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上様は毛嫌いを

2021年02月25日 18:43

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 16:55:00.29 ID:J/vuJaWh
慶長六年九月十五日の昼過ぎて、家康公は表に出御された。御機嫌良く、色々様々の御咄があった。
堀尾帯刀(吉晴)、大島雲八入道、猪子内匠、船越五郎右衛門が御前にあり、船越がこう申し上げた
「去年の今日、御合戦(関ヶ原の戦い)の日もあめが降りましたが、今日も雨降りです。」
これに家康公は御機嫌良く、お笑いに成った。

猪子内匠が申し上げた
「田中(吉政)の人衆は敵に遭い、三町余り敗軍しましたが、誰かが『返し候へ!』と下知した
ようにも見えなかったのに、引き返し敵を追い崩しました。田中の軍勢の働きは、見事でございました。」
そう申した所、家康公は仰せに成った

「あの時田中勢の間近くに、金森法印(長近)が吹貫を立て備えを成していた。しかしこれを敵と心得て
田中勢は馬を寄せなかった。法印の手勢と知っていれば、先へ押し出し、法印の居た所に馬を寄せて
いただろう。そうであったなら、敵を一人も洩らすこと無かったのに、法印の備えを知らなかった故に、
そのように苦戦したのである。」

総じて、家康公は弓矢の御咄などは、あえてなさらぬ人であった。相手によって、弓矢噺となった場合も、
脇からその事について存じている者が話し出すとそれにまかせ、御咄も止められた。
それを御小姓衆は、「上様は毛嫌いを遊ばされている。」と言っていた。
鶏を合わせた時、向かいの鶏を見て一方の鶏が退く場合、その事を下々では(相手の毛並みによって
好き嫌いをする、という事から)『毛嫌い』(これという理由もなく、わけもなく嫌うこと)と申していた。

慶長年中卜齋記



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これが江戸瓦葺きの始めである

2021年02月11日 17:34

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/11(木) 14:46:00.13 ID:i3xmU3oN
当君(徳川家康)の江戸御打ち入りよりこの方、江戸の町は繁盛し、家居多く出来た。
しかしながら皆草葺であり、頻繁に焼亡した。

そのような中、慶長六年霜月(十一月)二日の巳の刻(午前10時ころ)、駿河町の職人の家より
火が出た。この時の大焼亡で、江戸の町家は一宇も残らなかった。

この時、御奉行の仰せに
「町中草葺であった故に、家事が絶えない。これを幸いとして、このついでに皆板葺きにすべし」
と言う由の御触れがあったため、町は尽く板葺きにて再建した。

そういった所に、瀧山彌次兵衛という者、諸人に秀でた家を作ろうと工み、街道の表の棟を
半分瓦にて葺き、後ろ半分を板で葺いた、人々が沙汰したことには
「本町二丁目の瀧山彌次兵衛は家を半分、瓦で葺いた、さても珍しき奇特である。」
そう褒め称えて、彼を『半瓦彌次兵衛』という異名で呼んだ。これが江戸瓦葺きの始めである。

古歌に「瓦の松」「軒の瓦」「瓦の屋」などと詠じている。瓦屋を「心かはらや」と、心の変わるに
寄せて詠んだ歌もある。件の彌次兵衛が人に「心かはら屋」した事、古今異ならない。

(以下瓦の歴史の解説が続くため中略)

然れば、家康公が興された江戸城の殿主は五重、鉛瓦にて葺き給われた。
それは富士山に並び、雪の峰に聳え、夏も雪かと見えて面白い。

今は江戸町は栄え、皆瓦葺きと成った。よろず広大に有って美麗なること前代未聞。
明け暮れに、人々皆見ることであるので、記すに及ばず。

慶長見聞集

江戸の瓦葺きについて



935 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/11(木) 20:29:56.99 ID:kTxHvqDA
江戸の町家は一宇も残らなかった。

これもう滅びてるじゃん

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/11(木) 23:27:28.73 ID:NT+lrpGI
>明け暮れに、人々皆見ることであるので、記すに及ばず。

今じゃ摩天楼だらけだから、記しておいて欲しかったなあ

以前TVで幕末の江戸パノラマ写真をカラー再現していたっけ?

これも鑓同前に

2021年01月30日 18:26

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/30(土) 16:17:40.34 ID:/QYGEpXb
長久手合戦の時、鑓(一番鑓)を入れたのは家康公の御方では、平松金次郎大脇七兵衛であった。
但し七兵衛は弓であった。

合戦後、家康公の仰せに「今度の鑓は平松金次郎である。」として、御座をお立ちになった所に、
七兵衛が御跡に付いて申し上げた
「私もその場に在りましたが、弓を仰せ付けられていたため、その役を守り矢を二筋放ちました。
これも鑓同前に成らないのでしょうか?」

家康公は御思案され、
「いかにも、汝が申す通りである。その証拠にせよ」
と、丁度手に持っておられた矢二筋を下されたという。
大脇七兵衛は良く申し上げたものである。

これは前田二郎兵衛という武功の人が語った事である。

備前老人物語



豊島の洲崎に町を建てん

2021年01月27日 17:31

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/27(水) 12:22:36.02 ID:K+heH9n3
かつて当君(徳川家康)が武州豊島郡江戸に御打ち入られてよりこの方、町は繁盛したが、
地形が広くなく、これによって、豊島の洲崎に町を建てんとの仰せがあり、慶長八卯の年、
日本六十余州の人夫を寄せ集め、神田山を引き崩し、南方の海を、四方三十余町埋めさせ、
陸地となし、その上に在家を立てられた。

昔、平相国清盛公は、津の国兵庫の浦に新京を建てんと、七ヶ国の人夫を集め、島を築かれたが、
崩れて島成就し難く、その後、石面に一切経を書写し、その石にて築いた所、誠に竜神が
納受されたのか、島は成就し、これによって経ヶ島と名付けた。そしてその島の上に
三町ほどの在家を建て、末代まで名を残した。
しかしこれを、今の豊島と比べれば、わずか十分の一に及ぶ程度である。

この新たな町はその外まで家が居続き、広大なること、南は品川、西は田安の原、
北は神田の原、東は浅草まで、町が続いている。
豊島の名の通り、民が豊かに栄えること、震旦(中国)の都は家居百万間というが、中々これと
比べるには足りない。

天地開闢より慶長までの世を考えるに、この(現代の)御代には及ばない。
上一人の御恵み深ければ、下万民、みな栄華に誇る。
「君が代は 千代に一度ゐる塵の 白雲懸る山となるまで」
(君の世が、千代に一度落ちる塵が積り、白雲のかかる山と成るまで)
久しかれぞと、人々は祝い侍った。

慶長見聞集



汝はどうして、他の者と共に行かなかったのか

2021年01月22日 17:53

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/22(金) 13:37:59.34 ID:5jChY7Bo
徳川家康公が有る時ふと、広間に御出に成られたが、この時広間には、番衆がただ一人しか居なかった。

「どうして番の者共は広間に詰めぬのか!?」

そう仰せに成り、御機嫌もよろしく無かった。
かの一人だけ在った者が申し上げた

「たった今までここに詰めていたのですが、皆相撲見物に出てしまったのです。」

これを聞くと家康公は
「汝はどうして、他の者と共に行かなかったのか。」
と仰せに成り、奥へと入られた。深きお考えの有る言葉であったという。

(備前老人物語)



860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/22(金) 23:25:58.77 ID:yPt2QclP
>>857
予定外の時間に出てくんなってことだな
社長がふらっと予告なしで一般社員のフロアに出てきたらちょっと迷惑だしな

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/23(土) 17:34:28.59 ID:Fh3YuJ7t
>>860
最近の研究で出てきた人の良い家康さん像だと
最初の発言は「勤務中に役割を疎かにするとはけしからん!仕事に励むべきでは!?」と取れるし
その後の発言は「え!?相撲見物なら仕方ないね!そういうときは君も同僚に付き合った方がいいよ!(本当に必要なら小姓に探しに行かせるし)」みたいな発言とも取れる。

あるいは「たった今まで」という発言を「同僚を庇った」と解釈して「そういうときは君も行っていいんだよ(=同僚を私は責めない)」と言ったようにも取れる。
そうじゃないと三河者は責任者クラスがすーぐ腹を切ってお詫びしちゃうので。

というか本当に深い考えあったのか?
無理に持ち上げてない?

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/23(土) 17:53:25.11 ID:WKvEYzad
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1502.html
番衆が城内で相撲取ってどったんばったんしてるとこに出くわした家康が
「相撲を取るときには畳を裏返すのだぞ」
と諭した話も出てたっけ

863 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/23(土) 17:53:49.45 ID:VockI350
いつもどおりの気持ち悪い神君持ち上げ
言論の自由なんてものがない江戸時代に
生殺与奪権を握られてる人を正確に評価できるわけがない

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/23(土) 23:58:03.41 ID:LnvKmP+G
>三河者は責任者クラスがすーぐ腹を切ってお詫びしちゃうので。

こういった「殊勝な三河者」も後世つくられたものだよね

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/24(日) 21:10:05.29 ID:EgpbTEhE
>こういった「殊勝な三河者」も後世つくられたものだよね
この点は全く否定しない。ただし

本多作左衛門が三方ヶ原の敗戦後に篭城後の兵糧どうすんの?荷駄は三方ヶ原に放棄したじゃん、って話をしているときに
「それがしが密かに蓄えた米がありもうす!」
と言ったけどそこで「お前、それ横領じゃあ…」と誰かが言ったら作左衛門さんは間違いなく罪を認めてその場で腹を切るし
三河者は家康含めて空気を読んで、「さ、さすがは作左殿じゃあ!」した話は好き。
家康さんは下手したら懲罰沙汰のインシデントに出くわした時に、丸く収める方法をよく存じておられた。

866 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/25(月) 01:15:26.05 ID:vUkIGv8n
まさにそういうのが「殊勝な三河者」だわな
たぶん後世の創作(少なくとも天下とった後
大半が松平家に歯向かった黒歴史とか封印してたんだろ

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/25(月) 09:49:11.79 ID:hHw/MJ1q
秀康の小姓として付けた自分の息子を無断で甥に交代させた本多重次だぞ
役を放棄しても自ら罪を被らない人間が、
その程度で罪を認めて腹を切るとは思えない

一里づかつき給ふ事

2021年01月20日 17:29

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/20(水) 14:34:13.11 ID:shinWrHe
一里づかつき給ふ事

今は国が収まり、土民までも安楽である。世は澆季(末世)に及ぶと言えども、君は順徳を施し給われ、
仏法王法共に繁盛する、有難き御時代である。

然れば日本の五畿七道は、人王三十二代、用明天皇の御宇に定まった。六十六ヶ国に分けられた事は、
四十二代文武天皇の御宇である。道については四十五代聖武天皇の御宇に、行基菩薩が六町一里として、
王城よりみちのく東濱に到って、三千五百八十七里に極め、また長門西濱に到って千五百七十八里と、
くわしく図書に記し置かれたが、その境は定かではなく、これによって当君の御時代に、一里塚を
作るべきよしを仰せだされた。

日本橋は慶長八年、江戸町割の時節に新しく出来た橋である、この橋の名を、人間は名付けておらず、
天より降ってきたのか地より出てきたのか、諸人一同にこれを「日本橋」と呼ぶようになったのは
稀代の不思議とされた。そして、武蔵国はおおよそ日本東西の中間の国に当たるとの御諚があり、
江城日本橋を一里塚の起点と定め、三十六町を道一里として、これより東の果て、西の果て、五畿七道
残る所無く一里塚を築かせられた。

日本は年久しく治まらず、諸国乱れて辺土遠境の道は狭くなり、また曲がっていたが、そういう所を
見計らい、直線にし道を広げ、牛馬の蹄が労せないように、石を除き大道の両辺に松杉を植え、
小河には尽く橋をかけ、大河には船橋を渡し、日本国中、民間往復のたよりに備えられた。
これは慶長九年の事である。
万民喜悦の思いを含み、万歳を願いあった。
このような将軍国王の深恩に、末代までもどうしてこれを疎かに出来るだろうか。

見聞集



髪結職分は「一銭職」と唱えるべし

2020年12月15日 18:50

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/15(火) 12:49:16.88 ID:Q4CyFfTC
北小路藤七郎は正長年中より元亀の頃、美濃国金華山岐阜に流浪した。
遠州三方ヶ原において、東照宮(徳川家康)が甲駿の武田大膳大夫晴信と御一戦あそばした頃は、
元亀三年十月十二日(実際には十二月二十二日)の事であったが、東照宮が東海道見附宿の袋井腋、さつ原へ
御帰城の際、大風雨にて天竜川は満水に及び、舟で渡ることも叶い難く、御難儀の所、丁度北小路藤七郎
行きかかり、川を見て浅瀬の瀬踏みをし、御案内したことで、恙無く川を越えられた。
御喜悦浅からず、これによって浜松城にお入りに成った。この時、殿を勤められたのは本多平八郎忠勝殿であった。

御引き揚げが済み、北小路藤七郎は三州原村までお供をし、そこで東照宮の御髪を揚げた事に対し、
御褒美として金銭が一銭、笄一対が榊原小平太康政殿を以て頂戴仕った。これによって、以後髪結職分は
「一銭職」と唱えるべし、という旨の台命を蒙った。そしてすぐにお暇を下され置き、それ以来、
一銭職の者たちは、諸国の関所、川々に至るまで、相違なく通過出来るようになった。

また慶長八年に江戸に御入国された時に、北小路藤七郎をお召に成り、「先年の御褒美」として、
青銅千疋を、伊那熊蔵殿を以て拝領した。

髮結職由緖之事

権現様、三方ヶ原では髪結にまでピンチを救われていたとは。
実際に髪結は江戸時代「一銭職」とも呼ばれていたようで。




763 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/16(水) 16:56:20.08 ID:JZwQXhxJ
一銭職にはこういう言われもあるわけで・・・

世界大百科事典
「髪結」
髪結にはまた一銭職(いつせんしよく)という異称があった。これは享保年間(1716‐36)に
髪結仲間が公儀に差し出した《壱銭職由緒之事》によると,三方原(みかたがはら)の戦のさい
髪結職の北小路藤七郎なる者が徳川家康の危急を救って賞されたことに由来するとしている。
しかし実際は,髪結発祥期に路傍に床を置き,通行人の求めにより月代をそり,髪を結ったときの
賃銭が1文で,一文ぞりと呼ばれたことに起因し,それから一銭ぞり,一銭職となったものと考えられる。

wikipedia
藤原采女亮政之(ふじわらうねめのすけまさゆき、1335年(建武2年)4月17日[1]または7月17日[2]または10月17日[3]没)は、
日本における理美容業の祖といわれる。昭和のはじめ頃まで全国の理美容業者は采女亮の命日である17日を毎月の休みとした[2]。
功績により従五位[1]。

采女亮の子孫は代々髪結を業としていた。徳川家康が武田信玄の勢に押され敗退の際、17代目北小路藤七郎が天竜川を渡る
手助けをしたことから褒美と銀銭一銭を賜り一銭職と呼ばれるようになった(なお理美容業の定休日が17日だったのは
家康の命日が4月17日であるためという説もある[2])。その後「御用髪結」を務め、21代幸次郎の時に江戸髪結株仲間(組合)を
申請した[6]。史料は亀山天皇時代の出来事から書き始められ、吉宗や大岡越前も登場する[書 3]。



なお北小路家本家は維新後華族となったとのこと。

徳川家康の鷹狩のスケジュール

2020年10月06日 18:06

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/06(火) 16:16:17.61 ID:KnRn4aXP
慶長十七年正月

七日、今日より三河国吉良で御鷹野を成されるため駿府を出発された。この日は田中まで進まれた。
八日、相良でお止まり宿された
九日、横須賀に到着された
十日、中泉に到着された。この晩、織田有楽が江戸から帰る途中、ここに於いて家康公に御目見得し、
   鷹狩で得た鶴を賜った。また上洛することを仰せに成ったという
十一日、当所で御鷹場のため御逗留
十二日、浜名に到着
十三日、吉田に到着、城主松平玄蕃頭に銀百枚を賜る
十四日、吉良に到着(中略)

十六日、御放鷹。今日青山図書助が御使いのために来た。これは御鷹野の御見回りと云々。
    京極若狭守忠高、同丹後守が使者を以て御服并びに嘉肴を献じたという。
十七日、御鷹野。今日、鷹の捕らえた鶴を仙洞御所(上皇)に進上、また伝奏の広橋兼勝、勧修寺光豊には
    鷹の捕らえた雁を各3羽ずつ遣わしたという
十八日、御鷹野。鷹の捕らえた鶴を秀頼公に贈るという
十九日、御鷹野。今日成瀬隼人正、竹腰山城守に、駿府に参るよう仰せに成った。これは名古屋の
    御普請についての仰せ付けと云々

二十日、岡崎着。城主本多豊後守に銀子百枚賜ると云々

二十一日、御鷹野。松平摂津守御前に出ると云々
二十二日、御鷹野にて得た鶴を主上(天皇)に進ずると云々
二十三日、御鷹野。成瀬隼人正、竹腰山城守が参ったと云々
二十四日、御放鷹。松平筑前守利光(前田利常)、御服二十領を献ずる。そして家康公の御鷹の捕らえた鶴が
     遣わされたと云々
二十五日、御鷹野。羽柴右近(森)忠政、緞子御袴を献上したと云々。
二十六日、大樹寺に御参詣。これは御祖父の菩提所であり、銀子五十枚を住持の僧に賜った。
     また正應寺(松應寺カ)にも参った。これは故大納言殿(松平広忠)の墳墓の所である。
     銀五十枚を院主が賜ったという。
二十七日、名古屋到着。

駿府記

駿府記より、慶長十七年一月、豊臣家との関係も割と安定していた頃の徳川家康の鷹狩のスケジュール。



『諸士軍談』より老いた家康②

2020年10月05日 17:46

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 23:18:52.57 ID:I2yHnBnf
諸士軍談』より老いた家康②
※『』内は原文です

・ぬるい攻め
6日には(家康が)「軍法を守りすぎでぬるい」と中山勘解由を使い番として本多忠政の元に派遣した。
(中山が)「『なせにかからぬ』」というと、(本多は)「軍法に背く」。
中山は「さてさて、その方は忠勝の子ではないのか?。どこに軍法の入り込む余地があるのだ?」
別所孫治は馬を乗り回し、「『やれかかれ、やれかかれ』。かようの時に懸からぬということがあるか。敵の手強いところに懸かってこそ侍ではないか。筑紫合戦のとき、尾藤甚右衛門は懸かるべきときに軍法を守りすぎ、攻めかからなかった。これを未練がましいと太閤は勘当された」。こう申した。
孫治は「馬1匹われ1人だけ(だから無理だ)と思っていては役に立たぬ」と言い放ち、馬を乗り回して味方を前進させようとしたが、一向に攻めかからなかったそうだ。
家康は「6日に岡山まで進軍して攻めかかったら6日に城は落ちたのに、あまりにぬるいので城が落ちなかった」と「しかり」つけた。

・「親を殺して何の役に立つのか」
6日の晩、家康は秀忠に近藤石見を使いにやり、「日が暮れてもかまわず、1日中、平押しに押し寄せろ」と命じた。
家康は干し田から行列もつくらず平押しに押し寄せ、秀忠の備えの後ろまで追いついた。
「やれ、おれの後ろについて攻めに攻めまくれ」と家康は秀忠の備えを割って前進しようとした。
秀忠の小姓組番頭、成瀬豊前は「大御所様は格別だが、お供の衆は通さない」と申したが、家康はかまわずに押し通った。
本多正純は「『親を殺して何の役に立か』」といってお供の衆も通した。
秀忠の備え(の中心部)は割らず、少し道を空け、横道を(家康勢は)押し通った。

・ぬるい攻めとの矛盾
家康がいうには「何度、軍法を話しても覚えられるものではない。ただただ、合戦は勢い次第である。それならば、秀頼と組み合い、上になった方が勝ちである」。これよりほかに軍法を申しつけることはなかった。

・無差別通り魔事件
大坂の陣の前には怪事はなかったが、駿府で女が髪を切られる事案が発生した。無差別に11人切られたという。
(世間では)「大久保長安のところにいた欠所女(死後、お家断絶)の犯行か」と噂されている内に、よき上臈まで切られたので家康に報告すると、「『おれか髪を切るまい切るまい。おれか髪か立(断つ)ものハ有之まし』」との上意だった。


『諸士軍談』より、老いた家康のはちゃめちゃ①


398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/05(月) 12:46:21.41 ID:X2O9MJfU
軍法守れば怒られて、守らず突進すれば抜け駆けと責め立てられる
難儀な商売だな

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/05(月) 15:57:42.58 ID:2ECRWgfm
中山勘解由は第二次上田合戦で軍法破って抜け駆けして逼塞させられていて、
上田城攻め従軍していた忠政にはよくよくご存知の人物
別所孫次郎は兄の信範が秀頼に仕えて大坂城内におり、
是が非でも戦って見せねばならない立場

「軍法破っても突っかけろよ」って督戦役としてもってこい
こんな負い目のある奴らに来られても忠政も困るわな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/05(月) 20:52:48.79 ID:gFjyZTi6
豊臣家滅ぼす戦いで太閤の例出されてもな

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/06(火) 14:35:13.96 ID:3Muezd83
いくさの世はもう終わり
最後にもう踏ん張りして加増を求める者と、そうでない者との温度差ってやつよ

『諸士軍談』より、老いた家康のはちゃめちゃ①

2020年10月02日 18:10

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 22:49:30.15 ID:knvDGzGe
諸士軍談』より、老いた家康のはちゃめちゃ①
(有名な話もありますが…)

・大坂の陣に燃え、意気盛んな家康
(慶長19年)11月15日、権現様(家康)は京をたって、大和路を進んだ。秀忠も同日に(京を)出立し、本道を進んだ。
家康は木津に至って「茶釜の湯で湯漬けを出しなさい」と命じた。
すると本多正純は「御膳で食べるのがよきかと」と進言したところ、「『タワケ』なことを。なぜ御膳を食べろなどというのか」と湯漬けを立って食べた。
「奈良へ出ろ」と命じ、そのまま立っていた。いずれの者もここで一泊すると思っていたが、ふと出立したので「やうやう」30騎ばかりしかお供衆はいなかった。
家康の旗印は翌日追いついた。(御旗が追いついた日は)雨が降っていたので「奈良に逗留する」と話していたが、にわかに出発し、宝蔵寺に宿泊。
翌17日に住吉へ着陣した。

・支離滅裂な家康
茶臼山の普請ができていなかったので、住吉に陣を置いていたが、ようやくできあがり、12月4日に移るはずだった。
ところが、その日は霧が深かったので6日に陣を移した。
このときの霧で井伊直孝と藤堂高虎は大坂城に乗りいるはずだったが、乗り込み損なった。
秀忠は立腹したが、家康はご機嫌に話をしていた。

・憎きやつじゃ
(家康は)「鬨の声を1日に2度、竹束の裏から揚げよ。夜の九つ(午前0時頃)に揚げよ」と命じたが、いまだ空が明るいうちに鬨の声を揚げてしまった。
城内からも鬨の声が揚がり、同時にたいまつを投げつけてきたので「火事の様にみえ」た。
(家康は)機嫌が悪くなり、「どうも城方に内通している者がいるようだ。『にくきやつしや』」と言った。
案のごとく、秀忠使い番の青山石見が城方へ「帰忠」すると内通していたことが露見し、陣のあとに成敗した。
鬨の声は夜の八つに揚げ、城からも鬨の声に合わせて鉄砲を撃ちかけた。

・言行不一致な家康
(夏の陣で)秀忠は4月22、23日ころだろうか、夜を日に継いで上洛し、道中では上杉景勝や佐竹義宣、伊達政宗なども追い抜いた。
家康は機嫌が悪くなり、2日間にわたって秀忠と対面せず、「『たわけなる事じや。軍勢を跡におゐて主一人来ては何の役に立申か』」との上意だった。
秀忠は関ヶ原の時、真田に隙をとり、家康に面会できなかったことを無念に思っていた。
今回、家康が上洛したので、「私が行くまで待っていてください」と秀忠はお願いし、心得ていたが、「敵が出てきては待てない」とも。
これに秀忠は慌て、急いだのだという。
※半年前に自分は御旗衆までまいたことを忘れている権現様


『諸士軍談』より老いた家康②


汝は福島左衛門大夫正則の友人であるので

2020年09月26日 17:53

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/26(土) 17:01:50.27 ID:rnApk812
慶長十九年十月八日、今日、竹中伊豆守(重利)が御普請の隙が明き、江戸への参府のため
大御所(家康)に御目見した。この時大御所の仰せに

「汝は福島左衛門大夫正則の友人であるので、彼のもとに使いをしてもらいたい。その内容は、
今度秀頼が野心の巧を起こしたが、これは秀頼が行ったことではない。織田有楽、大野修理、
木村長門、渡辺権兵衛、その他若輩の者達が秀頼に悪逆を進めたのだろう。

正則は太閤に好まれていたことで、秀頼とも疎遠ではない。しかしながら今度の秀頼の別心について
どのように考えているかという事について、彼が我等父子に対して逆心など有るはずもないが、下々は
狐疑を作るものである。
であるので、手元より人数を国元に下し、息男である備後守(忠勝)を添えて、大阪表の攻め口に加勢し、
正則は江戸に在るように。」

と仰せになり、江戸に遣わしたという。

駿府記

正則をむしろ気遣っているっぽい



588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/26(土) 17:58:21.29 ID:FUSAutg7
そりゃあ広島49万石がトチ狂って大坂方に付かれたら大変だからな、気も遣うだろ

589 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/26(土) 19:04:56.47 ID:NnWHuGt1
有楽が野心の側近連中に加えられてるのね
まぁ息子がバリバリの過激派だしそれ掣肘してないしそうも見えるか

『駿府記』より、大阪冬の陣の勃発について

2020年09月24日 18:35

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 17:28:03.64 ID:tQa17/WK
慶長十九年
九月二十五日、今日大阪の片桐市正(且元)より駿府に飛脚が参着した。その状に云わく、
去る十八日駿河より大阪に帰り、御意の旨を申し上げ、末々将軍家と不和に成るのは如何かとして、
秀頼が江戸に在府するか、御母(淀殿)が江戸に在府するか、そうでなければ大坂城より退き、
御国替えが然るべしとの旨を申し上げたところ、これを秀頼并びに御母は不快に思われ、
市正を殺害するとの内存があると知らせてきた者が有ったため、出仕を止め引き籠もった、
という内容を上野介(本多正純)が上聞に入れた。大御所(家康)はいよいよご立腹なされた。

十月朔日、京都より伊賀守(板倉勝重)の飛脚が到来した。その状に云わく、去る二十五日、
大阪において大野修理、青木民部少、石川伊豆、薄田隼人正、渡辺右衛門佐、木村長門守、
織田左門、その他十余輩が、秀頼の仰せによって市正を殺そうとしたが、市正はこれを知って
私邸に引き籠もっているという旨を、本多上野介、板倉内膳正(重昌)が大御所に言上した。

これに対してご立腹甚だしく、大阪へ御出馬する事を、近江、伊勢、美濃、尾張、三河、遠江へ
仰せ触れられた。また江戸の幕下(秀忠)にも仰せ遣わされた。

また伊賀守より飛脚が到来し、その書状に云わく、市正が駿府に下向したなら。秀頼をも城から出して、
織田常真(信雄)を大坂城に入れ、彼を大将として籠城するとの旨を、織田左門その他が談合していると云う。

六日、京都の伊賀守より飛脚到来。織田有楽が伊賀守方へ一通の書状を遣わした。その書状に云わく、
今度の大阪の雑説について、市正の駿河への御使いの内容が悪しき故に、秀頼公が御折檻に及んだ所、
市正とその弟の主膳が摂津棘木(茨木・市正領)へ立ち退き、これによって大阪は以ての外の騒動と
なったが、我等は全く両御所(家康・秀忠)に対して野心は存ぜず、という旨が宣われているという。

七日、今日、片桐市正・主膳の使者である小島勝兵衛、梅津忠介が来て、大阪より茨木へ立ち退いた
事について、本多上野介を通して言上した。両使は召し出され、御服、御羽織を拝領した。
また御書が遣わされ、その内容は『今度佞人達が様々に申した事により、茨木まで立ち退いたとの事、
神妙に思う。なお本多上野介に報告するように。』というものだという。

駿府記

大阪冬の陣の勃発について。



352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 23:54:48.52 ID:T4NDgTeu
織田左門は頼長か、こいつ織田の血筋使って悪さしようとしてんなぁ
親父の有楽はさすがに状況のやばさ理解してすぐに書状送ってるのね

『駿府記』より、方広寺鐘銘事件について

2020年09月23日 18:41

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:18:37.90 ID:Nl3xNW4I
慶長十九年
七月二十一日、大御所が源氏物語の講釈を受けられた。飛鳥井(雅庸)が講読し、御数寄屋次之間にて
行われた。その後近習四、五輩、および伝長老、板倉内膳(重昌)の両人が召された。仰せに曰く
「(方広寺)大仏の鐘銘に関東不吉の語があり、また上棟の日も吉日ではない。」
とお腹立ちだったという。

二十六日、今日、片桐市正(且元)より一通の書状、并びに板倉伊賀守(勝重)の書状が駿府に
到来した。その内容は、

『方広寺大仏の供養を来月三日、開眼を十八日に成す予定であるが、その十八日には豊国臨時祭が有るため、
三日の早朝に開眼を行い、その後供養を行いたいのだと、秀頼が仰せに成っている』という。

大御所は「今度の大仏供養については、棟札といい鐘の銘といい、遺憾で不快である。
また往時源頼朝の時代も、開眼と堂供養の間は十年を隔てている。先例を考え、諸事後難無きように。」
と仰せ遣わし、本多上野介(正純)、伝長老がこれを奉った。

八月二日、方広寺大仏殿の鐘銘の正確な写しが駿府に到来した。中井大和守(正清)がこれを捧げた。
件の鐘銘は東福寺の韓長老がこれを書いたが、『国家安康』の語が不快であり、その他にも文章の中に
所々不快の語があった。一通を写し、これを江戸に遣わした。林道春がこれを奉った。

四日、大仏殿の棟札の写しが駿府に到来した。中井大和守がこれを奉った。照高院道勝法親王がこれを
書かれたのだが、大御所の御意に叶わず、ご不快にて、仰せに曰く
「鐘銘については、奈良大仏の鐘銘に准ずるべき旨を云っていたのだが、相違え、また秀頼より、
彼が出京するために、供奉の者たちを諸大夫に任じたいと云ってきたため、諸大夫に任官させたのだが、
その秀頼の出京は中止に成ったという。頗る不審である。」

五日、今日、大仏の鐘銘と棟札の内容を、大阪より片桐市正が大御所に捧げ、御前において、金地院崇伝が
これを読み、中井大和守が差し上げた。その内容はそれまでに報告されていた書付の内容と相違無く、
件の鐘銘の善悪について、五山衆に評価させ、それを書き記して提出するようにと仰せに成った。
この御使いとして、板倉内膳正が京都に赴くようにと仰せに成られた。

駿府記

方広寺鐘銘事件について。実は棟札の問題とセットだったんですね。



347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:52:42.97 ID:XZPd+AJg
丸島氏が言っていたと思うけど
豊臣家が何個もやらかしててそのうちの1個が鐘銘ってだけなのよね、しかも鐘銘に関しては確認とって西国じゃそういうのもあるんだろうぐらいで落ち着いてるようで
出兵の決定打は取次の片桐の追放とのことみたいね

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:03:18.16 ID:aMwBT9L+
追放じゃなくて退転じゃないの
関東にとっては同じことだろうけど

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:54:08.28 ID:FN2WPn7a
>>348
片桐且元・織田信雄が暗殺されかねない危険な状況だったのだし、
同時期に多数の重臣が退去しているのだから、より酷いわな。

徳川が腹黒いとか言われる方広寺鐘銘事件とか福島・加藤など豊臣恩顧の大名の改易とかは、
調べれば調べるほど、こりゃ当然そうなるわな…という感じ。

もちろん、大久保長安事件とか宇都宮城釣天井事件とか、
徳川内部での騒動だとアレだけど。

駿府の浜に揚がった謎の巨大生物

2020年09月22日 18:13

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/21(月) 19:50:19.72 ID:W/E8RYZN
慶長十九年四月五日
今日駿府の前の浜において、亀に似た魚が網によって引き揚げられた、漁師たちはこれを城に運んできたが、
二十余人で運ぶほどの大きさであった。

背は黒く、亀の甲羅のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三股に分かれていて大鱗が有り、腹の色は斑であった。
諸人はこれを見て様々に噂し合ったという。

駿府記

駿府の浜に揚がった謎の巨大生物について



562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 21:49:32.28 ID:BWWDYY4m
う~マンボウ!でござる

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 00:58:04.17 ID:YyyVtWjH
北条氏康も大きな亀が捕れて喜んだ逸話があった気がする

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 10:40:03.20 ID:9hWHoZeS
鱗があるなら魚だろう
サメだなたぶん

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 19:10:00.52 ID:mX0GhiAu
ヤリマンボウらしいけど、ヤリマンボウちゅう名前だけでおなかいっぱいだよ

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 20:00:21.66 ID:8wpI9iGO
ヤリマンに棒が生えたのか、ヤリマンのための棒なのか…

『秀頼』と焼き印を

2020年09月20日 17:48

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/20(日) 12:03:46.31 ID:u8VnV0o8
慶長十九年十一月二十五日

(大阪冬の陣の最中)城中の下臈の者が、浅野但馬守(長晟)の手に走り入った。
この者を大御所(徳川家康)が御前に召され、参上すると彼に城中の様子を問われた。
かの者は申して曰く

「藤堂和泉守(高虎)、浅野但馬守以下、各々秀頼に音信を致している。」

これに対し家康は「偽を申している。」として、彼の額に『秀頼』と焼き印をして城中に追い返した。

当代記



悪口の罪軽からず

2020年09月19日 17:58

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/18(金) 21:18:26.35 ID:E9wTxwXD
慶長十七年七月十三日、彦坂九郎兵衛の申す所によると、一昨夜、飯田伝吉朝比奈甚太郎松野勘介
(共に中将殿(徳川頼宣)御小姓)が駿府の町中に於いて喧嘩に及んだ。これは甚太郎、勘介が伝吉に対し
悪口を吐き、剰え刀を抜いてかかり向かった事が原因であった。

その時伝吉は堪忍能わず、散々に切り合い、その場において松野勘介とその郎党を殺し、朝比奈甚太郎
二、三箇所の疵によって倒れ臥した。

伝吉はその場から逐電したが、大御所(徳川家康)はこの事件を聞き召されると
「飯田は手柄を顕した。」と御感になり、これを召し返した。
また生き残った朝比奈甚太郎に対しては「悪口の罪軽からず、殺害されるべし」と仰せになった。

駿府記



近年にない陰謀の露呈であり

2020年09月10日 18:08

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 12:52:42.94 ID:6re4dyIE
慶長十九年四月
この近年、大御所近習の女房衆が駿河に於いて金銀を貸し付ける商売をしており、この使いは
神子(巫女)であったが、甲斐甲斐しく才覚して、本利を相調え毎回献上していた。

去る頃、池田備後(荒木久左衛門子)も借用していたが、この借銀を神子に催促されたため、
備後の用人(若衆立て)が、中に銀が入っている由を含んで皮袋を渡した。
これはそれまでも度々の事であったので、符を見切るまでもなく請取、両替町に出て商人に渡す時
これを見ると、その中には石が多く詰められていたのである。

神子は大いに驚き、皮袋を持ち帰って先の備後の小姓(用人)に申した所、彼は
「全くそのようなことは知らない。」と申し、神子のやったことだとした。
この時神子は「汝は私を媒として、備後の妻を犯したではないか!」と申した。
近年にない陰謀の露呈であり、すぐにかの者を押し籠めた。

この事は大御所にも聞こえ給わったが、かようの儀は町奉行である彦坂久兵衛に相図るべしと言われた。

池田備後の借りた金銀は過分であり、返済は難しく、その上外聞も失った以上、彼の身上は
如何成るかと噂された。この借銀は千貫目にまで膨れ上がっていたという。
また備後に限らず歴々の衆も借用しており、今速やかに返済するのは難しいと云々。

当代記



329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 14:29:47.35 ID:vSQ/4NGC
長すぎる。二行でまとめてくれ

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 15:19:57.00 ID:xTSgtrAh
借金を部下に返させたら銀の換わりに石詰め込まれてて抗議され、部下がしらばっくれたら借金取りに妻NTR(部下が上司の)バラされ笑い者、家康もあきれ顔

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/11(金) 23:59:40.62 ID:gy3Glw8l
>>328
荒木久左衛門(池田知正 1555-1608)の子じゃなくて、弟の光重だな
この件が原因で改易されて、大坂の陣で復帰を目指すも果たせず病死

ヲランダ国よりの進上

2020年09月07日 18:09

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/07(月) 11:58:40.11 ID:F033BR/c
慶長十七年八月
この度来朝の唐船どもの内、ヲランダ国より来る仁、鳩ほどの大きさの鳥が一羽、大鳥一羽、
何れも生鳥を駿府、江戸に進上すべきとて、京都まで上がった。
右の小鳥は人の言うことを聞いて、その言葉のとおりに言い、大鳥は頭は鶴に似ていて、
背の毛は猪の背の毛に似ていた。

当代記

小さい鳥の方はオウムなんでしょうかね



『当代記』より、岡本大八事件について

2020年09月01日 17:48

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/01(火) 12:59:56.15 ID:xeG/Ao3Q
慶長十七年三月二十三日、岡本大八という者、親は江戸に在住していた。
この大八は九州長崎の有馬修理(晴信)を駿府に於いて取り持つ物であった。

彼は有馬修理に、修理方より金銀を差し越され、これを各年寄衆、并びに女房衆に彼の取成しを以て
遣わせば、九州鍋島の知行地のうち三ヶ所を申し請けることが出来ると有馬修理に対して偽りの報告をし、
有馬はこれを真と心得、金銀を大八方に渡した。
しかし素より偽りの謀であり、何の沙汰にも及ばなかった。

有馬修理が、大八が金銀を得て私に領した事を言上すると、この二十三日に安倍川原において
火炙りと成った。

(中略)

大八罪過の砌、大八は
「大御所に従い、長崎で唐船の糸やかれこれについての使いとして遣わされていた長谷川左兵衛(藤広)を、
有馬修理は闇討ちしようとした。」と白状した。

このため有馬修理は大久保石見守(長安)に預け置かれ、その後甲斐国郡内に遣わされた。
彼の子息である左兵衛(直純)は、この科に関係がないとして、有馬家の本領は安堵され
前々のごとく長崎に居住した。

五月七日
有馬修理(九州長崎主)は去る月より甲斐国都留郡に置かれていたが、「殺害に至るべし」と
大御所よりの命が下った。

当代記

岡本大八事件について



安南国からの進物

2020年08月29日 17:55

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/28(金) 22:21:06.74 ID:xoyZfXyb
慶長十五年、安南国(天竺内と云々)が日本への音信のため、船を薩摩浦に去る頃着岸した。
彼らからの進物は、

一、沈香の木の柱十二本(但し一本に付き四人持ち)
一、沈香の粉柱一本
一、糖水十壺
一、沈香十斤(これは上沈也)
一、象牙二
一、鸚鵡一つ
一、孔雀一つ
一、リンケイ一つ(これも鳥也)
一、モンノ絹二疋

右の通り書立を以て注進し、近日駿府に運送されるという。
これは今後商船を寄越すためのものである。
惣別、日本に銀が多いという事が、近年唐南蛮で沙汰されているのだという。

当代記