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同じ子にて候えども

2016年10月11日 16:51

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 13:56:46.31 ID:cTGsgr3g
ある時龍造寺隆信の母・慶ギン尼は隆信と衝突して隆信弟の長信の元へ飛び出したことがあった。
その時、隆信から長信に宛てた書状

「ここもとは見限られて候て罷りあられ候間。家中の儀はそのもとにて随分ふるまい申さるべく候。
同じ子にて候えども、そなたは孝行者に候間、申すことにて候。我らどもは子のうちとは申されず候。おかしく候…」

母親に「長信は孝行者だが隆信は子のうちとは言われない」とまで言われてしまったクマー
(歴史群像シリーズ『戦国九州軍記』の「配慮と決断、カエサルに似たり」より)





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「これこそ武辺の女の心がけぞ」

2011年11月17日 22:09

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/17(木) 18:13:20.61 ID:g52tawlR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2957.html
戦国の押し掛け女房、龍造寺隆信の肝っ玉母ちゃん慶尼
徳川家康は、慶長八年にこの話を側室の阿茶の局にして感心していたという。

そんな慶尼が花も恥じらう80代の文禄元年(1592)、大陸出兵にあたり秀吉は肥前名護屋城に赴いた。
「佐賀上道」と呼ばれる街道を通る秀吉は、道路端の戸板の上の土器に盛られた握り飯に目を止めた。
秀吉は馬を止めて「これは龍造寺の後家殿が命じたことだろう、さすがに気が利く事よ」と言い、
その一つを手に取って「この固い握り様を見よ、これこそ武辺の女の心がけぞ」と称賛したらしい。

吉永正春著の九州戦国の女たちという本より、葉隠に記された話らしい




龍造寺隆信の母、慶尼

2009年10月08日 00:15

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/07(水) 13:54:21 ID:krlH7wVo
女傑の話
慶尼(龍造寺隆信の母)1509~1600
龍造寺16代当主胤和の長女として生まれ、分家の周家に嫁ぎ隆信を生む。

隆信18才の時、本家一族が謀略により殺害され、隆信が当主となる。
未亡人となった彼女は尼となり慶尼(けいぎんに)と名乗った。
分家出身の分際で当主となった隆信をこころよくなく思う家臣は多く、
彼女はひたすら隆信を補佐した。

隆信に優秀な補佐を付けたいと考えた彼女は、鍋島直茂(17才)に目を付けた。
そして1556年に計画を行動に移す。
直茂の父清房(男やもめ)に新しい妻を紹介するから娶れとせまった。
しぶる清房を説き伏せ日取りまで決めてしまった。

さて輿入れ当日、期待に心ときめかせる清房の屋敷に輿が到着した。
なんと!中から出てきたのは慶尼本人だったのだ。
清房は必死で辞退するが、強引にそのまま夫人に収まってしまった。
主家の未亡人と年下の家臣という常識破りの夫婦の誕生である。

直茂と隆信は兄弟ということになり、当然家中での発言力も重きを増す。
彼女の思惑は成功し、直茂はその後龍造寺を支えて行く。

隆信が沖田畷で戦死した後、
直茂を当主に指名し、家督を鍋島家に譲るという裁断を下したのも彼女である。




188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/07(水) 14:11:58 ID:D6UjE//s
押しかけ女房の奔りだなw