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と、信玄公は仰せ渡されたのである

2019年05月17日 17:40

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 18:22:20.14 ID:ZU05vU4M
百年以来、本当の合戦はさほどない。ただし両度の本当の合戦があるというのは永禄4年酉(1561)の
信州川中島合戦と遠州三方ヶ原合戦、この両度合戦である。

(中略)

しかしながら、(三方ヶ原の戦いは)武田衆ばかりの手柄にあらず。家康衆も信玄公の衆に劣らぬ手柄なり。
その子細は良く働いて勝負を仕り、足並み揃えて逃げないからである。

武田信玄は)「どのように剛の武士が『手柄を仕りたい』と申しても、見崩れで逃げる敵が相手ではこの
ような手柄にはなるまい」とありて、これに付けても家康を「日本で若手の弓取り」と定められ、信玄公が
仰せになられたことには、

「長尾謙信(上杉謙信)と家康の両人は弓取りである。

信長が近江箕作の城を攻め落としたのも家康被官どもの働き故。北近江姉川合戦も信長は3万5千の人数で
浅井備前守(長政)3千の人数に切り立てられ尽く負けたというのに、家康は5千の人数、浅井備前に加勢
した越前の朝倉衆は1万5千だったが、それを家康衆は姉川を押し渡り、無二に掛かって切り崩し、信長の
利運にさせたのは家康が弓矢を強く取る故である。

金ヶ崎発向(金ヶ崎の退き口)の時も浅井が心変わりしたのを聞いた信長は味方を捨て、岐阜へ早々に引き
入った。そのようなところで家康が若狭の敵を切りひしいで、押付を打たれないように致した(信長が追撃
されないようにした)のは家康25,6歳の時分であるが、その時からこのように仕ったのである」

と、信玄公は御先の侍大将衆に仰せ渡されたのである。件の如し。

――『甲陽軍鑑』



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 20:09:45.63 ID:F9IKVgUD
どういう理屈だw

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 17:43:16.02 ID:CnyBPqKP
野戦という、総大将が知恵を絞った陣形で勝負が決せられる戦さしか認めない!
という軍学脳かと思った

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 19:41:33.27 ID:sfWLld3+
足並みがそろってないことをそろってることよりageてるの草
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智者は闇主の為に謀らず

2019年05月10日 16:41

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 14:29:37.95 ID:cHJBuSGn
さて蔵人元康は義元公討死のその影響で、速やかに元康を改めて家康と名乗り給い、その年の暮れに
伯父の野州(水野信元)の仲裁をもって家康と信長の和睦の儀これあり。

「尾州に事が起これば家康公が信長へ加勢し、三州に事が起これば信長公が家康公へ加勢する」と、
互いに起請文を取り交わして、内々に無事を作り給う。

見合わせの儀を今川衆が「家康表裏」と申すことは、まったく不届きなことである。氏真公の政道が
良くおありならば、家康公の表裏でもあろう。氏真公が悪しき大将であるとしても、家康公が今川殿
に伝わる家老ならば、それこそ人が言うのももっともである。

家康公はもともと一城の主なり。時の験に任せて属している大名と申すものである。時の験によって
属している人は、万事を投げ打って時を見合わせ、自身の立身をもっぱらにするものなれば、家康公
は今川殿の家老ではない。ゆめゆめ、表裏であるべからず。

氏真公は御歳33までも月見花見遊山の善し悪しは御存知といえども、武道の直路いささかもおあり
にならず、無下に人を見知りなさらないので、家康公がこの屋形から御心を離されたことは、もっと
も道理に当たるのである。

三略にも『義者は不仁者の為に死せず、智者は闇主の為に謀らず』という。家康公も大方はこの理で
もあったのだろう。家康公は12歳の時に菖蒲切りの勝ち負けを見定め給う。志は今に至るまで誉れ
あって、三河一国と遠江半国の主となり給う。

また時の験に属した侍と譜代の区別を、長坂長閑老と跡部大炊助殿はよくよく御存知である。

――『甲陽軍鑑』



虎生まれて三日にして牛を食うの機あり

2019年05月08日 17:30

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/08(水) 14:56:44.81 ID:K21g4YNp
徳川家康公12歳、竹千代殿と申し奉る時、中間の肩に御乗りになって五月菖蒲切り(端午の節句に
行うチャンバラごっこ)を見物に御出になられた。一方に人3百ばかり、もう一方には150程なり。

見物の人々はこれを見て「人の少ない方が必ず負ける」と、大勢の方へ立ち寄らない者はいなかった。
そのうちに、竹千代殿を肩に乗せ奉る中間も大勢の方へ立ち寄ろうとした。その時に竹千代殿が仰せ
られたことには、

「どうして我を皆人の行く方へ連れて行くのだ。今叩き合うならば必ず人の少ない方が勝つぞ。あれ
ほど少ない者どもが多勢を軽く思って出張っているのは、よくよく多勢の方を弱く思ったからだ。ま
たは両方が打ち合う時に、多勢で少ない方を助けようと思うこともあろう。いざ少ない方へ行って見
物せん!」

と宣った。御供の者どもは腹を立てて「知らぬことを宣うな!」と言い、無理に大勢の方に留まった。

すると案の如く、打ち合う時に少ない方の後ろから、大勢が駆け付けて新手を入れ替え相手を打てば、
初め大勢いた方は打ち負けて、散り散りに逃げ乱れた。見物の者も我先にと退きふためいた。竹千代
殿は見給いて「言わぬことか!」と宣い、肩に乗せ奉る中間の頭を御手で叩いて御笑いになられた。

『虎生まれて三日にして牛を食うの機あり(大人物は幼少から常人とは違う)』という。この竹千代
殿は今家康と名を呼ばれて“海道一の弓取り”なり。「命長くいらっしゃれば、これぞ後には天下の
主ともなられよう」と、心ある人は言い合ったのである。

――『甲陽軍鑑』

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/08(水) 16:10:28.30 ID:+Am2AbT8
お供失礼だなぁ

902 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/08(水) 18:46:13.83 ID:g9xSGGcI
今川に媚びへつらってたから主君を蔑ろにする習慣が出来上がってたのかもな

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/08(水) 23:00:28.25 ID:CCUV0RPK
>御供の者どもは腹を立てて「知らぬことを宣うな!」と言い、無理に大勢の方に留まった。

本多正純「してその者の名はなんと?」

【雑談】家康の甲斐侵攻について

2019年05月04日 14:57

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:25:31.63 ID:TISqcbEJ
家康が織田政権の承認を得たのはあくまで織田家臣退去後の上野・信濃・甲斐を敵方に渡さないために軍勢を出して確保することだろ

河尻が健在の甲斐に侵攻する許可を得た訳ではないし河尻が政権中央の意向に反した行動を取ったわけでもない

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:39:13.93 ID:xjWKeatT
>>965
それを家康は織田政権から委任された以上、家康の指揮命令に従わなかったらそれは織田政権への謀反と
解釈されても仕方ないと思うぞ。

967 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:57:24.06 ID:TISqcbEJ
>>966

もう一回整理してほしいんだが、織田政権は河尻・滝川・森・毛利などの織田家臣が退去したあと、敵方にその知行地の3か国(上野・甲斐・信濃)を渡さないために家康に軍勢派遣を認めてるんだよ

当然、それ以前の家康に河尻等の織田家臣に指揮命令する権利は認められていないし、河尻が家康の命令に従わなかったとしてもそれが織田政権への謀反とみなされる道理がない

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:42:08.71 ID:mGxBMjMX
帰国後即甲斐国人に調略開始、穴山旧領を押さえた上で
川尻に「美濃に帰ったらどうです?」って使者送ってんだよな、家康

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:51:34.98 ID:PRZ30gr7
>>965
そうだね
以下の書状読んでもその事は一目瞭然だな

天正十年七月七日付羽柴秀吉書状 徳川家康

今度信長不慮之事御座候付而、信州・甲州・上州ニ被置候者共罷退候、然者両三ケ国之儀、敵方江非可被成御渡儀候条、御人数被遣、被属御手候之様ニ被仰付、尤存候、猶追而可得御意候、恐惶謹言

羽柴筑前守

七月七日
秀吉(花押)

家康様
参 人々御中

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:54:20.87 ID:hSMBTF6g
穴山梅雪は徳川の刺客に暗殺されたのだ・・・!

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 20:41:32.12 ID:RrNc2vL6
穴と雪の女婿はどうしてこうなった

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 21:23:47.25 ID:m17ZCduB
>>969
そら7月にもなれば清洲会議も終わって秀吉の天下統一が始まってんだから織田もクソもないわな
こんな書状もらう前からコソコソ旧武田領を狙って暗躍する家康さんカッコイいです

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 22:00:31.75 ID:j1SebWKH
河尻秀隆が死んだ後の書状やん

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 23:53:38.79 ID:ieTMNxY6
家康のことにまで構ってられないし東国の抑えも必要だから、
仕方なく侵略行為には目を瞑って後付けで領有を認めることにしたってところ

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 00:33:05.76 ID:9qfooK/C
河尻が健在の頃から武田旧臣相手に河尻の領地内の土地を安堵するって送っちゃってるからね
言い訳は無理だね

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 00:50:19.81 ID:f7GzcNhS
>>974
>>975
丁度織田家が内紛状態やからなあwwwww何方の側も家康を敵に廻したく無いしね。

建て前が何にしろ、信長死去で甲斐信濃上野の三ヶ国無主に成ったから拾うって事だね。
川尻は、家康視点では逝ける死者、バンパイアぐらいにしか思ってないよ。

弱点を使って退治、日光「国人一揆」、十字架「織田家の事後承諾」、銀の杭「軍事介入」で
退治しただけだな。

「火事場泥棒?持ち主居ないんだから拾っただけ」って言い分ですな、狸の大妖怪主観では。

甲斐は結局信玄の子の代で滅び

2019年05月03日 16:27

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:23:18.51 ID:g74bPE9v
さて東照宮(徳川家康)は浜松にいらっしゃった。信玄方から度々攻め寄せられて難儀であったのを、
信長が救はれたことにより別条なし。

駿府には穴山(信君)という大名がいた。東照宮とともに信長に帰す。ある時、両人が同道して上京
することがあって、方々を見物し、京から大坂和泉に行くが、堺にいらっしゃる内に明智が謀反して
信長を弑逆する。

これより両人は伊勢路を越え本国へ帰るが、穴山は路次で一揆に殺されたという。また東照宮の所為
であるともいう。

さて駿府も易々と東照宮の御手に入る。甲斐に河尻与兵衛(秀隆)という者がいたが、これも東照宮
が討ち滅ぼして甲斐を取った。甲斐は結局信玄の子の代で滅び、信長に攻め付けられ天目山で自害す。

――『老人雑話』



元和改元と武家諸法度について

2019年05月01日 16:21

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 09:18:18.75 ID:0cxHtuhD
応仁以来の乱世のよって、その習礼も未熟であったが、慶長の末、東照宮(徳川家康)の命に曰く、
「年号の字は、漢唐の吉例を鑑みてこれを用い、重ねて習礼が整った以降は、本朝の旧式を用いる
べし」と仰られたため、慶長の改元があって、元和が用いられた。

慶長は漢の章帝の年号、元和は唐の憲宗の年号である。これは今の太上皇(後水尾上皇)が御在位の時の
ことである。
(改元物語)

元和令(武家諸法度)を領下された時は、金地院の伝長老(崇伝)に草稿を奉らせた。
その書法は、貞永、建武等の式目に習った。
当時は合戦の後で、世の人々は武事をのみ習い、いまだ文字(漢字)を識れる人は多くなかったため、
世間一般の書法もまた、識字の低さに合わせたものであった。

だが、この元和令が過去の漢文で書かれた式目の書法に倣ったのは、今後は文を以て治を興すという意思を
示されたのだと聞き及んでいる。

そうであるのに、その後の代々に領下された法令は、みな仮名交じりで記されており、これはまた
本朝の文学が、日々に衰えていることの一端であろう。
(折たく柴の記)

元和改元と武家諸法度についてのお話



家康、茨木で鷹狩りをする

2019年04月29日 16:46

836 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/29(月) 12:30:53.73 ID:oRKNtez5
家康、茨木で鷹狩りをする

1599年12月3日、当時大坂城・西の丸にいた家康、摂津国・茨木で鷹狩りをする。佐々淡路守、堀田若狭守など亡き太閤の鷹匠衆が数多く従う盛大なものだった。
夜は茨木城に宿泊。茨木の代官・河尻肥前守宗久(河尻秀長)の饗応にあずかった。


(朝野旧聞裒藁)



837 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/29(月) 13:28:57.34 ID:oRKNtez5
家康と秀長がどんな話をしたのかが気になる

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/29(月) 14:23:44.49 ID:hpII9z+K
現代リーマンのゴルフ感覚なんだろうな鷹狩り

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/29(月) 17:58:15.54 ID:5GY1rnjA
「ナイスショット!」とか言ってるんだろうか

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/29(月) 19:32:54.53 ID:tkr7B+Ky
呼びつけといて2分で追い返すとかもあったんだろうな

841 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/29(月) 20:46:46.55 ID:iJ9cEO9e
お美事でございます!とか?

鷹狩りとか巻狩りとか、現代と同じ様に上役とのお付き合いは昔も有ったんだろうなぁ

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/29(月) 21:51:41.43 ID:PGm1V7wz
上司よりうまくやるとそれ以上当てるなよ…!ってなるんだなw

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/30(火) 00:12:08.14 ID:wHkKseVO
いやいや鷹狩って基本自領や家臣の領地でやるものでしょ
大坂で家康が鷹狩したってのはそういうアピールが目的でしょ

844 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 05:16:49.97 ID:GYW8yDg3
>>843
それは分かってるけど、>>838以降の話は余談みたいなもんでしょう

845 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 08:38:44.77 ID:VldfWWjI
豊臣お膝元の地で、秀吉お抱えだった鷹匠を率いてやっているのだから凄い政治的パフォーマンスだよね

846 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 09:45:19.88 ID:GYW8yDg3
この前月に前田利長は大老解任されてるし、石田三成と浅野長政は奉行職退いてるし、そらまあ政権内に敵はほぼいないも同然だし、天下人同然の振る舞いになるよね

847 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 11:11:39.60 ID:7AS7T0U+
当時はもう実質天下人のような立場だったとすると、
家康の強力な権威と政権のトップだと言う自負の現れなんだろうね

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/30(火) 11:34:47.77 ID:P5QhUzt0
安土城一般開放とか北野大茶会に比べると、家康のパフォーマンスは地味

849 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 11:38:12.30 ID:GYW8yDg3
>佐々淡路守、堀田若狭守など亡き太閤の鷹匠衆が数多く従う


この人達も別に鷹匠だけがお仕事じゃないんだろうけど、知行的には5~6000石クラスの与力とか旗本クラスだし、秀吉が亡くなって秀頼が年若な当時だと、鷹匠としてのお仕事も激減してそうだしリクルート活動に必死だったのかもねぇ…
やっぱり今も昔も変わらないね。

850 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 11:42:15.97 ID:GYW8yDg3
>>848
この鷹狩りに関しては対民衆向けというより、豊臣家中向けのパフォーマンスだったんじゃないですかね?

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 10:44:04.02 ID:adUyqGSP
>>843
>>845

???「それでも家康には簒奪の意思はなかった」

857 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 10:56:30.14 ID:xXcRVn3l
>>854
???は誰?

岐阜をもって降参し、これ故に敗軍した

2019年04月24日 16:46

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 00:18:57.62 ID:2NRXAsO+
景勝追討の時に相従う大名は7人、小名は46人、総じて53頭(原注:上方御譜代とも)であるという。
江戸を1日程に出て小山に至ると上方より注進あり。「石田謀反して日本一味す」と。

東照宮(徳川家康)及び諸大将は大いに驚いて、何も言えなかった。即時に江戸へ帰り、評定が行われた。
上方御譜代衆を各々一人ずつ召し出して方策を問うと、皆答えることができなかった。

上方衆の中で只一人、福島左衛門大夫(正則)が進んで曰く「太閤の遺言の如く、秀頼を立て給うならば
私が先手を致そう」と言う。諸将はこの時に皆同意する。左馬(加藤嘉明)も言うことができなかったが、
福島が言い出した後に、「我が心もこの如し」と言った。譜代の衆も一人も言い出す者はいなかったが、
ただ井伊兵部(直政)が進んで曰く、「私が先手を致そう」と言った。

評定の後に諸将が皆言うには、「妻子が人質となっている。この事があるので一旦偽って『降る』と言お
う」とのことだった。東照宮はこれを許され、諸将は打ち立って上方へ上った。しかしながら、東照宮の
後陣は至らず、7月に事が起こって9月にようやく到着した。

美濃青野ヶ原(関ヶ原)で合戦があったが、初めは治部方に利あり。後に筑前中納言殿(織田秀信)が岐
阜をもって降参し、これ故に敗軍した。

――『老人雑話』

関ヶ原一乱の勝敗は岐阜陥落で決まったとのこと



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 00:41:26.90 ID:y+S9JmHK
これいい話っていうか間違った話だろ

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 08:35:47.43 ID:bs3dFm3P
>>821
秀秋で決まったのは後世の影響で岐阜城陥落の時点で勝敗決まってたそうだが、
この時代にもそういう見方はあったんだな、ていうかまだ後世の創作の影響がなかったからか

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 15:35:49.04 ID:8I/LPCNJ
>>821
筑前中納言は秀信じゃないでしょ

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 16:38:02.82 ID:1ua9YfKL
参謀三法師

【雑談】小山評定について

2019年04月20日 18:25

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 20:59:36.23 ID:rhhxEd5Q
>>853
本屋に2016年発刊の「小山評定の群像」っていう産経新聞栃木版の連載をもとにした本があったけどその続編かな
その本の最後から二番目が板坂卜斎を紹介したコラムで

「小山評定はなかった派」の白峰説があるけど板坂卜斎「慶長記」にそれっぽいことが書かれてるから、軍議はあった説が有力

と書かれてた
(小山市には「小山評定通り」とかあるし
小山評定自体なかったら「小山評定の群像」というタイトル自体無理があるから
栃木版発行元としては「ない説」は主張できないんだろうけど)


894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 21:32:53.78 ID:j2E4Q9U8
>>892
小山評定無かった説は本多氏の指摘で崩壊しとるけどね

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 23:56:03.77 ID:1p4Z5C0s
>>892
本多隆成氏が小山評定はあった説の最大の根拠にしてる7月29日付大関資増宛浅野幸長書状

尚々、去廿三日之御状畏入候、其刻小山へ罷越、御返事不申入候、
以上急度以飛脚申入候、就其上方之儀、各被申談仕置ニ付、会津表御働、御延引ニ候、
上辺之儀、弥被聞召届上、様子可被仰出旨、内府様被仰候、
我等儀、此間宇都宮ニ在之候へ共、結城辺迄罷越候、
駿州上之御人数ハ、何も国々へ御返しニ候、猶珍敷儀候ハヽ可申入候、恐々謹言

浅左京
七月廿九日 幸長(花押)

大関左衛門督殿
御宿所

これ見る限り談合があったのは間違いなさそう

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/20(土) 21:42:52.38 ID:e0MwNVX6
日本の歴史で談合が無かった場面なんてないだろ

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/20(土) 22:39:01.63 ID:Esd8B3oT
ノッブはあんまり

草履を横さまに御つけ有しとそ

2019年02月14日 19:41

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 20:47:39.56 ID:hVOYUadj
姉川の合戦は東照宮(徳川家康)の勝事なり。信長が朝倉義景と対陣の時、東照宮は先陣を乞うた。信長
は叱って曰く、

「田舎者にどうして良い働きができるか!(田舎者何とて能せん)」

しかし東照宮はしきりに乞いなさり、信長はこれを許した。東照宮は即時に川を渡って敵を破りなさった。
この時、信長の前を去る時に、草履を横様に御付けになられたという(草履を横さまに御つけ有しとそ)。

――『老人雑話』

よこ‐さま【横様/横▽方】
[名・形動]《「よこざま」とも》
1 横の方向。横向き。また、そのさま。「―に倒れる」
2 道理に合わないこと。また、そのさま。非道。「―な要求」


御茶ノ水の地名の由来

2019年02月11日 17:47

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 19:04:06.53 ID:MPoFFmsO
御茶ノ水の地名の由来

慶長の昔、この邊り神田山の麓に
高林寺という禅寺があった ある時
寺の庭より良い水がわき出るので
将軍秀忠公に差し上げたところ
お茶に用いられて大変良い水だとお褒め
の言葉を戴いた。それから毎日
この水を差し上げる様になり この寺を
お茶の水高林寺と呼ばれ、この邊
りをお茶の水と云うようになった。
其の後、茗渓又小赤壁と稱して
文人墨客が風流を楽しむ景勝の地
となった。時代の変遷と共に失われ
行くその風景を惜しみ心ある人達が
この碑を建てた。

(御茶ノ水駅近くの石碑)

参照:御茶ノ水石碑
blog-location-img05.jpg



兜は念入りにすべきだ

2019年01月07日 21:38

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 09:00:32.11 ID:HHEB62gR
家康公が在る時このように仰せに成った。
「小身の武士が装備する具足を作らせる時、胴や籠手などは粗末に作ってもよいが、兜は念入りにすべきだ。
何故ならば、討ち死にを遂げた時、兜は頸と一緒に敵に渡るものであり、つまり死後の為のものでも
あるからだ。」

これについて、上田宗古はこのように語った
「武士は討死を遂げ、首になった時のことを常に心がけておくべきでしょう。であるので、
月代などが後ろに下がっていると、詫言をしているような顔になり見苦しいので、若き衆は必ず、
後高に剃るべきです。明日は必ず合戦があると知れた前日は、頸を綺麗にしておく心得が第一です。」

(常山紀談)



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 18:26:33.70 ID:dprbvp00
地味加藤「ズボンの紐は前で結べ」
三歳様「下半身裸の死体は見苦しいからな」

掛川開城

2018年12月28日 18:21

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 01:16:16.37 ID:pBe2OoRD
(掛川城の戦いの時)

掛川城中では朝比奈備中守泰能(泰朝)・小倉内蔵助資久らがとりどりに評議し、

「これまでは今川旧好の輩が馳せ集まり堅固に当城を持ち固めたが、今は遠江一円が徳川殿に帰服し、当城は兵糧が
次第に尽きて飢えに臨んでいる。これでは長く籠城は叶い難し。氏真は小田原に避けなさって北条を頼まれ、開運の
時節を計られるのがしかるべし」

と評議は一決した。しかしながら、氏真は疑念深く未だ決定しないので、小倉内蔵助は諸々に諫言した。折しも奥平
美濃守貞能も神君(徳川家康)を諫めて「氏真を許して御和睦なさり、早く遠江を平均なさるべし」と申すと、神君
はもとより御同意であった。

その時、今川方は朝比奈弥太郎泰勝(原注:子孫は今水府(水戸藩)に仕える)を使者として石川家成・酒井正親の
方まで和睦を申し請うて来た。(原注:『東遷基業』)奥平貞能は久野宗能・浅原主殿助と和睦を相計り、4月8日
に主殿助が御使者として城中に入り、小倉内蔵助と対面して仰せの旨を伝えて仰せ送られたことには、

「家康が幼年より今川義元の扶助を得ていた旧好は、今においてもどうして忘れることだろうか。家康に氏真を敵と
する心はない。如何せん氏真は讒佞を信じて私を仇とし、矛盾に及ばれたのでやむを得ず合戦に及んだが、まったく
もって本意ではない。只今のような状況では、遠江をも駿河と同じく武田信玄に奪われることだろう。速やかに駿河
を私に避けて渡されたならば、私はまた北条父子と相計って氏真を駿河へ還住させ申す」

内蔵助は大いに喜んで氏真を諫め、内蔵助が氏真の使者として双方誓詞を取り交わし御和睦は整ったので、内蔵助は
また小田原へ赴き、北条父子へこの由を告げた。よって北条からは北条助五郎氏規を氏真の迎えに掛川へ遣わした。

氏真は5月6日に掛川を出て掛塚の浦より船で小田原へ赴けば、神君からも松平紀伊守家忠をもって送らしめられて、
海路を守護させなされば、つつがなく伊豆戸倉に着岸した。今川・北条の者どもも「徳川殿は情けある大将かな」と
感心した。

これより掛川城は酒井左衛門尉(忠次)・石川伯耆守(数正)・本多作左衛門(重次)が受け取り守衛したが、同月
22日に神君が掛川に入りなさって軍士を饗応せられ、当城を石川日向守家成に賜った。

これより以前、(三河が)一円に御手に属した時、三河の国人を二組に分け、酒井左衛門尉とこの家成の両人に属せ
られて両人を左右の旗頭と定められたが、家成が当城を賜った後は旗頭を甥の伯耆守数正に譲って、自身は大久保・
大須賀・松井と同じく遊軍となり、本多広孝・本多忠勝・鳥居元忠・榊原康政らは御旗本を警衛した。

(原注:今川と御和睦の事は『武徳大成記』には今川より朝比奈泰勝が使者として申し越したとあり、『東遷基業』
も同じである。『家忠日記』には徳川家より御使者を小倉資久へ遣わされたとある。本文は両書を合わせ意を迎えて
綴ったものである)

この頃に石川に属したのは、西三河の松平源次郎直乗・松平宮内忠直・内藤弥次右衛門家長・平岩七之助親吉・鈴木
喜三郎重時・鈴木越中守重慶。(原注:『東遷基業』では、石川の組に酒井正親・鳥井平蔵・松平三蔵・松平信一を
加える。いずれが是であるかはわからない。よって両説を備える)

一方で酒井に属するは、東三河の松平右京亮親盛・松平内膳家清・松平源七郎康忠・松平玄蕃頭清宗・松平又七郎
家信・松平弥九郎景忠・設楽甚三郎貞通・菅沼新八郎定盈・西郷新太郎家員・松平丹波守康長・奥平美濃守貞能・
牧野新次郎康成。

この輩に加え、また石川伯耆守の弟・半三郎は猛勇の士であったため、先に攻め落とされた堀川を下され、その地に
土着して土人を主宰せしめなさる。よって気賀の徒は屏息して大いに恐れ、この後に一揆を起こす者はいなかった。
(原注:『東遷基業』『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


門を開けたままにしておけ

2018年12月27日 14:31

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/27(木) 09:21:54.83 ID:3nG+GfMx
豊臣秀吉の死後、徳川家康の伏見屋敷では、晩の七つ時分(深夜3時ころ)になると、ぴたりと門外より
屋敷内を覗いて走り去る者が多くあった。下々は「いかなることか、晩に及んで敵が寄せて来るのでは
無いだろうか」などと疑った。

この事はそのまま村越茂助より徳川家康に報告されたが、家康は「門を開けたままにしておけ。」と
命じた。その上で「夜間の警備に当たる者達の所へ、これを持って参れ」と、火鉢二つを出し、
茂助がこれを承った。いずれも寒気防ぎの為であると思っていたが、実はそうではなく、火縄の火を
急につくるのに、蝋燭などではなかなか付かないものだという家康の考えであった。
これは村越道半によると、森川金右衛門が語ったことであるという。
(武功雑記)


今は速やかに天意人望に応じて降参するべし

2018年12月25日 21:19

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/25(火) 19:01:46.98 ID:Ptb2kkHD
(掛川城の戦いの時)

掛川城再攻により、今川方が和睦を評議していると聞こし召し、神君(徳川家康)は岡崎に帰城して人馬を休めんと
された。すると尾藤主膳や気賀一揆が堀川城の旧塁に立て籠った。またこの頃、大沢左衛門佐基胤が再び今川に一味
して遠江敷智郡の堀江城に籠り、中安兵部定安・権田織部泰長らと同じく敵の色を顕した。

(原注:関白道長より四代の中務大輔基頼の子・持明院左京太夫通朝の十代・左衛門佐基久が遠江に居住し、丹波の
大沢を領した。今の基胤は基久より九代である)

そこで3月25日にこれを井伊谷三人衆の近藤石見守康用とその子・登之助秀用、同じく三人衆の鈴木三郎太夫重吉
(重時)・菅沼次郎右衛門忠久、野田の菅沼新八郎定盈らに命じて討手に向かわしめられた。

(中略)

また堀江城は井伊谷三人衆と野田の菅沼定盈が押し寄せ攻めたが、鈴木重吉が討死した。その後、日数を重ねて攻め
囲みなさったが、神君は4月12日に城中へ御使者を立てられて仰せ遣わされたことには、

「大沢は氏真の被官家人でもないにも拘わらず、旧好を忘れずに只今衰運の今川のために籠城し、日を経て苦戦する
その義烈はもっとも感銘を受けるところである。しかしながら、私は今遠江一円を手に入れて掛川も和睦した。今は
速やかに天意人望に応じて降参するべし。本領は相違なく与えよう」

これにより大沢主従はいずれも仰せに従った。よって御誓紙を下されると、大沢を始めとして中安兵部・権田織部も
皆降参した。この時、中安・権田の両人は御家来に召し出された。(原注:『東遷基業』『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


三月七日の掛川城攻め

2018年12月24日 15:19

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 18:55:13.87 ID:eE9Lsf8D
(掛川城の戦いの時)

神君(徳川家康)は人馬を休められて、3月4日に再度掛川城を攻め給わんと見付より御出馬され、5日には本多
平八郎忠勝・松平主殿助伊忠を先手として攻め寄せ給う。(原注:『武徳編年集成』はこの日の先手を松平甚太郎
(家忠)・松井左近(忠次。松平康親)とする。『東遷基業』『列祖成績』は原書に同じ)

すでに大手は南町口を攻め破り二の門に至る。ここに寒大寺川という大河あり。この頃、春雨は日数を重ねて降り
続けたので水嵩は増し、塩買淵という辺りは平素には歩行渡りの所だったが、水は深くなり寄手は大いに悩んだ。

搦手は水野惣兵衛忠重が西町口より攻め入り、松尾池を隔てて互いに矢砲を飛ばし挑み戦う。また一手は東口より
攻め入り、不動山を右に見て天王小路より押し寄せた。北畷口の一方は掛川城兵の心を一致させないためにわざと
開いて囲まず、城中からは朝比奈備中守泰能(泰朝の誤り)・三浦監物秀盛が天王小路に打ち出て激しく防戦する。

この時、松平主殿助の家士・石原十助が城兵を射たところその城兵は射られても未だ鞍を離れず、十助はまた射て
ついに射落とした。城中の将卒どもはその矢継ぎ早なるを感心し、その矢を金の団扇に乗せて主殿助の陣に送った。

7日には辰刻より朝比奈備中守と三浦監物が天王小路に打って出た。菅沼帯刀・伊藤治部少輔・同掃部介・同左近
左衛門・小笠原七郎兵衛・渋谷右馬允・朝比奈小隼人・同小三郎泰秀・笠原出羽守らは西宿より打って出て「今日
は歩兵には目も掛けず、大将分の者を討ち取らん!」と奮戦した。

敵味方は互いに勇を争った。本多平八郎・榊原小平太(康政)・大須賀五郎左衛門(康高)・大久保七郎右衛門
(忠世)・大久保治右衛門(忠佐)が自ら槍を振るって真っ先に進めば、味方の輩も勇み進んで突戦する。

菅沼三九郎は笠原七郎兵衛を討ち取り、高橋伝七郎は朝比奈小三郎を討ち取り、松下嘉兵衛之綱は菅沼帯刀を討ち
取り、本多三弥(正重。原注:一向乱の時に立ち退いたが、この時に御先手に加わった)は新谷小助を討ち取り、
高力与左衛門清長は粟飯原平左衛門を討ち取り、中山是非之助(姉川七本槍の1人)は伊藤左近元実を討ち取り、
散木某は山崎市兵衛を討ち取り、小林勝之助重直も首級を得たのであった。

“今川家十八人衆”と名を顕した朝比奈小隼人・伊藤治部少輔・同掃部介を始め、屈強の輩38人・雑兵180人
を討ち取る。味方でも中根伝四郎正重・本間五郎兵衛長季・加藤市十郎正重、本多康重の家士・畔柳又次郎を始め、
60余人が討死した。

また本多彦次郎康重16歳と家士の本多左馬助・吉見孫八郎、奥平家士の名倉五郎作、菅沼新八郎(定盈)家士の
菅沼弥太郎・今泉新助・同孫三郎・同久左衛門は皆戦功をはげました。

榊原家士の安松弥之助・菅沼家士の彦坂小作、御旗本では小林伝四郎吉勝が射芸を振るい、弥之助はこの功により
“矢之助”と賜る。小笠原喜三郎貞慶・菅沼藤蔵定政も戦功あり。けれども朝比奈備中守と笠原出羽守はなおも勇
を振るい、残兵をまとって城に引き取った。

松平与一郎忠正は旗馬印を塀際に押し立てて、諸手は竹束を付き寄せ今やすでに城を乗り取るかと見えたところに、
御本陣より「急いで諸手は引き取るべし」との旨が命じられた。よって与一郎が後殿し、早々に諸手の人数は引き
返した。これは今川与力の者も徒党して船に乗り、掛川城を後詰せんと掛塚の港へ着岸するとの注進があったから
である。

そこで榊原・大須賀ならびに鳥居彦右衛門元忠を掛塚に馳せ向かわしめ、かの今川与方力の者どもはこれを聞いて
早々に船に取り乗って逃げようとするところを、御目付に参っていた渡辺半蔵守綱が駆け付け、船に乗らんとする
敵を7人まで突き倒した。大須賀康高属兵の筧助太夫(正重)・久世三四郎(広宣)・坂部又十郎(正家)、榊原
康政属兵の清水久三郎・伊藤雁助も走り来たり首数級を得た。敵は散々に打ち負けて、残兵はようやく船に乗って
逃げ失せたのである。

(原注:『武徳編年集成』はこの両日の合戦を4日・5日とする。『東遷基業』『列祖成績』は原書と同じ5日・
7日とする)

――『改正三河後風土記』


掛川城の戦いの時。23日の城攻め失敗後

2018年12月21日 22:35

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/20(木) 19:32:48.23 ID:Blni8hrv
(掛川城の戦いの時。23日の城攻め失敗後)

正月25日に神君(徳川家康)は人馬の労を休め給うため、しばらく見付に御帰陣されて所々砦の警衛を命じられた。

(中略)

この頃まで遠江では、浜名肥前守頼広・後藤佐渡守・気賀の新田友作・容輪三郎兵衛らが未だ徳川家の御下知に応じ
なかった。しかしながら、神君の御威勢が日を追って盛んになられると、浜名・後藤ならびに福井修理らが降参する
として、見付の御本陣に参った。

ところが御陣前で下馬しなかったために神君は御機嫌を損じ、鉄砲で後藤を撃ち殺させなさった。浜名は大いに恐れ、
その子・与兵衛と同じく甲斐へ逃げ行って信玄を頼んだが、信玄はこれを用いなかったために近江へ落ちて蟄居した。

肥前守の叔父・大屋安芸政頼と弟・金太夫頼次ら一族は、浜名城に籠り一戦せんとする。神君はこれを聞こし召して
本多平八郎(忠勝)・戸田三郎右衛門(忠次)を遣わされ、浜名・都築両城の要害を窺わせられたところ、その城は
堅固で急に攻め抜くのは難しいだろうと申した。よってその2月に城兵が降参すれば、その罪を許して本領を賜ると
諭しなさると城主は皆々降参し、この輩は本多・戸田両人に属せられた。この時に後藤覚兵衛も戸田に属した。

また後藤佐渡守の日比沢の城兵も降参し、気賀の新田友作は城を捨てて落ち失せ、行方をくらました。容輪村の容輪
三郎兵衛は久野三郎左衛門(宗能)と本間五郎兵衛(十右衛門長孝)に攻められて自殺し、この城も落ちたのである。

――『改正三河後風土記』


さて、永禄12年己巳正月23日に掛川城は落城して、氏真は小田原へと落ち行きなさったのであった。そのような
ところに3月の日、堀川で一揆が起き申す旨を告げて来たので、上様(徳川家康)はそのまま用意もなさらずに駆け
付け給い、準備もなく寄せ掛かると、やがて寄手は堀川城の塀に付き乗った。

大久保甚十郎17歳は一番に乗って内へと寄せたところを、鉄砲で左の紅先(頬の先端)を撃たれて討死した。平井
甚五郎もまた討死した。その他、数多の討死あり。

堀川は潮のさしている時は舟で寄せる他に行く方法がなく、潮干の時も一方口であったが、案内もなく詰め入って、
すなわち男女ともに撫で斬りにぞしたりける。

前述の大久保甚十郎が堀川で一揆の起こり申した折に通り合わせれば、尽く歴々の衆たちも一同した。その中には
驚き騒ぐ衆もいたので、甚十郎は御膝元近くに召し遣われ申した時、上様の御心がよろしいので一々に申し上げた。

「誰々は驚き慌てて後先に逃げ散り、山へも逃げ入りました。誰々は乱れずに神妙でありました」

この旨を申し上げると上様は「倅ながら神妙によく見た」と仰せになられて御感心になった。

――『三河物語』


堀川城の戦いの時。掛川城再攻後

2018年12月21日 22:34

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/21(金) 18:00:20.31 ID:U9N4TaKs
(堀川城の戦いの時。掛川城再攻後)

掛川城では今川家の主だった勇士が3月5日・7日の両戦で大勢討死し、兵糧も追々乏しくなったので、「徳川家と
和睦して北条を頼み、氏真は小田原へ落ち行き、時節を見て回復の功を図るのがしかるべきか」と評議しているとの
旨を神君(徳川家康)は聞こし召し、「それならばこの地に押さえの勢を残してしばらく岡崎に帰城し、人馬の労を
休むべし」として数ヶ所に砦を設けるよう命じられた。

(中略)

この時、去年3月に遠江堀川城で攻め落とされた大沢左衛門基胤の属将である尾藤主膳(原注:一本には彦四郎)・
村山修理(原注:一本には山村。または村田)、気賀一揆の西光院・宝諸寺・桂昌院を始めとして給人百姓と称する
内山党、その他に寺社・地下人の男女1千5,6百人が堀川の旧塁を取り立てて立て籠もり、徳川家の御帰路を遮り
討ち奉らんとした。

神君はこれをまったく御存知なく、近習17騎・歩卒2百3十人ほどでこの道に通りかかられた。一揆どもはこれを
見たが、御勢があまりに小勢なので徳川家の通行とは思いも寄らず打ち過ぎた。その後に石川伯耆守数正が百騎ほど
で後陣を打って通りかかるのを見て初めて気付き、「さては先に通行した小勢こそ徳川殿であったか!」と後悔した
という。神君は岡崎帰城の後にこの事を聞こし召して、「ならば急いで征伐すべし」と諸軍に命じられた。(原注:
『武徳編年集成』には渡辺図書旨同の謀を用い給い、御先へ小勢で御通行されて古美村から船で浜松へ引き取られた
とある)

(中略)

神君は堀川の一揆を攻め給わんと3月27日に堀川へ押し寄せられ、山の後ろの平松崎という所に御旗を立てなさる。
(原注:ここの“御殿松”という古木は今も存在するという)そもそもこの城は海浜にして潮が満ちれば船で出入り
するが、潮が引いて干潟となれば巉巌峭壁で、陸地ただ一面となるので攻め寄せる便りを得られた。

「この城を只今攻め落とさなければ、その間に潮が来るであろうぞ。ひたすら攻め立てて攻め落とせ!」と御旗本勢
は攻め寄せた。その中で小林平太夫重直(原注:25歳)・その弟の勝之助正次・平井甚三郎・大久保甚十郎(原注:
23歳)・永見新右衛門為重は先頭に立ち、小林・平井・永見は皆討死した。(原注:『武徳大成記』などの諸書は
小林・平井・永見らは去年3月の堀川城攻めの時に討死したとするが、誤りである)

大久保甚十郎は深手を負って帰陣し、諸士の戦功を見届けて味方の輩に物語って落命したので、将卒とも甚だこれを
惜しんだ。榊原康政は勇を振るい、深手2ヶ所を負いながらもますます進んで攻め戦った。その他森川金右衛門氏俊
を始めとして大勢が一面に攻め入って城を乗っ取り、城兵108人の首を討った。その他烏合の一揆7百人は寛仁の
御沙汰により尽く許しなさった。この日、味方でも屈強の輩16騎が討死した。

――『改正三河後風土記』


永禄12年正月22日掛川城攻め

2018年12月20日 15:37

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/20(木) 00:20:54.49 ID:MGa74IHB
(掛川城の戦いの時)

掛川城に籠る今川氏真は遠江一国を条件に久野一族に内応を促し、氏真の軍勢を出して天王山御本陣に夜討するので、
久野一族は後陣から攻めよと申し送った。承諾した久野一族らは惣領・三郎左衛門宗能を討って神君(徳川家康
を裏切ろうとしたが、露見して鎮圧された。

氏真は久野一族が裏切りを了承したことを大いに喜んで、「それならば今夜天王山の徳川殿本陣に夜討を掛けて大勝
すべし!」と、とりわけて猛勇の輩を選んでその用意をした。これは久野一族らはすでに誅に伏したことを掛川城中
ではまったく知らなかったからである。

神君には久野宗能が一族の陰謀を訴えて、今川より今夜御本陣へ夜討せんと計策を設けている旨を申し上げたことに
より、城兵の打ち出る道3ヶ所に大久保七郎右衛門忠世・水野総兵衛忠重・大須賀五郎左衛門康高の3人を将として
伏兵を置かれた。(原注:原書は忠世を次郎右衛門忠佐とする。『武徳大成記』『家忠日記』に拠り改める。『列祖
成績』『東遷基業』では本多豊後守(広孝)・松井左近(忠次。松平康親)を加える)

頃は永禄12年(1569)正月22日の夜、今川方屈強の勇士どもが天王山の御本陣を目指して、のさのさと来る
ところを、一の伏をやり過ごして二の伏の前を半ば過ぎ、三の伏の前に来たる時、大須賀康高がにわかに鬨を作って
打って掛かれば、三の伏兵も同じく起こり、敵を前後に引き包み打って囲んだ。

城兵は大いに驚くも、とりわけて選び出された剛勇の者どもなので、少しも気を屈さずに奮戦した。高天神衆の坂部
又十郎正家・筧助太夫正重、その他に鷲山・渡辺・久世・門奈などはとりわけ粉骨を振るった。この時、松井忠次は
御本陣にいたがここに馳せ来たり、味方を助けて勇をはげました。この合戦は夜の丑刻より始まったが、城兵どもは
手強く、争う間に夜はほのぼのと明けてしまった。

23日明方に神君も味方を救い給わんと山家三方衆を先手となされて、八幡山を過ぎてここまで御出馬された。長篠
城主・菅沼左衛門尉貞景は先頭に進んで討死した。同美濃守は讃井善右衛門と槍を合わせ、貞景の郎等・河井筑後は
勇を振るい、その他に御旗本勢が力戦して城兵どもは耐えかねて、天王小路から引き取らんとした。

内藤四郎左衛門正成・渡辺半蔵守綱・服部半蔵正成などは城兵に追い従って、掛川城へ付き入ろうと進んだ。大久保
治右衛門忠佐・同新十郎忠隣・小坂新助などは掛川城の空堀を越えて、三丸の喰違い虎口まで攻め込んだ。

城兵は日根野備中守弘就・同弥次右衛門(盛就)・同弥吉などが勇をはげまして命を惜しまずに奮戦すれば、味方も
林藤左衛門・加藤孫次郎(原注:『大三河志』は孫平次)・松下新助らが討死した。松井忠次の家人・岡田竹右衛門
元次・石川新兵衛・都築助太夫・左右田与平などは日根野兄弟と槍を合わせ、松下源太郎清景・浅原八蔵も高名した。

その他に水野忠重は城兵の大屋七十郎・伊藤武兵衛を討ち取り、武兵衛の首を椋原治右衛門に取らせた。水野太郎作
(正重)は日根野弥吉を討ち取った。大久保忠佐は近松丹波と言葉を交わして丹波を討ち取る。その後も忠佐は敵を
突き伏せ甥・忠隣に「その首を取れ」と言った。この年17歳の忠隣は「これは我が功にあらず」と自身で別の敵を
討って首を取った。

こうして城南は松尾口、北は太鼓門まで攻め入ったが、城兵は隙を見て城に入り門を閉じて出て来ないので、寄手は
仕方なく矢を収めて軍を返した。

(原注:内藤正成は、神君がこの時の戦功を御称美されたところ「今日の功名は某を始め、皆ひえ首に候」と申した
のだという。この事は『三河物語』に見える)

――『改正三河後風土記』


掛川城攻め

2018年12月16日 18:59

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/16(日) 18:10:50.20 ID:Fdnir0x/
(掛川城の戦いの時)

永禄12年(1569)正月12日、神君(徳川家康)は今川氏真の籠る掛川城を攻めなさるため御先手
を桑田村に、後陣は曽我山に備えて、小笠原与八郎(信興)・久野三郎左衛門(宗能)は天王山に備え、
渡辺半蔵(守綱)・本多作左衛門(重次)は天王山に備えている諸軍を巡って、囲みを合わせた。

その時、城兵の日根野備中守弘就とその弟の弥次右衛門(盛就)・弥吉は、金丸山で久野三郎左衛門の軍
と合戦した。日根野兄弟が剛勇で奮戦すれば、久野勢は散々に破られた。これを見て岡崎勢が救い来たり、
林藤左衛門・加藤孫四郎などが槍を合わせて厳しく戦い、小林平太夫重直は踏み堪えて敵の首を取った。

城兵は日根野兄弟を始めとして戦い疲れて引き退く。城兵の梶原平三郎は剪綵梅花を兜の前立とし、花々
しく後殿して城に引き入ったのであった。

神君は久野の敗北を大いに御怒りになられ(原注:『武徳大成記』『武徳編年集成』)、17日に大軍を
進めて御本陣を天王山に移され、掛川城に鉄砲を撃ち掛け攻め給えば、城中からも多くの鉄砲を撃ち出す。
内藤三左衛門信成が先駆けして、鉄砲で左腿を撃たれ倒れるのを見て、城兵がその首取らんと馳せ出る時、
信成の兄・弥次右衛門家長は射芸の妙を得ており、馳せ出た敵3人を射倒した。

信成の家士・岡田甚右衛門はその間に主人を担いで陣営に帰ったのである。神君の御馬前での働きなので
御感心はもっとも並々ならぬもので、成瀬藤八郎を御使者に遣わして内藤兄弟を慰労なされた。(原注:
『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』