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那須作蔵と下人、牛太郎

2009年10月14日 00:08

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 22:04:54 ID:UTgLdO1o
美濃の小領主、妻木雅楽介の郎党、那須作蔵の下人に、牛太郎と言う若者が居た。

この牛太郎、まるで童子のように物を恐れる性格であった。
齢は18になったにもかかわらず、暗い場所には一人で行くことも出来ないほどの臆病者で、
回りからも散々馬鹿にされていた。
が、作蔵は何故かこの牛太郎をかわいがっていた。

さて、関ヶ原の決戦まで一月あまりとなった慶長五年八月、東軍の攻勢は美濃における
東軍派の諸勢力も活性化させ、同月十二日には作蔵の主君妻木雅楽介も、
西軍方田丸直昌の城、岩村城を攻め立て、大きな衝突となり、この日は一旦引き分けた。

その翌日の事。

那須作蔵の父、忠左衛門は息子を呼んで言った。
「十二日の競り合いで、味方の兵士の多くが手柄を立てたが、作蔵、其の方が
何の働きもないのはどういうことだ?
今日はどうしても良き敵を討ち取り、主恩を奉ずるのだ!」

「わかりました。」

作蔵はそう言われ、この日の合戦、突出して先手を進んだ。

さて、この頃の武士は一人で戦場に出るわけではない。
士であれば最低限、騎馬の士に数人の徒歩の下人がつくユニットで参陣する。
この時の作蔵も、自身は騎乗し、その下に数人の下人が武器を持って付いている。
その中には、あの牛太郎の姿もあった。

『あんな臆病者が戦の役に立とうものか』そう陰口を言うものもあったが、作蔵は気にせず、
牛太郎を従わせたのだ。

さて、先手を駆ける作蔵は敵将を発見、采配を振り回し士卒に下知をしている、
どうやら敵の物頭であるようだ。これは大物である。

作蔵はこれに駆け寄ると馬上で格闘となり、やがて二人は組みつき、二人ともに馬から落ちた。

それでも二人は互いに首を取ろうと組討ちを続けていたが、敵は存外に力強く、ついに作蔵は
押さえつけられ、今や首を掻き切られんとした、その時である

「うわああああああああああああ」

作蔵の下人が一人、物凄い勢いで駆けてきた。牛太郎である。

彼は敵に体当たりをすると、そのまま作蔵から引き剥がした。
これで身の自由を得た作蔵、見事この敵の首を討ち取った。

すると、この男がここ周辺の指揮官だったらしく、敵軍はたちまち崩れ、戦は妻木方の
全面勝利となった。

作蔵がこの日の最高の殊勲となった事は、言うまでもない。


ちなみにこの那須作蔵、この時の働きが見事であるという事で、後に蜂須賀至鎮に特に請われ、
その家臣になったという。
記録には残っていないが、勇士として蜂須賀家へと赴く、晴れがましい那須作蔵一行の中に、
牛太郎の姿もきっとあったことであろう。

臆病者の下人、主人に功を成させる。のお話。





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