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梅北一揆顛末

2019年03月05日 18:07

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:41:18.44 ID:CvS0qjxX
加藤清正が朝鮮に赴いている時に、その跡にて薩摩人の梅北国兼が肥後の地を侵掠した。(梅北一揆)
境善左衛門は熊本に留守居として佐敷城に居たが、肥後の国衆は多くが梅北に従い、兵勢いよいよ盛んであった。
境はこれと戦っても力で匹敵することは出来ないと判断し、一旦偽って梅北に降伏する体にして、
彼を刺し殺そうと思い、城を梅北へ渡した。

梅北は入城したが心許さなかった。そこで境は「今日より臣令を取るの始めなれば、祝詞のため御盃を頂き
候はん」と、梅北を饗した。この時梅北の心を和らげようと、酌取りに美女を出した。

梅北先ず飲んで、境にさし、座を立って肴を与えた。
境は「かねてこの時斬ろう」と企んでいたが、その威におされたか、手出しできずに座に帰ってしまった。
しかし「この時を過ぎては叶わじ」と思い、短刀を抜き飛びかかり、梅北を刺殺した。

その場にあった者たちは手々に刀を抜き放ち境に斬ってかかろうとしたところを、境は目をいからし
声を励まし

「汝等狂せりや!?梅北は賊である。彼に属するのが本意であるのか?
私と心を同じうして、彼が与党を討てば、清正はお前たちの咎を宥し、これまでの非を改め、
むしろ賊を討つの功を賞せられるだろう。
これを拒否すれば、秀吉が汝等の三族を梟首とするのに数日とかからないだろう。
汝等は、わきまえないのか!?」

これを聞いて、皆境に同意し、北梅の手の者たちが逃げるのを追いかけ切り伏せ、この乱を鎮めた。

境善左衛門の知行はそれまで二百石であったが、清正は後に十倍の二千石を与えた。

(武将感状記)



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梅北一揆と梅北国兼の妻

2009年10月11日 00:16

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/10(土) 12:05:11 ID:tZRh7em2
どっちに投稿するか迷ったんだが

天下が統一され次は朝鮮出兵という時期に、九州でちょっとした兵乱があった。
薩摩島津家が出兵中、平戸へ向かっていた島津隊が出兵に反対して、
加藤清正の領地肥後佐敷城を乗っ取ってしまったのである。
首謀者は梅北国兼。
この兵乱自体は通説では城内の女性達が酒を呑ませて油断させ、わずか二、三日で鎮圧。
ところが最近の説では十五日以上続き、別働隊まで存在したとも言われる。
他にも動機とか背後関係だとか色々謎があるのだが、それは置いとく。
秀吉は激怒し、国兼は当然さらし首。それ以外の関係者も
「梅北を操った黒幕がいるだろ?十人が二十人になろうとも首を刎ねてよこせ」
とラスボスの厳命が下り、まとめにもあった歳久の悲話となる。
ここで語りたいのは国兼の妻。彼女は名護屋へ連行され、火炙りの刑に処された。
この様子をフロイスが記録している。

「彼女は不思議なばかりの勇気をもって、当初から目を開き地面を見つめ、
身動きもせず悲鳴や嘆声をあげることもなく、そのまま焼かれ、灰と炭骨と化するまで
不動の姿勢を保っていた」

異教徒のフロイスがまるで殉教者の様に記録するほど見事な死に様だったらしい。
戦国時代は女性ですらこれほどの覚悟で死を迎えたと言ういい話・・・よりはこっち向きの話だよな。




341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/10(土) 18:55:55 ID:QkfCzqWB
>>334
梅北一揆って、九州全体の不安定化の中で発生したんだろうけど、本当に謎が多いよな
そんな中で妻のリアルな記録が残るってのも、歴史のおもしろさか