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「武家閑談」真田信繁の大坂城入城

2023年02月02日 19:58

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/02(木) 19:32:25.06 ID:y38eWKJL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-476.html
の元だと思われる
武家閑談」真田信繁の大坂城入城

真田は大坂に着き、その身のまま大野修理(大野治長)殿のところに行く。
その頃は伝心月沢として薙髪であり、玄関で案内を乞うた。
奏者が出てきて「山伏はどこから来た?」と尋ねてきたので
真田はわざと「大峯辺の山伏であります。御祈祷の巻数を持参いたしましたので御目見を願います」と言った。
奏者は「殿は城におられるのでこちらに通るがいい」と番列の脇に呼び入れられた。
御目見を待つ若侍たちが十人ばかりいて、刀剣の目利きをしていた。
一人が真田に向かい「御僧の刀を見せてくれぬか?」と言ったため
真田は「ただの山伏の犬おどしの刀ですのでなかなかお目にかける必要もありますまいが、お慰みになれば」と取り出した。
するりと抜いて柄を見れば、格好は申すにおよばず、刀の匂いも艶があった。
若侍たちは「さてもさても見事なり」と口々にほめ、「中小身はどうだろう」と銘を見ると「貞宗刀匠正宗」とあり、「中小身も見事だ」と言いあった。
ここで皆々怪しみ、さては只者ではないだろう、と思っているところに大野修理殿が城より帰った。
奏者が「玄関にて御目見なさってください」と待っていたものたちを引き出してきた。
大野は真田の前に手をついて「近日お越しになるとは伺っておりましたが、御足労くださったとは。
いそいで城に戻り秀頼公のお耳に入れましょう。どうぞ舎院にお入りください」と言って城に馳せ戻った。
さて秀頼公より速見甲斐守(速水守久)が使いとして馳せ参じ、黄金二百枚、銀三十貫目を下された。
これを見た玄関の若侍どもはあきれかえった。
真田はおかしがったため、そののちその若侍たちに会っては「刀の目利きは当たっていたようだな」と言うと、皆赤面したという。




611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/03(金) 11:53:24.30 ID:+VrU+S7l
わざわざ正体を隠すとは性格が捻じ曲がった奴だな
そんなクズでも正体を見破り粛々と対応した修理はさすがだ

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/03(金) 14:34:43.05 ID:LD9TP4LV
いきなり真田左衛門佐であるといったとこで、顔を知ってる分けない衛士たちが、はいそうですかと通すわけもなく、軽く弄うてやろうとなるのは仕方ないんじゃないかな
話を作った人はそう考えたんだろう
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「武家閑談」から真田信繁の九度山脱出

2023年02月01日 19:48

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/01(水) 18:55:20.52 ID:+Gwn3Mrn
武家閑談」から真田信繁の九度山脱出

真田左衛門佐幸村(真田信繁)は父安房守昌幸といっしょに高野山九度山に配流され、昌幸は慶長の末に死んだ。
左衛門佐は一人九度山に住んでいたが、大坂の陣の初め、秀頼公より大野修理亮治長が承り、大坂城に籠れという御言葉を賜ったため支度した。
紀伊国守の浅野但馬守長晟は橋本峠村近辺の百姓どもに下知し
「世上の噂に、真田左衛門佐が大坂への返事をしたと聞く。油断あるまじき」と触れを出した。
高野山学匠ならびに宗徒にも九度山からの遁人監視を申し付けた。
真田幸村は九度山近辺、橋本峠、橋谷の庄屋から小百姓にいたるまで残らず振舞おうと触れをまわし、九度山に招いた。
数百人の並いる者たちに対しさまざまに饗応し、酒を出し、上戸も下戸も問わず酒を強いること斜めならず、皆酔って臥せて前後不覚となった。
この時、百姓どもが乗ってきた馬に荷をつけ、妻子を乗物に打ち乗せ、上下百余で弓鉄砲を持って押し立て、紀ノ川を渡り、橋本峠、橋谷を通り、木目津を越し、河内に入り、大坂にむかって行った。
道筋の百姓どもは残らず九度山に行って酔い臥していたため、残っていたのは女子供だけであった。
しかも真田は槍や刀を抜き、鉄砲に火縄をさしていたため、とうてい止められるものではなかった。
さて百姓たちは明け方に酔いから醒めたが、見れば宿屋には一人もおらず、雑具まで取り払われ跡形もなかった。
これは出し抜かれたと東西を尋ねたが、昨晩のうちに立ち退いたため追いつくはずもなかった。
橋本峠、橋谷の己の家に帰り、家族に尋ねると
「昨夜の八つ時に真田殿が奥方や子連れで馬に荷をつけ、弓鉄砲を押し立てて河内の方へさして行きました」
と告げたため、百姓どもはみな頭を掻いたがどうにもしようがなかった。



士たる者は、平生より

2022年06月27日 16:03

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/26(日) 22:05:18.83 ID:mmbd0jN2
真田左衛門佐信仍(信繁)(本書に、世に幸村と云うは誤りなりと云々)は、家康公に御敵対申す始めより、
千子村正の大小を常に身を放たず帯していたという。村正の道具は、徳川家に祟るという説を真田が聞いて、
調伏の心としたのであろう。士たる者は、平生よりこのような忠義を含み、心を尽くすべし。

また石田治部少輔(三成)は悪しからざる者である。如何なる人であっても、各々その主人のために
命を軽んじ、義を立てて事を行う者は、敵であっても悪むべきではない。これは君臣共に心得るべき
事である。

これは水戸黄門光圀卿は宣われた事だという。

新東鑑



真田はこの兜を着け、件の馬に乗って

2022年01月26日 17:21

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/26(水) 11:06:52.44 ID:WTGde5Db
記に、この頃武田信玄の家人であった、原田隼人正(一説に貞胤と諱するとあり)という者が在ったが、
勝頼滅亡のあと、浪人していたのを、越前少将(松平)忠直朝臣聞かれ、「彼は無双の剛の者なれな」と、
召し抱えられ、黒母衣の衆に加え軍使とされていたが、彼は真田左衛門佐と旧友であった。

大阪冬の陣が御和談になると、真田は頻りに彼を招いたが、原田は「自分では判断できない。」として
忠直朝臣にお伺いを立てた。忠直は「行って対面すべし。」と許された。

原田隼人正は喜んで、真田の陣屋に至ると、左衛門佐は様々に饗応し、往時などを語り、互いに袖を濡らした。
酒宴も終わると左衛門佐は言った

「それがしは今度討死を遂げるのだと思っていたのだが、不慮の御和睦となり、今日まで命を永らえ。
貴殿と再び見参できたことに悦び入っている。身、不詳では有るが、今回一方の大将を承ったことは、
生前の面目、死期の思い出と存じている。

御和睦も一旦の事であり、遂にはまた一戦があると推量している。
それがしも一両年の間には討死せんと思い定め、臨終の晴に、あそこの床の上に飾り置いた、
鹿の抱角(だきつの)を打った冑だが、あれはそれがしが先祖重代の家宝であるのを、父安房守より
譲り請うたものであり、これを着けて討ち死にを遂げたいと思っている。
もし、この冑をご覧に於いては、それがしの首であると思し召され、一遍の御回向に預かりたい。」

そのように語ると、隼人正はこれを聞いて
「戦場に赴く身は、誰が生き残ろうとするだろうか。遅れ、先立つとも、互いに冥土にて再会すべし。」
と笑った。
その後に、左衛門佐は白河原毛の馬に白鞍に金を以て六文銭を付けたものを曳き出させ、自ら騎乗して
地道を乗りながら、

「今度合戦があれば、城郭は破却されており、平場の戦と成るだろう。然れば平野辺りに駆け出て、
東国の大軍に馳せ合わせ、この馬の息の続く限り戦って討死を遂げようと存じており、そのために一入、
この馬を秘蔵しているのだ。」

と言って馬より下り、また酒宴になり、暮れに及んで隼人正は帰ったが、翌年五月七日、真田は
この兜を着け、件の馬に乗って討ち死にしたことこそ哀れであると云われた。

新東鑑



983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/26(水) 11:16:19.69 ID:ZiC+auCQ
新東鑑の凡例を見ると「記とは難波戦記をさす」とあり
増補難波戦記「禁裏より七箇条を仰出さるる事 并真田幸村原貞胤の事」にほぼ同じ話があるので
出典はそちらの方がいいかと

豊臣家二世にして、亡ぶべき時至る

2022年01月25日 17:00

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/24(月) 20:30:23.62 ID:mtcjsHOY
大阪冬の陣の和睦の時のこと

或る本に、この時真田左衛門佐(信繁)は秀頼公を諌めて

「敵味方、甲冑を脱ぎ万歳を唱えています。
今宵、敵の虚に乗じてこれを討てば勝利必然であり、両御所(家康・秀忠)を打ち取ること、
掌の中です。」

そのような事を申したが、淀殿の仰せに
「今日和議を約したというのに、言下に違変などできるわけがない。」
と、御承引無かった。真田は再々諌めたが、織田有楽、大野修理亮などは頻りにこれを制止した。

そのような中、真田は間諜を以て両将軍の陣営を窺ったが、それによると両御所も予めこれを慮って、
三軍の守りは非常に厳整であり、もし誤って城兵が夜襲すれば、たちまち粉々にされてしまうだろう、
との事であった。

これを聞いて真田も大いに感じ、豊臣家二世にして、亡ぶべき時至るを嘆いたという。

新東鑑



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/24(月) 21:34:08.49 ID:HJjNCmQ0
ええと、つまり真田のこわっぱ程度の悪だくみなど、
神君はまるっとお見通しだったって悪い話?

「真田次第」との御諚を承れば

2021年07月03日 17:32

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/03(土) 11:34:41.30 ID:+DRaKY/T
大阪城に於いて軍評定の時、真田左衛門(信繁)がこう申した

「旧冬の御和議は、至極残念でした。旧冬まではこちら方に心を通じる大名もあったのに、
御和議となり、惣堀まで埋め、皆悉く降参のようになりました。

大御所(家康)は名将であり、衆心を摂り、旧冬の働きも、軽き功を重くし、小さいことでも大きく
感じ給う故、上下ともにいよいよ親しみ付いていまる。

さて又、京、伏見へ発向し、膳所、大津は手勢を遣わし、瀬田の橋を焼き落とし、京、伏見を
確保してしまえば、その内に味方に通じる衆も有るはずですが、味方の密談は敵に漏れており、
この儀も成りません。

野戦をしようにも、味方は小勢であり寄り合い武者ですから、中々勝利は得難いでしょう。
御籠城なさる外に手立て有りません。

であれば、我等はいかにも怯懦の体を示し、それによって『大阪方は臆して戦いに出てこないのだ』と
敵に思わせれば、彼らに驕る心が出来ること必定です。

驕りが出来れば軍法が乱れます。その節を見て、秀頼様が大広間に御出になり、面々に御抔を下され、
御言葉に預かれば、衆心一統し、一戦を望むのは勇士の本意です。
その時、「真田次第」との御諚を承れば、私が両御所(家康・秀忠)の御陣場を見定め、彼らの不意を
突いて、又は夜戦の奇変、それがしの一身の采配にて御座あるべし!」

そう申した所、譜代衆その他、「自分こそ総大将を」と思う輩も多かったため
「真田の只今の言葉、我々を差し置いて総人数の采配は推参至極なり、耳の穢である!」
と謗る故、内輪の破れと成り、互いの権争のため評定不調となった。

管窺武鑑

大阪夏の陣では、みんな総大将をやりたがって方針が纏まらなかった、という話ですね。



安房守の死と大坂の陣の左衛門佐

2020年02月28日 16:37

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 01:22:07.17 ID:eWP8eY2H
或いは云う。真田安房守(昌幸)は大阪の一戦(大坂の陣)の三年前に、高野山の麓、瀬良という場所で病死した。
その死に至ろうという時、息子の左衛門佐(信繁)にこのように語った

「私が今から三年存命していれば、秀頼公へ容易く天下を取って進上すべきものを。」

左衛門佐はこれを聞くと、「いかにして天下が秀頼公に服させるのでしょうか?」と尋ねた。
しかし安房守は
「重病故に、心乱れて筋無き事どもを申してしまった。どうやって、今や乞食同然に成り果てた私が、
天下を取って秀頼公に進上するというのか。」と、答えなかった。

左衛門佐これに
「私に対して御慎みはあるまじき事です。是非、思っておられることを仰せ聞かせて下さい。これは懺悔の御物語とも
なるでしょう。」と、たって所望したため、安房守は

「そういう事であれば、懺悔の物語として聞かせよう。おそらくここ三年の内に、家康は叛逆して軍兵を催し、
秀頼と討ち果たそうとする事は必定、掌の如くである。その時私が存命ならば、人数三戦ばかりを引き連れ勢州
桑名を越えて備えを堅く立てれば、家康は私が数度手並みを見せているので、真田が出向くと聞けば家康も
容易く懸け向かう事は無い。そして暫くこれを相支える内に、太閤の御恩賞の諸大名多ければ、大阪へ馳せ集まる
人も多いであろう。そして家康勢が押しかかって来れば、桑名へ撤退し、また先のように相支え、又押し懸けて
一戦せんとするならば、さらに撤退してそこで支える。そのようにしている内に、こちらは悉く人数が集まるであろう。

さて、我等は勢多まで撤退し、勢多の橋を焼き落とし、こちら側には柵を付けて相支えれば、数日ほども経す内に
畿内の人数が馳せ集まる事、掌の如きである。然らば天下を治めること、手の裏に有り。

…と云うものの、これは皆妄念の戯言である。長物語に、胸が苦しくなった。水を飲もう。」

そう言って水を飲み干すと、そのまま死んだという。

その後、左衛門佐は大阪に籠城した折、安房守の末期の一句の謀術を献案したものの、諸将の評議紛々となり、
その意に任せることが出来なかった。秀頼校も諸将の言に迷い、左衛門佐の申すに任せなかった。

そのような中、左衛門佐が柱にもたれていた所、武見の者来て、「大和口より猛勢が押し入りました。
伊達陸奥守(政宗)です!」と申す所に、また一人来て「陸奥守の勢の跡より猛勢が押し入りました。
越前少将(松平忠直)です!」と報告した。しかし左衛門佐は少しも変わる気色無く、

「よしよし、悉く入り込ませ、一度に打ち殺そう。」

と、さにあらぬ体であったので、諸士、その器量を感じたという。その後、左衛門佐が人数を出した所、伊達の
先手騎馬鉄砲と言って、馬上にて鉄砲を撃つ兵五百騎が、鉄砲を並び立てて、敵の向かってくる所に馬を乗り入れ、
駆け乱た所に、後ろの勢が押し込んで切り崩すという備えであった。
左衛門佐はこれを見て士卒悉くを伏せさせ、鑓衾を作り前に鉄砲を並べて打ち立てさせ、そのしおをみて
一度にどっと、牛起きに起きて突き懸れば、騎馬鉄砲は却って敗軍した。

左衛門佐は勝って兜の緒を締めた。伊達方の兵再び集まり向かって来る間に、左衛門佐は諸卒に下知して曰く
「炎天の事なれば、皆々兜を脱げ」
と言って兜を脱がせたのだ。伊達勢が近々となった時、諸卒は兜を着けようとしたが、左衛門佐はそれを着けさせ
なかった。敵との間が一町の内に及んだ時、
「では兜を着けよ!」
と下知した。その時悉く兜を着けたが、心が金石のように成り、その勢いで切って懸かると、伊達の備えを
切り崩したという。

この他、左衛門佐の数々の軍略は、人の耳口にあまねき事であるので皆記すに及ばず。
大阪合戦で諸将の働き、秀でたる事ども有りと言えども、左衛門佐が第一に秀でていたのは、
その器量ある上に、平生より武術の学びを怠らなかった顕れであると、人皆感ずる事也。

眞田記



頸の周りをよく拭くように

2018年01月19日 17:30

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/18(木) 20:07:18.19 ID:kApnLLZB
真田安房守昌幸の次男、左衛門佐が大阪城に入城した。
幕府は安房守の弟である真田隠岐守信尹を以って、冬の陣和睦の後こう伝えた

『達って我らの方に参るように。然らば大禄が下されるであろう。』

左衛門佐は申した
「最前、高野山にて蟄居の間、私は様々に御家への仕官を望みましたが、御許容有りませんでした。
今回秀頼公に頼まれ、ここに参り籠城したのも、本意ではありません。
また大阪の籠城が、最後には利があると見込んでいるわけでもありません。

しかし、一旦武士が約束仕ったことを違変するのも本意ではありません。
ですので幾度仰せになられても、同心することは出来ません。
もし不義をかまえ、無道を致して降参してしまえば、そんな私に微官微録であっても
下されるのは、そちらにとって益のないことです。
大録を下されると言うのも、私がこの義を守っている故でしょう。」

後に、信尹が左衛門佐を呼び寄せこの事について談じたが、重ねては兎角の返答もなく
「義のある所には、天下にまた天下を添えて賜るとしても、それで心が動かされることではないのです。」
そして
「暑くて汗が出るのです」と、大肌を脱いで小姓に汗を拭かせたが、この時
「頸の周りをよく拭くように。やがて頸となって、家康公に対面するのだからな。」
そう笑いながら言ったという。

(士談)


真田幸村の遺跡付秀頼

2017年03月07日 21:40

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 01:06:36.77 ID:XljhnUxf
真田幸村の遺跡付秀頼

 続編の五巻に、松代侯の物語を記した中に、幸村が薩摩にいたことを言った。
その後薩州の者との文通を見せてきた。

「熊本藩の斎藤孝寿(孝寿は、権之助と称す。細川侯の町奉行。犬追物に精通す。)が甲寅(1794年)に南の方薩摩へ遊行した。
官工の伊正良に刀剣を造らせるためであり、ここに三十日程いた。
かつて私は『豊公秀頼は大坂城を逃れて、西の方薩摩に逃れた。』というのを聞いた。
もしその事があるのなら、必ず墳墓や子孫があるはずだ。
この地で北や南、西から東へ行き広く尋ねたり相談したりして求めたが、
邦の人々は皆知らないと言う。

ところがある人が言った。
『遠く府の南三十里に谿山市という市が有る。
その西隣に一村落が有る。名を木下という。』
たぶんその所だ。私は一日ここへ遊びにいき、近くの諸村老に『豊公の家の跡はあるか』と問うた。
その広さは一段ばかりで、中に二松有る。その大きさは両手で三回抱えるほどであった。
枝葉は霞の中に生い茂り、花の香りは遠近にたちこめている。
ここがまさしく豊公の居た所だ。
その距離東に百歩ばかりに一小堂があり、仏が安置されている。
その側に多くの墳墓がある。そのなかで抜きん出て偉大なものが豊公の墳であろう。
その後ろに墳が有り、すなわち臣僕の墓だという。銘が皆明らかではない。
その廃墟に家にしているものがおり、脇木下という。(本木下は本家で、脇木下は別家という。)
その北へ五・六十歩ぐらいのところの家に住んでいる者が本木下という。

私は秘かに聞いた。
元和の役で、豊臣公は秘かにその臣の真田幸村等と謀り、大坂城で死んだと偽って薩摩に逃げたのだと。
豊臣公は谿山に在り、真田君は頴娃に在ったという。
しかし世人はこれを知られるのを恐れ、よってその名を悔い改めて木下としたと。
これから後世の人は遂に邑の名を木下と言った。
公の人となりは甚だしく肥大で、身長は殆ど六尺。
公は常に都下に往来し、酔えば必ず道路に縦横した。
真田君のなりは役小角の遺風のようだった。これらから今に至っても諺で
谿山(タニヤマ)ノ酔人(エクロ)、頴娃(エノフ)ノ山伏と也云々
(エクロは薩摩の方言で酒酔人を言う。秀頼、薩摩で大酒であったことは前編四巻にも見える。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html
河村宗澹曰く今の番頭役谿山孫右衛門は秀頼の末葉だそうだ。但し、谿山の苗字は多くあるが統は右孫衛門だと話した。)」

 これに拠れば、幸村は大坂で戦死してはいない。大助もまた、第五巻松代侯の話を証拠とすべきだ。
これも生害ではない。また秀頼の容貌もここで知れる。またすでに前編六十一巻にもこのことを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10006.html
通観すべきだ。

(甲子夜話続編)



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 14:26:14.59 ID:vISgFD1K
>>704
>木下
改名がガバガバすぎて草

真田幸村の智謀

2017年01月18日 10:08

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 19:09:15.70 ID:qJMrCMga
真田幸村の智謀

上田籠城の時、織田、徳川、北条の三将、二十余万の大軍を以て百重千重に取り囲み、水も漏らさぬばかりに
ヒシヒシと取り詰め、哀れ上田城は粉々に踏み崩されんとしていた。
これには流石の真田昌幸も、城兵僅かにニ千余り、今は防御の術も尽き、如何にすべきかと思案し、苦慮して
いた所、倅の幸村、当年十四歳であったが、彼が『鶏卵煎り砂の謀計』を考えだした。

彼は鶏卵を二つに割り、中身を取り除いてこの中に煎り砂を入れて合わせ、水に浸した紙を割口に巻いた。
これを数万作り出し、それぞれの櫓に十籠、二十籠づつ取り備え、寄せ手を遅しと待ち構えた。

頃は天正十年三月二十五日の朝(ちなみに実際の第一次上田合戦は天正十三年閏八月である)、
織田徳川北条の軍勢はどっと鬨の声を作り押し寄せ、鉤縄打ち掛け勇みに勇んで攻め立てた。
城中よりは「時分はよし」と、件の鶏卵を合図とともに投げつけた。

兜面頬があっても、当たれば砕け、煎り砂は兵士の眼に入り、さしもの勇者たちも暗夜をたどるに
異ならぬ有様。城中よりはこれをみすまし、「時分は良きぞ」と、松本口の織田勢には真田源次郎(信之か)、
軽井沢口徳川勢には隠岐守信尹、笠ヶ城北条勢へは与三郎幸村、何れも三百余人を率いて鬨を作り
攻めかかれば、盲目に等しい寄せ手の面々は戦うことも出来ず、我も我もと敗走し、同士討ちするものも
あり、踏まれて死ぬものもあって、二十余万の大軍が、雪崩掛かって落とされたのは、たいへん見苦しい
有様であった。

この状況に信長は、如何にすべきかと思慮を巡らしたが、今だ良き工夫もつかぬ所に家康が現れ、
「鶏卵煎り砂の目潰しを防ぐためには、竹束を以て盾とし、鎧の袖を額にかざすより他、術がないでしょう」
そう献策した。
これにより夥しい竹束を用意し、またもや押し寄せた。

しかし幸村は「煎り砂に懲り果てた敵兵は、今度はこれを防ごうと竹束の盾を必ず用意してくるであろう。」
と推察しており、あらかじめ多くの投げ松明を用意していた。
果たして先手は竹束を束ね、、後ろに太い棒を取り付けた物をひっさげ、目潰しの鶏卵が今や降ってくるかと
待つ所に、城中は静まり返って音もせず、寄せ手充分に近づいた所で、一発の銃声が響くとともに、三方の
櫓より松明が投げつけられた。
すると油を注いだかのように、竹束はみるみるうちに燃え上がり、寄せ手の者達驚き騒ぎ、消そうとするも
うまく消火もできず、散々となって我先にと敗走した。

(芳譚)

何故か甲州征伐とごっちゃになっている上田合戦のお話



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:13.13 ID:n+P9kTbE
>>527
鶏卵数万w

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:38.99 ID:/3OBSLpx
幸村が活躍するなら、そんなことはどうでもいいんじゃないの
物語なんてそんなもんでしょw

真田左衛門佐幸村の妻女

2016年12月22日 17:15

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 00:23:23.28 ID:qpvz8I6l
同月(慶長20年5月)、真田左衛門佐幸村〈又云ふ信為〉の妻女が紀州
伊都郡に忍んでいたのを、浅野但馬守(長晟)の家人が召し捕って来た。

闕所(没収)の黄金57枚、並びに秀頼から真田に与えられた来国俊の
脇差を添えて進上した。件の2品は即座に但馬守へ下しなさったという。

――『関難間記』



歌舞伎「盛綱陣屋」

2016年12月03日 09:00

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/02(金) 19:13:10.64 ID:vLLxwyfB
歌舞伎の「盛綱陣屋」という作品のあらすじ読んだら(歌舞伎なので登場人物の名前を含め、本来は鎌倉時代が舞台)

大坂の陣で真田信之の息子が真田大助を生け捕ったため、信之が大助を家康に見せると家康は大喜び。
そこへ後藤又兵衛が乗り込んできて「大助はまだ子供なのだから返せ!」と言ってきたため
信之は又兵衛をとりあえず家康のところに送る。
思案した信之は、このまま大助がこちらにいたのでは弟信繁の戦闘意欲がそがれる、いっそ切腹させようということに。
信之は信之・信繁の母親の山手殿を呼んできて、大助に切腹をすすめさせるが大助は泣いて切腹を嫌がる。
そこへ大坂城から信繁の妻が息子を思って兵に変装して駆けつけるが、その光景を見てあせる。
そうこうしているうちに信繁戦死の報告。家康は信繁の首を持ってきて信之に首実検をさせる。
心中悲嘆に暮れる信之だったが、首桶のなかの首はなんと偽首。
しかし次の瞬間、大助が「ととさまのところに行く!」と切腹。
実は後藤又兵衛も信繁の妻も、大助がちゃんと計略どおりに切腹するかの監視役だった。
信之も大助の心中を察し、家康に「まさしく弟・信繁の首です」と報告。家康もすっかり騙される。

信繁ってこんな計略を使う武将だと思われていたのか・・・



真田昌幸「そういう事は時と場合による」

2016年10月31日 09:38

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 23:52:44.11 ID:ky4QU8i1
慶長5年、真田安房守(昌幸)は下野国犬伏という所から引き返し、信州へと向かった。
その途中の上野国は徳川家の領分であったため、人数を連ねて通ることは出来ず、昌幸は
真田左衛門佐(信繁)、桑原若狭、佐藤軍兵衛の四騎にて上野国赤山の麓へかかり、夜を日に継いで
沼田へと到達した、

安房守は沼田へ行き、左衛門佐では沼田の町に火をかけ焼く恐れがあると、木村土佐という家老を
沼田に遣わし、安房守は沼田に参着した。

沼田は伊豆守(信之)の領地であるが、普代の所であるから、百姓たちは急ぎ城へ参り、
「大殿が突然こちらにお出でになられた!」と伝えた。
伊豆守内儀(小松姫)はこれを聴くと

「伊豆守は家康公の御供をして東に向かった。家康公は今頃下野におられるはずだ。であるのに
安房守殿が帰ってくるのは不審である。」

そう考え、留守居たちに「大手の門に寄らせてはならない!」と命じ、門を固めているところへ、
桑原若狭が表れ、「安房守様をこちらにお連れしたい」といろいろ申し上げたが、内儀は
「城口にも近づけてはならない!」と拒絶し、安房守は仕方なく、沼田の町にある正覚寺という
浄土宗の寺に立ち寄ると、そこに石庵という半俗の者が参って「伊豆守様はどうなさったのでしょうか?」
と尋ねた。これに左衛門佐が

「伊豆守殿は浮木に乗って風を待っているのだ。」

と言い放ち、石庵は、これは話にならないと座を退いた。

安房守一行は暫く休息を取ると沼田を通過する事にしたが、沼田の町は伊豆守の行方がわからぬと
大騒ぎに成っていた。この様子に左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」と安房守に
申したが、安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」と叱りつけ、その後は昼夜の境無く
上田へと急いだ。

この伊豆守内儀とは、本多中務(忠勝)の娘である。

(慶長年中卜斎記)

有名な逸話ですが、この慶長年中卜斎記だと真田信繁は何故か、
沼田に火をかけたくてしょうがなかったようですね。



268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/31(月) 23:09:10.75 ID:PVC4EiTg
>左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」
>安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」

草刈昌幸と堺幸村で見たかったなこのやりとり

真田家の幸村は

2016年10月28日 14:04

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/28(金) 04:45:28.23 ID:pe8bkluQ
 この九月初旬に、真田豆州が訪ねられて四方山話をされた。
その中で、耳底に留まった話のいくつかを記しておく。


一、真田家の幸村は薩摩に行ったと思われる。
かの国の言い方にも時々それと思われることがある。
彼は先ごろかの国に問い合わせた文通がある。近日見せてくれるとのことだ。


 これ世上の説にあるが、諸書で言うところと異なっている。
どうして秀頼の墓が薩州にあるのかというのは、豆州の言葉の通りなのだろう。
そうであっても神祖の御深仁御厚徳を察することができる。




一、大助生害とのことだが、これも大阪で死んだという話の通りだとは思われないそうだ。
高野山の蓮華定院は昔からの家の代々の菩提所であるが、
その過去帳に大助の戒名があり、没年七十いくつかとかある。
ならば老死である。
御旗本衆の中に八木氏がおり、この家は母のつづきゆえ、
彼は猷廟(家光)の御時にこの家で召し出されたと聞いた。
今更ながら子孫の口から八木氏に問うのもいかがと思われ、まだ確かめてないと。


 こうであるなら、幸村が高野山に退去したというのも、この蓮華定院だろう。
八木氏は今の大番頭丹波守〔四千石〕の家か。


(甲子夜話続編)

敵ながらあっぱれと思い

2016年08月14日 17:26

76 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/13(土) 19:51:20.22 ID:RTOMV38F
結城秀康の三男であり、後に松江藩主となった松平直政。
彼は、初陣となった大坂冬の陣で活躍しました。
この様子を見ていた真田信繁が、敵ながらあっぱれと思い軍扇を直政に投げ渡しました。 この軍扇は現存しています。



勇士の名を汚さぬよう

2016年05月19日 21:27

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 08:02:28.13 ID:Pn127/+v
越前少将松平忠直の家臣に、原隼人正貞胤という者があった。元は甲州武田家の武士にて武功の者であったが、
浪人していたのを忠直に召し抱えられ、黒母衣衆に編入され、その合戦の知識を高く評価されていた。

彼は真田幸村と古傍輩の好があり、旧友であった。そこで大阪冬の陣の和睦が結ばれると、真田方から
「和睦後、互いの辛苦も語り慰めとしたい」と、しきりに招請してきた。しかし原は自身で判断するわけにも
いかないと、忠直に伺いを立てると、御免あったため、真田の陣所へ赴いた。

真田幸村は原の来訪を大いに喜び、様々に饗応し、嫡男大介も見参に入れ酒宴数刻に及んでから、幸村は語った

「私は今回の合戦で討ち死にすべき身であったのに、今度の不慮の和睦で今日まで存命し、再びあなたに
お目にかかれたこと、生前の大慶である。
この幸村は不肖なれども、今回一方の大将を承った事、今生の面目、死後の思い出と存ずる。

今回の和睦も必ず一端のことであろう。永くは続かない。終にはまた一戦となると、私は推量している。
その時に潔く討ち死にすること以外、私は考えていない。
臨終の時は、いま床に飾っているこの鹿の抱え角の兜、これは先祖重代の家宝であったのを、父安房守が
私に譲られたものだが、これを着けて討ち死にするつもりである。
あなたがもし、この兜首をご覧になれば、幸村が首であると思い、一返の御回向にも預かりたい。」

原隼人はこれを聞くと
「戦場に挑む者のうち、誰が生きることを考えるだろうか。
遅れ、先立つとも、ついには冥土で再会するのだ。」

これに二人は笑いあった。

それから白河原毛という名の馬に、白鞍に金で六文銭を打ち付けたものを置いて引き出させ、
幸村はこれに乗って隼人に見せながら
「重ねて合戦有れば、大阪城の城郭は破却されれているので、必ず平場での合戦となるだろう。
だとすれば平野の辺に馳せ、出撃してきた東国勢に駆け合わせ、馬の息が続かないほどに戦って
死ぬつもりであるので、いまこの馬はひとしお秘蔵にしているのだ。」
そういって馬から降り、再び酒宴となった。

ここで原隼人は言った
「今の和睦こそ幸いである。貴方はともかく、子息のことは、御舎兄の伊豆守殿にお預けに成って、
とにもかくにも、跡を継がせるべきではないだろうか?」

幸村はこれを聞くとニッコリと笑い
「不肖のそれがしであるが、関東より度々招かれており、いま倅を伊豆守の元に遣っても、
さのみ悪いことではないと思う。であるが、一生日陰者として有るのも武士の恥辱である。
高鳥死して良弓蔵されるという。豪傑であっても治平の時代には用いられない。ましてや
柔弱なわが倅など誰が用いるだろうか。

人には皆名分がある。その生死、禍福は人意を以ってどうにか出来るものではない。
ただ私と死を共にして、勇士の名を汚さないようにしたい。」

二人は一日語り合い、黄昏に及んで原隼人は帰っていった。
実際に真田は翌年、かの兜を着けあの馬に乗って討ち死にしたとのことである。

(慶元記)



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 12:26:34.41 ID:C+jA2yLf
こういう潔い武士らしさは、江戸時代でも好まれたんだろうな

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 13:39:12.18 ID:dqPc8IuE
幸村ってあるから江戸時代に作られた話だろうしな

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 17:46:38.62 ID:Iz92FozX
幸村とある時点で胡散臭さ、逸話度がグッと上がってしまうのがなんとも、ね

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 18:08:43.85 ID:S5GhVgTP
写本してるうちに書き換えられたりするからそう単純な話でもない

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 20:30:44.01 ID:ZEO/h7Rc
小楠公
真田大助
大石主税
日本人が好む英雄の息子たちも人気があるよね

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 22:04:34.78 ID:VIqbXPQx
そういえば近所に"ゆきまさ"と名付けられた少年がいるなあ
字面までは知らんが

紺地に六文銭の旗の陣

2016年05月18日 17:05

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 06:44:03.98 ID:uLvmKNEo
大阪冬の陣、東方の寄手である真田伊豆守信之家臣の矢澤但馬、吐田筑後、榊原石見の三人は
元より武功の者であったので、敵が矢鉄砲を激しく撃ちこむのも恐れず、一番に仕寄りを付けた事は、
両将軍(家康・秀忠)からも賞賛された。

この時、伊豆守の手勢が仕寄りを付けるにおいて非常に勇敢であったのを、大阪方の木村長門守重成も
大いに感じ入り、或る夕刻、真田左衛門佐が出郭より本城に帰った時、重成は彼に対し、
東を指差して言った

「あそこの、紺地に六文銭の旗の陣が最初に仕寄りをつけました。あれはあなたの一族でしょうか?
もしくは他門でしょうか?彼らは実に、城攻めの妙を得た者達です。」

真田答えた
「あれは兄伊豆守の陣です。ただいま軍兵に先立って下知している二人の若武者、
一人は河内守(信吉)といって16歳、もう一人は内記(信政)といって14歳。どちらも私の
甥であります。亡父昌幸の余風があって、彼らも健気に働いているようです。」

重成はこれを聞くと
「その兄弟は、普段は何色の鎧をつけているのでしょうか?今から軍兵たちに、二人には鉄砲を用いないよう
申し付けたい。」

「それは情ある言葉です。しかし彼らは若年であると言っても、他の軍勢に先立って仕寄りを掛けるなど、
味方にとってはなかなかの剛敵です。
ご存知でしょうが、忠義のためなら親疎も言い出さないのが武士の習いですから、私の一族だからといって
弓鉄砲での攻撃を避けるというのは考えもできません。彼らもまた、私を見れば必ず攻撃して
来るでしょう。であれば、誰にかぎらず秀頼公の敵と見れば、席を去らずに討ち果たすべきです。
これが武士たる者の本意です。」
そう語ったという。

(慶元記)



732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 11:21:19.48 ID:IT3tWaKI
一族が敵方にいる以上、周りの他の軍より率先して働かないとダメだし
兄一家も大変だな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 21:39:16.08 ID:7o1opGdq
黒田基樹「真田信之」p172によれば
「真武内伝」に
木村重成の持口を信吉・信政が陣頭に立って攻めているのを見た木村が信繁に
「あの六文銭はあなたの一族か?」と尋ねたところ
信繁「むろん、兄信之の子で私にとっては甥にあたる」
と返答し、木村が
「若年にして奇特な戦いである、あの2人には矢、鉄砲を放たぬようにしよう」
という話が載っているが、信繁は真田丸を守っていたため、残念ながら全くの創作である

としてたけど、真田丸から城に帰ってからの話なら問題ないような
(しかしたしかに木村重成より若いとはいえ、木村重成が「若年ながらたいしたもの」
と言うのには違和感)

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:09:52.91 ID:RsDfDWju
>>734
信吉が1595年(文禄4年)生まれで大阪の陣の頃には二十歳前後、信政はその2つ下だから、別にいいんじゃね?

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:58:53.72 ID:8V1YisfJ
>>732
結局最後の最後まで兄一家は弟に振り回されて終わっているんだよなあ

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 04:38:18.20 ID:otyaGBAD
>>732
源為義 為朝 平忠正「そうか?」

上州犬伏にて

2016年05月13日 18:04

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 20:36:13.50 ID:lpkqYaEd
真田左衛門佐幸村(信繁、または信仍と有る)は、信州上田城主、安房守昌幸の次男である。
去る慶長5年、上杉景勝反逆の故に、徳川家康は上杉攻めとして、諸大名を召しつれ伏見を発向し、
関東に下向したことにより、真田昌幸、嫡男伊豆守信幸、次男左衛門佐幸村も、上州犬伏まで
打ち出た所、石田治部少輔三成、大谷刑部少輔吉継両人より、昌幸に書状が届いた。
その内容は、

『今度天下の御為に大老奉行相談し、内府(家康)を滅ぼすこととなった。真田父子も同意あって、
会津への出陣を止められよ。』
というものであった。昌幸は伊豆守、左衛門佐が先陣に在ったのを呼び返して言った

「たった今、石田、大谷より申してきた内容を見るに、上杉景勝が幼君に対し逆心の無いことは
明らかだ。この上は内府を敵とし、ここより引き返すべし。お前たちはどう思うか?」

伊豆守は答えた
「仰せ、誠に至極です。今回内府に従うのは、世上の批判も大きいでしょう。その上父上は石田治部と
御縁者(ある説によると、真田昌幸と石田三成は、ともに宇多下野守(頼忠)の婿であるとされる)です。
また左衛門佐は大谷刑部の婿であり、上方に筋目が有るのですから、先ずは御領内に帰って御思慮
あるべきでしょう。

しかし私は内府と御懇意であり、ことに本多中務(忠勝)と縁者のよしみがあり、お許しいただけるなら
徳川家の旗下に属したいと思います。そしてその上で、なお志す所があります。
もし、上方の軍が敗れ、城々に籠もった者達まで内府によって罰せられた場合、私が父と弟の罪を
謝し、如何にもして危難を救い、それのみならず、真田の氏族が断絶しないように私は計ります。」

これを聞くやいなや、左衛門佐は言った
「憚りながら兄上に、私がご意見申し上げます。
内府がどれだけ懇切だったとしても、それは太閤の御恩に及ぶものではありません。
また本多中務と縁者のよしみがあっても、それは私的な関係であり、公儀の事ではありません。
また、上方の軍が敗れたと時は父上と私の身命の危うきを救って下さるとのことですが、
おおよそ戦場に臨みて功なき時は、将より士卒に至るまで、必ず戦死する事となります。
然らば、父上と私が存命かどうかも計り難い。

それに御苗字のために内府に属すると言われるのも、あまりに難しい御思案です。
秀頼公のために一家尽く滅んでも、ご先祖への不孝とはならないでしょう。

事新しい儀ではありますが、天正年中に父上と内府が不和となった時、一旦は当家の武功によって
徳川家の軍勢を切り崩しました。しかし徳川、北条が手を結び、重ねて大軍によって攻められれば、
籠城も危うい状況であったのに、太閤の御下知によって和談と成りました。この時は上杉も、
越後より後詰を出されました。これらは浅からぬ恩義ではないのでしょうか!?

それ以降豊臣家の旗下に属すること十余年です。これで君恩を忘れ、景勝殿の志を捨て、
内府の味方をするというのは、人たる道ではありません!
兄上は御若年より器量も人に優れ、戦功も立てられた、一廉の御用に立たれる人なのに、
それがむざむざと敵になる事、残念至極です!」

これに信幸は大いに立腹し
「父上に先立って無用のことを言うのみならず、内府の旗下に属する者は人たる道に非ずなどと、
妄に私を軽んじ讒るとは!今一言を出すにおいては、即時に討って捨てる!」
そう太刀の柄に手をかけると、左衛門佐は少しも動ぜず返答した

「私は豊臣家のために死のうと思っている生命なのですから、ここにて御手にかけられる事、
御免あるべし。」

ここで昌幸が間に入り二人を制して
「伊豆守が言うことを考えたが、一応その理無きにしも非ずだ。秀頼公の御大事も、今回に
限ったことではあるまい。ただ自分の望みに従って、内府の味方をせよ。」

そう打ち解けて、免した。こうして伊豆守はここから徳川秀忠の手に属し、安房守・左衛門佐と
別れたのである。
(新東鑑)




真田幸村は近在の百姓たちに

2016年05月02日 17:56


661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 21:08:06.92 ID:GXYtd421
関ヶ原後、流罪と成った真田幸村が紀州高野山の麓、渋田という場所の禿(かむろ)の宿に
潜居していた時、近在の百姓たちに金銀を貸し与えていた。

そんな幸村が豊臣秀頼の招きに応じて大阪に籠ろうとする時、彼が銀子を貸し与えていた
百姓たちを呼び寄せ、こう申し渡した

「私は今度、大阪の御招きによって入城することに成った。よって今後、そなたたちと再会することは
計り難い。
お前たちには去る慶長五年の冬より久しく相馴染みたれば、今は実に名残惜しい。
今度は天下の軍勢を向かえての合戦であるから、運を開く事はとても難しいであろう。
なのでただ、義の為に討ち死にを志すばかりである。

であれば、今更預け置いた金銀を返してもらっても、何にも成らない。
万が一にも勝利して、秀頼校が天下の主とならば、私はともがらの富貴を求めるまでもなく
富貴に至らしめるだろう。

各々は年来の馴染みであるから、その金銀は返してもらうに及ばない。」

そう言って、彼らの目の前でその証文を尽く焼き捨てた。

百姓たちはこれに感じ入り、拝伏して恩を謝した。
この事によって、禿近隣の土民たちは大阪に加担したのだという。
真田幸村という人はこのように、良く人情を知って彼らを感じ入らせる者であったと伝わる。

(慶元記)




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 23:40:33.88 ID:O5SgVsgF
>>661
幸村じゃなくて信繁ね

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 23:58:14.98 ID:gWM6M/E4
兄貴から仕送り受けてる分際で金貸しかよ

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 00:21:45.15 ID:qUUxIBXi
>>662
「幸村」の逸話として使わっているのなら、幸村でよい。
信繁でなく幸村として伝わっている時点で、江戸時代が始まった後の逸話とわかる。

このスレで考えるべきは、「事実に合っているか」でなく「どうしてそういう逸話が生まれたか」だよ。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 00:48:44.54 ID:Qh5wzMBH
お兄ちゃんから金借りてるくせにいい人ぶって人に金貸すとかとことん信繁はクズだな
いい話でもなんでもないだろこんなの

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 02:14:56.04 ID:cnfJL4OU
大河みて思ったけど信繁って老け顔だったの?まだ廿くらいと思ってたが

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 02:22:40.70 ID:cnfJL4OU
>>664
原文ママ、とか書いておけばいらぬ誤解を招かなくて済むね
現代語訳されてたら分かりやすい名にしたのかもと思う人もいるし

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 03:07:05.25 ID:TEIuaXFM
義の為()人情()
兄貴に金の無心するしか脳がない無能がなに言ってんのやら…

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 05:28:44.61 ID:bLtPv79l
真田関連の話が出るたびに思うが
親父とこの弟に囲まれながら
兄貴はよくあんな長生き出来たな
そのストレスがなければ200年ぐらい生きたんじゃねえの

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 06:42:49.63 ID:G8HDWN8M
ヒキニートが兄の金を使って詐欺をする話に近いなw

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 07:50:41.87 ID:RhJTHYdf
信繁じゃなくてお兄ちゃんのいい話だな
流石お兄ちゃんw

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:45:24.99 ID:zJtsB6dp
>>670
ひょっとすると胃が痛くなるようなストレスから解放された反動で
あれだけ長生きしたのかも知れん

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:48:14.30 ID:j/3s0OIp
お兄ちゃんは心労で寿命半ばで亡くなったんだ

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:55:26.58 ID:eJp4EjAV
>>670
おい、鬼嫁を忘れているぞ!

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 10:07:29.48 ID:cnfJL4OU
志半で倒れた隆元が偲ばれるで

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 22:02:30.95 ID:mhCM9B4I
>>661
禿って今の学文路?

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 23:23:14.45 ID:Qh5wzMBH
みんなお兄ちゃんの話しかしてなくてワロタw
やっぱりお兄ちゃんは愛されてるな…w

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 08:55:56.62 ID:0KlKkSVY
>>661
孟嘗君の食客、馮驩が元ネタだな

【雑談】幸村になっちゃった経緯

2016年04月20日 17:29

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 10:18:28.26 ID:0hzWkX3H
ここまで来ると信繁なのに幸村になっちゃった経緯が知りたいなあ
やっぱ憚かる意図でもあるのかな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 18:59:20.57 ID:WqevE3tP
「幸」の字はともかく「村」の字はなにか由来があるんだろうか
実名に使われることのない字ではないようなんだけど、なんとなく気になる

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 19:32:59.50 ID:9VC/ICMp
>>551
徳川に仇なす「村正」から取った、と以前TVでやってた。

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 19:38:26.76 ID:l9K9toaz
>>552
村正云々は、「幸村」という諱が出てきた難波戦記の成立よりもっと後の時代に出来た話だな。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 22:23:10.92 ID:2jFexQYU
村の字使った名前はこれ以前から見かける気がするが

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 23:49:51.90 ID:dLfZ/8TK
赤松義村、浦上村宗か

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 02:58:45.77 ID:VOlUpwvC
伊達家にもある