天文十六年、稲葉山城の戦い

2015年06月22日 18:10

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/22(月) 04:31:43.64 ID:MTMHuJgH
初めて書き込むから色々至らないかもしれないけど

天文十六年(1547年)九月三日、織田信秀は尾張の国中の兵を指揮して美濃の国へ侵攻した。
村々に火を放って、九月二十二日に斎藤道三の居城、稲葉山城の城下の村々に寄せ焼き払った、そして町の入口に詰め寄った。

その時既に暮方、申の刻(午後四時程)になって軍勢を撤退させる事となり、兵を引き上げようとしたところ、
斎藤道三の軍勢が南へ向かって切りかかってきた。

応戦したが、多くの兵が崩れたってしまったので支えることが出来ず、
信秀の弟織田信康、織田因幡守、織田主水正、青山与右衛門、千秋季光、毛利敦元、長老寺沢又八の弟、毛利藤九郎、岩越喜三郎を始めとして、歴々五千人程が討死した

960 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/22(月) 04:33:03.92 ID:MTMHuJgH
↑出典書いてませんでした、信長公記です




961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 04:52:59.70 ID:wOzHKolz
千秋て熱田の宮司だっけか
で痣丸だかなんとかいう業物の刀もって勇んでたら、逆に眼を突かれて死んじまったとか

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 10:20:32.13 ID:9azGNfky
千秋季光→戦死(稲葉山城攻め)
季直(季光の嫡子)→地味に戦死
季忠(季光の弟)→戦死(桶狭間)
季信(季忠の嫡子)信長へ戦への参加を希望するも、さすがに信長も
「お前もういいから神職に徹しろ」と言って止める
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-903.html

熱田の千秋家って森家並みに壮絶だな

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 11:23:10.01 ID:AfqW6Ix5
>>968
たしか季忠って佐々政次とともに無謀な突撃を敢行して玉砕するんだよな

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織田信秀と連歌の計略

2009年10月16日 00:11

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/15(木) 16:48:59 ID:t3nujqDu
有名な話だと思うがまだ無いので上げてみる

織田信秀と連歌の計略
享禄5年(1532年)勝幡城の城主であった織田信秀と
那古野城の城主であった今川氏豊(義元の弟とも親戚とも)は
互いに扇子箱に付け句をつけてはやりとりする歌仲間であった
どのくらいの歌仲間かというと、那古野城の中に連歌開催中信秀が逗留する
専用の屋敷が作られているくらいの歌仲間であった

ちょっとそれフラグじゃないの?と思ったそこのあなた
その通り、フラグです

ある日連歌の最中信秀が城の本丸に窓を開けた

信秀「いやー夏の夜風っちゅうんは、ええもんで」
氏豊「そうですなー、えらいええ風や」
信秀「あっちの窓も開けますが、よろしいでっか」
氏豊「ええ、ええ。好きにすりゃあええよ、
   うちの城なんかおみゃあさんの屋敷だと思ってええから」
信秀「そりゃあ、ありがたい、では遠慮せず」ニヤリ

氏豊は夏風を楽しむ風流のためだろうと信頼しきっていた
で、城の中に屋敷があるくらいなんだから、織田のものがちょっとくらい大勢
城の中に居ても、みんな気にしたりしないのである

その夜、信秀はにわかに城に火を放ち、
城の内外から攻め寄せて城を乗っ取ってしまった
窓とか開けっ放しだからよく燃える燃える

氏豊は命乞いをして助けられ、京に逃れたらしい
その後は甥(?)を彷彿とさせる人生を送っている

以降那古野城は織田の重要な拠点の一つとなるのでした
この出来事が後の義元による尾張侵攻の大義名分となった可能性もあり
なかなか因果深いお話
そして今川には、こういう遺伝子あるのかもね




514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/15(木) 20:46:35 ID:J8RQi+WB
今川宗家(駿河今川氏)の側の史料には氏豊に関する記録はないと言われてるね
彼が義元の兄弟だったとすると駿河へ帰らずに京へ逃れたのもおかしい
(家督相続など何らかの理由で義元と敵対していたため帰るに帰れなかったという可能性も
無くはないけど)
氏豊は那古屋今川氏というもっと古い時代に分かれた傍流という説もある

領地を失ってみじめな亡命生活というところは氏真クンとキャラがかぶらないでもないのですけど(笑