吉のもとで五奉行のひとりとして活躍した石田三成は、
1590年の10月に佐和山19万石を与えられ若くして名実ともに豊臣政権の実力者になった。

当時はちょうど奥州仕置が終わり、天下が豊臣家の手のうちに治まった頃。
実力ある大名に成長した三成もその身分に応じた城に住まわねばならない。
そこで彼は当時荒廃していたといわれている佐和山城に大きく手を入れ、山頂に五層(三層とする説もある)の立派な天守を構えた要害堅固な近世城郭を築いた。
その姿は滋賀県多賀町に伝わる「かんこ踊り」の歌に遺されているとおり、大変壮大なものだったそうだ。

※以下はその歌。

おれは都の者なれど 近江佐和山見物しよしよ 大手のかかりを眺むれば 金の御門に 八重の堀
先ずは見事なかかりかよかよ 御門をはいりてこの又かかりを眺むれば 八ツ棟造りに七見角
先ずは見事なかかりかよかよ うらの御門先出て 北を眺むれば すそは湖や見事見事 
よい城よ 見事な城よ 堀ほり上げて せきしょをうえて
せきしょに花が咲きしならば この堀ほりは花ざかり 花ざかり

それから10年後、石田三成は天下分け目の関ヶ原の合戦で大敗を喫した。
そして彼のいない佐和山城に小早川秀秋の軍をはじめとした東軍の軍勢が押し寄せてきた。
三成は豊臣政権の中枢に長くありながら、普段から質素倹約に努めていたことで有名だったので、
寄せ手の兵は「佐和山城の内部はきっと華やかで、金品も蓄えられているだろう」と思っていたそうだ。

しかし城に入ってみればそこは華やかな外観とはうって変わり、質素な風情だった。
住居の壁には上塗りが施されておらず、荒壁がむき出し、室内の多くは板張りのまま。
庭も地味なもので四季を彩るような樹木が植えられておらず、手水鉢も石そのもののような粗末さだった。

また、東軍に仕えた医師・板坂卜斎の手記には「佐和山には落城以後金銀は少しもなし、治部(三成)貯え申さず候由」と記録されている。
つまり三成は関ヶ原の戦いに挑む直前に、ほぼ全ての金品を西軍に投資していたのだ。

三成は生前、こう周囲に話していたそうだ。
「奉公人は主君より取る物を遣い合わせて残すべからず。残すは盗なり。遣い過して借銭するは愚人なり」
彼はこの言葉どおり最後まで奉公人として、主家豊臣家のために全てを尽くそうとしていたのだろうか。





796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:00:00.45 ID:/CrEUxH9
市民の僕たる現代の公務員が予算をきちんと過不足なく消化するのと同じ精神ですね

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:05:58.15 ID:auTsToZb
それとはぜんぜん違うw

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:06:49.75 ID:lbAoxrH/
>>796
違うだろ。私財を蓄えて、使うのは市民の金ってのが公務員じゃないのか

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:16:56.78 ID:fs09v/N+
負けてしまえば質素倹約も水の泡だな
慢らぬ者も久しからず

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:23:26.59 ID:Tyt8pXd2
????????

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:33:47.80 ID:qCLfYI9h
へいくわいものって、傲慢って意味じゃなかったか

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:35:24.63 ID:Mn9zff8b
驕ってもダメ、驕らなくてもダメ、なら驕ったほうがよくね?

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:41:51.03 ID:fs09v/N+
>>802
身の程を知った上でなら、奢るのも奢らぬのも










自由だぁ~
武士の道は奥が深く候

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:47:23.49 ID:YHyx6QR/
驕る平家はなんちゃらかんちゃらって結果論だよな。

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:50:50.25 ID:8TaqR9OO
>>804
ありゃ「栄者必衰」にかかってるから、「驕り高ぶるほど繁栄した平氏も、その繁栄は長くなかったよ」って事だよ。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:55:01.20 ID:YHyx6QR/
>>805
えー、因果関係は無いって事か。

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 22:04:18.53 ID:fs09v/N+
平家の驕りという因に、源氏という縁がより、滅亡の果が出た

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 22:19:02.29 ID:xBcrWkZA
三成は豊臣政権内であれだけの地位にいた人物で有名な武将でありながら
その割に現存する肖像画などかなり少ないよな負け組はやはり扱いがひどいんだな

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 22:33:46.91 ID:B/VYMa5e
肖像画なんかは子孫が絵師に依頼する場合が多いから…
家が途絶えるとね。

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/13(水) 19:21:05.50 ID:f5zdBKFe
>>798
立花さんとこの小野さんみたいに溜め込んだ私財を震災復興に投じてくれるような公僕がいたらなあ

833 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/13(水) 19:54:34.80 ID:ipu/9BSw
>>831
岡左内も

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/13(水) 20:43:37.41 ID:osSbxBvC
「御安心召されよ、斯様な大事あらば我が内ヶ島家がいち早く馳せ参じお助け致しましょうぞ!」

835 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/13(水) 20:47:42.46 ID:bJZSvTNS
>>823 824
タイミングがむずかしい

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 14:54:32.46 ID:Rt9IXDL3
>>831
さすが顕如はんや!!
見事なまでの絶対他力やで

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 15:04:09.86 ID:brE2UoFG
>>796
予算の半分は借銭じゃ…
やっぱ二公一民くらい税金取らなきゃやっていけないな

”秀家”騒動

2012年05月22日 21:00

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 06:29:21.94 ID:btwXSsLi
1590年徳川家康の後継者に最も近いとされる三男竹千代が元服することになった
この時元服にあたり諱を兄秀康に習い秀吉と家康の字をもらう事で秀家としてはどうかという案が出た
しかしすでに秀家を名乗る者はいる宇喜多秀家である
このためは銀子三百枚で秀家の名を譲ってもらってはどうかと言う案も出され
石田三成宇喜多秀家に交渉を試みた

しかし秀家は憤慨し交渉は失敗
しかも三成と秀家の仲も一時悪くなり三成は以後大谷吉継に秀家に対しての諸事を相談してから応るようになったという

そして徳川秀家は実現せず家康三男竹千代は元服後父祖伝来の忠の字を継ぎ徳川秀忠となったとさ




348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 06:37:47.02 ID:uia1kN9G
三成は本当にダメな子だなあ

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 06:56:05.40 ID:8qQBZDnf
ここに銀子三百枚ござる、これで貴殿の名前を徳川様に渡されよ
新しい名前は好きに決められるが良い

こんな感じで交渉してそうだ
しかし上手く交渉したところで秀吉の秀と宇喜多伝来の家なんだから譲るわけないとも思える

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 07:08:07.12 ID:nuw9LNVV
まあ宇喜多の場合は、秀家から父親の一字をとって秀直、という手もあるにはあるからな。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 07:30:58.69 ID:yQyCkQot
別に秀家ふたり居たっていいじゃん。
えっ?だめなの?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 07:44:20.03 ID:FBudDokO
「んじゃ、また秀勝いっとくか…」

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 07:45:18.07 ID:7kiFbm6R
もうめんどくさいから秀秀にしちゃえよ

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 07:57:44.13 ID:XgVRoYzR
>>350
家は宇喜多家の通字だから無理だろ。
徳川の家は家康以来のにわかだからな。


355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 07:58:24.05 ID:gggpkjLb
>>350
宇喜多の通字が「家」だから駄目だろw

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 08:10:22.53 ID:DB9NcRrJ
信康
秀康

う~ん、本当は「○康」で統一したかったんだろうな…

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 08:58:18.42 ID:GbQ3Luqj
銀300枚っていくらなんでも安すぎだろw
名物茶器の1つも買えやしない

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 09:00:45.28 ID:LmniDXIS
>>351
姓も官位も被りそうだしなかなか厳しいんじゃないかなあ…

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 09:02:56.02 ID:gNi0KE9K
国家
安康
君臣
豊楽

好きな名前をえらんでね!

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 09:10:50.97 ID:eTWDdC0F
バラなら問題ないだろw

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 09:46:22.81 ID:Sso/Rx7Y
お金で名前譲れとかもうねアホかと

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 10:04:52.42 ID:NiEjEz6K
宇喜多"Yahoo!BB"秀家とかどうよ

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 10:15:31.45 ID:xLdTtJs1
この初花肩衝と引き換えではいかがかな?とかだと人によっては・・・かも

364 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/05/22(火) 10:43:52.59 ID:Nt0Z+AfQ
>>363
それ、ほとんどの大名が即OKするとおもう。

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 11:26:03.14 ID:wOVGIGjX
大友義統→吉統の例もあるし、吉康でいい気もするが
それだと三河者たちが納得しないのかな

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 12:51:37.40 ID:zc0fRLlu
>>365
徳川家の惣領息子にそれは無いだろ
[ 続きを読む ]

慶長五年七月三〇日付真田昌幸宛石田三成文書の一節

2012年05月03日 21:03

8 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/05/03(木) 16:23:21.03 ID:Hte26Ogr
慶長五年七月三〇日付真田昌幸石田三成文書の一節

「会津征伐に向かった大名達は自分たちが挙兵したと聞いて、家康のもとを離れて帰国しているようですが、美濃・尾張で
秀頼様にしっかり忠誠を誓っているか一人一人、調べる予定です」
「今年の暮から、来年の春に関東の家康を討伐するために畿内から西の大名に動員をかけています。八月中には近江に
集結させて、兵糧米を与えた上で各方面に派遣する予定です」

取らぬ狸の皮算用がもの凄いことになっている




13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 17:37:48.52 ID:FjlMaFMg

>>8
田丸さんぐらいしか戻って来てない(それも本当か怪しい)w

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 17:41:09.34 ID:GaGL5wUB
関ヶ原の時の島津義弘の書状で、関東から誰も帰ってこないことに慌てて西軍首脳部が大阪城で
緊急会議開いた、というのがあったな。
どうも三成始め西軍は、大阪城を抑えたら家康の会津攻めの軍勢はすぐに崩壊すると考えていたっぽい。

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 17:45:26.02 ID:+HAa1Kgd
秀吉の晩年の乱行のせいか、建前以上に豊臣家万歳している大名なんて少数派だったしね。
さすが三成、計算はできても心情には疎かった……。

三成の書状、家康の書状

2012年05月02日 21:01

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/02(水) 20:05:34.25 ID:oRFT7Qpx
関ヶ原合戦を調べる際に書状を見るが、とっても役に立つのは三成の書状
現状の説明から作戦計画、各方面に配置する大名とその兵数と致せり尽くせり

逆に一番曖昧模糊なのが家康の書状、数は多いが断片的な説明に留まり、
あくまで褒賞や概略の説明しかしない

後世の研究家にとっては三成の書状が役立が、逆に当時では奪われた場合の
リスクは三成の方が遥かに上であった(実際に二回ほど奪われているようである)




992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/02(水) 20:18:34.07 ID:7r4En9Ft
>>990
バカ正直に書き過ぎてて流出した時のあまりのやばさに真田のお兄ちゃんもそりゃ封印するわ?

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/02(水) 20:33:23.46 ID:pN6547Qk
三成の書状は補任の性格まで丸わかりなもんも多いからな
几帳面で胃が弱そうな文書も多いよな

石田三成、万代屋宗安に

2011年12月15日 22:00

5 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/14(水) 01:08:31.15 ID:raBVvVqP
「名将言行録」には、あくまでも徳川家康の打倒を目指していた石田三成は茶人の万代屋宗安
を使者として友好関係にあった大名達に挙兵計画を伝えたとある。その際、計画の露見を防ぐ為に
宗安を追放したと見せかけて会津の上杉景勝のもとに派遣し、次に景勝にも追放された事にして常陸の佐竹義宣の
もとに送り込んだという。そして、佐和山に戻ってきた宗安に、かつて宗安から購入した茶器の唐来肩衝を渡し、

「これを持ち帰って、私が討ち死にしたら朝夕茶を点てて追悼して欲しい。もし私が志を遂げる事が出来た時は
 また買い戻そう。」

と語ったという。 実は敗北を覚悟してたかもしれない、三成の逸話である。
どっちに書くか迷いましたがこっちに。




石田三成「…つーか、ぶっちゃけ」

2011年11月29日 22:05

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/28(月) 21:00:28.24 ID:zw/Oc4Cl
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5999.html
↑まあ実際、親しかったようなのですが内容はどうかと言うと

『さいつさまへ  石治部より

貴殿からの礼状と中書殿(本多忠勝)からの返書、拝見しました。中書殿へは私から直接お返事しますが、
もし返事について聞かれたら、「承りました。何かと大変ですね。」と言っていたと伝えて下さい。』


『真豆州へ  三成より

最近、忙しくて報告が遅れたんですが、岐阜中納言(織田秀信)が体調不良で、オタクの近所の草津温泉へ
湯治に行きたいとの事です。

ところが『関東は不案内だから、信之さんに留守居衆へ(秀信を)接待するように、一筆書いてもらって』
とか、私に言って来やがりました。上記の通り家臣の方に言ってもらえれば、私も本望です。

こんな事ばっか頼んで迷惑だと思いますが(度々如此之儀申入、御心中迷惑に候)、曲げてこちらの使者に
良い返事を預けていただければ、幸いです。』


『「その内会おう」と言いつつお会いできず、ゆかしく思っています。この間の手紙も早々に返事すべき所、
ようやく先日そちらの使者に会えました。それもご存じの通り、路地の真ん中で、です。

これからも私はしばらく城詰めが続き、お話する事も出来ないでしょう。
…つーか、ぶっちゃけ城詰め飽きた。(もはや御番もあき申候)面会して、色々話がしたいです。

いつ(伊豆)様  石治』


…治部少ガンガレ超ガンガレ………





208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/28(月) 21:15:48.93 ID:VnzvfWOM
三成頑張れもだけど、色々頼まれる信之兄さんも頑張れ

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/28(月) 22:53:41.81 ID:atGJQ3Ct
>>208
お兄ちゃんはタカられてるだけだろ、ニートに。

石田三成の墓

2011年10月11日 22:06

43 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/10(月) 21:00:01.97 ID:k77TARoR
 石田三成の墓は彼が浅野幸長、森忠政とともに建てた(お互いに居心地が
悪そうな面子だ)京都大徳寺の三玄院にある※まとめブログの森忠政に関連
エピあり。だが明治になるまで墓所は分からなかったという。

 三井財閥の大番頭だった朝吹英二は、徳川幕府が倒れても奸臣との評価が
根強かった三成の顕彰を志し、関ヶ原の戦いから300年目の明治33年、まず
墓所の発見に乗り出した。三成と親しく、三玄院開祖でもある大宝円鑑国師
(春屋宗園)が遺骸を引き取ったであろうと推測した。
 住職に尋ねると、三成の墓と伝えられるものはないが「触ると祟られると
言われて人が近づかず、文字が一切ない墓がある」と教えられた。朝吹は、
それこそ徳川の目を憚った三成の墓と当たりを付け、人を雇って掘り始めた。
それらしきものは出ず、住職に見込み違いを詫びて、寺を後にした。

 ところが、使いの者が当時まだ珍しかった自転車で朝吹を追いかけてきて
「もう一度お越し願いたい」と言う。
 引き返してみると、人足の親方が仕事での経験から「墓地の通路を変える
ために石塔を動かすこともある」と語り、周囲を掘り進めることを提案した。

47 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/10(月) 21:47:23.51 ID:k77TARoR
>>43続き。しばらく待つと、直径60cmほどの茶褐色の大瓶が出土した。親方が
蓋を開けて溜まっていた黒い水を汲み出すと、何かが現れた。親方は小瓶だと
思って持ち上げようとして驚いた。頭蓋骨だったのである・・・・。

 こうして三成の遺骨は見つかり、円鑑国師の傍らに改葬された。

 前スレで紹介した青森県弘前市「陸奥新報」が三成の娘・辰姫と津軽信枚の
婚姻について連載している「津軽の江」冒頭に出てきた話。弘前市立図書館に
ある「石田三成の墳墓、朝吹英二談」が元になっているそうです。
 発掘に立ち会った「墳墓調査の専門家・渡辺某」は、恐らく渡辺世祐博士。
『稿本石田三成』を著し、三成の再評価や頭蓋骨からの肖像復顔につながる。

 朝吹はこの件を知人に話し、その一人である金子堅太郎は「旧弘前藩の家老
筋である杉山家が三成子孫と言われる」と教えてくれた。杉山家には大一大万
大吉紋がついた三成肖像、甲冑が残り、先代に焼失したが『開けると目がつぶ
れると言い伝えられてきた奇妙な箱』があること、さらに弘前城に秘蔵されて
いた豊太閤坐像の存在も調べてくれた。
 この話をさらに床次竹二郎にすると「徳島知事時代に職権で公開無用といわ
れていた秘物を見せてもらったが、その像に似ているようだ」と告げられた。
この豊太閤坐像は名護屋で3体作られ、蜂須賀家と前田家に各1体授けられ、
大阪城に残されて夏の陣で焼けたと思われた残り1体が石田重成の津軽亡命で
弘前に伝わったという。

 いずれ誰かが三玄院の徹底した発掘をやったかも知れないが、朝吹の執念と
親方の職業的勘がなければ三成は多くの歴史上の人物のように空っぽの墓だけ
だったかも知れないという話。

 ほとんどの大名家は西軍や豊家とのつながりを示すものは初期に抹殺したん
だろうが、やばいものを密かに残していたのは真田家だけでもなかったようで。





53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/11(火) 00:25:36.73 ID:HX+vtWHN
>>43
結局、三成祟ってたん?

「徳川家の大功労者」

2011年09月22日 22:04

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/21(水) 21:00:55.23 ID:cO/iIDeX
「徳川家の大功労者」

関ヶ原の合戦後、天下が治まってから徳川家康本多正信を呼び出して
石田三成の子が妙心寺で寺童をしているようだがどのように処置したのか」
と正信に問うと正信は
「はい、特別に許すべきだと考えて処置しました
何故なら三成が理由もなく戦いを起こし、西国の大名を誘って打ち負けたからこそ日本全てが徳川家に帰服しました
そう考えれば、三成こそ徳川家にとって一番の功労者と言えるからです」
家康もその理屈を一理あるとし三成の遺児を許す事にしたそうな


三成への皮肉にしか聞こえないのでこっちへ


類似
石田が子の僧助命の事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5567.html


41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/21(水) 21:08:32.03 ID:XYztUoVD
皮肉っちゅーか 皮肉そのものだ

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 18:08:43.65 ID:/BvP5s1Y
>>40
普通なら20万人規模の戦を起こして負ければ、一族皆殺しなんだけどね。


66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 18:24:48.87 ID:+rym/qHz
>>65
三成が豊臣の人間であれば当然そうなるけれど、三成は所詮家来筋だからな。
神輿にはなりえないので脅威にはならないので、
殺すかどうかは勝利者次第。

太閤検地の悪い話

2011年07月25日 23:00

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/25(月) 17:34:32.79 ID:ucWVWMfB
太閤検地の悪い話

小田原北条氏が秀吉によって滅ぼされると、奥羽の地にも中央から役人は来て測量検地を始めた。
最上義光の所領の出羽山形の測量の割り当てになったのは忍城攻めでは良いところのなかった石田佐吉三成。
部下を叱りつけながらあれもこれもと細かく注文をつけつつ、測量の指示をしていった・・・ハズであった。

三成「これでおおよそこの辺の計測も終了か。
上山、蔵王、山形、天童、余目、こっちの完了分は小国と大石田か・・・」
部下「こちらの報告書はどこに置いておきます?」
三成「村山か・・・。表紙を付け、そっちに纏めておいてくれ」
部下「は、わかりました。・・・ん?今測ってきたのって最上だけど、殿は
村山って言ってたよな。こっちの気のせいか・・・」

部下は最上地域の測量表に「村山」の表紙を付けた

従来、上山・山形・天童は「最上」地域
その北の新庄・村山方面は「村山」地域とされていた

現在、上山・山形・天童は「村山」地区
その北の新庄・村山方面は「最上」地区とされている

誰が悪いかはっきりはしないが、太閤検地で地名が入れ替えられたまま、誰も修正できなかったバツの悪い話。




160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/25(月) 17:38:05.22 ID:Pn7FhItc
ケンミンショーで北のほうが最上地方と紹介されて、何でだろ?と思ってたらそんな事が

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/25(月) 17:47:59.54 ID:ucWVWMfB
>>159
>>160
「最上郡」「村山郡」の逆転と太閤検地関連
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%A4%AA%E9%96%A4%E6%A4%9C%E5%9C%B0%E3%80%80%E6%9C%80%E4%B8%8A%E3%80%80%E6%9D%91%E5%B1%B1&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/25(月) 18:00:40.27 ID:ucWVWMfB
平安時代に最上郡の北半分を割いて村山郡が作られたハズだったが・・・

(´・ω・`)「キツネにつままれた気分だ・・・」

石田三成、無礼を働いた下僕に

2011年05月09日 00:05

478 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/08(日) 02:59:31.41 ID:cWgzOmZO
石田三成が馬の乗り初め式を行った際、帯の結びに羽織の裾が引っ掛かり、それを見た下僕が直そうとして
思わず結び目をはたいてしまった。しかし、三成はその場では何事もなかったかの様に振る舞い、翌日に
下僕を呼び出すと、無礼を働いた自覚があったため処刑も覚悟して参上していた相手に対して15両もの大金を与え、
情けを含んだ調子で解雇する旨を伝えた。
これを知った秀吉は、三成の分別ある態度にますます重用するようになったという。




481 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/08(日) 14:39:54.60 ID:Jrb29DDz

>>478
主人が無様を晒さない様に直しただけじゃないの?