fc2ブログ

常念寺

2015年08月02日 13:46

140 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/02(日) 08:10:58.99 ID:FkO6tnR5
常念寺

慶長8(1603)年、最上義光の長男義康が廃嫡され、高野山に向かう途中で上杉旧臣の戸井半左衛門に鶴ヶ岡手前の櫛引丸岡の地で暗殺された

義光は腹心の斎藤光則に事件の背後関係を調査させると共に戸井半左衛門に追討の兵を差し向けた

半左衛門は義康暗殺後すぐに逃亡を図ったが、追っ手により南部城下で討たれ、調査役の光則は下吉忠、里見民部ら数人の関与の可能性を挙げたが、それ以上に詳しい事はわからなかった

義光は義康の生前の日記から、義康が常に父の健康を祈っていたと知ったが、今となっては悲しみが増すばかりだった

三日町に義康を弔うため寺が建立された

義光「…常安…いや寺の名は『常念寺』とする」

義光は藁を束ね(箒とも言われる)刀でその先を薙ぐと墨を入れた桶に穂先を入れ
「義光山」と一気に額号を記した

三日町義光山常念寺は寺域そのものが最上義康の菩提を奉る地とされ、墓石が建てられる事はなかった
(現在あるものは新しく設けられた供養塔)

家康を憚り、丸岡の地から義康の胴が移葬される事もなかった

この後義光は病に伏せる様になり、寺社の再建により一層施を厚くする様になったと伝わる

「山形の昔話」


スポンサーサイト



ごんごさま

2015年03月22日 16:07

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/22(日) 04:41:57.79 ID:PyGNo+GD
ごんごさま

(1)
山形の若君最上義康の幼妻の伏姫は谷地城の白鳥長久の娘だった
義康の父義光(伏姫から見て義父)に実父の長久が暗殺されると
伏姫は引き留め様とする義康に暇乞いをし、谷地の片隅に小さな庵を建て、ここに隠棲した
義康からは毎月扶持米や織物、金子が届けられたが
伏姫はこの贈り物の中から米五合と暮らしに必要最低限の物を除いて
ほかの物をすべて谷地の民に分け与えたという

谷地の民は伏姫を敬い、米の五合の生活から「ごんごさま」とお呼びしたと伝わる

「谷地の昔話」

(2)
山形城主最上義光の奥方の清水御前は慈悲深いお人であった
日々の暮らしに困まっている人々に毎日五合ずつの施米を永年恵まれたとされる

この事から誰かというとなく、清水御前のことを「ごんごさま」というようになったという

「山形の昔話」

(3)(4)
阿古耶姫&鉢かづきのごんご姫の伝承…時代が異なるので割愛





最上義康「今度、親父義光…」

2014年01月06日 19:05

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/06(月) 11:10:18.87 ID:wMc1AOmC
最上義康「今度、親父義光…」

敬白 立願状之事
大沼明神御宝前
今度 親父義光 身命於
無患者 社頭建直之 并
在家皆山伏ニ可致之 并松木
裁之間敷者也

右如件 寒河江家親(花押)
文禄四(1595)年乙未八月十三日 源義康(花押)

秀次事件の連座で京最上屋敷に閉居され、聚楽第に呼び出しをされた父義光の身上の無事と最上家の安泰を願って
鮭様(最上義光)の息子の最上義康が山形の浮島大沼明神に立願した祈願状

研究から「寒河江家親」は後の加筆と判明したが
慶長の光明寺事件から、廃嫡・暗殺へと至る過程を思うと義康の憐れさがより一層引き出される、数少ない義康の遺文にも見えてくる




220 名前:968[sage] 投稿日:2014/01/06(月) 17:45:35.36 ID:4BLTZEfO
3日後に死ぬ母親の安泰も祈願しとけば…

最上義光・義康親子、不和となる

2011年12月21日 22:01

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 22:06:28.59 ID:B+ErHbqZ
最上義光の嫡男、修理太夫義康の側近には、佞人阿党(権力におもねり、与するもの)と言うべき者たちがあった。
彼らは義光の近習の者たちと威を争うあまりに、この阿党共は酒の席で義康に申し上げることには

「いつ迄もこのような部屋住まいで、所持御不自由の体であられる事を、ずっとおいたわしく思っております。
もはや義光公もご老体のことでありますれば、御家督を譲られご隠居なさるべきであるのに、そのような
そぶりもないのは、どうしても不審に思えてしまいます。

されば、ご次男の駿河守家親様は数年江戸の御城に詰められ、家康公にお気に入られご出頭されていると
聞き及んでおります。そういうことであれば、義光公のお考えは、いかがな事になると思われますか?」

このような事を色々と品を変え言葉を変えて伝えたため、義康にも『そういう事(廃嫡)もあるかもしれない』
と考えるようになり、折に触れて、義光への恨みの風情が見えるようになった。
そんなふうだったので、終には義光・義康親子の仲は、宜しからざる体となってしまった。

そんなある時、義康は光明寺へ遊覧に出かけ、そこで酒宴を張ったが、このとき近習の若者たちと
戯れているうちに脇差が鞘走ってしまい、左の脇を少し傷つけてしまった。

この事を佞臣たちが聞きつけ、義光に、このように報告した

「今や義康公は、御家督のお譲りが引き伸びになっていることを深くお恨みいたし、本日自害を図ろうとしましたが、
これに気がついた近習たちが皆で取り押さえ事なきとなりました。
しかしこのように命がけで思いつめておられる以上、義光公に対しいかなる謀り事を企んだとしてもおかしくは
ありません!」

これを聞いて義光は

「たしかに、そのようでは、義康は国の仇となってしまうだろう」

と考えた。


義光と義康の関係の悪化を、決定的にしたとされる事件である

(最上出羽守義光物語)




義康廃嫡・義康暗殺

2011年11月05日 22:01

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/04(金) 21:08:01.20 ID:SQH5Jenb
義康廃嫡

出羽の最上家は戦国を生き抜いた家である。
豊臣の世にもなんとか家を存続させていた。

領主の義光には齢30を越えてから得られた義康といった男子があった。
義光は目に入れても痛くないほどに義康を可愛がり、連歌や農政、教育を施し、義康もその期待に応える様に
英遇と武勇を身に付け、領民からも「やさしい次代様」と愛されていた。

義康は義光に従い各地で転戦し、出羽合戦終盤の直江追討では狙撃された義光を兵一千を率いて扶助している。

合戦も終わり義光は60を前に庄内に隠居城の用意を考える。

義康と父の義光と仲は良好であったが、義光の近臣・里見民部・正光親子と義康の近臣・元上杉家臣原八右衛門が
父子離反をはかり双方に讒言したことから徐々に仲が険悪となった。
折悪しく義康が寺に赴いた際、あやまって石段を踏み外し股を傷つけたのを里見が「若殿は大殿を恨み、
わざと自傷し周囲の気を引こうとした」と義光に言上した事からさらに仲が悪化した。
このことは単純な父子の感情悪化だけではなく、徳川家康が義光の次男・最上家親を近侍として召し使い、
大層気に入っていたため、彼に最上氏を継がせたいと考えたことがあったと言われている。

1602年(慶長7年)、義光がこのことを徳川家康に語ったところ、家康は本件を聞き不快を顕にし
「家親が良かろう、あれは秀忠に良く仕えておる」と述べたという。

ここに義康の廃嫡が決定的なものとなった。

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/04(金) 21:36:49.60 ID:SQH5Jenb
義康暗殺

廃嫡後義康は家臣浦山源左衛門ら20名ほどを連れ高野山(一説には羽黒山とも)へ向かう途中、
原八右衛門・土肥半左衛門らと兵に鉄砲を射かけられた。
源左衛門は即死、義康は下腹部を2発撃たれ自刃した。

義康の頚は落とされ山形へ送られた。
義光は義康の首を見て涙した。
彼は義康の遺品を調査し、父への武運と長寿を祈願した義康の日記を目にする。
義光は我が子の死を深く悲しみ、家臣・斎藤光則に本件の調査を命じた。
危険を察した里見民部は一族30余名を連れ山形を去り、加賀前田家に逃れた。
義光は自らの死の前、後継者である最上家親に向かって「自分の死後、なにがあっても里見一族を粛正せよ」
と命じた。

義光は義光山常念寺を義康の菩提寺とし、また追善のため仏像をつくり手厚く葬った。
息子の死後、義光は病がちになったとも伝わっている。

義康暗殺には不明な点が多く、この話も「流れをある程度掴むための一説」として考えてほしい。

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/04(金) 21:40:34.40 ID:SQH5Jenb
最上義康享年29

1611年頃、高野山から山形へと向かう途中に櫛引で殺されたといった話も伝わる。





出羽庄内「首なし地蔵」

2009年10月13日 00:05

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 20:11:47 ID:+4lba+Xg
いい話スレで文句たれておいてなんだが、最上バランスのため投入。

「首なし地蔵」

出羽庄内に、ある人物を弔うために地蔵尊がおかれた。ところがある日、その首がなんと
落ちているではないか。
「こりゃまあ縁起が悪い」
見かけたものは首を元に戻した。ところが…

ゴ ト ッ 

「ヒィィィィィ!?」
戻したはずの首がまた、落ちた。
「もうやだなあ、由来が由来だけに勘弁しろって。さてこれでよし、と」
こうして戻すのだが…

   ゴ  ト  ッ 

またも首が落ちた。

「ギャアアアアアアアアーーーッ!」

何度首を戻しても、あとで見ると地蔵の首は落ちているのである。
ついに皆首をつけることをあきらめ、この地蔵尊を「首なし地蔵」と呼ぶことにした。




実はこの地蔵尊、廃嫡のうえ射殺された最上義光の長男・義康を弔うものであった。
義康の屍は、首は山形まで持ち去られたが、胴体は庄内に残された。
その胴体を埋めた場所に置かれたのが、例の地蔵尊であったのだ。
義康の暗殺は今以て謎が多く、真相はあきらかではないが、義康の魂は首なし地蔵で
何かを訴えようとしていたのだろうか?