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「義鑑公御舎弟八郎殿、大内家を継ぎたまうこと」

2021年12月26日 15:58

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/25(土) 23:13:53.37 ID:fzoKlB+k
大友記」より「義鑑公(宗麟)御舎弟八郎殿、大内家を継ぎたまうこと」
百済国の王子林処(琳聖)王太子より二十八代の後胤、周防豊大内義隆公、安芸の毛利陸奥守元就と戦いたまうこと類度におよばれども、
大内殿大身にましませば御馬を出さるることなく、冷泉院などという侍大将に人数少々相添えあしらわせたまう。
元就公は仕出の侍、弓矢をとりて、かく器用なれば心がけ深くして大内殿の国おおかた元就が手に入り、
大軍をもって義隆居城周防山口へよせければ、義隆一戦にも及ばず深川大寧寺にいらせたまう。
元就つづいて追いかくれば、力なく天文二十年辛亥九月朔日に義隆公、父子ともに御腹召さる。
既に大内家退転しければ大内殿家老陶尾張守晴基(陶晴賢)、
「義鎮公御舎弟八郎御曹司を申しうけ奉り義隆公御跡目に仕りすべまいらせたき」よし、田原近江守を頼りにせんと申し上げる。
右の旨言上しければ、義鎮公仰せら候は
「尾張あるじの義隆をうたせ、元就という敵と合戦ならず、居城山口をさえ敵にとられ籠るべき一城もなく、義隆跡に仕えすべしと申すも無分別なり。
義隆跡に八郎まいりたりと元就聞きそろわば、時日をうつさず大軍をもって押し寄すべし。
その時尾張一身の才覚にて元就に手向かいなるまじく候。
たとい一戦に及ぶといえども、しばしもこらうべきようなければ追い崩れならん事うたがいなし」よし、何事も聞き入れるべかるずとある気配にそうらえども
八郎殿おことわりありて「義隆あとのき、元就手指国にてそうらえば、元就におそれ自ら退き仕り候と、諸人のあざけりも口惜しき次第にて御座候。
元就と一戦を遂げ討死仕り候事ならば子の上の面目にて候」とて義隆跡目に御約束なり。
尾張守よろこび安芸国厳島に城郭を構え、八郎殿を大内義長と号し厳島へいれまいらす。
元就はやりたる大将なれば、やがて押し寄せ一日一夜攻めし戦い、尾張守打ち負け周防豊国長府谷長福寺へ引き退き、
毛利つづいて追いかくれば尾張守討死いたす。義長公力なく御腹召さる。
それより中国八カ国、毛利成敗とぞなりにけり。

毛利元就が大内義隆を討った逆臣で、陶晴賢が大内家再興に努力した忠臣みたいな



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大友晴英(大内義長)とメンデス・ピント

2010年01月01日 03:41

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 23:08:16 ID:2t3UhEZU
波乱万丈の人生を送った割に影が薄い大友晴英(大内義長)のいい?話

大友晴英が子供の頃、府内にポルトガル人の冒険家たちがやってきた
その冒険家の名はメンデス・ピント
ピントは痛風に苦しむ晴英の父、大友義鑑に万病に効く木の汁を与えてその症状を軽くし
冗談や諺などを言って府内の武士たちを大いに喜ばせたため、
義鑑に旅の金子を送られるほど気に入られていた
その一方で義鑑たちはピントが持つ鉄砲の価値にも注目しており、晴英も例外ではなかった
晴英は鉄砲の打ち方を教えてくれとピントにせがんだが、そんな簡単に扱えるものではないと
ピントは一蹴する
しかしどうしても鉄砲が撃ちたかった晴英は義鑑にせがみ、
その義鑑に撃たせてやってくれと懇願されたピントは仕方なく撃たせてやる事を約束したのだった
そして翌日、鉄砲を打つためにピントの住む屋敷に入った晴英は実物を見てテンションが上がったらしく
傍で寝ていたピントを起こさずに鉄砲を持ちだすと、見よう見真似で覚えた鉄砲の打ち方を
実践してしまった
つまり火薬をありったけ詰めて弾丸を装填、顔で押さえた後に火をつけたのである

…勿論銃は爆発、その衝撃に晴英は気絶しその場に倒れた
爆発音で目が覚めたピントが晴英に駆け寄ると、晴英は額と手に大きな傷を負っていた
特に親指はちぎれかけ、かろうじて繋がっている状態で、これを見た晴英の供が館に戻り
「外国人の鉄砲が若殿を殺した」と吹聴した為にピントはたちまち捕えられてしまう
義鑑とその妻、大友家臣たちに囲まれたピントは死を覚悟したが、その危機を救ったのは
意外にも意識を取り戻した晴英だった
「父上、母上、どうか泣かないでいただきたい。私の死は私の過失なので誰も責めないでいただきたい。
ピントを釈放していただけるよう、今私が浴びているその血潮にかけてお願いしたい。
というか解放しないと死んじゃうかもー…」
そう晴英がいうので義鑑はすぐさまピントを解放した

その後、晴英の治療のために四人の坊主がやってきたが、彼らは医者ではないため
何の手だてもできずに議論ばかりを重ねていた。それに業を煮やした晴英が
「その悪魔ども(訳文まま)をどこかに連れ去ってー」と言ったため即退場
事態が好転しない状況に義鑑はピントにどうすればよいか相談した
ピントは「傷口をしっかりと検分さえできれば一カ月以内に治療できます」と答えたが、
家臣の中にとりあえずピントを殺して、もっと優秀な博多の坊主を連れてくるべきだという意見も上がった
義鑑はこの悪魔の手下どもの呪われた勧告(訳文まま)を受け入れようとしたが晴英が
「どんなやり方でもいいからすぐ何とかしてー」と言ったため義鑑はピントの意見を用いてピントに治療させた

ピントの治療が適切であったおかげか晴英は額を五針、親指を七針縫ったものの、事故から二十日過ぎる頃には
ほぼ完治したのである
(メンデス・ピント 東洋遍歴記より)

※このピントはほら吹きで有名であり、この話にも嘘がある
この事故は本当にあったらしいが、治療したのはピントではなく別のポルトガル人だったとか




671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 23:34:24 ID:iR0u7DDB

>>670大友さんの所は大内や菊池の下に養子出した弟を殺したり、本当に兄弟仲良くないのに
英明にそだつものだ。

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 23:59:35 ID:BZAba0KO
>>670
大友晴英って結構いい性格してるなw
陶の傀儡大名ってイメージしかなかった

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/31(木) 01:24:34 ID:UuJ3Puz7
ひょっとしたらたとえ傀儡だとしても俺が大内を立て直してやるとか本気で思って
馬関海峡を渡ったんじゃないか?


馬関ってIMEじゃ出ないんだな

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/31(木) 01:39:28 ID:8LvHnFCV
いやん馬関

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/31(木) 04:01:03 ID:T3Pb6rzs
戦わずにすむんなら今川氏真氏実様が最高じゃ
無慈悲な殺戮も陰険な謀略も無縁じゃ
戦争なんかは外道のやることかってにやってれば
ひたすら文化活動にいそしむ
なんと高貴なおひとじゃのう

クズのたかりども

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/31(木) 04:02:29 ID:T3Pb6rzs
○氏実じゃ蹴鞠ちんちん

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/31(木) 06:32:54 ID:5si0yv5g
氏真、戦ってるし殺してもいるな。

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/31(木) 11:05:54 ID:B19nYQBN
>>672-673
晴英「俺が大内立て直せば兄貴より格式上の大名だぜ!
      兄貴も支援してくれるだろうしな!!」

兄「あ?支援?するわけないだろ。おい元就、弟の身柄なんかより茶器だ茶器寄越せ」

こんな感じかも

西国の名門・大内氏の滅亡顛末・悪い話

2009年02月01日 00:01

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/31(土) 22:31:18 ID:LT8QrkMa
>>46
こうして義隆を自刃させると、晴賢は大友義鎮(宗麟)の弟を「大内義長」として
傀儡当主に据えて家中の実権を握るが、この体制はさほど長くは続かなかった。

まず前々から仲の悪かった杉重矩(豊前守護代)との対立が再び表面化。
晴賢は合戦の末に重矩を長門にて滅ぼすが、今度は石見で吉見正頼が挙兵。
これに呼応した毛利元就に散々翻弄されたあげく、安芸厳島でついに敗死したのは
よく知られている通り。

さて晴賢の死後も大内義長は健在だったが家中をまとめきれず、毛利による
急激な侵食に対処しきれずにいた。

そんな折、杉重輔が陶氏の富田若山城に突如攻め入り、晴賢の嫡男である
陶長房らを討ち取ってしまった。
陶一族を滅ぼすことで父親の敵討ちと毛利との関係修復を同時に実現しようと図ったものだったが、
当然これは大内義長の関知していない勝手な独自行動であった。

この杉重輔の行動に怒ったのが陶長房の叔父にあたる内藤隆世(長門守護代)。
内部対立にうろたえる大内義長の仲介もどこ吹く風で両者はついに山口の町を舞台に
市街戦に突入、
激戦の末ようやく内藤が勝利を収めた頃には栄華を極めた大内文化の中心地は
焼け野原となってしまった。

毛利への恭順姿勢を示していた杉重輔の死は毛利元就の防長侵略に
さらなる口実を与えてしまい、大内家中はますます動揺。
内藤氏においても毛利隆元の妻を姉に持つ内藤隆春が早々と大内を見限り、
隆世ら大内派との分裂が発生してしまう。

ついに長門の西端にまで追い詰められた内藤隆世は大内義長の助命を条件に切腹するが、
義長の実兄である大友義鎮(宗麟)は大内氏秘蔵の茶器ばかりを所望し、
弟の命にまるっきり興味を示さなかったので元就は約束をあっさり反故に。
西国の名門・大内氏はこんなグダグダな顛末で滅亡に追い込まれた。




109 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/31(土) 22:55:05 ID:VeTYbYBv
>>108
なんか一連の流れが風が吹けば桶屋が儲かるみたいだなw

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/01(日) 09:05:04 ID:MUtiDSPd
>108なんつーか、悲しい話だね。

大内の中国地方旧領を踏襲した毛利も同様に
「守護代、地つきの有力国人が強くて(名目上の)当主のいうこときかない」体制で
行っちゃったんだよな…

元就が井上元兼一族をあらかた誅殺してもまだ
TERU元の関ヶ原前夜には一門の両川すら宗家と別々の対応してみたり。


127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/01(日) 10:22:11 ID:qhVgki0b
大友宗麟が大内家に弟を送りこむこと自体、傀儡であることは
わかっていたはず。
この時期の陶氏は、権謀術数におぼれすぎたよね。

大友宗麟は、弟を見殺しにしたわけだけど、肥後でガタガタやっていたし
家臣の反乱で援兵も出せない。
弟に船で豊後に戻るように説得したが、
兄への意地もあって死地にとどまってしまった。

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/01(日) 11:24:59 ID:Jvh/zw4P
>>108
大内滅亡後に、大友宗麟は義隆のいとこの大内輝弘を擁立して山口に侵攻させたんだよな。
もはや大内ブランドは通用せずに、毛利に敗退しちゃったけど。

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/01(日) 11:34:01 ID:GBCzcqgE
>>129
そして大友ブランドの確立に必死杉て加判衆に怒られたりする

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/03(火) 12:33:37 ID:zAhjTsct
>>129
大友宗麟にたぶらかされて寡兵で御家再興夢見て散った大内輝弘と

毛利輝元にたぶらかされて寡兵で御家再興夢見て散った大友義統が恐ろしくかぶってる…

大友はまだ命拾いはしたからマシなのかな?

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/03(火) 13:15:25 ID:Eo2ZDD8e
>>279
小説の話だけど、遠藤周作の「王の挽歌」ではその二人を重ね合わせて描いているな
あと輝弘を義長(晴英)にも重ね合わせていたりする