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相良武任の辞世の句

2010年11月01日 00:00

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 19:38:45 ID:cm4c9LzF
相良武任の辞世の句を最近知って同情してしまった。

空蝉の つくしよしとは 思はねど 身はもぬけつつ なくなくぞ行く




185 名前:sage[] 投稿日:2010/10/31(日) 21:13:37 ID:m8oslHVx
>>184

周防守護代の家柄の、あの方が許しません。


191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 22:54:54 ID:UmnmHU72
>>184
相良さんは人吉相良の一族らしいが人吉球磨の山ん中まで逃げればよかったのに・・・
表は2万石でも山深い盆地の人吉は実質10万石ってぐらい豊かなのにね。
他の九州南部地域と違い焼酎を米でつくってるしねえ。

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/01(月) 00:11:59 ID:Q8ALSc9m
>>184

大内義隆の寵臣だけあって辞世も風雅に溢れていますね
主君義隆が諦観の境地とも言うべき歌を残しているのに対して
あえて未練を残しつつと言うのもおもしろいですね。
関わりは無い人物ですが武田勝頼の辞世などはもう悲惨の一語ですが

「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」

武田の弓勢も衰え僅かの供と逃げ惑い、小山田か北条を頼るつもりで東へと進んでいる筈なのに
もはや行き着く先は西方浄土であろう。

武田勝頼勝頼が落ち延びながら見上げた月は
きっと自身の雲行きと同じく雲で少し遮られた弓張り月だったのではと思いますが
弓張り月は秋の言葉なので雲懸った所も合わせて春の言葉である朧月が良く似合います
亡くなる寸前であろうともこれだけ言葉に趣向を凝らす古人は偉大ですね。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/01(月) 01:04:29 ID:soExALX+
>>197
洒落た歌がよめるってかっこいいすなぁ




Wikipedia相良武任
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%AD%A6%E4%BB%BB
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同じ家を三度出奔した男・相良武任

2009年11月24日 00:24

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/23(月) 00:33:32 ID:9NEidfGo
同じ家を三度出奔した男・相良武任

相良武任は大内義隆に右筆として仕えた男である。
義隆に寵愛され右筆以上の権限を持つようになってからは大内家の武断派、
特に陶隆房から激しく嫌われていた。
そんな天文14年4月、武断派奉行による掟書が出される事になる。
殿中並びに私の銭、近年殊に過麗に及ぶと云々~で始まるそれは
「武を忘れるべからずの精神」を説いたもので、
尼子攻め失敗以来すっかり文弱になった義隆とそんな義隆を甘やかす武任を
あてつける内容だった。
家中に居づらくなった武任は剃髪して本家である肥後相良氏を頼って逃げだした。
天文14年5月、武任出奔。

これに困ったのは義隆である。
肥後の安国寺に説得を依頼し、義隆自身も手紙を出して必死に説得した。
3年近く続けられた義隆の説得に、そこまで必要としてくれるなら…><と武任、
大内家に戻ることを決意した。
天文17年8月、武任再出仕。

これにイラついたのはもちろん陶隆房と武断派である。
この頃から武断派は武任だけでなく義隆にも反感を抱くようになっていた。
・天文18年1月、陶隆房・麻生余次郎間の密約を露見させた家人を
麻生が殺害→義隆直々に隆房を詰問
・同3月から5月まで山口に滞在していた毛利元就御一行と隆房が内密に連絡をとり合っている噂
など不穏な空気が家中に漂う。天文19年9月になると隆房による義隆・武任幽閉計画の噂が立ち、
二人はそれを警戒して予定されていた神社参拝とりやめた。
その数日後には逆に義隆による隆房暗殺の噂が立ち、隆房は自邸の警護を固めた。
どちらも噂で済んだのだが武任は怖くなった。このままではやばい。
天文19年9月、武任再々出奔。

武任は逃げた。剃髪して石見の吉見正頼を頼り、船を使って筑前まで逃げた。
筑前守護代杉興運の庇護を受け、花屋城をもらってそこで暮らしていた。
が、逃げたままでは面目が立たないと思ったのか、あくる日筆を持ち自身を弁明をする書状を書く。
これが「相良武任申状」である。自己弁護の他に、
「隆房が謀叛起こすって噂があるけど、この噂を広めたのは杉重矩です><」
「てか重矩も隆房を嫌ってたくせに今になって隆房方についてるねー、ホント不思議だわw」
などと杉重矩を非難する内容もあった。
ある意味これは的を射ており、杉重矩の未来に暗雲をもたらす事になる…がそれは置いといて
これを読んだ義隆、武任を呼び戻した。
天文20年1月、武任再々出仕。

山口には天敵・陶隆房の姿はなかった。
隆房は武任が再々出仕する二ヶ月前に暇乞いを願い出て富田に引きこもっているのだ
謀叛の空気をひしひしと感じていた武任は逃げ出すタイミングを探していた。
天文20年8月10日、武任再々々出奔。

吉見正頼に義隆の密書を届けると、武任は筑前に逃げた。
そして天文20年8月29日、隆房はいよいよ山口に攻め入った。
この報を聞いた武任は花屋城に立てこもった。もう逃げる場所はない。呼び戻してくれる主もいない。
陶軍は容赦なく花屋城を攻め落とした。
享年54歳。首は山口に送られ隆房によって晒し首にされましとさ。

その後、相良武任申状のことを知った隆房は杉重矩も殺しました。
彼も晒し首です。




499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/23(月) 01:11:56 ID:M0ok+of3
同じ名門でも小田とはえらい違いだな
やはり当主の差か

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/23(月) 01:45:25 ID:rNv9d4qv
>>498
陶隆房って短気と言われる割によく我慢してるな

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/23(月) 06:05:55 ID:M0ok+of3
>501
大内の一族で誇りもあるだろうしだし寵愛されてもいたし、昔の義隆を知っていたから
佞臣さえ除けばという思いがあったんじゃないの