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汝は何ぞ主人の盟約に背き当国へ乱入するや

2018年12月12日 11:28

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/11(火) 20:59:48.23 ID:z57RbpQQ
遠江の国人どもは追々降参して御味方に属す輩多し。よって神君(徳川家康)はますます御馬を進められて、
掛川城を攻め給わんと、城下を放火せしめられた。しかしながら今年はすでに歳暮であり、合戦は明年の春
とすべしとして、見付へ陣を御取りになった。

そんなところに武田の部将・秋山伯耆守晴近(虎繁)は信玄の命を受けたのか、信濃より軍勢を引き連れて
遠江を切り靡かんと二俣辺りに向かった。秋山はまず久野城へ使者を遣わし、久野三郎左衛門宗能に「一族
を引き連れて信玄に降参すべし」と勧めた。宗能は先達て徳川家へ帰順していたので、秋山の使者に返事も
せず追い返した。

秋山は大いに憤り「それならば国人どもの見懲らしめに久野城を攻め落とせ!」と平尾村に陣取りして久野
の城に押し寄せんとした。宗能もこれを聞いて鼻闕淵という所へ出て防戦せんとする。神君もこれを聞こし
召して奥平監物貞勝入道道文・菅沼伊豆守満直・同新九郎正員などを援兵として遣わされ、秋山勢を防がせ
なさった。

ところが敵は思ったよりも大軍で、味方は散々に打ち悩まされた。秋山は勝ちに乗じて浜松まで追い寄せる
勢いである。しかも同国の犬居城主・天野宮内右衛門景貫はかねてより武田方の一味で、これも人数を押し
出し、秋山に力を合わせて働いたのである。

神君はこの時すでに浜松城へ御馬を入れられたが、秋山の方へ御使者を送り仰せ遣わされ「汝の主人である
信玄は先に約束を定めて、駿河を信玄が切り治め、遠江を私めに切り治めよと申し送った。私はその盟約を
守り大井川を隔てて互いに経略せんと当国へ働くところに、汝は何ぞ主人の盟約に背き当国へ乱入するや!
甚だもって無礼なり! 早くその地を去らずに事を先延ばすならば、私がただちに出馬して1人残さず首を
刎ねる!」と、仰せ遣わされた。

神君はその後に引き続いて御馬を出され、御勢も追々走り出てすでに秋山の陣へ打って掛からんとする形勢
であった。これを見て叶わないと思ったのか、秋山は早々に人数を引き纏めて信濃伊那口へと逃げ入った。
(原注:『三河物語』では駿河に入ったとする)岡崎勢は1人も逃すまいと追っ掛けたが、甲斐勢は地理に
熟練しているため、捨鞭を打って逃げ延びた。岡崎勢は牙を噛んで「今少し早ければ、秋山を討ち取ったと
いうのに!」と、名残惜しげに浜松城へ引き返した。

――『改正三河後風土記』


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徳川家康と井伊谷三人衆

2018年12月07日 13:16

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 19:48:55.72 ID:1oZI7Caa
この年(1568)12月、武田信玄が駿河に攻め入るとの旨が聞こえて、神君(徳川家康)は遠江を経略
されんと岡崎城を御出馬され、まず井伊谷城を攻めんと菅沼新八郎定盈、ならびにその家臣・今泉四郎兵衛
延伝に案内者を命じられた。

そもそもこの井伊谷城というのは今川の被官・井伊信濃守直盛の代々の居城であったが、直盛が永禄3年の
今川義元討死の時に同じく討死した後、一族の肥後守直親が遺跡を継いでこの城を守ったが、これも被官・
小野但馬の讒によってあえなく討たれ、幼児・井伊万千代(直政)は三河の方へ漂泊したのである。

神君はこの月朔日、大井川辺りに御陣を張り給うところへ定盈が参陣して、「この城は要害の地に築いた城
なれば、力攻めにせんとすれば虚しく月日を費やして士卒も多く損じることでしょう。某の一族の菅沼次郎
右衛門忠久、ならびに近藤石見守康用・鈴木三郎太夫重時、この3人は井伊谷の豪傑であります。この3人
に恩を施して味方に招きなされば、この城は戦わずして御手に入ることでしょう」と申し上げた。

神君はその申すところもっともであるとし、井伊谷近くへ御馬を進められて菅沼・近藤・鈴木3人に御書を
下され、所領の地を宛がわれた。その御書に言う、

 今回、両三人の計らいにより井伊谷筋から遠江へ打ち出たことは本望である。ついては所々出し置きの
 知行分を長く相違なく不入とし、また扶助するので、もし甲斐よりその知行分について如何様に申され
 ようとも、私の進退にかけて見放すことはありえない。その他のことも申すに及ばず。もしこれを偽る
 ならば、梵天・帝釈天・四大天王、とりわけて富士山・白山、総じて日本国中の神祇による御罰を私は
 蒙るものであろう。よって件の如し。

   永禄11年12月12日
  
            御諱御判

          菅沼次郎右衛門殿
          近藤石見守殿
          鈴木三郎太夫殿

この御書は今も近藤家に伝えている。(原注:井伊肥後守直親の横死後、その被官が7人でこの城を守った
という由なれば、菅沼・近藤・鈴木はその7人の中であろう。鈴木の子孫は現在の水府(水戸藩)の老臣・
鈴木石見守がこれである)

菅沼定盈、ならびに今泉延伝も同じく誓詞を添えて3人の方へ御書を遣わし、3人の方から参らせた誓詞と
人質も定盈が受け取って献じたため、定盈もこの功を賞せられて遠江に新地を下された。またこの3人は後
には井伊直政に付属されて、“井伊谷三人衆”といって武功を人に知られた輩である。

――『改正三河後風土記(近藤菅沼両家譜説)』


三越同盟

2018年11月21日 16:45

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 20:07:43.88 ID:nigKKgzI
(姉川の戦い勝利後)

神君(徳川家康)はこれより先に今川氏真の媒介で越後の上杉謙信と音信を通じられたが、この年7月下旬
に至り、遠江秋葉の別当・加納坊光幡とその婿・熊谷小次郎直包を使者として越後に遣わされ、これからは

ますます仰せ合わされたいとの旨で、浜松御城の図・太刀・馬代金10両を贈られた。謙信は大いに喜んで
「今の世に“海道第一の弓取”と伝えている徳川が、私めの武略を慕って使節を送られた事は謙信にとって
これ以上ない大慶である」として両使に引出物若干を与え、徳川家の老臣に書簡で返礼した。

その文によると、

 追って真鳥羽(矢羽に用いる鷲の羽)20尻を、これまで通りに任せて差し遣します。誠に些少の至り
 ではありますが、未だ申し通じてはおりませんので、一筆啓達します。さて、家康よりよくよく使僧を
 遣わされ、これ以上の大慶はありません。これからは無二に申し合わせたいとの心中ですのでよろしく
 取り成しを頼み入ります。なお子細は口上させます。恐々。

   8月2日  謙信在判

     松平左近丞殿

甲斐の信玄方へは翌年に至り越中の椎名肥前守からこれを告げ知らされたので信玄は大いに嘆き苦しんだ。

――『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』


「さらば掛かれ!」

2018年11月18日 22:09

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/18(日) 16:06:44.95 ID:0sQ0peas
(姉川の戦いの時)

これより先に織田方先陣の坂井右近(政尚)は敵に姉川を越させまいと遮ったが、浅井の先鋒・磯野丹波守(員昌)や
その他に高宮三河・大宇大和・山崎源八郎・前田信濃・蓮台寺常陸など5千余騎が突いて掛かった。坂井は小勢ゆえ

突き立てられて嫡子の久蔵16歳や郎等百人ほどが枕を並べて討死した。右近はこれを知らずに味方の陣へ引き取った
のであった。2陣の池田勝三郎(恒興)も散々に切り崩された。浅井方は切り誇り勝ちに乗じて阿閉・上坂を始め

7千余騎が一足も引かぬと突いて掛かる。木下(秀吉)・森(可成)の備も敗れて、整々堂々たる13段の備は11段
まで切り崩され、信長の旗本も大いに騒動してすでに危うくなった。これを神君は御覧になって「さらば掛かれ!」と

御命じになり、越前勢を追い捨てて浅井勢の中に馬煙を立てて喚き叫び駆け入り給う。稲葉伊予守(良通入道一鉄)は
今朝から徳川勢の後陣に備えて手を虚しくし口惜しく思っていたので、良き幸いと同じく馳せ入り突いて掛かった。

横山城の押さえとして備えている氏家卜全・伊賀伊賀守範秀(安藤守就)の3千余騎も横槍を入れ、徳川勢と双方より
激しく攻め立てれば、浅井長政も力を尽くして戦うもついに戦い負けて総敗軍となった。神君は歯噛みをなして衆人を

励まし命じられれば大久保七郎右衛門(忠世)・本多平八郎(忠勝)・酒井左衛門尉(忠次)・小笠原与八郎(信興)
などは先を争って奮戦した。青山虎之助定規はこれより先に討死す。また浅井方では浅井玄蕃(政澄)・磯野丹波守・
阿閉淡路(貞征)が取って返すも、ついに戦い疲れて玄蕃と淡路は引き退き、磯野は手勢3百ほどで

群がる敵を打ち破り佐和山の居城へ引き取る。浅井雅楽助・同斎之助・加納次郎左衛門・同次郎兵衛・安養寺甚八郎・
同彦六郎・細江左馬之助・早崎吉兵衛・上坂五助・同弥太郎・同次右衛門などは討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


その血は神君の御刀にそそぐほど

2018年11月17日 22:11

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/17(土) 14:35:48.11 ID:QBvZ1LDM
(姉川の戦いの時)

この戦いの半ばで、誰かは分からないが朝倉方の者が御本陣に紛れて神君(徳川家康)に
近寄ろうとしたが天野三郎兵衛康景と加藤喜右衛門正次が怪しみ2人でともに討ち取った。

その血は神君の御刀にそそぐほど御近くでの出来事であった。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


6月28日姉川合戦・徳川勢

2018年11月15日 12:10

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 01:25:00.65 ID:AH/VRodr
(姉川の戦いの時)

28日の暁に信長が敵陣の様子を見られると、浅井勢は8千ほどが野村に備えて東にあり、朝倉勢1万5千ほどが
三田村に備え西にあって姉川を境に陣を取っていた。信長は徳川殿に使者を立て「昨夜軍議を定めたが、我が恨み
は浅井にあるので私が浅井を討つ。徳川殿は朝倉に向かわれよ」と申し送った。酒井左衛門尉(忠次)がこれを

聞いて「味方はすでに浅井に差し向かっています。今にわかに陣備を立て替えようとすれば隊伍は乱れましょう」
と申せば、神君は「浅井は小勢、朝倉は大勢だ。大勢の方へ向かうは勇士の本意である。とにかく織田殿の仰せに
任せる」と御返答されてその使者を返し、にわかに軍列を立て直し西北に向かい直された。

(原注:『柏崎物語』によると南は横山、東は伊吹山と草野山の間より姉川は流れ出る。堤26丁程の高岸なり)

(中略)

徳川勢先手が弓鉄砲を放ち掛けるのを見て越前勢大将・朝倉孫三郎(景健)が「この手の敵はわずかな小勢なり!
打てばたちまち破れるぞ!」と命じれば、平泉寺の衆徒は心得たと徳川勢に切り掛かり、姉川を追いつ返しつ戦う。
折しも6月28日の極暑であり、馬汗や人汗は流水に異ならず。浅井方では磯野丹波守(員昌)がこれを見て、

「越前勢は早くも槍を入れたるぞ!」と呼ばわり、西南に向かって千5百の勢を押し出した。越前勢大将の朝倉
孫三郎が味方を離れて百騎ほどで平泉寺の僧らが力戦する横合から切り掛かり、徳川勢を追い払わんとするのを
見て、御本陣より本多平八郎(忠勝)が急いで馬を馳せて、雷の如く駆け来たるとこの敵を突き破った。

大久保兄弟(忠世・忠佐)と安藤彦四郎直次も同じく馬で馳せ来たりて奮戦する。朝倉孫三郎も激しく命じ諸軍を
進めて敵を川の向こうへ追い立てようとした。石川伯耆守(数正)は姉川の中ほどで返し合わせ、大塚甚三郎は敵
の槍を引き合ったが、ついにその槍を奪い取って敵を突き伏せ首を取った。この功により“又内”という名を賜る。

内藤正成の子・甚一郎正興(正貞)は槍を敵中に落としたので馬を乗り戻し、その槍を取って帰って来た。この時、
朝倉後陣の勢と浅井勢とがひとつになって進む。神君は御覧になって「これでは織田方は利を失うと見える。旗本
より敵の備を崩し掛かれ!」と御命じになり、本多平八郎は「畏まり候」と槍を引っさげ朝倉の1万余騎の中へ

喚いて掛かる。本多豊後守(広孝)を始めとして徳川勢は「平八討たすな!」と一同に3千ほどが突いて掛かった。
松井左近(松平康親)は左手を鞍の前輪に射付けられながら、その矢を抜いて敵を射倒した。松平甚太郎(家忠。
東条松平家)16歳は良く戦った。朝倉方は魚住龍門寺(左衛門尉)ら8千余騎が御本陣を目掛け突いて掛かると

大久保忠勝の子・新八郎広忠(康忠)を始め大久保党やその他に小栗又一(忠政)・服部一郎右衛門などがこれを
迎え打ち高名す。その中でも大久保権十郎忠直は敵の槍を奪ってその敵を突き伏せ首を取った。よって“荒之助”
という名を賜る。この時、神君の御下知あって、榊原小平太(康政)・本多豊後守に「敵の横を打つべし!」と

命じられた。小平太が左右を顧みると前方に水田あり。底は砂石で渡れるので、小平太が馬を乗り入れたのを見て、
豊後守とその子・彦次郎康重や渡辺半蔵(守綱)・本多三弥(正重)・水野太郎作(正重)も進み突戦す。小笠原
与八郎(信興)も進み戦えば、その手の者の渡辺金太夫・門奈左近右衛門・吉原又兵衛・伊達与兵衛・

中山是非之助など(姉川七本槍)も勇を振るう。越前勢はついに敗北して小林瑞周軒・黒坂備中守(景久)・前波
新八郎・同新太郎・魚住龍門寺などといった主だった輩が討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


松村の報告

2018年11月03日 20:56

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 23:40:43.29 ID:CzSJgcY6
徳川家康へ、豊臣秀吉の妹の朝日姫との婚姻に置いて、秀吉は朝日姫に付け参らせるものを探していたが、
近江の中郡に、元は明智光秀が召し使った松村という者があり、これが才知有るとの事で、輿に副えて
家康の元へと赴いた。

後に秀吉は、この松村を招き家康の家風を尋ねた。松村は畏まって申し上げた

「家康は、世間のことは不調法に見えますが、弓矢の儀は勝れて鍛錬の所多きと見えます。
彼は腹を立てて人を叱るときにも、言葉は明らかで理由を詳しく述べます。
また腰の重い人かと思えば、鷹野にて2、3日も御逗留されます。
しわく吝嗇な人物かと思えば、家中に歴々が多く居ります。
何とも、凡眼にて推量するのは難しい人であります。」

秀吉は松村の報告に感じ入り、「人の言行をこのように細やかに察するものは、これまで聞いたことがない。」
と言ったという。

(士談)



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 08:13:57.12 ID:YbqDkvn8
>>449
間者か!

何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、

2018年10月09日 17:25

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 17:04:02.59 ID:3PE+0Tuk
(武田氏滅亡後)

やがて信忠卿は諏訪へ参向されて父子は対面された。信長公は今回の信忠卿の大功は比類なしと
たいへん御誉めになった。かくて父子は計りなさり、

「徳川殿は駿河の諸城を速やかに攻め抜きなさり、その軍功はまったく軽んじるものではない」

として神君に駿河一円を進上された。神君は厚く感謝されてその上で、

「私めと今川家の旧好は忘れるべきものではありません。駿河は今川の旧領なので半国を分けて
氏真に安堵仕られたく存じます」

と仰せになった。信長はまったく御承知にはならず、

「何の用にも立たぬ氏真へくれてやりなさる程に必要ないのならば、信長が所領する!」
(何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、信長所領すべし)

と御怒りになったので、駿河は一円に神君の御領地となされた。

――『改正三河後風土記』



289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 23:46:05.12 ID:9iQGbbh4
後の交流からして意外と家康は本気で今川に恩を感じていたのかもしれない
それにしても到底本気とは思えず対外的なアピールであろうが
それにしても氏真に駿河半国分けたいとか
生き馬の目を抜く戦国の時代に言うとは到底思いがたいな
後世にできた逸話に真偽を問うのは野暮だと判ってはいるが

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:17:50.10 ID:qxcritGB
秀忠と違ってカミギミは自費不快のです

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:25:59.57 ID:LoT/qsy1
>>289
信長急死後、甲斐信濃手に入れても返してない所から見てもな・・・・・

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 19:28:27.93 ID:35C0sJ8M
まあ駿河方面への調略に、上手く行かなかったとは言え氏真に協力してもらっていた以上、
心にもない事でも立場上言うだけは言っておく必要があったのかもしれん。

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:19:13.07 ID:dpeX0mQH
>氏真
同盟破った武田は恨んでたけど徳川は別に恨んでないってのは武将らしくて好きw

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 21:01:48.05 ID:y0IcR6Me
>>287
それは浪士組として上京して、京都に残るメンバーを選別した時だな
新選組として徴募したときには特に制限してない

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:09:20.94 ID:DnnVud2J
>>293
まあ徳川が占拠した遠江はあくまで植民地で、武田が攻めてきた駿河は本国そのものだしな

家康に関連する苗字ネタ2発

2018年09月10日 21:09

265 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/09(日) 19:47:35.82 ID:wCzcxmWK
家康に関連する苗字ネタ2発を投下。ソースは自分が持ってる苗字関連の本から。

①勘解由
三方ヶ原の戦いのあと、三州吉田周辺に勢力をもっていた朝倉某に徳川家康は『勘解由』を与えた。
朝倉勘解由と称した彼の子孫の一部は『勘解由』姓と名乗って今に伝えている。
ちなみに、朝倉姓も勘解由姓も実は愛知県豊橋市が人口全国1位である。


②昼間
1591年、九戸政実が南部信直に反旗を翻し、南部領一帯で大暴れする九戸勢に対して豊臣秀吉から討伐を命じられた。
一路九戸へと出陣することとなった家康は井伊直政ら精鋭を引き連れて行った。
6月下旬~7月上旬のある日、家康は河越から岩付に向かう途中、夜中に入間川or荒川の橋を渡ることとなった。(元荒川のほうではない)
しかし、大軍ゆえによる人数分の松明を用意しておらず、渡ることに難儀していた。
そこにたまたま居合わせた近所の村民が対岸より松明を灯して家康軍を迎え入れた。
その明るさはまるで夜中なのに昼間のように明るかったため、無事に川を越えることができた家康は喜び、村民に『昼間』姓を授けた。

余談だが、家康は直政の一族にもある時に『昼間』姓を授けたそうだ。何で?
ちなみに小柴教授をノーベル賞へと導いた昼間輝夫氏は井伊系昼間氏の末裔かな?



266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 20:45:23.91 ID:z+zy6/DF
>>265
朝倉って宗滴が絡んだ騒動の時に越前から流れてきたんだっけか?

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 21:09:26.35 ID:QLSVHmyP
東三河は勘解由さん普通にいるな
朝倉さんや朝比奈さんも見るけど鶴屋さんは会ったことがないな

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 21:13:46.44 ID:poCWem/I
大学の同級生で伊地知っていう奴がいて、あ~鹿児島出身だな知ってる知ってる
と聞いてみたら全然違った思ひ出

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 21:26:12.64 ID:v+y1rya+
>>267
懐かしいラノベネタを

徳島県三好郡にも昼間って地名はあるけど
そっちは涸沼(ひぬま)、沼を干拓したとか聞いた
こっちもそういう地名がもとで家康の名付けは後付かも

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 21:32:25.78 ID:ZVXW6vWX
>>268
ルーツがそこにあるかも知れんけど子孫までそこ出身とは限らんからな

271 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/09(日) 22:38:04.69 ID:wCzcxmWK
>>266
自分もそう思ってたんだけど、わかる範囲内で該当する人物がおらず。
朝倉景高の息子のことかと思ったけども違ったので某にしました。
在地豪族の三河朝倉氏かもしれない。
景高の息子の在重は河内守で他は見当たらず。所領も駿河国。
在重も家康に仕えていたから在重のことだと思い込んでた。

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 09:43:13.97 ID:96WbM6v2
>>268
まあその名前から見て維新後に役人として東京ほか地方に赴任してそのまま居ついたのかもしれんしな

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 17:58:00.69 ID:/8Q7GE1N
数年前に会った鹿児島出身の伊地知さんて人に会ったら
坂の上の雲のおかげで苗字は覚えてくれるけど印象が悪いと自虐してた

駿河なる 富士の山にて 甲斐喰ひて

2018年09月08日 17:14

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/08(土) 13:28:08.62 ID:w0IFeFGc
天正7年(1579)己卯正月の頃、蓑笠之助という者が夢想に発句を感得した。

「駿河なる 富士の山にて 甲斐喰ひて」

この句を目出度き句として(徳川家康は)のし付きの太刀を賜り、その句を買いなさった。
またその頃、内藤四郎左衛門正成が夢中に感得したとして和歌を申し上げた。

「咲花に 和泉河内の 治りて 黄金の橋を わたる米倉」

とりどり目出度きこととして御館の人々は語り伝え、この歌夢を見てより百日に満ちる夜、
三郎君が御生まれになった。これは台徳院大相国(徳川秀忠)の御事なり。

遠江敷地郡浜松城で御生まれになり、御幼名を長丸君と申す。御首服をかえなさり秀忠公
と申し奉る。

――『改正三河後風土記(以貴小伝)』


家康の米蔵

2018年08月17日 17:15

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 22:54:37.73 ID:5HD4XDkV
徳川家康の御代のこと。江戸の御蔵に納める米が非常に多く、故に欠米も多かった。
そのうえ、諸国の御代官所より当地までの運送の際の欠損も甚だ多かった。

そこで勘定方の者達より
「江戸の御蔵米の棟数を減らし、産地の近くで保管するか販売すれば、随分の徳と成ります。」
そう申し上げた所、家康は以ての外に機嫌を悪くして言った

「蔵の数が多いため欠米なども多く、私の損になっているという事は、かねてより知っていた。
しかしながら万一の事が起こり、諸国の新穀の、当地への運送が難しくなる、という事もあるだろう。
そのような時は米の値段も高騰し、諸方より集まっている江戸の人々が食料に難儀する事態も
考えられる。そういった時に米の放出が出来るように、江戸に米蔵を多く設置したのだ。

勘定方の者達は、今や天下の勘定頭とも呼ばれている。そういった者達がこんな事を、私のためだと
言い聞かせるような事が有って良いものか!?」

そう、殊の外叱ったという。

(駿河土産)

家康的にこういう損は許容範囲なんだな



178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 23:11:14.81 ID:98ciTnX6
大人口抱える都市は、ほんと備蓄が重要だなぁ…
足りないという噂が出るだけで米価が上がって大騒動になりかねないし。

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 04:11:18.70 ID:2aA0/P+T
損がでるからやめようよってのは今でもよくある話で目的を逸脱してることあるよな。

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 07:00:28.61 ID:g3i+Xb7x
建物を改修すると赤字になるので営業を終了させられた娯楽施設があったなあ

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 07:38:08.45 ID:GgA1qgKB
トヨタ方式で部品在庫を極限まで圧縮したら、東日本大震災でサプライチェーンが止まって、世界中の生産がピンチとかあったな

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 16:11:03.08 ID:0WeGR5bi
>>181
その代わり在庫に被害も出なかったけどね

てんかとりしつめ候

2018年08月15日 11:16

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 00:35:14.43 ID:+pbE6rsn
てんかとりしつめ候


以下は関ヶ原の戦いの後、池田輝政の祖母・養徳院
戦勝を祝う書状と贈り物を送ったことに対する家康の返書の意訳。

お手紙および贈り物を二品お送りいただき、祝着に存じます。
お聞きの通り、天下を取り鎮めました(原文:てんかとりしつめ候)。
三左衛門殿(池田輝政)も一段とご心労があったことでしょう。
何にせよめでたいのは、重ね重ね申される通りでございます。
めでたくかしく

やうとく院(養徳院)     内ふ(家康)


――『林原美術館所蔵池田家文書19号』


東照大権現、明暦の大火を警告する

2018年08月13日 18:43

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 18:23:06.99 ID:2royz9GR
酉年江戸大火(明暦の大火)前の除夜半過の時分、(久能山東照宮において)角材木を板啄に
打ち付けるような音がしたので、いずれの者も驚いた。御神前の番・相田喜左衛門と申す者は

御供所の方からと聞いて見に出ると、御供所にいた神田武兵衛と鈴木次郎三郎は神楽所の辺り
から音を聞いたとのことで、出合わせて見てみたが何ら変わった様子もなかった。

また常々御神前には鼠が多いため、御供えの餅を鼠が食べないように毎年寝ずの番をしていた
のだが、明くる正月3日の晩から突然鼠がいなくなったので火の用心をしていたところ、

18日・19日に江戸で大火事があった。以後また鼠が出るようになった。

――『東照宮御奇瑞記』

東照大権現、明暦の大火を警告するというお話。


私が道悪しき場所で馬より降りるのは

2018年08月08日 19:50

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 16:17:44.39 ID:xiowr2gD
権現様(徳川家康)ご若年の頃より、少しでも馬が歩きずらそうな場所では馬より降りて
歩いていった。或る時、近習衆へこの事について仰られた。

「私が道悪しき場所で馬より降りるのは、大坪流極意の一伝であるぞ。
まあ総じて、少し危ういと思うような場所では馬には乗らぬものだ。

もしその身が大身で、乗り換えの馬も引かせているのならともかく、今一頭の馬を乗り歩いている
小身侍などは、ずいぶん馬の脚をかばうべきだ。馬に乗れば乗ることばかりを心得、少しも
これを労る心が無く、その足を損じさせて、「ここは馬に乗らなければならない」という場所で
乗れぬようになってしまえば、それは散々のことだ。よく心得ておくべきだ。」

(駿河土産)



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 10:36:35.06 ID:kMUPg0E8
卜伝が暴れ馬を避けて歩いた話と同じく
高度な技術に頼って無意味なリスクを冒すのは
メリットがないからやめろという教え

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 20:18:15.99 ID:rg+LDHpQ
まあ頼朝も落馬で死んじゃったし、危なそうなら降りろってのは正論よね

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 22:00:52.70 ID:+U0HYjuh
頼朝って悪路で落馬したの?

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 23:12:53.35 ID:vPCYguTQ
そうすると鬼武蔵の百段ってマジ名馬だな

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 23:24:43.18 ID:Nm+WJLR1
龐統「殿の名馬を借りるンゴw」

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 00:07:21.92 ID:uv7tQI/c
騎馬民族の最高峰と言えるチンギス・ハーンですら落馬の話あるし、本当に危ない

布橋由来

2018年08月02日 13:10

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/02(木) 12:40:05.67 ID:s61QDbDi
前に銭取の地名の由来を書いたけど、布橋は書いたっけかな?

三方ヶ原で大敗した徳川軍
何としても一矢報いたいと ある計略を持って武田軍に夜襲を掛ける
大勝利に絶賛油断中の武田軍は後方よりの突然の奇襲に蜂の巣を突いた様な
恐慌状態に
「奇襲じゃ!」「逃げろ逃げろ!」「あそこに橋があるぞ!」「渡って逃げろ!」
「!! うわーー!!」
唯一残る逃げ道に兵達は殺到、しかしこんなところに橋なんてあったか?
そう武田軍に仕掛けた計略はこの橋
実は夜襲の前に谷に布を渡し橋のように見せかけていたのだ
殺到する人馬の勢いは止められず崖の下にはおびただしい数の兵士や
馬の死骸が山の様に積み重なっていたという

局地戦で見事意趣返しに成功した徳川家
しかしその後この崖から夜な夜なうめき声の様なものが聞こえ続け
数年後に慰霊の大念仏を家康が執り行うまで地域の住民を苦しめ続けたという




5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 14:59:15.81 ID:EaDFqGME
>>3
こんなデタラメな言い伝えを残したくなるぐらいに、完膚なきまでに負けたってことなんだろうなぁ…

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 15:20:42.89 ID:BjQSFajr
本当の伝承は負けて逃げる途中にあった崖に家康が褌を掛ければたちまち布が石になって徳川軍は逃げることができ
追ってきた武田軍が渡る頃には石が元の布に戻り武田の徒士が転落したというもの
地元じゃこの説が有力

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 15:36:46.83 ID:EaDFqGME
>>6
どっちにしたってあり得ん話やん…

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 19:10:51.28 ID:8Tj6olph
>>3
まとめの10964
此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも


で後世の伝承以外が出てた

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 09:55:46.27 ID:WSX/lJ7W
流石に脳内地元民ではないのかそれ

鷹に鶴を取らせる心

2018年07月04日 22:41

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/04(水) 21:45:13.29 ID:chNAFmln
本多佐渡守(正信)の一族に、本多加信という人が居た。

彼の物語に、ある時権現様(徳川家康)の御前に、あん信という唐人が招かれ、家康はこの唐人に、
唐船の事を詳しく尋ねた。そしてその後、このように言われた

「日本船が唐船と戦うときは、鷹に鶴を取らせる心が無ければ勝利することは出来ない。
例えば、千町の田地に鶴が多く有る時、これを取るために逸物の鷹を千羽求めても、鷹師が下手なら
鶴を取ることなど出来ない。

鷹師が上手ならば、予てからそのための訓練を行い、また当日の天気と風と距離を考え、息を合わせ
調子を合する時は、たとえ一羽であっても鶴を取ること疑いない。
進物の鷹が、どれほど心剛だとしても、その鷹の資質だけでは鶴を取ることは出来ないのだ。

唐船と日本船は、この鶴と鷹のようなものだ。日本船がどれだけ心剛だとしても、それだけでは
彼に勝つことは難しい。将が予てからその戦いを想定していることが必要なのだ。

(松永道齋聞書)

唐船に限らず、合戦すべてに必要な心構えでもあるのでしょうね。



54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/04(水) 22:20:04.42 ID:jbqGHTD4
まあ、基本的には日本船の性能が劣るからなあ。

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 20:32:30.54 ID:Pi+ZurNJ
>>53
三浦按針ではなかろうか

合戦というものは結局、気負い次第

2018年07月01日 21:07

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 00:49:51.09 ID:QOgqRimO
大阪の陣の時、権現様(徳川家康)はこのように仰った
「何度やっても本当に理解できるものではないが、しかし合戦というものは結局、気負い次第なのだ。
今回ならば、秀頼と組み合い、最後に上になった者が勝つということだ。」

これ以外に、大阪の陣に置いて軍法に関する仰せ出は無かったという。

(諸士軍談)



43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 13:56:04.98 ID:xUOsaneP
最後は気合い。

大坂御陣中御支度の事

2018年07月01日 21:07

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 20:13:07.83 ID:xUOsaneP
大坂御陣中御支度の事

 大坂冬の陣では、諸大名の軍勢に兵糧を給与した。およそ三十万人、一日に千五百石。
遠国の兵には倍を支給した。夏の陣では、家康は、松下浄慶を呼び出し、大坂の賄支度は、
膳米五升、干鯛一枚、味噌、鰹節、香物、少しばかりを用意せよ。それ以上はいらないと
仰せられた。そのため台所用品は、長持一棹のみで事足りたという。

(常山紀談)

 家康ネタを重ねる。
 夏の陣は数日で済むと、最初から見通していたわけか。京都が出撃拠点だから、そのく
らいで充分事足りたのかな。一日一升食べても、5日分。

 おかずが足りないような気がするけど。具なし味噌汁と干鯛一かけら、漬物で山ほどの
飯を食う。天下人として、ものすごい質素だな。それとも、おかずが誰かが献上するのだ
ろうか。



45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 22:01:36.50 ID:ub6eO5wf
鰹節って江戸時代に入ってからだよね?
少なくとも大坂の陣の頃はポピュラーな食べ物じゃない筈

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 23:03:38.98 ID:syCr0qO5
>>45
花鰹なら15世紀末の包丁書に出てきてる
それのことじゃないのかな
でなければようやく製法が編み出されたいまの鰹節に近いもの

山中行軍での用心

2018年05月17日 17:55

902 名前:人間七七四年[mage] 投稿日:2018/05/17(木) 14:36:46.05 ID:K//rCD5n
山中行軍での用心

ある時、家康公が山中を行軍されていた際、鐙に足をかけない者たちをお見かけになった。
家康公は丹沢久助を呼んで訳をお尋ねになった。
丹沢は「馬が暴れたとき、ころりと落馬すれば人も馬も大して手負いしないものです。
しかし、馬にしがみつけば人は引きずられ、或いは踏みつけられ、馬はますます狂乱して手がつけられなくなります。
ましてこのような山道では小勢(の攻撃)でも(そのようなことになりやすく、そうなれば)お味方に与える損害は大きなものになります。
そのため鐙に足をかけさせないのです」と答えた。
家康公は「これこそ用心というべきものだ」とお褒めになり、
「鐙用いぬ者の落馬を笑ってはならない」とおっしゃった。



907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 22:17:46.33 ID:mMO4sL5q
>>902
とても良い話だ
俺も馬乗り始めた時、鎧なしで乗せられて内股が筋肉痛になって歩けなくなったが
そんな事を戦国時代にやってるとは思わんかった
目から鱗だわ

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 08:25:07.72 ID:w7pC9Y0m
>>907
なんのために鐙なしだったの?
転んだとき引きずられるから?

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 09:22:32.94 ID:XgdJGW5s
踏ん張らずに素直に落ちろってことだろ

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 10:39:18.36 ID:OhIEcNTF
馬は太腿で挟んで乗るもの、鐙や鞍はあくまでも補助。とか言われて座布団だけ乗っけた馬に乗せられてたな

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 17:49:39.47 ID:tk8eyJAB
清水某「両足でギュッとしめたら愛馬が死んじゃったでござる」

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 20:11:27.40 ID:g/ZshpEs
>>909
人馬一体になるためっていきなり鐙は使うなと言われて手綱は持たず両手は水平に伸ばして
内股だけで馬にしがみつくような感じ
鞍だけはつけてくれたw
一日中(10時間位)乗って降りてから駅まで帰る時に普通に歩けなかった

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 20:34:33.85 ID:KnvGSCC7
>>913
バイクでいうニーグリップだけでバランスを取る感じ?

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 04:00:31.20 ID:49RyciQl
>>914
ニーグリップってのが分からないが
馬の腹を内股で挟んで上半身は腹を凹ませ胸をこれ以上無理って所まで張って保持
馬の動きに合わせてセックルの女性上位みたいな感じでずっと動くのだけど
その時も又力のみで上半身は張り詰めまくってしがみつく感じ
上半身のバランスを崩したら多分振り落とされる
馬に乗ると姿勢が良くなるってのはおそらくここら辺から来てるのだと思う
ちな、鬼籍に入ったけど母は北海道の出身で裸馬平気な人で鞍も手綱も不必要な人だった
鞍を付けたらもう既に人馬一体な感じで
往年は大井競馬場に犬の散歩がてら行って非開催日に犬も上げて馬に乗ってたw
長文すまん、いつも誰かが載っけた話に勝手に評価してみんなに迷惑かけて済まぬと思ってる
あまりにも良い話に出会ってしまって興奮してしまった
水谷さん大名になってたら立花宗茂並にすげー人だったんだろうなと思いながら眠ります

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 21:07:35.46 ID:3JuLBCgO
>>902
これは酷い怪我をしないように心がけているのが偉いんじゃなくて、不意の急襲の際に味方へ被害を与えないようにしている心がけが立派ってことなんだろうね。

ところで、家康はなぜ丹沢という人を呼んだんだろう?馬術がうまかったのかな?

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 21:17:46.12 ID:prsFsTPU
久助は大事な喧嘩友達

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/21(月) 17:08:42.13 ID:BQWXmI/o
>>929
鐙使ってない侍が彼の家来だったんじゃない?
旗指物でわかるでしょ。

【ニュース】 <歴史>「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級

2018年04月04日 17:52

752 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/04(水) 15:06:01.88 ID:2/N52Qoq
<歴史>「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180404-00000029-mai-soci.view-000

徳川家康が豊臣家を滅ぼした大坂冬の陣(1614年)、夏の陣(15年)の詳細な陣形を記録した
最古級、最大級の陣図が見つかった、と広島県立歴史博物館(福山市)が4日、発表した。
大阪歴史博物館(大阪市中央区)は「主戦場だった城外の部隊配置まで詳しく示された陣図は過去に例がなく、
戦いの様子を知る重要な史料といえる」としている。


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753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/04(水) 18:49:19.67 ID:yipZGTqw
この調子で関ヶ原も頼む