795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/02(水) 21:58:52.39 ID:ElcQNDgE
上杉家家臣の甘糟備後守清長(景継)は、越後上田衆の出で、槍一本の身上であったが、大剛の働きがあり、
主君覚えの者であった故に登用され、一手の大将となり、上杉景勝が会津に入部の時には、甘糟備後守は
二万三千石余りにて、伊達政宗領との境である大事の所であるからと、白石城に差し置かれた。
彼の弟の登坂式部も覚えの者であったのだが、関ヶ原御陣の時に、甘糟備後守は会津の景勝の元に
行っており、留守をしていた式部は、伊達政宗に謀られ、逆心して白石城を政宗に明け渡した。
それ故に景勝はその兄である備後守を勘当同然に致し、非常に冷遇した。
その頃、家康様より、畠山下総守(義真)に対して、『甘糟が景勝に冷遇されているというのであれば、
上杉家を立ち退くように。私が五万石にて召し出すであろう。』と仰せに成られた。そして御上洛の時、
下総守は屋敷に甘糟備後守を呼び寄せ、その事を伝えた所、彼は
「忝なく存じますが、景勝は譜代の主でありますから、その上意については罷り成りません。」
と言い切った。これに下総守も「尤も」と申され、その事はこれにて止んだ。
ところがこの事を景勝が聞きつけると、以前に弟の事で半ば勘当として悪感情をいだいていた上に、
いよいよ今度の事に、景勝は非常に不愉快になり
「私が義絶、不通の長門守(畠山下総守の事)の所に忍んで参った事、不届きである!」
と、以降言葉もかけずいよいよ疎外した。備後守死去の後は、その子たちに相続を許さず、彼らは
南部か津軽かに浪人して行ったという。
(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)
同内容のものは既に出ていましたが出典が違いかなり詳しいので。
上杉家家臣の甘糟備後守清長(景継)は、越後上田衆の出で、槍一本の身上であったが、大剛の働きがあり、
主君覚えの者であった故に登用され、一手の大将となり、上杉景勝が会津に入部の時には、甘糟備後守は
二万三千石余りにて、伊達政宗領との境である大事の所であるからと、白石城に差し置かれた。
彼の弟の登坂式部も覚えの者であったのだが、関ヶ原御陣の時に、甘糟備後守は会津の景勝の元に
行っており、留守をしていた式部は、伊達政宗に謀られ、逆心して白石城を政宗に明け渡した。
それ故に景勝はその兄である備後守を勘当同然に致し、非常に冷遇した。
その頃、家康様より、畠山下総守(義真)に対して、『甘糟が景勝に冷遇されているというのであれば、
上杉家を立ち退くように。私が五万石にて召し出すであろう。』と仰せに成られた。そして御上洛の時、
下総守は屋敷に甘糟備後守を呼び寄せ、その事を伝えた所、彼は
「忝なく存じますが、景勝は譜代の主でありますから、その上意については罷り成りません。」
と言い切った。これに下総守も「尤も」と申され、その事はこれにて止んだ。
ところがこの事を景勝が聞きつけると、以前に弟の事で半ば勘当として悪感情をいだいていた上に、
いよいよ今度の事に、景勝は非常に不愉快になり
「私が義絶、不通の長門守(畠山下総守の事)の所に忍んで参った事、不届きである!」
と、以降言葉もかけずいよいよ疎外した。備後守死去の後は、その子たちに相続を許さず、彼らは
南部か津軽かに浪人して行ったという。
(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)
同内容のものは既に出ていましたが出典が違いかなり詳しいので。
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