これが武道の眼つよみ第一

2017年02月20日 15:54

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/20(月) 07:32:55.54 ID:T9Gd58Ub
 尾州大高の城に権現様がございました時に、
水野下野守方から、
今川義元が殺されましたので、早々に大高の城を御引取りください。」
と報告しに来ました。

しかし家康公は
「きっと義元の御生害が誠であるのだろうが、
敵方の下野守からの知らせで城を空けて退くのは、不行届で慌てた様である。
この城でこのまま難に遭うことになっても、それは是非ないことだ。
ここで踏み止まり確かな報を聞き届けて、
証が正しいと分かった時に引き退くべし。」

と仰せられ落ち着かれていました。
そのところに、岡崎の山田新右衛門方から、
書状で申し上げられたので、じっくりとお調べまして大高をお引き退きました。

これが武道の眼つよみ第一である。


『武士としては』


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武であるのに嗜みをしないこと

2017年02月15日 18:29

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/15(水) 03:25:36.87 ID:bVy+937X
 高井助十郎が尾州長久手の戦場で首を取れなく口惜しがっていることを、
権現様が聞かれました。そこで彼を召して

「助十郎は旧主の(今川)氏真をよく見届けたではないか。
このたびは首を取れなくても苦しくない。
すでに意地の者であるぞ。」

との上意があったそうです。
しかし助十郎は

「時に大将からこのような言葉を頂き、恐れながら至極の上意です。
ですが、新しく主を替えた身となっては、
昨日の働きを思わず、今日の稼ぎを行うことが本意です。
前の武辺に緩んで後の働きがないことは、
武であるのに嗜みをしないことです。」

と答えたとか。


『武士としては』

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7152.htmlの別バージョン。
地味に意地っ張りになっている。



649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/15(水) 09:42:01.65 ID:Bp9fp+kj
きっと前の話は駿河ver.で、これは三河ver.なんだよ

“淫乱の人跡”とはいったい…

2017年02月04日 17:37

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 03:17:10.72 ID:RWhjGdVD
権現様(徳川家康)が中原御殿におられた折、夜中、にわかに犬が
吠えたので、「誰か見て参れ」と仰せになった。

すると小姓衆が「見に参ります」と言い、御前で手をつき通ったので、

「斯様の時の礼は、かえって無礼ぞ。少しでも早く出て見るものぞ」
と、仰せになった。

さて、犬が吠えたのは“淫乱の人跡”と見えたので、詳細を密かに
仰せ上げられると、権現様は「良きぞ。黙れ」と、仰せになった。

(扨犬の吠たるは淫亂の人跡とみへたる故。委細ひそかに仰上られ
たれば。よきぞだまれと上意なり)

――『武功雑記』


“淫乱の人跡”とはいったい…




574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 09:46:46.25 ID:dvy1U+wC
ギシアンかアッー!(ボソッ!

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 11:46:12.00 ID:iA9RwaR5
獣姦の詳細なんぞ聞きたい奴おるん?

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 12:10:27.53 ID:8RyG3zgi
>>573
>よきぞだまれと上意なり
これ素直に訳すと「解ったもういい黙ってろ。」って事だな。
家康が苦虫噛み潰したような顔でこれ言ったと想像すると結構面白い

一備の将たる者は、

2017年01月28日 09:19

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 19:20:26.74 ID:KqZEt9y/
一、一備の将たる者は、並の武士の作法に準ずるべきではありません。能く柔と剛を兼ねなければ、
  将たる道には至りません。
  一鑓合いの武士は強勇を表として、主のために命を惜しまないことを名誉とします。
  しかし一備の将たる者は、命を全うし、諸卒を懐かせ、駆け引きの作法を示し、勝つべきを
  見て進み、勝てないのを見れば引き取って後の勝ちを得ることに専念する。これは将にとっての
  法です。この心を忘れず、老功の者達とも評議し、尤も妥当な判断に従うようすべきです。

一、其方は若輩ではありますが、甲信両国の武士を与力として預かる上は、どんな剛敵と言えども
  防戦を致し、越度を避けねばなりません。心に及ばぬ所は、石原、孕石、廣瀬といった老臣たちと
  相談し、進退に道理を以て、諸卒をそれぞれに差し遣わさねばなりません。

一、どんな諸芸も習わなくては知らぬものです。それが戦の道であればなおさらな事です。
  その作法、方便、謀、進退、そういった事を知らずに行う合戦は、危ういものです。
  私は国を争う戦を度々行いましたが、その一度一度の勝負についての経験から、知らねば
  持つことの出来ない道理を獲得しました。そういう思いもあって、其方には三人の武功の者、
  そして合戦の場数を踏んだ武士たちを与力として預けたのです。
  この者達に二六時中(当時は一日を十二支で分けている)戦の道を尋ね、極め、武の事を
  心から忘れないようにして下さい。

右の条々について、油断があっては成りません。如件。

 徳川家康在判

    井伊万千代(直政)殿

(松のさかへ)

「赤備え」を井伊直政に預ける事に関して、徳川家康が直政に送った書状。
ほとんど守ってないような気がするが。



惜しいなあ、九郎兵衛とは名が古い

2017年01月27日 16:35

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/26(木) 23:44:09.77 ID:h+IZe1XV
 大坂陣で蜂須賀(至鎮)の者の稲田九郎兵衛(植次)が若年での働きがあった。
それを聞いた権現様は
「惜しいなあ、九郎兵衛とは名が古い。幼名にすればよいのになあ。」
と上意されたという。

 九郎兵衛とだけ聞いても、年若な者の働きとは分かり難い。
名もその時に相応のものにするべきものである。


『武士としては』



553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 00:02:29.67 ID:IMLDCitB
てっきりおかしな名前を名付けた話かと思ったわ

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 08:50:18.71 ID:UQlJ97ei
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=6672
見覚えがあるとおもったら徳川実紀が出典で出ていた
徳川家康「名前はよく考えろ」

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 09:44:27.72 ID:0W/94KwA
幼名は梶之助か。

一段の事である。そのまま夫婦にせよ

2017年01月13日 11:31

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 03:54:25.69 ID:FY55/4W4
小笠原越中に罪あって、大久保七郎右衛門(忠世)に御預けになった時、
また女子に罪あって同所に御預けの者がおり、女子と越中は密通した。

この件が権現様(徳川家康)の御耳に達したところ、御意に、

「一段の事である。そのまま夫婦にせよ。越中もすぐに呼び出して、召し
使うとしよう」と、仰せられたという。

――『武功雑記』


○ 安藤帯刀物語

御意に違えた女を家康公は大久保七郎右衛門に御預けになられ、二俣
の城へ遣し置いた。

その後、小笠原権之丞<後に越中と云ひしなり>が御意に違えたのをも、
七郎右衛門に御預けなさったところ、この者は二俣で以前の女と一所に
なり、夫婦となった。

「とりわけて御咎めなさるべきです」と、申しあげたところ、家康公は御機嫌
にて、「そういうこともあろう。権之丞も召し帰すとしよう」とのことで、

すぐに召し帰しなさり、御使いなさったということだ。寛仁大度なり。

――『山鹿素行先生精神訓』


追放された権之丞の父親の話か。



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 12:06:57.31 ID:uhhPYp01
御意に違えた
つまり身籠ってしまったのがいけなかったんだな

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 14:48:30.25 ID:WQ/oJQJy
女のほうは朝日姫の侍女だな、孕んでたんで越中にお下げになったのだろう

日本の諸大名はこの日初めて、

2017年01月05日 09:38

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/05(木) 09:07:42.57 ID:dqYqzxuP
慶長3年7月に、太閤秀吉は、西国の侍は伏見、東国の侍は大阪に詰め秀頼を守り立てるべし、との遺言
を定め、これについて諸大名は徳川家康の屋敷に集まった。
徳川家康が現れると、日本の諸大名はこの日初めて、家康を半ば主人のように敬った。

この人々の中では特に、増田長盛と徳善院の両使は「御意のとおりに致します」と、家康に手を付き、
主人であるかのように敬い申し上げたのである。

五大老五奉行もこの日に定まった。この日の上座は毛利宰相(秀元)であり、彼の振り回しで酒宴となった。
上杉景勝、佐竹義宣、伊達政宗3人の仲直しもこの日であった。
徳川秀忠は勝手に座っていた。

一日間を置いてこの人々は前田利家の屋敷に集まり、霊社上巻の起請文を書いた。

(慶長年中卜斎記)

秀吉死後を見据えて、諸大名の家康への認識が変わった瞬間について。




“骨食”

2016年12月28日 09:40

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/28(水) 01:48:32.30 ID:O/gQl5bU
同月28日(慶長20年6月)、秀頼所持の薬研藤四郎〈吉光〉の太刀
は“骨食”と号して、長さは1尺9寸5分である。

これを河内の農民が拾い得て、本阿弥又三郎に見せた。これにより、
本阿弥は即座にこれを大神君(徳川家康)に献上した。

御覧の後に、これを又三郎に返し下された。後日に秀忠公へ進上し、
御受納あって黄金5百両、白銀2千枚を本阿弥に賜った。

――『関難間記』



終に往く道をば誰も知りながら

2016年12月23日 21:09

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/23(金) 01:02:42.42 ID:bjWOvYiP
 小日向の竜興寺は、高所で富嶽遠眺の勝地である。
寺に桜樹がある。神祖が御詠み短冊に書かれたのを収蔵しているという。
この地は初め桜野といって、桜樹が多くあった広い地である。
神祖が御遊覧のときの御詠を桜樹につけ置かれていて、
その辺に釈迦文院という真言の小院があって、御帰りのあとにその御詠を取り収めていた。
寺の開山玄門和尚が創建のときにここを見立てて暫く釈迦院に寓していて、
そこで御詠を請い受け、竜興営造のとき寺の鎮守として小祠をたてて御短冊を神体として祭ったという。
御詠は

終に往く道をば誰も知りながら 去年の桜に風を待ちつつ

〔竜興寺で聞いて記した〕

 このときの御成りに従った左右の中で、杉浦吉右衛門はこの御詠の御書き損じを拝領して伝襲している。この孫が、今杉浦備後守と称して御小姓である。竜興寺の檀家という。

〔近頃、日向国の拙堂和尚という者がこの寺に宿して賦した詩がある。
地の勝趣を知ることができるので、ここに記す、

下界人家天上雲、芙蓉八朶望中分、
尾侯第隔青松見、護国鐘蔵緑蔭聞、
万里清秋霽漂渺、一輪紅日暁氤?
結句は今忘れた。〕

(甲子夜話)



京都総検校の蔵、神祖拝領壺の事

2016年12月22日 17:16

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 03:19:20.72 ID:RpS+JZ5X
京都総検校の蔵、神祖拝領壺の事

 豊川勾当の話に、京の総検校の所に、かつて神祖から賜った御物が有るとのことである。

一つは色付きの大壺で〔色は忘れた〕葵の御紋がついている
この壺の由縁は、そのはじめ三宅検校〔称は忘れた、正さなければならない(※栄一とのこと)〕が賜ったものである。
そのとき検校は

「この壺の名は何と申すのでしょうか?」

と申し上げると、

「名は無い。今はこのように治平の世となったので、泰平の壺とでもいえばよい。」

とお答えになられた。

検校はかたじけなく拝領したそうである。それから今にその御名が伝わって、年首の行事には検校勾当の盲人が皆この御物は拝み、中に入っている酒を頂戴して礼飲するという。

 また鳴戸と名付けられた御琵琶も同じ検校が賜って今に伝わっている。
これも上意として

「戦争の際にはこのようなものは役に立たない。今治安となったので、平曲〔平家のことである〕のようなものも心安く聴けるだろう。」

と下されたという。今に至って総録所の伝宝となった。
盲人の坐までにも御手の届くこと、不思議なばかりである。
(甲子夜話)



本意に背く事はしないほうがいい

2016年12月21日 17:29

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 02:21:23.64 ID:R5M42y2K
 小田原の陣の時、秀吉は近習の侍十四、五騎で宿泊された。
この時に有馬兵部法印則頼が家康公へ進言した。

「これは天が与えた幸事です。押し寄せて討ちましょう。」

「このたびの秀吉の行進は私を頼っての事だ。
とりわけ秀吉の妹は私の室だ。もっとも三年以前(三か月の誤記?)に亡くなったが。
また北条氏直は私の妹婿であるのに、秀吉は私に心を許されている。
そんなところに、飼鳥の首を絞めるようなむごい事を武士はしないものだ。
武辺はその身の生まれつきだが、天下を知る事は果報次第である。
とにかく武士は意地を第一に綺麗にするものである。
本意に背く事はしないほうがいい。」

則頼も恥じ入ったとのことだ。
(武士としては)




四足門

2016年12月17日 21:17

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 19:45:56.50 ID:tgoET9yr
 安部川の下前浜辺りに萩原というところがある。ここにはある古百姓がいる。
その先祖に大力を持つものがいた。神君が御在城のとき、外出の途中で荷を抱えた牛を両手に抱えて道脇にどけたので、何者か尋ねてみよとの上意があった。
「何村の某」と申し上げると、
「珍しい力だ。何か望みがあらば取らせよう。」との仰せがあった。
その頃はかの家が豊かだったので、
「望む物はありません。
ただなにとぞ四つ柱の門を建てたい」
と願いをしたら、お許しが下りた。
またその他に望みはあるかと上意があると、
「苗字を称して、家紋に日の丸をつけたい」
と申し上げると、それもお許しが出た。
そのうちに四足門を建てたという。
しかし昔から門は開け放っており、戸は無いという。
今はこの家は貧窮しているとか。

 また昔その所に土手を築いた。それを今は萩原土手と称し、その家も萩原と呼ぶという。

(甲子夜話)



駿府にて毎夜、

2016年12月05日 15:39

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 02:37:06.96 ID:7mzLMEnB
この頃(慶長13年9月)、駿府にて毎夜、人を切ること甚だしかった。

金が掛けられ、申し出るようにとの旨が下知されたけれども、未だに
その沙汰もなかった。

また、日々喧嘩があって、互いに死傷に及んだ。

――『当代記』




日本国の衣装が結構な物になったのは、家康公より始まったのである

2016年12月04日 10:34

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 01:53:06.16 ID:1PUt7qNp
徳川家康は、豊臣秀吉全盛の頃、家臣に小袖を与える場合、その品を呉服屋栄仁、茶屋四郎次郎と
いった者たちに「小袖一つに羽織を添えて作るよう」と申し付けた。

呉服屋の方から「小袖はどのような仕立てをすべきでしょうか?袖の裄丈はどれほど、綿をいかほど
入れるべきでしょうか?」と問われると、家康は好みを指定したが、そうやって造られたものは
通常の小袖より、五割から倍も高価な物となった。

家康は年間に小袖を、少ないときでも九つ、多い年では十四、五も下し渡した。
小身の者の中には「小袖はいりません。小袖にかかる金額をいただきたい。」と呉服屋に申し請い、
その場合呉服屋の方は家康に回す勘定の時、小袖と書いて、金が渡ったとは言わなかった。
小袖を下すのは毎年のことであったので、このような場合、呉服屋は完成した小袖も取り、その代金も
取ったわけである。

ところで今のように小袖が世に広まったのは、天正の末から文禄年中にかけてのことである。
実は日本国の衣装が結構な物になったのは、家康公より始まったのであるが、こういった事は
世間では知られていない。『家康公は吝い人』と世上申しているが、そもそも気の大きな人であった。

衣装の中でも小袖が結構になったのは、豊臣秀頼より始まる。それは関ヶ原の合戦で徳川家康が
勝利した後、その年の暮、諸大名が秀頼に、小袖を進上したのである。その年から翌年までには、
非常に結構な物となった。そして年を経るほどに尚善くなり、諸士の下々、町人まで小袖を
着るようになった。これも御代長久の故であろう。

(慶長年中卜斎記)



375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 02:22:16.00 ID:7soxLXqH
わしがやった小袖はどうしたのだ?って聞かれなかったのかな

376 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/04(日) 04:35:47.65 ID:dEFAfBZk
現代でも嫌われる上司の言動だよ。それ。

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 08:37:04.87 ID:ZFMNpLuG
>>375
子孫は小袖をもらっておけば、神君からご拝領の品、って言えたのにって愚痴ったか、
小袖を偽造して「これがあの時拝領した小袖です」と言い張ったか、どちらかだな

主水正捕縛

2016年12月03日 08:59

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/03(土) 01:54:55.08 ID:6W60OM/7
同月13日(慶長19年9月)、囚人の原主水正(胤信)が駿府へ来着した。

天主教の宗門に傾倒し、その災いを恐れて去々年に逐電、東国に隠れて
いたのを、(徳川家康の)御下知によって捜索して搦め捕ったものである。

すなわち町司の彦坂九兵衛(光正)にお命じになり、主水正の額に火印を
当てて両手の指を切り、「この者を挙用する輩は曲事である」との旨の
胸札を掲げさせて、追却しなさった。

ところが、岡越前守貞綱が主水正を介抱したとの旨がお耳に入り、
御糾明になったところ、倅の平内が良友の好みにより、

領地に抱え置いたのだが、越前守は存じていないとの旨を陳謝したので、
同19日に平内は改易なされ、貞綱は無事であった。

また、駿府の耕雲寺に主水正が寄宿したのを訴え出た者がおり、住僧を
放逐なさった。

――『関難間記』



「かさねての日本人の渡海は無用」

2016年12月02日 17:46

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/02(金) 02:41:54.64 ID:eDwPX00e
この頃(慶長15年5月)、京都の町人で米屋の“りうせい”という者は、

大御所(徳川家康)のご命令によって、ノビスバン(メキシコ)に渡海し、
売買を思うがままにして帰国した。

猩々の皮を多く持って来たが、金銀は聞き及んでいたほどではなかった。
とはいえ、他の国や他の島よりは多かった。

しかし、「かさねての日本人の渡海は無用」との旨を、ノビスバンの者は、
かたく日本人へ示した。

――『当代記』




連歌その心自然に顕るる事

2016年11月30日 17:27

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 19:23:34.64 ID:OIDdaizr
連歌その心自然に顕るる事

 古い物語であろうか、または人の作り話であろうか、それは分からないが、
信長、秀吉と、恐れながら神君が御参会の時、
四月だというのにまだほととぎすの鳴き声を聞かないとのお話が出たので、

信長は 鳴ずんば殺して仕まへ時鳥 とあり
秀吉は 鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥  とあり
      なかぬから鳴時聞ふ時鳥  と詠まれたのは神君であったという。

 これらからその御徳によって感化される程に温順であられたり、
また残忍であったり度量が広かったりすることが自然とわかり、本性を顕している。 
 紹巴もその席にいて、

    鳴かぬなら鳴ぬのもよし郭公

と吟じたという。

(耳袋)


歴代の発句

 夜話のときある人が話したことである。
人が仮託して出た者であるが、その人の情実がよくあてはまっている。

郭公を贈ってきた人がいた。しかし鳴かなかったので、

なかぬなら殺してしまえ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様

このあとに二首が添えてある。
これは憚る所あるうえに、もとより仮託のことであるので作家は記していない。

なかぬなら鳥屋へやれよほととぎす
なかぬなら貰て置けよほととぎす

(甲子夜話)


有名な三句に続きがあるとは知らなかった
甲子夜話の匿名の二句は、戦国三傑と対比して
当時の大名の拝金さを揶揄したものか、不甲斐なさを嘆いたものか…




359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 19:24:59.91 ID:S9zniyzk
鳴かぬなら それでいいじゃん ほととぎす 織田信成

織田信成のセンスは里村紹巴並であったか

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 09:46:10.75 ID:Buw+pmGC
ホトトギスがいつのまにかカッコウに...。

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 10:44:40.18 ID:3XLWPfr6
鳴け聞こう我が領分のホトトギス 加藤清正
なんてのもあったな

豊臣関白北條征伐出陣の事

2016年11月29日 09:07

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 22:58:38.33 ID:GUK5L/Vi
豊臣関白北條征伐出陣の事

 秀吉が北条を討たれに行った時、諸将は浮島が原で並び居て秀吉を待っていた。
秀吉は糸緋威の物具を着て、唐冠の胄をかぶり黄金をちりばめた太刀を帯び、
大きな土俵空穂に征矢を一筋指し、仙石権兵衛が持ってきた朱の滋藤の弓を持って、
七寸ある馬に金の瓔珞の馬甲をかけ、静かに歩かせて打通られた。
東照宮が信雄と共に出迎えられたのを見て馬から降り、

「いかに、二心あると聞いたぞ。いざ一太刀で参らん」

と太刀の柄に手を懸けられた。東照宮は左右の人に目を向けられて、

「戦始めに太刀に手を懸けられとは、めでたいことですな。」

と高らかに仰せられると、秀吉は何も言わずにまた馬に打ち乗って通られた。
(常山紀談)



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 23:05:09.17 ID:HNq+lJTq
権兵衛、許された直後なのに出張ってるな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 00:01:06.99 ID:BqHMB20x
いや、時系列おかしいだろ。

駿府城本丸女房局に火をつたるの間

2016年11月26日 16:32

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 11:23:43.02 ID:OzW44tgt
>>310
当代記巻五
(慶長十四年)六月小朔日(辛亥)
駿府城本丸の女房が局に火を付け、炎上してしまったが鎮火させた。
この女の仕業として、下女を二人火あぶりにした、
また局の女房衆二人を遠島に処した。

「駿府城本丸女房局に火をつたるの間、焼上処、
されとももみけしける、是女人の態成とて、下女を二人あぶり被害、
局女房衆二人可被遠流と也」

たしかに「我(家康)はどこにも行っていない」けど

関連
我はどこにも行っていない


356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 11:38:39.95 ID:eOyRqtsW
暗殺未遂か

亀ヶ谷山結成寺の墓

2016年11月25日 08:18

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 23:49:36.04 ID:vINaWRIA
 安部川の向府中より一里、内巻村というところに亀ヶ谷山結成寺がある。
工藤左衛門祐経の開基で、その村に工藤屋敷というものもあるという。

 神君が御在世のとき、大岩臨済寺の弟子智岳観公という人が、時々お召しがあり仕えていた。
殊にお気に入りで、度々御狩等の時もその寺にお越しになられた。
あるとき

「其の方が死んだら墓所を建ててやる。もし我が先に死んだら、其の方が我を葬れ」

との上意があった。
その時和尚は

「それがしが生きている間に墓所を建てたい」

と申し上げ、願いの通り建てられた。
その墓は三尺で四方に石で棟を建て祠のようであり、前には石の唐戸がある。
その中に塔があり、銘には従一位源朝臣とあるという。
脇には五輪の塔がある。工藤左衛門の墓であるという。

 また寺の中には古の狩の槍という六尺ばかりの柄の槍が一本、外にも同じく一本ある。
その村の農夫に、昔池で投網をしていた人がいた。
御狩の時に御預かりした槍を私宅に置くことを憚って、かの寺に納めたという。
寺門の脇に、工藤の胸当八幡というものがある。
長さ四寸、幅六七寸ばかり、厚さ二三分ばかりの板金である。
この地は工藤祐経が、富士の巻狩の前に、しばらくこの村に閉居した所と言い伝えられている。

(甲子夜話)