140 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/02(日) 08:10:58.99 ID:FkO6tnR5
常念寺
慶長8(1603)年、最上義光の長男義康が廃嫡され、高野山に向かう途中で上杉旧臣の戸井半左衛門に鶴ヶ岡手前の櫛引丸岡の地で暗殺された
義光は腹心の斎藤光則に事件の背後関係を調査させると共に戸井半左衛門に追討の兵を差し向けた
半左衛門は義康暗殺後すぐに逃亡を図ったが、追っ手により南部城下で討たれ、調査役の光則は下吉忠、里見民部ら数人の関与の可能性を挙げたが、それ以上に詳しい事はわからなかった
義光は義康の生前の日記から、義康が常に父の健康を祈っていたと知ったが、今となっては悲しみが増すばかりだった
三日町に義康を弔うため寺が建立された
義光「…常安…いや寺の名は『常念寺』とする」
義光は藁を束ね(箒とも言われる)刀でその先を薙ぐと墨を入れた桶に穂先を入れ
「義光山」と一気に額号を記した
三日町義光山常念寺は寺域そのものが最上義康の菩提を奉る地とされ、墓石が建てられる事はなかった
(現在あるものは新しく設けられた供養塔)
家康を憚り、丸岡の地から義康の胴が移葬される事もなかった
この後義光は病に伏せる様になり、寺社の再建により一層施を厚くする様になったと伝わる
「山形の昔話」
常念寺
慶長8(1603)年、最上義光の長男義康が廃嫡され、高野山に向かう途中で上杉旧臣の戸井半左衛門に鶴ヶ岡手前の櫛引丸岡の地で暗殺された
義光は腹心の斎藤光則に事件の背後関係を調査させると共に戸井半左衛門に追討の兵を差し向けた
半左衛門は義康暗殺後すぐに逃亡を図ったが、追っ手により南部城下で討たれ、調査役の光則は下吉忠、里見民部ら数人の関与の可能性を挙げたが、それ以上に詳しい事はわからなかった
義光は義康の生前の日記から、義康が常に父の健康を祈っていたと知ったが、今となっては悲しみが増すばかりだった
三日町に義康を弔うため寺が建立された
義光「…常安…いや寺の名は『常念寺』とする」
義光は藁を束ね(箒とも言われる)刀でその先を薙ぐと墨を入れた桶に穂先を入れ
「義光山」と一気に額号を記した
三日町義光山常念寺は寺域そのものが最上義康の菩提を奉る地とされ、墓石が建てられる事はなかった
(現在あるものは新しく設けられた供養塔)
家康を憚り、丸岡の地から義康の胴が移葬される事もなかった
この後義光は病に伏せる様になり、寺社の再建により一層施を厚くする様になったと伝わる
「山形の昔話」
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