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玄澤は小西の家臣で領知3千石なり

2019年04月21日 16:24

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/21(日) 15:00:58.97 ID:GSb4KycD
肥後の天草宇土の城を故肥後守(加藤清正)が攻めなされた時に曰く、「出て来て戦うような者は
1人も思い当たらないが、南条玄澤(小鴨元清か。原注:玄蕃の意)1人は出て来るだろう。各々
討ち取れ!」と命じた。案の定、玄澤は出て来て戦ったという。

宇土の城は小西摂津守(行長)の居城なり。玄澤は小西の家臣で領知3千石なり。

――『老人雑話』



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小鴨左衛門尉元清の怨念・悪い話

2009年01月14日 00:03

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 00:00:40 ID:BShV64Bv
池田家が出たので岡山つながりでひとつ。

小鴨左衛門尉元清は慶長六年の春、作州才原村へ到りここで一晩の宿を取る事になる。
しかしながら、この宿の亭主は元清一行がその容貌、物云がただ者でなかったため、
これはきっと伯州崩れの貴人に間違いないと考えた。
ならばその腰の物はさぞ高価な代物だろう、また金銀の貯えなども相当有るに違いない
と悪心を起こし、ひそかに隣家をそそのかし、また近隣に忍び居る強盗山賊の類を招き
夜更け時、人が寝鎮まった頃を見計り元清主従の寝所に忍び込み、主従の腰の物を奪い
元清主従が目を覚まし起き上がったところを盗賊共が左右より一度に斬りつけこれを
殺害してしまった。

しかし、因果応報というものか、さても人の怨念とは恐ろしい物なのか、件の山賊、
宿の亭主、隣家の者共、程なくことごとく死に絶え子孫跡形も無く果ててしまった。
が、それでも元清の気は収まらなかったのか、この後も人馬に病悩奇怪の事多く
村人たちはこれに恐怖し、彼の霊を新八幡に祝し小社を建て多いに奉り敬ったところ
病悩は無くなったため、今でも祭祀を続けているというお話。 「伯耆民諺記」より

この話がのちに八つ墓村のエピソードの元になったとかなかったとか。
まあ、宿の亭主にしたら(相手が)悪かったという話。




308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 00:30:22 ID:h1YHRuep
>>307
そういえばこれによく似た話が、島左近でもあるな。

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 01:01:19 ID:+Q3O5DQT
八つ墓村は津山事件からでしょ。

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 01:10:20 ID:PObYl83E
>>315
八つ墓村にでてくる落ち武者の話の元ネタってことだろう。