356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/14(土) 16:09:54 ID:D4tsbjvi
武士は相身互い
北方の関ヶ原こと慶長出羽合戦。
この時、直江兼続率いる上杉軍二万の襲撃を最初に受けたのが、最上義光家臣、
江口五兵衛光清が守る畑谷(幡屋)城である。
この時江口が、義光からの、山形城への退却命令を「敵を目の前に城を捨てるのは
武士たるもの末代までの名折れ」と拒否し、兼続からの降伏勧告も無視して見事に戦い、
ついに討死した事、これは有名である。
さて、この戦いにおいて江口光清の首を取ったのは、志賀五郎右衛門と言う男であった。
志賀は元々近江の武士で、はじめ蒲生氏郷に仕え、その後氏郷の息子秀行の代になって
領地が大きく削減されると牢人となり、その後上杉景勝に仕えた。
そしてこの軍に参加、敵城主の首を取るという大手柄を立てたわけだ。
関ヶ原の決戦が終わる。
志賀は会津領主に復帰した蒲生秀行に、五百石で召し返された。
やがて蒲生家が改易されると、志賀の息子、五郎左衛門は、九千石の大旗本、
植村忠朝の与力となり、志賀も息子について、江戸へと出た。
志賀、その江戸である人物を見つける。
志賀は息子に頼み、植村忠朝にその人物を推薦、志賀家と同じく、植村忠朝に
与力として仕えることになった。
その人物とは、志賀が首を取った、江口光清の息子であった。
植村忠朝の下で相番となった志賀家と江口家は、それ以後終始、仲睦まじい付き合いをした、
とのことである。
357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/14(土) 18:23:08 ID:V4eOibPe
これはいい話だなあ、本当に
358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/14(土) 22:28:02 ID:BGyKGwbH
ええ話や
武士は相身互い
北方の関ヶ原こと慶長出羽合戦。
この時、直江兼続率いる上杉軍二万の襲撃を最初に受けたのが、最上義光家臣、
江口五兵衛光清が守る畑谷(幡屋)城である。
この時江口が、義光からの、山形城への退却命令を「敵を目の前に城を捨てるのは
武士たるもの末代までの名折れ」と拒否し、兼続からの降伏勧告も無視して見事に戦い、
ついに討死した事、これは有名である。
さて、この戦いにおいて江口光清の首を取ったのは、志賀五郎右衛門と言う男であった。
志賀は元々近江の武士で、はじめ蒲生氏郷に仕え、その後氏郷の息子秀行の代になって
領地が大きく削減されると牢人となり、その後上杉景勝に仕えた。
そしてこの軍に参加、敵城主の首を取るという大手柄を立てたわけだ。
関ヶ原の決戦が終わる。
志賀は会津領主に復帰した蒲生秀行に、五百石で召し返された。
やがて蒲生家が改易されると、志賀の息子、五郎左衛門は、九千石の大旗本、
植村忠朝の与力となり、志賀も息子について、江戸へと出た。
志賀、その江戸である人物を見つける。
志賀は息子に頼み、植村忠朝にその人物を推薦、志賀家と同じく、植村忠朝に
与力として仕えることになった。
その人物とは、志賀が首を取った、江口光清の息子であった。
植村忠朝の下で相番となった志賀家と江口家は、それ以後終始、仲睦まじい付き合いをした、
とのことである。
357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/14(土) 18:23:08 ID:V4eOibPe
これはいい話だなあ、本当に
358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/14(土) 22:28:02 ID:BGyKGwbH
ええ話や
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