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片倉小十郎景綱が幼女をたすけた話

2014年06月03日 18:51

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/02(月) 21:10:37.77 ID:TMq+qp0i
この話ないような気がしたので。

片倉小十郎景綱が幼女をたすけた話(政宗はでてきません)

「高玉合戦の際、いよいよ落城というときになって高玉太郎左衛門は妻子を殺そうとした。
しかし乳母が必死にいうので、生まれ年三歳の女児を抱いて脱出させた。
すぐに略奪にあい、乳母は切られたが、女児を下に敷き、ふせて倒れた。
夜になって軍がひきあげたところ、傷が浅かったので乳母はおきあがり、高倉近江の処へ駆け込み、
助けを求めた。
近江はかくまって何か問題があると困ると思い、片倉小十郎景綱に詳細を告げた。
小十郎は「一度切られた者であるから、助けましょう。
もし政宗から尋ねられたら、御前でのことは私がどうにかしましょう」と言った。
助けられた女児は成長後蒲生源左衛門家中の妻となったと聞いた。」

by 伊達成実『成実記』他

後世に書かれた『治家記録』では、近江が男児を女児であると誤魔化したとあり、
成長後新左衛門と名乗った男児だったと記されている。
どっちかわからん。



80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 21:14:22.74 ID:HqctO1nh
まーくんって子供好きなイメージがある

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 00:15:10.68 ID:kjB8zATs
もう一戦ねえかなぐらい思ってたんだろう

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片倉小十郎景綱「もっとお慎みください」

2013年11月16日 19:09

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 23:04:46.65 ID:3zaQi9xN
それじゃ政宗を投下しよう

伊達政宗兼松又四郎と喧嘩の事

陸奥守政宗が殿中御能の際に兼松又四郎と言う旗本に対して無礼を働いた。

又四郎が握り拳で政宗の顔面を殴りつけると、政宗は手をうって笑い「さても
男なり男なり」と興ぜられた。

帰館後に家老片倉小十郎に「別に危ないことでもなかったが、小身者を相手に
本気になる事ではないので面白くいなしてきたよ」とお話になられた。

小十郎は「左様もっともでございますな。しかし小身衆に無礼を働いたり
しないよう、もっとお慎みください」と答えた。

(翁草)

既出逸話のバージョン違いだが小十郎に突っ込まれるバツの悪い話




784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 23:16:56.26 ID:sPvyXrI7
諱って同時代人も知ってることは知ってたん?

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 23:22:29.30 ID:np5pVfdE
政宗は何やったんだろう?w

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 23:25:27.19 ID:5sGX4E/5
知らないと諱を避けたり出来ないだろうな。

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 23:26:17.73 ID:dtT0Jbo2
秀吉とか輝元とか大身の殿様の諱なら庶民でも知ってたみたいね
今の総理のフルネームを皆知ってるような感覚だろうか
あと政宗w

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 23:57:10.10 ID:nUvtZ25J
>>783
ありがとう政宗。なにをやらかして、顔面殴られたか気になるな。報復しなかったんだろうか。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 01:02:23.01 ID:gu7a5FSK
小十郎をして、殴られて仕方ないって言いたげな無礼って

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 04:45:10.73 ID:u8aZHzyB
>>783
> 兼松又四郎と言う旗本

> 織田信長に仕え、桶狭間の戦いで初陣を飾る。最初は下級武士であったが、戦功を挙げて信長の馬廻衆として活躍。
> 本能寺の変後は、尾張に戻り織田信雄に仕えて、小牧・長久手の戦いでも信雄に属して戦っている。
> 信雄の没落後は、羽柴秀吉の黄母衣衆として活躍、豊臣秀次に一時属するが、秀次の死後は再び秀吉に仕え、
> 秀吉の没後は徳川家康に仕えた。慶長5年(1600年)、会津征伐に家康に従い、西に転じて岐阜城攻め、関ヶ原の戦いに従軍した。
> 戦後、家康の子の松平忠吉の与力となり2600石を知行。忠吉が早世したのち、徳川義直に仕え、尾張藩士となった。
> 墓所は政秀寺。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%BC%E6%9D%BE%E6%AD%A3%E5%90%89

あの時代の代表的勇者の一人なんですがそれは

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 07:02:03.01 ID:f2LLvC2b
びびって逃げたのを誤魔化してるようにも思える

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 08:58:44.17 ID:X1030b2m
政宗の場合はビビって逃げたわけでもない
生ける伝説のような古武士に殴られても「じゃれあって来たぜハハハ」で
めげないからある意味頑固だし大物

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 09:44:09.13 ID:oINKhTys
いつも一緒にやらかしてる小十郎に窘められるレベルの無礼、というのが気になる

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 11:06:46.22 ID:69NhvA7o
この政宗人気もやっぱ大河のおかげだよなあ

直江と浅井さん姉妹はどこで間違ったか

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 11:10:05.69 ID:TemEYKW7
脚本家の違いだな
来年もクロカンもクドカンが脚本やれば、視聴率だけは上がるかも
戦国板の評価は分からんけど

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 11:12:20.86 ID:rJ21uoQ/
直江は内容はともかく、大河で人気にはなったんじゃないか

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 11:13:05.98 ID:nFLMar6P
直江は原作の時点でつまらんから…GOは知らないが

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 11:48:58.97 ID:iv59GlGc
政宗はどこ切り取ってもネタ出てくるからなぁ。

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 13:16:37.11 ID:+2ms3m1w
中間管理職出世物語より社長立志伝の方が

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 14:56:32.45 ID:/qsd9jKl
>>790
元亀元年(1570年)の姉川の戦いに従軍し陣中で正月を迎えて、河原に自生していた蘆で臨時に飾りを作り、
武運を祈ったのが門松の始まりという。

こっちのほうがびっくりしたわ
これ本当なのけ

恐るべきは伊達主従の口車

2013年08月12日 19:51

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/11(日) 23:44:58.84 ID:3dCBIko2
「奥羽両国は政宗様のものだ。そう秀吉が言ってた」
ビッグマウスは主君だけでなく、その家臣もだった

いわき市に残されている文化財の一つ 片倉小十郎景綱の書状  より

 ttp://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db//txt/10090.002/html/00180.html 以下に引用元 画像有り

「~伊達政宗の家臣・片倉小十郎景綱(一五五七~一六一五)が、天正十八年(一五九○)六月十四日、
 岩城常隆の執権(家老)の志賀甘釣斎武治・右 衛門尉武清親子に宛てたものである。」 ここまでが引用

「~書状の概略は次の通りである。

 主人の政宗が秀吉のもとに行き万事思い通りとなった。岩城家も進退がうまく行くよう政宗が申し入れて置いた。
 秀吉喜んで、政宗に出羽・陸奥両国を任せると言っていた。岩城家は政宗の取り成しで別状はないから、
 秀吉への用向きは政宗に相談すると良い。それをしなければ秀吉は望みを叶えてくれないから予め貴方に申しておく。

 奥羽両国は政宗が支配することになった。そのため相馬が政宗の不在中に伊達を攻めたので相馬を討つことにした。
 だから岩城も遅れずに参加するよう常隆様に申してください。そのことが常隆様の御為になります。」 ここまでが引用

だが、現実は政宗は奥羽統一どころか会津没収・減封な訳で、岩城常隆はこの後、鎌倉で病死…家督は佐竹家へ。
もし、常隆がこの書状を鵜呑みにしたまま小田原に参陣したならば、直面した現実はさぞや厳しかったであろうと推察する。

恐るべきは伊達主従の口車、いや、戦国の世ということであろう…




870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 10:23:11.05 ID:3VREAz16
>>869
>>ビッグマウスは主君だけでなく、その家臣もだった

そういうことじゃないんじゃないの?それ。
日付から考えたら、必死になってハッタリかましてるとしか解釈できねえんだが。

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 11:04:42.52 ID:9eqnP8j/
秀吉と直接面会されると困るから、なんとかして止めさせようとしたんじゃないの?

872 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/08/12(月) 11:12:55.56 ID:MuawoCkT
>>870
いわゆる、武略ですな。

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 15:04:17.45 ID:4HWbpmGu
自分もビッグマウスとはまた違うように思う
あとでお取り潰しになった石川とかを一門首座にしてたりするから、あの時はうちのせいでゴメンナサイな意識はあったと思うけどなあ
この岩城常隆の子の政隆を一門にいれたりしてるし

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 19:54:08.17 ID:MkPOZj5f
>>873
石川についてはそうだろうね
主家から見た傘下大名の処遇という点で
毛利を倣って二人の叔父(政景・昭光)を伴って参陣
していれば状況は変わっていたのかもしれない

政隆の厚遇については、政宗が慕っていた祖母・栽松院が
岩城家出身というのが大きいのでは?
また後年、亀田藩岩城氏が政隆の家系である、岩谷堂伊達家から
養子を迎えている等、旧大名の血筋を保護する事で勢力拡大の
チャンスを狙っていたのかもしれない

政宗がたまげて

2013年01月17日 19:51

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 12:55:07.24 ID:WvC7pKkI
先日図書館で借りた、東北の語り部から聞いた艶笑話(エッチな笑い話)をまとめた本に載ってた逸話
原文は東北弁バリバリですので翻訳して・・・

伊達政宗がある戦の時、相当激しい戦で盛んに矢弾が飛んでくるので、
立って行けないので畑の中を這って進んでいったそうな
すると、家老の片倉小十郎がその後ろから行って、
政宗の股ぐらに手を入れて金玉をガッ!と握った。そんなもんだから政宗がたまげて

「こら、何をする!」
「殿、この戦は勝ち戦です」
「何故だ?」
「殿の金玉がぶらりとさがっています」

と小十郎は言ったそうな


勝ち戦ってことでいい話に書き込んでみましたが、小十郎何やってんだww
・・・しかし、何故に金玉がぶらさがってると勝ち戦?
緊張で縮こまってないから余裕あるってこと?教えてエロイ人(´・ω・`)




122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 14:12:55.27 ID:xGWKjNeo
鮭様でもわからんかと
まーくんがDQNなのはやっぱ小十郎のせいなんだろうなw

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 14:51:25.21 ID:baYWWs4p
玉(ぎょく)が動けなくなったら詰んでしまうからな

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 14:54:45.32 ID:TShLZXlu
タマが飛ぶ中タマを握るとは片倉も大したタマよ…

125 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/01/17(木) 17:20:15.20 ID:kNCidfLH
>>121
それな、神様仏様稲尾様の稲尾が監督やコーチをライオンズやドラゴンズやオリオンズしてたときもそんなことしてた。

マウンドに行って、囲んで陰つくらせて、股関を掴み、縮みあがっていたら交代、というのをな。

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 17:44:55.13 ID:WLiED+HF
>>121のようなタマタマの話は結構あるよね~
誰だかも思い出せないけど

大将の股間に流れ弾が飛んできて、
裏筋をカスって大騒ぎになったけど、一人歓心してる人がいるのでその訳を聞いてみると云々って感じ

忠臣の系譜

2012年05月18日 21:05

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 10:07:52.61 ID:oBHBdhvo
青葉祭り2年ぶり開催記念投下

忠臣の系譜 1/2

目玉ぶった切ったり焼きごて当てたり祝いの席で刀抜いたり子供殺すの止められたりと、
主君と濃すぎる絆を育んだ片倉小十郎景綱は1615年病没した。享年59歳であった。
忠臣として名高い景綱だが、一度出奔を図ったことがある。
梵天丸の守役となってしばらくしてからのことで、経緯ははっきりしないのだが
「こんな田舎でずっと最低賃金でとかありえねえ」というような事情らしい。
姉喜多に諭されて思いとどまった景綱は以後は幼い主を守り立てんと決意し、目玉ぶっ(ry)たりしながら
命懸け(息子のも)で伊達家に仕え、秀吉や家康からスカウトされても断りその生涯を政宗に捧げた。
己が半身ともいえる側近中の側近の死に政宗は大いに嘆きいり、三日間誰とも会わず食も断ったともいう。

景綱の没後も政宗の片倉家への信頼は些かも揺らぐことはなかった。
伊達家のホープとして早くから中央に出ていた二代目重綱は大阪の陣で獅子奮迅の活躍をし、
その武名はさる事情で→http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3145.html
参陣していない島津家久からも重綱△とほれ込まれるほど(金吾的意味ではなく)轟き、「伊達家の片倉」の名を不動のものとした。
幕府にも一目置かれ、美男子で男女問わずモテまくり、二周り年下の阿梅とはラブラブと
リア充全開の重綱は政宗の自慢の家臣であった。

1636年、死期を悟った政宗は最後の参勤の途につく。
重綱の居城白石に着いた頃にはすっかり弱っており、食事もろくにとれなくなっていた。
翌日、心配し町外れまで籠に付き添った重綱を政宗は励ました。
「明日にも天下に大事があればご先駆を承り、お前に先陣を務めさせ、成実に指揮をとらせ、
三人心を合わせれば、また一花咲かせられよう。留守の間、国の守りはお前に頼んだぞ。だが、」
死を予感してから初めての弱音が零れる。
「おそらくは、もう会えぬだろうな」
老いた主君の独眼から涙がこぼれ、鬼と呼ばれた男も声を上げて泣いた。

出立間際、政宗は見送りに出ていた重綱の嫡子三之助に自分の脇差をさしてやり、
「小十郎はいつも良い子を持つな。祖父や父に負けぬ立派な武士に育てよ」と頭をなでた。
この幼い少年が後の三代景長で、寛文事件の際には混乱した国元を見事に取り鎮め、伊達家の安泰に大きく貢献する。
初代景綱の小田原参陣のすすめ、二代重綱の大阪の陣での武功とともに讃えられる片倉家の三功である。

授かった脇差を握り締め旅立つ主を見送った三之助はおよそ一月後、物言わぬ棺を迎えることになる。


196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 10:16:00.73 ID:oBHBdhvo
忠臣の系譜 2/2




そして三世紀の時が流れた。



1974年10月某日、仙台経ヶ峰は軽い興奮と緊張に包まれていた。
戦災で焼失した伊達政宗霊廟・瑞鳳殿を再建するため9月から開始された発掘作業は順調に進み、
ついにこの日政宗その人が眠る石室が開けられるのだ。
ゆっくりと重いふたが開かれ、閉ざされていた墓室に三世紀ぶりに日の光が差し込んでいく、
その光景を万感の面持ちで見つめる一人の男性の姿があった。
片倉家15代当主、片倉信光氏である。
氏は当時白石で長く病床にあり、一人で歩くのもやっとであったが、
「政宗公の石室が開かれるというのに、俺が行かないで誰が行くか」と心配する家族の反対を押し切り駆けつけたのだった。
かくして政宗は当代小十郎が見守る中、長い眠りから目覚めることになった。

ざわめきがやんだ。
皆が固唾を呑んで見守る中、時の流れにくすんだ頭骨が丁重に取り上げられ、秋の陽に鈍く光る。
伊達政宗と片倉小十郎、338年ぶりの再会だった。


信光氏は父の代から政宗を祀る青葉神社の宮司を務めており、氏の逝去後はご子息の16代当主が引き継いでいる。
杜の都が最も美しい5月、政宗の命日にあわせて行われる青葉祭りでは、
祭神の魂を乗せた神輿が様々な災害を越えて100万都市となった仙台の街を巡る。
御霊移しの儀式を行い、渡御に付き従うのが宮司の重要な役目である。
「儀式の時、政宗公が私に話しかけてくることもあるんですよ」
忠臣の子孫は笑う。
「我が家は伊達家あっての家です。片倉は政宗公のために武士となり、また神職に戻りました。
そして初代が政宗公に生涯お守りすると誓ったからこそ、私が今ここにいます。
私の中で政宗公は決して歴史上の人物ではなく、今も生きていて、朝に夕に対面しているお方です。」
初代との出会いから四世紀半、そう語る片倉家の末裔に政宗は今も守られている。


時を越えた、とある主君とその忠臣のお話。






197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 12:31:49.91 ID:xnPBBy3t
政宗の話なのに目から汗がでるとは

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 12:38:05.40 ID:0FbzrTOt
政宗が神様とかw

と一瞬思ったが、よく考えると日本の神様大体あんな感じな気もする

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 14:29:54.02 ID:fFzwPPP/
天変地異を起こしても神
疫病流行らせても神
祟っても神


200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 16:21:28.80 ID:dcECYIS2
むしろ大名ともなればだいたい神社に祀られてるよね。

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 16:23:12.64 ID:lvaNHymq
咳をしても一人

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 17:07:37.37 ID:78RGZVm7
さわらぬ政宗に以下略。

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 19:53:25.94 ID:MZuWqOss
>>195
二周り年下ならまだ男子を授からんでもないだろうに
早々に養子を貰われるとか阿梅さん哀れ

姉の見る目

2012年02月02日 21:59

701 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/02(木) 01:22:57.02 ID:+k99GtUy
伊達家に仕え、その跡取りである伊達政宗の守役を19歳のころから勤めていた片倉景綱には
正宗の養育係であった喜多という異父姉がいた。この喜多は、文武両道に通じ
男性にも引けを取らない賢女だったと伝えられ、一説には、景綱は待遇に不安を感じて

「諸国を巡って名将に仕え、天下に名を広げたく思います。」

と、姉に相談したところ、

「主君を裏切れば天がそれを許さないでしょう。誠意をもってお仕えする事が
 貴殿の幸せにつながります。」

と諭され、景綱は思い留まったという。その後の政宗の飛躍ぶりは言わずもがなである。
以上、姉の見る目は正しかったというお話。




702 名前:700[sage] 投稿日:2012/02/02(木) 01:35:58.11 ID:1y8j49HQ
>>701
やはり養育者の人選は重要だ
現代は学校の先生選べないから、
自分の子供がオカシナ教師の受け持ちになったらと考えると恐ろしい

733 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/03(金) 20:04:29.05 ID:lNzRr7sA
>>701「伊達の鬼 片倉小十郎」という漫画だと、出奔する弟を路上で待ち
受けて「思い止まらないなら、お前を討って自害する」という場面になって
いたな。

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 20:07:18.51 ID:8HE5RLeU
>>733
路上で待ち受けてを、なぜか「路上で持ち上げて」と空目してしまい
ずいぶん剛強なお喜多さんの出てくる漫画だと思ってしまったw

片倉小十郎景綱「秀吉の軍というのは」

2010年05月20日 00:02

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 22:06:14 ID:5j5bImY6

ついでに逸話投下

天正18年(1590)3月、伊達家中は真っ二つに割れていた。
小田原役の勃発により遂に小田原城を大軍で取り囲んだ豊臣秀吉に対し、抗戦を主張する
伊達成実を中心としたグループと、恭順を主張する片倉小十郎景綱を中心とするグループとで
議論は全くまとまらなかったのだ。

悩んだ伊達政宗は夜半、小十郎の屋敷を訪れ寝所にまで入ってその真意を質した。
小十郎は言う

「秀吉の軍というのは、蠅です」

「ハエ?」

「そう。それも大発生をした蠅です。

殿、大発生をした蠅にたかられれば、これをいくらたたき潰しても後から後から湧いてきて
切りがありません。
秀吉の大軍と言うのもそれと同じなのです。2,3百の敵を売って、2,3度防ぐことが出来ても、
秀吉は後から後から大軍を繰り出し、結局防ぎきる事など不可能なのです。

そしてこのまま重臣の意見が一致せず殿が決断することがなければ、伊達家は間違いなく
滅びるでしょう。だが、これをよくよく肝に銘じてください、伊達家が滅びても、家臣たちは
機会さえあればまた、他家に仕えることが出来るのです。

殿、これらを良く考えて、ご決断を。」

これにより政宗は秀吉への恭順を決断したと言う。
片倉小十郎の政宗説得、のお話。




82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 22:17:15 ID:K4a19dTb
なんか最後の方何気にひどいこと言ってないか?w

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 22:23:08 ID:KBlcsbV+
いや、そういったシビアな面も臆せず忠告できるのが景綱と政宗の信頼関係ってことだろう。

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 00:48:38 ID:4QuC8xr2
片倉さんはラスボスをハエよばわりしたりサルよばわりしたり結構言いたい放題だよね

91 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/19(水) 02:27:09 ID:KLPgrn0a
>>79における片倉の話は三国志の赤壁前夜における孫呉家臣の論戦と真逆なんだな

三国志では、徹底抗戦を主張する周瑜と、恭順降伏を主張する張昭との間で論戦がかわされ、
曹操の大軍にはまず勝てない、今は恭順の意思を示して時期を伺おう、という張昭に対し、
勝算は有る、一戦も交えず恭順の意思を示せば、二度とは天下を伺えない、と周瑜が応じる

結局、下のような魯粛の発言が孫権に決断を下させる

「このまま決断をあぐねていては、まぁ、まず負けますな。
 ですが、考えてもみてください
 張公(張昭に対する敬称)のような華夏に名の鳴り響いた大人物はともかく、
 私の様な商家上がりのものは曹操に降ったところで、うだつはあがらないでしょう
 ご主君の孫家も、言っちゃ何ですが大した家じゃありませんし、降ってしまえば数多くの臣の一人
 その上、叛軍の大将とくれば、どんな目に遭わされるか分かったもんじゃあ、ありませんぜ
 そもそもですな
 降ろう降ろうと大声で言ってる輩は、みなそれぞれ魂胆あっての事でして
 つまるところ、降った後の自分の身の安全が確保されているから、好き勝手にのたまっているのです
 ご主君の未来を第一に考えての発言ではないんですな。これが」

そして、孫権は赤壁で勝利し、呉帝即位の儀式を迎えるわけだが、魯粛はその時既に亡くなっていた
で、めでたい席で孫権は張昭に対し、満座の中痛烈な皮肉を浴びせる

 「もしもそなたの申した通りに降伏していたら、朕は今日を迎えられなかっただろう
 魯粛こそが、朕を皇帝たらしめてくれたのだ」

その後ひきこもってしまった張昭と孫権のやりとりはみなご存知だろうから割愛するとして
片倉の話とこの話の対比は興味深い

片倉景綱の出奔未遂について

2010年03月20日 00:03

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 08:05:40 ID:jjnK7aAY
>>843
しかし伊達の三英傑は揃って一度は政宗に愛想を付かして出奔騒ぎを起こしている

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 13:01:04 ID:Otr4Ugw4
>>857
成実の出奔の原因は不明だし
綱元は政宗の怒りをかって出奔させられただけ
あと景綱の出奔って話は知らないな



873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 14:01:56 ID:bPwiQgG6
>>867
成実の出奔は一応家中の序列が不満で、っていうのが有力だな
「俺すごく頑張ってるのになんかがんばりに見合う評価されてない気がする」って零した話もある
綱元は・・・政宗の「怒り」っつーのが香の前が欲しかっただけっぽいし
実際綱元が帰ってきてから香の前も返してるし(孕ませた後だけど)

景綱出奔未遂って確か、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1505.html
この話に絡んでたと思う

(●∀`)<小早川んちの浦山景綱とお前トレードすることになったから
(´・ω・`)<・・・
(●∀`)<んじゃよろしく!うはwww美少年サイコーwww
(`・ω・´)<・・・

~翌朝~

(`・ω・´)<やってけるか!出てく!出てってやる!
(゚Д゚;)(゚Д゚;)<ちょ、片倉様!お待ち下され!後生です!!
(`;ω;´)<離せー出てってやるんだー!!
(゚Д゚;)(゚Д゚;)<殿!殿おおお!

(´●ω・`)<・・・ゴメン・・・ほんとゴメン・・・
(`;ω;´)<殿のばかぁぁぁぁ
(゚Д゚;)(゚Д゚;)<ホッ・・・なんとか元鞘に・・・

って話だったと思う
いい話スレでやる話ではないがw




874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 14:17:58 ID:AoUSzCZk
景綱は以前(小田原参陣より前)にも出奔を企てたことがある。
もっともその時は出奔前に異父姉の喜多に見つかってしまい、
懇々と諭されて思いとどまったらしい。

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 14:23:48 ID:vm9eeexZ
大河ドラマでは「急に出世して周りに妬まれるから」って理由だったな>出奔

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 14:36:19 ID:Otr4Ugw4
>>873
すまん、「この話に絡んでた」じゃなく
出来ればそれの出典教えてくれ。調べてみる

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 14:54:27 ID:bPwiQgG6
>>876
確か石母田家文書じゃなかったかな?
「やってらんね」って書き置き残して出奔しようと思ったら見つかって連れ戻された、
みたいに書いてた・・・はず

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 14:57:12 ID:Otr4Ugw4
>>877トン

調べられたら調べてみるわ

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/19(金) 20:50:33 ID:kgtDH9Gf
景綱の出奔未遂は政宗幼少期のころじゃなかったかな?トレード話とは絡んでなかったような。
綱元は出奔中も伊達家と連絡取り合ってたみたいだから秀吉の手前もあったのかも、と思わないでもない。

雑談・片倉家の家臣団について

2010年01月17日 00:04

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 16:28:11 ID:vCVITMJ1
すみません。
スレ違いですがここの皆さん色々詳しいようなので分かる方ちょっと教えてください。
幕末の本を読んでたら、仙台藩の片倉家は18000石でおよそ1400戸7500人の家臣団を
抱えていたと書いてありました。
これって異常な数じゃないですか…?
この禄高だと普通家臣はもっと少なくないですか?
誤植かと思ってネットで調べてみましたが、数字自体は間違っていないようなので…




41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 16:36:32 ID:1jWIrI4S
ふむ、確かにちょっと異様な数だな
全部割り当てて乱暴に計算しても平均一人200石強か
まぁ、そんなわきゃないけど

多分見栄張ったか、そもそも元本の数字自体が間違ってるかかな?

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 16:37:29 ID:a/UwFIRH
一桁間違っている?

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 16:41:47 ID:ZYcHOQUs
家臣ではなく「領民」ならわからんでもないが。

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 16:45:56 ID:1jWIrI4S
む、俺200石とか書いてるな
間違いだ20石な

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 16:49:14 ID:O/Km0VAR
1万8千石で1400家か・・・その半分ならまあ納得なんだけどさすがに多すぎるよね。


46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 17:09:24 ID:vCVITMJ1
元本の数間違いかと思ってもうちょっと自力で調べてみたら、
片倉家は江戸初期の13000石だった時代にも軍勢を1467人動員できると
伊達家に届けられていて、実際大坂の役でもこの数を引き連れているそうです。
軍役としてもやっぱり異常な数ですよね…?
ますます分からなくなりましたが、この家が何かおかしい事は分かりました。
騒がせてすみません。

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 17:12:38 ID:O/Km0VAR
伊達領って表高に対して内高多いのかな?

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 17:13:24 ID:1jWIrI4S
表高と裏高かなぁ
それにしたって7500人雇えるくらいだとちょろまかしすぎだし
大坂の時の軍勢1467人が家中の半分とかなら理解できない事もないけどねぇ…

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 17:18:31 ID:1jWIrI4S
7500人の家臣団って足軽中間入れても国持大名クラスでも多いよな

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 17:27:03 ID:O/Km0VAR
7500人は妻子込みじゃない?
[ 続きを読む ]

伊達政宗とお腹のできもの・補足

2009年11月11日 00:21

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 12:45:36 ID:cvaM4Gku
前に出た http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1451.html の話の補足を。
この時主君の腹に焼き鏝を押すよう命じられた片倉さんは考えた。
殿のお命にも関わる一大事、焼ききれないようなことがあってはならぬ!
そこで慎重な片倉さん、ひとまず焼き具合を試してみることにした。

ジュウウウゥゥゥゥゥ
( ;●Д゚)エエェェ

自分の腿で。

(#゚Д゚)「これだけ焼けるなら問題なし!殿、いきますぞ!!」
( ;●Д゚)「お、おうっやってくれ!・・!!!!!!!!!!!!ガクッ」

何でもこの時の治療、ただ焼くのではなく鉄棒で腫れ物に穴を開けて膿を出すという
荒療治だったらしい。
もちろん麻酔なんてなし。そりゃ気絶もしたくなるってもんだが、

(#゚Д゚)「武家の大将がなにこの程度で気絶してるんですか!そんな子に育てた覚えはありません!
水でも飲んでシャキっとしなさい!」

たたき起こされた。

( ;●Д゚)「・・お、俺としたことがみっともなかったぜ・・」

この治療のあと政宗の傷は一月ほどで落ち着いたそうだが、
景綱の傷は治るまで二月超かかり、その後も馬に乗るたび痛んだとか。
身をもって示した上に教育も忘れない、傅役の鑑の景綱さんでした。




289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 14:14:44 ID:zXWzEM6k
片倉さんやっぱりパネェ

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 15:49:59 ID:nPWHMaYp
DQ眼竜があんなんなっちゃったのって、やっぱり
おかんの血だけじゃなくて片倉さんの教育方針が・・・w

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 16:19:18 ID:knv+8hQ0
オレも腫れ物が悪化して苦しんだ経験あるから痛さが蘇ってくるわ・・・
切開した上に膿を出す為にほじくり返されたよ。

麻酔しても痛くてしょうがなかったのに・・・・

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 16:31:38 ID:jU9medFe
政宗家臣………ヤキ入れ小十郎、新築クラッシャー成実
鬼武蔵家臣……かがみん他ヒャッハー軍団
忠恒家臣………やたら小知恵「は」回る伊勢貞昌など

えー、類は友を呼ぶと申しまして

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 18:32:31 ID:tHPdJy+M
>>292
精神年齢三歳さんのところは家臣団の話題はあまり聞かないなぁ。

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 18:33:03 ID:egVRj4hL
ところで、鏝をウナギと読み間違えて
「?」となったやつはオレだけではあるまい。orz

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 18:35:53 ID:JRW2rGsg
>>293
幽斎さんの時代から、エリート集団である室町幕府奉行衆を中核とした家臣団だったせいか、
非常に都会的でスマートな家臣団って感じがする>三斎さんのとこ。

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 18:41:12 ID:T3O+VuWl
そら家臣団までヤンデレだったら嫌だよ、そんなん

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 18:52:58 ID:giVbgekg
細川家臣で鉄砲名人のあのお方をお忘れですよ?

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 19:02:06 ID:v0TaOYIu
細川さんとこは家族が強烈だから家臣の陰も薄くなるわな
パパといい嫁といい妹といい…もちろん一番アレなのは(ry

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 20:18:25 ID:/gwDWtRv
嫁ラブな三斎殿や息子、旦那の仇討ちに燃える妹って夫婦仲を大事にするいい一族じゃないか

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 20:21:41 ID:JRW2rGsg
>>299
どいつもこいつも血の臭いさえしなけりゃねえw

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/10(火) 21:49:49 ID:Xd3jPp8m
政宗、景綱、成実、喜多で一緒に虎哉宗乙、相田康安による教育を
受けてきたわけで、政宗(と学友たち)
の性格を形成した責任はこの教育役たちと
彼らを任命した輝宗パパにあるのではないか。

308 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/10(火) 22:50:12 ID:AkElQg+O
>>305
片倉姉弟はやるこた凄いけどDQNじゃないだろう。
(成実は伊達の血だけあってDQN気ありだが)

でも輝パパはこの世に生み出した親である以上責任は免れられないよな。
・・・過分なほどの報いは受けたが

片倉小十郎の咄嗟の機転が利く逸話

2009年11月10日 00:10

259 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/09(月) 16:30:53 ID:bbTfcFxY
小十郎は確かに戦は今ひとつだね。
そんな小十郎が出世した大きな要因はやはり機転。
>>254の為に片倉小十郎の咄嗟の機転が利く逸話を集めてみた。

・人取橋で本陣が崩れ敵に囲まれている政宗を発見した時、
すぐにはそこまで行けないと思った小十郎は、
咄嗟に「ひるむな小十郎!政宗ここに見てあるぞ!」と叫んで
自分が政宗の振りをして敵を引きつけ、
己の身を危険にさらして政宗の危機を救った。

・秀吉に三春五万石で家臣になれと言われた時、
いきなり断っては秀吉の機嫌を損ねるかもしれないと
その場は受け、後から政宗への忠義を理由にやんわりと断った。

・秀吉に小十郎の刷毛の鑓印の由来を問われ、天下一撫での刷毛であると答えると、
自分も一撫でにするのかと咎められた。
小十郎は咄嗟に刷毛を半分切り落とし、秀吉は残し
天下の静謐を保とうとする心意気を示すと、逆に褒められた。
(その後もそのまま片刷毛の鑓印を使っているので、小十郎的に残したのは恐らく秀吉ではなく政宗)

・米沢城下の火事と片倉小十郎景綱・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1449.html

・片倉小十郎相手に、いつもの市松。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3115.html


あとは咄嗟の話ではないが、
・幼い頃の政宗のコンプレックスだった醜く飛び出た右目を切り取って
引っ込み思案を治したのも小十郎。
・家中が徹底抗戦に傾く空気の中、政宗に小田原参陣を勧め伊達家を改易から救ったのも小十郎。



局面を見極める目に優れ、その持てる智略を全て政宗に注ぎつくした
揺ぎ無い忠臣、片倉小十郎景綱。
幼いころから仕えてくれたそんな大功のある忠臣を政宗がどれほど信頼し、
大事にしていたかは想像に難くない。
そんな小十郎に政宗が報いた逸話がこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1505.html



262 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/09(月) 19:17:57 ID:J/eC/k3y
>>259
なんかありがとう
て、ちょww最後www

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/09(月) 19:25:17 ID:B2B0+2JQ
>・幼い頃の政宗のコンプレックスだった醜く飛び出た右目を切り取って
>引っ込み思案を治したのも小十郎。
無茶しよるで



264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/09(月) 19:49:38 ID:iBaVjtBo
>>259
咄嗟の話ではないが、に
病で床に臥せっていながら
大阪冬の陣・夏の陣の展開
「一度和睦して塀を壊すか堀を埋める。
しかし必ず再戦となる」を予想して、
息子に「一戦目(冬の陣)はほどほどにして力を温存しろ」と
アドバイスした話も入れて欲しい。



265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/09(月) 19:57:14 ID:kiTG+uEg
片倉さんやっぱりパネェな

片倉が農民に撃ち掛けた話

2009年11月09日 00:13

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/08(日) 17:42:36 ID:yAKPOgci
片倉が農民に撃ち掛けた話、
わかりやすいところだと、小学館の小学館ウィークリーブック
週刊戦乱の日本史「摺上原の戦い」には、(ここから引用)

戦場近くの高台では農民たちが大勢集まって合戦を見物していた。
片倉景綱が追い払おうと鉄砲を撃つと、農民たちはわっと大挙して逃げ出した。
この様子を見た葦名勢の佐瀬河内守隊、松本源兵衛隊が
味方の敗走と勘違いし、自らも敗走し始めた。

(引用ここまで)と書かれていて、葦名敗走のきっかけとして書かれてる。
風向きが変わって伊達勢が一気に攻勢に転じ、
葦名勢が乱戦の中押され始めてから起こった、と。




229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/08(日) 21:30:18 ID:Bt51UXnA
ま、そんなんで終わるのもシャクなんで

ソースは「会津合戦記」(蘆名家記)。江戸期に出回った作者不詳の軍記ものなんで
信憑性は薄いとだけ言っておく。

『…先陣猪苗代盛国会津の案内として三引両の旗一流ささせ二千余騎にて控へたり。
二陣は原田左馬助三千余騎、三陣は片倉小十郎四千余騎、本陣は政宗一万余騎にて
磐梯の腰八ヶ森に控へ給ふ後詰は伊達重実五百余騎にて控へたり…

…二陣の原田入替り戦ひけれども、富田(※隆実、蘆名家重臣)は今日を限と思ひ命を
惜まず一心にはげむ程に、原田が陣もこらへずしてくづれけり二陣もやぶれければ
三陣片倉入替て、追つまくつつ五六度まで戦ひけるが、三陣をもふみやぶられ片倉勢も
くずれ政宗の本陣さしてぞ引にける…(※この辺を「片倉がテンパッた」と捉えてるのかと)

…政宗これを見て「先陣富田将監は小勢を以て比類なき働き。これにつづいて会津勢
二陣三陣入替り戦ふものならば、味方大に利を失ふべし。殊に盛重が旗下勢躁がず備を
立るは、いか様なる軍法あらんも知れず。」
と暫し控へ給ふ処に、片倉小十郎鉄炮百挺計を揃へ敵をば打たず、会津方の軍見物に
出たる雑人共、ここかしこの山のはに居たりしを、ことごとく打せけり。

雑人共是を見て「あはや敵の方よりも鉄炮を打ぞ。逃よ!」とて、一度にどつと崩れけり。
盛重の勢は平田勢かけまけ落行と心得けん。又、内々心替に有るやらん、一度にどつと
崩れつつ、「ああ、佐瀬河内守・松本が勢共裏切するぞ。片時もはやく落行け。」とて
一度にどつとくずれ、一めんに引にけり。

時に何者かしたりけん、日橋を引落しける程に、つはもの共川中に馬を乗入或は飛込
水に溺れて死する程に侍七十五六騎雑兵八百人たちまちに死にけり…』

…は前・中・後略、(※)の中はオレ注。長文失礼。
という訳でこの話はここまでにして、いつもの当スレをお楽しみ下さい。

片倉重綱による真田信繁の娘梅と次男守信への保護・いい話

2009年01月29日 00:14

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 12:09:12 ID:Dye44eDp
片倉重綱による略奪説と保護説のある真田信繁の娘梅と漏れなく付いてきた次男守信
その保護説を裏付けるとされる逸話

大坂の役後に行われた敗残兵狩り
当然男児たる守信は捕縛対象だったのだが伊達家は高野山に守信の死を奏上
仙台にいる守信は真田信尹の架空の孫として幕府に嘘を届けた
この段階で伊達家と旗本真田家(信尹系)は危ない橋を渡っている

それから暫く後
松代藩主真田幸道が仙台藩主伊達綱村に招かれ仙台に赴いた時の話
幸道が場内を案内されていると結び雁金の羽織(一部資料には六文銭)を着ている伊達家臣を見つけた
名を聞くと片倉沖ノ進という
だが片倉家の家紋は九曜紋、政宗が忠興に強請ったアレである
不思議がって幸道は出自を尋ねた
家紋からすれば滋野氏に縁ある縁者(滋野氏庶流が海野氏でさらに庶流が真田氏)に思われたし曾祖父昌幸の娘は伊達家臣の妻(との説)だったからである
本家と旗本真田家(信尹系)の関係の深さから、幕府と同じ誤魔化しは通じないと思ったのか沖ノ進は恐る恐る自らが真田信繁次男守信の子である事を告げる
この辺りバカ正直としか言いようがない
ところが、幸道は意外な縁を大いに喜んで沖ノ進の手を取って労いの言葉を贈ったと言われる
沖ノ進の出自の隠匿も快諾したそうな、後世の誇張はあるかも知れないがね
後日、幸道が江戸藩邸に居た時、当時の片倉家当主片倉景長の名で沖ノ進の件に関して感謝の旨を伝える使者が訪れたのは現存書状からも間違いなく事実
その後、真田家と伊達家でどんな話がされたかは不明だが「既に将軍家へはばかるを及ばざる」と、時の仙台藩主伊達吉村の命で沖ノ進は真田辰信を名乗る事になる
信繁子孫である事は明治になるまで隠し通したが…
これが今日まで続く仙台真田家
途中で養子が入り嫡流は途絶えたが子孫の方々が本家の子孫同様真田祭りには来ておられます




916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 12:33:46 ID:0gFDBy0Y
>>915イイハナシダナー
真田信繁も大谷刑部の娘をめとってたり、家系って色んなところでつながってるやね。

……九度山でのギシアンにも効能があったということで、信之兄ちゃん堪忍な

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 13:38:14 ID:uS6m+ZA1
政宗や秀秋がハァハァする美形で大阪の陣じゃ鬼小十郎と呼ばれる活躍
信繁の忘れ形見のあしながおじさんになってその内一人が後妻になる

二代目小十郎のイケメン度は異常

918 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/28(水) 14:35:39 ID:ACul/ecN
政宗「2代目小十郎はワシが育てた」

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 14:37:57 ID:NkRdi6Ro
反面教師的な意味でですね、わかります