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木村重成の首実検

2022年03月11日 16:33

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/11(金) 11:22:45.21 ID:syA2p2iq
大坂夏の陣、慶長二十年五月六日の八尾・若江の戦いの後、大御所(徳川家康)の元に井伊直孝より、
大阪方の木村長門守(重成)、山口左馬介、内藤新十郎等の首がもたらされ献上された。
大御所は移動中であったが、平岡の一里ほど前にて御駕籠を止められ、それらの首を上覧された。

この時、木村重成の首からは甚だ香が薫じており、大御所の仰せに
「若輩なる長門守がかかる行跡、稀代の勇士、不憫の次第である。」
と宣われた。

記(難波戦記)に、この時大御所の近臣達は木村のことを評し、
「長門守は所労(病気)であったとの聞こえがあるが。今日も死を決意していなかったのだろうか、
月代を剃っていない」と、口々に申したのを、家康公は聞き召され

「月代には因るべからず。既に忍の緒を真結びにして、両端を切って捨てている。これは再びこの兜を
脱がないという心底であり、討死と極めていたという事である。汝らが申し分、無検議である。」
と仰せられたという。

或る本に、木村は討死の前日風呂に入り髪を洗い、頭に伽羅を留め、江口の曲舞なる、紅花の春の朝と謳い、
余念なく小鼓を打ったが、今日大御所は首実検をなされ涙を流され

「この若者は討死を決意し、髪に香を留めながら、月代を剃らなかったのだ。」
(此若者討死を極め、髪に香を留め乍ら、月代を剃らざりし)

と仰せに成られた。この時、重成の髪を梳き香を焼いた女は、江戸に於いて木原意運という外科医の伯母で
あり、常にこの事を語っていたという。

或る記に、長門守木村重成の墓は、河内国若江郡西郡村に有り、山口重政の墓と隣り合っているという。
木村の父は常陸介、母は豊臣秀頼公の乳母であった。
重成、時に二十五歳であったという。

新東鑑

木村重成の首実検について



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若者、不心得なり。鑓にて突けよ。

2022年03月09日 16:56

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/08(火) 23:15:03.98 ID:IBiCeP5d
ある説に、大坂夏の陣、慶長二十年五月六日の八尾・若江の戦いにおいて木村重成は多く疵を被り、
太刀を杖について、腰掛けて休息していたところに、井伊家家臣である安藤長三郎(重勝・この時十七歳))が
駆け来た。
彼は木村が疲れている様子を見て、持っていた鑓をからりと投げ捨て、太刀を抜いて迫ろうとした。
この時、木村が申した

「若者、不心得なり。鑓にて突けよ。」

そう言った所、安藤はすかさず、鑓を持って懸かった所、木村は少しも動ぜずして討たれたという。
(或る本に、首の取りようは、先ず鑓を以て右の脇壺を突き、次に刀を以て脇の下を突いて、俯せ
引き倒すものであるという)

新東鑑

木村重成の最後について



82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/08(火) 23:51:48.72 ID:JiUCPh2t
秀頼の乳母兄弟だから木村重成このときで23前後か、若者と言ってる人も若いよね

最初に片桐が申していた所

2022年01月20日 19:06

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/20(木) 15:07:22.97 ID:sapmit/h
一本に、(慶長十九年)十二月十六日、大阪冬の陣において大御所(家康)の下知として、備前島
菅沼織部正の寄せ口より、大銃百挺を揃え城中に打ち入れた。その他玉造口の寄場よりも、大阪城の
千畳敷を目当てに大銃を発した所、即ち淀殿の屋形の内三の間に女中多く集まって居たのだが、
そこに弾落ちて茶箪笥を打ち砕いた。女中各々肝を消し、淀殿の御居間も震え動いた。

淀殿は流石に女性であったので、その砌より御心弱くなられ、御和談の為なら江戸にも御下向あるべしと
仰せに成られたため、これを織田有楽、大野修理(治長)承り、秀頼公に段々と諌めたのであるが、
御承引無かった。この上は出頭の近臣に諫言致させるのが然るべしと、その人選をしたが、渡辺内蔵助(糺)は、
去る鴨野合戦以来不首尾であり、また薄田隼人正は日頃の広言に似合わぬと、城中の沙汰悪しきにより、
木村長門守(重成)宜しかるべしと、この趣を申したが、重成は承諾しなかった。

「今、各々の宣う所は、最初に片桐(且元)が申していた所です。只今に至って左様の儀、
この重成には申し上げることは出来ません。各々両所が股肱の臣として、左様に惑われる事に、
御運の末を嘆き入り奉る。」

との旨を述べると、両人も汗顔赤面して、重ねての言葉もなかった。

その後淀殿より色々仰せ進められたため、ようやく秀頼公も、御和談の評議を行ったという。

新東鑑



284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/20(木) 18:43:36.01 ID:M79NcYgQ
女に口出しさせたのと、大野の無能がな・・

大坂との御誓詞の御取り替え

2019年07月20日 16:05

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 19:24:59.07 ID:jR8ot1a1
大坂と御和睦が調った折に御誓詞の御取り替えがあり、大坂方より木村長門守(重成)と
郡主馬(宗保)が御血判拝領の御使者にやって来た。

その折に両人は御次の間におり、顔を出すまでで退いたそうで御威光に恐れたのだという。
こちらからは板倉内膳正(重昌)が遣わされた。

(原注:世上では両人が御前を憚らなかったと申すが、その折に村越茂助道半(吉勝。道
伴)が御前に詰めておられて見申されたという。木村は色白い大男で羽織袴だった。郡は
60歳程の小男で、黒羽二重の袖無し羽織を着用していたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



御感状お望みのことは

2017年05月01日 10:40

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/01(月) 00:27:19.55 ID:L1hYyx9y
ある人が語ったことだが、大阪の陣の折、大野主馬の部隊が夜討ちをして戦功のあった時、
主馬は自身の首尾よろしき段を、秀頼に木村長門守(重成)に取りなしをしてもらい、自身に
感状が頂けるようにと要望した。

長門守はその時は良いように会釈したが、後で主馬を密かに呼んで言った

「先程の御感状ご所望の事、言われるまでもなく今回の武功は上様もよくご存じですから、
下されること相違ないでしょう。

ただし、私が思うに、あなたの御身分の上に感状を頂いて、一体誰にそれを披露するおつもりなのでしょうか?
匹夫独身の者は、重ねてまた、他の主人に仕える時、自らの名誉としてこれを差出します。

しかしあなたは、現在上様の為に、あなたご自身もご兄弟も、股肱羽翼の補佐をされています。
そのような人が功成り名を遂げられる事について、一体誰がそれを争うというのでしょうか。

あなたについては、御感状お望みのことは、ご遠慮すべきだと思います。」

この言葉を聞くと主馬は大いに恥じ、重ねて云うべき言葉もなかったという。

これが実際にあった話なのかどうかは解らないが、その考え方自体は尤もというべきであろう。

(士談)



872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/01(月) 08:06:31.51 ID:E0sFo8f5
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8076.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2962.html
出典は違うのが何度か出てたようだ

髪に伽羅を

2017年03月13日 09:34

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/13(月) 07:24:37.86 ID:ZXvx5ar4
 秀頼公の乳母子木村長門守(重成)は忠義の士で、二十三歳で忠死をとげた。
かねて討死を心掛けていたので、髪に伽羅をとめていた。
安藤長三郎がその首を挙げまして、家康公が御覧になられました。
空焼きの匂いをかがれて、
「いつの間にかような心付きをしたのか。殊勝な若造だ。」
と上意があったとのことだ。

『武士としては』


二人ともあきれ果てた

2016年04月04日 17:43

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/03(日) 15:18:51.96 ID:s1yGAbCK
大坂城の女中が集まる三の間に大砲の弾が撃ち込まれ茶箪笥を打砕き、淀殿の居間まで悲鳴が聞こえるようになるにつけ、
淀殿の口も和らぎ、織田有楽斎、大野修理へ「何卒和談を取り付けたい、秀頼の為なら自分が江戸へ下向してもいい」と言ったが、
秀頼が承知せず、この上は近臣の出頭の者に諫言させようと相談した。

渡辺内蔵助は鴫野の一戦以後秀頼の前を損し、
薄田隼人も博労淵の出曲輪を取られ、日頃の力量自慢ほどではないと城中のひとに取沙汰されているのを恥じて万事控えめになっている。
木村重成は後藤又兵衛が今福の戦いを秀頼に報告し、以前の倍も信頼を受けている、木村から言ってもらうのがいいだろう、と
有楽斎、大野が木村を招いて、和談の上淀殿を江戸へ差し出すことを秀頼へ提言するように言ったが、これを聞いた木村は
「今の話は片桐が最初に話したことと少しも違いはなく、今さらそのような申し上げはできない。
各々に幾度でも言うが、このような次第になったのは畢竟秀頼さまのご運の末と嘆くほかない」
と言うので、二人ともあきれ果てた。
その後後藤から強く申し付けたことで秀頼も得心し、和議の相談が進むようになった。
この話は難波戦記等にはないが、牧尾是休斎が語ったことである。

落穂集から抜粋

木村重成がいかにも若いな~って感じだ



木村重成の首

2015年03月29日 15:36

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 18:45:15.56 ID:r6orwAxz
大阪夏の陣、井伊直孝の部隊の先鋒であった庵原助右衛門は木村長門守重成の部隊と戦い、
乱軍と成って重成が馬を乗り放ちにし鑓を持って進んできたのを、庵原は二間(訳3.6メートル)ほどの
足元の沼を隔てて鑓を合わせた。

庵原はその十文字鑓を重成の母衣に突き込み、前に引き倒そうとした。
重成は自身の鑓を庵原が立っている岸に突き立て、引き倒されまいと争った。
しかし庵原が強く引くと、重成は遂に沼にうつ伏せに引き倒された。
その時、庵原の家来たちが飛びかかり重成を取り押さえて首を取った。

と、ここに安藤長三郎が走りきて庵原に声をかけた
「私は未だ首一つも取っていません。その首を頂けないでしょうか!?」

庵原はこれを聞いて
「若者にしては奇特な心掛けである。ではこの首は進上いたそう。
この敵、木村長門守と名乗ったが、長門ではないかもしれず、たとえ本物の長門の首であっても、
私はこの首一つにて名を揚げるつもりもない。

大阪も、今日明日で落着しよう。であれば貴殿も、これほどの首を再び取り当たることは
無いだろう。急ぎ大御所の御実検に供えられよ。」

安藤は大いに喜び、首を持って行こうとしたが、ここで庵原は彼を呼び返して
「大御所は至って御吟味の強き大将である。母衣武者の首を取って母衣を首に添えない時は
御非難を受けるぞ!この母衣絹、太刀、脇差まで共々持って行くべし」
そう言って皆取り束ねて渡したが、庵原の家来たちは「せめてこれだけはこの方に残したい」と、
白熊( 白熊(はぐま)の毛で作った払子)のついた金の捻り竹の指物は、押さえて渡さなかった。
この一品は、後に庵原の家の什物となったという。

安藤長三郎は重成の首を本陣に持って行き家康の実検に備えると、正しく長門守の首であり、
若き者の天晴な功名であると、戦い終わった後、安藤を伏見城に召して五代青江の刀を与えたという。

(刀剣談)



黒一点と白一点

2014年08月09日 18:55

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 01:44:38.52 ID:Q0m9MiZp
黒一点と白一点

大坂夏の陣八尾若江の戦いは大乱戦となり徳川方の阿部正次が
「味方は長期の遠征故、肌は黒く焼け物具も汚れておる、大坂方は肌色も白く物具も綺麗なままだ、それを目印に討ち取れ」
と馬に乗り触れ回ったほどだ。

そんな乱戦の中、戦死した木村重成の家臣青木七左衛門長屋平太夫の二人は運悪く敵である徳川方の部隊の中に紛れ込んでしまった。
数多ある他の部隊ならば、なんとかやり過ごし脱出の機会を窺う事も出来ただろうが、更に運の悪い事に二人が紛れ込んだ徳川方の部隊
とは、よりにもよってあの井伊直政直孝の部隊であった。
全身を赤で固めた部隊の中に黒母衣と白母衣が一点ずつ…たちまち赤い槍衾に囲まれた二人は生け捕りにされた。

覚悟を決めた両名は家康の前に引き出されると、まずは長屋平太夫
「今福にて一番槍を合わせたり」
と名乗れば、続いて青木も
「今日、西郡にて一番首を取たり」
と名乗った。
すると、この二人の剛の者の境遇をあわれと思った家康は二人を許し美濃にそれぞれ500石の禄を与え召抱えた。

(常山紀談)




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 01:59:29.15 ID:hrpJQAeq
>>475
赤牛の方じゃね

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 02:06:08.60 ID:Q0m9MiZp
>>476
誤記したンゴ…

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 08:54:24.12 ID:yB2evRQ/
>ンゴ…

こんなところでもか…

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 11:20:47.68 ID:323CKrqB
誤記し丹後

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/09(土) 12:03:57.38 ID:At0gwloN
丹波の赤鬼『呼ばれたと思ったら丹後だった』

大野治房と感状

2013年12月01日 19:16

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 23:03:56.92 ID:mad9NJaP
大野治房と感状

大阪冬の陣において大野治房の部下である塙直之蜂須賀至鎮の陣を夜襲して功名があった。
治房は感状を欲し木村重成に口添えしてもらおうと重成を訪ねた。

治房「(後藤又兵衛に教えてもらった策で)夜襲が大成功したんだけど感状が出るよう周旋してくれない?」

重成「秀頼様にもよく聞こえた功名ならば、感状は間違いなくいただけるでしょう。ですが
   貴殿は感状をいただいて誰に披露するおつもりですか?」
  「一本槍の武士ならば他国の主君に奉公するときの眉目にすべきでしょうが、大野兄弟は大阪の老臣ですので
   君主と存亡を共にすべき人です。何の為の感状ですか?」

これを聞いて治房は恥じて言葉を無くしたという。

(武人百話)





木村重成、行方不明になった大井何右衛門を

2010年08月22日 00:01

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 19:03:41 ID:S858GWjf
木村重成の格好良い話

木村重成の武者奉行大井何右衛門は剛勇で知られ、池田家をはじめ
多くの諸侯から仕官の誘いがあったという武勇の士だった。

慶長十九年十一月二十六日、木村隊は今福堤で佐竹隊と激突、何右衛門もこの戦が初陣だった主君を支え奮闘し
木村隊は佐竹家重臣渋江内膳政光を討ち取り、佐竹先鋒隊を潰走させる戦果をあげたのだが
この戦いの途中、何右衛門は行方不明になってしまう。
重成は戦場に引き返し何右衛門を探した。
やがて何右衛門は見つかったのだが彼は致命傷を負っており、歩行も不可能になっていた。

さらにタイミングの悪いことに堀尾忠晴が重成を討つため攻撃を仕掛けてきた。
何右衛門は自分を見捨てて早く逃げるよう伝えたが、重成は
「ここにきて見捨てるくらいならば、最初から助けになど来ない!!」
と答え、自ら陣頭に立って堀尾隊に切り込んだ。
これを見た木村隊三十余名は奮起し、数で勝る堀尾勢に対し奮戦。
最後は重成自身が殿となって退却した。
その勇姿には敵味方とも感嘆したという。

そして何右衛門は無事帰陣した後、主君等に見守られつつ、間もなく息を引き取った。




742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 20:47:37 ID:Pio0gt+Y
重成はこういうカッコいい話が似合うよな…

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 20:56:47 ID:6v3+Qz92
ちょっと宗茂に通じるところあるよね

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 22:00:18 ID:tZUQdcf8
イケメンだしな

木村重成、気遣う

2010年01月25日 00:08

279 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/24(日) 21:05:16 ID:VnfTvrBp
既出かもしれませんが、
投下いたします

慶長十九(1614)年のいわゆる冬の陣の事である。
12月13日のこと、
東軍が重成の持ち場に鬨(とき)の声を揚げて攻めかかってきた。
重成は櫓に登って一見した後、真田幸村に会ってこう言った。
「今、私の持ち場に攻め寄せてきた関東勢の旗の紋は六文銭です。きっと御一家なんでしょう。
それについてお尋ねしたいのですが、ことのほか若い武者二騎が真っ先に進んできて弓や鉄炮をものともせず、
兜を傾けて柵に取り付いています。どなたの子なんでしょうか、櫓からご覧下さい」
と言ったところ、幸村は、
「ああ、それは見る迄もなくいかにも六文銭の旗は兄伊豆守信之のもので、
その若者の一人は河内守といって十八歳、もう一人は外記といい十七歳、二人とも私の甥です。
かわいそうですが、彼らを侍分の人に命じて討ち取って下さい。
そうすれば若くして木村殿の持ち場で討死にしたとその名が後世に伝わり、われら一族の喜び、
これに過ぎるものはありません」
と答えた。それを聞いた重成は、
「いや、そうではありません。一族が引き分かれての戦いにどうして後日お咎めがあるでしょうか。
必ず和睦になりますから、めでたくご対面なさって下さい。御心底お察し申します」
と言って士卒に命じて言うには、間違ってもその二騎の若武者を鉄炮で撃ってはいけない、
くれぐれも過ちのないように、と彼らを気遣った とのことである。

そんな木村重成のお話 




280 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/24(日) 21:18:53 ID:j3fOIEbc
>>279
謙信「………ナイスガッツ。ナイスファイト。さすが海道一の物知り。」

木村重成の首実検

2010年01月19日 00:11

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 21:37:29 ID:PQnFZS7k
まとめブログに木村重成と食事の話があったが、最後が書かれていなかったのでカキコ

大阪夏の陣にて、重成は出陣の前夜湯を浴び、髪を洗い、香をたきこめ、
西行ものの謡曲であるひとふしを静かに謡い、小鼓を打って心を澄ました
翌日六日、一軍を率いて河内の岩江方面へ討ってでた。藤堂高虎の軍勢は破ったが、
井伊直孝の軍勢には敗れ、ここで重成も戦死
首実検の場で家康は
「不憫な事よ、討ち死にを覚悟して出たものと見える」
と言った、本多正純は叔父の三弥に「それは」と聞くと三弥は
「長門守は兜との結び緒を解けないようにして端を切っておる、
再びこの兜を脱ぐまいと言う覚悟がこれで知られる」
江戸時代、庶民は重成の墓を無念塚といい、無念詣りという行事さえやったと言う。
齢二一か四である



103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 22:26:03 ID:OM+XQli3
木村重成の親父さんもあんな死に方してるし
思うところがあったんだろうな。

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 22:48:25 ID:n+YlODGb
>>103
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D%E8%8C%B2
一族皆殺しにされているのに、良く豊臣のために戦死したよね

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 23:16:45 ID:infsKnzn
豊臣のためというより秀頼のためになんだろね

木村重成、大野主馬の感状の請求に

2009年10月08日 00:24

144 名前:  [] 投稿日:2009/10/07(水) 00:32:13 ID:ZshCoO3p
寝る前にお一つ。既出だったらごめん。
良くも悪くもないけど木村重成。

大阪の陣において、塙団右衛門が大将となって蜂須賀陣へ夜討をかけた。
この夜討で、大野主馬の組下の侍も手柄を立てたので
主馬は木村長門守重成に頼んで感状を貰おうと申し込んだ。

すると重成は

「確かに、そう上申すれば感状は下附されるでしょう。
 しかし、感状を貰ってどうするのです?
 外様の者ならば、また主取りをする時に役に立つでしょうけれど
 あなた方大野兄弟は、当城無二の譜代で
 主君と生死を共にする身ではありませんか。
 何故、感状が必要なのです?」

と言ったので、主馬は赤面してしまった。


もしかしたら大野主馬のこっ恥ずかしい話やもしれぬ・・




元和元年、薩摩と大阪諸将とほっかむり

2009年07月27日 00:08

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 22:37:20 ID:e4j3zuz/
女装じゃないけど美貌の武将でお話を一つ。

元和元年、浪人の集団が薩摩を訪れた。
その話は既出だろ?と思わずにもう少し聞いて欲しい。

この面々は
・後藤又兵衛基次
・薄田隼人兼相
・木村長門守重成
・大野治長

そう、大坂の陣における大坂方の主要メンバーである。
お前ら城ごと落ち延びてきたのか、と家久(悪)も心の中でツッコミを入れただろうが
真田親子や秀頼同様に匿うことにした。かと言って、人の多い城下に集団で匿うのは危険である。
そこで家久(悪)は彼らを人もまばらな場所に分けて匿うことにした。

・後藤又兵衛は揖宿へ
・薄田隼人は鹿屋へ
・木村重成は加治木へ
・大野治長は谷山へ

といった具合である。大野治長を秀頼と同じ谷山に匿ったのは家久(悪)なりの気遣いであろう。

さて、木村重成である。彼が匿われた加治木は義弘の隠居先でもあった。
義弘は大坂で奮戦したこの若者を気に入り、相応の待遇で召抱えた。

とはいえ天下は既に徳川のもの、豊臣家は滅んだのである。
召抱えるに当たって義弘も近臣も非常に気を使った。
偽名はもちろん、加治木に住むに至った氏素性までも用意(捏造)した。
ここまでしてくれた義弘に重成は誠心誠意仕えたが、
町の者達から自分に好奇の目線が向けられていることに感ずいた。目線の主は町の娘達であった。
そう、言うまでも無いくらい有名な重成の美貌が町娘達の視線を集めてしまったのだ。

万事抜かりなく匿ったつもりの義弘だったが、良くも悪くも武辺者。
彼と近臣達には「重成の美貌は衆目を引く」という考えが見事に欠落していたのだ。
町人の視線を集めるだけならよいが、そこから正体を勘ぐられては元も子もない。
かくして重成は人目を避けて夜に出仕して朝に帰り、やむなく日中に出歩くときは
ほっかむりをする破目になったという(それはそれで怪しまれるであろうが…)

そんなわけで真贋はともかく、今も鹿児島には大坂の陣の面々の墓があったりするのである。




804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 22:47:59 ID:+aA/Wswf
薩摩と大阪城の間にどこでもドアでも有るんだろうか?

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 23:04:27 ID:hCsz20E6
まあ、逸話だな。
イケメンは罪って事とうっかり義弘。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 23:06:10 ID:hCsz20E6
逸話じゃねーや、講談とか伝説とかだった。

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 23:21:51 ID:GAF3w+Ao
普通に出歩いてる美形より
ほっかむって歩いてる美形の方が
忘れられないインパクトになりそうな気もする

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 23:48:26 ID:7grlmr01
頼朝さんなんてイケメンで天下取ったようなもんだけど・・・。

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 23:50:28 ID:KwX+BGZI
突然やってきたイケメンが都会の洗練された物腰してりゃ放っておかれないわな

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/30(木) 21:30:14 ID:jy49l2lM
>>803
遅レスな上に自分のコメントへのレスで恐縮ですが…
こういう講座があるそうです。

【大坂方の薩摩落ち伝説について】
ttp://open.gakushuin.ac.jp/course/detail/2009/B/S03/

秀頼、真田幸村、木村重成たちの薩摩落ち伝説が題材だとか。
島津家の現ご当主が講師をなさるとのことです。

ご当主直々に戦国時代のお話が聞けるそうなので興味のある人は行ってみてはどうでしょう。


938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/30(木) 21:35:52 ID:VIQJFOj2
>>937
こんな講座があるのかー。しかも講師は島津宗家の人かよ!すごいなー。
さすが学習院だ。



木村重成、正使として・いい話

2009年05月31日 00:01

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/30(土) 20:46:19 ID:D5Ebu+WX
流れを読まずに話投入。

木村長門守重成のお話

時は慶長19年の暮れ、大阪冬の陣が終わり、一時的に講和なった際のエピソード。

和議にあたり、秀頼の正使に任命された重成は、家康の許に赴いた。

重成が家康本営の奥に通されると、玄関から廊下にかけて、
徳川家譜代の将士が威儀を正して、ずらりと左右に並んでいる。

重成はその真ん中を、まるで誰も見えていないかのように、
目礼のひとつもせず、まっすぐ正面だけを見据えて静かに歩いて行った。

譜代の将士達は、「あれが木村長門守か」「若造のくせに生意気な」「礼儀を知らんのか」
と互いに顔を見合わせては重成の悪口を言い合った。

そして、家康の許まで行き、皆がそれぞれ席に落ち着くと、
互いにあいさつを交わし、家康は講和の誓詞に血判を押し、重成に渡した。
重成は家康の近侍が運んできた誓詞をうやうやしく一礼して受け取ると、
しばらく内容を読んでいたが、最後の部分でふと顔を上げるとこう言った。

「これではご判(血判)の血が薄く、よく見えませんが─」

家康も心の内ではムッとしたかもしれないが、ここは器の大きいところを見せて、
「自分ももういい加減年なので、血も出ぬようになったのだろう」
と誓詞を取り戻し、再度血判を捺し直した。
重成はそれをしっかりと確認した上で、丁寧に礼をし、それを文箱にしまうと、
「では、これで」と席を立った。

そして、今度は左右に並ぶ将士達に向かって丁寧に挨拶すると、
「今日は主君、秀頼公の名代として参りましたので、さいぜんは誠に失礼致しました。
なにとぞお許し下さい」
そう言葉を掛け、しずしずと通っていった。

先程、悪口を言っていた将士達は恥ずかしくなり、返事もできぬ有様。
わずかに、伊奈筑後守忠政が、
「ごあいさつ、いたみいります。さあ、ずっとお通り下さい」
と挨拶した。
重成はそれに丁寧に会釈すると、そのまま玄関を出た。

譜代の将士達は後になって、
「立派なものだ」「四方に使いして君命を辱めず、とはこういう事を言うのだろう」
と、手の平を返すように重成を褒め称えた。
家康もよほど感心したらしく、あとでそばにいた近侍に向かって、
「秀頼はよい家臣を持っているな」とため息をついたという。


花も実もある若武者、木村長門守重成のいい話でした。





97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/30(土) 21:00:27 ID:rEqSiNFW
>>95
木村重成って、戦前は大阪方の登場人物の中で最も人気があったらしいね。
若くてハンザムでかっこよくて。


98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/30(土) 21:03:02 ID:uOqOEOo9
>>95
黙々と仕事をこなす理想のサラリーマン像だなぁ
奥さんも美人らしいし

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/30(土) 22:03:55 ID:yK28vNTm
>>97
腐女子の餌にされるのも時間の問題だ

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/30(土) 22:08:45 ID:5aMBW6hb
理想化された侍像を絵に描いた様な生涯だもんな、そりゃ人気出るわ

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/30(土) 22:57:58 ID:COQuia02
>>95
生まれてくるのが遅かったな。
秀吉時代なら知行の方ももう少しよかっただろうに。

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/30(土) 23:04:54 ID:OjkfXRGm
親父の木村重茲の淀18万石が秀次事件でパアになっちゃったからなぁ


木村重成 我慢の日々・いい話

2009年01月17日 00:08

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/16(金) 18:46:43 ID:S6wDZGJJ
木村重成 我慢の日々

秀頼の乳兄弟とされる木村重成。
夏の陣での慎み深い死期のエピソードや、後藤又兵衛に師事し、いざさらばと袂を分かつ場面など、
一事が万事、すべてが絵になる美丈夫だったと今日に伝わっている。

この重成、外見も本当に美男子だったようで、大阪城内でも随一だったそうだ。
しかし、美しい外見と優しい物腰、しかも実戦の経験もほとんどない若造ということで、
当初は家臣団の中でも軽んぜられ、公然と馬鹿にされることもあったとか。
普通なら問題になるような侮蔑を受けても重成は平然と受け流すばかりで相手にしない。
そうこうしているうちに、武将どころか秀頼の近従や茶坊主にまで侮られるようになった。
そんなある日、調子に乗った茶坊主が痛烈に重成を辱めた(内容は不明)。
側近くにいた侍たちは、さすがにこれは酷い、いよいよ重成が刀を抜くか!と息を呑みながら
動向を見守ったのだが…
重成は静かに茶坊主に向き直った。
「本来ならばお前を打ち捨てにするべきなのだろうが、そうすると私も死ななくてはならない。
 しかし、今は秀頼様のためにこそ死ぬべき時。
 お 前 ご と き のために私は死ぬわけにはいかない」
そう言って笑顔さえ見せたという。

この一件で城内の者は誰一人として重成を軽視しなくなったという。
これは冬の陣よりも前の出来事。
重成は自らの信念を見事に貫き通した。




309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/16(金) 18:57:18 ID:KPfFtXZ9
当時のイケメンってどんな顔してたんだろ?

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/16(金) 19:15:59 ID:FIpJEu9/
こんな顔では
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ukita_Hideie.jpg

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/16(金) 19:16:54 ID:y3c77W3e
>>310
俺もそれを張ろうとしていたw

とっさに出てくるのは彼だよなあ。

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/16(金) 19:29:53 ID:urS0vVkd
イケメンなのは分かるが肖像画が笑顔なのが当時の武将っぽくなくて笑いを誘う。

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/16(金) 19:32:43 ID:TjgeNlEy
>>309
西洋人が描いた信長の肖像画が参考になるんでね?

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/16(金) 19:44:00 ID:ZD9Kc8wq
イケメンと言われた弾正の肖像が厳つい見事な武者ぶりだからそんな感じじゃない?
平将門の絵みたいなヒゲを逆立てた熊のような良い男

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/16(金) 20:38:36 ID:i7tAnrbb
>>308
おお・・・何かそう言っちゃ変だが、漫画の正統派美形キャラみたいだw

木村重成と食事・いい話

2008年10月16日 10:13

490 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/07/14(月) 13:50:43 ID:INEJa3iz
木村重成(秀頼の乳兄弟)

大坂夏の陣の5月ごろから食が細くなった重成、
「落城近しの風聞に接し、食が進まないのか?」の問いに、こう答えた。
「昔、後三年の役のおり、末割四郎という者がいた。
 この者は臆病もので、朝の食事も喉に通らないほどだったが、
 敵陣で首を切られた時、切り口より食い物が出てきて恥を晒したそうな。
 俺も首を取られるだろうが、骸の臓物を見苦しくないようにしたいから謹んでいるのだ」