FC2ブログ

家康の米蔵

2018年08月17日 17:15

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 22:54:37.73 ID:5HD4XDkV
徳川家康の御代のこと。江戸の御蔵に納める米が非常に多く、故に欠米も多かった。
そのうえ、諸国の御代官所より当地までの運送の際の欠損も甚だ多かった。

そこで勘定方の者達より
「江戸の御蔵米の棟数を減らし、産地の近くで保管するか販売すれば、随分の徳と成ります。」
そう申し上げた所、家康は以ての外に機嫌を悪くして言った

「蔵の数が多いため欠米なども多く、私の損になっているという事は、かねてより知っていた。
しかしながら万一の事が起こり、諸国の新穀の、当地への運送が難しくなる、という事もあるだろう。
そのような時は米の値段も高騰し、諸方より集まっている江戸の人々が食料に難儀する事態も
考えられる。そういった時に米の放出が出来るように、江戸に米蔵を多く設置したのだ。

勘定方の者達は、今や天下の勘定頭とも呼ばれている。そういった者達がこんな事を、私のためだと
言い聞かせるような事が有って良いものか!?」

そう、殊の外叱ったという。

(駿河土産)

家康的にこういう損は許容範囲なんだな



178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 23:11:14.81 ID:98ciTnX6
大人口抱える都市は、ほんと備蓄が重要だなぁ…
足りないという噂が出るだけで米価が上がって大騒動になりかねないし。

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 04:11:18.70 ID:2aA0/P+T
損がでるからやめようよってのは今でもよくある話で目的を逸脱してることあるよな。

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 07:00:28.61 ID:g3i+Xb7x
建物を改修すると赤字になるので営業を終了させられた娯楽施設があったなあ

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 07:38:08.45 ID:GgA1qgKB
トヨタ方式で部品在庫を極限まで圧縮したら、東日本大震災でサプライチェーンが止まって、世界中の生産がピンチとかあったな

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 16:11:03.08 ID:0WeGR5bi
>>181
その代わり在庫に被害も出なかったけどね
スポンサーサイト

てんかとりしつめ候

2018年08月15日 11:16

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 00:35:14.43 ID:+pbE6rsn
てんかとりしつめ候


以下は関ヶ原の戦いの後、池田輝政の祖母・養徳院
戦勝を祝う書状と贈り物を送ったことに対する家康の返書の意訳。

お手紙および贈り物を二品お送りいただき、祝着に存じます。
お聞きの通り、天下を取り鎮めました(原文:てんかとりしつめ候)。
三左衛門殿(池田輝政)も一段とご心労があったことでしょう。
何にせよめでたいのは、重ね重ね申される通りでございます。
めでたくかしく

やうとく院(養徳院)     内ふ(家康)


――『林原美術館所蔵池田家文書19号』


東照大権現、明暦の大火を警告する

2018年08月13日 18:43

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 18:23:06.99 ID:2royz9GR
酉年江戸大火(明暦の大火)前の除夜半過の時分、(久能山東照宮において)角材木を板啄に
打ち付けるような音がしたので、いずれの者も驚いた。御神前の番・相田喜左衛門と申す者は

御供所の方からと聞いて見に出ると、御供所にいた神田武兵衛と鈴木次郎三郎は神楽所の辺り
から音を聞いたとのことで、出合わせて見てみたが何ら変わった様子もなかった。

また常々御神前には鼠が多いため、御供えの餅を鼠が食べないように毎年寝ずの番をしていた
のだが、明くる正月3日の晩から突然鼠がいなくなったので火の用心をしていたところ、

18日・19日に江戸で大火事があった。以後また鼠が出るようになった。

――『東照宮御奇瑞記』

東照大権現、明暦の大火を警告するというお話。


私が道悪しき場所で馬より降りるのは

2018年08月08日 19:50

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 16:17:44.39 ID:xiowr2gD
権現様(徳川家康)ご若年の頃より、少しでも馬が歩きずらそうな場所では馬より降りて
歩いていった。或る時、近習衆へこの事について仰られた。

「私が道悪しき場所で馬より降りるのは、大坪流極意の一伝であるぞ。
まあ総じて、少し危ういと思うような場所では馬には乗らぬものだ。

もしその身が大身で、乗り換えの馬も引かせているのならともかく、今一頭の馬を乗り歩いている
小身侍などは、ずいぶん馬の脚をかばうべきだ。馬に乗れば乗ることばかりを心得、少しも
これを労る心が無く、その足を損じさせて、「ここは馬に乗らなければならない」という場所で
乗れぬようになってしまえば、それは散々のことだ。よく心得ておくべきだ。」

(駿河土産)



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 10:36:35.06 ID:kMUPg0E8
卜伝が暴れ馬を避けて歩いた話と同じく
高度な技術に頼って無意味なリスクを冒すのは
メリットがないからやめろという教え

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 20:18:15.99 ID:rg+LDHpQ
まあ頼朝も落馬で死んじゃったし、危なそうなら降りろってのは正論よね

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 22:00:52.70 ID:+U0HYjuh
頼朝って悪路で落馬したの?

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 23:12:53.35 ID:vPCYguTQ
そうすると鬼武蔵の百段ってマジ名馬だな

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 23:24:43.18 ID:Nm+WJLR1
龐統「殿の名馬を借りるンゴw」

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 00:07:21.92 ID:uv7tQI/c
騎馬民族の最高峰と言えるチンギス・ハーンですら落馬の話あるし、本当に危ない

布橋由来

2018年08月02日 13:10

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/02(木) 12:40:05.67 ID:s61QDbDi
前に銭取の地名の由来を書いたけど、布橋は書いたっけかな?

三方ヶ原で大敗した徳川軍
何としても一矢報いたいと ある計略を持って武田軍に夜襲を掛ける
大勝利に絶賛油断中の武田軍は後方よりの突然の奇襲に蜂の巣を突いた様な
恐慌状態に
「奇襲じゃ!」「逃げろ逃げろ!」「あそこに橋があるぞ!」「渡って逃げろ!」
「!! うわーー!!」
唯一残る逃げ道に兵達は殺到、しかしこんなところに橋なんてあったか?
そう武田軍に仕掛けた計略はこの橋
実は夜襲の前に谷に布を渡し橋のように見せかけていたのだ
殺到する人馬の勢いは止められず崖の下にはおびただしい数の兵士や
馬の死骸が山の様に積み重なっていたという

局地戦で見事意趣返しに成功した徳川家
しかしその後この崖から夜な夜なうめき声の様なものが聞こえ続け
数年後に慰霊の大念仏を家康が執り行うまで地域の住民を苦しめ続けたという




5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 14:59:15.81 ID:EaDFqGME
>>3
こんなデタラメな言い伝えを残したくなるぐらいに、完膚なきまでに負けたってことなんだろうなぁ…

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 15:20:42.89 ID:BjQSFajr
本当の伝承は負けて逃げる途中にあった崖に家康が褌を掛ければたちまち布が石になって徳川軍は逃げることができ
追ってきた武田軍が渡る頃には石が元の布に戻り武田の徒士が転落したというもの
地元じゃこの説が有力

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 15:36:46.83 ID:EaDFqGME
>>6
どっちにしたってあり得ん話やん…

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 19:10:51.28 ID:8Tj6olph
>>3
まとめの10964
此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも


で後世の伝承以外が出てた

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 09:55:46.27 ID:WSX/lJ7W
流石に脳内地元民ではないのかそれ

鷹に鶴を取らせる心

2018年07月04日 22:41

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/04(水) 21:45:13.29 ID:chNAFmln
本多佐渡守(正信)の一族に、本多加信という人が居た。

彼の物語に、ある時権現様(徳川家康)の御前に、あん信という唐人が招かれ、家康はこの唐人に、
唐船の事を詳しく尋ねた。そしてその後、このように言われた

「日本船が唐船と戦うときは、鷹に鶴を取らせる心が無ければ勝利することは出来ない。
例えば、千町の田地に鶴が多く有る時、これを取るために逸物の鷹を千羽求めても、鷹師が下手なら
鶴を取ることなど出来ない。

鷹師が上手ならば、予てからそのための訓練を行い、また当日の天気と風と距離を考え、息を合わせ
調子を合する時は、たとえ一羽であっても鶴を取ること疑いない。
進物の鷹が、どれほど心剛だとしても、その鷹の資質だけでは鶴を取ることは出来ないのだ。

唐船と日本船は、この鶴と鷹のようなものだ。日本船がどれだけ心剛だとしても、それだけでは
彼に勝つことは難しい。将が予てからその戦いを想定していることが必要なのだ。

(松永道齋聞書)

唐船に限らず、合戦すべてに必要な心構えでもあるのでしょうね。



54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/04(水) 22:20:04.42 ID:jbqGHTD4
まあ、基本的には日本船の性能が劣るからなあ。

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 20:32:30.54 ID:Pi+ZurNJ
>>53
三浦按針ではなかろうか

合戦というものは結局、気負い次第

2018年07月01日 21:07

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 00:49:51.09 ID:QOgqRimO
大阪の陣の時、権現様(徳川家康)はこのように仰った
「何度やっても本当に理解できるものではないが、しかし合戦というものは結局、気負い次第なのだ。
今回ならば、秀頼と組み合い、最後に上になった者が勝つということだ。」

これ以外に、大阪の陣に置いて軍法に関する仰せ出は無かったという。

(諸士軍談)



43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 13:56:04.98 ID:xUOsaneP
最後は気合い。

大坂御陣中御支度の事

2018年07月01日 21:07

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 20:13:07.83 ID:xUOsaneP
大坂御陣中御支度の事

 大坂冬の陣では、諸大名の軍勢に兵糧を給与した。およそ三十万人、一日に千五百石。
遠国の兵には倍を支給した。夏の陣では、家康は、松下浄慶を呼び出し、大坂の賄支度は、
膳米五升、干鯛一枚、味噌、鰹節、香物、少しばかりを用意せよ。それ以上はいらないと
仰せられた。そのため台所用品は、長持一棹のみで事足りたという。

(常山紀談)

 家康ネタを重ねる。
 夏の陣は数日で済むと、最初から見通していたわけか。京都が出撃拠点だから、そのく
らいで充分事足りたのかな。一日一升食べても、5日分。

 おかずが足りないような気がするけど。具なし味噌汁と干鯛一かけら、漬物で山ほどの
飯を食う。天下人として、ものすごい質素だな。それとも、おかずが誰かが献上するのだ
ろうか。



45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 22:01:36.50 ID:ub6eO5wf
鰹節って江戸時代に入ってからだよね?
少なくとも大坂の陣の頃はポピュラーな食べ物じゃない筈

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 23:03:38.98 ID:syCr0qO5
>>45
花鰹なら15世紀末の包丁書に出てきてる
それのことじゃないのかな
でなければようやく製法が編み出されたいまの鰹節に近いもの

山中行軍での用心

2018年05月17日 17:55

902 名前:人間七七四年[mage] 投稿日:2018/05/17(木) 14:36:46.05 ID:K//rCD5n
山中行軍での用心

ある時、家康公が山中を行軍されていた際、鐙に足をかけない者たちをお見かけになった。
家康公は丹沢久助を呼んで訳をお尋ねになった。
丹沢は「馬が暴れたとき、ころりと落馬すれば人も馬も大して手負いしないものです。
しかし、馬にしがみつけば人は引きずられ、或いは踏みつけられ、馬はますます狂乱して手がつけられなくなります。
ましてこのような山道では小勢(の攻撃)でも(そのようなことになりやすく、そうなれば)お味方に与える損害は大きなものになります。
そのため鐙に足をかけさせないのです」と答えた。
家康公は「これこそ用心というべきものだ」とお褒めになり、
「鐙用いぬ者の落馬を笑ってはならない」とおっしゃった。



907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 22:17:46.33 ID:mMO4sL5q
>>902
とても良い話だ
俺も馬乗り始めた時、鎧なしで乗せられて内股が筋肉痛になって歩けなくなったが
そんな事を戦国時代にやってるとは思わんかった
目から鱗だわ

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 08:25:07.72 ID:w7pC9Y0m
>>907
なんのために鐙なしだったの?
転んだとき引きずられるから?

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 09:22:32.94 ID:XgdJGW5s
踏ん張らずに素直に落ちろってことだろ

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 10:39:18.36 ID:OhIEcNTF
馬は太腿で挟んで乗るもの、鐙や鞍はあくまでも補助。とか言われて座布団だけ乗っけた馬に乗せられてたな

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 17:49:39.47 ID:tk8eyJAB
清水某「両足でギュッとしめたら愛馬が死んじゃったでござる」

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 20:11:27.40 ID:g/ZshpEs
>>909
人馬一体になるためっていきなり鐙は使うなと言われて手綱は持たず両手は水平に伸ばして
内股だけで馬にしがみつくような感じ
鞍だけはつけてくれたw
一日中(10時間位)乗って降りてから駅まで帰る時に普通に歩けなかった

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 20:34:33.85 ID:KnvGSCC7
>>913
バイクでいうニーグリップだけでバランスを取る感じ?

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 04:00:31.20 ID:49RyciQl
>>914
ニーグリップってのが分からないが
馬の腹を内股で挟んで上半身は腹を凹ませ胸をこれ以上無理って所まで張って保持
馬の動きに合わせてセックルの女性上位みたいな感じでずっと動くのだけど
その時も又力のみで上半身は張り詰めまくってしがみつく感じ
上半身のバランスを崩したら多分振り落とされる
馬に乗ると姿勢が良くなるってのはおそらくここら辺から来てるのだと思う
ちな、鬼籍に入ったけど母は北海道の出身で裸馬平気な人で鞍も手綱も不必要な人だった
鞍を付けたらもう既に人馬一体な感じで
往年は大井競馬場に犬の散歩がてら行って非開催日に犬も上げて馬に乗ってたw
長文すまん、いつも誰かが載っけた話に勝手に評価してみんなに迷惑かけて済まぬと思ってる
あまりにも良い話に出会ってしまって興奮してしまった
水谷さん大名になってたら立花宗茂並にすげー人だったんだろうなと思いながら眠ります

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 21:07:35.46 ID:3JuLBCgO
>>902
これは酷い怪我をしないように心がけているのが偉いんじゃなくて、不意の急襲の際に味方へ被害を与えないようにしている心がけが立派ってことなんだろうね。

ところで、家康はなぜ丹沢という人を呼んだんだろう?馬術がうまかったのかな?

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 21:17:46.12 ID:prsFsTPU
久助は大事な喧嘩友達

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/21(月) 17:08:42.13 ID:BQWXmI/o
>>929
鐙使ってない侍が彼の家来だったんじゃない?
旗指物でわかるでしょ。

【ニュース】 <歴史>「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級

2018年04月04日 17:52

752 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/04(水) 15:06:01.88 ID:2/N52Qoq
<歴史>「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180404-00000029-mai-soci.view-000

徳川家康が豊臣家を滅ぼした大坂冬の陣(1614年)、夏の陣(15年)の詳細な陣形を記録した
最古級、最大級の陣図が見つかった、と広島県立歴史博物館(福山市)が4日、発表した。
大阪歴史博物館(大阪市中央区)は「主戦場だった城外の部隊配置まで詳しく示された陣図は過去に例がなく、
戦いの様子を知る重要な史料といえる」としている。


DZ6gfe0WAAIhzvf.jpg



753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/04(水) 18:49:19.67 ID:yipZGTqw
この調子で関ヶ原も頼む

慶長14年元日<甲申>、毎年の如し

2018年01月01日 15:59

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 02:47:36.61 ID:tVmQDz8f
慶長14年元日<甲申>、駿河・江戸の士が出仕。毎年の如し。

美濃国や伊勢国の先方衆は、駿河で越年しなかったので、
大御所(徳川家康)は無興しなさった。

同日、江戸品川町で火事。

4日、江戸本町で火事。5町ほどが焼失。石川玄蕃(康長)の
家もこの内にあった。<時に信州府中の城主なり>

7日<庚寅>、大御所が鷹狩りをされる。遠江に御出になられ、
そのうえ尾張まで御出になるとのことだったという

――『当代記』



ホワイトな社風です。

2017年12月23日 10:39

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 19:13:54.68 ID:CKRcIiGB
徳川家康が上杉征伐のため小山まで出陣の時、御供の小身衆の内に、妻女が患ったとの
知らせが届いた。そしてその話は家康まで聞こえた。
家康はその者に「早々に罷り帰るように。」と命じた。
この時家康は

「小身者の妻子が患っては、その家滅亡の端である。しかし合戦は今に限ることではない。」

そう伝えたという。

(士談)

徳川家は家族の看護休暇も奨励するホワイトな社風です。



529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 23:17:27.69 ID:gForfx/V
変な話、他全員も「ウチも奥さんが病気なんです。帰らせて下さい」って言い出したら家康ははたして「いいよ」と言っただろうか

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 23:53:05.73 ID:/EONut+W
申告が事実かどうか確かめるくらいはするだろ

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/23(土) 10:36:41.81 ID:juvFA36B
神君様のことであるから上杉征伐は合戦にはいたらないと見切っての余裕の処遇であったのである

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/23(土) 14:06:23.06 ID:jQhcW3Gv
合戦こそ今に限る話だろうに、この場合は消化試合に近い余裕かね

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 15:41:46.13 ID:5U6+iqs7
普通に石田を誘うための高度な戦略でええやん

人になれ人 人になせ人

2017年12月17日 12:26

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 11:33:38.32 ID:ucE4xaRX
将軍徳川家光が、久世大和守広之を、嫡子である家綱に付けるという時、家光は
久世を召して、この事を仰せ付けたものの、久世は一切お請け申し上げなかった。
家光の傍にあった堀田加賀守正盛は「早々御請あるべし」と勧めたが、久世は堀田に目を向け
「御辺の知る所に非ず!」と睨みつけた。その表情が普段と異なるのを、家光は見抜き、
不意に立ち上がった。
お傍の人々は「あわやご機嫌を損じたか」と驚き慌てたが、家光は筆を執ると短冊にこう書いた。

『人多き 人の中にも人はなし 人になれ人 人になせ人』

これは大神君(家康)の詠んだ歌であり、これを久世に与えた。
久世は「これならば」と、上意骨髄に徹し、有難く畏まって申し請けた。

(武野燭談)


此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも

2017年09月20日 18:56

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 13:56:29.58 ID:OF8oWH05
幕末、坂下門外の変で老中の安藤信正が襲撃された際、
背中に刀傷を受け武士として恥ずかしい行為と罷免されたけど、

部下を身代わりにしたうえ、ウンコ漏らして逃走した権現様の前で
それ言えんのかと思う

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 15:01:59.92 ID:ITKlOKd1
馬場美濃が「首が我々武田に向かっていた死体はすべてうつ伏せ
浜松に向かっていた死体はすべて仰向けでした」
と家康の家臣が家康を逃がすために懸命に戦ったことを
讃えた逸話が有名なのにそんなツッコミ入れても

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 16:31:59.01 ID:2vMxxcGJ
そもそも脱糞は捏造だし

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 17:16:14.53 ID:EHDp9M22
>>120
ただのマウンティングだから
気の弱そうな奴とか自分が気に食わない奴にしか言わない

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:25:47.93 ID:+sb4bRcX
江戸末期と戦国時代じゃ価値観が違いすぎる

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:41:21.22 ID:VB9ybVN6
背中の傷は恥って背後から襲われたらアウトじゃんww

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:51:23.18 ID:ln2oHHsQ
>>125
そう
前後から挟み撃ちにされてるってことだから生き延びてるわけがない、てこと

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 19:01:10.23 ID:jyl/7Fs3
理屈じゃないんだよなぁそういうのって

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 19:42:32.81 ID:im4tbZsM
つうか、安藤の話は政敵を追い落とすためのこじつけだし。
安藤は不意打ちで怪我したけど、襲ってきた敵を殲滅して、怪我の痛みに耐えて公務を行った。
これで士道不覚悟とか、ありえないだろ。

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 19:47:07.84 ID:j0qCClEO
戊辰の頃になるとそういう実戦とは無関係の机上の観念論は力を失ったけど、
それまでは妄想しまくった童貞のようにわけわからんこと言っていたからなぁ…

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 01:03:22.99 ID:um2u10wi
>>121
の話がまとめサイト見たらまだ出てなかったようなので「徳川実紀」元亀三年の箇所より抜粋
(家康の伝記の多くに取り上げられてるから有名だけど)
十二月二十二日三方が原の戦い御味方利を失い、御家の軍勢名のある者どもあまた討たれぬ。
入道(信玄)勝ちにのり諸手をはげましておそい奉れば、夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに
かろうじて浜松に帰りいらせたまう。
(夏目が永禄時代に一向宗門徒に与していたが救われたため)この日御恩に報いんとて○○(家康への欠字)
君敵中に引き返したまうを見て、手に持ちたる槍の柄をもて御馬の尻を叩き立て、御馬を浜松の方へおしむけ、
その身は敵中に向かい討ち死にせしとぞ。
その時敵ははや城近く押し寄せ立てれば早く門を閉めて防がんと上下ひしめきしに
○○君きこしめし必ず城門を閉めることあるべからず。後より追々帰る兵ども城に入るたよりを失うべし。
また敵大軍なりとも我籠もる所の城へおしいる事かなうべからずとて、門の内外に大篝火を設けしめ、
その後奥へわたらせたまい御湯漬けを三椀までめしあがられ、やがて御枕をめして御寝ありしが
御高鼾の声、殿外まで聞こえしとぞ。近く侍う男も女も感驚しぬ。
敵も城の体いぶかしくやおもいけん。猶予するところに鳥居、植村、天野、渡辺等の御家人突いていで追い払う。
その夜大久保七郎右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより穴山梅雪が陣に鉄砲撃ちかけしかば、
その手の人馬が機?に陥り踏み殺さるるものすくなからず。
入道(信玄)もこの体を見て大いに驚き、勝ちてもおそるるべきは浜松の敵なりと驚嘆せしとぞ。
また武田が家の侍大将馬場美濃守信房というもの入道に向かいて
「あわれ日の本に越後の上杉入道と○○徳川殿ほどの弓取りいまだ侍らじ。
此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも戦わざるは一人もなかるべし。
その屍こなたにむかいたるはうつぶし、浜松の方にふしたるはのけざまなり。
一年駿河を襲いたまいし時、遠江の国をまったく○○徳川殿にまいらせ、御ちなみをむすばれて先手をたのみ
たまいなば、このごろは中国九国までも手に立つひとなく、やがて六十余州も大方事行きて候わんものを」
といいけるとぞ。勝戦してだにかくおもいし程なれば、入道つづきて城を囲まんとせざりしもことわりなるべし。


元日の朝に兎の御吸物を

2017年09月10日 17:13

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/10(日) 03:26:48.66 ID:R7oLFEbW
公方様(徳川将軍)が元日の朝に兎の御吸物を召し上がり申すのは、

家康公が御小身の御時に御艱難の折、林信濃守だろうか、その宅に
おいて御越年された御時分、

何も召し上がるべき物が無いとの由で兎の御吸物を召し上がられた。

これがすなわち御吉例になり申したとの由を、前述の同日(庚子正月
4日)に、仰せ遊ばされた。

――『松雲公御夜話』




217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/10(日) 20:30:53.36 ID:C/VcyUZR
これは家康のときからの行事になっていたのか
それとも神格化によって後代に行事となったのか

七夕・八朔に白帷子を着用するのは

2017年09月09日 10:15

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 04:30:38.81 ID:FIiOK3Ag
七夕・八朔に白帷子を着用するのは、権現様(徳川家康)の御時分に、

騒がしい御時節につき、染め申す間もないため、白地のままで着用し、
いずれの者も罷り出た。

その儀が御吉例になり、今でも白帷子にするのだという。

これを岡田豊前殿か小堀仁右衛門殿に微妙院様(前田利常)が御話
遊ばされたのを御聞きになられたとの旨、

庚子1月4日に(松雲公・前田綱紀が)仰せ遊ばされた。

――『松雲公御夜話』


「三浦、三浦」

2017年09月08日 17:27

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/08(金) 04:47:19.83 ID:jOWlonZa
三浦八郎左衛門と申す者は今川義元の家人であったが、権現様(徳川家康
が御幼少の御時にとりわけて御目を掛けなされた御由緒があった故、

御尊骸が久能へ入りなされてより法体となり、名を“養雪”と改め久能へ参り、
毎日参詣致した。ある日、(東照大権現が)御内陣より、「三浦、三浦」と3度
御呼びになられた。

三浦は御拝殿の御椽から御本社の階まで参詣を致して、ただちに榊原内記
(照久)のもとへ参って暇乞い致して罷り帰り、翌日に相果てたとのことである。

――『東照宮御奇瑞記』



213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/08(金) 19:05:51.03 ID:KqDY/QkV
これ三浦さん呼ばれて逝ったのか

夏は終わったのに心霊話が続くとは

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/08(金) 20:20:17.37 ID:5ZLyvS8/
この時代だからだろうね、祟り話少な目になってんのは

東照宮御奇瑞記

2017年08月26日 13:21

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 04:29:53.80 ID:SRqGYAZ3
一、東照宮(徳川家康)薨御の前日、元和2年4月16日のこと。

榊原大内記(照久。久能山東照宮祭主)を御前へ召されて、御他界遊ばされた
ならば御遺骸を久能山へ葬り奉るようにと、御廟の地まで委細を仰せ付けられ、

「其の方は新肴初物などを常々献上しており、その志を深く思う。我の他界以後
もますます久能にあって、神主役を奉公仕るように。

東国の状況については、いずれも被官の大名であるから、逆心の者も生じまい。
しかし一方で、後々まで西国については心許なく思っている。

西国の乱逆が生じないよう守りをなすので、宝塔を西向きに建てて衆徒4人を
差し置き、知行は50名(石の誤り?)ずつ遣わして、神前の勤行を致すように」

との旨を、仰せ付けられた。

一、権現様(徳川家康)御在世中の御秘蔵の御馬は、御宮近くに御厩を建てて
そこに入れ置いた。その馬は数度そこを離れ出ても、直に御宝塔の方へと参り、

前足を折って嘆く様子に相見えたが御他界の御年の7月、また御厩を離れ出て
御宝塔の裏道の石垣際まで参り、前膝を曲げて死んだ。

一、島原一揆の元旦、御拝殿(久能山東照宮)に1桶ほどの量の血があった。

一、同じ朝に、御神前の御装いの御鏡(鏡餅)が1飾りなくなった。

一、同年、禰宜頭の高津権左衛門が番所で臥し申しておったところ、

夜半に(東照大権現が)御鎧を御着なされて、御馬にお乗りになられ、御瑞垣の
内をお廻りになられた。「油断して寝申しておる!」と、御叱り遊ばされ、

御馬の足音が聞こえた。その後に御宝塔の方で馬のいななきを聞いたとの由を
権左衛門は確かに申した。

一、この以前は禰宜の番所は御瑞垣の内にあった。番所にて当番の者が大声
で物語り仕ると御内陣より、「やかましい!」と御叱り遊ばれたと、その時の当番
の者たちが確かに申したとの由である。

――『東照宮御奇瑞記(久能山の社僧等がもてる書)』



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 12:10:41.97 ID:B+cFrsO4
>>173
一、同年、馬の鞍に1握りほどの味噌があった。

○ 重箱獅子舞(三郷町野井)

2017年08月02日 19:09

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/02(水) 01:15:04.30 ID:qWCCf7Sp
○ 重箱獅子舞(三郷町野井)

口碑によれば徳川家康が武田氏と戦い、利なくして逃れて野井に来た時、

たまたま村民らは村社武並の祭典に集い、神前で酒を酌み、興に乗じて
重箱を戴き袱紗を被り舞っていた。

家康は、「ちょうど良い」とその群れに入り、ついに敵の危難から救われた。
家康は天下統一の後、この武並社の祭礼を重んじ、

“重箱獅子の舞”を奨励した。毎年の例祭には岩村藩主に使臣を遣させて
獅子舞を臨検させ、野井祭の名が高かったという。

今なお、重箱獅子の舞を伝えている。

――『恵那郡史』



117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/02(水) 01:17:29.09 ID:DdYy0X2r
なんでもかんでも三方ヶ原のせいにすればいいと思うなよw

乍去十五年おそく候

2017年07月28日 16:09

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 03:42:04.31 ID:GkcDtqOG
大坂より御帰陣の時のこと、権現様(徳川家康)は、その日は三嶋に御一宿の
はずが、ただちに小田原へ御越しになられ、大久保五郎左衛門(康忠か)を

召し出されて今回の御軍功を御吹聴なされた。大久保は御答えして「殿はよき
御巡り合せでしたね。でも15年遅かったですね」と申し上げた。

(殿は能御仕合にて候。乍去十五年おそく候と申上候。)

権現様は御勝軍に御喜びのあまりに、「その方にも2万石を取らせようぞ!」と
仰せ遊ばされた。すると大久保は御答えして、「殿は唐までも欲しいのですね。
私は2万石でも嫌です、欲しくないです」と、達て辞退申し上げたという。

(大久保御請に。殿は唐迄もほしく候べし。私は弐万石もいやにて候とて。)

だが実は不足の心であったという。五郎右衛門は七郎右衛門の兄の子である。
また新八(康任か)の祖父である。

――『武功雑記』



21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 03:35:02.37 ID:3N0XHs1a
>>19
権現様は後にこれを聞き、「不足なのはもちろん知っていた。だが大久保の者は面倒くさい故、
あえて取らせなかったのだ」と語った。

――『俺の想像』