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草履を横さまに御つけ有しとそ

2019年02月14日 19:41

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 20:47:39.56 ID:hVOYUadj
姉川の合戦は東照宮(徳川家康)の勝事なり。信長が朝倉義景と対陣の時、東照宮は先陣を乞うた。信長
は叱って曰く、

「田舎者にどうして良い働きができるか!(田舎者何とて能せん)」

しかし東照宮はしきりに乞いなさり、信長はこれを許した。東照宮は即時に川を渡って敵を破りなさった。
この時、信長の前を去る時に、草履を横様に御付けになられたという(草履を横さまに御つけ有しとそ)。

――『老人雑話』

よこ‐さま【横様/横▽方】
[名・形動]《「よこざま」とも》
1 横の方向。横向き。また、そのさま。「―に倒れる」
2 道理に合わないこと。また、そのさま。非道。「―な要求」


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御茶ノ水の地名の由来

2019年02月11日 17:47

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 19:04:06.53 ID:MPoFFmsO
御茶ノ水の地名の由来

慶長の昔、この邊り神田山の麓に
高林寺という禅寺があった ある時
寺の庭より良い水がわき出るので
将軍秀忠公に差し上げたところ
お茶に用いられて大変良い水だとお褒め
の言葉を戴いた。それから毎日
この水を差し上げる様になり この寺を
お茶の水高林寺と呼ばれ、この邊
りをお茶の水と云うようになった。
其の後、茗渓又小赤壁と稱して
文人墨客が風流を楽しむ景勝の地
となった。時代の変遷と共に失われ
行くその風景を惜しみ心ある人達が
この碑を建てた。

(御茶ノ水駅近くの石碑)

参照:御茶ノ水石碑
blog-location-img05.jpg



兜は念入りにすべきだ

2019年01月07日 21:38

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 09:00:32.11 ID:HHEB62gR
家康公が在る時このように仰せに成った。
「小身の武士が装備する具足を作らせる時、胴や籠手などは粗末に作ってもよいが、兜は念入りにすべきだ。
何故ならば、討ち死にを遂げた時、兜は頸と一緒に敵に渡るものであり、つまり死後の為のものでも
あるからだ。」

これについて、上田宗古はこのように語った
「武士は討死を遂げ、首になった時のことを常に心がけておくべきでしょう。であるので、
月代などが後ろに下がっていると、詫言をしているような顔になり見苦しいので、若き衆は必ず、
後高に剃るべきです。明日は必ず合戦があると知れた前日は、頸を綺麗にしておく心得が第一です。」

(常山紀談)



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 18:26:33.70 ID:dprbvp00
地味加藤「ズボンの紐は前で結べ」
三歳様「下半身裸の死体は見苦しいからな」

掛川開城

2018年12月28日 18:21

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 01:16:16.37 ID:pBe2OoRD
(掛川城の戦いの時)

掛川城中では朝比奈備中守泰能(泰朝)・小倉内蔵助資久らがとりどりに評議し、

「これまでは今川旧好の輩が馳せ集まり堅固に当城を持ち固めたが、今は遠江一円が徳川殿に帰服し、当城は兵糧が
次第に尽きて飢えに臨んでいる。これでは長く籠城は叶い難し。氏真は小田原に避けなさって北条を頼まれ、開運の
時節を計られるのがしかるべし」

と評議は一決した。しかしながら、氏真は疑念深く未だ決定しないので、小倉内蔵助は諸々に諫言した。折しも奥平
美濃守貞能も神君(徳川家康)を諫めて「氏真を許して御和睦なさり、早く遠江を平均なさるべし」と申すと、神君
はもとより御同意であった。

その時、今川方は朝比奈弥太郎泰勝(原注:子孫は今水府(水戸藩)に仕える)を使者として石川家成・酒井正親の
方まで和睦を申し請うて来た。(原注:『東遷基業』)奥平貞能は久野宗能・浅原主殿助と和睦を相計り、4月8日
に主殿助が御使者として城中に入り、小倉内蔵助と対面して仰せの旨を伝えて仰せ送られたことには、

「家康が幼年より今川義元の扶助を得ていた旧好は、今においてもどうして忘れることだろうか。家康に氏真を敵と
する心はない。如何せん氏真は讒佞を信じて私を仇とし、矛盾に及ばれたのでやむを得ず合戦に及んだが、まったく
もって本意ではない。只今のような状況では、遠江をも駿河と同じく武田信玄に奪われることだろう。速やかに駿河
を私に避けて渡されたならば、私はまた北条父子と相計って氏真を駿河へ還住させ申す」

内蔵助は大いに喜んで氏真を諫め、内蔵助が氏真の使者として双方誓詞を取り交わし御和睦は整ったので、内蔵助は
また小田原へ赴き、北条父子へこの由を告げた。よって北条からは北条助五郎氏規を氏真の迎えに掛川へ遣わした。

氏真は5月6日に掛川を出て掛塚の浦より船で小田原へ赴けば、神君からも松平紀伊守家忠をもって送らしめられて、
海路を守護させなされば、つつがなく伊豆戸倉に着岸した。今川・北条の者どもも「徳川殿は情けある大将かな」と
感心した。

これより掛川城は酒井左衛門尉(忠次)・石川伯耆守(数正)・本多作左衛門(重次)が受け取り守衛したが、同月
22日に神君が掛川に入りなさって軍士を饗応せられ、当城を石川日向守家成に賜った。

これより以前、(三河が)一円に御手に属した時、三河の国人を二組に分け、酒井左衛門尉とこの家成の両人に属せ
られて両人を左右の旗頭と定められたが、家成が当城を賜った後は旗頭を甥の伯耆守数正に譲って、自身は大久保・
大須賀・松井と同じく遊軍となり、本多広孝・本多忠勝・鳥居元忠・榊原康政らは御旗本を警衛した。

(原注:今川と御和睦の事は『武徳大成記』には今川より朝比奈泰勝が使者として申し越したとあり、『東遷基業』
も同じである。『家忠日記』には徳川家より御使者を小倉資久へ遣わされたとある。本文は両書を合わせ意を迎えて
綴ったものである)

この頃に石川に属したのは、西三河の松平源次郎直乗・松平宮内忠直・内藤弥次右衛門家長・平岩七之助親吉・鈴木
喜三郎重時・鈴木越中守重慶。(原注:『東遷基業』では、石川の組に酒井正親・鳥井平蔵・松平三蔵・松平信一を
加える。いずれが是であるかはわからない。よって両説を備える)

一方で酒井に属するは、東三河の松平右京亮親盛・松平内膳家清・松平源七郎康忠・松平玄蕃頭清宗・松平又七郎
家信・松平弥九郎景忠・設楽甚三郎貞通・菅沼新八郎定盈・西郷新太郎家員・松平丹波守康長・奥平美濃守貞能・
牧野新次郎康成。

この輩に加え、また石川伯耆守の弟・半三郎は猛勇の士であったため、先に攻め落とされた堀川を下され、その地に
土着して土人を主宰せしめなさる。よって気賀の徒は屏息して大いに恐れ、この後に一揆を起こす者はいなかった。
(原注:『東遷基業』『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


門を開けたままにしておけ

2018年12月27日 14:31

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/27(木) 09:21:54.83 ID:3nG+GfMx
豊臣秀吉の死後、徳川家康の伏見屋敷では、晩の七つ時分(深夜3時ころ)になると、ぴたりと門外より
屋敷内を覗いて走り去る者が多くあった。下々は「いかなることか、晩に及んで敵が寄せて来るのでは
無いだろうか」などと疑った。

この事はそのまま村越茂助より徳川家康に報告されたが、家康は「門を開けたままにしておけ。」と
命じた。その上で「夜間の警備に当たる者達の所へ、これを持って参れ」と、火鉢二つを出し、
茂助がこれを承った。いずれも寒気防ぎの為であると思っていたが、実はそうではなく、火縄の火を
急につくるのに、蝋燭などではなかなか付かないものだという家康の考えであった。
これは村越道半によると、森川金右衛門が語ったことであるという。
(武功雑記)


今は速やかに天意人望に応じて降参するべし

2018年12月25日 21:19

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/25(火) 19:01:46.98 ID:Ptb2kkHD
(掛川城の戦いの時)

掛川城再攻により、今川方が和睦を評議していると聞こし召し、神君(徳川家康)は岡崎に帰城して人馬を休めんと
された。すると尾藤主膳や気賀一揆が堀川城の旧塁に立て籠った。またこの頃、大沢左衛門佐基胤が再び今川に一味
して遠江敷智郡の堀江城に籠り、中安兵部定安・権田織部泰長らと同じく敵の色を顕した。

(原注:関白道長より四代の中務大輔基頼の子・持明院左京太夫通朝の十代・左衛門佐基久が遠江に居住し、丹波の
大沢を領した。今の基胤は基久より九代である)

そこで3月25日にこれを井伊谷三人衆の近藤石見守康用とその子・登之助秀用、同じく三人衆の鈴木三郎太夫重吉
(重時)・菅沼次郎右衛門忠久、野田の菅沼新八郎定盈らに命じて討手に向かわしめられた。

(中略)

また堀江城は井伊谷三人衆と野田の菅沼定盈が押し寄せ攻めたが、鈴木重吉が討死した。その後、日数を重ねて攻め
囲みなさったが、神君は4月12日に城中へ御使者を立てられて仰せ遣わされたことには、

「大沢は氏真の被官家人でもないにも拘わらず、旧好を忘れずに只今衰運の今川のために籠城し、日を経て苦戦する
その義烈はもっとも感銘を受けるところである。しかしながら、私は今遠江一円を手に入れて掛川も和睦した。今は
速やかに天意人望に応じて降参するべし。本領は相違なく与えよう」

これにより大沢主従はいずれも仰せに従った。よって御誓紙を下されると、大沢を始めとして中安兵部・権田織部も
皆降参した。この時、中安・権田の両人は御家来に召し出された。(原注:『東遷基業』『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


三月七日の掛川城攻め

2018年12月24日 15:19

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 18:55:13.87 ID:eE9Lsf8D
(掛川城の戦いの時)

神君(徳川家康)は人馬を休められて、3月4日に再度掛川城を攻め給わんと見付より御出馬され、5日には本多
平八郎忠勝・松平主殿助伊忠を先手として攻め寄せ給う。(原注:『武徳編年集成』はこの日の先手を松平甚太郎
(家忠)・松井左近(忠次。松平康親)とする。『東遷基業』『列祖成績』は原書に同じ)

すでに大手は南町口を攻め破り二の門に至る。ここに寒大寺川という大河あり。この頃、春雨は日数を重ねて降り
続けたので水嵩は増し、塩買淵という辺りは平素には歩行渡りの所だったが、水は深くなり寄手は大いに悩んだ。

搦手は水野惣兵衛忠重が西町口より攻め入り、松尾池を隔てて互いに矢砲を飛ばし挑み戦う。また一手は東口より
攻め入り、不動山を右に見て天王小路より押し寄せた。北畷口の一方は掛川城兵の心を一致させないためにわざと
開いて囲まず、城中からは朝比奈備中守泰能(泰朝の誤り)・三浦監物秀盛が天王小路に打ち出て激しく防戦する。

この時、松平主殿助の家士・石原十助が城兵を射たところその城兵は射られても未だ鞍を離れず、十助はまた射て
ついに射落とした。城中の将卒どもはその矢継ぎ早なるを感心し、その矢を金の団扇に乗せて主殿助の陣に送った。

7日には辰刻より朝比奈備中守と三浦監物が天王小路に打って出た。菅沼帯刀・伊藤治部少輔・同掃部介・同左近
左衛門・小笠原七郎兵衛・渋谷右馬允・朝比奈小隼人・同小三郎泰秀・笠原出羽守らは西宿より打って出て「今日
は歩兵には目も掛けず、大将分の者を討ち取らん!」と奮戦した。

敵味方は互いに勇を争った。本多平八郎・榊原小平太(康政)・大須賀五郎左衛門(康高)・大久保七郎右衛門
(忠世)・大久保治右衛門(忠佐)が自ら槍を振るって真っ先に進めば、味方の輩も勇み進んで突戦する。

菅沼三九郎は笠原七郎兵衛を討ち取り、高橋伝七郎は朝比奈小三郎を討ち取り、松下嘉兵衛之綱は菅沼帯刀を討ち
取り、本多三弥(正重。原注:一向乱の時に立ち退いたが、この時に御先手に加わった)は新谷小助を討ち取り、
高力与左衛門清長は粟飯原平左衛門を討ち取り、中山是非之助(姉川七本槍の1人)は伊藤左近元実を討ち取り、
散木某は山崎市兵衛を討ち取り、小林勝之助重直も首級を得たのであった。

“今川家十八人衆”と名を顕した朝比奈小隼人・伊藤治部少輔・同掃部介を始め、屈強の輩38人・雑兵180人
を討ち取る。味方でも中根伝四郎正重・本間五郎兵衛長季・加藤市十郎正重、本多康重の家士・畔柳又次郎を始め、
60余人が討死した。

また本多彦次郎康重16歳と家士の本多左馬助・吉見孫八郎、奥平家士の名倉五郎作、菅沼新八郎(定盈)家士の
菅沼弥太郎・今泉新助・同孫三郎・同久左衛門は皆戦功をはげました。

榊原家士の安松弥之助・菅沼家士の彦坂小作、御旗本では小林伝四郎吉勝が射芸を振るい、弥之助はこの功により
“矢之助”と賜る。小笠原喜三郎貞慶・菅沼藤蔵定政も戦功あり。けれども朝比奈備中守と笠原出羽守はなおも勇
を振るい、残兵をまとって城に引き取った。

松平与一郎忠正は旗馬印を塀際に押し立てて、諸手は竹束を付き寄せ今やすでに城を乗り取るかと見えたところに、
御本陣より「急いで諸手は引き取るべし」との旨が命じられた。よって与一郎が後殿し、早々に諸手の人数は引き
返した。これは今川与力の者も徒党して船に乗り、掛川城を後詰せんと掛塚の港へ着岸するとの注進があったから
である。

そこで榊原・大須賀ならびに鳥居彦右衛門元忠を掛塚に馳せ向かわしめ、かの今川与方力の者どもはこれを聞いて
早々に船に取り乗って逃げようとするところを、御目付に参っていた渡辺半蔵守綱が駆け付け、船に乗らんとする
敵を7人まで突き倒した。大須賀康高属兵の筧助太夫(正重)・久世三四郎(広宣)・坂部又十郎(正家)、榊原
康政属兵の清水久三郎・伊藤雁助も走り来たり首数級を得た。敵は散々に打ち負けて、残兵はようやく船に乗って
逃げ失せたのである。

(原注:『武徳編年集成』はこの両日の合戦を4日・5日とする。『東遷基業』『列祖成績』は原書と同じ5日・
7日とする)

――『改正三河後風土記』


掛川城の戦いの時。23日の城攻め失敗後

2018年12月21日 22:35

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/20(木) 19:32:48.23 ID:Blni8hrv
(掛川城の戦いの時。23日の城攻め失敗後)

正月25日に神君(徳川家康)は人馬の労を休め給うため、しばらく見付に御帰陣されて所々砦の警衛を命じられた。

(中略)

この頃まで遠江では、浜名肥前守頼広・後藤佐渡守・気賀の新田友作・容輪三郎兵衛らが未だ徳川家の御下知に応じ
なかった。しかしながら、神君の御威勢が日を追って盛んになられると、浜名・後藤ならびに福井修理らが降参する
として、見付の御本陣に参った。

ところが御陣前で下馬しなかったために神君は御機嫌を損じ、鉄砲で後藤を撃ち殺させなさった。浜名は大いに恐れ、
その子・与兵衛と同じく甲斐へ逃げ行って信玄を頼んだが、信玄はこれを用いなかったために近江へ落ちて蟄居した。

肥前守の叔父・大屋安芸政頼と弟・金太夫頼次ら一族は、浜名城に籠り一戦せんとする。神君はこれを聞こし召して
本多平八郎(忠勝)・戸田三郎右衛門(忠次)を遣わされ、浜名・都築両城の要害を窺わせられたところ、その城は
堅固で急に攻め抜くのは難しいだろうと申した。よってその2月に城兵が降参すれば、その罪を許して本領を賜ると
諭しなさると城主は皆々降参し、この輩は本多・戸田両人に属せられた。この時に後藤覚兵衛も戸田に属した。

また後藤佐渡守の日比沢の城兵も降参し、気賀の新田友作は城を捨てて落ち失せ、行方をくらました。容輪村の容輪
三郎兵衛は久野三郎左衛門(宗能)と本間五郎兵衛(十右衛門長孝)に攻められて自殺し、この城も落ちたのである。

――『改正三河後風土記』


さて、永禄12年己巳正月23日に掛川城は落城して、氏真は小田原へと落ち行きなさったのであった。そのような
ところに3月の日、堀川で一揆が起き申す旨を告げて来たので、上様(徳川家康)はそのまま用意もなさらずに駆け
付け給い、準備もなく寄せ掛かると、やがて寄手は堀川城の塀に付き乗った。

大久保甚十郎17歳は一番に乗って内へと寄せたところを、鉄砲で左の紅先(頬の先端)を撃たれて討死した。平井
甚五郎もまた討死した。その他、数多の討死あり。

堀川は潮のさしている時は舟で寄せる他に行く方法がなく、潮干の時も一方口であったが、案内もなく詰め入って、
すなわち男女ともに撫で斬りにぞしたりける。

前述の大久保甚十郎が堀川で一揆の起こり申した折に通り合わせれば、尽く歴々の衆たちも一同した。その中には
驚き騒ぐ衆もいたので、甚十郎は御膝元近くに召し遣われ申した時、上様の御心がよろしいので一々に申し上げた。

「誰々は驚き慌てて後先に逃げ散り、山へも逃げ入りました。誰々は乱れずに神妙でありました」

この旨を申し上げると上様は「倅ながら神妙によく見た」と仰せになられて御感心になった。

――『三河物語』


堀川城の戦いの時。掛川城再攻後

2018年12月21日 22:34

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/21(金) 18:00:20.31 ID:U9N4TaKs
(堀川城の戦いの時。掛川城再攻後)

掛川城では今川家の主だった勇士が3月5日・7日の両戦で大勢討死し、兵糧も追々乏しくなったので、「徳川家と
和睦して北条を頼み、氏真は小田原へ落ち行き、時節を見て回復の功を図るのがしかるべきか」と評議しているとの
旨を神君(徳川家康)は聞こし召し、「それならばこの地に押さえの勢を残してしばらく岡崎に帰城し、人馬の労を
休むべし」として数ヶ所に砦を設けるよう命じられた。

(中略)

この時、去年3月に遠江堀川城で攻め落とされた大沢左衛門基胤の属将である尾藤主膳(原注:一本には彦四郎)・
村山修理(原注:一本には山村。または村田)、気賀一揆の西光院・宝諸寺・桂昌院を始めとして給人百姓と称する
内山党、その他に寺社・地下人の男女1千5,6百人が堀川の旧塁を取り立てて立て籠もり、徳川家の御帰路を遮り
討ち奉らんとした。

神君はこれをまったく御存知なく、近習17騎・歩卒2百3十人ほどでこの道に通りかかられた。一揆どもはこれを
見たが、御勢があまりに小勢なので徳川家の通行とは思いも寄らず打ち過ぎた。その後に石川伯耆守数正が百騎ほど
で後陣を打って通りかかるのを見て初めて気付き、「さては先に通行した小勢こそ徳川殿であったか!」と後悔した
という。神君は岡崎帰城の後にこの事を聞こし召して、「ならば急いで征伐すべし」と諸軍に命じられた。(原注:
『武徳編年集成』には渡辺図書旨同の謀を用い給い、御先へ小勢で御通行されて古美村から船で浜松へ引き取られた
とある)

(中略)

神君は堀川の一揆を攻め給わんと3月27日に堀川へ押し寄せられ、山の後ろの平松崎という所に御旗を立てなさる。
(原注:ここの“御殿松”という古木は今も存在するという)そもそもこの城は海浜にして潮が満ちれば船で出入り
するが、潮が引いて干潟となれば巉巌峭壁で、陸地ただ一面となるので攻め寄せる便りを得られた。

「この城を只今攻め落とさなければ、その間に潮が来るであろうぞ。ひたすら攻め立てて攻め落とせ!」と御旗本勢
は攻め寄せた。その中で小林平太夫重直(原注:25歳)・その弟の勝之助正次・平井甚三郎・大久保甚十郎(原注:
23歳)・永見新右衛門為重は先頭に立ち、小林・平井・永見は皆討死した。(原注:『武徳大成記』などの諸書は
小林・平井・永見らは去年3月の堀川城攻めの時に討死したとするが、誤りである)

大久保甚十郎は深手を負って帰陣し、諸士の戦功を見届けて味方の輩に物語って落命したので、将卒とも甚だこれを
惜しんだ。榊原康政は勇を振るい、深手2ヶ所を負いながらもますます進んで攻め戦った。その他森川金右衛門氏俊
を始めとして大勢が一面に攻め入って城を乗っ取り、城兵108人の首を討った。その他烏合の一揆7百人は寛仁の
御沙汰により尽く許しなさった。この日、味方でも屈強の輩16騎が討死した。

――『改正三河後風土記』


永禄12年正月22日掛川城攻め

2018年12月20日 15:37

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/20(木) 00:20:54.49 ID:MGa74IHB
(掛川城の戦いの時)

掛川城に籠る今川氏真は遠江一国を条件に久野一族に内応を促し、氏真の軍勢を出して天王山御本陣に夜討するので、
久野一族は後陣から攻めよと申し送った。承諾した久野一族らは惣領・三郎左衛門宗能を討って神君(徳川家康
を裏切ろうとしたが、露見して鎮圧された。

氏真は久野一族が裏切りを了承したことを大いに喜んで、「それならば今夜天王山の徳川殿本陣に夜討を掛けて大勝
すべし!」と、とりわけて猛勇の輩を選んでその用意をした。これは久野一族らはすでに誅に伏したことを掛川城中
ではまったく知らなかったからである。

神君には久野宗能が一族の陰謀を訴えて、今川より今夜御本陣へ夜討せんと計策を設けている旨を申し上げたことに
より、城兵の打ち出る道3ヶ所に大久保七郎右衛門忠世・水野総兵衛忠重・大須賀五郎左衛門康高の3人を将として
伏兵を置かれた。(原注:原書は忠世を次郎右衛門忠佐とする。『武徳大成記』『家忠日記』に拠り改める。『列祖
成績』『東遷基業』では本多豊後守(広孝)・松井左近(忠次。松平康親)を加える)

頃は永禄12年(1569)正月22日の夜、今川方屈強の勇士どもが天王山の御本陣を目指して、のさのさと来る
ところを、一の伏をやり過ごして二の伏の前を半ば過ぎ、三の伏の前に来たる時、大須賀康高がにわかに鬨を作って
打って掛かれば、三の伏兵も同じく起こり、敵を前後に引き包み打って囲んだ。

城兵は大いに驚くも、とりわけて選び出された剛勇の者どもなので、少しも気を屈さずに奮戦した。高天神衆の坂部
又十郎正家・筧助太夫正重、その他に鷲山・渡辺・久世・門奈などはとりわけ粉骨を振るった。この時、松井忠次は
御本陣にいたがここに馳せ来たり、味方を助けて勇をはげました。この合戦は夜の丑刻より始まったが、城兵どもは
手強く、争う間に夜はほのぼのと明けてしまった。

23日明方に神君も味方を救い給わんと山家三方衆を先手となされて、八幡山を過ぎてここまで御出馬された。長篠
城主・菅沼左衛門尉貞景は先頭に進んで討死した。同美濃守は讃井善右衛門と槍を合わせ、貞景の郎等・河井筑後は
勇を振るい、その他に御旗本勢が力戦して城兵どもは耐えかねて、天王小路から引き取らんとした。

内藤四郎左衛門正成・渡辺半蔵守綱・服部半蔵正成などは城兵に追い従って、掛川城へ付き入ろうと進んだ。大久保
治右衛門忠佐・同新十郎忠隣・小坂新助などは掛川城の空堀を越えて、三丸の喰違い虎口まで攻め込んだ。

城兵は日根野備中守弘就・同弥次右衛門(盛就)・同弥吉などが勇をはげまして命を惜しまずに奮戦すれば、味方も
林藤左衛門・加藤孫次郎(原注:『大三河志』は孫平次)・松下新助らが討死した。松井忠次の家人・岡田竹右衛門
元次・石川新兵衛・都築助太夫・左右田与平などは日根野兄弟と槍を合わせ、松下源太郎清景・浅原八蔵も高名した。

その他に水野忠重は城兵の大屋七十郎・伊藤武兵衛を討ち取り、武兵衛の首を椋原治右衛門に取らせた。水野太郎作
(正重)は日根野弥吉を討ち取った。大久保忠佐は近松丹波と言葉を交わして丹波を討ち取る。その後も忠佐は敵を
突き伏せ甥・忠隣に「その首を取れ」と言った。この年17歳の忠隣は「これは我が功にあらず」と自身で別の敵を
討って首を取った。

こうして城南は松尾口、北は太鼓門まで攻め入ったが、城兵は隙を見て城に入り門を閉じて出て来ないので、寄手は
仕方なく矢を収めて軍を返した。

(原注:内藤正成は、神君がこの時の戦功を御称美されたところ「今日の功名は某を始め、皆ひえ首に候」と申した
のだという。この事は『三河物語』に見える)

――『改正三河後風土記』


掛川城攻め

2018年12月16日 18:59

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/16(日) 18:10:50.20 ID:Fdnir0x/
(掛川城の戦いの時)

永禄12年(1569)正月12日、神君(徳川家康)は今川氏真の籠る掛川城を攻めなさるため御先手
を桑田村に、後陣は曽我山に備えて、小笠原与八郎(信興)・久野三郎左衛門(宗能)は天王山に備え、
渡辺半蔵(守綱)・本多作左衛門(重次)は天王山に備えている諸軍を巡って、囲みを合わせた。

その時、城兵の日根野備中守弘就とその弟の弥次右衛門(盛就)・弥吉は、金丸山で久野三郎左衛門の軍
と合戦した。日根野兄弟が剛勇で奮戦すれば、久野勢は散々に破られた。これを見て岡崎勢が救い来たり、
林藤左衛門・加藤孫四郎などが槍を合わせて厳しく戦い、小林平太夫重直は踏み堪えて敵の首を取った。

城兵は日根野兄弟を始めとして戦い疲れて引き退く。城兵の梶原平三郎は剪綵梅花を兜の前立とし、花々
しく後殿して城に引き入ったのであった。

神君は久野の敗北を大いに御怒りになられ(原注:『武徳大成記』『武徳編年集成』)、17日に大軍を
進めて御本陣を天王山に移され、掛川城に鉄砲を撃ち掛け攻め給えば、城中からも多くの鉄砲を撃ち出す。
内藤三左衛門信成が先駆けして、鉄砲で左腿を撃たれ倒れるのを見て、城兵がその首取らんと馳せ出る時、
信成の兄・弥次右衛門家長は射芸の妙を得ており、馳せ出た敵3人を射倒した。

信成の家士・岡田甚右衛門はその間に主人を担いで陣営に帰ったのである。神君の御馬前での働きなので
御感心はもっとも並々ならぬもので、成瀬藤八郎を御使者に遣わして内藤兄弟を慰労なされた。(原注:
『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


汝は何ぞ主人の盟約に背き当国へ乱入するや

2018年12月12日 11:28

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/11(火) 20:59:48.23 ID:z57RbpQQ
遠江の国人どもは追々降参して御味方に属す輩多し。よって神君(徳川家康)はますます御馬を進められて、
掛川城を攻め給わんと、城下を放火せしめられた。しかしながら今年はすでに歳暮であり、合戦は明年の春
とすべしとして、見付へ陣を御取りになった。

そんなところに武田の部将・秋山伯耆守晴近(虎繁)は信玄の命を受けたのか、信濃より軍勢を引き連れて
遠江を切り靡かんと二俣辺りに向かった。秋山はまず久野城へ使者を遣わし、久野三郎左衛門宗能に「一族
を引き連れて信玄に降参すべし」と勧めた。宗能は先達て徳川家へ帰順していたので、秋山の使者に返事も
せず追い返した。

秋山は大いに憤り「それならば国人どもの見懲らしめに久野城を攻め落とせ!」と平尾村に陣取りして久野
の城に押し寄せんとした。宗能もこれを聞いて鼻闕淵という所へ出て防戦せんとする。神君もこれを聞こし
召して奥平監物貞勝入道道文・菅沼伊豆守満直・同新九郎正員などを援兵として遣わされ、秋山勢を防がせ
なさった。

ところが敵は思ったよりも大軍で、味方は散々に打ち悩まされた。秋山は勝ちに乗じて浜松まで追い寄せる
勢いである。しかも同国の犬居城主・天野宮内右衛門景貫はかねてより武田方の一味で、これも人数を押し
出し、秋山に力を合わせて働いたのである。

神君はこの時すでに浜松城へ御馬を入れられたが、秋山の方へ御使者を送り仰せ遣わされ「汝の主人である
信玄は先に約束を定めて、駿河を信玄が切り治め、遠江を私めに切り治めよと申し送った。私はその盟約を
守り大井川を隔てて互いに経略せんと当国へ働くところに、汝は何ぞ主人の盟約に背き当国へ乱入するや!
甚だもって無礼なり! 早くその地を去らずに事を先延ばすならば、私がただちに出馬して1人残さず首を
刎ねる!」と、仰せ遣わされた。

神君はその後に引き続いて御馬を出され、御勢も追々走り出てすでに秋山の陣へ打って掛からんとする形勢
であった。これを見て叶わないと思ったのか、秋山は早々に人数を引き纏めて信濃伊那口へと逃げ入った。
(原注:『三河物語』では駿河に入ったとする)岡崎勢は1人も逃すまいと追っ掛けたが、甲斐勢は地理に
熟練しているため、捨鞭を打って逃げ延びた。岡崎勢は牙を噛んで「今少し早ければ、秋山を討ち取ったと
いうのに!」と、名残惜しげに浜松城へ引き返した。

――『改正三河後風土記』


徳川家康と井伊谷三人衆

2018年12月07日 13:16

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 19:48:55.72 ID:1oZI7Caa
この年(1568)12月、武田信玄が駿河に攻め入るとの旨が聞こえて、神君(徳川家康)は遠江を経略
されんと岡崎城を御出馬され、まず井伊谷城を攻めんと菅沼新八郎定盈、ならびにその家臣・今泉四郎兵衛
延伝に案内者を命じられた。

そもそもこの井伊谷城というのは今川の被官・井伊信濃守直盛の代々の居城であったが、直盛が永禄3年の
今川義元討死の時に同じく討死した後、一族の肥後守直親が遺跡を継いでこの城を守ったが、これも被官・
小野但馬の讒によってあえなく討たれ、幼児・井伊万千代(直政)は三河の方へ漂泊したのである。

神君はこの月朔日、大井川辺りに御陣を張り給うところへ定盈が参陣して、「この城は要害の地に築いた城
なれば、力攻めにせんとすれば虚しく月日を費やして士卒も多く損じることでしょう。某の一族の菅沼次郎
右衛門忠久、ならびに近藤石見守康用・鈴木三郎太夫重時、この3人は井伊谷の豪傑であります。この3人
に恩を施して味方に招きなされば、この城は戦わずして御手に入ることでしょう」と申し上げた。

神君はその申すところもっともであるとし、井伊谷近くへ御馬を進められて菅沼・近藤・鈴木3人に御書を
下され、所領の地を宛がわれた。その御書に言う、

 今回、両三人の計らいにより井伊谷筋から遠江へ打ち出たことは本望である。ついては所々出し置きの
 知行分を長く相違なく不入とし、また扶助するので、もし甲斐よりその知行分について如何様に申され
 ようとも、私の進退にかけて見放すことはありえない。その他のことも申すに及ばず。もしこれを偽る
 ならば、梵天・帝釈天・四大天王、とりわけて富士山・白山、総じて日本国中の神祇による御罰を私は
 蒙るものであろう。よって件の如し。

   永禄11年12月12日
  
            御諱御判

          菅沼次郎右衛門殿
          近藤石見守殿
          鈴木三郎太夫殿

この御書は今も近藤家に伝えている。(原注:井伊肥後守直親の横死後、その被官が7人でこの城を守った
という由なれば、菅沼・近藤・鈴木はその7人の中であろう。鈴木の子孫は現在の水府(水戸藩)の老臣・
鈴木石見守がこれである)

菅沼定盈、ならびに今泉延伝も同じく誓詞を添えて3人の方へ御書を遣わし、3人の方から参らせた誓詞と
人質も定盈が受け取って献じたため、定盈もこの功を賞せられて遠江に新地を下された。またこの3人は後
には井伊直政に付属されて、“井伊谷三人衆”といって武功を人に知られた輩である。

――『改正三河後風土記(近藤菅沼両家譜説)』


三越同盟

2018年11月21日 16:45

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 20:07:43.88 ID:nigKKgzI
(姉川の戦い勝利後)

神君(徳川家康)はこれより先に今川氏真の媒介で越後の上杉謙信と音信を通じられたが、この年7月下旬
に至り、遠江秋葉の別当・加納坊光幡とその婿・熊谷小次郎直包を使者として越後に遣わされ、これからは

ますます仰せ合わされたいとの旨で、浜松御城の図・太刀・馬代金10両を贈られた。謙信は大いに喜んで
「今の世に“海道第一の弓取”と伝えている徳川が、私めの武略を慕って使節を送られた事は謙信にとって
これ以上ない大慶である」として両使に引出物若干を与え、徳川家の老臣に書簡で返礼した。

その文によると、

 追って真鳥羽(矢羽に用いる鷲の羽)20尻を、これまで通りに任せて差し遣します。誠に些少の至り
 ではありますが、未だ申し通じてはおりませんので、一筆啓達します。さて、家康よりよくよく使僧を
 遣わされ、これ以上の大慶はありません。これからは無二に申し合わせたいとの心中ですのでよろしく
 取り成しを頼み入ります。なお子細は口上させます。恐々。

   8月2日  謙信在判

     松平左近丞殿

甲斐の信玄方へは翌年に至り越中の椎名肥前守からこれを告げ知らされたので信玄は大いに嘆き苦しんだ。

――『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』


「さらば掛かれ!」

2018年11月18日 22:09

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/18(日) 16:06:44.95 ID:0sQ0peas
(姉川の戦いの時)

これより先に織田方先陣の坂井右近(政尚)は敵に姉川を越させまいと遮ったが、浅井の先鋒・磯野丹波守(員昌)や
その他に高宮三河・大宇大和・山崎源八郎・前田信濃・蓮台寺常陸など5千余騎が突いて掛かった。坂井は小勢ゆえ

突き立てられて嫡子の久蔵16歳や郎等百人ほどが枕を並べて討死した。右近はこれを知らずに味方の陣へ引き取った
のであった。2陣の池田勝三郎(恒興)も散々に切り崩された。浅井方は切り誇り勝ちに乗じて阿閉・上坂を始め

7千余騎が一足も引かぬと突いて掛かる。木下(秀吉)・森(可成)の備も敗れて、整々堂々たる13段の備は11段
まで切り崩され、信長の旗本も大いに騒動してすでに危うくなった。これを神君は御覧になって「さらば掛かれ!」と

御命じになり、越前勢を追い捨てて浅井勢の中に馬煙を立てて喚き叫び駆け入り給う。稲葉伊予守(良通入道一鉄)は
今朝から徳川勢の後陣に備えて手を虚しくし口惜しく思っていたので、良き幸いと同じく馳せ入り突いて掛かった。

横山城の押さえとして備えている氏家卜全・伊賀伊賀守範秀(安藤守就)の3千余騎も横槍を入れ、徳川勢と双方より
激しく攻め立てれば、浅井長政も力を尽くして戦うもついに戦い負けて総敗軍となった。神君は歯噛みをなして衆人を

励まし命じられれば大久保七郎右衛門(忠世)・本多平八郎(忠勝)・酒井左衛門尉(忠次)・小笠原与八郎(信興)
などは先を争って奮戦した。青山虎之助定規はこれより先に討死す。また浅井方では浅井玄蕃(政澄)・磯野丹波守・
阿閉淡路(貞征)が取って返すも、ついに戦い疲れて玄蕃と淡路は引き退き、磯野は手勢3百ほどで

群がる敵を打ち破り佐和山の居城へ引き取る。浅井雅楽助・同斎之助・加納次郎左衛門・同次郎兵衛・安養寺甚八郎・
同彦六郎・細江左馬之助・早崎吉兵衛・上坂五助・同弥太郎・同次右衛門などは討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


その血は神君の御刀にそそぐほど

2018年11月17日 22:11

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/17(土) 14:35:48.11 ID:QBvZ1LDM
(姉川の戦いの時)

この戦いの半ばで、誰かは分からないが朝倉方の者が御本陣に紛れて神君(徳川家康)に
近寄ろうとしたが天野三郎兵衛康景と加藤喜右衛門正次が怪しみ2人でともに討ち取った。

その血は神君の御刀にそそぐほど御近くでの出来事であった。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


6月28日姉川合戦・徳川勢

2018年11月15日 12:10

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 01:25:00.65 ID:AH/VRodr
(姉川の戦いの時)

28日の暁に信長が敵陣の様子を見られると、浅井勢は8千ほどが野村に備えて東にあり、朝倉勢1万5千ほどが
三田村に備え西にあって姉川を境に陣を取っていた。信長は徳川殿に使者を立て「昨夜軍議を定めたが、我が恨み
は浅井にあるので私が浅井を討つ。徳川殿は朝倉に向かわれよ」と申し送った。酒井左衛門尉(忠次)がこれを

聞いて「味方はすでに浅井に差し向かっています。今にわかに陣備を立て替えようとすれば隊伍は乱れましょう」
と申せば、神君は「浅井は小勢、朝倉は大勢だ。大勢の方へ向かうは勇士の本意である。とにかく織田殿の仰せに
任せる」と御返答されてその使者を返し、にわかに軍列を立て直し西北に向かい直された。

(原注:『柏崎物語』によると南は横山、東は伊吹山と草野山の間より姉川は流れ出る。堤26丁程の高岸なり)

(中略)

徳川勢先手が弓鉄砲を放ち掛けるのを見て越前勢大将・朝倉孫三郎(景健)が「この手の敵はわずかな小勢なり!
打てばたちまち破れるぞ!」と命じれば、平泉寺の衆徒は心得たと徳川勢に切り掛かり、姉川を追いつ返しつ戦う。
折しも6月28日の極暑であり、馬汗や人汗は流水に異ならず。浅井方では磯野丹波守(員昌)がこれを見て、

「越前勢は早くも槍を入れたるぞ!」と呼ばわり、西南に向かって千5百の勢を押し出した。越前勢大将の朝倉
孫三郎が味方を離れて百騎ほどで平泉寺の僧らが力戦する横合から切り掛かり、徳川勢を追い払わんとするのを
見て、御本陣より本多平八郎(忠勝)が急いで馬を馳せて、雷の如く駆け来たるとこの敵を突き破った。

大久保兄弟(忠世・忠佐)と安藤彦四郎直次も同じく馬で馳せ来たりて奮戦する。朝倉孫三郎も激しく命じ諸軍を
進めて敵を川の向こうへ追い立てようとした。石川伯耆守(数正)は姉川の中ほどで返し合わせ、大塚甚三郎は敵
の槍を引き合ったが、ついにその槍を奪い取って敵を突き伏せ首を取った。この功により“又内”という名を賜る。

内藤正成の子・甚一郎正興(正貞)は槍を敵中に落としたので馬を乗り戻し、その槍を取って帰って来た。この時、
朝倉後陣の勢と浅井勢とがひとつになって進む。神君は御覧になって「これでは織田方は利を失うと見える。旗本
より敵の備を崩し掛かれ!」と御命じになり、本多平八郎は「畏まり候」と槍を引っさげ朝倉の1万余騎の中へ

喚いて掛かる。本多豊後守(広孝)を始めとして徳川勢は「平八討たすな!」と一同に3千ほどが突いて掛かった。
松井左近(松平康親)は左手を鞍の前輪に射付けられながら、その矢を抜いて敵を射倒した。松平甚太郎(家忠。
東条松平家)16歳は良く戦った。朝倉方は魚住龍門寺(左衛門尉)ら8千余騎が御本陣を目掛け突いて掛かると

大久保忠勝の子・新八郎広忠(康忠)を始め大久保党やその他に小栗又一(忠政)・服部一郎右衛門などがこれを
迎え打ち高名す。その中でも大久保権十郎忠直は敵の槍を奪ってその敵を突き伏せ首を取った。よって“荒之助”
という名を賜る。この時、神君の御下知あって、榊原小平太(康政)・本多豊後守に「敵の横を打つべし!」と

命じられた。小平太が左右を顧みると前方に水田あり。底は砂石で渡れるので、小平太が馬を乗り入れたのを見て、
豊後守とその子・彦次郎康重や渡辺半蔵(守綱)・本多三弥(正重)・水野太郎作(正重)も進み突戦す。小笠原
与八郎(信興)も進み戦えば、その手の者の渡辺金太夫・門奈左近右衛門・吉原又兵衛・伊達与兵衛・

中山是非之助など(姉川七本槍)も勇を振るう。越前勢はついに敗北して小林瑞周軒・黒坂備中守(景久)・前波
新八郎・同新太郎・魚住龍門寺などといった主だった輩が討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


松村の報告

2018年11月03日 20:56

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 23:40:43.29 ID:CzSJgcY6
徳川家康へ、豊臣秀吉の妹の朝日姫との婚姻に置いて、秀吉は朝日姫に付け参らせるものを探していたが、
近江の中郡に、元は明智光秀が召し使った松村という者があり、これが才知有るとの事で、輿に副えて
家康の元へと赴いた。

後に秀吉は、この松村を招き家康の家風を尋ねた。松村は畏まって申し上げた

「家康は、世間のことは不調法に見えますが、弓矢の儀は勝れて鍛錬の所多きと見えます。
彼は腹を立てて人を叱るときにも、言葉は明らかで理由を詳しく述べます。
また腰の重い人かと思えば、鷹野にて2、3日も御逗留されます。
しわく吝嗇な人物かと思えば、家中に歴々が多く居ります。
何とも、凡眼にて推量するのは難しい人であります。」

秀吉は松村の報告に感じ入り、「人の言行をこのように細やかに察するものは、これまで聞いたことがない。」
と言ったという。

(士談)



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 08:13:57.12 ID:YbqDkvn8
>>449
間者か!

何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、

2018年10月09日 17:25

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 17:04:02.59 ID:3PE+0Tuk
(武田氏滅亡後)

やがて信忠卿は諏訪へ参向されて父子は対面された。信長公は今回の信忠卿の大功は比類なしと
たいへん御誉めになった。かくて父子は計りなさり、

「徳川殿は駿河の諸城を速やかに攻め抜きなさり、その軍功はまったく軽んじるものではない」

として神君に駿河一円を進上された。神君は厚く感謝されてその上で、

「私めと今川家の旧好は忘れるべきものではありません。駿河は今川の旧領なので半国を分けて
氏真に安堵仕られたく存じます」

と仰せになった。信長はまったく御承知にはならず、

「何の用にも立たぬ氏真へくれてやりなさる程に必要ないのならば、信長が所領する!」
(何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、信長所領すべし)

と御怒りになったので、駿河は一円に神君の御領地となされた。

――『改正三河後風土記』



289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 23:46:05.12 ID:9iQGbbh4
後の交流からして意外と家康は本気で今川に恩を感じていたのかもしれない
それにしても到底本気とは思えず対外的なアピールであろうが
それにしても氏真に駿河半国分けたいとか
生き馬の目を抜く戦国の時代に言うとは到底思いがたいな
後世にできた逸話に真偽を問うのは野暮だと判ってはいるが

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:17:50.10 ID:qxcritGB
秀忠と違ってカミギミは自費不快のです

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:25:59.57 ID:LoT/qsy1
>>289
信長急死後、甲斐信濃手に入れても返してない所から見てもな・・・・・

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 19:28:27.93 ID:35C0sJ8M
まあ駿河方面への調略に、上手く行かなかったとは言え氏真に協力してもらっていた以上、
心にもない事でも立場上言うだけは言っておく必要があったのかもしれん。

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:19:13.07 ID:dpeX0mQH
>氏真
同盟破った武田は恨んでたけど徳川は別に恨んでないってのは武将らしくて好きw

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 21:01:48.05 ID:y0IcR6Me
>>287
それは浪士組として上京して、京都に残るメンバーを選別した時だな
新選組として徴募したときには特に制限してない

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:09:20.94 ID:DnnVud2J
>>293
まあ徳川が占拠した遠江はあくまで植民地で、武田が攻めてきた駿河は本国そのものだしな

家康に関連する苗字ネタ2発

2018年09月10日 21:09

265 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/09(日) 19:47:35.82 ID:wCzcxmWK
家康に関連する苗字ネタ2発を投下。ソースは自分が持ってる苗字関連の本から。

①勘解由
三方ヶ原の戦いのあと、三州吉田周辺に勢力をもっていた朝倉某に徳川家康は『勘解由』を与えた。
朝倉勘解由と称した彼の子孫の一部は『勘解由』姓と名乗って今に伝えている。
ちなみに、朝倉姓も勘解由姓も実は愛知県豊橋市が人口全国1位である。


②昼間
1591年、九戸政実が南部信直に反旗を翻し、南部領一帯で大暴れする九戸勢に対して豊臣秀吉から討伐を命じられた。
一路九戸へと出陣することとなった家康は井伊直政ら精鋭を引き連れて行った。
6月下旬~7月上旬のある日、家康は河越から岩付に向かう途中、夜中に入間川or荒川の橋を渡ることとなった。(元荒川のほうではない)
しかし、大軍ゆえによる人数分の松明を用意しておらず、渡ることに難儀していた。
そこにたまたま居合わせた近所の村民が対岸より松明を灯して家康軍を迎え入れた。
その明るさはまるで夜中なのに昼間のように明るかったため、無事に川を越えることができた家康は喜び、村民に『昼間』姓を授けた。

余談だが、家康は直政の一族にもある時に『昼間』姓を授けたそうだ。何で?
ちなみに小柴教授をノーベル賞へと導いた昼間輝夫氏は井伊系昼間氏の末裔かな?



266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 20:45:23.91 ID:z+zy6/DF
>>265
朝倉って宗滴が絡んだ騒動の時に越前から流れてきたんだっけか?

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 21:09:26.35 ID:QLSVHmyP
東三河は勘解由さん普通にいるな
朝倉さんや朝比奈さんも見るけど鶴屋さんは会ったことがないな

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 21:13:46.44 ID:poCWem/I
大学の同級生で伊地知っていう奴がいて、あ~鹿児島出身だな知ってる知ってる
と聞いてみたら全然違った思ひ出

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 21:26:12.64 ID:v+y1rya+
>>267
懐かしいラノベネタを

徳島県三好郡にも昼間って地名はあるけど
そっちは涸沼(ひぬま)、沼を干拓したとか聞いた
こっちもそういう地名がもとで家康の名付けは後付かも

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 21:32:25.78 ID:ZVXW6vWX
>>268
ルーツがそこにあるかも知れんけど子孫までそこ出身とは限らんからな

271 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/09(日) 22:38:04.69 ID:wCzcxmWK
>>266
自分もそう思ってたんだけど、わかる範囲内で該当する人物がおらず。
朝倉景高の息子のことかと思ったけども違ったので某にしました。
在地豪族の三河朝倉氏かもしれない。
景高の息子の在重は河内守で他は見当たらず。所領も駿河国。
在重も家康に仕えていたから在重のことだと思い込んでた。

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 09:43:13.97 ID:96WbM6v2
>>268
まあその名前から見て維新後に役人として東京ほか地方に赴任してそのまま居ついたのかもしれんしな

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 17:58:00.69 ID:/8Q7GE1N
数年前に会った鹿児島出身の伊地知さんて人に会ったら
坂の上の雲のおかげで苗字は覚えてくれるけど印象が悪いと自虐してた