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後藤又兵衛が討死と講ずる事は

2022年03月05日 16:09

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/05(土) 13:53:11.96 ID:3+NMX/vT
或る記(難波戦記カ)に、伊予国の人曰く、以前に他国よし来た軍談の旅客があった。
同国道後に於いて浪速乱(大坂の陣)を談じた。当地の村人たちはこぞってこれを聴いた。

彼等は、始めは信じて群参していたのだが、最後の方にかかると「これは虚談である」として、
皆これを信じなかった。これについてかの旅客は「私は全く虚談を述べていない。どういう理由で
そのように言うのか。」と問うた所、村民はこのように言った

後藤又兵衛については、大阪落城後に当所の温泉に来て、傷を治療したのだ。この事を所の別当が怪しみ
問うた所、その切なる事に好感をもったのか、又兵衛は実を以て答えた。別当は聞いて、その功名を崇み、
かつ、又兵衛の活気に懐き、彼を労り親しんだ。

ところが所の者共これを伝え聞き、公聞を恐れ密かに党を結び、不意に後藤を襲った。
又兵衛基次はこれに立ち向かい、奮迅して数人を斬ると雖も、大勢が打ち囲み、既に縄目の辱に合わんとするに
及び、内に駆け入って自害した。

則ちその首を取り、東武(江戸)に献じた所、御沙汰の上仰せ出された事には、『後藤又兵衛については
道明寺に於いて戦死している。然るを再び後藤の首と言って捧げることは紛らわしい。さりながら
真偽を糺すには及ばず。』との趣にて、その功空しくなった。
その後郷民たちは後藤の霊を恐れ、八幡宮の傍らに新たに祠を立て、九月十三日(八幡宮の例祭は八月十五日
である)、五斗の樽祭といって、この小祠を祀る。

であるのだから、後藤又兵衛が道明寺表において討死と講ずる事は虚事である。然ればその外の事についても
きっと虚事を入れているのだろうから、故に信ずるに足らず。」
と答えた。これに旅客は汗顔して口を噤んだという。

新東鑑

後藤又兵衛の生存伝説について



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殿様というのは、左馬助か

2022年02月18日 16:17

19 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/16(水) 20:53:30.92 ID:viqLlJY4
悪い話スレで塙団右衛門の話が出ていたので後藤又兵衛基次の話を書こうと思う。

愛媛県松前町、後藤又兵衛生存伝説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5158.html


後藤又兵衛が生存しており、旧知の加藤嘉明を頼って伊予へ逃れたという逸話は既に出ているが、
伊予へ逃れた後藤又兵衛加藤嘉明のお話。

1615年(慶長二十年)の大阪夏の陣で大阪城に攻め寄せる徳川家康軍に対して、道明寺の戦いにおいて後藤又兵衛は戦死をしたと伝わる。

しかし当地に伝わる言い伝えでは宮ノ下(現在の愛媛県伊予市)にある長泉寺の住職が伯父であったので、
後藤又兵衛はそこを頼って各地を旅してまわる旅僧の姿となって伊予へと落ち延びてきたという。

そして久万の山中にある岩屋寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町)に隠れ、そこで日々座禅をして過ごしていたという。

ある日のこと、この地を治める加藤嘉明が岩屋寺を訪れることとなり、先走りが寺を訪れ僧達に向かって境内を掃除して清めるように伝えたところ、
この時本堂で座禅を組んでいた又兵衛はこれを聞いてかっと目を見開き

「殿様というのは、左馬助か。」

と、先走りに聞こえる声で呟いた。これを聞いた先走りは無礼な奴だと思ったが、只者ではない雰囲気を放つ又兵衛の様子を見て何も言わずに引き返し、
三坂峠で休憩していた加藤嘉明の前に出ると、このことを報告した。

報告を受けた嘉明は

「もう引き上げじゃ。帰るぞ。」

と言い、岩屋寺へ赴くことなく引き上げたという。その理由は明らかではないが、又兵衛が岩屋寺へ居るのでないかという情報は
その耳にも入っており、親友であった又兵衛を捕えることになるのを忍びなく思った嘉明は引き上げたのではないかとも言われている。

この後又兵衛は伯父のいる長泉寺へ移りそこで地元の人たちと打ち解けこの地で生涯を終えたという。

今では又兵衛のことを書いた碑が長泉寺の境内にあり、その墓といわれるものが長泉寺の下手にある大塚家の屋敷の中にある。
この墓の中には又兵衛が大事にしていた半弓や種子島などもいっしょに葬られてあったという。

なお、又兵衛の笈(旅僧などが、いろいろな物を入れてせおう箱)だけは長泉寺に残されていたともいわれる。

またある言い伝えでは、又兵衛は伯父に迷惑をかけてはいけないと、弟の市郎左衛門の名にかえ、弟になりすまして
松前の筒井に移り住んで妻をもらって帰農したともいう。

そして、重信川の大水で荒れた土地を開いたり水を引くようにしたりして村人のために広い良い田を作ったので、
たいへん喜ばれたともいい、又兵衛夫妻の墓といわれるものが筒井の大智院(伊予郡松前町)にもある。

データベース『えひめの記憶』伊予市誌 四〇、後藤又兵衛 (宮ノ下)より
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/35/view/10150

四国八十八ヶ所霊場 第四十五番札所 岩屋寺
https://shikoku88-iwayaji.com/about.php

\


20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/17(木) 01:22:17.90 ID:SFDxaC0D
岩屋寺の女仙人、弘法大師と術比べしたって聞いたけどそこまでは書いてないようだ
岩窟まではハシゴを登ると行けるけど、5mあるから行く時は気をつけよう

21 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/17(木) 21:03:30.61 ID:NCzx1Yos
>>19
この逸話、又兵衛の五男である後藤吉右衛門基が加藤嘉明に仕えてたという縁からだったりするのかな?
加藤家の会津転封にはついて行かずに伊予に土着して医師になったそうだし。

22 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/17(木) 21:06:36.83 ID:NCzx1Yos
>>21
後藤吉右衛門基芳

城には後藤という鋭将がある

2022年01月01日 17:19

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/01(土) 13:38:14.04 ID:G5eAbucL
大阪冬の陣、大阪方が十一月三十日に天満、船場を自焼して城内へ撤退した時、天満、船場は
高家華麗に甍を並べていたため、火も甚だ盛んであり、明日まで燃え続けた。
この時後藤又兵衛が曰く

「(池田忠継の)備前勢が、この撤退を追撃して天満に入ってくるだろう。そのため壮士たちを
烟の下に伏兵として置いて、敵が侵入すれば不意に発して功名すべき。」旨を下知したため、
勇壮の士がここかしこに伏していたが、備前勢はみだりに近づくような事は無かった。
この予想の相違に対して悉く、後藤が己の武勇を誇って、恣の下知を下していると嘲る色が見えた。
しかし又兵衛は

「何事も時に依っては見積もりが相違するものだ。備前勢が必ず付け入るべき所で、疑義したのには
理由がある。池田忠継の相備に、花房助兵衛(職秀)が未だ存生で来ているのだろか。であれば
彼の意を加えたのであろう。」と言った。

冬の陣の御和睦の後、戸川弥左衛門が後藤又兵衛を招き宴会をした時、又兵衛は聞いた
「今回の戦で、天満、船場の外塁を自焼してその兵を郭の内に引き取った時、どうして
備前、備中の軍勢は城兵を追尾して討たなかったのか。」

弥左衛門曰く
「私の愚兄である肥後守を始め、烟に紛れて付き慕わんと進んだのだが、花房助兵衛がそれを固く制し、
『城には後藤という鋭将がある。恣に追撃して不覚をするべきではない。』
と言った為に、これを討たなかったのだ。」
と答えた。

誠に又兵衛が察したことと相違無かったという。

新東鑑



922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/01(土) 13:59:36.06 ID:oWQyyJs/
慶長十九年十一月三十日は
グレゴリオ暦だと1614年12月30日
2日ずれてたら1月1日だったのが惜しい

「我が君の御運は強し!」

2021年12月27日 16:52

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/27(月) 13:13:00.33 ID:QCMvxcki
大阪冬の陣、今福の戦いでのこと

戦場から川向うに陣していた上杉景勝勢の直江山城守(兼続)は、豊臣勢の中に、部隊を下知している
後藤又兵衛を見つけた

「茜の母衣張で、馬印に黒半月を差して下知しているのは大将分と見えたり!あれを討て!」

そう申すと、若き者共が差し詰めて鉄砲を撃ち掛けた。これに後藤又兵衛の物具にも、弾丸が五、六発
当たり、その中の弾の一つが後藤の左の腕脇を打ちかすった。しかし彼は少しも騒がず、疵を確認して

「我が君の御運は強し!」

と申した。
この言葉を諸軍勢聞いて、「大阪には後藤より他に人無しとする言い分である。」と、これを嘲る者達も
多かったという。

新東鑑



嫡子を改易し、二男を猿楽の相手にされるなど

2021年11月24日 17:19

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/24(水) 16:21:24.98 ID:CiAUbYcD
或る本に、後藤基次(又兵衛)の嫡子左門は、主人(黒田)長政の命に背いて改易させられた。
次男の又市は容色優れ小姓を勤め、また小鼓の上手であったが、博多の祇園神事の能に、
日吉太夫の能の鼓を申し付けられたが、これに又兵衛は立腹した
「嫡子を改易し、二男を猿楽の相手にされるなど心得がたい!」
そう言って遂に国を立ち退いたという。

新東鑑

既出ではありますが出典がなかったので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3462.html




「黒し!者共このように撃て!」

2019年09月18日 17:37

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/18(水) 10:46:21.92 ID:OZO6sRfU
大阪冬の陣の時、木村長門守重成が、信貴野(鴫野)堤にて戦した。
後藤又兵衛基次は重成と関係がよく、それ故に自分の人衆は陣所に残しおき、馬廻り10人ばかりにて
重成の備へ来た。

この時重成勢の足軽は敵に打ちひしがれ、堤の陰に伏して頭も出せない状況であった。これを見た基次は
自分の鉄砲を取ると、堤の上に駆け上がり、立ったまま2発射撃して

「黒(きたな)し!者共このように撃て!」

と辱めた。この勢によって、足軽達も堤の上に登って一斉に射撃したため、今度は敵が却って
打ちひしがれ、堤の陰に隠れた。

基次は左の小指を負傷しており、重成はこれを見て「手を負われたか」と問うと、基次はそれを
鼻紙でおし巻き「(戦場で負傷するのは)我が吉例である」と言った。

重成はそんな基次に対し、しきりに自分の陣所に帰るようにすすめた。その心を察するに、重成は
若武者であり、この度の戦いが、ひとえに基次の指示によると人に言われることを気にする気色である。
これもまた器量であろう。これは重成の従者が後に語ったことである。

(武将感状記)



軍法は、聖人賢人の作法

2018年06月25日 16:53

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/24(日) 21:54:29.29 ID:AYWzaaZT
後藤又兵衛は常にこう話していた
「軍法は、聖人賢人の作法であり、常によく行儀作法をいたし、大将たる人は臣に慈悲深く、
欲を浅く士の吟味よく召し、もし戦が起ころうとしたなら、すぐにその備を作れるように、
よく注意しておくものだと伝わっている。」

(長澤聞書)



38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/25(月) 14:13:22.54 ID:121ckDlk
よく吟味した上で奉公構にしました
(長政)

黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解

2018年01月29日 17:20

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/29(月) 16:03:18.94 ID:lZRCvsBb
黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解


以下は黒田長政が大坂の陣で豊臣側についた後藤又兵衛について釈明した書状。
長いので抜粋&意訳。

 後藤又兵衛のことについて上様(秀忠)に申し上げ条々のこと。

一又兵衛の親が小寺に従って死んだとき、幼少だったので如水が養育しました。
 成人した後、又兵衛の伯父が如水に対し謀反を企んだので追放しました。
 このことで又兵衛の一族にも立ち退くように申し付けました。
 如水は召し返しましたが、側で召し仕えはさせないよう申したところ
 栗山備後に預けて知行百石をつかわした上で、段々と取り立てたため
 又兵衛は家老同然に召し仕えるようになり、領地も豊前(細川家の領地)との
 境目である小隈という城を預けることになりました。そうしたところ
 他家の方々と書状をやり取りするようになり、特に豊前と通じるように
 なったので停止するよう誓紙を取り交わしたのに、やめませんでした。
 このことで黒田家の事情が漏れてしまうので当惑しました。
 また羽柴三左衛門殿(池田輝政)とも内緒で懇意にしていたようです。

一又兵衛とその家来が立ち退いた後、どこに住んだかかはよく分からないのですが
 一、二年した後、羽柴三左衛門殿はとりわけ浪人の為に扶持を与えていたので
 扶持をもらうため故郷の播州に帰ったことを知ったので、幕府の旗本である
 村越茂助、鵜殿兵庫頭の両人をもって、再三奉公構の届けをしたのですが
 ついに同心されず、特に申し分もされなかったので遺恨に存じています。
 三左衛門殿へ拙者(長政)が直接訪ねるのは憚られたので、慶長16年に
 大御所(家康)が(二条城会見の為に)上洛されたとき、村越茂助を通して
 又兵衛のことを追放するよう理をもって申し入れたところ、(家康も)
 御受け合いされたので、三左衛門殿にも訪問を申し入れました。
 しかし去年の夏も、播州から又兵衛が立ち退いた様子はありませんでした。
 (輝政が亡くなった後なので)松平武蔵守殿(池田利隆)に先年の筋目のことを
 申し入れたところ、すぐに又兵衛を追放されました。

一この後池田家臣の滝川豊前、三好丹後に帰参の訴訟をしたところ、ことごとく
 納得されて両人も返事をされたのに、表裏のことを言い出したので又兵衛の
 帰参は叶いませんでした。このことは成瀬隼人、安藤帯刀も存じられています。

 (又兵衛の親類の居所などについて四条あるが省略)

一今度の大坂の不慮で又兵衛が籠城しましたが、勿論意図したことではありません。
 又兵衛の親類は、拙者の下にはおりませんから命令を申し付けることは
 出来ませんでした。これらの趣を上様に申し上げてくださればありがたく思います。
 以上。

卯月八日  黒田筑前守(長政)   
本多佐渡守殿(正信)


又兵衛は池田家にいたとき、池田家臣の三浦氏の娘を妻に迎えていて
大坂の陣のとき2才だった遺児の為勝がのちに鳥取池田家の家臣になっている。


後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは

2016年10月14日 21:10

213 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/14(金) 18:04:55.82 ID:EfRVp88D
後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは

黒田長政が豊前の国人一揆で城井城を攻めた際、反撃を喰らって撤退した際に
殿軍を後藤又兵衛が務めたはずであった。
後に論功賞の際に後藤又兵衛は殿軍を務めたと主張するが
新参者である城戸乗之助が赤い陣羽織を持ち出して自分こそが殿軍であると主張した
その陣羽織は後藤又兵衛の陣羽織であった。
乗之助曰く「又兵衛殿が殿軍であれば自分が陣羽織を拾うはずがない、
陣羽織を拾った自分こそが殿軍である」と主張した。
その事により殿軍は城戸乗之助になった。
この件が原因で黒田長政後藤又兵衛の間に軋轢が出来て
後藤又兵衛の出奔の一因となった。
その後、城戸乗之助黒田長政と大坂に向かう途中で
備後福山付近で行方不明になった。
その後の彼の行方は不明である。



214 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/14(金) 18:33:38.06 ID:EfRVp88D
大事な事なので二度書きました

“亀の甲”

2016年09月29日 12:09

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/29(木) 03:06:32.46 ID:Dciix/Xf
晋州の城を攻める時、黒田長政の士大将・後藤又兵衛基次は“亀の甲”
という車を作り出した。

厚板の箱を拵えて、その中に丈夫な切梁を設けて、石を落とし掛けても
箱が砕けないように対策を講じた。

箱の中へは後藤が入り、棒の棹をさして車輪を箱に仕掛け、進退が自由
に廻るようにして城際へと押し迫り、石垣を崩して、城へと乗り入った。

――『常山紀談』



204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/29(木) 09:04:47.74 ID:4uRgjnu6
なにそのダヴィンチ戦車

後藤基次は見殺しにされたという説がある

2016年08月09日 21:02

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/09(火) 17:52:04.92 ID:l6YB/CQe
大坂の陣、道明寺の戦いにおいて後藤基次が孤立し、討死しましたが
その原因は濃霧で後続の軍が遅れたからだけではなく、見殺しにされたという説があるみたいですね

・いくら霧が発生したとはいえ、半日近く経っても誰も到着しないのは不自然である
・基次は和睦派で主戦派の信繁らと折り合いが良くなかった
・後続隊は本当なら間に合うはずだったが、基次隊からの報告を受けて不利を悟り、穏健派の基次がいなくなるだけならと進軍をさらに遅らせた

以上の理由からだそうなんですがどうなんでしょう?
本当ならいつまで経っても大阪方の仲が悪い話になるかなと思い書き込みました




962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/09(火) 19:46:39.51 ID:aCP8MmRj
それだと配属された将兵はたまったものではない

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/09(火) 23:43:04.22 ID:Zz8FXBR0
スレ的にはそういった逸話が欲しかった
単純にそういう話がしたいなら該当スレでええんじゃないかな

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 01:12:47.60 ID:jGae0GlH
>>963
そちらで改めて聞いてみることにします。失礼しました

基次最後の挨拶

2016年06月28日 15:23

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 22:30:31.39 ID:xIwt/IjX
元和元年五月二日、後藤基次は大和口の大将としてまさに出立する時、『今度は生きて再び
帰ることが無いであろうから、秀頼公に最後のお暇を申し上げよう』と、御広間へ向かい、
速水出来丸(速水甲斐守息子・当時24歳)を通して斯くと言上すると、秀頼も早速に出御し、
「早や、出陣か」
と声をかけた。

基次は謹んで畏まり
「私は不肖の身ではありますが、去年召し出して頂き、直ぐに諸大夫に仰せ付けられ、殊に
大将の号を許された事、弓矢の面目死後の思い出、何事がこれに勝るでしょうか。
であるのに私は、尺寸もこの御恩に対して報いておらず、この事、返す返すも口惜しく思っていました。

この基次、今度は一番に東兵に相当たり、千変万化に戦って、これぞと思う敵と引き組み討ち死にし、
せめてもの忠を泉下に報い奉ろうと決心しています。然らば、今生において御尊顔を拝するのも
これが限りであり、一層名残惜しく存じます。」

さしもの猛き基次も、この時はしきりに涙を拭っていた。秀頼もまた涙を流しながら

「汝の忠貞は感ずるに余りある。私も宿運拙く、いまやこの体になってしまい、一日も安堵の思いなく、
遺恨余りある。しかしこれも、前世からの宿業なのであろう。

汝と真田を私は、我が両翼と思っている。例え討ち死にの覚悟であったとしても必ず、
再びこの城に帰って、私と死を共にするのだ。この事、必ず忘れてはならぬぞ。」

基次はこの上意の有り難さに感涙を流していたが、率然と叫んだ
「天晴!名君の仰せであるかな!今生の望みもこれにて満たされました。上意の趣、畏まり
奉ります。」

そう言って御前に在った傍輩たちにも皆、暇乞いをして広間を立った。
そして襖障子に一種の歌を書き付けた

『主命ぞ 親子も捨つる武士の道 辞ひとつの命もろとも』

これを見る者は皆感動し、世の口碑に刻まれたのである。

(慶元記)



894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 22:51:58.81 ID:KCWhgknx
>>893
このままドラマにできそうなクォリティだ…

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 16:37:08.04 ID:gsTyxJTG
>>893 は実話かなあ?。秀頼の発言が詳しく載っているところをみると
創作だろうけど。

素より蝿虫だと思っていれば気にならぬ

2016年06月22日 17:18

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/22(水) 14:46:53.32 ID:cUFFAOL9
大阪夏の陣直前、後藤基次と大野治長の間で口論となり、一触即発という事態が起きた。
その後基次は真田の陣屋に行き、「今陣中にてかくかくの口論が有った」と伝えた。
真田はこれを聞くと、

「そういう事は人を選ぶべきだ。それを蒼蠅に向かって、後藤殿は大人げない。
蒼蠅という虫は、いかなる貴人高官の首にも上がるが、素より蝿虫だと思っていれば気にならぬ。
だからこそ昔の君子も、悪人を蒼蠅に例えたのだ。

近頃私は、あやつを蒼蠅だと思っているので、奴の行動に対して無念と思わなくなった。
後藤殿は生まれつき堪えられない性分であるから、闘論にも及んだのだろう。
今後はそのようにお心得あるといい。」

これに基次も笑い出し
「仰せ至極である。ただ、戦の出鼻をくじくような言動に腹が立って、若輩のようなことを
言ってしまったのだ。しかし、我々が討ち死にするのも間近なのだから、蝿に出会う機会も
もはや稀であろう。
ああそれにしても、あの蝿を払う唐国団扇があれば、千金を以ってしても求めるのになあ。」

「なあに、おっつけ落城の時は、どんな蒼蠅も駿河団扇によって払われるだろう。」

二人は大いに笑い、基次は宿所へと帰っていった。

(慶元記)



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 10:10:37.15 ID:03GZzFDX
獄門に晒された首に蝿が止まりますがなw
やせ我慢するから九度山いくんだ

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 11:12:23.18 ID:30ZeMVQb
しょせん後藤は陪臣出身、豊家の家老級から見ると見下す対象だったのだろう

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 20:09:32.12 ID:MjtEezd7
大野治長佞臣説は悲しいなあ

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 02:12:15.04 ID:dd6ReUWt
全くだな、本当の佞臣は落城前に逃亡するもんだ。

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 08:15:17.70 ID:bKV/JtHm
片桐「んだんだ」

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 09:55:06.45 ID:bB1GLsRN
>>764
織田宗家のワシを愚弄する気か!

後藤又兵衛は大志ある男である

2016年06月03日 19:48

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/02(木) 11:10:55.75 ID:bO2ktwaZ
 後藤又兵衛は大志ある男である。
初め黒田長政に仕えていたが、長政が筑前を賜って移封したときに、又兵衛が

「このような辺鄙に住んだら大業は成らない」

とのことで、黒田家を辞めて浪人となった。
その後大阪で浪人を集めると聞いて再び秀頼に仕え、
軍利なくてついに討ち死にし身果てた。大志の弊と言うべきか。

 また朝鮮へ初めて諸軍渡って上陸すると、辺民がことごとく逃散して、みな空き家となっていた。
兵卒がその家に入ってみると、壺瓶の類に、酒が満ち溢れていた。
時に誰かが言い出したのだろうか、
「これは毒酒で人を殺す計である。」との噂が流れた。
諸人は聞いて恐れ、飲む者はいなかった。
又兵衛は

「例え何であろうと渇きを凌ぐに十分だ。
もし毒があれば我が一番に飲んで死のう。」

と引き受け引き受け飲んで、

「言葉にできない美味だ」

と舌打ち居たので、諸卒これを視て、我先にと群飲して、益々鋭気を得たという。
世諺にいう毒の試とはこれから始まったという。
(甲子夜話)



終いには頭のてっぺんを削ることになるぞ?

2015年08月11日 14:12

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/11(火) 10:25:51.50 ID:8wQ5baPO
後藤又兵衛基次は黒田如水の家臣であった。

天正15年(1587)、黒田長政が大将となり、後藤又兵衛など大剛の者大勢を動員し、城井谷城の
城井鎮房を攻めたが大敗北を喫し、撤退時に長政は、馬が深田に嵌り込んでしまい動けなくなった。
ここに菅六之助(正利)という大剛の者走りきて

「西国一の名馬であっても、殿の御命に代える事は出来ません!」と長政を馬から下ろし
「早々に退いて下さい。この馬は私が引き上げて後から参ります!」
そう言って自分の馬に長政を乗せ、菅は後に残って馬を何とか引き上げようとしたが上手く行かず、
片鐙を外して持ち帰った。この菅六之助の行為に人々はみな感じ入った。

ちなみに長政が馬を深田に嵌まり込ませた時、最初に通りかかった後藤又兵衛に声をかけたが、
又兵衛は知らぬ顔で通り過ぎた。

さて、この戦では如水の下知を用いずに敗軍したため、物頭などは恐れて寺に入り、或いは元結を切り落として
出仕を止め引き篭もったが、後藤又兵衛一人は常のごとく出仕のため登城した。

そこで人々が又兵衛に「じ、如水公の御機嫌はいかがだろか!?」と心配したが、又兵衛は大いに笑い

「主君の怒りを恐れて引きこもるような者は忠臣ではない!殊に戦の習い、勝つも負けるも常のことなのだから、
その度に髻を切るのなら、終いには頭のてっぺんを削ることになるぞ?さてもさても小気な事だ。
我らが主人は、そのような小気ではないぞ。」

そういって出仕した所、如水の機嫌も治った。これを見て長政初め皆々も如水の前に出仕した。

(明良洪範)




170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/11(火) 10:47:26.97 ID:SpSvfI1H
このあと又兵衛は死にかけるのか

にしても相変わらず長政には素っ気ないなあ

中間六右衛門と後藤又兵衛

2014年05月20日 18:55

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 00:03:46.95 ID:JesdULt1
黒田六端城の一つ、松尾城(福岡県朝倉市)の城主は、豊前の国人出身の
中間六右衛門だった。

大隈城主の後藤又兵衛は中間と懇意で、たびたび訪問する仲であった。

街道筋から城下へ向かう途中の橋は、「後藤一本橋」と呼ばれる。



重臣同士が仲良しで密会しまくりって、大名には怖いわな。




976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 00:12:50.53 ID:W29iPA9Q
引用元くれ

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 01:04:35.13 ID:JesdULt1
>>976
975の?
出典は『福岡県地域史研究 No.13』
「伝承では」と。

「はつの槍は長いねえ」

2014年04月20日 18:47

21 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/19(土) 18:40:33.53 ID:4D7S36vy
又兵衛には無かったけど、長政で既出だったらゴメン。

黒田一成は童名を「はつ」といい、黒田長政の寵童だった。
城井を攻めた時のこと、総軍が退却する中、はつは残り槍を合わせたという。
奇特なりと長政が褒めるのを聞いた後藤又兵衛はかげで
「はつの槍は長いねえ。一里八町くらいあるんじゃないの?」
と笑っていたという。




22 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/04/20(日) 07:15:54.19 ID:VScin6KQ
シーモネーターMTBか

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 10:38:21.90 ID:dXauvDAG
又兵衛って友達いなさそうな奴だな

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 10:44:38.34 ID:bMKM8+U8
そいつも逃げたのに長政から褒められたから「逃げながら攻撃できるなんて長い槍だねw」て嫌みを言われたんじゃなかったっけ?

25 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/20(日) 11:28:11.77 ID:QyIRPes1
この面倒臭さは、どっかの家臣団と・・・

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 13:46:52.91 ID:/kUM2KEe
主君に向かってたわけ!とかいいかねないなここも

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 19:13:47.68 ID:wxeGH0tc
こんな感じ悪い奴、戦の無いご時世じゃ奉公構するまでもなくどこの家でも続かないんじゃ…

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 21:57:28.17 ID:Isu6luxe
>>25
某家臣団は「戦わずに逃げてくんじゃねぇよ!」だけど
長政憎しで命かけて戦ってる人間にこの物言いはなぁ…

29 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/04/20(日) 23:17:49.16 ID:VScin6KQ
後藤又兵衛さんはメンヘラ女よろしく、メンヘラ武士だった可能性が微レ存?
GT-MTB「やだ、わたしngmsにストーカーされてる?」
黒田家一同「ねーよ!」

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 23:59:52.58 ID:IJl7NddY
ブラック家中ですね

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 00:18:05.04 ID:xliIxot8
又兵衛は如水の息子みたいなもんで、
長政は弟みたいな扱いなんだろ

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 00:36:46.17 ID:Gj8yUMWz
しかしそんな又兵衛さんも色んなとこからラブコールかかってたよね
これも憎まれっ子世に憚る、か

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 00:39:59.67 ID:7mhr5a/9
黒田だけにブラックユーモア

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 01:59:21.72 ID:5YRmUs0n
才気あふれるがゆえに鼻持ちならないタイプだったのかもね

[ 続きを読む ]

後藤又兵衛さんとその馬取

2013年11月22日 18:55

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 04:34:06.38 ID:20PsjIhU
天正15年(1587)4月10日、豊臣秀吉による九州征伐が進む中、当時20歳の黒田長政を主将とする
部隊が島津の支城のある日向の財部という場所へ威力偵察に出、そこで伏兵と交戦する、という
事があった。

さて、この時黒田軍の後藤又兵衛は川中で敵と戦い、馬上で組んでそのまま落ち、
上に下にと組み戦ったが、敵が大力であったため終に又兵衛は組み伏せられ、
もはや危うし、という所に、又兵衛の馬取が一人、彼を助け敵を引き剥がした。

これで息を吹き返した又兵衛は、逆に敵に乗りかかり、終に討取ったのである。

又兵衛は、馬取に命を助けられたのみならず、敵を討って高名までしたので、
帰陣の後は、あの馬取を思い切って取り立てよう、そう考えていた。

ところが、下臈というものは心拙いものである。馬取はその陣中において、又兵衛の刀脇差しを
盗みとって逐電してしまった。

(黒田家譜)

途中までいい話だったのに最後が台無しな、後藤又兵衛さんとその馬取という逸話である。




853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 04:49:40.36 ID:ZLFQ2qF4
取り立てられてもせいぜい十石程度だろうし数百貫しそうな刀の方がいいわな

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 11:07:36.20 ID:eZ0Ts2P3
本当に台無しだなw

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 11:11:36.29 ID:c4vXImvu
馬取=バッテリー説

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 11:29:39.82 ID:r3ElO6WV
そんな脇差売ってって足がついたりしなかったのかな。無名武士の脇差なんてたかがしれてるのか。

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 11:40:20.34 ID:nT5ZDr8X
>>853
命の代金と考えれば刀で済んで安かったかもしれんな

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 12:39:51.14 ID:oHl62Yrp
自分は川で手助けされたのに、その後、似た状況で主は放っておくのか…

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 13:15:25.58 ID:5eJrhHWV
しかも、敵地オブ敵地で、敵もわけわからない外人相手

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 17:05:51.09 ID:2+NBOUPX
又兵衛って人を見る目がないんじゃないの?

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 17:44:37.71 ID:LJohxIe6
>>858
又兵衛「逐電されたくないだろ?(ニヤニヤ」

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 17:45:45.89 ID:eZ0Ts2P3
池田家からも問題起こして追放される人物ですのでご勘弁ください。

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 19:23:38.89 ID:vOZOTJx3
馬取は余計なことしやがってって言われて下手したら殺されると思って逃げ出したんじゃねーの

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 20:20:56.43 ID:2ljH09UW
あの野郎、馬取りから刀脇差取りにクラスチェンジしやがった

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 20:25:47.37 ID:iqeEimrD
褒美はすぐにくれてやれって誰ぞ言ってたな。
命助けてやったのに褒美くれないなんて!!って思ったとか。
でもケチな逸話は上がってなかった筈・・・。あの性格が嫌になった?(ヒドイ

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/22(金) 20:35:51.96 ID:XNP/O2IU
この逸話を契機に周りに対して優しくなった又兵衛。
※ただし、長政は除く

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 15:02:18.71 ID:DtPV0SS+
譜代の家臣の前でも大切な物を出し入れするところを見せてはならぬだね

「鉄砲はこうやって撃つんだよ!!」

2013年03月03日 19:01

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 00:24:44.72 ID:SOYj+wSV
大阪冬の陣、今福の戦いでのことである。

今福・鴫野での幕府方・佐竹義宣勢の攻勢を、大阪方・木村重成勢はなんとか食い止めたものの、
戦況は膠着し、木村勢は再び押され始めた。

これを大阪城から見ていた豊臣秀頼は驚き、側にあった後藤基次に、早急に木村の救援に行くよう命ずる。
後藤は畏まり、その場から直に陣屋の組衆に、直ぐに蒲生堤へ来るよう使いを出し、自身は具足を
持ってこさせ馳せて天満橋近辺に至ると、そこには既に大野修理勢が武装して乗り付けていた。
後藤もその陣屋において武装を固め、今福堤に駆けつけた。

到着すると後藤は木村重成に対面し、
「今朝からの御働きですが、そろそろその気力も尽きる頃と思います。ここは私が
入れ替わりましょう。」
と申し述べる。しかし木村は

「この重成にとって今日が初陣です。その上、特に只今こそ勝負肝要の時と見えます!
こんな時にそれと替わろうとするなど、後藤殿には大人気ないではありませんか!
かつ、今人数を入れ替えれば備が崩れる危険性もあります。

そもそも貴殿は老巧の武将であり、私は初陣です。であるので、今しばらくこのまま御覧になっていて
頂きたい!」

この木村の気迫に後藤も感服し、「申されるものかな。ならば私は後陣に詰めよう」と言って
下がろうとしたが、その時四方を見ると、堤の下では木村重成の足軽たちが、敵の射撃を受けて
堤の陰に伏し隠れたまま、頭も出せないような有様であった。

すると後藤は馬から降り、従者に持たせた鉄砲を鉄砲を取って、体を堤の上に伸び上げ、
立ったまま2発射撃し叫んだ

「土の上に這いつくばって黒くなっている者共!鉄砲はこうやって撃つんだよ!!」

この恥ずかしめにカッとした足軽たちは、競って堤の上に登って一斉に撃ち立てれば、
敵のほうが逆に堤の陰に伏せ隠れた。

この時、後藤は左の小指に少し負傷しているのを木村重成が見つけ、「手傷を負われましたね」
と問うと、後藤は鼻紙を出して負傷箇所を巻いて

「合戦で小傷を負うのは、私の吉例ですよ。」

そう、笑って答えた。

「それはともかく、後藤殿は陣所に帰ってください!」木村はそうしきりに進めた。

これは木村重成が若武者であり、後で陣を後藤基次に取り替わられたと人に言われてはならないと
偏に考えたためだ。という。
(慶元記)




603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 04:43:51.73 ID:M6d0l7GH
>鉄砲を鉄砲を取って、体を堤の上に伸び上げ、
>立ったまま2発射撃し叫んだ

両手でガンマン風に射撃を行う又兵衛さんが頭に浮かんだ。

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 17:31:13.82 ID:4zA/UW2P
木村重成って堀久のイメージしかない
生まれてくるの遅すぎたね

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 17:34:37.01 ID:U8qpeY/a
名人Qちゃんと橙を一緒にするなよ

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 17:35:40.04 ID:JtyqrRGR
>>615
橙は薄田兼相や

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 18:20:42.91 ID:jbCCpV3U
Qちゃんの肖像画は修正液で上から適当に書き直したみたいな顔しかないの?

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 18:39:22.34 ID:4zA/UW2P
きっとおばあちゃんが書き直したんだよ

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 18:41:09.12 ID:48+26OS0
どこのスペイン人のババアだよw


後藤又兵衛「長政を討ち取る手立て」

2011年10月14日 22:04

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 00:21:38.30 ID:qiWzl/TZ
さて
>>266
の逸話で細川家から上方に上る事となった後藤又兵衛。彼は忠興への暇乞いのため数寄屋にて茶を立て
忠興に振舞った。この時細川家重臣たる有吉頼母、松井佐渡もご相伴をした。

茶を飲み終わると、忠興は又兵衛の方を向いて

「我々が黒田長政と仲を悪くして数年になるが、今回そなたの事でさらに遺恨深い関係になってしまった以上、
仮に世が乱れれば長政とは必ず一戦をすることとなるだろう。
その方はつい先日まで黒田の家人であったのだから、長政家中の利害得失、皆知っているであろう。
我々が長政と戦って勝つべき方法があれば、是非教えていただきたい。」

又兵衛、これを聞くと
「その事であれば、例えお尋ねがなくても私の方で申し上げようと考えていました。
まず、細川のお家と黒田家が合戦した場合を考えるに、互いに加勢が無く正面からぶつかる形の御一戦ならば、
これはどうしても細川家が負けるでしょう。その理由は、細川家のほうが黒田家に比べて御小身であるからです。
長政は大国を領しており、身上が違う以上、どうしても大勢と少勢では、大勢のほうが勝つからです。

そうではありますが、長政を討ち取る手立てはあります。実に簡単なことです。
ここに松井殿、有吉殿もいらっしゃる。これを良く聞いておいていただきたい。

明日にも長政と一戦する、という状況になれば、何の謀り事も要りません。
鉄砲隊50挺に申し付け、構わずに敵の先頭をやってくる槍前槍脇をとにかく御撃ちなさい。
五人も撃ち倒せば、真っ先では無いかも知れませんが、二人目か三人目には、長政を討ち留める事でしょう。

黒田長政という人は天性剛強な生まれつきで、どんな合戦でも先手に出、物脇の二人目か三人目にあって
諸士と先を争う将であるので、この先陣争いの連中を御討ちなされば、そのまま安々と黒田長政
御討ちになれる、と言うことなのです。」

そう申し上げると退出した。


後で、細川忠興を初め細川家の諸人、
後藤又兵衛黒田長政に多くの不満があって黒田家を立ち退いたというのに、古主を悪く言うように見えて、
実は古主の武威を語っていた。忠義の厚い、見事な侍である』
と、彼を大いに褒め讃えたとのことである。
(武隠叢話)


はたして本当に古主の武威を語るつもりで言ったのだろうか?




275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 00:46:38.54 ID:54mrlsiU
実際は細川家との内通を疑われた又兵衛が
家中で孤立してトラブル起こして出ていったっぽいけどねえ
それっぽい書状が残っているけど、今手元にないわ

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 00:59:12.62 ID:0VJbP9eh
というか>>274みたいな内部機密漏洩防止のために
全大名承知の上の奉公構って側面はあるだろうにね

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 02:12:05.24 ID:eJwVDxtz
忠興は褒めてくれたけど、内心どう思っているのやら
空気あえて読まない又兵衛らしい逸話

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 03:29:11.02 ID:ZwZHh5ih
いつものように長政をディスったら、勝手にいい話にされたのかw

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 07:50:57.94 ID:GEh1QZnj
馬鹿みたいに先陣切って突っ込んでくるから鉄砲でイチコロ。と言ってるようにしか見えん

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 10:35:16.41 ID:eLvfGU0e
秀吉も先頭の奴討ち取ればそれが蒲生工場長だって言ってたよな。でもって討ち取った最後の一人が信長公だとも。

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 14:28:43.35 ID:npfWrfyo
信長をディスってる秀吉さんかっけぇ

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 16:07:57.32 ID:bLtJPFvW
鮭「でもなあ・・・先頭切っていきたいんだお」

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 22:38:06.99 ID:wOrox7f6
>>274
あ、ちょっと質問です。
そもそも、黒田長政細川忠興の不仲の原因はなんなんでしょ?
あと、のちに熊本細川家のほうが禄高が高くなるけど、家格は逆転したと考えていいの?

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 22:44:43.03 ID:wGypJaBI
もともと細川のが格は上?
細川は室町の幕臣
黒田は赤松の家老のイメージがあるけど

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 23:00:02.65 ID:IQJ/dYpQ
>>293
横レスだけど、1600年の関ヶ原の後の国替えで、豊前にいた黒田家が筑前に移る際、移ってくる細川家に対し
当時通例とされた半分残すこと無く年貢米を全部持っていった事が発端。
そして細川家はこれに抗議したのだが、交渉の途中で関門海峡にあった黒田家の廻米船を拿捕しようとする
動きに出て、これで双方こじれにこじれ合戦直前まで行ったが、片桐且元と山内一豊の仲介でなんとか
合戦だけは免れたが、これ以後お互いを仇敵視するようになる。

ぶっちゃけ後藤又兵衛の件も、どうも裏で細川家が後藤の出奔を煽ったフシがある。

あと、細川黒田の家格だが、細川の熊本移封後も、官位は双方従四位下、大広間詰めの国持十八家として
扱われているので、どちらも同格であったと考えていいかと。
299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 23:46:04.99 ID:eKNxzUNy
>>280
ちょっと違う。

工場長は最初の100人も打ち倒せばその中に必ず混ざってる。
信長公は1万の軍勢を全て打ちとっても必ず逃げ落ちている。

つーことで、信長のいざという時の危機対応能力を褒めてるんだぜ、>>281

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 01:10:04.52 ID:uwwizQl0
>>295
赤松の家老???
黒田は赤松の分家の小寺の家老だが、
官兵衛の祖父は目薬売りながら近江から出てきた浪人だからはるかに格下

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 09:19:14.37 ID:lOHo2zja
>>299
逃げるだけ逃げて最後は家臣に殺されるんだから真似しちゃだめだね

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 09:20:43.31 ID:WFv32hos
そこは、最後も逃げなきゃだめだよね^^ って纏めるべきじゃね?

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 10:10:11.11 ID:depDgVoq
前線じゃないと細かい指示がしづらいから前にでるしかなかったのかねえ

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 12:05:10.91 ID:MFv7M0Z8
その辺は本人の性格と部隊の統制力によってくるんでないのかな

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 12:28:42.80 ID:KpeoHZ++
相手が光秀ってことであきらめたみたいな話はよく聞くけど、実際のとこはどうなんだろね~

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 13:22:33.61 ID:JV2vMcU4
侍大将になっても足軽大将のころの癖が抜けない人も多そう

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 13:49:47.66 ID:qaTa/95F
>>306
信長の場合取り逃がすと次は数倍の兵力で押し寄せて来る

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 14:02:20.86 ID:xxZC7+RP
ゴキブリみたいな奴だな

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 14:02:49.11 ID:KpeoHZ++
3倍返しが基本の信長さんかっ!

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 14:36:35.15 ID:uB4Q2PYD
>>297
こんなとこでも片桐且元さんは苦労してるのだな

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 16:02:42.43 ID:pYsmBBX6
>>311
後方で夜討ちの指揮に専念したら
昔の僚友に「らしくねえな、刀折れるほど戦ってこそ武人だろ」って面会拒否られて
次の戦では一番に突撃して戦死した人もいたな