潔く自殺などするはおと等の事よ

2017年05月04日 18:08

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/03(水) 23:16:46.81 ID:lqY/8zPQ
関が原の合戦で敗れた石田治部少輔三成が、家人をも召し釣れず、落ち行く勢の内に紛れていたのを、
田中兵部(吉政)の家人、田中伝左衛門が発見した

「治部殿こそおはしけれ!今は御運の尽きんとする時と覚えて候、留まり給え!」
そう言って走りかかり押しとどめた。しかし三成は否定した

「いやいや、名もなき下人なり、治部にはあらず。人違いし給うな。」

「見忘れさせ給うにや、田中伝左衛門にて候。関白殿(秀次)の所で、幾度か見参らせて候ものを!」
そういって押し捕えた。

その場所は近江の古橋という所で、先ずはその身柄を近くの寺に伴い、やがて陣所に引いて行、田中吉政
注進した。三成はその時一尺二、三寸の、放し目貫の脇差しを佩き、柿色の帷子一つを着て、袋に入れた
米五合ほどを腰に付けていた。

この脇差しの目貫は黄金の駒であったが、その裏には目貫が無く、伝左衛門が
「これはいかにさせたまいしか」
そう尋ねると、
「家臣が一人、付きまとっていたためこれを抜いて取らせ、これを印としてはや大阪城へ赴くようにと言って
落としたのだ。」
と答えた。そして三成は伝左衛門の方に向かい尋ねた

「父である石田木工、その他の人々はいかになりしや、知っているのなら知らせ給え。」

「木工殿は、妻子を刺殺し、その身は潔く御自害遊ばして候へ。その他の御方々も同じ道にこそ。」

これを聞くと三成は、快くうち笑って「ざっと済んだ」と言ったという。

まや伝左衛門が問うた
「大事の合戦に敗れし上は、何とて御自害候はで、かく捕われとなり給えるぞ」

すると
「潔く自殺などするはおと等の事よ。我等は左様なことはすまじきぞ。」
そうあざ笑っていたという。

(話園)



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/04(木) 14:57:43.86 ID:4lFFQZWH
>>760
>柿色の帷子一つを着て
柿でも食べて汁がかかったのかな?

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/04(木) 16:32:09.19 ID:KY2NjA1G
>>761
柿は痰の毒だから

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/08(月) 09:36:42.93 ID:x+e6fndU
>>761
柿渋で染めた地味な色のことだゾ
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三成は亭主として

2017年01月24日 08:37

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 20:39:35.21 ID:92lx1g3g
石田治部少輔が七将襲撃事件の結果、佐和山に引退した後、徳川家康
伏見城より柴田左近を三成への使いとして出した。

柴田左近が佐和山に到着すると、三成は柴田と格の合う家臣の屋敷に彼を
案内させた。柴田が休息を取り行水も済ませた頃、三成が自身でこの屋敷に参り
「大儀であった。」
と、持参した弁当で彼をもてなした。これは佐和山城より持ってきたものだという。

後刻、城に上がり家康よりの遣いの内容を伝えた。その後
「風呂を焚かせたので入浴するように」との使いが来た。三成は客人を迎える
亭主として、欠けるところ無い振る舞いであった。

翌日、柴田左近は日の出の頃、佐和山を出立しようとしたが、そこに何と、三成自身が
見送りに来た。居室でしばらく雑談をし、出立するときは表に出て、門まで彼を見送った。
この別れのとき、三成は「これは葛籠ですが、馬に付けてお帰りなされ」と、
渋紙で包細引きで念入りに結ばれた物を柴田に渡した。
宿に着いた後それを開けてみると、そこには念の入った造りの小袖が5つ、良き拵えの
脇差しが一腰あり、それには『百貫』との折紙が付いていた。

この頃、百貫の脇差しなどというものは希少で、また小袖5つの土産なども聞いたこともない
時代であった。
この時代の百貫というのは、現代の千貫よりも価値が高かった。
また本阿弥の折紙が添えられているのも、殊の外稀なことだったのである。

現代のように上使というような事も、奉書などというものも無かった。
慶長4,5年の頃を覚えている者は、『ここに言われている通りだ』と答えるだろう。
現代ではこういった重々しいもてなしは多く有るだろうが、当時は沙汰もなかったのである。

(慶長年中卜斎記)

石田三成が家康からの使者を心を尽くしてもてなしたお話。
一般的な三成のイメージとはだいぶ違いますね。



533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 21:17:07.44 ID:GCNAERFQ
細かいくらいに気を利かせるけど、それがうまく嵌まることが極々稀な印象がある

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 22:57:20.58 ID:znPyROKP
>>532
>「風呂を焚かせたので入浴するように」
慶次「三成は気が利くな~」
義朝「…」

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 00:54:45.81 ID:kFsSwOgq
義朝さん、お土産には木刀入れときますね

石田三成、長曽我部

2016年08月10日 07:59

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 06:30:29.84 ID:KNtupSJv
石田三成、長曽我部

石田治部少輔三成は世では"みつなり"と唱えている。
しかしかつて三成に懇ろにしていた伊勢の一身田高田派の一向宗の寺
[この寺の名は忘れた。大寺である。今の上人は先帝の御弟で、奥方は津候の伯母である]
(※専修寺だそうです)
には、三成自筆の仮名文数通あり、皆"かずしげ"と書いてあった。
三を"かず"と訓じ、成を"しげ"と訓じていたのを、今は知る人もいない。
以上は津候の臣、藤堂主計、及び儒臣石川貞一郎の話である。

また津候の家に伝わる石田の仮名文一通にも、"かずしげ"と書いてあるという
津候の祖は三成と同時期の人であり、文通があってもおかしくないので、いよいよ世の誤りを知ることができる。

また長曽我部元親も、その時は"長曽かめ"と唱えていたと聞く。
長曽我部を仮名で"かめ"と書き、またはその四字に仮名をつけた書に、我部に"かめ"の傍書がある。
また拠るところでは、我部をそのころの書に亀と書いた物もあるという。
以上を朝川鼎が語った。

林述斎はこれに関して、以下の話をした。

今人の苗字も近頃唱え違いが多い。
増山は"ましやま"である。建部は"たけべ"である。
なのに人々は、"ますやま"、"たてべ"という。
この類はいかほども有る。松浦は"まつら"であるのに、世では"まつうら"という。

(甲子夜話)



968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 07:10:30.76 ID:1kSLhF/I
ワタベとワタナベ
ソガワとソゴウ

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 07:25:31.19 ID:GVKjmEBJ
>>967 三成が「かずしげ」?。うーん本当かな。

囲碁マンガで「ヒカルの碁」の中で、藤原佐為というのがいるが佐為=さい ではなく、
当時の読み方からいえば、「すけため」である、という説があった。音読みと訓読みと
当時の慣例により。

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 07:29:35.77 ID:jh0yf/bh
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5177.html
これにも、「かつしげ」と読むとあるな

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 14:29:14.11 ID:BlSChZfX
>>967
この時代でさえわからなくなるんだから、まして現代ではなぁ。

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 16:23:02.25 ID:bEkGN4Oq
にしこりとにしきおり

豊太閤の御木像

2016年05月14日 08:29

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 02:09:50.26 ID:WXNRv0gj
この年(慶長16年)、御城中(弘前城)北の郭に御建神を御勧請遊ばされた。御建神の
御神体は豊太閤の御木像である。はじめ為信公が御殿中で御祭り遊ばされたのであるが、
このたび、(津軽信枚が)一社御建立遊ばされた。

――『小山内氏古文書』

慶長十六辛亥年御城内ニ御館神堂社御勧請豊太閤ノ木像

去る28日、黒田豊国会長(長成)は金子・金山両氏を従えて、本所大手町にある津軽邸
に至り、金子氏が先般、東北地方巡回中に取り調べられた結果、豊太閤の木像が古来
津軽家に御建神と称して祭祀され、今日現に本所の邸内に稲荷として安置してある事実を
発見したのをもって、同家の許諾を得てこれを参観せられた。

この木像は太閤の存生中に刻まれた3体のうちの1つで、1つは大坂城に安置してあり、
同城とともに焼失し、1つは阿弥陀ヶ峰に安置し、のち日光に合祀となる。

今津軽家にあるものはすなわち石田三成に賜ったもので、その形は極めて小さいけれども、
一見あたかも生きているかのように自ら威望を備え、千古の大豪傑たる風采を観るに足る
名作であるという。

その由緒など大いに歴史家の参考に資すべきもの少なからざれば、近日詳細の取り調べを
世に公になされるとのことである。

――『青森県史(明治三十年十月三十日 日本新聞)』



720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:47:24.25 ID:xQ4W6Xyn
これの事だな

http://news.infoseek.co.jp/article/serai_47201/


721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:49:26.32 ID:sTcOIiXM
秀吉、なのか

722 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/05/14(土) 13:38:19.69 ID:SdKSqZae
下がり藤の家紋に加えて、冠が唐冠なのが決め手。
秀吉は唐冠を好んだ。
他の武将の肖像画と比較すると分かりやすい。


石田三成について伝わる話によると

2016年03月24日 17:09

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 00:20:02.39 ID:qtiUgdxf
石田三成について伝わる話によると、太閤秀吉の寵臣である石田治部少輔三成は近江国石田村の地士、
佐五右衛門という者の子であったという。この佐五右衛門は久しくこの土地に住んでおり、村邑の長と
称していた。


この妻が解任し一子を儲けた。佐吉と名付けられ、両親から限りなく寵愛された。
弱冠に及んで智計群を越え、器量もまた類いなかった。父母の喜びはさらに増したが、その家貧しく、
育て難かったため近隣の真言宗の寺に扈従として預けた。

ある時、羽柴秀吉がこの寺に参詣した折、佐吉が容貌艶やかで、立ち振舞も勝れていたのを見ると、
秀吉は彼を召して、夜には閨を同じくし、玉枕を並べた。

それより次第に立身し、二十万石の大名と成ったのだという。

(伊逹秘鑑)

珍しい、石田三成が秀吉の寵童だったという記述である。



420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 13:44:06.56 ID:HBQcswxs
正澄が完全に無視されてるな

石田三成はかねてから謀反の志があり

2015年11月28日 17:18

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 01:18:56.40 ID:d+tbKNRi
 石田三成はかねてから謀反の志がありました。一条国広を召し抱えて佐和山に住まわせ、
正宗、行平等の偽物を拵えさせました。それらを殿下より拝領したと申して、諸家方へ送りましたものは少なくありません。

 そうでありながらも、一条国広は名鍛冶なので真偽の目利きが甚だ難しいものであります。
(本阿弥行状記)




691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 08:05:05.30 ID:gYz5S+MF
じゃあ秀康に贈った正宗は

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 08:56:36.46 ID:fmNnc/Pk
 徳川家康はかねてから謀反の志がありました。一族から娘を人質に取り江戸に住まわせ、
その娘を養女に迎えました。それらを自分の娘と申して、諸家方へ嫁がせたものは少なくありません。

 そうでありながらも、娘は気品のない田舎者なので真偽の目利きが甚だ難しいものであります。

石田三成の対面(武功雑記ver)

2015年10月19日 14:01

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 10:31:30.50 ID:Z9MZl0gp
関が原の合戦の後、石田三成が生け捕られた時、紺の帷子を被って小袖を許されていた。
藤堂宮内(高吉)が来て、

「私は治部少輔の恩を受けたものなので、ひと目会いたい」

とたって望んだため、対面を許された。
宮内は「さてさて」と何か言おうとすると、三成は

「いやいや、最早何も言わぬものだ。」

そう答えた。

さて、この時捕らえられた、石田三成小西行長安国寺恵瓊の3人に時服一重づつ、
台に乗せて下された。

小西は言った
「一時の寒風を逃れよと、小袖を下さること忝ない。
諸人に対面するのも面目がないが、身に刀を立てぬ宗旨ゆえ、このように見苦しき目に逢ってしまった。」

安国寺は小袖を見て
「それだけか」
と言って着用した。彼は諸大名に会ってもずっと無言であった。傷が痛むように見えた。

三成は小袖を見て
「これはどこから来たものか?」と聞いた。「上様からである。」
「上様とは誰か?」
「いや、内府様の事だ。」
これに三成
「さてさて、上様はこの前他界されたばかりだというのに、早くも内府を上様と呼ぶのか」
それだけ言って小袖を着ようとしなかった。
諸大名には雑言を言っていた。

(武功雑記)




島津義弘夜討の提案

2015年09月25日 17:56

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 21:19:33.61 ID:DmuJRcgR
慶長5年(1600)9月14日、関ヶ原の役。赤坂に徳川家康の旗印が立つと、西軍は大いに動揺した。
その日、石田三成は大垣に諸将を集め軍評定を行う。ここで島津兵庫頭(義弘)が提案した

「今夜、野郎共を赤坂に遣わし、先陣の陣屋を焼き払えば、敵陣は必ず騒動となるでしょう。
その時大軍を以って合戦を行えば、一戦にて敵を尽く討ち滅ぼせるでしょう。」

しかし石田三成は反論した
「今度の合戦は必ず勝利する。田中兵部(吉政)も我らに味方して、合戦中に返り忠を行うと確約した!」

これより前、三成は田中吉政に使いを出し書状を以って自分たちに味方するよう申し遣わしたが、
吉政は偽って同意の返事を出したのを、三成は信じ彼を頼りとしたのだという。

これに義弘
「田中の返り忠というのは心もとない!左様なこと、多くは期に望んで相違があり、また謀にて
偽りの同心の返事をした可能性もある。それを頼んで明日の合戦が必勝とは、愚かなことである!
今日、内府は長途を来て軍兵皆草臥れており、陣法も未だ定まってはいないでしょう。
その上士卒たちは陣屋を営み、食料の調理に立ち騒げば、いよいよ疲れて夜更けて熟睡することでしょう。
そこに大軍を以って夜合戦をかければ必ず勝利を得るべし!これは実を以って虚を討ち、
佚を以って労を討つの計なり!

それでも、三成は遂に同意せず、島津の謀は空しくなった。

その頃内府公の陣所では、『今夜は夜討来ること有るべし。油断すべからず』との仰せにより、
篝火を焚き、夜回り隙無く、遠見の番まで置いて用心を怠らず、その軍法は厳密であったという。

(黒田家譜)

有名な、関ヶ原で島津義弘が夜討を提案したお話。三成は田中吉政の内応を頼りにしていたのですね。




363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 21:25:36.05 ID:+Qt9rNs+
田中はもし西軍有利になったらほんとに裏切る想定もしてたのかな

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 01:16:30.39 ID:aMAnNCDO
田中吉政ごときをあてにするってありえんだろ

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 01:42:51.92 ID:1ElstaQP
包囲網が吉川一人のために瓦解するんじゃーね

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 07:37:42.50 ID:6vHuZ6nT
秀次派が西軍に寝返るだろうか?

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 08:41:36.33 ID:tz+AIFcm
自分の城で徳川勢が留守してる状況で田中吉政が寝返るとか無いわ

あと秀次切腹の時にも咎めがなかった人達だから、秀次派ってのは
無いんじゃないかな

石田貞宗

2015年03月17日 18:32

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/16(月) 19:07:56.58 ID:MmZMVFOT
石田貞宗

慶長5年、関ヶ原の戦いに敗北した石田三成は、近江伊吹山の奥に隠れていたのを、田中兵部少輔吉政の
手の者によって捕縛された。この時、三成は自分の帯びていた貞宗の短刀を吉政へと贈った。
しかし吉政は、その短刀を徳川家康へと差し出した

「この脇差は、治部少輔が腰に帯びていたもので、私に贈られましたが、囚人である彼から
物を受けるのはいかがかと思いますので、公儀に納めて頂きたく思います。」

家康はこれを聞くと、吉政に言った
「そなたの申す所は尤もだと思う。だがな、この貞宗の脇差は『切刀(きりは)』と号して、
元は明智日向守光秀の秘蔵していた物を、太閤(秀吉)が手に入れ常々自慢しておられた名刀である。
先年、石田が拝領して常に身から離さなかった。それを今足下に贈ったのも、定めて志あっての
事であろう。その志を虚しくするというのは、石田に対して気の毒である。

殊にこれは太閤の御遺物でもあるから、私から改めて指図しよう。
兵部少輔、その脇差を、長く所持するが良い。」

このように懇ろに言われ、田中吉政はこれを受けたという。

(刀剣談)




742 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/16(月) 20:05:39.45 ID:eootwjmp
イイハナシカナァー?

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 00:06:05.42 ID:RoYJCQ3s
東京国立博物館で展示されてる刀だな

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 01:15:14.03 ID:SWLjFWlr
家康の性格よんでんだろ、田中w

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 19:16:17.27 ID:bynBIjAD
光秀→秀吉→三成→吉政
所持した者の家が没落するという伝説になったり

三成→信之への短文通信

2014年10月19日 18:58

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 22:15:40.66 ID:7/7uUY/H

三成→信之への短文通信
『真田家文書』より、石田三成から真田信之(信幸)への未出の書状をいくつか抜粋


「眞豆州 御返報 石治
御書中令拝見候、御返報の儀心得申し候、折節客来にて取り乱し候間、一二する能はず候、謹言」
(お手紙拝見しました。お返事のこと心得ました。丁度来客で取り乱していますので、詳しくは書きません。)

「さいつさま 御報 石治
房州進物之事、明日にも左右申すべく候間、御こしらへ候て御待ち候ベく候、
又房州よりの御書中も只今拝見申し候、謹言、 十九日」
(安房守から(秀吉への)進物のこと、明日にも側近に申すつもりなので、
準備なさってお待ちください。また安房守からの手紙も今拝見しています。)

「さいつさま 御報 石治少
御札拝見申し候、宿に相待ち申し候、謹言、 廿三」
(お手紙拝見しました。宿にてお待ち申し上げています。)

「さいつさま 石治少
御札具に拝見仕り候。拙子事昨夕夜中申され、けさ早々より登城候て、只今やどへ帰り申し候、
拙子もちと御意得たきこと候へども、今夕は夜もふけ申し候間、明日申し承るべく候、恐々謹言、
四日 (花押)」
(お手紙つぶさに拝見しました。私は昨晩請われて今朝早くより登城し、今宿へ帰りました。
私もちょっと御意を得たいことがありますが、今日はもう遅いので明日にしましょう。)


それにしても真田家文書上巻の三成からの手紙の多さは群を抜いている
(徳川家・豊臣家・真田家家中からの手紙を除くと最多の十五通で、個人的な内容らしきものも含む)
信幸と三成が親戚同士だったこと(信幸の叔母の夫が三成とされる)が大きいのだろうか
すぐに読まないと意味がない手紙も多いのは伏見での屋敷が近所だったからと思われる

信幸と三成の親しさが垣間見える、そんな話。




52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 00:52:45.26 ID:4b9sFo1z
>>51
真豆州とか石治とか当時の人名前略しすぎぃ
他にも
織田信長→織上
木下秀吉→木藤
松平元康→松次
明智光秀→明十
とか見たし

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 01:16:25.06 ID:hTjg3Rmw
現代でも割と使われてる略し方だと思うが。マツケンとか。

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 01:21:38.75 ID:Tu4xNOcV
当時もそうやって略すのが親しみの表し方でもあったらしいしな。

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 01:42:47.86 ID:bNwtCOFp
まさむね

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 02:50:43.56 ID:y4IWvuXq
てる

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 07:30:50.00 ID:RdL2Urgm
かたこ

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 15:07:15.73 ID:x/pZEeRK
>>51
メールのやりとりみたいでほっこりする

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 16:45:26.41 ID:TUmAzWEe
つまり伊達政宗は全方位から他人行儀だったと

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 21:44:39.18 ID:leww0uT3
>>59

政宗の諱は先祖にあやったものだから、
自分自身だけのものと思ってなかったんじゃないかな

本多正純と石田三成問答の外に、対談したる人を知らざる由

2014年10月02日 18:53

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 20:48:53.33 ID:qh3k8BE1
関ヶ原の後、石田三成が捕縛されてからの東軍諸将との逸話は
人を変え、話を変え色々あるけどこれには異論もあるようだ。

本多正純石田三成問答の外に、対談したる人を知らざる由、本多正純に仕へし老兵のいひたりと語る人あり。
是れ正説なるに於ては、石田と対談の説に偽なるにや。(関原軍記大成)

黒田が小袖かけてやったのも、藤堂がアドバイス求めたのも嘘だけど
正則君が罵倒したという話も嘘なんだよ!正則君は本当はいい子なんだよ!!!
という話

関連
本多正純、石田三成を尋問す



三成、加増を辞退する

2014年07月20日 19:02

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/19(土) 22:42:40.79 ID:fFPbldre
三成、加増を辞退する

小早川秀秋の転封が正式に決まった時期、石田三成の家臣宛ての書状。


『殿下は我らに筑前筑後を下さり、九州の物主にしてくださるとのご内意でしたが、
そんなことをしては佐和山に置ける人もなく、身近で用を申し付ける人も少なくなるので、
(さ候へハ、又さわ山にをかせられ候ハん人もなく、ここもとにて御用御申つけ候人もすくなく候間、)
我らはこのまま(佐和山)でいよとのことになりました。
江州(近江)のその方の知行や蔵入(代官領)が増えないとなれば
悔やむ気持ちもありますが(くやみ申し候間)、よくよく申し付けてください。
次に筑後筑前は蔵入になるので、その旨百姓に言い聞かせるよう。
また金吾殿は越州(越前)へお替りになり、従って我らが(筑前の)代官になるよう命じられました。
近々筑前に下ることになるのでその心得でいるようにし、
この由を妻と父へも伝えてください(此由内儀、おきとのへも可申候也)。

廿二日 三成(花押)』

(「慶長三年(1598年)五月 家臣・大音新介宛て書状」 宇津木文書)





実は鷹オタクだった三成

2014年07月13日 18:51

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 10:45:58.03 ID:409e/6Nw
実は鷹オタクだった三成

石田三成からの手紙」を読んだら興味深い書状が載っていた


『内々進上するつもりで先日お目にかけた鷹ですが、その時には
獲物を取ることができず、残念でした(昨、御覧候所にて取飼い申さず候、遺恨)。
今日は私の鷹師を遣わして雁を一つ取らせたので、鷹と一緒に進上します。
この鷹は申し上げた通り私の秘蔵の鷹です(我ら秘蔵に候、)。青鷺を取るということで来たのですが、
私のところでは雁に力を入れてこの春、菱喰(別名オオガリ)を入れて雁を二十ほど取りました。
その手際は同行した城州(山城守)がご存知ですのでお聞きになってみてください。

(中略)

ところで先日貴方の手から飛ばせた若鷹は、私の手からは雁を二つ、鷹師からは七つ、
大崎方では青鷺を二つ取りました。この鷹は次の秋に確かに鶴を取るでしょうから、大崎方へ残しています。
夏の間は青鷺を取ってお遊びになるといいでしょう。秋に鶴を取ったらお返しください。
(いったん渡したものを返せと言うのは)おかしなことですが(鶴取り候ハバ御返しあるべく候、おかしく候、)。

恐々謹言 廿六日 三成(花押)』

(「年代未詳 某中納言宛て書状」 下条文書)


三成は真田信幸にも鷹をもらったことに対する礼状を送っているので、鷹狩が好きだったのは確からしい
「中納言」「山城守」と言えば思い浮かぶのは上杉景勝・直江兼続主従だが、
三成がこれほどくだけた手紙を景勝に送るのは考えにくいということで、
著者はこの書状は岐阜中納言(織田秀信)宛てではないかと推測していた。真相はいかに。

鷹について熱く語る三成が微笑ましいのでいい話に




294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 12:11:46.51 ID:7t4l/Swu
>>293
前田慶次でそんな場面あったな。三成の鷹狩りの最中に慶次と会ってバカにされてた。

常磐という舞妓

2014年04月06日 19:47

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/05(土) 22:22:28.95 ID:FfYqcsdC
徳川の世になったあとの京に、常磐という舞を舞う女があり、人が招けば、何方にでも行った。
彼女は石田三成の息女であると言われた。

そういう事もありうるであろう。あの真西山(真徳秀:南宋の政治家、儒学者)の孫娘さえ、
歌妓となったそうではないか。

(老人雑話)

京に、石田三成の娘という噂の舞妓がいたらしい、というお話。





フロイスdisりシリーズ、石田三成編

2014年03月22日 19:01

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 19:32:52.65 ID:w9hwEiiW
フロイスdisりシリーズ、石田三成

『1586年(天正14年)のこと

関白殿(豊臣秀吉)は堺の代官に二人の人物を任命した。その一人は(小西)ジョウチン隆佐であり、
今の海軍総司令官であるアゴスチイノ弥九郎殿(小西行長)の父に当たる。

このジョウチンは最良の人物で、都の最初のキリシタンの一人であり、教会並びにキリシタンたちの
古い友人である。

堺の代官となった彼の同僚は、佐吉殿(石田三成)と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を快しとしない
ジョウチンの大敵であり、キリシタンの敵でもあった。
彼は嫉妬深く、野心家で傲慢であり、その他の事柄においても悪徳に満ちた人物である。

この両名ともに、堺の代官に就任した。』

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスは石田三成も大嫌いだったらしい。




786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:09:08.63 ID:AXFVzZxh
上役への報告ってこんな適当で良いのか?
事実誤認が1つ2つじゃないけど…

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:28:49.94 ID:zFAj3K5p
後に二十六聖人事件で三成が秀吉の意向に反してまで
処刑されるキリシタンの数減らそうとした件について
フロイスさんの見解が知りたいw

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:31:05.60 ID:zFAj3K5p
あとフロイスさんって、清正とか市松とかセンゴクとか
ラスボスの子飼いでキリシタンじゃなかった奴は軒並みディスってるよなw

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 00:10:02.54 ID:bBy/l9xL
>>786
その上司はさらに上司に向かって
こいつは誇張癖があり考え方も偏ってるとちゃんと報告してますw

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 18:30:22.57 ID:H13RErIt
>>786
>>787
同じくフロイスが書いた「26聖人殉教記」では、三成の対応を見て
「日本史」でのボロカスな評価を改めたような記憶があるんだが
ちょっと自信ないから図書館で二十六聖人殉教記探してみるわ。

「関が原 八十島かけて」

2014年02月16日 18:50

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 16:31:48.39 ID:L5CwiN+g
石田三成家臣・八十島式部は長らく主から厚遇を受けていた。
関ヶ原の戦い当日も、八十島は三成本陣に居たのだが、
東軍勢がいよいよ迫り来るまさにその時、なにを思ったか、ただ一騎駆け出していった。
「なんだなんだ?」と皆が見守る中、
八十島はそのまま両鐙で馬の腹を思いっきり打ち、さらに速度を上げると
あっという間に何処ともなく逃亡してしまった。

おそらく呆気にとられていたであろう石田本陣。
そんな中、ある三成近臣が、古歌を引いてこう詠じてみせた。

「関が原 八十島かけて にげ出ぬと 人にはつげよ あまりにくさに」

この歌に、三成も家臣達も皆々大笑いした、ということである。

(関原軍記大成)

誰がうまい歌詠めと。ってことで、いい話にいれとく




388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 18:19:28.91 ID:VGZzl4fM
八十島って島津隊に伝令に向かったやつじゃなかったか?
馬上から伝令したとか?そんな話聞いたことあるけど
とんずらしたのはその後かな?

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 18:34:49.33 ID:9lC7bs1m
>「関が原 八十島かけて にげ出ぬと 人にはつげよ あまりにくさに」

誰か解説してエロい人

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 18:39:44.54 ID:3CY9DrX5
これのパロディ

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/72/19/tefu_tefutefu/folder/1297533/img_1297533_31615652_0
img_1297533_31615652_0.jpg

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 19:07:31.73 ID:9lC7bs1m
ああ理解した。ありがとう

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 22:16:21.44 ID:f6D5EAro
東軍の勢いにおののいてしまったのだな

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 23:47:28.69 ID:JYim7sGM
兵どもにおののたかむら

二つの記録に登場する三成

2014年01月30日 19:15

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:02:55.52 ID:uE2pb5xB
過去ログ見ずに投稿。かぶってたらすいません。


関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いで西軍は敗北、岐阜城は陥落した。

勢いに乗る東軍は、次の目標を大垣に定め、長良川の河渡の渡しにおいて
石田三成の部将・杉江勘兵衛らと交戦、これを討ち取っている。
揖斐川の呂久の渡しの守備についていた三成と小西行長は、事態を憂慮、
墨俣を守っていた島津義弘と協議し、その結果大垣城へ退くこととなった。


このとき、島津義弘はわずかな供廻りしか連れておらず、兵のほとんどは
墨俣に残っていた。石田・小西両勢が撤退してしまえば、島津勢は敵中に
孤立してしまう。おのれのみあくまでも退こうとする三成に対して、義弘の
家臣新納弥太左衛門と川上久右衛門が三成の馬の口を取り、考え直すよう
迫ったが、三成を翻意させることは出来なかった。司馬遼太郎の歴史小説
『関ヶ原』でも採り上げられている話であり、小説では卑怯と責められた
三成が馬上で「卑怯ではない、卑怯ではない」と独白する場面もある。
これがもとで義弘は三成を信頼できなくなり、合戦当日に非協力的な態度を
とるにいたる―というのが小説の筋。上記の話は実際に従軍した島津家家臣
大重平六の覚書がもととなっている。無論、三成独白の場面は司馬の創作で
ある。


一方、あまり知られてないが、こんな話も残っている。



退却が決まり、墨俣の島津勢は前線から大垣城目指して急いでいた。はや
日も暮れようとする頃、行く手より一騎の武者が駆けてくるのが見えた。
その出で立ちは、黒の具足・水牛の角の立物の兜を被り、供廻りも従えず
ただ一騎のみで急ぎ駆けてくる…。

「あっ、あれは治部少輔殿だ」

そう、三成であった。

島津勢が墨俣からの退却に難渋していると聞き、見舞いに駆けつけたのだ。


出典は、これも島津側に残った神戸久五郎の覚書。


二つの記録に登場する三成、まるで正反対w。
ひょっとしたら、先の話は島津家がお家のために創作したのかも。




246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:15:18.76 ID:pnHGcZ8r
島津義弘は最初から東軍が勝つと思っていたんだよな
で東軍に入りたかったけど、ご存知の通りでご破算

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:18:47.90 ID:pZ7zDfLS
検地で三成と親しかったし、もとから西軍派だったけど負けたから死人に口なしってことで
西軍についた責任を鳥居におっかぶせただけじゃないか

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:45:19.32 ID:9Cqd3mn5
義弘は最初から中央の要請で上杉征伐行くつもりで大坂行ったらきな臭いことになってたから
やむなく流れで入っただけでしょ

三成に協力してくれなんてことは一度も連絡されてないし西軍なんてもんは知らんよ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 14:47:53.84 ID:pnHGcZ8r
井伊の赤備え VS 島津ステガマリ は関ヶ原のクライマックスにふさわしいね

253 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/30(木) 16:26:51.41 ID:8Eq9Z+rj
>245
司馬の小説でその後の話も載ってたような。

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:35:31.66 ID:Ygv7vstz
>>253
色眼鏡で三成見てるなあ。
それでなくては小説家になれんのかな?

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:58:30.35 ID:AuvVqLon
>>255
色眼鏡って言うかどっちも資料に残ってる話をミックスさせただけじゃないの?

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:59:03.27 ID:YH16w5ma
ミックスさせればそうなるよな

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 18:15:28.36 ID:4KLIDOmA
>>233
立花家の道雪の甥の立花統春が、加藤家から逃げてきた罪人を匿ったことで
騒動になって切腹した話もあるね

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 18:38:04.13 ID:HkdSXETq
>>254
つ「やる夫が山形城に生まれたようです」

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 22:49:05.67 ID:w60+8gyk
>>245
水牛の角で黒田長政が単騎で突撃してきたかと思った

雑残・忍城攻めについて

2013年10月20日 19:14

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 22:24:04.84 ID:JTo68RAX
こうやって歴史は改竄される

【埼玉】三大水攻めの舞台、ポツンと水に浮かぶ難攻不落の「忍の浮き城」に、歴女もうっとり…「のぼうの城」で再び脚光、行田・忍城址
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1382186218/

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 22:45:01.61 ID:89+jMl0r
忍城って工事中に戦争終わっちゃったとこだっけ

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 22:50:49.63 ID:Be3/gGQ4
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7588.html
このコメントだと水攻め初出が17世紀末の軍記物だから
三成「あとちょっとで堤ができて秀吉様の言われたとおり水攻めができる」
成田「小田原自体が開城したんで、降伏します」
三成「なんだったんだろうな今までの努力は」
て話が有力みたいだ

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 10:53:36.96 ID:B1EW+Wv+
>>525
そら軍記に書かれてるような
「勝手に水攻め→味方に大被害」なんて失態をマジでやらかしてたら
あの場にいた誰かが何らかのお咎め受けないとおかしいしな。

石田三成、捕縛されて

2013年08月01日 19:53

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 00:59:56.75 ID:dTvFgpKp
関ヶ原の戦に敗れて、石田治部少輔三成は、家人をも召し連れず、落ちゆく勢びうちに紛れて歩いていたのを、
田中兵部少輔(吉政)の家人・田中傳左衛門がこれを発見し、

「治部殿でありますな!今はあなたの御運も尽きんとする時ですぞ、とどまり給え!」

そう叫んで走りかかり、押し留めた。これに三成は

「いやいや、名も無き下人である。治部ではない。人違いをされては困る。」

と言い逃れようとしたが

「見忘れられましたか?田中傳左衛門です。関白殿(秀次)の元で幾度か見参いたしました。」

そう言ってこれを押し捕えた。
その場所は近江の古橋というところで、先ずこの辺りの寺に伴い、そして陣所に連行して
兵部少輔(吉政)に注進した。

このとき三成は、1尺3寸の放し目貫の脇差を佩び、柿色の帷子ひとつを着て、米5合ほどを
袋に入れて腰につけていた。
その脇差の目貫は黄金の駒であったが、裏側には目貫はなかった。
これを見て田中傳左衛門が聞いた

「これはどうして、裏の目貫がないのでしょうか?」

「家人が一人つきまとったので、この目貫を抜いて与え、これを印として大阪城に赴くようにと
言って、落としてやったのだ。」

そして三成は傅左右衛門に向かい

「父である石田木工、その他の人々はどうなったのか?もし知っているのなら教えてほしい。」

と尋ねた。傅左右衛門は

「木工殿は妻子を刺し殺し、その身は潔く御自害をされました。その他の方々も同じ道を取られました。」

そう申し上げると、三成は心良さげに笑われ

「ざっとすんだ。」

と言った。
これを見て傅左右衛門は思わずこう尋ねた

「大事の合戦に敗れたというのに、どうして御自害されず、このように囚われの身となったのでしょうか?」

この言葉に、しかし三成は

「これはお前の解るような事ではない。こう言う時に潔く自害などするのは、お前たちのような者共が
することだ。私はそんな事は出来ないのだ。」

そう嘲笑ったという。
(話園)

石田三成が捕らえられた時の逸話である




114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 18:21:02.52 ID:tkS35PAS
>>112
木工は兄じゃないの?原文で父となってるのかな

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 21:29:45.60 ID:pQIUAOae
>>112
ふむ。

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 21:33:20.68 ID:lucOSRHD
>>114
木工は兄貴の方だね

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 06:16:03.75 ID:sQqwgHtB
>>114
投稿したものですが、これは原文から父になっていました

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 09:35:58.76 ID:V9sJiln7
てことは、原文の作者が勘違いしたんかね?

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 20:25:30.73 ID:Re+10w4C
それなら仕方ない

石田三成「奉公人は主君より受けた物を」

2013年02月12日 19:50

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 18:38:01.96 ID:yJpl3w0k
石田三成はいつも言っていた。
「奉公人は主君より受けた物を使い切って残してはならない。残すのは盗みだ。
使い過ぎて借銭するのは愚人だ」と。

――『老人雑話』




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 19:11:37.15 ID:clvCvojD
利家「しみったれだなw」

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 19:30:14.44 ID:1MKziXPE
予算はきちんと調整して過不足なく消化すべきだよな

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 20:10:42.54 ID:Hb/1GD5J
ホントみみっちい小物の発想だよな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 22:20:42.95 ID:Ir7CtSXw
>>371
予算をきっちり使い切るため無駄な道路工事する
馬鹿役人と同じ

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 22:45:34.96 ID:Hb/1GD5J
こんな調子じゃ飢饉とか不測の事態に絶対対応できないな。

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 23:05:38.42 ID:WeaS37Sw
まぁせっかく経費節減して予算残しても翌年その分減らして組まれるからな

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 23:13:38.95 ID:2AuNZxn8
>>377
×予算を使い切る為に工事をする
○予算を使い切らなければならないほど工事がたまっている 不測の事態のために年末まで残さざるを得ない

スレチなんでこれ以上は自重するけど

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 00:14:04.16 ID:7//QQLH9
てか大久保利通やサラディンにも似たような話があるのに
三成だからってひねくれた視線で見すぎだろお前ら。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 08:59:10.90 ID:PRh5nkEm
>>381
いつもの事じゃないか

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:09:02.62 ID:SLzEI9g/
公費のことなのか?
単純に下賜された私財の話かと思ったけど

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:13:57.63 ID:7rGOf7Yj
まあ予算の話じゃないわな。この時代の武士の場合、なにか命じられたらその執行は自弁が基本だから。
主君から資金を下賜された場合、それを私するのは罪だし、足りなくなるのはアホだ、って話だわな。

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:14:59.77 ID:Fhk0QbMO
>>383
貰った領地から上がる収入のことかと思った

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:23:22.59 ID:7rGOf7Yj
信長が佐久間信盛折檻状で、領地を持ってるのに家臣を抱えないって怒ってたのと同じで、
家臣に与えられた物は私財ではなく、主君のために働くための資本金なのだから、その資本はフルに有効に
使い切れってことやね。カネを眠らせるな。
だからといって首の回らなくなるような状況になったら身も蓋もないからそういうことにはするな。

「主君より受けた物」を予算だと考えると、根本的に解釈を間違う話だな。

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:34:52.39 ID:6EGghE3n
予算を「主君のために働くための資本金」のつもりで言ってるんじゃないのか
収入と支出の計画ではなく

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 21:19:46.11 ID:X0ymwCLR
島左近の逸話とかその辺の話だろうねえ