真田幸村の遺跡付秀頼

2017年03月07日 21:40

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 01:06:36.77 ID:XljhnUxf
真田幸村の遺跡付秀頼

 続編の五巻に、松代侯の物語を記した中に、幸村が薩摩にいたことを言った。
その後薩州の者との文通を見せてきた。

「熊本藩の斎藤孝寿(孝寿は、権之助と称す。細川侯の町奉行。犬追物に精通す。)が甲寅(1794年)に南の方薩摩へ遊行した。
官工の伊正良に刀剣を造らせるためであり、ここに三十日程いた。
かつて私は『豊公秀頼は大坂城を逃れて、西の方薩摩に逃れた。』というのを聞いた。
もしその事があるのなら、必ず墳墓や子孫があるはずだ。
この地で北や南、西から東へ行き広く尋ねたり相談したりして求めたが、
邦の人々は皆知らないと言う。

ところがある人が言った。
『遠く府の南三十里に谿山市という市が有る。
その西隣に一村落が有る。名を木下という。』
たぶんその所だ。私は一日ここへ遊びにいき、近くの諸村老に『豊公の家の跡はあるか』と問うた。
その広さは一段ばかりで、中に二松有る。その大きさは両手で三回抱えるほどであった。
枝葉は霞の中に生い茂り、花の香りは遠近にたちこめている。
ここがまさしく豊公の居た所だ。
その距離東に百歩ばかりに一小堂があり、仏が安置されている。
その側に多くの墳墓がある。そのなかで抜きん出て偉大なものが豊公の墳であろう。
その後ろに墳が有り、すなわち臣僕の墓だという。銘が皆明らかではない。
その廃墟に家にしているものがおり、脇木下という。(本木下は本家で、脇木下は別家という。)
その北へ五・六十歩ぐらいのところの家に住んでいる者が本木下という。

私は秘かに聞いた。
元和の役で、豊臣公は秘かにその臣の真田幸村等と謀り、大坂城で死んだと偽って薩摩に逃げたのだと。
豊臣公は谿山に在り、真田君は頴娃に在ったという。
しかし世人はこれを知られるのを恐れ、よってその名を悔い改めて木下としたと。
これから後世の人は遂に邑の名を木下と言った。
公の人となりは甚だしく肥大で、身長は殆ど六尺。
公は常に都下に往来し、酔えば必ず道路に縦横した。
真田君のなりは役小角の遺風のようだった。これらから今に至っても諺で
谿山(タニヤマ)ノ酔人(エクロ)、頴娃(エノフ)ノ山伏と也云々
(エクロは薩摩の方言で酒酔人を言う。秀頼、薩摩で大酒であったことは前編四巻にも見える。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html
河村宗澹曰く今の番頭役谿山孫右衛門は秀頼の末葉だそうだ。但し、谿山の苗字は多くあるが統は右孫衛門だと話した。)」

 これに拠れば、幸村は大坂で戦死してはいない。大助もまた、第五巻松代侯の話を証拠とすべきだ。
これも生害ではない。また秀頼の容貌もここで知れる。またすでに前編六十一巻にもこのことを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10006.html
通観すべきだ。

(甲子夜話続編)



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 14:26:14.59 ID:vISgFD1K
>>704
>木下
改名がガバガバすぎて草
スポンサーサイト

真田幸村の智謀

2017年01月18日 10:08

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 19:09:15.70 ID:qJMrCMga
真田幸村の智謀

上田籠城の時、織田、徳川、北条の三将、二十余万の大軍を以て百重千重に取り囲み、水も漏らさぬばかりに
ヒシヒシと取り詰め、哀れ上田城は粉々に踏み崩されんとしていた。
これには流石の真田昌幸も、城兵僅かにニ千余り、今は防御の術も尽き、如何にすべきかと思案し、苦慮して
いた所、倅の幸村、当年十四歳であったが、彼が『鶏卵煎り砂の謀計』を考えだした。

彼は鶏卵を二つに割り、中身を取り除いてこの中に煎り砂を入れて合わせ、水に浸した紙を割口に巻いた。
これを数万作り出し、それぞれの櫓に十籠、二十籠づつ取り備え、寄せ手を遅しと待ち構えた。

頃は天正十年三月二十五日の朝(ちなみに実際の第一次上田合戦は天正十三年閏八月である)、
織田徳川北条の軍勢はどっと鬨の声を作り押し寄せ、鉤縄打ち掛け勇みに勇んで攻め立てた。
城中よりは「時分はよし」と、件の鶏卵を合図とともに投げつけた。

兜面頬があっても、当たれば砕け、煎り砂は兵士の眼に入り、さしもの勇者たちも暗夜をたどるに
異ならぬ有様。城中よりはこれをみすまし、「時分は良きぞ」と、松本口の織田勢には真田源次郎(信之か)、
軽井沢口徳川勢には隠岐守信尹、笠ヶ城北条勢へは与三郎幸村、何れも三百余人を率いて鬨を作り
攻めかかれば、盲目に等しい寄せ手の面々は戦うことも出来ず、我も我もと敗走し、同士討ちするものも
あり、踏まれて死ぬものもあって、二十余万の大軍が、雪崩掛かって落とされたのは、たいへん見苦しい
有様であった。

この状況に信長は、如何にすべきかと思慮を巡らしたが、今だ良き工夫もつかぬ所に家康が現れ、
「鶏卵煎り砂の目潰しを防ぐためには、竹束を以て盾とし、鎧の袖を額にかざすより他、術がないでしょう」
そう献策した。
これにより夥しい竹束を用意し、またもや押し寄せた。

しかし幸村は「煎り砂に懲り果てた敵兵は、今度はこれを防ごうと竹束の盾を必ず用意してくるであろう。」
と推察しており、あらかじめ多くの投げ松明を用意していた。
果たして先手は竹束を束ね、、後ろに太い棒を取り付けた物をひっさげ、目潰しの鶏卵が今や降ってくるかと
待つ所に、城中は静まり返って音もせず、寄せ手充分に近づいた所で、一発の銃声が響くとともに、三方の
櫓より松明が投げつけられた。
すると油を注いだかのように、竹束はみるみるうちに燃え上がり、寄せ手の者達驚き騒ぎ、消そうとするも
うまく消火もできず、散々となって我先にと敗走した。

(芳譚)

何故か甲州征伐とごっちゃになっている上田合戦のお話



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:13.13 ID:n+P9kTbE
>>527
鶏卵数万w

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:38.99 ID:/3OBSLpx
幸村が活躍するなら、そんなことはどうでもいいんじゃないの
物語なんてそんなもんでしょw

真田左衛門佐幸村の妻女

2016年12月22日 17:15

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 00:23:23.28 ID:qpvz8I6l
同月(慶長20年5月)、真田左衛門佐幸村〈又云ふ信為〉の妻女が紀州
伊都郡に忍んでいたのを、浅野但馬守(長晟)の家人が召し捕って来た。

闕所(没収)の黄金57枚、並びに秀頼から真田に与えられた来国俊の
脇差を添えて進上した。件の2品は即座に但馬守へ下しなさったという。

――『関難間記』



歌舞伎「盛綱陣屋」

2016年12月03日 09:00

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/02(金) 19:13:10.64 ID:vLLxwyfB
歌舞伎の「盛綱陣屋」という作品のあらすじ読んだら(歌舞伎なので登場人物の名前を含め、本来は鎌倉時代が舞台)

大坂の陣で真田信之の息子が真田大助を生け捕ったため、信之が大助を家康に見せると家康は大喜び。
そこへ後藤又兵衛が乗り込んできて「大助はまだ子供なのだから返せ!」と言ってきたため
信之は又兵衛をとりあえず家康のところに送る。
思案した信之は、このまま大助がこちらにいたのでは弟信繁の戦闘意欲がそがれる、いっそ切腹させようということに。
信之は信之・信繁の母親の山手殿を呼んできて、大助に切腹をすすめさせるが大助は泣いて切腹を嫌がる。
そこへ大坂城から信繁の妻が息子を思って兵に変装して駆けつけるが、その光景を見てあせる。
そうこうしているうちに信繁戦死の報告。家康は信繁の首を持ってきて信之に首実検をさせる。
心中悲嘆に暮れる信之だったが、首桶のなかの首はなんと偽首。
しかし次の瞬間、大助が「ととさまのところに行く!」と切腹。
実は後藤又兵衛も信繁の妻も、大助がちゃんと計略どおりに切腹するかの監視役だった。
信之も大助の心中を察し、家康に「まさしく弟・信繁の首です」と報告。家康もすっかり騙される。

信繁ってこんな計略を使う武将だと思われていたのか・・・



真田昌幸「そういう事は時と場合による」

2016年10月31日 09:38

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 23:52:44.11 ID:ky4QU8i1
慶長5年、真田安房守(昌幸)は下野国犬伏という所から引き返し、信州へと向かった。
その途中の上野国は徳川家の領分であったため、人数を連ねて通ることは出来ず、昌幸は
真田左衛門佐(信繁)、桑原若狭、佐藤軍兵衛の四騎にて上野国赤山の麓へかかり、夜を日に継いで
沼田へと到達した、

安房守は沼田へ行き、左衛門佐では沼田の町に火をかけ焼く恐れがあると、木村土佐という家老を
沼田に遣わし、安房守は沼田に参着した。

沼田は伊豆守(信之)の領地であるが、普代の所であるから、百姓たちは急ぎ城へ参り、
「大殿が突然こちらにお出でになられた!」と伝えた。
伊豆守内儀(小松姫)はこれを聴くと

「伊豆守は家康公の御供をして東に向かった。家康公は今頃下野におられるはずだ。であるのに
安房守殿が帰ってくるのは不審である。」

そう考え、留守居たちに「大手の門に寄らせてはならない!」と命じ、門を固めているところへ、
桑原若狭が表れ、「安房守様をこちらにお連れしたい」といろいろ申し上げたが、内儀は
「城口にも近づけてはならない!」と拒絶し、安房守は仕方なく、沼田の町にある正覚寺という
浄土宗の寺に立ち寄ると、そこに石庵という半俗の者が参って「伊豆守様はどうなさったのでしょうか?」
と尋ねた。これに左衛門佐が

「伊豆守殿は浮木に乗って風を待っているのだ。」

と言い放ち、石庵は、これは話にならないと座を退いた。

安房守一行は暫く休息を取ると沼田を通過する事にしたが、沼田の町は伊豆守の行方がわからぬと
大騒ぎに成っていた。この様子に左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」と安房守に
申したが、安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」と叱りつけ、その後は昼夜の境無く
上田へと急いだ。

この伊豆守内儀とは、本多中務(忠勝)の娘である。

(慶長年中卜斎記)

有名な逸話ですが、この慶長年中卜斎記だと真田信繁は何故か、
沼田に火をかけたくてしょうがなかったようですね。



268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/31(月) 23:09:10.75 ID:PVC4EiTg
>左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」
>安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」

草刈昌幸と堺幸村で見たかったなこのやりとり

真田家の幸村は

2016年10月28日 14:04

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/28(金) 04:45:28.23 ID:pe8bkluQ
 この九月初旬に、真田豆州が訪ねられて四方山話をされた。
その中で、耳底に留まった話のいくつかを記しておく。


一、真田家の幸村は薩摩に行ったと思われる。
かの国の言い方にも時々それと思われることがある。
彼は先ごろかの国に問い合わせた文通がある。近日見せてくれるとのことだ。


 これ世上の説にあるが、諸書で言うところと異なっている。
どうして秀頼の墓が薩州にあるのかというのは、豆州の言葉の通りなのだろう。
そうであっても神祖の御深仁御厚徳を察することができる。




一、大助生害とのことだが、これも大阪で死んだという話の通りだとは思われないそうだ。
高野山の蓮華定院は昔からの家の代々の菩提所であるが、
その過去帳に大助の戒名があり、没年七十いくつかとかある。
ならば老死である。
御旗本衆の中に八木氏がおり、この家は母のつづきゆえ、
彼は猷廟(家光)の御時にこの家で召し出されたと聞いた。
今更ながら子孫の口から八木氏に問うのもいかがと思われ、まだ確かめてないと。


 こうであるなら、幸村が高野山に退去したというのも、この蓮華定院だろう。
八木氏は今の大番頭丹波守〔四千石〕の家か。


(甲子夜話続編)

敵ながらあっぱれと思い

2016年08月14日 17:26

76 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/13(土) 19:51:20.22 ID:RTOMV38F
結城秀康の三男であり、後に松江藩主となった松平直政。
彼は、初陣となった大坂冬の陣で活躍しました。
この様子を見ていた真田信繁が、敵ながらあっぱれと思い軍扇を直政に投げ渡しました。 この軍扇は現存しています。



勇士の名を汚さぬよう

2016年05月19日 21:27

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 08:02:28.13 ID:Pn127/+v
越前少将松平忠直の家臣に、原隼人正貞胤という者があった。元は甲州武田家の武士にて武功の者であったが、
浪人していたのを忠直に召し抱えられ、黒母衣衆に編入され、その合戦の知識を高く評価されていた。

彼は真田幸村と古傍輩の好があり、旧友であった。そこで大阪冬の陣の和睦が結ばれると、真田方から
「和睦後、互いの辛苦も語り慰めとしたい」と、しきりに招請してきた。しかし原は自身で判断するわけにも
いかないと、忠直に伺いを立てると、御免あったため、真田の陣所へ赴いた。

真田幸村は原の来訪を大いに喜び、様々に饗応し、嫡男大介も見参に入れ酒宴数刻に及んでから、幸村は語った

「私は今回の合戦で討ち死にすべき身であったのに、今度の不慮の和睦で今日まで存命し、再びあなたに
お目にかかれたこと、生前の大慶である。
この幸村は不肖なれども、今回一方の大将を承った事、今生の面目、死後の思い出と存ずる。

今回の和睦も必ず一端のことであろう。永くは続かない。終にはまた一戦となると、私は推量している。
その時に潔く討ち死にすること以外、私は考えていない。
臨終の時は、いま床に飾っているこの鹿の抱え角の兜、これは先祖重代の家宝であったのを、父安房守が
私に譲られたものだが、これを着けて討ち死にするつもりである。
あなたがもし、この兜首をご覧になれば、幸村が首であると思い、一返の御回向にも預かりたい。」

原隼人はこれを聞くと
「戦場に挑む者のうち、誰が生きることを考えるだろうか。
遅れ、先立つとも、ついには冥土で再会するのだ。」

これに二人は笑いあった。

それから白河原毛という名の馬に、白鞍に金で六文銭を打ち付けたものを置いて引き出させ、
幸村はこれに乗って隼人に見せながら
「重ねて合戦有れば、大阪城の城郭は破却されれているので、必ず平場での合戦となるだろう。
だとすれば平野の辺に馳せ、出撃してきた東国勢に駆け合わせ、馬の息が続かないほどに戦って
死ぬつもりであるので、いまこの馬はひとしお秘蔵にしているのだ。」
そういって馬から降り、再び酒宴となった。

ここで原隼人は言った
「今の和睦こそ幸いである。貴方はともかく、子息のことは、御舎兄の伊豆守殿にお預けに成って、
とにもかくにも、跡を継がせるべきではないだろうか?」

幸村はこれを聞くとニッコリと笑い
「不肖のそれがしであるが、関東より度々招かれており、いま倅を伊豆守の元に遣っても、
さのみ悪いことではないと思う。であるが、一生日陰者として有るのも武士の恥辱である。
高鳥死して良弓蔵されるという。豪傑であっても治平の時代には用いられない。ましてや
柔弱なわが倅など誰が用いるだろうか。

人には皆名分がある。その生死、禍福は人意を以ってどうにか出来るものではない。
ただ私と死を共にして、勇士の名を汚さないようにしたい。」

二人は一日語り合い、黄昏に及んで原隼人は帰っていった。
実際に真田は翌年、かの兜を着けあの馬に乗って討ち死にしたとのことである。

(慶元記)



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 12:26:34.41 ID:C+jA2yLf
こういう潔い武士らしさは、江戸時代でも好まれたんだろうな

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 13:39:12.18 ID:dqPc8IuE
幸村ってあるから江戸時代に作られた話だろうしな

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 17:46:38.62 ID:Iz92FozX
幸村とある時点で胡散臭さ、逸話度がグッと上がってしまうのがなんとも、ね

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 18:08:43.85 ID:S5GhVgTP
写本してるうちに書き換えられたりするからそう単純な話でもない

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 20:30:44.01 ID:ZEO/h7Rc
小楠公
真田大助
大石主税
日本人が好む英雄の息子たちも人気があるよね

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 22:04:34.78 ID:VIqbXPQx
そういえば近所に"ゆきまさ"と名付けられた少年がいるなあ
字面までは知らんが

紺地に六文銭の旗の陣

2016年05月18日 17:05

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 06:44:03.98 ID:uLvmKNEo
大阪冬の陣、東方の寄手である真田伊豆守信之家臣の矢澤但馬、吐田筑後、榊原石見の三人は
元より武功の者であったので、敵が矢鉄砲を激しく撃ちこむのも恐れず、一番に仕寄りを付けた事は、
両将軍(家康・秀忠)からも賞賛された。

この時、伊豆守の手勢が仕寄りを付けるにおいて非常に勇敢であったのを、大阪方の木村長門守重成も
大いに感じ入り、或る夕刻、真田左衛門佐が出郭より本城に帰った時、重成は彼に対し、
東を指差して言った

「あそこの、紺地に六文銭の旗の陣が最初に仕寄りをつけました。あれはあなたの一族でしょうか?
もしくは他門でしょうか?彼らは実に、城攻めの妙を得た者達です。」

真田答えた
「あれは兄伊豆守の陣です。ただいま軍兵に先立って下知している二人の若武者、
一人は河内守(信吉)といって16歳、もう一人は内記(信政)といって14歳。どちらも私の
甥であります。亡父昌幸の余風があって、彼らも健気に働いているようです。」

重成はこれを聞くと
「その兄弟は、普段は何色の鎧をつけているのでしょうか?今から軍兵たちに、二人には鉄砲を用いないよう
申し付けたい。」

「それは情ある言葉です。しかし彼らは若年であると言っても、他の軍勢に先立って仕寄りを掛けるなど、
味方にとってはなかなかの剛敵です。
ご存知でしょうが、忠義のためなら親疎も言い出さないのが武士の習いですから、私の一族だからといって
弓鉄砲での攻撃を避けるというのは考えもできません。彼らもまた、私を見れば必ず攻撃して
来るでしょう。であれば、誰にかぎらず秀頼公の敵と見れば、席を去らずに討ち果たすべきです。
これが武士たる者の本意です。」
そう語ったという。

(慶元記)



732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 11:21:19.48 ID:IT3tWaKI
一族が敵方にいる以上、周りの他の軍より率先して働かないとダメだし
兄一家も大変だな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 21:39:16.08 ID:7o1opGdq
黒田基樹「真田信之」p172によれば
「真武内伝」に
木村重成の持口を信吉・信政が陣頭に立って攻めているのを見た木村が信繁に
「あの六文銭はあなたの一族か?」と尋ねたところ
信繁「むろん、兄信之の子で私にとっては甥にあたる」
と返答し、木村が
「若年にして奇特な戦いである、あの2人には矢、鉄砲を放たぬようにしよう」
という話が載っているが、信繁は真田丸を守っていたため、残念ながら全くの創作である

としてたけど、真田丸から城に帰ってからの話なら問題ないような
(しかしたしかに木村重成より若いとはいえ、木村重成が「若年ながらたいしたもの」
と言うのには違和感)

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:09:52.91 ID:RsDfDWju
>>734
信吉が1595年(文禄4年)生まれで大阪の陣の頃には二十歳前後、信政はその2つ下だから、別にいいんじゃね?

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:58:53.72 ID:8V1YisfJ
>>732
結局最後の最後まで兄一家は弟に振り回されて終わっているんだよなあ

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 04:38:18.20 ID:otyaGBAD
>>732
源為義 為朝 平忠正「そうか?」

上州犬伏にて

2016年05月13日 18:04

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 20:36:13.50 ID:lpkqYaEd
真田左衛門佐幸村(信繁、または信仍と有る)は、信州上田城主、安房守昌幸の次男である。
去る慶長5年、上杉景勝反逆の故に、徳川家康は上杉攻めとして、諸大名を召しつれ伏見を発向し、
関東に下向したことにより、真田昌幸、嫡男伊豆守信幸、次男左衛門佐幸村も、上州犬伏まで
打ち出た所、石田治部少輔三成、大谷刑部少輔吉継両人より、昌幸に書状が届いた。
その内容は、

『今度天下の御為に大老奉行相談し、内府(家康)を滅ぼすこととなった。真田父子も同意あって、
会津への出陣を止められよ。』
というものであった。昌幸は伊豆守、左衛門佐が先陣に在ったのを呼び返して言った

「たった今、石田、大谷より申してきた内容を見るに、上杉景勝が幼君に対し逆心の無いことは
明らかだ。この上は内府を敵とし、ここより引き返すべし。お前たちはどう思うか?」

伊豆守は答えた
「仰せ、誠に至極です。今回内府に従うのは、世上の批判も大きいでしょう。その上父上は石田治部と
御縁者(ある説によると、真田昌幸と石田三成は、ともに宇多下野守(頼忠)の婿であるとされる)です。
また左衛門佐は大谷刑部の婿であり、上方に筋目が有るのですから、先ずは御領内に帰って御思慮
あるべきでしょう。

しかし私は内府と御懇意であり、ことに本多中務(忠勝)と縁者のよしみがあり、お許しいただけるなら
徳川家の旗下に属したいと思います。そしてその上で、なお志す所があります。
もし、上方の軍が敗れ、城々に籠もった者達まで内府によって罰せられた場合、私が父と弟の罪を
謝し、如何にもして危難を救い、それのみならず、真田の氏族が断絶しないように私は計ります。」

これを聞くやいなや、左衛門佐は言った
「憚りながら兄上に、私がご意見申し上げます。
内府がどれだけ懇切だったとしても、それは太閤の御恩に及ぶものではありません。
また本多中務と縁者のよしみがあっても、それは私的な関係であり、公儀の事ではありません。
また、上方の軍が敗れたと時は父上と私の身命の危うきを救って下さるとのことですが、
おおよそ戦場に臨みて功なき時は、将より士卒に至るまで、必ず戦死する事となります。
然らば、父上と私が存命かどうかも計り難い。

それに御苗字のために内府に属すると言われるのも、あまりに難しい御思案です。
秀頼公のために一家尽く滅んでも、ご先祖への不孝とはならないでしょう。

事新しい儀ではありますが、天正年中に父上と内府が不和となった時、一旦は当家の武功によって
徳川家の軍勢を切り崩しました。しかし徳川、北条が手を結び、重ねて大軍によって攻められれば、
籠城も危うい状況であったのに、太閤の御下知によって和談と成りました。この時は上杉も、
越後より後詰を出されました。これらは浅からぬ恩義ではないのでしょうか!?

それ以降豊臣家の旗下に属すること十余年です。これで君恩を忘れ、景勝殿の志を捨て、
内府の味方をするというのは、人たる道ではありません!
兄上は御若年より器量も人に優れ、戦功も立てられた、一廉の御用に立たれる人なのに、
それがむざむざと敵になる事、残念至極です!」

これに信幸は大いに立腹し
「父上に先立って無用のことを言うのみならず、内府の旗下に属する者は人たる道に非ずなどと、
妄に私を軽んじ讒るとは!今一言を出すにおいては、即時に討って捨てる!」
そう太刀の柄に手をかけると、左衛門佐は少しも動ぜず返答した

「私は豊臣家のために死のうと思っている生命なのですから、ここにて御手にかけられる事、
御免あるべし。」

ここで昌幸が間に入り二人を制して
「伊豆守が言うことを考えたが、一応その理無きにしも非ずだ。秀頼公の御大事も、今回に
限ったことではあるまい。ただ自分の望みに従って、内府の味方をせよ。」

そう打ち解けて、免した。こうして伊豆守はここから徳川秀忠の手に属し、安房守・左衛門佐と
別れたのである。
(新東鑑)




真田幸村は近在の百姓たちに

2016年05月02日 17:56


661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 21:08:06.92 ID:GXYtd421
関ヶ原後、流罪と成った真田幸村が紀州高野山の麓、渋田という場所の禿(かむろ)の宿に
潜居していた時、近在の百姓たちに金銀を貸し与えていた。

そんな幸村が豊臣秀頼の招きに応じて大阪に籠ろうとする時、彼が銀子を貸し与えていた
百姓たちを呼び寄せ、こう申し渡した

「私は今度、大阪の御招きによって入城することに成った。よって今後、そなたたちと再会することは
計り難い。
お前たちには去る慶長五年の冬より久しく相馴染みたれば、今は実に名残惜しい。
今度は天下の軍勢を向かえての合戦であるから、運を開く事はとても難しいであろう。
なのでただ、義の為に討ち死にを志すばかりである。

であれば、今更預け置いた金銀を返してもらっても、何にも成らない。
万が一にも勝利して、秀頼校が天下の主とならば、私はともがらの富貴を求めるまでもなく
富貴に至らしめるだろう。

各々は年来の馴染みであるから、その金銀は返してもらうに及ばない。」

そう言って、彼らの目の前でその証文を尽く焼き捨てた。

百姓たちはこれに感じ入り、拝伏して恩を謝した。
この事によって、禿近隣の土民たちは大阪に加担したのだという。
真田幸村という人はこのように、良く人情を知って彼らを感じ入らせる者であったと伝わる。

(慶元記)




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 23:40:33.88 ID:O5SgVsgF
>>661
幸村じゃなくて信繁ね

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 23:58:14.98 ID:gWM6M/E4
兄貴から仕送り受けてる分際で金貸しかよ

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 00:21:45.15 ID:qUUxIBXi
>>662
「幸村」の逸話として使わっているのなら、幸村でよい。
信繁でなく幸村として伝わっている時点で、江戸時代が始まった後の逸話とわかる。

このスレで考えるべきは、「事実に合っているか」でなく「どうしてそういう逸話が生まれたか」だよ。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 00:48:44.54 ID:Qh5wzMBH
お兄ちゃんから金借りてるくせにいい人ぶって人に金貸すとかとことん信繁はクズだな
いい話でもなんでもないだろこんなの

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 02:14:56.04 ID:cnfJL4OU
大河みて思ったけど信繁って老け顔だったの?まだ廿くらいと思ってたが

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 02:22:40.70 ID:cnfJL4OU
>>664
原文ママ、とか書いておけばいらぬ誤解を招かなくて済むね
現代語訳されてたら分かりやすい名にしたのかもと思う人もいるし

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 03:07:05.25 ID:TEIuaXFM
義の為()人情()
兄貴に金の無心するしか脳がない無能がなに言ってんのやら…

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 05:28:44.61 ID:bLtPv79l
真田関連の話が出るたびに思うが
親父とこの弟に囲まれながら
兄貴はよくあんな長生き出来たな
そのストレスがなければ200年ぐらい生きたんじゃねえの

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 06:42:49.63 ID:G8HDWN8M
ヒキニートが兄の金を使って詐欺をする話に近いなw

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 07:50:41.87 ID:RhJTHYdf
信繁じゃなくてお兄ちゃんのいい話だな
流石お兄ちゃんw

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:45:24.99 ID:zJtsB6dp
>>670
ひょっとすると胃が痛くなるようなストレスから解放された反動で
あれだけ長生きしたのかも知れん

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:48:14.30 ID:j/3s0OIp
お兄ちゃんは心労で寿命半ばで亡くなったんだ

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:55:26.58 ID:eJp4EjAV
>>670
おい、鬼嫁を忘れているぞ!

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 10:07:29.48 ID:cnfJL4OU
志半で倒れた隆元が偲ばれるで

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 22:02:30.95 ID:mhCM9B4I
>>661
禿って今の学文路?

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 23:23:14.45 ID:Qh5wzMBH
みんなお兄ちゃんの話しかしてなくてワロタw
やっぱりお兄ちゃんは愛されてるな…w

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 08:55:56.62 ID:0KlKkSVY
>>661
孟嘗君の食客、馮驩が元ネタだな

【雑談】幸村になっちゃった経緯

2016年04月20日 17:29

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 10:18:28.26 ID:0hzWkX3H
ここまで来ると信繁なのに幸村になっちゃった経緯が知りたいなあ
やっぱ憚かる意図でもあるのかな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 18:59:20.57 ID:WqevE3tP
「幸」の字はともかく「村」の字はなにか由来があるんだろうか
実名に使われることのない字ではないようなんだけど、なんとなく気になる

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 19:32:59.50 ID:9VC/ICMp
>>551
徳川に仇なす「村正」から取った、と以前TVでやってた。

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 19:38:26.76 ID:l9K9toaz
>>552
村正云々は、「幸村」という諱が出てきた難波戦記の成立よりもっと後の時代に出来た話だな。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 22:23:10.92 ID:2jFexQYU
村の字使った名前はこれ以前から見かける気がするが

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 23:49:51.90 ID:dLfZ/8TK
赤松義村、浦上村宗か

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 02:58:45.77 ID:VOlUpwvC
伊達家にもある

伝に曰く、真田左衛門佐幸村は

2016年04月18日 19:08

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 17:52:09.61 ID:FNLmB20G
伝に曰く、真田左衛門佐幸村は真田安房守昌幸の次男であり、兄は伊豆守信之という関東伺候の
大名である。幸村は父の昌幸とともに石田三成に与し、信州上田城に在った。
関ヶ原の時、将軍家(秀忠)は東山道を上っていたが、その道を塞いだため、将軍家は
五万騎あまりにてこれを攻めたが、幸村父子は八百人で能く防ぎ、終に落城しなかった。
そのため将軍家は伊豆守信之、および森右近大夫(忠政)を以ってこの城の押さえとして置き、
自身は上ったが、これによって関ヶ原の合戦には間に合わなかった。

その後上田城は兵糧が尽きて城を明け渡した。この時将軍家は、大切な合戦に遅れたのは
真田父子の為であるのだから、かの父子を死罪にも仰せ付けたいと思っていた。
しかし大御所(家康)はこう言った

「彼らが当家に敵対することは、既に野州の小山において、信之を義絶し私にも断って
西軍に与したのだ。その様は誠に豪傑の士である。現在、誰が彼らに比肩するだろうか?
また、信之の奉公の労にも代えて、先ずそのままに差し置くべし。
年を経て招けば、また来ることもあるだろう。」

こうして昌幸父子は紀州高野の内、九度山の麓の宿に潜居したが、常に、もし豊臣秀頼と
関東との合戦があれば大阪に与して関東を滅ぼすことを志していた。しかし昌幸は慶長15年に
死去し、それ以後は幸村一人ここに在ったが、この度秀頼より『早々に入城すべし。一方の大将に
付け、利運の上は信州一国を与える』との招きを受け、幸村は畏まって籠城した。

この幸村は良将であった。もし、彼の諫言が用いられ鍛錬調っていたなら、関東にとっても
困難なことになったであろうが、大野渡辺の如き未熟者のために、せっかくの幸村の良策も
遂に皆、徒となったのである。惜しい哉。

(慶元記)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 18:44:21.06 ID:1WhIiklT
>>540
へえー家康がどうしても死罪にしたいって言うのを、忠勝他が身を張って止めた逸話の方が有名だが

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 21:21:30.22 ID:I9wKNc0i
>>541
この話もその話も嘘だよ。
実際は真田昌幸程度だと流罪が妥当。
徳川方の被害もたいしたことなかったし。

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 22:13:17.31 ID:1x/2qN4b
>>543
悪い話ダナー

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 22:22:34.83 ID:noPVwmW4
もう、真田幸村で定着しちゃってるんだな

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 08:11:06.26 ID:/FGASa5h
「幸村」って名前で出てくる時点で話に信憑性がないよね


548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 12:42:49.99 ID:7l9E/FCE
真田昌幸本人も本多正信が動いてくれてるからじき赦免されるだろと軽く考えてるから
流罪で妥当、十分重い刑という認識だからね。ただ赦免は結局かなわなかったが。
そして家康の意向を受けてるあるいは影響を与えられる正信が動いて好感触でも反故って事は
正信-家康ラインの外からの横槍があったと考えられ第一候補は将軍となる
大坂の陣で関ヶ原がトラウマになってる事を窺わせる書状と併せて考えれば
死罪は無いにしても秀忠激おこはあっただろうなとつらつらと

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 13:02:46.52 ID:xIAoJ1OI
天正壬午の乱を思えば初陣さんには無理げー

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 15:23:07.70 ID:ImIZUG93
逸話スレ見てると秀忠は賞罰に私情を挟むタイプではない気もするから、横槍を入れるとしたら将軍側近で親子で痛い目に合わされた大久保忠隣の方がありそう。
で、面子を潰された正信の讒言で大久保長安事件が…と妄想してみた。

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 07:05:37.96 ID:DCj7IRhz
>>546
ここは逸話の中身の信ぴょう性なんてどうでもいいスレだよ。
投稿者が自作した逸話はノーサンキューだけど。

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 10:48:42.16 ID:9ODF2SZe
>>548
話聞かないけど昌幸って本多正信と交誼でもあったんかね?

【お知らせ】特別展『仙台真田氏の名宝Ⅲ』開催

2015年04月16日 17:53

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/15(水) 21:44:19.62 ID:9lRNCHZ+
真田幸村の甲冑は黒かった!?特別展『仙台真田氏の名宝Ⅲ』開催

戦国武将の真田幸村と子孫が残した逸品を紹介する特別展「仙台真田氏の名宝?」(蔵王町、町教委主催)が、同町のございんホールで開かれている。

http://www.zao-machi.com/wordpress/wp-content/uploads/2015/04/587dea111f9228b03a476d5b35eb68b81.jpg
587dea111f9228b03a476d5b35eb68b81[1]


幸村から数えて14代目当主の真田徹さん(66)=東京=が所蔵する15点を展示。
幸村が使ったと伝わる甲冑(かっちゅう)ややり、軍扇、六文銭旗など貴重な史料が並ぶ。

中でも、大坂冬の陣(1614年)の陣立て図は初公開。幸村が大坂城に築いた出城「真田丸」や徳川、豊臣両軍の諸将の配置が描かれている。

幸村は翌15年の大坂夏の陣で、一戦を交えた仙台藩重臣で白石城主の片倉小十郎重長に、子女をひそかに託した。
次男の大八は片倉守信と名乗り、現在の蔵王町東部に領地を与えられた。町は守信の子孫を「仙台真田氏」と称し、PRに力を入れている。

特別展は7月26日(原則月曜休館)まで。午前9時~午後5時。入場無料。




真田幸村の知恵の地蔵尊

2014年11月06日 18:53

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 13:19:52.11 ID:01rBm0fR
真田幸村の知恵の地蔵尊 石の半跏座像

寛政六年(一七九四)高松神明宮宝性院の社僧が紀伊国(和歌山県)の
伽羅陀山善名称院(真田庵)に安置してあった真田幸村の念持仏を拝領して
持ち帰り、三間四面の地蔵堂を立て、『幸村の知恵の地蔵尊』としておまつりしました。
地蔵堂の台石をさすり、子達の頭をなでると知恵を授かると信仰されています。

京都市高松神明神社由緒略記より抜粋

高松神明神社は九百二十一年創建の源高明親王の高松殿旧跡の社で永禄八年(一五六五)に
宥玉法印が社僧となり「神明宮宝性院」と号し、真言宗東寺宝菩提院に属することになりました。

家人が京都出張の際、十月の例祭に行き逢い、御由緒を持ち帰りましたので転記しました。
「念持仏というから小さいかと思ったら、普通の大きさのお地蔵様だったよ」との家人の言葉でした。



162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 19:06:44.97 ID:LdCDcq7/
>>160
高松神明宮宝性院、社僧という字句に神仏習合を感じるね

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 21:54:15.85 ID:/xgbgvQM
鬼の様なる~の歌があるから猛将イメージだったのかなと思いきや
江戸時代でも知将(知勇兼備?)のイメージだったんだな

ある本によると、真田左衛門佐は

2013年10月12日 19:11

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/12(土) 18:36:53.28 ID:GL7O1lDq
ある本によると、真田左衛門佐は茶臼山の出先に屯したが、子息大助を呼び、
「其の方は昨日の一戦で負傷したから望ましい働きは叶うまい。それに思う仔細が
あるから、其の方は今のうちに御城に帰り、御前の御先途を見奉れ」と言った。

しかし、大助は「戦の始まる直前にそのようなことをするのは本意ではありません。
父君と死をともにしたく思います」と承知しないので、左衛門佐は大助を近くに
呼び寄せ、何やら申し含めた。

すると大助は伏してすぐに馬に乗ろうとしたが、父の方を見遣り続けて、離別の情は
切なるものであったので、左衛門佐が近臣をもって心強く言い遣ると、大助はこれに
励まされて馬を乗り出した。

それでも大助は幾度となく父を見返って城へ帰った。衆人は父子の別れを見て、
涙を流さない者はいなかったという。

ある記によると、真田左衛門佐は「秀頼公の御出馬を急がせるべし」と、大野治長
示し合わせて城中に帰し、なおも「御出馬を急いで勧め奉れ」と大助を帰した。

それを知らない士卒らは「大野も城中に逃げ入り、真田は味方の負けを知って
我が子を城へ帰した」と言ったという。

――『新東鑑』






真田信之・幸村兄弟の、噛み合わぬ意識

2013年03月01日 20:11

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/01(金) 00:02:30.46 ID:5c9UZQ3g
大阪冬の陣が始まろうという時、大御所徳川家康は真田幸村が大阪に入城したことを知り、
その兄である伊豆守信之に、駿府での留守居を命じた。
この事を信之は大変不本意に思い、家康に対し様々なお断りを申し上げた。

この頃信之は書によって再三、幸村へ異見をなしていた。

『父祖のため家のため、である。
去る庚子の乱(関ヶ原)の時には、私の身の上に変えて其の方の命を助けたのだ。
今もしお前がその時の恩義を思うのなら、速やかに切腹をすべし。
お前の息子の大介のことは、私が責任をもって引き受ける。』

しかし、幸村からの返事はなかった。

その後に、幸村は信之の家臣である木村縫殿を密かに呼び、大阪城内の
一室において密会し、このように語った

「私がこの大阪城にあるのは、父上の遺言を守ったというだけではない。兄上への恩義も考えた
上なのである。

今回の合戦で、秀頼公がもし御運が開かれることになれば、私には一国を給うという御証文を
頂いている。私が仮に功を立てて一国を拝領したとしても、それを我が嫡子大介に与えようなどと
考えてはいない。兄上の子である河内(信吉)と内記(信政)の両人の内一人を我が養子とし、これに
一国を与えて先年、我が一命を助けていただいた厚恩を謝せんと思っているのだ。

であるからして、私がこの城に入った事は自分の栄達を思ってのことではない。
また家康公の方でも、私が敵対したからといって兄上の領地を削るということもないであろう。

こういうつもりで私は籠城に及んだのだ。お前は帰って、この旨を兄上に伝えてほしい。
しかし、重ねてここに来ることはならぬぞ!」

そう言って木村を返したそうである。
(慶元記)

真田信之・幸村兄弟の、噛み合わぬ意識をよく表わした逸話である。




790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/01(金) 10:33:35.10 ID:SKX271fp
>783
東のお兄ちゃんの胃がキリキリと。w

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/01(金) 13:50:05.90 ID:gOOxG2rY
>>783
KYな弟が言う事を聞いてもその嫡男を抱えて胃痛が進行してたんだなw


ニュース・真田幸村の最期に新説

2013年02月25日 20:04

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 14:43:41.26 ID:TsXrrAwh
【歴史】真田幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1361759516/
知らないほうが良い真実もある(´・ω・`)

記事内容
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130225-00000041-yom-soci
幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見
読売新聞 2月25日(月)8時52分配信
 1615年の大坂夏の陣で戦死した武将・真田幸村の最期を記した覚書が、越前松平家に伝わる古文書集「松平文庫」(福井県立図書館保管)から見つかった。

 同家の家臣と戦って討ち取られたと記されており、戦わずして首を差し出したとの定説を否定する新説だ。

 幸村は、大坂夏の陣で徳川軍の本陣に迫って家康を窮地に追い込み、「日本一の兵(つわもの)」と呼ばれた。覚書は、徳川方で参戦した、のちの福井藩主・松平忠昌の戦功を記しており、福井市立郷土歴史博物館が昨夏、文献調査で発見した。

 幸村の最期は「もう戦う気はない。手柄にせよ」と、のちの福井藩士、西尾仁左衛門に首を差し出したとする逸話が知られており、徳川幕府の史料にも残る。

 だが、覚書では、仁左衛門が、相手を幸村と知らないまま槍(やり)で戦い、討ち取ったと記述。後に、家臣が陣中見舞いに来て、幸村の首とわかったとしている。


725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 14:53:49.58 ID:/97hQ0OF
新説か?
西尾と家康の逸話とほとんど変わらないのでは

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 15:00:28.46 ID:uAs2KXnD
西尾仁左衛門の黙して語らぬ話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3009.html

真田地蔵・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-682.html

ってことで、西尾仁左衛門の主張したとされることすら諸説ある。
越前松平家の古文書には徳川実記にあった西尾の主張が記録されていると
考えれば、>>725の言うように、逸話とほとんど変わらないことになる。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 20:19:33.15 ID:6fs5PM93
>>724
逆に首差し出したってのが初耳っすw世間じゃそっちが有力だったん?

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 09:16:16.55 ID:kGSI/mDu
>>728
真田太平記はこれじゃなかったか?
草刈さんが手柄にせよとか言ってたような記憶が

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 12:45:08.83 ID:Cf0AGfZk
>>743
池波正太郎には勝てんな。
鬼平犯科帳の飯が旨そうで困る・・・。

雑談・真田の赤備え、など

2012年10月07日 19:17

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 08:40:48.04 ID:Mr3L9O4/

ところで夏の陣の真田の赤備えって本当だったとは思えんのだけど、どうなんだろうか。

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 09:26:03.35 ID:xJuRG1Rg
おまえはまず本を読むとこから始めような

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 09:48:45.60 ID:Kkw/U4ck
定説に反論するには根拠必要

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 10:53:22.48 ID:o/ss4l/M
逸話スレで真贋論争はほどほどに

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 14:56:47.96 ID:M7nVJyIO
>>767
真田は冬の陣では赤備えじゃなかったのか

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 15:13:47.07 ID:1j1V+xgS
兄ちゃんと甥っ子に遠慮して赤備えと六文銭は使ってないんじゃなかったか?

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 15:31:38.43 ID:5gw7IzgQ
>>775
そもそも真田赤備えって幸村が夏の陣で初めて起用したんだが
兄ちゃんと甥っ子って赤備えに関係無いと思うわ


778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 15:57:07.55 ID:fZ775mmH
そういや真田信尹は大坂の陣では深沢城攻めの時に手に入れた「地黄八幡」の旗を使っていたらしい。
ひょっとして「地黄八幡」が戦場に翻ったのはこれが最後?
北条氏長も使ったんだろうか。

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 16:05:58.06 ID:5gw7IzgQ
しかしどこから何千もの兵の具足を赤備えにする金が出たんだろ
しかも冬の陣から夏の陣の間に短い期間に用意するとは講和後でも戦争する気満々w

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 16:08:53.37 ID:M7nVJyIO
当時、赤の染料ってすごく高いんだよな

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 16:31:20.70 ID:Kkw/U4ck
大阪が出した支度金じゃないの

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 16:36:06.83 ID:5gw7IzgQ
いや、だって金が無くて浪人を解放出来なかったわけでしょ

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 16:45:58.23 ID:yrJNPUk5
信繁書状の中に豊臣に優遇されて有難いけど妬みも多くて大変とかいってる記述があるな

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 16:47:42.52 ID:jYy4TFp5
真田信繁が何で自分の部隊を赤備えにしたのかは全く謎だけど、
真田丸といい、自己アピールに相当長けていたフシが見受けられる。
自分の実力に自信もあったのだろうね。

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 16:52:19.27 ID:5gw7IzgQ
大坂が出した支度金なら冬の陣後にその金を豊臣に返すって事は出来なったのかな
幸村っつうか信繁は負ける事は解っていたというから
冬の陣後は自ら豊臣を滅亡に導いたと余計にそう思えてならない

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 17:00:42.92 ID:yrJNPUk5
>>784
自己アピール云々の前に大坂方の深刻な人材不足があったわけで
世間を見渡せば実績的にはたいしたことが無いように見える真田信繁が
前面に立たなければいけない。豊臣もそうせざるを得ない現実がまずあったと

787 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/07(日) 17:24:18.32 ID:2wOVsIrz
命の価値など六文銭よ
真田日本一の兵ここにあり

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 17:31:22.32 ID:3BAH6LCn
無様に敗死した負け犬共も
時代が経てば英雄化


789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 17:32:29.31 ID:w7aKg7Vr
>>787
>命の価値など六文銭よ

六文銭の意味違うし...(´・ω・`)

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 17:44:02.22 ID:2wOVsIrz
>>789
三途の川の渡し料金でしょ
知ってるよ
だいたい同じような意味だと思う

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 17:44:54.68 ID:gPSMz+xY
信長の命の価値は一文銭

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 17:58:07.93 ID:DYe0YDIK
>>734,736
厨二病の治し方だったのかこれw

>>780
黒もウルシだと高いのでは

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 18:07:50.39 ID:8IZYRcB+
水滸伝の李逵は
親「うちの娘に妖怪がとりついていてるんです」
李逵「よっしゃ、任せとけ…てなんだ、妖怪がとりついてるふりして親を寄せ付けず、
男を引っ張り込んでたんじゃねえか
ヒャッハー男共々殺してやるぜ」
親「あ、なんてことを…殺す必要なんてなかったでしょうに」
李逵「うるせー、妖怪退治してやったんだから金は貰ってくぜ。ついでにごちそうしろよな!」

似てるような違うような

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 18:07:59.40 ID:Kkw/U4ck
大阪方は落城の時点でも十二分に金銀あったよ
数字は失念したが

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 18:31:40.01 ID:o/ss4l/M
>>794
金28,060枚、銀24,000枚が焼け跡から回収されたそうな

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 19:01:05.45 ID:5gw7IzgQ
金が無くて浪人を解放出来なかったわけじゃないんだ

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 19:05:27.36 ID:qXWg96nB
>>796
むしろ金があったので牢人が離れなかった。
大阪離れたら流浪しかない連中だから。
[ 続きを読む ]

『幸村の実像』

2012年08月10日 21:41

949 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/08/09(木) 20:16:51.18 ID:Jnst0NbO
『幸村の実像』

講談やゲームの影響で美形と思われがちの真田幸村だが久度山から国元に送った手紙に「去年からにわかに歳をとり身体も弱くなり歯も抜けました。髪も白くなりました。」と言っている。
また、大阪城内で幸村を見た者が「真田左衛門佐は四十四、五に見えた。額に二、三寸の傷があり小兵な人だった」と言っている。
(長沢聞書)

つまりこの板の住人周知の通り初老の醜男だったのだ。
また、娘の身を案じる手紙、姉に宛てた手紙など数多く残しており心優しい人であったことが察せられる。

では伝説的な武勇はどうか。
幸村を評する手紙が二人の大名によって残っている。

「真田左衛門佐、合戦場にて討死。古今にこれなき大手柄。首は越前宰相殿鉄砲頭取り申し候。さりながら、手負ひ候いて、くたびれ伏して居られ候を取り候に付、手柄にもならず候」
細川忠興

「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門佐仕かかり候いて、御陣衆を追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどづつ逃げ候衆は、皆々生き残られ候、三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵、いにしえよりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申すことに候」
(島津某・たぶん家久)

日本最強の大名の一つと言われる島津家に日本一の兵と称されている。

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 20:25:04.67 ID:2zdOeasM
でその「日本一の兵」だがwikiには

>島津忠恒(ただし、この戦いに島津氏は参加しておらず、伝聞から信繁の奮戦ぶりを推測して話した)
>「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。
>御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵。
>古よりの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。」注[12]

>注[12] 薩藩旧記雑録(伊地知季安著、明治30年完成)に収録されるとするが、
薩摩藩士の得能通昭著(宝暦8年)島津久光写(天保13年)の島津編年史の『西藩野史』
(『西藩野史』鹿児島私立教育会 明治29年 国会図書館 近代デジタルライブラリ)では、
大坂の陣における真田の記述は一切なく、当然、島津家久の発言もない。

となっているわけで(真田信繁をディスる気持ちはない)




951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 21:25:41.97 ID:gz1TSNYd
細川忠興の文章って後藤基次も賞賛してなかったっけ?

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 21:40:57.78 ID:2jLWQZvi
幸村をあげるのはそんな強い奴に勝った徳川はさらにすげえってことにしたいだけ

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 21:46:11.35 ID:ayM7CWMo
>>952
まあそうにしても、何で「幸村」が選ばれたのかも謎なんだよなw
そもそも「幸村」って名前もどこから来たのか謎だが。

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 21:46:53.45 ID:xE8G+nBm
そういう立場に選ばれたってこと自体が
一定以上の評価はあったことの証拠になるんでね

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 21:49:38.16 ID:e8TeZ/K+
徳川ageの為とは言っても雑魚じゃ持ち上げてもかえって皮肉めいちゃうしな

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 21:51:33.40 ID:g2ezj/r4
義経さんも判官贔屓の代表格だけど戦の天才であることは疑いないからな。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:04:45.46 ID:gz1TSNYd
というか信繁は冬の陣の活躍を自ら大げさにアピールしてたみたい
どっかの研究本では後藤基次の部下が、出丸の戦いでは真田の他に
長宗我部も活躍したんだっていう証言をしてたと書かれていた

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:11:52.88 ID:RKCgMTMz
>>949
それ、実年齢(48,9)より若く見えたってことでは

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:14:21.30 ID:9yi8ay1P
岩見重太郎という人気豪傑となった橘武者さんよりはましだと思う

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:16:45.99 ID:e8TeZ/K+
>>957
そりゃまぁ、真田信繁ここにあり!と天下にアピールして
華々しく活躍して後は討ち死にすりゃいいやって思ってるような状態だから
自分の活躍は大いにアピールするわな
そういう意味では信繁は後藤、長宗我部、明石、毛利といった
名だたる連中を凌ぐ名声を手に入れたんだから
情報戦で勝利したと言えなくも無い

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:20:06.34 ID:ayM7CWMo
まあ正直な所、上手く講和をして生き残りたかった豊臣家にとっては迷惑極まりない
存在でもあっただろうね。条件闘争の場を自分のオンステージにしちゃうんだものw

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:29:37.07 ID:gz1TSNYd
>>958
信繁の実年齢って実際はそのまんまみたいだよ
理由はそのままだと元服が遅すぎるという矛盾と
49という享年は講談がはやり始めてからの史料しか載ってない情報の事など

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:41:21.70 ID:G8q1lgcT
>>951
たしか真田だけじゃなく後藤や明石も賞賛している

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:43:39.14 ID:FTokgxxo
>>953
十勇士からしておそらく山中幸盛(ゆきもり)からだろうと思われ。
やってることがどことなく似ているし。

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:46:38.23 ID:seYMkW8B
細川忠興が後藤又兵衛を賞賛する理由って
NGMSへのあてつけの気がしないでもない

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:48:44.41 ID:gz1TSNYd
>>965
なるほど

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 22:53:30.90 ID:VqAOPgdZ
死の直前に書いた幸村署名の書状の写しと
子孫の家でも記述は幸村であり信繁名が使われていないから幸村の本名は幸村
って真田幸村の実名は幸村だった スレで言ってた。

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:07:30.18 ID:seYMkW8B
>>949
細川忠興「古今これなき大手柄」
島津忠恒「日の本一の兵」
伊達政宗「子女はわしが引き取る」

あれ、この人たちって

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:08:56.18 ID:Ni9BpR7B
>>968
???「肝心な人がいない・・・おかしい・・・こんなことは許されない」

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:13:20.46 ID:UlLtdoWF
>>961
幾ら講和したくても相手が端からToyotomi delenda est.ちうて吹っかけて来てるから
それなりに暴れてアピールもせんと交渉のテーブルにもついてくれんだろうけどね

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:16:08.71 ID:gz1TSNYd
>>967
あれは花印がないからそれ以前の問題

>>968
伊達家のは結構あやしげなんだよなぁ

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:18:11.19 ID:RKCgMTMz
>>962
そういう説もあるのか。
で、特に反論したいとかではないんだけど単純に気になるのは
講談でわざわざ爺化させて何が嬉しいのか(人間50年的な演出?)
それと、1567年生まれの場合武田滅亡→真田スーパー綱渡り→そのまま人質
でぶっちゃけ捨て駒気味の次男の元服なんぞ放置されてた可能性とかw

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:20:14.14 ID:2zdOeasM
>>969
出浦盛清「あなたからもらった脇差、真田家で評判だよ」

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:22:56.73 ID:e8TeZ/K+
>>972
真面目な話、あの時期は急転直下の動乱期だから
元服が大いに遅れた可能性は十分あると思うが

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:23:27.84 ID:gz1TSNYd
>>972
ぶっちゃけ好敵手とされている伊達政宗の年齢と合わせたものと思われる
大谷吉継や明智光秀と似たようなもの

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:33:28.86 ID:e8TeZ/K+
>>968
三歳「真田マジパネェ!手紙に書くしかねぇだろ」
悪久「大御所の陣崩すとかマジかよ…。日本最強じゃね?すごくね?(まぁ俺は被害受けてねーし」
政宗「気に入った。うちに来て小十郎ファックしていいぞ!」

何かこんなノリな気がしてならない

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/09(木) 23:44:29.60 ID:PnVeyMfH
>>972
お市と同じようなもんだと思うよ