382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/16(月) 23:45:30 ID:JhGyGvZm
東北の超弱小大名の相馬家にも一つくらいいい話とか伝わってないですか?
384 名前:1/2[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 02:28:31 ID:FUBLtg/f
>>382
慶長7年(1602)5月、相馬家は佐竹家に連座して改易が決まった。相馬義胤は家臣を集め、
「このままではお家の破滅。佐竹殿から『1万石で仕えぬか』と誘われているがどうか?」
と広く問うた。義胤の嫡男、三胤が進み出た。
「私は反対です。ここは私が江戸に行って徳川殿の怒りを鎮め、少分なりとも天下人の
禄を受けられれば本望です。今、飢えを凌ごうと佐竹に仕えるなら、滅んだほうが良い。」
義胤もこの意見を容れ、三胤は14名の家臣を連れ江戸に向かった。途中、三胤のもとに
義胤に暇を出された鈴木金兵衛と志賀久内が現れた。
「お家の危機なれば推参。お許しあれば如何なる奉公でも勤め上げ、旧恩に報いまする。」
三胤はこの2名の同行を許し、さらに江戸へ急いだ。
江戸に着き、谷中瑞林寺を宿所とした三胤一行は、住職と懇意の旗本、藤野宗右衛門を
招いて相談した。
「お話は承った。して、その話を家康公に通せる要人など、ご存知かな?」
家督相続も済ませていない小大名の子の三胤に、徳川家中の知人などあろうはずも無い。
途方に暮れていると、同行の士の一人、門馬吉右衛門が突然ある事を思い出した。
385 名前:2/2[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 02:29:31 ID:FUBLtg/f
天正も終わり頃のこと、豊臣秀次の関白補任の儀式の際、相馬義胤も式典に参加した。
諸大名は殿中で式典を見守ったが、その従者たちは炎天下に晒されて白洲に控え、義胤の
すぐ下にいた侍も、フラフラになっていた。
見かねた義胤は、「これを笠にされよ。」と、その侍に自分が座っていた円座を貸し与えた。
「か、かたじけない。拙者、徳川家中の島田治兵衛と申しまする。」
この時、義胤の従者だった吉右衛門は、その男・島田治兵衛の名を挙げた。
「かの治兵衛殿、今や徳川家の執事に次ぐ職分とか聞きまする。ぜひ、お頼みなされ。」
「しかし関白秀次公の頃と言えば、10年以上も前の事であろう。その後、音信もない者が
覚えているものか?」
三胤は半信半疑だったが、吉右衛門の強い勧めにより治兵衛に書状を出した。
さて、島田治兵衛重次は2千石の大身旗本として伊奈忠次、次いで本多正信の下で
関東総検地を任される身であった。
(現在、心霊スポットとして有名な雄蛇ヶ池も、貯水池用に彼が造ったもの。)
書状を見た治兵衛は、「覚えておりまする。疎意あるべからず!」
と言い放ち、さっそく三胤の訴状を受け取ると、上司の正信に提出した。
かくて正信による家康への嘆願により、相馬家は旧領三郡の安堵を許された。
のちに三胤は「三成」に通じる名を蜜胤、さらに土井利勝より一字もらい利胤と改めた。
江戸行きに加わった14名はそれぞれ加増、鈴木金兵衛と志賀久内も再び召抱えられ、
瑞林寺の住職の甥を家老の一門に加えた。島田治兵衛と藤野宗右衛門は、利胤個人と
昵懇の間柄になったという。
386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 02:40:50 ID:2CXzq1MA
まさに「情けは人の為ならず」。
いい話だなあ。
387 名前:382[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 04:31:02 ID:xZBsJ9XM
利胤公が江戸へ直訴へ赴いたことは存じていたけれど、
その経緯と陰にこのような良い話があったことまでは知らなかった。
実にいい話です。
>>384-385さん、ありがとう。
388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 06:42:37 ID:yP2TS32M
傘地蔵を思い出した
389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 08:44:16 ID:VjFJO42X
江戸時代は、何をするにも縁故社会だなぁ。
でも、賄賂も無しに奔走してくれるものなんだな。
392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 10:11:14 ID:lZShqV6i
笠地蔵ツボったw
東北の超弱小大名の相馬家にも一つくらいいい話とか伝わってないですか?
384 名前:1/2[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 02:28:31 ID:FUBLtg/f
>>382
慶長7年(1602)5月、相馬家は佐竹家に連座して改易が決まった。相馬義胤は家臣を集め、
「このままではお家の破滅。佐竹殿から『1万石で仕えぬか』と誘われているがどうか?」
と広く問うた。義胤の嫡男、三胤が進み出た。
「私は反対です。ここは私が江戸に行って徳川殿の怒りを鎮め、少分なりとも天下人の
禄を受けられれば本望です。今、飢えを凌ごうと佐竹に仕えるなら、滅んだほうが良い。」
義胤もこの意見を容れ、三胤は14名の家臣を連れ江戸に向かった。途中、三胤のもとに
義胤に暇を出された鈴木金兵衛と志賀久内が現れた。
「お家の危機なれば推参。お許しあれば如何なる奉公でも勤め上げ、旧恩に報いまする。」
三胤はこの2名の同行を許し、さらに江戸へ急いだ。
江戸に着き、谷中瑞林寺を宿所とした三胤一行は、住職と懇意の旗本、藤野宗右衛門を
招いて相談した。
「お話は承った。して、その話を家康公に通せる要人など、ご存知かな?」
家督相続も済ませていない小大名の子の三胤に、徳川家中の知人などあろうはずも無い。
途方に暮れていると、同行の士の一人、門馬吉右衛門が突然ある事を思い出した。
385 名前:2/2[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 02:29:31 ID:FUBLtg/f
天正も終わり頃のこと、豊臣秀次の関白補任の儀式の際、相馬義胤も式典に参加した。
諸大名は殿中で式典を見守ったが、その従者たちは炎天下に晒されて白洲に控え、義胤の
すぐ下にいた侍も、フラフラになっていた。
見かねた義胤は、「これを笠にされよ。」と、その侍に自分が座っていた円座を貸し与えた。
「か、かたじけない。拙者、徳川家中の島田治兵衛と申しまする。」
この時、義胤の従者だった吉右衛門は、その男・島田治兵衛の名を挙げた。
「かの治兵衛殿、今や徳川家の執事に次ぐ職分とか聞きまする。ぜひ、お頼みなされ。」
「しかし関白秀次公の頃と言えば、10年以上も前の事であろう。その後、音信もない者が
覚えているものか?」
三胤は半信半疑だったが、吉右衛門の強い勧めにより治兵衛に書状を出した。
さて、島田治兵衛重次は2千石の大身旗本として伊奈忠次、次いで本多正信の下で
関東総検地を任される身であった。
(現在、心霊スポットとして有名な雄蛇ヶ池も、貯水池用に彼が造ったもの。)
書状を見た治兵衛は、「覚えておりまする。疎意あるべからず!」
と言い放ち、さっそく三胤の訴状を受け取ると、上司の正信に提出した。
かくて正信による家康への嘆願により、相馬家は旧領三郡の安堵を許された。
のちに三胤は「三成」に通じる名を蜜胤、さらに土井利勝より一字もらい利胤と改めた。
江戸行きに加わった14名はそれぞれ加増、鈴木金兵衛と志賀久内も再び召抱えられ、
瑞林寺の住職の甥を家老の一門に加えた。島田治兵衛と藤野宗右衛門は、利胤個人と
昵懇の間柄になったという。
386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 02:40:50 ID:2CXzq1MA
まさに「情けは人の為ならず」。
いい話だなあ。
387 名前:382[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 04:31:02 ID:xZBsJ9XM
利胤公が江戸へ直訴へ赴いたことは存じていたけれど、
その経緯と陰にこのような良い話があったことまでは知らなかった。
実にいい話です。
>>384-385さん、ありがとう。
388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 06:42:37 ID:yP2TS32M
傘地蔵を思い出した
389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 08:44:16 ID:VjFJO42X
江戸時代は、何をするにも縁故社会だなぁ。
でも、賄賂も無しに奔走してくれるものなんだな。
392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 10:11:14 ID:lZShqV6i
笠地蔵ツボったw
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