fc2ブログ

後藤又兵衛出奔顛末

2011年10月13日 22:01

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/13(木) 12:24:50.98 ID:MBNSHxGc
さてさて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5868.html
ここに嫡男隠岐を追放された後藤又兵衛。やがて年月も経ち息子の帰参を求め様々に詫び言するも
黒田長政はこれを承知せず、又兵衛は長政に対し不満が募り、「わしは後を継ぐもののない一代男なり。
もはや未来に何の希望もない!」と常々言っていたそうだ。

ところで後藤又兵衛の次男に、又市という美少年があった。
黒田長政はこの又市を寵愛し、特に彼は小鼓の上手であったため、長政は他に別して又市を出頭させた。

ある時、博多祇園社において能の興行があり、日吉太夫がこれを勤めた。
この頃黒田又市は17歳、容貌美麗なこと花のごとくであり、長政は寵愛のあまりこの能興行の小鼓を打つことを
又市に命じた。

この命を又市は疑問に思った
「武士である私が主人、あるいは朋輩が能を勤めるときに小鼓の役を申し付けられるというのは、これは尤もな事だ。
だが猿楽師の勤める能の小鼓を打つというのはいかがなものであろうか?」

又市は13里離れた、父又兵衛の在る小熊城へと密かに忍び行きこの事を相談した。
又兵衛はこれを聞くと、激怒した

「よく相談に来た!さてさて筑前守殿(長政)には聞こえぬ仕方をなされるものか!
我が惣領である隠岐守を追放し、今また其方にも斯様なことを申し付ける!
こうなればこれは遺恨である!この上は当家を立ち退くしか無い!」

と、当時黒田長政と激しく対立している、豊前小倉の細川忠興の元に使いを立てた

『それがし儀、不慮の儀にて長政家を立ち退き候。御城下に参りたく候』

「得たり賢し!」
この使いに細川忠興は歓喜した。早速人数千人、鉄砲二百挺、騎馬少々を差し添えて又兵衛の迎えに遣わし、
又兵衛、並びに妻子家来を残らず小倉に引き取った。

これを知って治まりがつかないのが黒田長政である。怒り心頭の彼は小倉に、又兵衛の返還を求める使いを立てた。
当然のことながら忠興はこれを拒絶。もはや合戦か!と言うところに徳川家康より扱いが入り、
『又兵衛の身柄は細川家を離れ上方に送る。そのかわり黒田家は、又兵衛の身に手出しをしてはならない』
と決められた。

後藤又兵衛出奔の顛末である。
(武隠叢話)




267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/13(木) 12:31:30.58 ID:pKFvM5RT
親子ともども面倒な性格。
こりゃああいう末路が待っているわけだわ。

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/13(木) 12:35:34.04 ID:xH7/IUpy
前にも出てたなあこの話。前半部分だけだが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3462.html

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/13(木) 17:21:57.44 ID:EAUzqrjU
そのままだったとして、忠興と又兵衛って
上手くやって行けたんだろうか?

270 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/13(木) 17:59:23.50 ID:Nv3n99Qa
二人とも仲たがいして長政に笑われたくないという一点で一致しているから
きっと意地でも上手くやるよ

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/13(木) 18:57:50.60 ID:Kq4Vh56z
つか親子共々揉めたってことは後藤家って勢力がうっとうしかったんじゃないかなあ
独立性高い家臣はいらないみたいな

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/13(木) 20:02:47.60 ID:bS5GZRTI
長政はかなり出来た人なんだがなぉ
又兵衛と険悪な時期になんでこんなトラブルの種にしかなりそうにないことしたんだろ
又兵衛を放逐したいだけならもっとうまい手があったろうに

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/13(木) 20:14:19.86 ID:Z1uDsKnH
武隠叢話って江戸中期成立だろ

後藤又兵衛基次の嫡男、隠岐守と片桐且元

2011年10月08日 22:06

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 00:57:40.64 ID:hcb4JUbL
>>4
後藤又兵衛の子といえばこんな話もある


後藤又兵衛基次の嫡男は、後藤隠岐守と言った。
関ヶ原後、この後藤隠岐がある時子細あって、長政によって改易された。
これにより隠岐は摂津の木津に隠棲した。

ある時のこと、この隠岐が小者一人を連れて大阪に用を足しに行くと、町家に人が群集していた。
後藤隠岐が何事かと尋ねると、大阪の町奉行である水原石見守の組の与力が言うには、

「只今狼藉者二人が町人を斬って、酒蔵に籠っているのだ」

と言う。これを聞くと、隠岐

「そいつらを斬っても構わないか?」

「それは、構わないが…」

「良し」

隠岐は股立をつまみ上げて帯に挟み込むと、蔵の前にのさのさと進み、前まで行くと同時に、
蔵の中に飛び込み先ず一人を切り倒し、もう一人が慌てて斬りかかって来る所を飛びかかって切り伏せ
たちまち二人の首を取ると蔵より出、それを奉行所の雑色に渡すと、そのまますぐに木津へと帰ろうとした

と、そこにやってきたのが片桐且元である。

且元は事件現場の様子を見て「さてさて手柄をしたものだ、お主がこれをしたのか、名を名乗られよ!」
と再三尋ねたが、隠岐は「いや、名も無きものでござる。」と、名乗ること無く帰っていった。

しかし且元は、家来に密かにその後を付けさせた。

その夜、この後藤隠岐の自宅に、且元より米五俵と酒樽、さらに酒の肴が届けられた。

『御牢人とお見受けいたした。これは些少ではありますが、今日のお骨折りのせめてもの礼に、
どうぞこれをご賞味ください。』

しかし後藤隠岐
「酒樽と肴は御志として頂戴いたします。しかし米俵の方はお返しいたす。
かようなわび住まいをしておりますが、このようなものに事欠いているわけではありません。」
と、米は返したのだという。

翌々日、今度は片桐且元自身が木津の後藤隠岐宅を訪れた。
そして隠岐と対面し、名を名乗られよと問い詰める。これには隠岐も名を隠しがたく、
ついに「黒田甲斐守長政老臣、後藤又兵衛が嫡子、後藤隠岐守と申すものです。」
と名乗った。

これに且元
「そんな事だと思いました。あなたには、ここは余りにも見苦しい。それがしが宜しく取り計りましょう。」
そういって堺に家を借り、金子二百両を合力して彼を隠し置いたという。

(武隠叢話)




後藤又兵衛、大坂城入城の理由

2011年10月06日 22:07

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/06(木) 00:32:16.02 ID:945QUsMM
黒田家を出奔した後藤又兵衛
一家を連れての放浪の後、大阪の地へとたどり着く。
この時又兵衛を捕らえようという黒田家の者たちが又兵衛の子を捕らえるという出来事があった。

この話を聞いて激怒した人物がいた。
大坂城の豊臣秀頼である。
「大阪に住む者はたとえ浪人であっても我が民である。」
この秀頼の怒りを知った黒田家の者たちはやくなく又兵衛の子を放した。

この事に深く感じ入った又兵衛は後に大坂城へ入城することとなる。






大阪城大広間の評議と後藤又兵衛

2011年09月04日 23:29

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 14:54:25.92 ID:zfplFunb
後藤又兵衛のお話を

大阪冬の陣の事。慶長19年(1614)12月16日、幕府軍による備前島からの大筒の攻撃で、砲弾が大阪城本丸の
淀殿の居間の櫓を打ち壊し、侍女数名が即死するという事態に至った。
これに恐怖した淀殿は秀頼に和議を勧めた。だが秀頼は強い難色を示し、結論は出ない。
そこで大野治長は大広間に組頭以上の者たちを集め、この事を協議させた。

と、ここで進み出て声を上げたのが後藤又兵衛基次である。彼はいう

「もし近い内に徳川軍の総攻めが行われれば、我々牢人衆は討ち死にするでしょう。
同じく、仮に和議になっても、籠城している我々牢人衆は責任を取り腹を切らされるでしょう。
だが討死も切腹も、どちらであっても豊臣家のお役に立って死ぬ、名誉あることことなので、
この点を心配することはありません。

秀頼様は、和議後の牢人衆の立場がどうなるかが心配で、これに反対しておられるのでしょうが、以上の理由により
その心配は無用なのです。
私としてはむしろ、家康の身の安全を願うばかりです。」

最後の言葉は、主戦派の将軍秀忠と違い和議を進めようとしている家康に何かあれば講和は成立し得ない、
なので和議が纏まるまで家康の無事を祈っているのだ、ということだろうか。

これに賛同者も出て、治長はこの意見を淀殿に申し上げ検討したそうである。
(慶長見聞記)




先鋒部隊から声を上げた。これを聞いた又兵衛は

2011年09月03日 22:03

416 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/03(土) 03:01:52.54 ID:C6/r1ovK
後藤又兵衛が朝鮮へ出兵した際の逸話である。又兵衛が進軍中、前方の黒田軍の先鋒部隊から
声を上げた。これを聞いた又兵衛は

「味方が負けた。救援せねば」と発言した。

共にいた黒田長政から
「何故そんな事が判るのだ?」と尋ねられると、

「声が次第に近づいてくるのが退却している証拠です。」と説明し、

遠方の戦場から立ち上がる砂ぼこリを見て、
「迫る敵が立てるほこりは向こうからこちらへかけて黒々と見え、逃げる際のほこりは
 遠くなるので白く見えるものです。あれに見えるほこりは白いので敵の敗北でしょう。」

と語った事もあり、いずれもその通りだったという。また、朝鮮軍の拠点である晋州城を攻める際、
加藤清正と共に厚い板で防御を固めた「亀甲車」という戦車を開発。これに自ら乗り込んで城を攻撃し、勝利に
貢献したという。





431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/03(土) 08:21:11.59 ID:XKWm4KLa
亀甲車の件は清正記巻第三(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771449/の184-185)に記述があるよ

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/03(土) 08:31:27.26 ID:rkmmBAxo
>>431
ありがとう
後世の軍記物だね

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/03(土) 08:50:56.54 ID:DIJ4yLYf
朝鮮王朝実録にも
「又作大櫃以藏兵, 下爲四輪車, 賊數十人着鐵甲, 擁鐵楯, 推車薄城, 以大鐵錐鑿城」と
それらしき記述があったり。

合渡川の戦い・黒田長政と後藤又兵衛

2011年09月01日 22:00

629 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/01(木) 19:44:44.33 ID:dm3WrxJx
1600年の関が原の戦いの直前の事である。徳川家康に従う黒田長政らの東軍と、対立する石田三成の
西軍が合渡(ごうど)川を挟んでにらみ合っていた。そこでこちらから攻めるべきか、あるいは相手が動いた所を
迎い撃つべきか東軍の大名達の間で議論となった。この時、藤堂高虎

「又兵衛、貴殿の意見が聞きたい。」

後藤又兵衛に尋ねたのだが、主君の黒田長政

「ふん、又兵衛の意見など聞いてどうなる!」と横やりを入れた。

陪臣の身でありながら大名に意見を求められたのが面白くなかったのかもしれない。しかし又兵衛も
長政のそんな態度に慣れっことばかりに

「勝つにしろ負けるにしろ、打って出ない事には家康公に顔向け出来ますまい。」

自説を主張。この意見を聞いて出撃した東軍の先頭に立ち、渡河の一番乗の名乗りを挙げる際も

「我は後藤又兵衛なり!」と「黒田家家臣」である事を言わなかった為、またも長政の気分を害したという。

以上、長政と又兵衛の溝が益々深まってしまったお話。




633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 20:48:20.16 ID:p/xhdv6C
>>629
相手の発言や行動のことごとくがいちいち気に障るんだろうなあこの2人の関係
それが上手く働くと微笑ましい笑い話になるんだけど…

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 20:53:52.15 ID:6aZ2QESu
やっぱり又兵衛は長政の事舐めてるのか
長政がいちいち絡んでうぜーと思っているのか

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 21:12:35.24 ID:dto5IQHT
又兵衛が出てくるたびに長政の小物感が一層引き立つなぁ・・・w

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 21:18:27.65 ID:YM7LBfgY
そら後世成立の又兵衛ageの逸話なんだから当たり前っしょ

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 21:20:09.06 ID:6aZ2QESu
長政は犠牲になったのだ…

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 21:36:31.90 ID:Qgxyh5dJ
又兵衛相手じゃなくても、長政は小物臭しかしない

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 21:41:40.11 ID:iYm2bJ12
武辺に関しては自分の息子にすら対抗心燃やしてたよな

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 22:54:44.76 ID:YM7LBfgY
違うだろ
小物臭くしてる逸話の長政が小物臭いだけだろ

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 23:14:06.74 ID:4xp8mB1D
江戸時代は槍働きが無いから死を賭けた諫言が最上級の忠義
武士に生まれたからは一度はやってみたい諫言。って時代だったそうで
ある程度功をなした家臣はみんな機会を狙っていたとか
こういう逸話を好んで量産した黒田家は後々まで忠義者が多かったのかもね

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 23:23:22.02 ID:tr+CvJPh
そういう諫言を許している長政は大物だと思うんだけどな

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 23:30:26.58 ID:D1bZpdM/
「諫言を好む」というのも名君の条件だしね

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 23:41:39.92 ID:6aZ2QESu
家康も、諫言してくれる家臣は大事にせよと言ってるしな

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 07:03:10.68 ID:IaNqQLCp
けど一つ間違うと勘違いしたことをねじ込んでくるバカ家臣だからなー。
江戸期には抜擢した下級家臣と藩政改革しようしてる時に、阻止しようと「諌言」した重臣が多い。
そのくせ、通らなくても浪人する度胸もなくてぐちぐち言い続けるという。

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 08:31:06.14 ID:pjrKKvXb
そのくせ、いざ自分が殺されそうになったら、主君を無実の罪で訴えたりな
[ 続きを読む ]

ドキッ☆KURODAだらけの水泳大会(首ポロリもあるよ)!

2011年07月07日 23:27

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/07(木) 18:08:12.49 ID:BGXXPD//
ドキッ☆KURODAだらけの水泳大会(首ポロリもあるよ)!
黒田さんちで「川に落ちる」と来たらバ…若殿の独壇場だと思われるでしょう、が

「ぐわー!」朝鮮の大同江で水中戦している長政の隣では、
菅六之助がふたりの敵兵ともつれ合って川に転がり落ちていました。
気づいた朋輩が駆け寄ってダンゴ状態のまま岸に引っぱり上げたのですが、
そのまま戦闘続行。敵ひとりは水中でほぼ片をつけており、残りの相手も
脇差で一突き。さすがの虎殺しですね。
この人は城井攻めでも、泥田にはまった長政の馬を小川で『心しづかに』
洗う片手間に首級ふたつ挙げてたりします。

「うおー!」そのまた隣で、吉田又助も馬上から川に引き込まれようとしていました。
大指物のついた具足のまま落ちては溺れると危ぶんだ又助は、手綱を片手で握り、
腕一本で敵兵を水中に沈めたり沈められたりしつつ、見事に仕留めました。
このとき助けに行った家人も刀握ったままで泳いでいて、何気にすごい。

そしてあの人も

「ぬわー!」耳川で脇差いっちょの長政が、薩摩兵三人と斬った張ったを
くり広げていた(官兵衛さんのコメント・「お前は匹夫か!葉武者か!」)のを横目に、
後藤又兵衛も大力の侍と揉み合って川に突入です。 
組み伏せられて危ういところへ、又兵衛の馬取が加勢に入ってようやく討ち取りました。
「あの馬取の働きで、命を救われたのみならず手柄も挙げられた。
戻ったら良い役に取り立ててやろう」 そう考えていた又兵衛でしたが

『下郎(馬取)は心つたなくて、陣中にて又兵衛の刀、脇差を盗んで逐電しける』m9(^Д^)

戦国の世に水練は必須科目なのです




894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/07(木) 18:51:22.38 ID:fj6QAun0
水辺の戦で負けると死亡率高いからなー、それでも泳げさえすれば助かるケースも多いだろうし
如水は若いころから毛利の海からの上陸軍を追い返したりとかしてたよな、
そういうところで見てきた経験からも水練の重要性は身に染みてたろう。

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/07(木) 20:05:04.55 ID:M8Pq4D+j
水の如しってな

愛媛県松前町、後藤又兵衛生存伝説

2011年02月21日 00:00

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/19(土) 23:02:08.85 ID:SeT607j4
地元に伝わる伝承を一つ



後藤又兵衛が生き延びていた、という話は又兵衛桜が有名ですが

愛媛県の松前町にも、又兵衛が逃げ延びてきたという話が伝わっています


大阪からなんとか脱出した又兵衛は、旧友の加藤嘉明を頼ってこの地を訪れました

徳川家からの捜索を逃れるため、名を弟の市郎右衛門と偽り、百姓となったそうです

百姓となった後は、地域の開拓に尽力し、寛永11年にその生涯を終えます

今でも後藤新田、後藤の堰などの事跡が残っています


http://shikoku-net.co.jp/ehime/kankou/iyogun/masakikankou.htm

↑参考にさせていただきました

又兵衛夫婦のものとされる墓の写真もありますよ


個人的に「旧友の加藤嘉明を頼って」という部分が気になります

又兵衛の主君と仲良かったから交流はあったと思いますが…

なんとなく相性悪そう




897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/19(土) 23:05:44.83 ID:o1BraLN+
問題は大坂の陣の時にはすでに加藤嘉明は居城を
松前城から松山城に移していることだが
昔の居城近く、というならありか

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/20(日) 00:11:34.18 ID:zIpvnBRW
>>896
そこ伊予に旅行行った時行きましたわー。

そう遠くない同県伊予市の長泉寺にも後藤又兵衛の墓があって、
こっちは生存説ではなく、戦死した又兵衛の首を持って逃げた部下がここに葬ったという伝承が。

叔父の藤岡九兵衛(又兵衛幼少時代の保護者)が住職をしていた縁で、
大坂入城前に又兵衛が加藤嘉明との交誼を頼って、妻子を託したことが碑文に刻まれています。

程近い三谷に塙団右衛門の子説もある程仲の良かった雲居国師の生誕地があったり、
松前城跡には加藤家を出奔した団右衛門の事跡が看板に書かれたりしていて、
この大坂の両豪傑好きにはちょっとした穴場地域に感じました。


>>897
松山から松前もそう遠くないしね
松山築城の際に破却した松前城の建材を再利用した話もあるし

後藤又兵衛の忠告

2011年01月23日 00:00

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 22:23:27 ID:0dBR1auH
大坂の陣の時のこと
渡辺糺大野治長が話し合いをしているところに、後藤又兵衛がやって来て
こんな事を言い出した。

「面白い事を聞きましたよ。大住與左衛門は東軍(幕府方)に内通しているって噂だ。」

大野治長これを聞くと首を振り

「いやいや、與左衛門に限ってそんな事はありえぬ。
あいつは故太閤殿下の魚洗いであったのだが、実直ものだとしてお取立てなされ、
『秀頼公にご機嫌よく物をあてがうように』と御付になされたのだ。

そして今回の籠城が始まってからも、與左衛門は城内のあまたの倉の鍵を手元に置き、
昼夜の別なく御用をなし、また見廻りをしている。あの熱心な姿を見れば、
あいつが二心を抱くなど考えもつかない。」

すると又兵衛
「愚鈍な人間よりもそう言う奴に気をつけなきゃいかんのですよ。」

と言って去った。


後日、夏の陣の時城内から火をつけたのは、この大住與左衛門の仕業であったという。

後藤又兵衛の忠告、活かせず。と言うお話。






477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 23:06:55 ID:ZjW1erGp
>>476
>「愚鈍な人間よりもそう言う奴に気をつけなきゃいかんのですよ。」
長政「ああ、全くだなクソっ!」

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 23:13:14 ID:snAnfnoR
噂を立てられながら実直に見回りを続ける神経凄過ぎw

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/21(金) 23:42:00 ID:/XlwqW9R
そういう微妙な事をそのままズバズバ言っちゃ駄目でしょおおおおおおおお
もっと遠まわしに話してええええええ

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 08:16:32 ID:qlvpyR6o
度量がある人間なら使いこなせたりうまくやれるんだけどねえ、又兵衛。
嫌がる人は多いわな、こう率直だと。

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/22(土) 08:45:23 ID:0l/26EUw
直家「大住をそのままにしておくとは、又兵衛は甘いのぉ」

後藤又兵衛、射撃中止を命ず

2010年11月17日 00:01

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/16(火) 00:25:22 ID:1bo331D+
慶長19年(1614)、大阪冬の陣でのこと

12月6日、茶臼山へと陣を変えた徳川家康は、備前島片桐且元の陣屋に入り
そこから幕府方の陣地を視察、家康は自ら銃弾避けの竹束の外にまで出て、戦場を観察した。

さて、家康の巡察が始まるまで、大阪城内からは切れ間なく銃弾が放たれていたのだが、
家康の巡察が始まったとたん銃撃が止まった。
これにはこういう理由があった。

この方面の指揮官は後藤又兵衛であった。
又兵衛は家康を見知っており、家康の姿を認めると

「ここのような、兵士であってもなかなか出てこれない場所に出てくるとは、
さすがは徳川家康である。」

と、家康の勇気を褒め、すぐにこのような指示を出した

「あそこに出てきたのは徳川家康である。大将というものは、弓鉄砲で討つものではない。
命令を変更する、射撃を中止せよ!」

このため、大阪城からの射撃が止んだのである。

ところがこの後、大阪城内ではこの事により
後藤又兵衛は家康に一味しているのだ!」
という風聞が広がり、疑いの目で見られるようになった。

又、かねてより家康は近習の者達に対し
後藤又兵衛や御宿越前などは御所様(秀忠)に対し遺恨などあるはずもないのに、
どうして籠城してしまったのだろう。」
などと言っており、この事も大阪城内に聞こえてきたため、さらに疑惑が囁かれた。

後藤又兵衛が早々に討ち死にしたのは、この為であったという。


戦国華やかなりし頃なら、後藤又兵衛のこの行為は勇者のものとして讃えられていただろう。
そんな、戦乱の時代が終わる直前の、勇者の義のお話。




629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/16(火) 00:55:33 ID:C0RfVSE9
>>627
でも大阪方にわずかでも勝ち目があるとしたら家康を討つしかないしなぁ。
又兵衛個人としては満足なのかもしれんが、大阪方の将としてこの行動はちょっと……

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/16(火) 01:22:36 ID:1bo331D+
>>629
つーか後藤又兵衛は他の浪人たちと違って、大野治長あたりと一緒に主戦派を押さえて
豊臣と徳川の和平を目指してた節がある。
木村重成あたりにもそういう事を言ってた話も残ってて、それもあって主戦派から
かなり怒りを買ってたらしい。
もしかするとこの話も、家康を殺したら和平が出来なくなる、という判断からのものかも。

なので討ち死にの時真田たちが遅れたのは、又兵衛をわざと見殺しにしたのだ、
という説もある。

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/16(火) 19:39:01 ID:x9tGid+t
汚い!汚な杉!さすがはタカリ屋!お兄ちゃん、可哀相(。。;)
と長年思っていましたが、そういう背景が有りましたか。

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/16(火) 22:29:33 ID:hfcrC9xH
>>627
>「御所に遺恨などあるはずないのに」

南部への嫌がらせで入城した北十左衛門と、
地元の名士だから入城した安井道頓を思い出した。

いや、家康のいうこととは違うというのはわかってます。なんとなく。

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 04:48:53 ID:oGJcjzqp
>>627
>大将というものは、弓鉄砲で討つものではない。

鬼武蔵「え?」

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 06:16:58 ID:VfNiFEmO
>>635
大将というものは、弓鉄砲で討つものではない。ただし、鬼は除く

大将は日頃から

2010年02月21日 00:13

64 名前:後藤又兵衛[sage] 投稿日:2010/02/19(金) 22:20:10 ID:NoXCaDPY
「大将は日頃から礼儀正しく、家来には慈悲の心で接し、欲深くなく、
家来の善し悪しを日頃から見定めてそれに応じた待遇をしないといけないんだ。
戦にあたっては聖賢の教えに従ってさえいれば、なにも怖いものはないな。」




65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/19(金) 22:38:50 ID:/3x0gji0
>>64
小田氏治
「肯けるのう。皆も分かったか?」

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/19(金) 22:40:09 ID:gG5JdssS
>>64
黒田の大殿基準に語るなw

後藤又兵衛出奔の事情

2010年01月12日 00:06

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/10(日) 22:23:01 ID:vMtuMC0Y
有名な話だと思ったけど出てなかったので

黒田長政と言えば、短気かと思えば口の悪い家臣たちの讒言を何だかんだと受け入れたり、
頭のグリグリ回る親父殿にダメ出しされつつ嬉しそうだったり、実はドMな気がしないでもない
大名ですが、
そんな長政と後藤又兵衛基次が仲違いしたのは有名な話
この二人、不遜な又兵衛に長政がついにブチ切れ、と思われがちなんですけども、
どうやら実際のところ、又兵衛の方がやってらんねーと出奔したが本当のところのようです
様々な逸話を見る限り、なんで又兵衛の方がキレんの?と疑問に思わずにいられないのですが、
どうやら次のような事情があったようです

又兵衛の二男・後藤左門基則は長政に小姓として仕えておりました
ある日、長政が催した能楽の宴でのこと、長政は鼓の名手であった基則に鼓を打つように命じます
ところが、基則これを固辞します
自分は武士として長政に仕えているのになんで鼓など打たにゃならんのだと
しかし、長政は許してくれず、鼓を打たされた基則は屈辱のまま無断で城を出て行ってしまいます
父のところに戻った基則は、無断で主君のもとを立ち去った責任を取ろうと腹を切ろうとします
又兵衛は息子の切腹を思い止まらせ、次の日家族揃って黒田家を去ったのでした

以上、長政と能楽が絡むとろくなことにならないという悪い話
それにしても、母里太兵衛(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-613.html)と言い、
鼓の名手の後藤基則と言い、絵心のある黒田一成(例の長政の肖像画描いた人)と言い、
黒田家中は中々のアーティスト揃いで、更に長政が不憫に思えてきます

関連
嫡子を改易し、二男を猿楽の相手にされるなど


602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/10(日) 22:35:33 ID:zS8fvCJ9
長政は何も悪くないぞ、ただちょっと芸術が苦手なだけなんだ!…多分
つか鼓の名手だからこそ頼んだんだろうに、そこまで嫌なことだったのかねえ

>頭のグリグリ回る親父殿にダメ出しされつつ嬉しそうだったり
これちょっと意外、おとーさん大好きっ子?普通嫌いになりそうだけど

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/11(月) 00:13:47 ID:J2MMkGhu
>>601
司馬遼太郎の小説に書いてあったね

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/11(月) 11:20:07 ID:/8u9zG2I
>>602
確か、「殿の伴奏ならともかく芸人の伴奏とかやってらんねー」という理由だったはず。
他に「長男が不行跡で追放されたのを赦してもらえなかったから」とかいう説も。
こうして諸説あるくらい又兵衛の出奔は突然の事だったらしく、長政側も慌てた事だろう。

あと、黒田長政は父親好きだったかは知らないけど、路線対立もないし当時の大名の
親子としては普通に仲がいい方だと思う。

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/11(月) 11:49:16 ID:Wj1WvWv0
達者な芸人の伴奏よりもあの殿の伴奏の方が大変な気がするのは気のせいかもしれないw

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/11(月) 12:08:31 ID:J2MMkGhu
長政、音痴なんだっけ?

雑談・つまり後藤又兵衛こそ真の忠臣

2009年12月17日 00:11

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 00:51:11 ID:f6nbz+Gk
真の忠臣は主人の耳に痛い諫言をする人でしょ

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 01:07:41 ID:hjHzSL3R
つまり後藤又兵衛こそ真の忠臣

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 01:13:44 ID:yPyBxtIA
彼は確かに痛い諫言を行う忠臣だな。

こう、主君の耳に限らず、色んな意味で、だが。

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 01:15:18 ID:ORt1OHN8
又兵衛さんはちょっと違うなあ。
自分を家臣だと考えていたかどうかも疑問だw

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 02:07:24 ID:Tb3g3qSJ
又兵衛はともかく黒田家の皆さんは殿に愛あるダメ出ししまくってるじゃない

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 02:55:17 ID:q7i1u95e
黒田家のの皆さん「あんたは殿様だろ!そんなんでどーすんだよ!!」
又兵衛「プゲラ、お前真性のアホwwwwwww」

てくらい違うからなあ


167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 07:39:43 ID:ydOJIjJG
>>165
まるで出来の悪い甥に接するがごとくの態度だったのかねえ。

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 07:51:34 ID:pzk/xOpS
又兵衛さんは、若殿に対する態度はあれだったけど
大坂の陣では普通に空気読んでいたんだろうか?
このスレのせいで、又兵衛は若殿をおちょくる印象ばかりもつようになっちまったw

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 08:05:32 ID:L6dXeTgO
少なくとも問題行動は記録されてないからなぁ>又兵衛@大阪の陣
普通にNGMS限定だったと思う

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 08:42:50 ID:aAdVUoc5
笑っちゃいけないと思いつつも笑ってしまうよ又兵衛…。

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 10:23:40 ID:qLX5Dvto
卒に母親の如く慕われるとか、こう、五稜郭の土方とも通じる評価があったと思う。
勝ち負けを超えた人生の完結編の表現場所と言う意味で二人は似たような心情だったんだろうか。

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 10:53:27 ID:iuABtgwC
大阪の陣での後藤さんは真性KYな某弟に振り回されてた印象

頭を丸めた黒田長政に、後藤又兵衛

2009年12月06日 00:09

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 22:39:21 ID:uh6mrcPg
黒田長政は豊前一揆に敗れた。そのことで長政は父如水の怒りを買ってしまう。
「申し訳ありません…」
長政は頭を丸めて謹慎した。

ところで一揆鎮圧には後藤又兵衛も従っていたのだが、又兵衛は長政が
頭を丸めたというのに平然としている。
見兼ねた者が長政様が頭を丸めまでしたのにお前はなんだ、と言うと又兵衛は言った。
「一揆ごときに一度負けたぐらいで、いちいち頭を丸められんわ。
要するに次に勝てばいいのであって、その程度のことを気にして戦が出来るかよ」

これを聞いて如水はもっともだと思い、既に坊主になった長政を許した。




891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 23:14:01 ID:Yq33Nbw8
又兵衛が長政を助けた、、だと、、?

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 23:31:06 ID:4ioZWZbQ
自分が坊主頭になりたくなかっただけだろう

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 23:32:57 ID:SNkePOVb
単に空気読んでないだけな気も

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/05(土) 00:31:22 ID:7K24vm+G
>>891-893
あの若殿はその程度のこといちいち気にするから戦が下手なんだよHAHAHAHAHA!!!

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/05(土) 01:09:23 ID:WD4FNGeI
>890
長政を見下してるようにしか思えんw

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/05(土) 08:33:31 ID:p9HRK2CO
>>891
長政が頭を丸めた後で言う辺りいつも通りの又兵衛です

後藤又兵衛と福島正則・悪い話

2008年10月21日 00:07

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/19(日) 23:32:57 ID:14eHSeUh
黒田長政と喧嘩別れをし、出奔した後藤又兵衛。
一旦細川家に頼ろうとするも、長政の猛抗議で出て行かざるを得なくなる。
やがて知り合いを頼って、福島正則の治める広島へと渡った。その時のお話。

福島正則は又兵衛が広島に来ていることを知ると、黒田家からいくら抗議を受けても是非召抱えたい、と思った。
しかし、家臣を通して三万石での召抱えを申し出たが、あっさりと断られた。

それでさらに又兵衛に興味を持った正則は、彼を広島城に呼び出した。

又兵衛が御前に出てくると、正則は長政から送られてきた書状の返書を見せた。それはなんとも、
字の下手糞な物であった。

「黒田家は大禄のお家だが、字の上手なものは召抱えられぬのか」と家臣たちと共に大笑した。

又兵衛が黒田長政と大喧嘩して出奔したことを知る正則は、又兵衛と一緒に長政の事を
笑ってやろうと思ったのだ。

すると又兵衛
「黒田家には多くの家臣があり、字の上手なものも、下手なものもそろっております。
ただ、黒田の家風として、字の上手な書状には上手な字で、逆に字の下手な書状には下手な字で、
返事をお返ししております。」

正則は家臣たちの前で辱められ、顔を真っ赤にしたという。
召抱えの件も、勿論沙汰止みとなった、とか。




819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/19(日) 23:46:35 ID:bBTcXhou
>>818
ゴージャスは名門指向だったんだな
福島みたいな成り上がり+脳味噌筋肉系は最初からお断りだったんだ。

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/20(月) 00:21:27 ID:ZD/8RBGc
家康から播磨一国50万石で寝返れって言われて
速攻で断ったけど評価はうれしいっていったらしいじゃん
まぁ家康はうわさが飛んで仲間われが見たかっただけで
本当にそう評価したわけじゃないけどな

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/20(月) 00:25:46 ID:Emn78q9+
悦に入って大爆笑した後に辱められるとか、フリーフォールだな
恥ずかしさ倍増
これは正則かわいそうw

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/20(月) 00:42:42 ID:OyLl/XEN
グチったらトラにいい加減な対応されるは
イチモツ大名皮肉ったら逆にディスられるは
浮気バレてカミさんに斬られそうになって逃げるは


市松が勝つ逸話はありませんか そうですか(´・ω・`)


825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/20(月) 04:44:29 ID:GasX7xTp
>>819
ゴージャスって?

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/20(月) 12:59:07 ID:q3d8QAog
>>825
正直すまんかった
ついくせで
参照
http://ansokuwww.blog50.fc2.com/blog-entry-303.html#303
http://ansokuwww.blog50.fc2.com/blog-entry-312.html#312