fc2ブログ

北条氏政、氏照の切腹

2019年12月05日 18:31

638 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 18:09:28.65 ID:0N8R+1fU
小田原征伐は和睦と成り、小田原籠城の者達は、七月七日より九日にかけて、夜昼ともなく
引きも切らず東西南北に別れ去り、あたかも蜘蛛の子を散らす如きであった。

この時、豊臣秀吉公より北条氏政父子に使者を以て
『和平の証であれば、一旦下城あるべし。』と伝えてきた。

これを見た氏政父子は憤った
「殿下の言葉とも思えぬ!伊豆相模の両国相違無きと言われた以上、この城にそのまま在るべしという
和睦であったはずなのに、約を変じること心得かねる!」

そのように返答した所、秀吉公より
『そういう事であれば和談を破るという事であるから、元のように籠城せよ。いつでも戦って
攻め落とすであろう。』との返事があった。

これに氏政父子は進退窮まり、どうしたものかと考えたが、士卒たちは尽く退散した後であり、
今更籠城するような力も尽き果て、言語道断なる有様であった。
ここで徳川家康公より榊原康政を以て御異見が加えられ、同九日、北条氏政父子三人、および
氏照、氏邦ら伴って、城下の田村安栖(田村安清:北条家侍医)の居宅に移り、城は井伊兵部少輔(直政)、
榊原式部大輔(康政)がこれを請け取り、番兵を以て七口を警護した。そして殿下の命に任せられ、
翌十日には家康公が御入城された。

秀吉公は家康公にご相談された
「我々が遥々とここまで下向したのは偏に北条一族を根切りにするためである。であるのに
今尽く宥恕せばこれまでの発言への信用も無くなってしまう。である以上、氏政氏照は誅殺し、
氏直はそなたの聟であるのだから、今回のそなたの勲功に鑑みて死刑は宥し置く。氏房、氏邦、氏規も
またこれに準ずるべし。」

家康公はこれに御同心され、同十一日未の刻(午後二時頃)、検使として中村式部少輔一氏、
石川備前守貞清、蒔田権佐正時、佐々淡路守行政、堀田若狭守に、井伊直政、榊原康政を加えて、
千五百余騎にて田村安栖の屋敷を固めた。この時までに氏政父子に従う士卒は八、九百もあったのだが、
この軍勢を見ると等しく、我先にと続々と落ち去って残兵も僅かであった。

639 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 18:09:45.97 ID:0N8R+1fU
検使の面々は席に付くと、中村、石川が進み出て殿下の命を伝えようとしたが、余りに痛ましい事だと
思い、黙して言葉を発することが出来なかった。これを北条陸奥守氏照が察し、言葉をかけた

「各々のここまでの御来臨、定めて当家の一類に対する生害の催促なのでしょう。であれば
暫く沐浴の暇を頂き、その間待っていてほしい。」

中村、石川はこの言葉を得てようやく秀吉公の命を伝え、「心閑に用意有るべき。」と答えた。
その後、氏政、氏照は座に坐り、筆を取って傍の帖紙に辞世の和歌を書いた。

左京大夫氏政
 『雨雲の 覆へる月も胸の霧も はらひにけりな秋の夕風』
 『我身今 消とやいかに思ふへき 空より来り空に帰れは』

陸奥守氏照
 『吹と吹 風ないとひそ花の春 紅葉の残るあらはこそ』

氏照は属鏤匕首を取って腹を十文字に掻っ切った所を、家人が後ろに廻って首を前に落とした。
そして氏政、この時五十三歳も続けて切腹した。この時介錯する者が居なかったが、美濃守氏規が
近づいて介錯した。そして自身も腹を切ろうと太刀を取って肌を押し脱いだ所で、検使の面々が
急ぎ彼を掻き抱き「殿下の命は両将のみである!卒爾の義あらば我々の後日の落ち度とも
なりましょう!」と押し留めた。

この時、陸奥守氏照の侍童に山角平太郎という者があり、ここまで扈従していたのだが、検使の面々が
美濃守を押し留めている隙に氏照の首を抱き取って走り出したが、暫くこれを追いかけて奪い返した。
そして氏政の首と同様に、殿下の実検に備えられると、
「王命を恐れぬ不逞の臣である。朝敵にも等しい。」
として、石田治部少輔三成に下知して京に送り、一条戻橋にて梟首された。

衰勢興亡は世の常の習いであるが、早雲庵宗瑞より既に五代の運を得て、九十余年の暦を伝え、
類葉枝を連ね栄華は関八州に冠たる豪家が一時に滅亡したこと、時節の到来とは言いながら
なんと儚いことであろうか。

また、かの山角平太郎は氏照生害の後にあのような仕儀に及んだことで、井伊直政が召し連れて
陣屋に帰り徳川家康公にお聞かせした所、家康公は
「若年の身でありながら主人の首を奪い取ったその志、殊勝の振る舞いであり、奇特の者である。」
と称賛され、御家人に加えられ、後に武州多摩の関戸の郷に所領を与えられた。

(関八州古戦録)

北条氏政、氏照の切腹について。



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 20:01:24.24 ID:GxYuEQnq
>>638
>これを見た氏政父子は憤った
この期に及んで何を言うとんねん(´・ω・`)

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 21:24:34.25 ID:1Oc8oAjB
嫌じゃ嫌じゃ死にとうない死にとうない

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 22:44:29.39 ID:qdHMo2wl
確かに山角はこんな修羅場ですげえ度胸だわ
多摩の関戸って小田原衆筆頭の松田家が代官するいい所貰ってんだな
スポンサーサイト



小田原評定

2019年11月05日 16:14

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/05(火) 07:08:55.43 ID:nFt8FQ3f
小田原の役の事

小田原の頼りにしていた山中城が一日で落ちたことを知ると、小田原城中の者たちはあっけにとられ、
城の各口を守っていた将兵もただごとではないと動揺した。関東武者ともあろうものがと深く不安に
かられている所に、上方勢の総大将である秀吉が、四月一日未明に三島を出馬し、足柄、箱根を越えて
小田原の城まで後半里という湯元真覚寺に着いたとの報が届いた。

上方勢の先鋒は。すぐに分かれて湯元口、竹ヶ鼻、畑、湯坂、塔ノ峰、松尾岳といった各所より攻めてきた
ため、そこを持ち口とする諸隊は臆病風に吹かれ、未だ敵の姿を見るか見ないかのうちに、片端から
道を開けて小田原本城へ逃げ込んでしまった。

北条氏政父子は改めて急ぎ評定を開き、畑、湯坂、米神辺りまでは出向いて戦うべきかを尋ねた。
これに対し松田尾張守入道憲秀が進み出てこう答えた

「勢いに乗って一気に進んでくる大敵に、気後れのした味方を防戦に出しても所詮負け戦と成るでしょう。
それでは大事な最期の一戦にも負けてしまいます。それより一刻も早く籠城の策をとって守りを固める
ことこそ肝要に思います。後は敵の疲れを待つことです。」

この尾張守の主張に、諸将も奉行頭も誰も異を唱えず、ただ手をこまねいてその意見を聞いている
だけであった。後で人々は「何と情けないことであるか。これでは北条家が滅びるはずである。」と
思いあわせた。

かつて早雲から氏康の時代は、明け暮れに軍事に励み、肝胆を砕き、寝食を忘れ謀を帷幄の中に巡らせた
ものであった。あるいは出て戦って勝利を得、あるいは籠城して兵を休めつつ戦い、この戦国の世に大敵を
四方に受けて、これを凌ぎつつ領民を安寧に置いて養ってきたのである。

それに比べれば氏政父子は器が小さく、ただ先祖の余光の中に生きて、いざという時の虚実の策とて無く、
衆を頼んで己を失い、ただ呆然と事態を見守っているだけであり、これでは国を失っても仕方のないことだ。
「鵜の真似する烏の、水を飲んで死ぬ」という言葉があるが、それに似ている。
だから今に至っても、はかばかしくない評議が「小田原評定」と呼ばれ、笑い話と成っているのである。

(関八州古戦録)

これを見るに関八州古銭録が成立した頃は、「長引いて結論の出ない会議」ではなく、「消極的で内容に乏しい
会議」を小田原評定と呼んだようですね。



防戦一方の覚悟を以て望めば

2019年10月28日 17:29

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/28(月) 12:43:00.08 ID:gNYaA4DS
天正17年末になると、秀吉による小田原征伐の動きが、小田原にも伝わった。
北条家中では、北条家の浮沈この一挙に関わる、絶体絶命の時来たりと、心ある面々は眉をひそめ、
手をこまねいて大嘆息しないものは居なかった。

ところが北条氏政、氏直父子はさほど驚く様子もなく悠々として、一族家臣へ向かって
このように言った

「この小田原城は、京から遠く百余里にある。秀吉といえどもそう軽々と兵を動かすこと
かなうまい。しかも小田原の前には、東海第一の難所である足柄、箱根の険がある。
早雲以来五代の臣下が多年守ってきた要害であり、また忠誠なる関東武士があり、知勇備わる
百騎の関東武士は、ゆうに上方の千騎に相当する。

昔、右兵衛佐(源)頼朝公に対して平家の追討軍として、小松三位中将維盛卿が十万余騎の大将として
由井、蒲原まで押し寄せてきた時、彼らは既に関東武士の武勇に恐れすくんでいたため、水鳥の
羽音に驚いて黄瀬川より逃げ帰ったという。
近くは、軍略に長けた上杉謙信、武略縦横の武田信玄らでさえ、城下まで押し寄せてきながら
攻めきれずに退敗した。

そして何たることか、秀吉は卑賤の身より高職に駆け上がり、関西を握ったとはいえ、上見ぬ鷹の
思い上がりである。俗に『凡夫勢い盛んなれば、神仏の祟有り』という。下剋上の天罰は必ず
秀吉の頭上に下るであろう。ことさら不案内な東国に長途の大軍、しかも客戦である。
天険に寄る小田原城を落とすことは不可能であり、また我が城には兵糧弾薬ともに豊富であるから、
五年でも十年でも籠城できる。防戦一方の覚悟を以て望めば、西軍(豊臣軍)を蹴落とした上に、
秀吉を捕虜にすることすら難しくないだろう。」

そう事も無げに大言した。万座の諸士の中には頷いた者もいたが、口を閉じて何も答えず
引き下がった者も少なくはなかった。

(関八州古戦録)



544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/28(月) 12:54:07.32 ID:YseRBnom
信長には土下座外交だったのに…

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/28(月) 17:03:21.45 ID:K9sEKsdv
一度でも上洛して自分の目で見ていれば違う選択肢もあっただろうに

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/28(月) 18:18:32.49 ID:fMj2ZR8Q
>>543
伝聞しかないとこういう感覚になるのも仕方ないのかもしれない
いや家臣はともかく殿様がこれじゃいかんか…

548 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/10/28(月) 21:23:31.12 ID:H3AQXiYY
>>543
> 忠誠なる関東武士があり、知勇備わる百騎の関東武士は、ゆうに上方の千騎に相当する。

「関東武士」「坂東武者」の凄さがイマイチわからん。8尺の樫やら鉄やらの棒を振り回す怪物が本当に実在したなら確かに凄いが、変わり身の早さぐらいしか印象にない。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 08:44:20.62 ID:uskqyWIX
>>548
源平合戦、承久の乱なんかの実績があるからねえ。400年近く前の話だけど。
室町期は関東は関東で別の国という感じだからアレだけど。

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 11:24:17.89 ID:BR5Cz2ml
実際東国のほうが軍制も進んでたし。
北条が人数も装備も厳密に定めたシステマティックな軍制やってた頃
織豊系大名なんて「なるべくいっぱい集めて来て!装備はどうでもいいから!」で
実際に軍を編成するまで何人になるか分からない、とかだもん。

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 11:42:35.04 ID:iOO0lVvw
>>546
本それ

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 15:27:24.32 ID:dAOfI2mW
自分で見ないとわからんもんは確実にあるからな

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 16:26:05.31 ID:xu00R6AT
>>550
それ、東国が進んでいたのではなく、北条が進んでいたというお話では?

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 23:40:14.08 ID:AuUWSkf2
今川が初めて北条武田がパクッて最晩年の織田がパクってでもすぐ本能寺で後を継いだ豊臣が全国に広げたパターン

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 00:50:12.19 ID:6uSaD8pm
>>546
実際に向こうの国を見て、国力が違いすぎて戦争になりません、
という人を臆病者扱いして開戦に突っ走った国がありましたな

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 08:07:25.97 ID:/PVLas5q
ローテーションで見学にいってれば変わったかもしれん

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 08:45:28.89 ID:ziwIggb6
家久のように日記を書く人がいれば

北条一門の歌

2018年09月18日 18:13

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 01:12:50.18 ID:3a6RWHwE
「見恋」 いかにせむ心ひとつに月日へて つゐにあはての浦のみるめを 氏政
「蚊遣火」 ながめるつる月日のひかりに影そへて 草の庵りに蚊遣たくらむ 氏直
世の中にあらぬ草木を求めても 法のみちにふみもまよはじ 氏規
「契空恋」 知らせばや契し事ももしほ草 そをだに絶て思ふ心を 氏堯
逢坂のせきのひかしに武の 名やはかくるゝ十五の駒 氏照
色ゝのさかなはあれど今夜しも わきてさゞいのめづらしきかな 氏光
都路をかけていた鳴駒の音 新月夜にや今や別らむ 氏忠
月もはやさ夜ふけがたになりぬれば かれヽになるむしの声かな 氏邦
「月前雲」 やまかぜの吹よはるより久方の 月のな□□の秋のうき雲 氏能
「通書恋」 かばかりやさきの世くやし玉章の むすぶちぎりはあはじ物かな 氏親
冬のうみの時雨るゝ波のはげしきに 身もはづかしのさゞいなるらん 氏冬
見ぬ花やおもふばかりにかきつばた ふかき色香を面影にして 範冬

(喜連川文書)
足利義氏、北条氏康とともに当時の北条一門が読んだ和歌を氏照が記したとされている
また、範冬とは今川範以のこととされている
問題は現在北条関係で発見されている史料において唯一の所見になる氏能、氏親、氏冬とは誰のことなのか

悪い話というか北条研究で未だ解決されない謎の1つ



155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 08:16:59.64 ID:SFBIDdSW
夭逝した氏政の兄貴が氏親とかいわれてなかったっけ?

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 10:16:28.04 ID:kAdBeT5C
早死したんなら和歌が読めない年齢のはず
母親の身分が低過ぎて虫けら扱いだったんだろうな

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 12:59:53.16 ID:d3+CY0nG
>>155
読んだ順番ではなく一門でも家格順じゃないかなあこれ
氏政が上の時点で氏政が家督継承したか次期家督継承者になってるんじゃないかなあ

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 17:15:20.78 ID:rWqd47zb
今川範以だって?妄言も大概にしろ
可能性があるとしたら氏真だろうな

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:04:26.15 ID:J62I4Vu1
崩し過ぎて読めなくなったんかな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:05:50.75 ID:HApGphN1
>>156
いや最近の黒田基樹先生あたりの北条研究の本を読めよ。「北条氏親」は氏康の嫡男で
しかも氏康の正妻である瑞渓院(今川氏親娘)の子であり、氏政の同母兄だ。夭折と言っても
氏親の名乗りからも解るように既に元服していて、16歳で亡くなったと考えられているので、
このくらいの歌は詠める。

下知につかずば

2018年02月05日 18:07

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 14:55:26.63 ID:hwMsmEIU
軍法、兵略というものは、後代においていよいよ厳重となっていった。
北条家の侍に、大石平次兵衛という者が居たが、彼はこのような歌を詠んだ

『樊カイを あざむく武者を集めても 下知につかずば餓鬼にをとれり』

これを北条氏政聞き及び、「彼は一方の大将とすべき者である」と絶賛し、
実際に足軽百人を預けた。
この事があって、北条の諸侍はいよいよ法度を守るようになったという。

(北條五代記)


人の所為に非ず

2018年01月22日 16:44

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/21(日) 23:29:21.82 ID:QAKBjbLf
小田原城が開城し、北条氏政、氏直、氏照などは下城し、医師安栖の邸宅に居した。
ここにおいて氏政、氏照は切腹したのだが、氏政はこの時、このように言った

「今度小田原城より下城し、早雲以来の五代の興行も、私において断絶する、
きっと、世が静謐になった後には、氏政氏直の籠城の仕様に対して、善悪の評判が起こるだろう。
しかし存亡は皆、天の命にして人の所為に非ず。当家滅亡の時が至ったからこそ、数代の家老である
松田の逆心もあったのだろう。
この一つの出来事を見ても知るべきだ。天命の致すところである。そう思うべきなのだ。」

そう語って、切腹したのだという。

(士談)



494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 10:54:40.16 ID:6+wsPjF9
天下人に頭を下げれないからそうなる
信長であっても臣従しなかったろ

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 12:25:47.34 ID:cpmBsmlg
この期に及んでまだ天のせいとか言ってんのか
お前のせいだろ

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 13:25:55.31 ID:YGHa10Qu
項羽の最期に通じるものがある

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 13:46:37.28 ID:IOqdOmQR
まあ人事は尽くしてないかな・・・降伏する機会は何度もあったわけだし。

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 19:14:37.82 ID:9tAUH3DO
だって儒教系の史料だし
北条は善性しいてたってことになってんだからそれが滅んだからには天のせいってことにしなけりゃアカンだろ

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 01:40:01.65 ID:kYpqHmCq
まだ項羽みたいに綺麗に締められれば伝説なんだけどなあ

氏政公が飯へ汁を二度かけて

2016年02月23日 17:32

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:17:26.49 ID:pY+DLWFU
 北条三代目の氏康公は御子の氏政公と御昼食の時、氏政公が飯へ汁を二度かけて召し上げられたのを氏康公はご覧名さなれ、
 「後に関八州は氏政が世で亡ぶだろう。わずか飯椀の中に汁を入れるということさえ、一度だけで行う加減がわかっていない。
そのようなひととなりではどうやって八ヶ国の人々の目利きをすることができようか」
と御落涙したという。
 その言葉の通り氏政公の御代で滅びました。厳密にいうと氏政公は滅びなさったときは御隠居で、氏政公の御子氏直公の御代で亡びましたということだが、
彼はひどいうつけ者であり、氏政公はその愚昧の氏直公へ御相続させられましたことから、汁かけ飯での氏康公のお目利きは神のごとしだと思われます。

 冷泉家は北条執権のころ無二の懇情でしたが、その後君の御憎しみがつよく遠流となられ、
程経て帰洛の後に、家の掟で武家と縁組等を無くし、今でもその通りであります。
先代の掟をこのように守りなされることは甚だ感心します。
 その他の公家方は時節につれてなされたように思われます。
心ある堂上方はこのことを恥と申されたという。清貧と申す事はとかくならぬ事と思われます。
(本阿弥行状記)



216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:27:17.81 ID:+ttG42F8
本阿弥光悦の時にこの話が広まっていたとは驚き

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 01:45:53.87 ID:nRXKJORI
氏政暗愚説っていうか、まぁ時流を読み間違えたのはそうなんだろけど

だからって汁かけ飯ごときで暗愚判定されるとは、氏政も草葉の蔭で泣いてるんじゃないかな…
もうちょっとこう…あるだろ

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 16:51:20.67 ID:drP4ghCp
2度目に薬味も入れとけばこうもこき下ろされずに済んだハズ

「あれを麦飯にして、早々にここに出すように

2015年05月06日 15:32

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/05(火) 21:54:29.55 ID:m744MYgG
永禄6年(1563)、上杉謙信方の太田資正(三楽)が守る松山城を、北条氏康と武田信玄の連合軍が
陥落させた時のこと。

その陣はとかくあって4月末になり、陣夫たちが馬の餌として麦を刈っているところを北条氏政が見て、
家老の松田憲秀に「あれを麦飯にして、早々にここに出すように」と命じた。
武田信玄はこの言葉を聞くと

「さすが氏政殿は大身であられるので、ご存じないのも道理です。あれは、先ず扱いて、こなして干して、
搗いてまた干して、その後まづきというものをして、食せるようになり、これに水を入れよく煮て、
ようやく麦飯と成るのですよ。」と言った。

北条家の松田、大道寺を始めとした家臣の者達は、『信玄が氏政を下げずんでいる』と、
恥ずかしく思ったという。

(甲陽軍鑑)




747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/05(火) 23:16:39.40 ID:efiNJHlg
太郎晴信と言われていたとき領内の米の収穫を見物した際に
老臣の板垣にあれで餅をつくって持ってこいと命じたらしいねw

748 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/05(火) 23:36:12.27 ID:bk8L788Z
甲陽軍艦て何でこんなに氏政を虚仮にしようとする逸話多いんだろう
第一次駿河侵攻で氏政に信玄が敗走させられた腹いせ?

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 00:24:06.76 ID:K/zNr46c
氏政は北条遺臣の書いた北条五代記でもディスられてるし
馬鹿殿氏政はこの時代の共通認識だろ

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 02:28:26.98 ID:88LFcJYm
秀吉と敵対した大身の大名の中で滅亡させられたのは北条のみだしね

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 03:46:49.18 ID:vxBWnKFh
実父からは「北条は俺の代で終わり」と嘆かれ
義父からは「婿殿は物を知らぬ」と蔑まれるバカ殿氏政

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 10:10:30.37 ID:NpPIqbQ/
>>737
謙信の影武者は戦国最強

信玄影武者との一騎打ち

北条の大軍が包囲する唐沢山城を僅かな手勢で突破

小田原包囲戦の際、鉄砲の射程圏内で平然と弁当を食う

本物は超用心深い

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 10:23:35.96 ID:4Ht9e4Kr
>>751
実際に終わったのは俺の孫の代でしたw残念!

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 11:56:05.84 ID:P49wh2UI
河内狭山藩ェ…

北条氏政妻、鳳翔院の事

2015年04月13日 18:47

830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/04/12(日) 18:50:57.84 ID:f4K0Om5X
北条氏政の妹が実家へ帰らず武田勝頼と運命を共にしたという話は有名だが、氏政にも小田原征伐の際に運命を共にした妻がいた。

氏政の継室である鳳翔院は一説では公家の関係者ではないかという話もあるがその出自は明らかにされていない。
彼女は小田原籠城中に氏政七男の勝千代を産んだらしいが、六月十二日に氏政母の瑞溪院と共に自害したと伝わる。

小田原市にある北条氏政・氏照の墓と共にある氏政妻の墓は前妻である黄梅院の墓と言われているが、北条氏と運命を共にした鳳翔院の墓という説も存在する。



北条氏政は人よりもきわめて酒好きであり

2013年06月14日 19:50

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/14(金) 17:54:17.88 ID:NdGSkZ+w
この(北条)氏政は人よりもきわめて酒好きであり、常に長座して大酒であった。

酒の途中で座を立つことにはおきてを用いたので大小便も不自由となり、
毎度見苦しいことが多かった。氏政はこれを見て快気したと云々。

――『当代記』




840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/14(金) 18:11:52.39 ID:quaWMlMW
スカトロマニアすか

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/14(金) 18:40:00.59 ID:u9TOWBaL
氏康さんがディスるべくアップを始めました

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/14(金) 19:09:06.03 ID:lGhj9vKP
花の慶次で常に酒瓶片手にしてたが、あながち間違いでもなかったの

三浦三崎はガチの名勝

2012年11月13日 19:57

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 18:40:46.46 ID:zTJiC/oF
北条と唐国との話が出たので北条五代記の該当部分をば
ただ逸話というほどの分量ではないので箇条書きでまとめるのはご容赦

・三浦三崎はガチの名勝
・名勝ってだけじゃなくて交通の要衝だし、水底は深いし、幾千艘つないでも余裕の良港すぎワロタw
・日本だけじゃなくて唐国にも知れ渡ってるマジスゲーwww
・氏政が三官っていう唐人に虎朱印判状渡して、唐国の黒船が来航したよ
・そいつら三崎の良港ぶりにめっちゃ驚いててワロタwww
・安藤豊前守が通訳交えて唐人と売買したよvv

八王子から外来の器とかそこそこまとまって見つかってるらしいし、
ある程度交易はあったっぽいね




393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 19:24:48.74 ID:12gephJg

>>392
三崎地図でみたら島と半島で囲まれてんだな
屋島とかあと鎌倉は人口島で同じような地形作ってるね
中世から近世の港の特徴なのかもな

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 19:29:47.40 ID:1hq8lkjn
湾内が広くて水深が深くて沖からの風波を防ぐ
山がそのまま海底につながってるような場所で沖を半島や島で囲まれてる所が天然の良港になるんだろうな

あるいは、とらねばならなかったと言うお話

2012年06月29日 21:01

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 13:20:32.73 ID:uHRpgtHv
天正十四年ころから「世間物騒の時分」につき、あれやこれやと上方対策を始めていた後北条氏だが、
天正十五年に入ると、正月に小田原城、五月には上野の箕輪城と松井田城、
一〇月武蔵岩付城、十一月箱根の山中城、足柄城と領国全土で普請を始めていた。
上杉、佐竹に加え、天正十四年十月に秀吉に臣従した徳川と、
全方面からの攻撃が予想されたからであった。

しかしそんな普請で忙しい最中のはずの天正十五年五月、
武蔵の各地では北条氏邦や氏房の命令で、堰や堤の構築が行われていたりもする。

実はこの時期、上記普請の連発のためか、北条領国内では退転欠落が続発していた。

「御国の御用につき」と言う理屈で百姓を動員していた北条だが、
一方で懐柔策もとっていたと言うお話。
あるいは、とらねばならなかったと言うお話。



230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 14:23:37.93 ID:itjA/vHi
無様だなぁ

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 16:37:21.52 ID:+6+KYZzv
「猿wwww」「成り上がりふぜいがwwww」とかいって
余裕ぶっこいてた連中よりはまし

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 16:59:21.95 ID:TJpXzbS6
一庶民に対して国のために戦えっていうのは、近代以降の概念だからなー
数百年ばかり速すぎた、北条は未来に生き過ぎた

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 20:19:45.23 ID:aPDrTFXH
善政を敷いてたのが仇になったか

北条氏政「関八州無双の剛民である。」

2012年04月02日 21:31

497 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/01(日) 20:31:18.29 ID:Lws+kWvc
1571年、北条軍が対陣していた佐竹義重の軍勢による夜襲を受けた際、戦場となった地の農民の一人が
北条方として参戦し、敵の首を取る武功を立てた。そこで氏政は、この農民を

「関八州無双の剛民である。」

と称賛し、『岩井兵庫助』の名前と領地を与えて武士に取り立てた。またこの戦いでは、

「北条軍の武士に助太刀して敵を倒したが、その武士に首を奪われた。」

と訴える農民もおり、氏政はその農民にも褒美を与えるとともに、

「農民ですらこの様な心構えをしているのだ。諸士も自らを省みて恥じ入るであろう。」

と語って家臣を戒めたという。農民から首を奪った武士は恥をかく事となったが、戦勝で機嫌の良かった氏政は

「若輩の身に加え、初陣でもあるから褒めて遣わす。真っ先に切り込んだのは手柄である。」

と声をかける心構えを見せたという。 氏政が部下にプロ意識の徹底を促した逸話である。




498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 21:04:45.40 ID:e+pB7/I0
戦国の農民は怖いな

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 21:24:55.44 ID:i+qru6Cu
宣教師に戦闘民族と書かれたのも納得。

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 21:55:36.84 ID:8VnEpluP
合戦の度に落ち武者狩りが跋扈するからなぁ

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 22:10:07.17 ID:hZbxTPZh
秀吉の九州攻めの真っ最中に、たまたま少数でいた秀吉の兵を襲った命知らずな百姓たちがいた、と
フロイスさんが書き残している

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 22:28:52.09 ID:MKDuo9Yq
戦国期の百姓なんて山賊と紙一重だもんな

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 23:21:57.46 ID:WVnUks5a
七人の侍でも農家の床の下から武器も鎧も酒もどんどん出てくるもんな(笑)
あの映画の時代設定は戦国時代末期だったっけ?
久蔵と菊千代カッコいい
観てない人は是非観たほうがいいと思う
黒澤明の代表作とされるだけのことはあるから

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 23:25:29.73 ID:ZV3FBf7J
百姓に限らず、京都市民も合戦で没落した側に対し、隊列を組んで襲いかかることもあった。
まあ戦国期の日本人はみんな危険だということだw

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 23:33:49.03 ID:WHFrz//e
農民は日和見菌みたいなもんだし
普段は中立だが弱っていると牙をむく

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/02(月) 00:24:13.71 ID:WdOtsat7
貴重な収入源だもの

北条氏政、徳川家康との会談にて

2012年04月01日 21:31

499 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/01(日) 02:45:07.29 ID:Lws+kWvc
北条氏政は1586年、三嶋大社への参拝の際に、同盟関係にあった徳川家康と面会の約束をした。
黄瀬川を越えて、わざわざ北条領まで出向く形となった家康だったが、対面の際は氏政を上座に据えて

「両家の領地の境にある城を破却して境界を無くそうと思います。また、そちらが東北地方に出陣する際には
 私が先手を引き受けましょう。」

と、北条方を喜ばせる事を述べた。宴席が始まると上機嫌になって深酔いした氏政は、家康の膝の上に
寄り掛かって脇差を抜き取り、

「若い頃から『東海一の弓取り』と呼ばれた家康殿の刀を取った。この氏政は大功を立てたぞ!」

とはしゃいだという。しかし、そんな中氏政は家中の状況を観察されており、宴席の後家康は

「北条の世も終わりだ。家臣の様子で察しが付く。」

と述べたという。




500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 02:50:53.47 ID:i+qru6Cu
肝心の家臣の様子が分からねぇw

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 05:44:55.01 ID:RahubMFT
確かに、そこが一番気になるところなのに

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 09:03:10.24 ID:p4WvLrAk
贈り物の価値がわからずに駄目だこりゃって言われた事もあったな後北条

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 09:07:14.71 ID:/Ezenwsk
家臣に緊張感が無く緩んでいたとかだろうな

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 10:07:40.46 ID:nCngcJAr
三河武士や黒田武士なら無言でフクロにしてるレベル

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 10:11:07.26 ID:HFvgWCYx
GOで家康と氏政が密会してた場面を思い出した

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 10:13:48.16 ID:1hBpg9gG
悪酔いした主君を止めたり嗜めたりする家臣が一人もいなくて
氏政の腰巾着ばかりだったんだろ。
三河者と真逆。

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 10:18:54.12 ID:HFvgWCYx
味噌汁エピに続き新たな氏政無能伝説の誕生である

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 11:06:35.88 ID:nmhyNvdo
氏政、これはアカンわ。無礼ってレベルじゃねーぞ

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 12:05:54.31 ID:B41cWuil
君主大名の類に属する人が
同盟相手のファイナルウェポン脇差を抜き取り大功立てた(ドヤァ
とか喜んじゃってる時点でもうね・・・w
東海一の弓取りに上座に座らせてもらったうえに領境の城を破却して
おまけに先手まで引き受けるなんて言われちゃったもんだから
家康が事実上の従属宣言でもしてくれたと慢心しちゃったのかな?
家臣も家臣だろ、なんつーかもう終わってるよな、しかも相当深刻なレベルで。

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 12:26:50.19 ID:6YxfzfBW
氏政「とったどー!」

511 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/01(日) 12:46:31.05 ID:GqwzcjnH
その話、猿の東北征伐に参陣せいつー謎かけかと思っていたがちがったか?

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 13:15:31.23 ID:kRaE2mQL
>>507
あのエピも氏康以来の椀(汁二回用)をそのまま使ってたら何故かdisられたという説もあるし、前例踏襲を
戒めたという見方もあるが

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 14:05:01.01 ID:j9rxbzsf
こういう話って、徳川が関東に入ってから捏造された可能性もありそうだけどね

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 15:05:55.50 ID:vV6t5JgB
>>513
そんな事を捏造する意味も無いし根拠も無いのに
都合の悪い事は何でもかんでも勝者の捏造かもとか決めつけるな

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 15:57:26.98 ID:cy34oPKK
根拠は無いけど意味はあるわな。両天秤にかけて婿の家を見捨てた立場だし
ほらこんな家じゃ見限られてもしょうがないですよね?ね?と
婿である当主じゃなく隠居が悪く言われる事が多いあたり怪しいっちゃ怪しいわ

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 16:20:04.69 ID:EQCEozjr
山岡荘八の小説にも同じような話あるけど作り話に決まってるだろうが
まあ逸話としては面白いが

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 17:11:52.98 ID:vV6t5JgB
>>517
先手を約束した席の後に「北条の世も終わりだ」と言ってんだぜ
そんなの捏造しても何の利益にもならんわ

>>518
別に大した話でもないのに作り話にする必要はないだろ

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 18:11:02.07 ID:nmhyNvdo
史実か作り話かなんて話は不毛だから余計に突っ込むの控えるべきでは
重要なのはこういう逸話が残ってるって事実だと思うなー

北条氏政の第二次国府台合戦

2012年03月10日 22:00

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/10(土) 07:50:08.23 ID:SXHCuWTR
永禄6年(1563)1月、江戸城の守将、太田美濃守康資の上杉方への寝返りにより、安房の里見義弘が侵攻。
ここに第二次国府台合戦が起こる。

7日、大田の寝返りを察知出来なかった江戸城守備の同僚、遠山綱景、富永直勝らはこの恥辱を雪ごうと
無理な戦いを行い逆に百騎ばかりを討たれ大敗、里見軍はこの勝ちに乗じさらに攻勢を仕掛けた!

と、ここに立ちふさがったのが、この軍の大将である北条氏康嫡男・北条氏政である。
彼は遠山たちの軍の敗北を聞くと旗本に

「敵は勝ちに乗じてここまで攻めてくるに違いない!これを断固討つべし!」

そう下知し、少数であるにもかかわらず敵の来襲を待ち構えた。
案の定攻め寄せてきた里見軍を、氏政の旗本衆は勇猛に切り崩す!
その攻勢を止めただけでなく更に押し返し、首四五十を取る大勝を収めた。
この、勝ちに乗じた敵の大軍を、氏政の旗本だけで防ぎきった戦いぶりに、諸卒は
「氏政様は前代未聞の猛大将である」
と大いに感じいった。

さて、氏政は里見を追い返すと直ぐに、父氏康の居る本陣へと向かった。
本陣では未だ氏政の勝利を知らず、諸将を集め遠山たちの敗北にどう対処するかの軍議が行われていた。
そこに入ってきた氏政は先の戦いを報告し

「私は遠山たちが敗北した時、郎党2名を敵に紛らせ、向こうの陣中を見てくるようにと命じました。
彼らが帰って報告した所によると、里見軍は遠山たちを討ち取ったことに油断し、その諸軍勢を
国府台に悉く上げ、しかもそこで酒宴を行い千秋萬歳をうたっているそうで、その内の一隊たりとて
敵に備えようとする姿勢すら見えないそうです。

敵が来ると言うことを頭から考えず、主人は家来が何処に居るのか、家来は主人が何処にいるのかも
わからない有様だとか。全く、軍規は完全に乱れ、軍隊としての体をなしていません。
これでは義弘の運の末に、災を招かないわけがありません。
今御味方が彼らを急襲すれば、彼らの軍のうち正面の兵は国府台を降りて戦うでしょうが、中軍で
反応できるのは半分程度、後陣にいたってはこの戦いを見物することしかできないでしょう。

しからば、正面の敵は蟷螂の斧に過ぎず、これさえ切り崩せばそれだけで里見軍は崩壊します。
国府台を攻めましょう!私が先陣をつかまつります!」

これを聞いて氏康は考えた。早朝の遠山たちの敗戦は、日の出で朝の光が挿し込むところを、里見軍は
太陽を背にする形で攻め寄せてきた。それに視線が遮られ、それもあって彼らは敗北したのだが、
今は未の刻(午後1時頃)も過ぎ、これからは東にある敵こそ、太陽光線を正面に受ける。

「よろしい!国府台を攻めよ!」

この戦いに北条軍は大勝。里見は多くの重臣や名のあるものを討ち取られた。


北条氏政の奮戦と知略が光る、第二次国府台合戦のお話である。
(鴻台後記)




236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/10(土) 09:33:19.45 ID:bk4aBLps
これは氏政のイメージが変わるいい話だな。
最後の最後で滅亡したせいでイメージ悪いけど、北条の版図を最大まで広げた
名将のはずなんだよな、氏政

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/10(土) 10:06:46.39 ID:3jGOBb4k
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3042.html
まあ、一応、逸話そのものは既出
ちなみに翌永禄7年にも国府台で合戦があったとみられていて、
いままでは1年ほど開きのある両合戦をひとつの合戦として扱われてきた

時系列的には上杉の救援に来た里見勢を国府台で迎撃・撃退
康資の謀反失敗と里見によるその救援と失敗って感じなのかな

まあ、どっちにしろ里見はこれで房総に押し込められるんだけど
槍大膳の息子信茂が生き残っていたら、国府台以後の結果も多少違っていたかな?

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/10(土) 16:33:42.91 ID:rxuTqEh7
>>236
武田の版図を最大まで広げた名将→武田勝頼
大内の版図を最大まで広げた名将→大内義隆

こういうのって版図を広げるために無茶をするのが原因なんだろうか。

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/10(土) 17:06:52.61 ID:m286eOjF
~家の版図が最大になってる時って周囲の勢力も巨大になってることが多いからね

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/10(土) 17:10:44.15 ID:4zSvJL0n
上の立花さんの話と関連付けるなら、版図の広さにも己の分というものがあるって面もあったろう
元就の訓戒例もあるけど

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/10(土) 17:34:09.46 ID:lLG4Kp3L
>>238
この3人が投資トレーダーやったら一気に稼いで一気に破産しそうw

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/10(土) 17:44:15.64 ID:F+QGeJxP
>>238
原因 もっと強い奴がいたから

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/10(土) 18:26:50.98 ID:UE5C+ZI7
>>238
>大内の版図を最大まで広げた名将→大内義隆
大内の最大版図を築いたのは義弘じゃね?

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/10(土) 18:42:41.79 ID:79bp8Zno
義隆の時期は将軍家以上の権勢を誇ってるし

氏政・氏照の最期

2011年04月04日 00:00

474 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/03(日) 11:29:59.15 ID:LinmCTPt
氏政・氏照の最期

豊臣秀吉による小田原攻めは、北条家の領国を相模・伊豆のみとする条件で講和が成った。
秀吉は証として氏政をはじめとする北条一族に城から出るように申し付け、最初は渋っていた氏政らも、
榊原康政の説得により城下の田村安柄の館に移った。

当然、そこに待っていたのは講和の会談などではなく、北条家の取り潰しと氏政・氏照の死罪という通告であった。
秀吉は家康に
「我らが遥々ここまで来たのは、北条家を根切りする為である。ここで奴らを許してしまえば、前の言葉は無かったに等しい。
氏直は家康殿の聟であるので死罪は許そう。氏房・氏邦・氏規も同様で良い」
と告げ、家康も同意した。

北条家側への検使として中村一氏・石川正久らが向かったが、余りも痛ましい裁定に言葉を発せずにいたところ、
その様子をみた氏照は全てを悟った。
「これだけの方々が参られたのは、我らへの切腹の催促であろう。それでは沐浴の暇を戴きたい」


その後、氏照は家臣の、氏政は弟氏規の介錯で切腹して果てた。

左京大夫氏政
雨雲の覆える月も胸の霧も はらいにけりな秋の夕風
吾が身今消とやいかに思ふへき 空より来たり空に帰れば

陸奥守氏照
吹くと吹く風な恨みそ花の春 もみじの残る秋あればこそ
天地の清き中より生まれきて もとのすみかに帰るべらなり

その首は石田三成に下知して京都に運ばせ、一条戻り橋に架けられた。




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 12:14:05.35 ID:27VEjGwZ
氏政さんは氏規さんの介錯なのか・・・;;
お互いどんな気持ちだったんだろ

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 12:45:07.04 ID:hO08aX5+
今度横浜に出張するとき小田原で降りて城を見るとするか
墓もあるんだよな確か

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 12:48:25.91 ID:RfRE4p6G
>>474
この2人の辞世の句好きだ

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 13:41:31.85 ID:CYe+9vZf
>>477
これがそうなの?ってくらい地味だった

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 13:59:54.15 ID:e4Uxizmp
>>474
大道寺を切腹させた件といい、尾藤を処刑した件といい、小田原合戦あたりの秀吉の逸話は
えげつないものが多いな。
それでも氏直は後に織田信雄の大坂の旧宅を宛がわれているし、督姫も大坂入りしているので
あるいはそこそこの大名として復帰する目もあったんだけどね・・・

>>479
鈴を結ぶと・・ってやつだよね?

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 14:51:50.71 ID:cEzvIEtO
>>476
正直なところ、介錯人が氏規で大丈夫なのだろうか…
斬首のプロか剣の達人でも無い限りは一撃で首は落とせないものだし
何度も木こりみたいにエッサエッサと首を斬ったんかな
戦国時代の介錯って時代劇で見るのとは大分違ってたとも言うし
氏規も別な意味でやりたく無かっただろうな

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 22:29:49.39 ID:fQBHq4jZ
>>479
気付かないであの辺の商店街ぐるぐる廻ってたw

甲州征伐の情報

2010年10月22日 00:00

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 17:02:30 ID:fmG5AzbJ
天正十年(1582)2月3日より始まった、織田信長による甲州征伐
織田家と同盟を結んでいるはずの小田原北条氏には、何の連絡も無い。

北条氏政が最初に異変を感じたのは実は早い。
信長の軍が美濃、信濃境に集結した2月3日、北条氏邦の支配する秩父谷から
注進があった

「武田家に何らかの動揺が見られる」

しかしその内容は不明確であり、氏政は「大したことではないだろう」と判断。
更に確かな「正説」を求めた。
この後も氏政と氏邦は毎日書状を交し合っている。

6日付書状
「このところ西国より人が下ってこず、西方の様子がわからない」
どうも織田徳川も、一種の情報統制をしていた模様である。

16日付の書状
「13.14両日の書状を見たが、事実を確かめないことには粗忽な行動はできない。
武田家の方から当方に駆け込んでくるものがなく、10日以降は武田家の情勢が全く
解らなくなっている。当方も何とかして情報を得る努力をしている。」

そして19日付

「京都からの情報が届いた。織田方の武田攻め、間違いない」

翌20日、直ぐに陣触れを出し軍を招集した。
22日付の氏邦宛の書状にはこうある

「織田軍が信濃の平地に展開したとすれば、武田は全く防戦できないだろう」

氏政の戦況予測は正確であった。


さて、このように織田方は北条氏との連携を全くとっていなかったのだが、あの
『信長公記』にはなぜかこう書いてある

『信長公は甲州攻めにあたり氏政に、関東口より攻めこむよう命じた』

信長公記の、特に信長後半期の描写は、織田家の「公式見解」「公式発表」を書き並べたものと
考えていい。
何故信長は、明らかに事実と異なるこのような見解を表明したのか、
色々と想像の出来る現実と信長公記との間の相違である。





895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 17:16:03 ID:0uY98ZBK
信長さんの北条家の舐め方半端ねぇwwww

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 17:18:29 ID:hJQec6XK
これ逸話っていうより、この前出た
「戦国合戦の舞台裏」森本昌広
をそのまま書き写してるだけじゃん

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 17:19:08 ID:BHSCcbN5
武田の領地を北条と分け取りするのが嫌だったとか?
武田潰したら次の敵は北条だろうし。

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 17:28:01 ID:w2s6pPET
武田征伐成功おめでとうございます。って氏政が贈り物したら
この程度の物は腐るほどあるからイラネと送り返されたり
信長様の舐めっぷり半端ないでぇ

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 17:40:10 ID:Ng2lEcLl
>>896
この逸話結構有名だからそれ以外でも結構見る

まあ織田はすでに北條を仮想敵にしてたってことなんだろうな
のちの豊臣の北條に対する姿勢も、神流川の戦いの顛末もあるが
基本織田政権の方針で展開してるし

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 18:00:49 ID:caYaERoE
まあ、放って置く気はさらさらないだろうなぁ>北条
北条に公式通達すればそれによって武田への領土侵攻されれば、
織田からすれば邪魔以外の何者でもないし。

公式発表はするけどあっち側には伝えた
(ように見せかけて実質は情報統制かけて相手に情報を送ってない)
北条が気づいて用意するもその時にはもう織田は武田に相当な距離近づいてる。
結果織田は(信忠の超電撃侵攻もさることながら)北条のエンジンかかる前に武田を撃破し、
北条は「北条って行動遅いよね~」というマイナスイメージを食らうことになる。
機嫌をとろうとするも「そんなのはシラネ」と断られる。

つまり織田の「計画通り(キラッ」

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 18:06:37 ID:Pu3i7ia+
>>899
北条氏政は天正8年時点で信長に鷹13聯を献上して服属の意思を表明し、10年3月には三嶋社に奉納した願文
で氏直と信長の娘との婚約を発表している。
信長は北条を従属的な同盟者と見て>>898のように見下すことあっても仮想的には考えていないよ。

北条氏政「初めての虎印判」

2010年03月08日 00:00

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 16:07:35 ID:wWdcoM6a

北条家で代々当主に受け継がれた「祿壽應穩」の虎印判。

家督を継ぐこととなり、氏康から譲与されたこの印判を
使って氏政が最初に発給した印判状の内容は、
瑞渓院殿の台所への肴の納入を用意させるものであった。

瑞渓院殿とは氏康の正室、つまり氏政の母である。
「当主としての初仕事はオカンのために!!」
初任給で母親にご馳走を買って帰る新入社員を思わせる
氏政の気概に、氏康が「これで北条家は安泰!」と
思ったかどうかは定かでないが、北条家の家族仲の良さを
垣間見ることができるエピソードの一つである。


474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 16:53:01 ID:JpNdemjC
黙れマザコン野郎 戦国にホームドラマしてんじぇねぇ
そんなんだから汁かけもまともにできねーんだよ! 


ってパパが言ってたよ




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 17:22:48 ID:Vw3Q2try
>>474
子持ちの分際で親孝行も考えられない奴は正真正銘の人間の屑って伝えておいて。

ま、孝行かどうかはともかく、なんか納入させる場合は必ず印判状だす家だからなあ。
生真面目と言うか、システマチックと言うか、迂遠と言うか。

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 17:30:46 ID:aHxWa1vS
>>476
> 生真面目と言うか、システマチックと言うか、迂遠と言うか。

毛利隆元「それは同じ城の中に住んでいながらいちいち書状で会話してた僕たち親子に対する」
毛利元就「批判と受け取ってよろしいか?」

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 17:33:28 ID:gjMhGE4X
教室の隅と隅でメール送り合うカップルじゃあるまいしw

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 17:33:38 ID:+a4GTZDg
いや元就さんあんたがちょっと変人すぎるからでしょう

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 17:34:40 ID:tmkXxz2W
交換日記や連絡帳や日誌みたいなものと思えば

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 18:29:42 ID:0bXOo6OI
細川忠利「生真面目にやらないと週二でお叱りが来たり、ハンコが薄いだけで手紙が突っ返されたりします。」

第二次国府台合戦の北条氏政

2009年10月19日 00:12

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/18(日) 09:25:58 ID:6QHr5jyQ
第二次国府台合戦、北条家と里見家や太田三楽が矛を交えた戦いである。
北条氏康がその機転により河越夜戦の再来とばかりに鮮やかに勝ちを決めた
戦いとしてしられている。
しかし実はもう一人、勝利の立役者が居たことはあまり知られてはいない。
そんな彼の珍しい武勇譚。

里見軍が夜中に後退した。
その情報を得た北条氏康は遠山・富永らを先手とし、がらめきの瀬を渡り陣を構えさせた。
そして要衝・国府台を占拠せんとそこに登らんとする北条の先手。
そこにわっと正木大膳が先頭に里見軍が立ち襲い掛かる、そう罠だったのだ。
待ち伏せにあった北条の先手は、遠山・富永両将をはじめ名だたる武士が次々うたれ
散々に打ち負かされた。
浮き足立つ北条軍に余勢を駆る里見軍が襲い来る。
「敵は勝ちに乗じて長途を走り疲弊している。まさにこれを討て!」と、団扇を振るい
手勢に下知をするは北条氏政。
氏政の旗本達は命は義によって軽しと、脇目も振らず一歩も引かず、
氏政勢だけでまっしぐらに攻めかかる。
思わぬ逆撃と連戦の疲労でこれ以上の深追いは危険と追撃を断念、兵を引いた。
里見軍が引いたそこには、钁湯無冷所と書かれた旗が堂々と翻っていた。

里見方は画竜点睛を欠いたとはいえ勝利は揺るがず、日暮れから小雨が降りだしたのもあって
英気を養いまた休息をとることにした。
明日こそは北条を悉く討ち果たさんと万全の体制を整えんとする里見勢、そう「明日」の決戦の為に。

里見の追撃をかわしたとはいえ、その日の戦いは先手壊滅の大敗北なのは変わりない。
北条方では緊急の対策会議が開かれていた。
氏康は遠山・富永を討ち取られたまま引くのは武士の面目が立たぬと即時の決戦を主張する。
それに賛同するもの、一旦引いて体勢を立て直すべきと主張するものなど、
意見は様々まとまる気配もなくまさに小田原評定の態であった。
その時、北条氏政が口を開いた。
「先の戦いの最中、郎従二人を敵勢に紛れ込ませその動向を探るように命じておきました。
 その報告によれば敵は国府台の陣を構え、我が軍を破り遠山・富永を討ち取ると
 諸勢入り乱れて酒宴を催しております。 千秋万歳と謡い、今が戦という覚悟も忘れ、
 夜襲あるを弁えず、主は従者の所在を尋ね、従者は主人の在所も知らぬ有様。
 軍法の秩序もなく勝ちに酔って算を乱したこの体たらく。
 北条勢が急襲すれば敵の前方は台を下りて向かい来るでしょうが、次の手は立ち尽くす他なく、
 後の勢は国府台にとどまるしかありません。
 敵は分散し、前陣の戦いを他の者共は見物するほか術はなし。前の一手も秩序なく
 蟷螂の斧に等しく、それを切り崩したその時は後陣は言うに及ばず。
 この度も氏政前陣」
これを聞いた氏康はついに決戦に決断。
軍勢を二手に分け、一方は氏康、一方は氏政がそれぞれ率いる事となった。
策を講じたその夜半、北条軍は粛々と動き出す。

雨がやみ、しかし霧がふかくふかく国府台を包み込んでいく。



敵を討つ 心ままなる 高野台 夕詠(ながめ)して かつ浦の里     北条氏康




704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/18(日) 18:52:59 ID:wfjPGwnh
>>703おー北条氏政の戦術眼と土壇場での強かさが示されているじゃないか。北条四代目のいい話。

これからすると本人は地味で普段あまり才知も感じさせないが、家のためなら即座に覚悟完了!
毛利隆元みたいな人柄だったんかね…

北条氏政、麦を刈り入れを見て

2009年09月28日 00:12

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 22:04:22 ID:PnnGojQG
まとめスレを見ていたら載って居なかったのでカキコ
有名な話なのでみんなが避けてたのかも知れないが


1562年(永禄五年)四月、北条氏政はとある合戦に出陣し、
兵達の勇敢な声や昂揚振りでにぎわう陣内を家老の松田憲秀と
共に視察していた。そんなある時…氏政は北条鱗の軍旗がはためく
彼方に、地元の農民が田畑より麦を刈り入れている光景を見た。

北条氏政>>おぉ。農民が麦を刈り入れておるな!!。゚+.(゚∀゚*)。+.゚
松田憲秀>>左様でございますな。(゜、。 )ンナニメズラシイカ?

北条氏政>>よし!今日の昼飯はあれで決まりだな。刈り立ての麦だ、
      きっと旨いに違いないぞ!!  。゚+.(゚∀゚*)。+.゚ワクテカ

松田憲秀>>…は。ゎ、若殿…?(゜、。;)ソレハヒョットシテジョークデ(ry

そしてこの話を聞いたのが御隣は甲斐国の戦国大名、甲斐の虎こと武田信玄。
その浅墓な様子を大いに酷評したという。

武田信玄>>(*>ヮ<) ははは、流石は北条氏政は大身の御家のおぼっちゃまだなァオイ!!
      言うことが違うわ、そこに痺れんし憧れもせんが!!

      麦っていうのは刈り取って直ぐに喰えるものではない。
      刈り取ったあと扱いで、こなして、潤して、搗いて脱穀して、
      天日に干して乾かして、また搗いて、水に浸してから煮る。
      そこまで手間をかけて、ようやく喰えるものなのじゃからな。』

他にも、北条氏政の食に関するエピソードに橙とオレンジの話がある。

一時期同盟関係にあった徳川家康が、海外より渡来した南蛮人よりオレンジを
手に入れた。当時は蜜柑の品種改良が進んで居なかったため美味ではなく、
そもそも手に入れようにも紀伊でしか栽培法が確立していなかったため
大変な珍品である。もちろん、家康はこのオレンジを北条氏政にも贈った。

しかし北条氏政、これを受け取っても眉をひそめるばかり。
北条氏政>>…――なんじゃ、これは橙ではないか。こんな煮ても焼いても食えぬもの、
      家康殿は何がめずらしゅうて贈ってきたのだ?。゚+.(゚皿゚#)。+.゚
松田憲秀>>…。(そこで考えるんだ、橙じゃないから贈って来たんだと。)(゜、。;)

なお、橙(だいだい)というのは正月を祝う鏡餅のてっぺんに乗っている蜜柑に
良く似たアレのことである。見てくれは蜜柑に似ているが酸味と苦味がひどく
食用には向かないが、『代々』に音が通じるため縁起物として扱われていた。
大坂冬の陣で遊郭に出かけて失態を犯した薄田兼相が『橙武者』と罵られたのは
『正月の鏡餅飾りにしか使えないような奴』という侮蔑に通じている。

そんな北条氏政の、(北条家五代で最大勢力を為した君主なのにろくな逸話しかない)悪い話。





796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 22:33:22 ID:hvB3zYXE
>>727
氏政は本当にいい逸話が無いんだよな
逸話自体少ないのに悪い逸話しかない


798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 23:04:09 ID:38wPH0Rn
>>792
その逸話(麦の方)自分の持ってる本だと
筆者がフォローしてたw
相模は甲斐と違って豊かだから
ボンボンの氏政には麦は身近な食い物じゃなかったんだろう的なw

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 00:55:33 ID:0Ags9n1x
>>798
豊かとかどうかって話でなく、単に創作だと思う。
中国の東晋の皇帝にほぼまんまな話があるし。


812 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/27(日) 05:35:32 ID:yW2+a2t1
>>792
芝の覇王の家だと、芳情過信^h^h^h^h北条家臣もそう思ったようにかかれてて、
駿河では橙が珍しそうだから、相模からも送るということやらかして、
ますます老廃国との印象をだしてたな

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/27(日) 12:22:06 ID:PLclCwD4
>>812
司馬さんは徳川にも厳しいけど
それ以上に東国の武士に関してはかなり厳しいよな……
基本的に東側の人間からすると時々納得いかん書き方の時あるわ
滅ぼされるべき旧勢力以上の見方はしてくれてないイメージ

氏政は北条贔屓倒しの小田原北条記ですら
歴代北条家当主の中で一人だけ呼び捨てだったり
武勇をアピールする逸話が全然なかったりするし
フォローは難しいのはわかるんだが……