仙台では政宗生誕450年をお祝いしていたのに

2017年09月02日 21:10

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/02(土) 09:09:40.71 ID:LylpQUao
仙台では政宗生誕450年をお祝いしていたのに
http://imgur.com/ijijVa4.jpg
http://imgur.com/qB9oIlP.jpg
ijijVa4.jpg

qB9oIlP.jpg

生誕地の米沢では全く何もしていなくてギャップが面白かった
https://i.imgur.com/0Eb9VE7.jpg
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ある時、皇寛と申す唐人の話に曰く

2017年06月01日 12:24

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 04:08:34.17 ID:yPT0Gczf
ある時、皇寛と申す唐人の話に曰く、

「それがしが国にいた時、ここかしこで物心の付いた小倅などは、誰が教える
ともなく政宗公(伊達政宗)と聞いては物事に恐れをなし申した。

未だ幼き子供がその母の懐に抱かれて嘆いているのを何と慰めても止まない
時に、母が怒って、

『日本の政宗が只今この国へ来るそうだぞ! 嘆くのを止めなさい! 泣いて
政宗に捕まるな!』と制すれば、

(日本の政宗、只今此國へ来ると云ふぞ、なげきを止めよ、泣きて取らるるな
と、制すれば、)

その子はすぐに泣くのを止め、流れる涙を止めて、むしろ母に取り付き、顔を
隠して恐れ申す」とのことあった。古今御座無き御事かなと、感じ奉る。

――『命期集』



809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 10:43:21.09 ID:ZxIfVxi9
正宗って文禄の役で朝鮮行ってたんだな。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 11:03:46.49 ID:MAtG1P6q
張遼じゃあるまいし

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 12:38:29.46 ID:79OXoLCr
史料の性格が知りたいところだ

中里介山「大菩薩峠」の「伊達政宗と細川忠興で半分こ」

2017年05月30日 18:10

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/30(火) 15:31:13.86 ID:RaAvraES
伊達政宗=文化財クラッシャーってことで王羲之の書をまっ二つにしたことがネタにされてるけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
「伊達政宗と細川忠興で半分こ・いい話?」

>政宗と忠興と言えば、朝鮮出兵時に漢陽(ソウル)の王宮で見つけた
>王義之の書(写本)を取り合って、結局山分けして半分ずつ持ち帰った話が
>2人らしいエピソードで印象深い

中里介山「大菩薩峠」を読んでたらこのエピソードが載っていて、その内容は
細川三斎の部下甲がソウルの王城で王羲之の孝経(李世民親筆の序つき)を見つける。
伊達政宗の部下乙もそこに来て、甲に伊達に譲るよう言うが、早い者勝ちということで甲が自軍に持って帰る。
→乙から聞いた伊達政宗が細川三斎の陣を訪れて、王羲之の孝経を見ようとする
→細川三斎が「このままでは政宗に持っていかれる」と思い、政宗に両家の結婚話を出す。
→政宗が両家の婚姻を承知する。
→細川三斎が王義之の孝経を2つに裂き、両家が一つずつとり結納代わりとする。
この後
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-845.html
のとおり、細川宗孝が板倉勝該に人違いで斬殺された際に伊達宗村(小説では父親の吉村)が機転を利かせて
細川家取り潰しを回避し、恩を感じた細川家から王羲之の書が伊達家に与えられ、王羲之の孝経がもとに戻る。

てことになっていた。
これだと三斎様のほうが文化財クラッシャーになってしまうけど、もともとの話ではどうだったんだろう。
中里介山の創作がここで戦国エピとして語られたんじゃなきゃいいが


1616年(元和2年)、イスパニヤ国王より伊達政宗に贈りし書簡

2017年04月07日 09:11

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/06(木) 20:25:55.13 ID:7i7Ye65s
1616年(元和2年)、イスパニヤ国王より伊達政宗に贈りし書簡

『神の恩寵によりイスパニヤ、ナポリ、シシリヤ、エルサレム、東西インド、太平洋中の諸島及び大陸の王、
アウストリャの大公爵、ブルゴーニュ、ブラバント及びミラン公爵、ハプスブルク、フランデル及び
チロル伯爵を兼ねたるドン・フェリペ(フェリペ3世)

支倉六右衛門、サン・フランシスコ洗足派のフラル、ルイス、ソテロとともに当宮廷に来たりしにより、
喜んでこれを引見し、貴国において、我等の主、イエス・キリストの神聖なる真の教えを善とし、これを
奉ぜんとする賀すべき考えであることを聞きて、特に喜び、また国王(政宗)がその国を平和に治め、
その幸福を増進せんと欲するがゆえに、双方にとって好き結果があることを認め、彼らに対して善き待遇を
与え、イスパニヤ滞在中、並びにローマの庁への旅行中、必要なるものを支給し、帰国の際、乗船を
与えることを命じた。

朕はこの旅行の結果として、キリスト教が弘布され、貴国の住民の霊魂が救われるに至るべきことを信じて、
大いに悦んでいる。

朕が宣教師、その他キリスト教徒を厚遇されることを切望する事は、親しく大使(支倉常長)に語り、
日本全国の君に書簡を以って伝えた、

神が奥州の王を護り、その正しき意図に大いなる成功を与え給わんことを祈る。

 1616年7月12日(元和2年5月29日) マドリッドに於いて。
                            朕国王(親署)』
(異国叢書)

スペイン国王来日記念に


伊達政宗よりローマ法王に贈る書簡

2017年03月31日 21:46

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 19:05:48.04 ID:hBCsFRe+
慶長18年(1613〉、伊達政宗よりローマ法王に贈る書簡

『広大な世界における御親、五番目のパパ・パウロ様(パウロ5世)の御足を、日本における
奥州の屋形・伊達政宗、謹んで吸い奉り申し上げ候。

我が国において、サン・フランシスコの門派もバテレン、フライ、ルイス、ソテロらが
デウスの御法を広めに来られた時、私の所にも御見舞に来られた。その口より、キリシタンの様子、
また何れからもデウスの御法の事を承った。
それについて思案するほど、殊勝なる内容であり、まことの御定の道であると存じ奉り候。

それに従って、キリシタンに成りたいと存じながら、今のうちはは難しく、差し控えたい仔細があり、
未だその儀に至らず。さりながら私の分国中、おしなべて下々まで、キリシタンに罷り成り申すよう
勧めたいために、サン・フランシスコの御門派のうち、オブセレバンシャ(サン・フランシスコ派の一派)の
バテレン衆が渡来下さる事が、何にも増して殊勝大切に存じ候。

渡来される事成れば、そのバテレン衆に万事に付き宗教上の特権を許すだろう。そのバテレン衆に、私の方より
寺を建て、萬に付き御馳走申す。
我が国の内において、貴きデウスの御法を広めるために、然るべきと思う程の事は、みな定めたいと
考えている。そのため、別して大いなる司(大司教)をお一人定め、下してほしい。そうすれば皆々
必ずキリシタンに成ると存じ奉り候。

我々はどのようなことでも承るので、御合力については少しも気遣いはいらない。
これについて私が心中考えているほどのことは、このフライ、ルイス、ソテロが存じている。
貴老様御前にて申すことが叶うよう頼み入り、我々の使者と相定め派遣した。
その口上を聞いて頂きたい。

このフライ、ソテロに差し添えて、我等の家の侍一人、支倉六右衛門尉と申すものを、同じく使者として
派遣した。私の名代として、御従いの印、御足を吸い奉るために、ローマまで進上致す。

私の国とノヒスパーニャ(メキシコ)の間は近国であるので、今後イスパニヤの大皇帝ドン・フェリペ様とも
申し談じたい。その実現の調整のため下す。バテレン衆にはこの渡海が成功するためにも、頼み奉り候。
私は、貴きデウス天道の御前において、御内証に叶うよう頼み奉り候。
なお、この国において、いかようにも御用を申し付けていただきたい。随分に御奉公申し上げる。
また、これしきの事なれども、日本の物品を、恐れながら進上仕る。

なおバテレンのフライ、ルイス、ソテロと六右衛門尉が、口上にて申し上げるため、
その口上次第に成るだろう。早々恐れ入り候

恐誠謹啓曰
                伊達陸奥守(花押)

  慶長18年9月4日           政宗(印)』

(異国叢書)


伊達政宗、豊臣秀吉公へ初見之とき謡ひし歌付政宗豊公へみへし考

2017年02月11日 17:04

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 13:33:08.22 ID:UqUUIrB4
伊達政宗豊臣秀吉公へ初見之とき謡ひし歌付政宗豊公へみへし考

何かの時ある人と雑談した折に出た話である。

伊達政宗豊臣秀吉公と初めて見えたとき、
その後には酒宴でもあったのだろうか、
政宗が謡った歌として今も仙台の領地では士庶ともに歌うという。

四海波風治る御世は、さざれいはほに亀遊ぶ

秀吉が「もうひとつも」と請われたので、政宗はすぐに

さんさしぐれかかや野の雨か、おともせできてぬれかかる

と歌われた。
 『秀吉記』と『武功雑記』の二書によると、
この二謡は政宗が豊公に見えた後、もしかしたら宴席があり、
その席上のことであろうか。

(甲子夜話三篇)



617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 20:19:53.17 ID:X+Odj8cp
四海波…サボテン?┌|∵|┘

謎の手紙

2017年01月18日 10:11

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 20:20:58.62 ID:hCLw+O8A
謎の手紙

伊達政宗は、権力者に取り入るのが上手である
それは天下人だけではなく、天下人の取り巻きにも媚びを売るのが上手だからだ
ということで、政宗は、家康の取り巻きである水野勝成にも、いろいろと媚びを売っていたらしい。政宗から勝成へのお手紙が三通残っているとのこと。

・冬の陣の陣立てのときに、政宗が勝成に「そっちはいまどこですか、うちは枚方に明日つくかなってかんじです」という書状とか。

・平和な江戸時代にも、政宗は勝成に「鷹狩りいかない? だれか一緒つれてきてもいいし」というメールを送っている。

まぁ、これはいいのだが、不思議すぎるメールが一通ある

政宗文書番号1598
 慶長19年12月21日付
 ちなみに大坂冬の陣の和睦が、慶長19年12月20日。つまり、翌日、政宗から勝成に出されたお手紙。

かの牢人にお手紙を書いてくれてありがとう。なお重ねて様子を教えて。
いま岡山にいく途中なんだ。

意訳するとこんな感じらしい

かの牢人ってだれ?
勝成は大坂城内の牢人と連絡する手段を持っていたってこと?

空想が広がるお手紙である



518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:04:41.00 ID:/3OBSLpx
又兵衛じゃないの?

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 22:16:37.51 ID:/3OBSLpx
宮本武蔵じゃね?

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 04:50:36.50 ID:DYIdIhBH
岡山つながりで明石とか

522 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/18(水) 19:42:55.94 ID:gHO+4z/w
>>517
今回の、第11話『この想い届け☆八丈島にっ!』はお楽しみ頂けましたでしょうか?
次週最終話『ひどくない?江戸幕府って修羅の道なんだよ?』もお楽しみに!!

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 21:50:48.88 ID:BFUgJEUg
>>522
まーくんは八丈島のあの人にも手紙書いてたのかw

「松川合戦 政宗福島城を攻める事」および東国太平記について

2016年11月15日 21:29

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:40:54.84 ID:GNgMpSHW
東国太平記巻之十五
「松川合戦 政宗福島城を攻める事」
政宗は度々上杉に打ち負かされていたため無念この上なかった。
前年七月に江戸から中沢主税が(家康によって)遣わされ「この度は景勝と合戦することはならん」
と堅く制止されていたのだが、慶長六年四月十七日、片倉景綱、伊達成実、国分盛重、
伊達阿波守、屋代景頼、茂庭綱元、高野壱岐守、桑折宗長など二万五千を引率し、白石城に到着した。
ふたたび福島城を攻めようと、誰か物見に遣わそうとしたところ
伊達成実が名乗りいで、十騎ばかり鉄砲三十挺ばかり引き連れて、上杉の守る福島城についた。
成実は、城から十三町(1.4km)手前に味方を残し、自分だけ城の堀端に乗り付け大音声で
「私は政宗の物見の者である。政宗様から城中の将兵の名を尋ねて参れ、と命令を受けた。
名のある者は名乗りいでよ」と呼ばわった。

上杉方の士卒は「なんという剛の者だ」と感心し、矢鉄砲で狙うのをやめた。
すると櫓に上杉の将である本庄繁長、その息子の充長、甘糟景継、杉原親憲、
百川(芋川?)縫殿助、岩井信能、鉄上野が各々名乗りいでたため、伊達成実は静々と帰っていった。

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:42:37.80 ID:GNgMpSHW
政宗は二十一日、白石城を立ち、小山というところに出陣。
上杉方は杉原、甘粕、本庄、岩井、鉄上野、岡野左内ら六千騎で福島城を立ったが
途中で商人と高野聖が来て「伊達の軍勢は三万ばかり、これでは小勢すぎます」
と言ってきたため、はたして防戦すべきか、こちらから間の松川を渡るべきか
と論争になったが、伊達軍が川を途中まで渡った時に奇襲しようということになった。
しかし岡野は、杉原や宇佐美が制止したにもかかわらず、四百ばかりで川を渡り、
向こう側の河原にいた伊達軍に大音声で名乗りいでて突入していった。
岡野の奮戦に激怒した政宗はただ一騎で岡野と太刀を交えたが
岡野に太刀を折られ、二、三間(4,5m)後退。
岡野は具足から葉武者だろうと思い、追撃せず戻っていった。
その後上杉勢は伊達勢と交戦するも多勢に無勢で敗色が濃くなり福島城に逃亡。
政宗は後を追ったが、青木新兵衛の十文字槍により兜の三ヶ月を折られてしまい、
政宗はいそいで引き返した。
逃げる伊達軍を、福島城から出撃した本庄繁長が二千余で追い、隈川で散々に打ちすえ
伊達軍二百余を討ち取った。
その頃、会津にいた上杉景勝は、政宗が小山に出陣したという報告を受けたため、
八千騎の軍勢で援軍にかけつけた。
それを知った政宗はわずか十騎で、取るものもとりあえず白石城へ逃げていった。
この際、伊達軍は本庄親子・杉原をはじめとした上杉勢により首級七百余を討ち取られ、
辺り一面、伊達の人馬の死骸や着物や槍や刀で足の踏み場もなくなってしまった。
上杉軍のこのたび得た伊達方の首は千二百九十余で、上杉家の手柄は天下の美譚として語られた。

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:44:09.26 ID:GNgMpSHW
・・・と「東国太平記」には書かれているが、この「東国太平記」、
江戸後期の本屋松沢老泉によれば「仙台藩に版木が買い取られ絶版になったと聞いている」そうだ。
また、紀州藩の漢学者、榊原篁洲によれば
「北越太平記、東国太平記は紀州の宇佐美竹隠というのが名前を隠して書いたものであり、
宇佐美駿河守(定満)の末裔なので、東国太平記で宇佐美を褒めまくっている」
とのこと

要は宇佐美流軍学を流行させるために上杉家、宇佐美ageのデタラメを軍記に
書いたということらしい。
政宗にとっては子孫や考証家のおかげで恥ずかしい話が広がらずにすんだいい話ってことで。



368 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/01(木) 12:12:38.69 ID:J2ItkSTT
>>323
この当時の伊達成実は石川昭光の預かりだったはず
国分盛重は既に佐竹氏に出奔している

理由としては、成実が伊達氏の分家で一番の家柄で石高も一番高かったのだが
外様大名だった叔父の昭光が、奥州仕置で改易されて、伊達家中に入ることになって
成実の伊達分家が、二番目の家柄になった。また、伊達領が秀吉によって3分の1に
減らされたのに昭光の石川家を抱えることになって家臣団が困窮した。
会津討伐で一番手柄をかけた伊達分家と、
政宗からすれば、人取橋で、敵側にいたとはいえ調停役を引き受けて伊達家を救った
昭光の石川家が対立。
伊達分家が伊達宗家に謀反を起こして、成実の配下は撃ち取られるも
成実は政宗も昭光も一族なので、謀反を起こさず出奔した。
政宗とは歳も近く兄弟のように育った国分盛重は、伊達宗家から国分氏に養子に行くも
大崎合戦の後、家中がまとまらず、政宗が会津を秀吉から取り上げられると
国分領のすぐ近くの北目に軍事拠点を置いたことから、国分家の家臣団は
危機感を覚え反抗する。政宗は、苦肉の策として、盛重に忠節を誓う面々と
ライバルではあるが、盛重の妹正室の佐竹氏に行くことをすすめ
盛重に反抗する国分一族を討ち果たし、国分氏の城であった千代に城を移す。
もちろん、盛重の長男は手厚く保護して、古内氏の養子となり
後の仙台藩の名家老古内主膳になる。

政宗の黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ

2016年11月07日 09:44

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/06(日) 15:14:46.21 ID:WnhtVHEx
先日、横浜市の馬の博物館で伊達家甲冑研究の第一人者である竹村雅夫氏の講演がありました
そこから多少つらつらと

・政宗の有名な黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ、北条氏治下の鎌倉雪下の職人が製作したと思われていたが、
蘆名氏が会津入部に伴った雪下出身の鍛冶の子孫が、雪下と名乗って製作したと明らかになった

・雪下胴を当時の記録などで解胴(ほときどう)と呼ぶが、これは蝶つがいを外すと5枚の鉄板になって畳んで
持ち運びできるから

・政宗が雪下胴を初めて入手したのは天正16年(1588年)の岩城氏からの贈り物で、人取橋の戦(1586年)には
まだ持っていない

・政宗は異常に甲冑好きで贈るのも貰うのも大好き、家臣の鎧を召し上げて代りの鎧を渡したり、甲冑商人を
二日間留め置いて見聞したり、敵味方問わず使者へも甲冑を贈った

・天正16-17年の間に贈った甲冑が26領、貰ったのが14領、買ったのが10領

・政宗の甲冑好きは南奥羽諸大名の常識だったので、政宗への贈答品には甲冑がよく用意された

・会津制圧後は政宗が雪下胴を全てかき集めたので、上杉・蒲生家臣でこれを持つものは数えるほど

・雪下家は大阪の陣頃までは会津で甲冑を製作していたが、その後は松平家の普通の下級武士になった

・いわゆる仙台胴は雪下胴をモデルに仙台でつくらせたもので、厳密には違いがある

・雪下胴はその重さと長い草摺もあって、やはり馬上用

・政宗は「上方の連中は騎乗しても槍を手に馬から降りて立ち働くが、奥州武者(奥士)は馬上で槍をとって戦え、
鎧を着たままでは素肌武者(軽装)にも後れをとる、馬から降りるな」「奥武者の我が家は末代までも上方の真似すんなよ」
と言い残している

井伊直政は雪下胴を小田原戦以降に手に入れ、関ヶ原で着用したのは実は政宗と同タイプのこれである(現存)



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 21:26:03.72 ID:Sn33jf/C
>>301
つまり関ヶ原では赤備えじゃなくて黒備えだった・・?

【ニュース】裏表のない「正直ヒラメ」発見

2016年09月24日 09:09

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 00:59:13.74 ID:JPViE3/E
【山口】裏表のない「正直ヒラメ」発見 体の両面が茶褐色 萩博物館で25日まで展示
http://www.asahi.com/articles/ASJ9R5T46J9RTIPE01P.html

コレは山口だが、まーくんの「両側が表の魚」の逸話はこういう魚を使ったんだろうな。
よく見つかったもんだ。

関連
伊達政宗『両面が表の魚』・悪い話

隣接していた主の政宗とやらが

2016年09月04日 14:17

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/04(日) 10:31:28.65 ID:dE41Oe15
南部の地を仙台侵せしときのこと并侵地の広さ

奥州の南部の人がいる。
今青山大膳侯の家臣である。岡本祐助と称す。
彼は予の小臣の小楠十乃助なる者に以下の事を語った。

「南部侯の領内は広々と開けているので、
昔はあたかも限りが知れないと思われるほどの地であった。
ある頃の主は幼稚であったので、
隣接していた主の政宗とやらが、
徐々に領界の傍示を南部領へ移し立て、
仙台領を広めて、ついに大河がある辺りまで領境を及ぼした。
南部では大いに驚いたが、幸いにしてその河辺りに大洞窟があったのでそれを拠点にして、
この中に人衆を屯し弓銃を備え、仙台から人が来たら防御を専らとするようにしたら、
仙台の侵奪が止んだ。
今なおその穴の中に従卒を三十人ほど置いていて、
古昔からそのことは替わっていない。
なので今に至っても、交守して長城の塞兵の如しである。」

また言う。
「かの河向かいの、かつて仙台が侵略した地はおよそ二十万石とか。
今、目で全てを見渡すことができない大広田である。
今その所には、仙台侯の土着の士が多い。
それなのに南部侯の領有の地名を苗字にする者がいるのは、
彼らはかつて南部から仙台に従った、不義の輩であろう。」

以上は小人の話なので、実否は疑わしい。
(甲子夜話三篇)

バス停コピペを思い出す

バス停コピペ

バス停
かつて、バス停を毎日ちょっとずつ家の方に近づけていた。
苦労して毎日コツコツとやったのに、ある日一気に元の位置に戻された。
ふざけんな。




59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 12:22:55.41 ID:A8Sc2ruY
本にすると面白いね

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 13:31:03.55 ID:WluS7hFV
初対面の額を平手打ちして激昂した相手に仕返しされる逸話が好き

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 13:32:33.87 ID:vV2TbTzk
政宗の逸話はしょうがねえなーって感想ばかりだw

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 22:35:33.44 ID:ZYCSMBwN
>>58
なんかほのぼのとしてワロタw

梃子でも動かない男

2016年08月18日 13:36

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 18:32:46.28 ID:O49atqFZ
梃子でも動かない男

寛永5(1628)年7月14日、江戸城において能があり諸大名が見物していた。
その時大地震が起こり、驚いて能舞台の周りの白洲に降りてしまう人が多かった。
森忠政は嫡男の忠広と共に座っていたが、向かいにいた忠広がすぐに(逃げようと)
立ち上がろうとしたのに気づくと忠広を思い切り睨みつけたので忠広は立ち上がれなかった。
忠政の隣に座っていた堀尾忠晴も立ち上がったが、忠政が袴の合引をつかみ座らせた。

伊達政宗は(逃げようと)端まで出てしまっていたが、忠政父子が(揺れていても)座っているのを見て
「御前が近いのに大騒ぎではないか、最早揺れも鎮まったのでみな席に戻られよ」
と差していた扇を開き、白洲に降りた人を取り鎮め自らも席についた。

翌日、堀尾は森家に来て忠政に
「昨日の御心付けは生生世世忘れがたいことです」と礼を言ったという。

――『森家先代実録』

……政宗がちょっとかっこ悪かったのでこっちに。




14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 19:11:30.95 ID:zg4l8qgT
>>13
政宗せっかく取り繕ったのにばれてるw

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 19:35:39.02 ID:WgAt7fYc
>>13
以前読んだのは、忠政と家康以外みんな逃げたが、
逃げようとした政宗は、忠政と家康が微動だにしないのを見て、逃げるのを止めた。
だったと思ったが、1628年なら家康死んでるな。

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 19:42:28.89 ID:q/ilRzTo
凡人と偉人のラインの
ギリギリ偉人側にいるのが政宗

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 21:32:27.65 ID:WgAt7fYc
堀尾忠晴って、前田利常の彼氏だったな。

仙台政宗老後の事

2016年08月09日 21:03

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/09(火) 07:12:45.26 ID:1yesd62a
仙台政宗老後の事

仙台中納言政宗は、御治平後になり年老いて言うに、
「武士は戦場を忘れてはいけない。」
と。また折には水を浴びられたという。

後病が重く床に臥せていたとき、御尋の上使が下された。
政宗は殊に恭しく思われたが、なかなか起き出ることが叶わなかった。
しかし是非ともと、人に助けられてようやく表座敷に出て上使に対面し、
御厚恩を拝謝を申したとか。
この時も礼服を着て出られたが、その大病中にもやはり水を浴びて出たという。
(甲子夜話)



54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/09(火) 09:51:55.40 ID:I0gSKK9M
年寄りの冷や水

政宗御茶水の堀をほる事

2016年08月06日 09:20

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 00:27:45.47 ID:hcNqNndv
政宗御茶水の堀をほる事

御茶ノ水の堀は、伊達政宗が助役して掘った。
これは猷廟(家光)と政宗が将棋をしていたとき、
政宗の癖で、駒を取ろうとするときはいつも独言を言うのだが、
そのときも
「城の後ろから這い入るぞ、這い入るぞ」
と度々言ってしまった。
この言葉から、かの堀の助役を政宗に命ぜられたという。
(甲子夜話)




944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 00:52:16.78 ID:CFE9dNO3
>>943 ああ、それは本当の話だ。
政宗が将軍と将棋を指しながら、「城の後ろから這い入るぞ、這い入るぞ」 という意味の
ことを言った。「本郷台」と言ったとされる資料もある。
ともあれ、言った言わないはともかくとして、下記の画像の上部にある水道橋のあたりだ。
http://blog-imgs-62.fc2.com/k/a/h/kahoo0516/201308031538564a5.jpg
201308031538564a5.jpg

水道橋のあたりの台地が、江戸城を攻めるときに本陣としてかまえる最適地だった。

というのは、江戸城というのは武蔵台地の東の突端に位置しており、その下は海だったが、
埋め立てられて低地の陸地と化したが、江戸城の本丸は台地の先端のせいか、やや標高が低くて、
本郷台地というか水道橋のあたりに(政宗の?)敵陣が構えると、江戸城を見下ろすことが
できるからだ!。
その対策として、北東の位置にも堀を作ることにした。政宗に命じられた。北国から攻めるなら
政宗が本郷台地に本当に陣をかまえそうだ。
小石川門から真下へ向かって流れる川があったが、江戸城本丸下の埋め立て地に
洪水時に大量の水が流れ込んで被害を与えていたので、
堀を作るのも兼ねて、本郷台地を横断して運河を作成して、真東の川(隅田川)へ直結する
大工事をやった。これが御茶ノ水の堀。大工事すぎて、政宗死後も工事をやってじつに40年も
かかった。というか舟が入れるように追加工事で川幅を広げる工事を何度もやったから。

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 01:06:45.81 ID:CFE9dNO3
御茶ノ水の堀は、台地を横断して海抜0メートル以下まで掘り下げるわけで、絶壁のような深さ
まで掘る大工事になった。断崖となったので渓谷みたいになって、その後、紅葉の名所となった。
http://blog-imgs-26.fc2.com/m/o/r/moriizou/20040906e3f8c5d9.jpg
20040906e3f8c5d9.jpg

標高差は15メートルから20メートルぐらい、長さは200mほどらしい。

この運河開削工事は成功したからいいけれども、じつは失敗したのもある。仙台藩の米は
水戸の那珂湊を経由してくるが、鹿島灘や九十九里浜の砂浜地帯が長過ぎて危険だからということで
那珂湊から那珂川→涸沼→北浦→利根川→江戸川 という河川ルートもあった。急な天候悪化が
あっても河川交通だからすぐ陸にあがれる(長い砂浜だとこうはいかない)。
でも涸沼から北浦まで陸路があるから、これを運河でつなぐ開削工事に着手!。これは水戸藩がやった。
しかし、台地の高低差がじつに30mもあり、長さはじつに10倍の2キロも必要で、
苦難の末に頓挫。膨大な損失を出してこの運河工事は失敗してしまった。仙台藩の米倉庫は
涸沼の岸辺にあったが(後年は、大型舟で直接江戸入りしたが。)、馬に載せて陸を越えて北浦まで
運んだ。
まあ、運河失敗といえば印旛沼の工事はさらにすさまじいい大失敗をするが説明は省略する。



946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 01:18:15.33 ID:QDI2VukF
ブラタモリっぽくて面白いね地形と合わせてみると
地形好きと歴史好きの交わりがなんとも言いがたい
軸足は歴史と地形で別々なんだろうけどね

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 08:48:34.29 ID:CFE9dNO3
>>946 ブラタモリでも神田川(御茶ノ水の堀)のことを取り上げたみたいだけど、
ビルが多すぎて展望が効かなくて、土地の高低差はわかりづらいね。
http://stat.ameba.jp/user_images/20091204/18/chablis/18/2e/g/o0716059510329169732.gif
o0716059510329169732.gif

神田川の渓谷の南側が駿河台。駿河のときの家臣を集めて住ませていた。神田明神あたりから
江戸城を望遠するのを防ぐためだから、神田山(本郷台地の先端)を全部削って埋め立てに使うわけにもいかない。



948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 12:16:19.37 ID:UwkeAlEw
>>945
失敗した運河ってもの今残ってるん?
[ 続きを読む ]

伊達政宗の逝去

2016年06月29日 10:32

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/28(火) 20:16:07.58 ID:B8g3gQ5R
寛永13年5月24日、仙台中納言藤原(伊達)政宗が逝去した。

政宗逝去の前日に、将軍家光が彼の邸宅を訪れ、政宗の病を見舞った。
この時、政宗は病み衰えた状態であったが、手水をとって月代を剃り、髪を結い、
衣装を改め、裃を着し、席を去って家光に平伏し

「御懇の上意、有り難き仕合。今生の思い出、何事かこれにしかん。
政宗は、誠に冥加にかなう武将です。日本国において誰が肩を並べん!」

そう、茫然と叫んだ。

暫くあって家光還御の時、政宗は心しずかに台顔を拝した。
家光もまた、名残を強く惜しんだという。

(玉露叢)



辻片目をや光らすらん

2016年04月28日 11:09

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/27(水) 20:38:38.69 ID:4qe9qUS8
伊達政宗が、将軍徳川家光の供奉として上洛した時、東福寺大雄庵の住持の入院(住職となって寺に入ること)
があった。政宗はこの寺の檀那であったため、辻固め(貴人の外出の際などに、辻々に立って
道筋を警戒すること)の警備の人数を出した所、建仁寺の態長老(細川幽斎の甥であるという)が聞かれて

『今日をはれと 檀那伊達して政宗が 辻片目をや光らすらん』

と戯れ歌を読まれた。これは政宗が片目により、辻固めと片目をかけたのである。
政宗はこの歌を伝え聞くと

『ともすれば 吾名におひと固めをも 光らす身のかかる迷惑』

と詠んだ。

(新東鑑)



571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/27(水) 21:30:29.55 ID:EwIzzuRo
悔しいのぅ

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/27(水) 22:12:10.00 ID:K1fnOyC4
辻々で四の字固め?

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/27(水) 22:45:20.24 ID:YfPLe9G6
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6910.html?sp&sp
同じ逸話がこっちでは
「熊」長老となっている
さてどっちが正しいのか

「政宗はありのままの者である」

2016年04月27日 18:58

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 19:37:16.93 ID:g3d8honN
豊臣秀吉の、小田原進発の時に、伊達政宗は参陣がなかったことで、秀吉は甚だ怒った。
これを政宗聞き、小田原陣に至り、中村一氏に言った

「私は関白殿の御門下に、必ず馬を繋ぐべき筋目はない。これによって頃合い、日和を見て
いた所、北条滅びて後に奥州に御発向あるとの風聞を承った。然るにおいては、防戦危ういこと
必定と考え、日を継いで馳せ参じた。
昔頼朝公が、上総介広常の遅参を咎めた時のような御気色あるのは迷惑である!」

これを聞くと秀吉は笑い出し、「政宗はありのままの者である」と、その罪を免じた。

しかしその年の冬、奥州九戸に一揆起こり、政宗もその方人であるとの聞こえ有り、秀吉は
政宗を悪み、急ぎ上洛すべきと命じた。
政宗承り、「私ほどの者が磔にかかる時。並々にては口惜しい」と、金銀にて鍍金した磔柱を
先頭に持たせて上京した。その頃秀吉は伏見の城地を見ていたが、政宗の上洛を聞くと、
「ここに来るべし」と命じたため、政宗伏見に向かうと、側に招き、その日使っていた
杖にて政宗の首を押さえて言った。

「其方、上洛せねばこのように申し付けるべしと思っていたが、速やかに馳せ上がった上は
免ずべし。」

政宗畏まり、御前を退出したという。
(新東鑑)



この話はここかしこにて囁かれ

2016年03月23日 18:45

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 18:05:18.90 ID:69exh12o
賞の隠れたるはこれを探り、罰の顕れたるはこれを押さえる事こそ、名将の為す所である。
天下泰平の時代でさえ、人の心を疑い、善悪の偽説が往々に流言すること、これ世の常である。

いわんや戦国の人心、昨日は今日に替り、明日は今日に変ずる。これ乱世の常である。
おおよそ兵家において、その時によって虚偽を謀るのは一時の変であり、あえて不信不実の沙汰には
及ばない。ただ、君を欺き親を欺く徒のみその罪逃れる所なかった。

天下一定しない内は、諸侯互いにこれを謀ること、これは乱世の覇将たるもの専らすることであるので、
その事績においては虚実紛々である。

伊達政宗豊臣秀吉の糾明によって私戦の伝評を立てられ、太閤の機嫌を損ね、首尾は他に異なる
ほどであったのに、合戦粉骨で得た地である仙道会津を召し上げられ、蒲生氏郷に与えられた事、
時の盛衰とは言いながら、時日も経ない眼前の賞罰に、伊達家の家臣たちは或いは怨み、或いは憤る者
多かったため、政宗自身の心中もああだろうと推察した者たちが言い広めたのだろうか、
ただ誰となく、このような話が唱えられた

『今度の奥郡発向を幸いに、大崎・葛西・南部の端々の者共一揆の結成を勧め、不日に蜂起すれば、
蒲生氏郷は兵を発してこれを制するであろう。その時政宗もかねてよりの先鋒であるから、出陣するも
一揆と密通して、時所を計り、土地の案内を知らない氏郷を引き入れ、包囲して討ち果たせ、
その後に自ら一揆を鎮めれば、氏郷は不運に滅亡したということに落ち着き、一揆を鎮めた功は
政宗に帰され、その賞として再び会津仙道を得る。その陰謀は実に巧みである。
見ていよ、不日に奥郡に一揆が起こるであろう。』

この話はここかしこにて囁かれ、会津仙道においては只事ではなく、この流言のみ飛び交っていた。

(伊逹秘鑑)

秀吉の奥州仕置の後の、風聞についてのお話。



その時、私が感じた恐ろしさは

2016年03月21日 20:56

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/20(日) 21:35:54.13 ID:28PC8Ciw
伊達政宗がある夜、原田左馬助、片倉小十郎、茂庭石見が伺候したおり、小田原で初めて豊臣秀吉
謁見した時のことを物語した

「私は兼ねてからこう考えていた。秀吉に謁見してもさほど恐れることはない、と。
しかしあの時、私は彼の、関白の位階に恐れ、そして凡下よりあのような雲上の高官へと昇った程の
勇武に、自然の威厳を感じ、心ならずも低頭した。
その時、私が感じた恐ろしさは、類ないものであった。」

(伊逹秘鑑)

伊達政宗が初めて秀吉に謁見した時の感想である。



講談、寛永御前試合では

2016年01月16日 17:58

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 17:00:42.28 ID:8PHIYbdq
講談、寛永御前試合では寛永9年(1632年)9月22日に家光の前で
大久保彦左衛門、柳生宗矩、小野忠常を審判として
関口柔心大久保彦左衛門荒木又右衛門宮本伊織
伊達政宗(65歳、秋元但馬守に勝利)たちが試合を行ってるな(信ぴょう性はおいといて)

異説では
穴澤盛秀(大坂の陣で死亡)、柳生宗冬、由井正雪、関口弥太郎(まだ生まれてない)が試合を、
と魔界転生より前に著名な剣士たちが試合を行う話が

なんとなく、幕末に土佐藩御前試合(撃剣会)で坂本龍馬が桂小五郎たちを倒して優勝したとかいうネタ話を連想する



975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 17:16:03.25 ID:xmb79h4y
江戸末期になっても伊達政宗がこんなもんにほいほい出てきちゃう●●だと認識されていたことにry