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【ニュース】悲劇のキリシタン「ジュリアおたあ」初の直筆書状

2023年04月20日 19:15

810 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/20(木) 08:22:38.76 ID:LWei7ilA
家康に使えたが棄教を拒み流刑、悲劇のキリシタン「ジュリアおたあ」初の直筆書状
読売新聞2023/04/20
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230420-OYT1T50048/

※管理人注
記事内容はリンク先でご覧ください


811 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/20(木) 08:33:09.01 ID:LWei7ilA
補足として、昨年こういう報告がありました。

※PDF注意
第75回美術史学会全国大会(2022) 萩博物館所蔵「葵紋付亀甲模様小袖」の服飾史的位置付け 福島雅子(学習院女子大学)
https://www.bijutsushi.jp/c-zenkokutaikai/pdf-files/2022-5/2022_D2.pdf


本小袖の伝来について検討する。上述の墨書のある畳紙には、本小袖とともに「大御所さま御内たあ」と「うんなき」との間で
交わされた書簡等が包まれていた。これらの関係史料の分析によれば、村田家の初代である村田五右衛門安政は、豊臣秀吉の
朝鮮出兵の際に捕らえられた朝鮮人捕虜であり、名は「うんなき」であったとされる。
また、安政の姉も日本に連れてこられ、大御所時代の徳川家康に奉公しており、姉を通じて駿府に召し出された際に、家康から
安政に馬や刀とともに「葵御紋付之御服」が下賜されたとの記述を『萩藩閥閲録』(享保 10 年成立)に見出せる。
この記述が、本小袖にあたると考えられる。
さらに、付属する書簡にみえる「大御所さま御内たあ」は安政の姉であり、近年の研究で指摘される「ジュリアおたあ」であったと考えられる。
朝鮮出兵の際の朝鮮人捕虜とされる「ジュリアおたあ」に関しては、これまでキリスト教信仰史等の面から研究が進められてきたが、
本小袖と付属する書簡類は、これまで指摘されていない新たな関係資料といえる。

813 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/20(木) 09:05:38.90 ID:LWei7ilA
>>810
投稿してから気づいた、タイトルの使えた(ママ)は読売の間違いなんですが、今サイト見たら仕えたに訂正されてましたねw



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時期外れのこの桃を捨てたこの分別は

2023年04月05日 19:06

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/04(火) 21:21:31.29 ID:7VhXufKi
武田信玄公の仕置に、諸々の境目に在る侍大将衆に、近国・他国の大将の行儀、作法、仕形などを
聞き出し次第、善悪共に一ツ書にて言上いたせ、というものがあった。
或る年、遠州犬居の天野宮内右衛門(藤秀)と申す侍大将の所より進上仕る書状に、

『美濃岐阜の織田信長に、直系一尺(約30センチ)にもなる桃が三つ成ったものを枝折りにして、
霜月(十一月)中の十日に献上した所、信長は差し引きの冴えたる大将であり、上辺は事を破っている
ように見えても、内心には時により、一段と練れたる事の多き武士でありますから、この桃を大いに
心祝いして、一つは信長自身が取り、もう一つは嫡子城介信忠へ参らされ、三ツ目を遠州浜松の
徳川家康へと送られました。

この事に対し家康は、世の常ならぬほど忝ないことだという返事を出しましたが、その桃は密かに捨てさせ、
家康が食うことはありませんでした。』

これを天野宮内右衛門は書き付けて提出した。それは一ツ書の多い中に、「これはそれほどの事でも無い」と、
末にいかにも粗略に書いたものであったが、信玄公はこれをご覧になり、その書付を御手に取られ、
しばらく目を塞がれた後、御目を開いて申された

「家康は今年で定めて三十ばかりであろう。しかし四十代に及び殊更大身の信長に比べ、五位も増した、
締まりどころ在る分別である。これに対し、武士の心馳せの無い者が聞けば、年齢に似合わぬとも
申すであろうが、三河国を治めるとして、十九歳より二十六まで八年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れも
それに相応し、海道一の武士と呼ばれているが、日本国においても彼に匹敵する武将はあまり多くはないだろう。
丹波の赤井(荻野直正ヵ)、江北の浅井備前守(長政)、四国の長宗我部(元親)、会津の(蘆名)盛氏、そして
若手にはこの家康であろう。

さて、時期外れのこの桃を捨てたこの分別は、後の出世を考えてのことであろう。この出世とは、無事年を明ける
事ができれば吉事となるという事であり。その意味は馬場美濃、内藤修理、高政は定めて合点するであろう。」

そのように宣われた。

甲陽軍鑑



779 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/06(木) 12:18:07.62 ID:sy19QJwM
>>769
重要人物は季節外れの果物は食べないって、別の逸話でも見た気がするな。あれは誰だったか…。

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/06(木) 12:27:27.97 ID:wrO1aHin
毛利輝元と石田三成「テルとジヴ」・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-954.html

で輝元が秀吉に贈った桃を拒否している

781 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/06(木) 12:31:22.08 ID:sy19QJwM
>>780
おお、それだ。
ありがとうございます。

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/06(木) 16:53:04.10 ID:QdzFzLJH
少し意味が違うが、打ち首直前の石田三成が水を飲ませてくれと言ったら、水はないが柿ならあるけれどどうだ?と言われて、柿は腹を冷やすからいらないと言った話があったな

「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

2023年03月06日 19:44

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/06(月) 12:43:20.98 ID:Y3zjxpvb
武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

天正十八年(1590年)三月二十八日、太閤秀吉公が三枚橋に御着陣されたため、先手の諸大将が浮島が原までまかり出た。
織田信雄公、権現様も同じく御辺に出られた。
秀吉公は金小札糸緋威の鎧、唐冠の兜、金の大熨斗付きの太刀二振を帯し、金の土俵空穂の上に征矢一筋を付け、作りひげをつけなさっていた。
仙石権兵衛が進上した朱滋の弓をお持ちになり、金の瓔珞の馬鎧をかけた七寸の馬に乗られていた。
供の面々は異類異形の出立ちで、千利休は金の茶筅のついた七節のえつるを指物とし、極の口(樋口?)石見は鼓の筒の指物、狂言師の番内は三番三(三番叟)の装束で、その他さまざまな出立ちであった。
権現様、信雄公はお進みなさり、ことに信雄公は秀吉公の主筋であるため乗り打ちはどうしようかと思しめした。
その上、両大将とも小田原との内通の雑説もあるため、礼儀とはいえ御両将の前で秀吉公は馬からひらりとお降りになり、太刀を御手にかけ
「信雄、家康逆心と承る。立ち上がられよ、一太刀参るぞ」とおっしゃった。
信雄公は赤面して言葉が言えなかった。
権現様は諸人に向かい
「御陣初めに太刀に御手をかけられるとはめでたいことです。何もかもめでたい」
と高らかにおっしゃると、秀吉公は何も言わずに御馬に乗り、お通りになった。
諸軍は権現様の御智勇に感心した。



702 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/10(金) 13:19:38.82 ID:AqPhcBaW
>>699
こういう掛け合いができるから、秀吉も家康を信頼したんだろうな。

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 15:19:04.75 ID:w0q880jL
馬鹿だなあ 無能だったら潰しやすいのに
有能ゆえに扱いに困るんだわ

「続武家閑談」から「岡崎にて一揆どもと御合戦のこと」

2023年02月27日 19:32

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/26(日) 22:46:16.88 ID:EAgpXPFs
続武家閑談」から「岡崎にて一揆どもと御合戦のこと」

大御所様が岡崎に御居城あそばされた時、信長公へ六条門跡(本願寺、ただし六条門跡は堀川六条に西本願寺ができてからの呼称)が逆心したということで、宗旨の者どもも国々で一揆を起こした。
三河一国の宗旨の者もことごとく一揆をおこし、一揆勢には家中の歴々の武士も多かった。
これは当時、大御所様が信長公に御味方してらっしゃったためである。
一揆の者どもを御退治なさるべく評定を行い、明日御合戦をなさるとお決めになった。
青見藤六はその夜まで大御所様の近くにおり、御手立ての様子の委細を承知していたが、その夜に一揆勢方に加わり、一揆の大将となってしまった。
大御所様はこれをお知りになり小姓どもにお触れをなし
「今日の合戦でわしが討ち死にするようなことがあれば、忠義のものは石川新七と藤六の首をとってわが前に持って手向けをするように。
さすれば二世までの忠節と思おうぞ」とおっしゃった。
さて合戦で藤六と石川新七は先に進み、新七は水野和泉(水野忠重)に突きかかってきた。
新七は「和泉殿は日ごろは一家の主とあがめていたが、今日は敵となったからには一槍つかまつろう」と言って和泉と槍を合わせ、討ち死にした。
青見藤六は太郎作(水野正重)と出会い、太郎作は逃がすまいと進むと
藤六は「小せがれめ、射殺してくれるわ」と大弓を引いた。
こうして太郎作は槍、藤六は弓を引いたまま、互いににらみあった。
するとどこからかしらぬが流れ矢が藤六の肘に突き立った。
藤六は弓を捨て矢をかなぐり捨てたため、太郎作は「うれしや」と一槍突いたけれども、良い具足であったため槍がはしって藤六と鼻合わせになってしまった。
藤六は刀を抜き、太郎作の兜の鉢から斬ったものの、兜はよい兜であったため斬れなかった。
太郎作は槍を捨て、刀を抜いて一打ちすると、藤六は倒れながら「小せがれにやられるとは無念の次第」と言い、念仏を唱え「早く首をとれ」と申した。
こうして石川新七と青見藤六が討たれたため、一揆勢も討ちに討たれて敗北した。
その後、太郎作が藤六の首を持参すると大御所様は
「藤六を討ったのはその方か。まことに満足でなににたとえようか。
太郎作一世の奉公と思うことにする」と重々おっしゃられたそうだ。
これについては拙者よりも渡辺図書(渡辺半蔵の三男の子孫?)がつぶさに存じられている。
なおこの時、太郎作は二十歳だったという。

信長と本願寺との対立はもっとあとのはず。
また「三河物語」では水野忠重が討った一揆勢として石河新九郎、佐橋甚五郎、大見藤六郎を挙げている。



上ノ郷城攻めについて

2023年02月18日 19:16

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/17(金) 19:32:35.76 ID:GAjjKB9U
平山先生が上ノ郷城攻めについてツイートしているので
先生が言及している木村高敦による家康一代記「武徳編年集成」から該当部分を書いておく。多羅尾光俊の関与についても書かれてるし。
(木村高敦は「武家閑談」「続武家閑談」の著者でもある)

右衛門忠勝、松井左近忠次を以て上ノ郷城を囲ませらる。
この時忠次が従士石原芳心が子、三郎左衛門は江州甲賀の謀者伴中務盛景、同太郎左衛門、同与七郎と議して
兼ねて彼の国の多羅尾四郎兵衛光敏が忍の士十八人召よせ其組としけるが
今夜不意に城中へ入て焼立ければ、鵜殿父子三人逃走る所を伴与七郎伏兵としめ城外に待受。
三郎四郎氏長、其弟藤三郎氏次を虜とす。
父藤太郎は駿州へ奔る。
既上ノ郷の城陥りければ当城を神君より久松佐渡守俊勝に賜う。







「続武家閑談」より「家康公堺より岡崎へ入還の事ならびに御当家伊賀衆の事」

2023年02月10日 19:37

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/09(木) 19:21:30.30 ID:7bZBp8YZ
続武家閑談」より「家康公堺より岡崎へ入還の事ならびに御当家伊賀衆の事」

天正十年(1582年)春、葛原親王二十八代の末裔、伊賀の国の士、柘植三之丞(柘植清広)が浜松にきて伊賀の士が家康公に属したいむね言上した。
伊賀はいったんは信長に従い本領安堵を得たが、そののち背いたため、その年信長により城郭を屠られ追い払われ、あるいは山林に逃れ、あるいは先祖伝来の地を失っていた。
この年信長は甲州征伐し凱旋したので、権現様は慶祝のため安土城にいたった。
信長は御奔走し、徳川家の歴々衆の永井直勝などにも別席で饗膳を出し、信長自ら箸で肴を配膳された。
家康公は御上京なさり、堺の津を遊覧されたところに、京本能寺で信長生害の知らせが届いた。
このため堺をお立ちになり、御家人の諫言に従い、長谷川竹丸(長谷川秀一)を案内人として伊賀・伊勢を経て岡崎へ御帰還ということになり、宇治川にいたった。
瀬を渡るに際し、酒井忠次が小船一艘を求め得て権現様を乗らせ奉った。
船人が運賃を乞うたため、御腰の笄を下賜した。
御家人たちは酒井忠次はじめみな馬で宇治川を渡った。
御船が岸に着くと鷹匠の神谷小作が船人から笄を取り戻したため、権現様から神谷に笄が下された。
山岡景隆(明智軍を妨害するために瀬田橋を落とした)の弟・山岡景佐は瀬田からこの地に来て道案内をした。
宇治田原の者どもが蜂起しているため、この地にある呉服(くれはとり)大明神の社に入れば別当の服部貞信が案内するだろうと御判断された。
この別当が家人を連れて山中を道案内すると、野武士らはみな別当と親しかったため、ことごとく服した。

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/09(木) 19:24:15.75 ID:7bZBp8YZ
服部貞信は江州信楽まで案内した。
この地は代々多羅尾が治める地なので多羅尾光俊と旧交のある長谷川竹が権現様の御難儀について光俊に告げ、光俊はすぐに自分の屋敷に入れ奉った。
権現様は服部貞信の忠義をお感じになり、当座の御褒美として来国次の御刀を下賜された。
のちに服部貞信は浜松に参り百六十石取りの御家人となった。現在、服部久右衛門・服部采女がこの御腰物を伝来していると聞く。
権現様は多羅尾の宿に御一泊され、多羅尾の案内で伊賀の柘植にいらっしゃった。
この地の柘植清広(前述)の一族は信長に攻め滅ぼされたために民間に潜んでいたのであった。
柘植らは人質を出し、途中の一揆勢を追い払い、お供仕って鹿伏兎(かぶと、加太)まで権現様を送った。
これにより権現様は柘植たちを御感あさからずお思いになった。
ただほかの二百人の伊賀浪人は中途までだったため、御家人とはならなかった。
多羅尾父子は伊勢の関まで送り奉ったため、多羅尾の本領も安堵して御家人とした。
同国白子まで到着なさると、角倉七郎次郎(角屋秀持)というものが自分の船を貸し奉ったため、そののち今に至るまで子孫繁盛している。
伊賀の柘植・百地などはここで御暇を賜った。
三河の大浜に権現様が到着されると長田重元が迎え奉って君臣ともに饗応した。長田重元は永井直勝の父である。
こうして権現様の御体もつつがないということで万歳を称し、同年明智退治のために尾張へ御進軍したところ伊賀の諸士はことごとく参陣し御家人となった。
ただ柘植・百地をはじめとした鹿伏兎までお供をした者はみな御直参として御馬廻りとなったが、中途までで帰った二百人は徒歩・同心の格として召し抱えられた。
この二百人が今の伊賀衆の先祖である。



遠州から立ち退くことは有るまじき

2023年02月01日 19:46

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/31(火) 21:26:19.84 ID:kyUmYcqb
元亀二年辛未年七月、武田家は再び家康と御取合が始まったが、信長はいつもの如くの、武田に対する
御入魂ぶりであった。
そのようであったので、家康に対して信長よりの異見は、「家康は三河の吉田まで撤退し、遠州浜松には
家老を差し置くように。」とあった。

しかしこれに対して家康は、
「浜松城を立ち退くほどならば、刀を踏み折り、武辺を捨てるという事である。
どうであっても、武士を立てる以上、遠州から立ち退くことは有るまじき。」
そう内談を定め、信長に対しての返事には
「いかさま御意次第に仕りますが、先ずは一日であってもここに在りたいと思います。」
と伝え、その上で浜松から引き下がらないということを、遠州・三河の侍衆に伝えた。

未の九月、山縣三郎兵衛(昌景)が、信州伊那より四千の人数を引き連れ西三河・東三河の仕置に罷り出でた。
これは山縣の手元の衆に加え、信州諏訪。伊那の山縣三郎兵衛同心組衆を率いての事であった。

甲陽軍鑑

武田信玄の「西進」が始まった時の、信長と家康の対応について。



「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍とは別)

2023年01月21日 18:25

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/21(土) 00:18:13.57 ID:pg+Ii9kW
「武家閑談」から「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍とは別)

「赤小豆坂七本槍」は信長記に、「賤ヶ岳の七本槍」は太閤記にある。
「真田七本槍」は何とか記には載っていないが、いつでも語って聞かせようとある老人が言ったので
ある時、三井寺の高観音の舞番へ上り、毛氈を敷き、湖を見ながら老人の話を聞いたのでここに書きつける。
初めの真田陣(上田合戦)は天正十三年(1585年)閏八月のことであった。
二日の合戦で、鳥居元忠の色?の小見孫七が槍を合せた。(「信州上田軍記」によれば戦死)
同二十日丸山(丸子)の城下へ岡部内膳正長盛の一手がよく働き、家人の小鹿又五郎が一番槍、そのほか奥山新六所藤内近藤平太内藤久五郎勾山久内、笛吹小助がよく働いた。
権現様より岡部内膳ばかりか家人七人にも御感状がくだされた。
その内、所藤内は槍下の高名とされた。
小鹿又五郎は「一番槍を合わせること、千万一身の覚悟、諸事に抜きん出ている」といった御感状であった。
この小鹿又五郎は駿河衆であり、今川範忠の御二男、小鹿強五郎範季?の後胤という。



572 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/01/22(日) 09:37:27.78 ID:5cYmx69V
負け戦の七本槍とか・・・・・

玉虫次郎九郎の物見について

2023年01月19日 19:11

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/18(水) 20:25:40.76 ID:/Jl3ViJy
武家閑談」から玉虫次郎九郎の物見について

権現様がおっしゃるには
玉虫次郎九郎は空気(うつけ)ではあるが戦場では眼が八つあるほどの働きをする。
天正十三年(1585年)の上田の城攻めの時、酒井左衛門尉(酒井忠次)が物見をした。
次郎九郎の兄の城和泉(城昌茂)が「軽々しい振る舞いだ」とそしったところ、
次郎九郎は「あの上杉謙信ですら物見をなさった。
また謙信や酒井のような大身であれば物見ではなく見分と言うべきだろう。
内藤四郎左衛門(内藤正成)や我らがなすのがまことの物見である。」
と言ったそうだ。申すべき格言である。



徳川家康、贔屓について語る

2023年01月18日 19:35

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/17(火) 22:06:13.58 ID:an6A5pJj
武家閑談」から「徳川家康、贔屓について語る」

権現様の御言葉によれば
「侍の贔屓強さといえば、今時のものは偽である。
まことの贔屓というのは佐竹義宣が石田治部(石田三成)を贔屓したようなのをいうのだ。
治部が結城少将(結城秀康)を証人として佐和山に送られる時、佐竹は
「道中で治部を討とうという者がいれば我らが相手となる」
と言って人数を出して待機していたいう」

「駿河土産」には「佐竹義宣は律儀なるもの」としてほぼ同じ話があるが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11433.html
律儀なる佐竹義宣

「律儀」とはちがい「贔屓」だと特定の人物に対してだけ、となって意味が異なる気がする



569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/18(水) 20:24:02.20 ID:/Jl3ViJy
武家閑談」には、上の贔屓の話の前に秀忠の律儀の話に家康が正信を通じて苦言を呈した話もあった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4879.html
徳川秀忠「内府様の嘘、自分の嘘」
(昔出ていたこの話では「嘘」とされてるが「武家閑談」では「何事を言っても」となっている)

松平の御家御相続繁盛となる事

2023年01月17日 19:07

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/16(月) 21:41:09.28 ID:Dz3TdecJ
武家閑談」の初めの話「松平の御家御相続繁盛となる事」

権現様は天文十八(十一)壬寅年十二月二十六日、岡崎の城にて御誕生。御胎内十二ヶ月という。
御童名は竹千代と称されたが、天文十三年三月の夜に御父・松平広忠卿の夢で
「神々は 永き浮世を まもるかな 薮のこころは 千代竹の宿」
という歌を金の短冊に書き、松につけたところで目が覚めたという。
広忠卿は不思議に思い、三河の大浜の称名寺十五世の住職・其阿弥に夢の話をしたところ、上人も同じ夢を見ていた。
そこでこれは竹千代殿が御繁盛するという吉夢だろうということで、御祝いの連歌興行をなされた。

また慶長三年(1598年)正月、伏見で権現様は吉夢を見られたため、二日に石清水八幡宮に詣でられたという。
すると正月十四日に、江戸の酒井忠則から使者があり、それによれば
米津清右衛門(米津正勝)の妻が元日の夜見た夢に、権現様が八幡宮に御参詣された。
そして烏帽子の神人が枝に短冊をつけて権現様に差し出して歌を詠んだという。
「盛んなる 都の花を 敬はで 東の松の 世をば継がるる」
この時から三年のうちに関ヶ原の合戦で天下を御手にされた。
また天正十年(1582年)五月二十八日、明智光秀が謀叛の企てをこめて開いた愛宕百韻の十一句と十二句にも当家繁盛の吉兆があるという。
「立ちつづく 松の梢や しげるらん」御子孫繁盛の吉兆
「浪にまがひの 入海の里」江戸繁盛の兆



【ニュース】家康公に迫る 静岡市歴史博物館きょう全面開館

2023年01月16日 16:27

563 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/01/16(月) 12:49:33.83 ID:Z0LWwUBl
中日新聞 家康公に迫る 静岡市歴史博物館きょう全面開館2023年1月13日
https://www.chunichi.co.jp/article/616759


https://scmh.jp/
新規に建設された静岡市歴史博物館(旧・静岡市文化財資料館)がグランドオープンします。
期間中限定の展示もありますので、ぜひお出でください。

館の常設展示の目玉は、今回綿密な調査で横浜の西岡甲冑工房により作製された、徳川家康の最初と最後の甲冑の複製品です。

鎧の着初めに今川義元より贈られたという「紅糸威腹巻」(静岡浅間神社所蔵)
大坂の陣で着用したといわれる「伊予札黒糸威胴丸具足(歯朶具足)」(久能山東照宮所蔵)
この赤と黒の色彩の二つですね。

http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/images/%E7%B4%85.JPG
https://static.chunichi.co.jp/image/article/size1/5/2/2/a/522acac13bc5790445fe0176db300055_1.jpg
E7B485.jpg
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紅糸威腹巻の実物は威毛(おどしげ、糸)の退色が酷く、正直しょぼい見た目なんですけれども
複製品の鮮やかな紅は見事なものです。やはり写真より現物を見ていただきたいですね。
駿河今川氏の美意識や、家康への期待が見て取れるような気がしました。




調査時の記録 
(仮称)静岡市歴史文化施設の展示に向けて、家康公の甲冑を調査しました!
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/2018/06/post-4.html
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/project/2019/04/201916.html

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/16(月) 12:51:27.53 ID:Z0LWwUBl
知事と市長のいざこざは地元民の方でお願いですねw
インフラと展示の正当性云々と費用問題はホントどこでも同じ。



徳川家康誕生

2023年01月16日 16:24

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 21:54:06.89 ID:k2gnhAsB
朝野雑載」から徳川家康誕生

家康公は天文十一年壬寅十二月二十二日(通説では二十六日で壬寅の日)、三河国岡崎の城にて御誕生された。
胎内に十二ヶ月いらっしゃったという。
家康公と御母君が離別されたのち、御母君は小川の同心久松佐渡守(久松俊勝)に再嫁され、三男二女をもうけられた。
家康公には一生一腹(同父かつ同母?)の男子の兄弟がなかったので、みな松平の姓を賜って弟となり、敵味方の人質証人として、実の兄弟と変わらぬ憐れみようであったという。

神格化のためか胎内に十二ヶ月いたという伝説が。
なお家康自身が書いた願文では天文十二年生まれとして年齢を数えているので、実際は寅年ではなく卯年だったのかもしれない



徳川家康の謙譲の美徳

2023年01月13日 19:32

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/12(木) 23:03:56.12 ID:CkZ1eLq0
武家閑談」より徳川家康の謙譲の美徳

権現様は天下一統ののちも、いにしえにかわることなく、奢侈のお振る舞いはなさらなかった。
信玄の娘の賢性院(信玄次女で穴山梅雪正室の見性院)と御目見のときは、いつも上段から降って会釈をなさった。
また御放鷹で、今川義元戦死の場である桶狭間の田楽が窪の近くを通る際には毎度下馬なさった。
誠に謙譲の御心が深いこと、言葉にできないほどである。



徳川家康の大高城兵糧入れ

2023年01月12日 19:03

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/11(水) 23:32:06.05 ID:91aVkVe0
「続武家閑談」と同じ著者による、木村高敦武家閑談」から「徳川家康の大高城兵糧入れ」

今川義元は妹婿の鵜殿長持を織田信長の抑えとして大高城に置いていた。
しかし信長は丸根城、鷲津城を築き、大高城を孤立させ、その上に寺部城、挙母城、広瀬城の三城にも兵を置いたため大高城への兵糧搬入ができなかった。
そのため今川から権現様に永禄二年?(1559年)四月十日に兵糧を入れるよう命がくだった。
権現様は岡崎をうちいでたが、酒井正親、酒井忠次、石川数正らは
「信長勢が籠る城々の前で兵糧を運ぶなど不可能です」と諫めた。
権現様は当時十八であったが、家臣の言葉を用いなさらず
「我に考えがあるから言う通りにいたせ」とおっしゃった。
さて権現様は九日の夜半に酒井正親・石川数正に四千騎を率いさせ、大高城を囲む鷲津・丸根の両城も無視して寺部城を攻めさせた。
一方で権現様は八百騎で小荷駄千二百疋を引き連れ自ら大高城に向かった。
寺部城の織田兵は「なぜ敵勢ははるか奥のこの寺部城に取り掛かるのだろう?」と不思議に思いながらもとりあえず防戦した。
九日の丑時のため、暗さも暗く、三河兵はある程度攻めてさっと引き返し、
近くの梅ヶ坪城を攻めて二の丸、三の丸まで押し入って火をつけた。

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/11(水) 23:35:24.70 ID:91aVkVe0
火は闇夜を煌々と輝かせた。
鷲津・丸根の兵どもはこの光景を見て
「寺部城、梅ヶ坪城の守りをしろ!」と駆け出した。
こうして権現様は何の障害もなく思いのままに兵糧を大高城に運び入れた。
大高城への兵糧搬入を見た鷲津・丸根両城の守備兵たちは手を打って驚き、頭を掻いて悔やんだ。
石川・酒井も無事に引き返し、権現様とともに岡崎城に帰還した。
帰城後、みなみな権現様の御前に出て
「さて今朝は見事に兵糧を大高城に運び入れられましたが、なぜ我々に寺部城・梅ヶ坪城を攻めさせたのです?」と尋ねた。
権現様の仰せには「鷲津城・丸根城は大高城への兵糧入れを阻止するための城であるが、寺部城・梅ヶ坪城からの後詰めを頼りとしておる。
もし寺部城・梅ヶ坪城が落城したなら鷲津城・丸根城も干上がるのだから、両城が攻められたと聞けばそちらに兵を向けるだろう。
その隙に我は攻められる心配をせずに兵糧を大高城に運び入れられた、というわけだ。
「兵法は神速を尊ぶ」と言うが、人の予想外を突くのが肝要である。」
これを聞いた家老衆は
「君は幼い時より臨済寺の太原雪斎に習い、兵書を読まれたと聞いておりましたが、十八にしてこれほどの知略とは。
まさに生来の名将で御座います。後々たのもしく思います。」
と口々に言ったという。
なおこの大高城への兵糧入れが権現様の御手物の初めだそうだ。



小坂新助の武勇

2023年01月11日 19:17

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/11(水) 00:12:50.48 ID:91aVkVe0
続武家閑談」から小坂新助の武勇

遠州掛川天王山の戦いにおいて、柵のそばに敵の手負いの者がいた。
味方の勇士が敵の首を取ろうと心がけたものの、敵陣のすぐ側でありあきらめていたところに、
三河衆の小坂新助が難なく行って敵の首を取って帰ってきた。
これは霧の中の働きであった。
後日、権現様が新助に「首を取ったところは、敵味方の距離はいかほどあったか?」と尋ねたところ
新助は「十四、五間ほど(25mほど)だったと思います」と申し上げた。
そこで権現様が柵まで行って距離を計らせたところ弓杖2たけばかりであったため、いよいよ感心なされたということだ。



徳川家康と成瀬滝之助

2023年01月09日 19:22

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/08(日) 23:13:42.74 ID:8YxFmouY
続武家閑談」から徳川家康成瀬滝之助

あるとき権現様が
「召し使っている成瀬滝之助だが、近頃誰かと口論でもしなかったか?」と近侍の衆に尋ねられた
いずれも「そのようなことは存じておりません」と答えた
二、三日して成瀬が人を討って出奔した。
それを聞いた権現様は「その場の様子だが、馬手(めて)口であったか?」と尋ねられた。
「いいえ、馬手口ではありませんでした」と答えると
「大いに甲斐甲斐しいことだ」と仰られたそうだ
どうしてこのように仰られたのだろう

「紀伊國物語」出典の
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7439.html
「成瀬瀧之助は誰かと言い合いなどしなかったか?」
では「馬手口」ではなく「卑怯な振る舞い」となっている。
右から切りつけたと解釈したけど違うのかな



「遠州怱劇」と徳川家康の遠州侵攻

2023年01月06日 19:25

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/05(木) 21:05:26.94 ID:aN5OpNqs
18世紀前半に書かれた「続武家閑談」から「遠州怱劇」と徳川家康の遠州侵攻

今川氏真の時、遠州浜松の引間城は飯尾豊前(飯尾連龍)が城主であった。
また同国二俣城は今川氏真の妹婿・松井江蔵(松井宗恒?)がうけもっていた。
松井の取り持ちで飯尾豊前の姪が氏真の妾となったため、いったんは飯尾・松井とも出頭人となった。
しかし讒者(新野親矩?)のため氏真は両者に対して怒り、飯尾豊前を駿府城に呼び寄せて殺害した。
飯尾家老である江間安芸(江馬泰顕)、江間加賀(江間時成)は権現様に味方し、豊前後室(お田鶴の方)を守護し引間城に籠城した。
しかし氏真が城を攻めると城内は恭順か抗戦かでもめ、安芸と加賀は同士討ちし相果ててしまった。
家臣の野田彦右衛門は亡主の志をついで権現様に援軍を頼んだ。
権現様は遠州安間から御出馬を決意され、案内を縣刑部左衛門に命じた。
刑部左衛門は「浜名にお越しになるには本坂・引佐という二つの難所を通らねばならぬうえ、本坂では今川譜代の浜名兵庫(浜名頼広)が一揆を率いており、困難かと存じます。
幸い金指の方面はゆるやかですのでそちらをお通りになるとよろしいでしょう」
と申したが権現様は「本坂でも苦しくはないだろう」と刑部左衛門の考えを退けられた。
そののち出陣する段になり、権現様は本坂に向かい、先手の面々は甲冑を菰で目立たなくして金指・気賀方面に出陣させた。
刑部左衛門は猟師のなりで本坂峠まで本隊を案内すると浜名に向かい、浜名の郷のまるや寺・大移寺という二つの寺に放火し、その騒ぎにまぎれて本隊は本坂峠を越え、金指を経由した先手と合流した。
この功により刑部左衛門は、権現様が浜松を手に入れたのち、城の二の曲輪にとめおかれ、本多作左衛門(本多重次)配下となった。
しかし本多作左衛門は小田原の陣で領地を召しあげられてしまい、縣刑部左衛門は流浪の身となり、病死したという。
一説には権現様は今切をお渡りになり、浜松から一里半の宇布見村にお着きになり、そこの普済寺の住僧の案内で引間城に入られたという。
城中の皆はよろこび、江間加賀の妻子は権現様に召しだされ御褒詞が下された。
ここにいたって二俣城の松井江蔵も権現様に城を引き渡して退いたため、権現様は中根正照と青木貞治に二俣城を守らせなさった。
一方で本坂の一揆勢をことごとく御退治なさり、首級・百八を気賀村で掛けられたという。



夏の陣を控えた権現様の癇癪

2022年10月12日 19:05

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/11(火) 22:09:11.88 ID:qTLjFlHc
村越道伴物語留書』より
夏の陣を控えた権現様の癇癪

慶長二十年四月六日、家康は駿府を立った
(徳川義直の婚儀で)尾張を訪ねたついでに上洛(して大坂方を討伐)する企てだった
そのころ、去年今年と両度の出陣で旗本は困窮していたので、「少しは金銀でも下さるだろうか」と各々が愚痴を言っていたところ、本多正純が内々に耳にし、「もっともなことだ。おあちゃの局様が御前でよろしく沙汰されるべきだ。そのときに我らも言上に及ぼう」と内談した
あるとき家康が御咄の間に出てきて老中を召し、いろいろ話をした
あちゃは「笹ちまきの風味がよくございます」と三方に載せて御前へ差し出し、「去年の御出陣も首尾よく終わり、誠にめでたきことにございます。御婚儀も万端奉祝も終わり、諸侍に何か拝領されてはいかがでしょうか」
すると家康はにわかに機嫌を損ね、「言いたいことは分かるが、いまさら金銀を与えれば敵に恐怖したのかと万民が口にするだろう。金銀を与えなかったからといって逼迫して供もできない輩は好きにすればよい。わし一人でも上洛するわ。長篠のときも味方の軍勢を頼らず信長の軍勢を先に立てて勝利を遂げた。あるいは小田原攻めも粉骨砕身し、関ヶ原のときだって人の力を頼らず計策を以って勝利したのじゃ」
これらの話を引いてもっての他に激怒した
あちゃは言葉なく、「めでたしめでたし」とばかり口に出して退出した
「勿論本多上野介其外の面面、言語を発っせざるなり」

あちゃも旗本も見捨てる釣り天井の悪い話



関ヶ原前の緊迫した通信事情

2022年10月04日 19:12

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/03(月) 19:27:03.40 ID:HQYAPPYE
慶長年中卜斎記』より
関ヶ原前の緊迫した通信事情

(七月十九日申の刻)増田長盛から石田、大谷蜂起の風聞を知らせる書状が家康方に到来。家康は写しを先手に遣わした。また、急ぎ代官衆に命じ、百姓による一里飛脚を宇都宮まで整備した。その後も風説あり、風説は収まるなどと真偽不明の書状が何通も届き、すべて写しを先手に送った
(二十一日)家康が岩槻に渡御してから上方の飛脚と書状が届かなくなった。その子細は織田常真が敵になり、美濃関ヶ原に軍勢を置き書状と飛脚を通さなかった。天を飛ぶよりほか、地上を歩いて届けるのは無理だと取り沙汰された
(二十二日)金森法印のもとに石田から書状が届いたが、金森は書状箱を開けず封をしたまま家康に差し出した。その状の内容は誰も知らない
(二十四日)この頃、上方からの飛脚状は3、4寸(10センチ前後)四方で結った髪の中に入れてやってきたそうだ。編笠の緒により混んで来たものもあったという。この二人が誰の遣わした使者だったかは忘れた
(八月十日、江戸)家康はご機嫌がよく、料理の間に午の刻にお出になり、「俺が料理をする。鶴を料理しろ」とおっしゃったので鍋を掛け火を起こした。御前には本多忠勝、某(卜斎)、全阿弥の三人がおり、料理は忠勝にご馳走され、家康は囲炉裏の近くにおられた。どこから届いたものか、家康はいかにも細かい字で書かれた書状を目に近づけてご覧になった。そして「去る朔日(ついたち)に伏見城が落城した」と誰にいうでもなくつぶやき、西の方角を向いてはらはらと涙を流された
(二十八日)福島、池田から書状到来。去る二十三日に岐阜城を落として首を進上した。川を渡って陣取りしたので御出馬あれとの内容。家康は「首は芝口に架けろ」と命じた
(九月三日、小田原着陣)永井直勝のもとに小早川秀秋の使者が到来したので報告すると、家康は「せがれ(秀秋=年が若い者をいやしめる蔑称)の言うことは真実ではないから取り合う必要はない」と命じた