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阿波殿へは御感状を下された

2017年05月19日 08:31

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/19(金) 06:57:41.17 ID:33GwbRVH
阿波殿(蜂須賀至鎮)の家来・朝比奈右衛門と同右京という者は、
馬口労ヶ淵で下知して功があった(大坂冬の陣・博労淵の戦い)。

佐竹殿(義宣)は家来の働きは良かったが、義宣の支配(指揮か)
は(徳川家康の)御意に入らなかったのだろうか。

阿波殿へは御感状を下されたが、佐竹殿へは家来にだけ下された。

――『武功雑記』


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判官殿の鞍

2017年05月11日 18:27

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/11(木) 04:12:26.55 ID:mNj39lOa
蜂須賀阿波守至鎮は古戦の事跡を尋ねて、古物の名のある物を求めなさった。

そんな折のこと、屋島の戦いで義経の身代わりに立った佐藤継信の葬式の時、
義経は秘蔵なさった“大夫黒”という馬を引き連れなさったのだが、

その鞍が志渡の寺(志度寺)にあった。かの寺が大破していたのを至鎮は補修
してその鞍を乞い求めなさった。

それから後年に至って、その鞍を知る者もいないために他の鞍と一所に交えて
しまい置かれた。

ところが、無頼の悪馬がいて誰も乗る者がいないという時、上田半平という者は
馬術の達人であったのだが、この人が言ったことには、

「かようの馬には、古作の良き鞍を置いて乗れば良いであろう」とのことで、鞍を
たくさん出して見ると、その中に極めて古き鞍があった。

上田はよく見て、「これこそ!」と言い、かの悪馬に置いた。この時、上田を嫉む
者がいて、「馬の善し悪しがどうして鞍に寄るだろうか」と、言ったのだが、

三浦次郎右衛門という鉄砲頭の老人も見物しており、かの鞍を見て、「判官殿の
鞍を久々に見たぞ」と、言った。

人々はその故を聞き一同に驚いたが、かの悪馬もかの鞍で快く乗る事ができた
ので、上田の馬術はますます名高くなったということである。

――『明良洪範』


蜂須賀至鎮の手紙、名古屋城普請のときのはやり歌

2017年01月22日 17:12

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 12:54:16.62 ID:CfuXCaQx
蜂須賀至鎮の手紙、名古屋城普請のときのはやり歌


[前略]
(名古屋城普請をする自分の"身のあさましさ"を長歌などで綴っている)


 此の頃常時思いに違はぬことは
一薪の高さ      一真桑瓜 聞いていたものと違ってあしきもの
一美濃鮎 昔からいいと言われているが、思っていたよりめでたいもの
一名古屋の井戸の浅いこと、井戸の水がいいこと、兎角ない物は若衆で
 普請の隙には編笠をきて、小屋垣の隙を覗き歩いても、その方に似て
 いるようなものは一人もいません。路地に水を打ち掃除して、お客を
 待っている者を、口を切りすぐに近づいて、目利きだというので是に
 金を出して知人にもなりましたが、衆道の目利きとはまことではあり
 ませんでした。数寄道具と若衆のような目利きは和尚に直に聞くべき
 なのでしょうか。
 [中略]
 自分のところには執心の人はいませんが、夕べさる方から習ったので
 名古屋のはやり歌を書き付けておきましょう。

 <たれか思ふ人は名古屋にござる、長の留守すれやしんくてならぬ
  えいえい、えいさらえいさらと石を引き、えいえいえいといふて
  引く間は夢だんべえな、えいとえいとゆて引くは亡い子かのといふた>

 若きも老いも口ずさんでいるので、是がないと浮世にはならないそうです。
 [後略]


――『徴古雑抄』



首を晒される事は、武士の本意

2016年12月17日 09:12

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/16(金) 21:13:47.71 ID:Dl1XCqEh
 蜂須賀阿波守(至鎮)の臣中村右近(重勝)は夜討の時に討死した。
十五歳であった稲田九郎兵衛(植次)が右近の首を取り返した。
右近の子は(後には美作守と号し)そのとき十一歳で、幼少だったので在国していたが、
組子守りの為在所から呼び迎えられた。
阿波守と対面すると右近の討死の事を申し立てた。
かねて阿波守は右近と懇意にしていたから事情を話すと、

「首を晒される事は、武士の本意です。
どうしてその首がここにあるのですか!!
犬死をしてしまったということですか!!!!」

と弁舌明らかに申した。
阿波守は聞いて、

「誠に虎の子は乳を飲む時より百獣をのむ気があるものだ。
心配しなくともよい。
右近の首は稲田が取り返してきたからここにあるのだ。
右近の働きは比類なかったぞ。」

と重ねて言うと、そのときにやっと合点した顔つきとなったそうだ。

(武士としては)

首を晒される事って本意と言われる程素晴らしい事だったんですね。
負けたら隠れて切腹して、首をとられないよう部下に運ばせる話をよく聞くので
首を晒されるのは恥だとばかり思ってました



421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 12:16:36.20 ID:2lC0CIdk
首実検されずに捨て置かれたと勘違いしたのであろうな。

蜂須賀至鎮、加藤嘉明と片桐且元の争いを仲裁すること、二話

2013年10月09日 20:03

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/09(水) 18:07:47.67 ID:JoV1z0ES
ある日、加藤嘉明、蜂須賀阿波守、片桐市正は天龍川に集まり、宴会を行った。

この時、阿波守は嘉明に賤ヶ岳の軍状を尋ねた。しかし、嘉明は、
「私は普段よりも酒を飲みすぎてしまった。市正、どうかあなたに頼みたい」と言って、
酒に酔ってよい気持ちになりながら、あおむけになって寝てしまった。

そこで阿波守は市正にこれを尋ねる。市正はとても得意気に当時の戦況を語った。
その語りが嘉明の事に及んだ時、嘉明はたちまち起きて反論した。

「貴公の如きはもともと七人の中に加わるべき者ではなかった。それを私達諸将と
相談して太閤にお願いし、曲げて先鋒に列しさせたのだ。あの石子兵助の伏屍を
踏んで敵将を刺し殺したのは他でもない、この私だ!」

市正もまたこれに反論して譲らず、意色甚だ悪し。しかし、阿波守が二人の間に立って
調停したので大事には至らなかった。

――『鹿深遺芳録』

慶長八年、将軍宣下拝賀のために蜂須賀至鎮が江戸へ向かった時、ちょうど天龍川が
増水していて渡れないので、至鎮はしばらく滞留して減水を待った。

そこへ加藤左馬助、片桐市正(或は福島左衛門大夫とも云う)もまたやって来た。
ある晩の話の折、至鎮は賤ヶ岳先登のことを質問した。すると、二人の語る事が食い違って
互いに譲らず、終いには刀傷に及ばんとした。

至鎮は祖裼して二人の間に入って辞謝し、「それがしは無益の問を起こし、
おしはからずに公等の忌諱に触れました。本当に、このまま放っておくわけには参りません。

まずは、それがしが切腹して罪をお詫びします。その後で二公は良いように
事を処理してください」と表情を改めて決意したので、二人は大いに恥じて先非を悔い、
和解して事なきを得た。

程なくして川は減水したので、共に川を越えることができた。至鎮は二人を旅館に招き、
盃酒を勧めて別れたという。

――『峻徳公略伝』




287 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/10(木) 07:42:22.11 ID:ddF5PZEH
こんなんで切腹してたら戦国武将なんてやってらんねえだろうな

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/10(木) 08:03:03.73 ID:hQ0qrR0v
わかっててやってるだろよししげw
(やっぱこうなったしwww)って

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/10(木) 12:13:48.06 ID:kXmB4JVh
(´・Д・)。○(ちょろいぜ)

290 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/10(木) 15:00:39.62 ID:BrbjmR+T
どちらかが嘘つきというよりは、両方誇張して話してるから噛み合ないんだろうなー

「あなたは何故自分の功を言わないのだ」

2013年09月10日 19:55

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/10(火) 17:22:58.46 ID:94lW3wVa
蜂須賀家で、大坂冬の陣での諸臣の論功が行われた時、倉知由久は自身の功を語らなかった。
ある人が「あなたは何故自分の功を言わないのだ」と、尋ねると、

由久は「夜戦の射は功となすに足らず」と言った。その後、由久の射た矢を送って来た者がいて、
矢には漆でその姓名が記してあり、蜂須賀至鎮は由久を呼んでこれを示した。

由久は矢を取り、灯火に照らしてじっと見ると、「字が剥がれています。恐らく私の名では
ないでしょう」と言って、その賞を辞した。

――『峻徳公略伝』




93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/10(火) 23:45:26.17 ID:DhDE9OYD
控えめにも程が過ぎるだろw

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/11(水) 00:11:01.16 ID:scoqACeA
豊臣を攻める戦が気に食わなかった?

福島正則、幼い蜂須賀至鎮を評す

2013年08月24日 19:53

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 15:43:47.11 ID:FYzGJQbF
蜂須賀至鎮が幼い時、福島正則が来訪した。この時、諸々の談話があったのだが、
至鎮は始終じっと聞いているだけで、まったく明弁しなかった。

正則は退いて至鎮の老臣に向かい「私はこれまで多くの人を見てきたが、
威徳の備わっている人を見たことがない。将来、天下の名将となるであろう者は、
唯々、長門守である」と語って、痛く感嘆したという。

――『峻徳公略伝』





「私がどうして豊臣家に背くだろうか」

2013年08月20日 19:51

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 17:58:24.84 ID:pWR2sAz7
徳川家康が上杉景勝を征伐する時、蜂須賀至鎮もこれに従おうとした。

この時、増田長盛のもとより、太閤の旧臣の立場で家康に属することは不当である、
と至鎮へ申し送られてきた。至鎮はこれに、

「私がどうして豊臣家に背くことだろうか。ただ汝等に与しないというだけだ」と答えて、
五千余騎を率いて大坂の居邸に入り、凶徒等の攻撃に備えた。その勢い当たるべからず。

このために長盛等は和議を乞うたので、結局、至鎮は家康に従って下野国小山に至り、関ヶ原の陣にも従った。

――『寛政重修諸家譜』





大阪陣の人狩りと蜂須賀至鎮

2010年07月14日 00:00

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/13(火) 01:28:56 ID:3jGFqAC9
大阪夏の陣で、大阪城の落城後大規模な略奪、人狩りが起こったこと、これは有名である。

が、幕府は人狩りに関しては

『戦場となった地域で人を略奪するのは捕虜ということで仕方がないが、
戦場区域以外で略奪した人間に関しては、無条件に開放せよ!』

と言う命令を出した。

この人狩りに感しては、大坂の陣に参戦したほとんどの大名が行っていたが、
特に一人の大名が問題になっていた。
阿波国主、蜂須賀至鎮である。

蜂須賀家は夏の陣においてなんと、男女あわせて170人もの人間を略奪していたのだ。

『戦場から略奪したというだけでは、いくらなんでも多すぎる。
規定外の人間は直ぐに開放せよ!』

こう迫る幕府に、至鎮は一冊の書類を提出した
「これをご覧ください。」

「…これは!?」

何とその書類には、略奪した男女全員分の「住所」が書かれていた。
ご丁寧なことにみな、戦場区域内であった。

「これこのとおり、我ら蜂須賀家が略奪した男女は、全て合法でござる!」

その書類に書かれた「住所」が本当であるかどうかはかなり疑わしい。
が、至鎮は幕府がこの件で何か言ってきた時のため、予めこのような物を作っておいたのだ。

いかに幕府であっても、大名から直々に『証拠』を提出された以上、それ以上
詮索するのは難しい

「お疑いも晴れましたようですので、それでは。」

さすが、『阿波の狸』の子も狸である。
蜂須賀至鎮、人狩りへの申し開きのお話。




843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/13(火) 07:58:15 ID:zeY/GIW1
170人で「多い」ってのがむしろ意外だ

845 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/13(火) 16:20:27 ID:0txyhuNn
>>842
そんなに狩ってどうするんだか。
親類が身代金出してくれるのを狙ってるのか、阿波に連れ帰るのか?

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/13(火) 16:49:02 ID:2QwmZTuH
このころは買戻し目当てよりも自領での労働力としての人獲りでしょ
冬の陣図屏風のほうだっけかな
三つ葉葵を付けた武士が幼女を連れた女性を引っ張っていくところが描かれてなかった?

847 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/13(火) 17:04:42 ID:0txyhuNn
>>846
都市部に住んでいた人に農業でもやらせるのか?
職能の人ならわかるけど。

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/13(火) 17:40:41 ID:WPdT+KzV
基本的には農業要員だろうけど、城下町作りほかの土木作業員とか、
労働力の使い道はたくさんある。
大名間で個別に取り決められた「人返し令」などは、
基本的に他領から人が流れてくるのはwelcom、
自分とこの農民などがよそへ逃げていくのはNGだから存在した。

蜂須賀至鎮、畳をばた々々と

2010年02月22日 00:00

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/21(日) 21:30:27 ID:yyyEjSkL
阿波蜂須賀家で江崎隼人という士を召し抱えることになり、重臣の益田因幡守が江崎を
主君・蜂須賀至鎮に取り次いだ。

しばらくして後、江崎が激怒して出て来たので、驚いた益田は理由を尋ねた。
「ど、どうされた?なにか不満でも・・・」
「至鎮公は良将と聞き及んでおりましたが、とんだ礼儀不案内の大将ですな!?
早々に立ち退くべしと思いましたが、一度召し出されながらさっさと退去するのもナンですので
貴殿には言っておきましょう。
そもそも、多少は名の知られた拙者をご覧になるのに、袴も着けずに着流し一枚で、側近と

    〃〃∩  _, ,_
     ⊂⌒( `Д´) 
       `ヽ_つ ⊂ノ
              ジタバタ

こんな感じで碁を打っておられ(原文:碁盤ニあぎとを持せられ、腹這ニ成り御脚を延され、
畳をばた々々と御脚ニて御拍子を取遊ばし・・・)、拙者を見ても『江崎隼人か。』と言ったきり、
なんの御意もござらなんだ。も、もう・・・無礼を通り越して法外ですぞぉー!?」
「お・・・お怒りごもっとも。さりながら、一ヶ月!一ヶ月だけ待って、また登城して下され!」

益田の説得によってようやく事なきを得て、江崎は蜂須賀家に仕える事になったそうな。




733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/21(日) 23:14:26 ID:OGdtEzVv
浪人のあふれた時代で、もうネームバリューによる推薦とかに飽々してたのかな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/21(日) 23:17:46 ID:3gIeeR+a
おにゃのこがうつ伏せになってジタバタしながらワガママ言えば萌えるけど
いい年こいた阿波狸のセガレじゃなあ…w

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/21(日) 23:31:19 ID:3sMz+hRb
でも、至鎮くん15歳で藩主になってるから、まだ若い頃かもよ?

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/21(日) 23:52:13 ID:65bSVyA+
私が親でも叱るレベルの姿勢の大大名…現代人でもアゴ乗せはねーわアゴ乗せは

蜂須賀至鎮の死についての伝説

2009年11月05日 00:03

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 19:21:02 ID:JBsCIoeH
蜂須賀家政の嫡男、蜂須賀至鎮。
大阪冬の陣では木津川、博労淵の合戦で功績を上げ、夏の陣では長曾我部盛親を生け捕るなど、
武略に長けた君主であったという。
ところがこの至鎮、三十代の半ばで急死してしまう。
若くして死んだ英主を惜しんで毒殺説が流れるのも世の常。
さて、そこまではよくある話なのだが……

俗説一。
蜂須賀至鎮はかの有名な覇王項羽と同じ、一つの目に瞳が二つある異相の持ち主であった。
項羽のごとき異相に、天下を脅かす危険性を感じた幕府が毒を盛って殺したのである……

……いや、それ異相というより怪物……

俗説二。
毒を盛られた至鎮は、それでもなんとか徳島城まで帰還した。しかし、屋敷まで後少しと言うところで、
ついに力尽きてしまう。
そこは屋敷から目と鼻の先、自らが上田宗箇に作らせた名庭。
無念極まりない至鎮は、庭の石橋の上までたどり着くと、無念のあまり……
石橋を足で踏み割って、そのまま息絶えたという。

……いや、石橋を踏み割る力があれば屋敷まで帰れよ。

という、主君を思うあまり化け物にしてしまった贔屓の引き倒しの話。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 19:42:34 ID:JBsCIoeH
ちなみに、>>956の石橋というのは、もともと長さ10メートルの一枚岩の石橋……
死にかけの人間に割れるかいw




961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 20:21:37 ID:z3zV7Z9K
>>957
この橋ですか
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/bf/f4f2b0119d5dacb1bbfb23fcc2cea549.jpg

こりゃあ無理だw

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/05(木) 00:15:32 ID:vGdmwcXU
>956
イケメンすぎる殿と美人過ぎる家康養女(だっけ)が……って悲恋みたいな話になってたっけ。

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/05(木) 08:58:27 ID:GC2jm/Qr
>>956>>961
戦国のすごい憤死ランキングつけたら、たぶん上位10人には入りそうだなw