136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/09(金) 01:21:41.59 ID:7qMAvHNA
阿茶の局は飯田筑後(直政)といった者の娘で、今川の家人・神尾孫兵衛忠重の妻である。
天正5年(1577)7月、忠重に先立たれて同7年に東照宮(徳川家康)に仕え奉り、阿茶の局
という。その子の五兵衛は僅か6歳であったのを長丸君(徳川秀忠)の扈従になさった。(原注:
寛永の家譜には、五兵衛守世は天正11年(1583)に初めて見参して15歳であると記す。家
の伝えに誤りがあるか)
この局は殊に出世した人で(家康が)大方御陣中にも召し連れなさる程のことだった。慶長19年
(1614)の冬、大坂の御陣でも常高院殿(初)に連れ添って城中に入り、御調停の事を(家康
の)思召すままにやり遂げ、この局の才覚の程が知られた。
東照宮が神去りませし(逝去した)後、江戸に参ったので竹橋の内に宅地を賜り、また中野村に3
百石の地を宛て行わられた(原注:寛永の系図に清水門の内に『一位様』と記しているのは、この
女房のことである)。
元和7年(1621)の6月、台徳院御所(秀忠)の姫君(和子)を内裏に参らせなさる時、
忝くも御母代に参って都に上り、従一位に叙されたので世では“神尾一位”と申した。されど寛
永の系図にはこの事が見えず、ただ『一位と号す』と記している。
寛永9年(1632)に台徳院が御逝去なされて後、局は出家して“霊光院”という。これより先の
慶長6年(1601)の頃、東照宮の御許しを得て、神田の伯楽町に一寺を営んで“龍徳山光厳教寺
雲光院”と名付けたので、今自らの号をこのように言ったのだろう(原注:この寺は明暦の火の後、
神田田所岩井町に移され、天和3年(1683)に再び深川に移された)。
かくて年は積って83歳、寛永14年(1637)の正月に病重篤に及ぶと(徳川家光は)聞こし
召し、酒井讃岐守忠勝朝臣をもって見舞いなされ「望むことあらば申すべし」とあれば、「雲光院
に寺領を賜りたい」と望み申したので、それならばと50石の地を寄せられたのである。この月2
2日に亡くなった。それから雲光院で後の法要があって御弔いに白金千両を賜われた。
五兵衛守世もしきりに登用なされて、従五位下の刑部少輔になる。母のお陰といいながら、自身も
器量のあった人であるという。弟の内記元勝というのは尼公(阿茶)の養子で、真は松平周防守康
親の家人・岡田竹右衛門(元次)の子であったのを、尼公が布施兵庫の娘に合わせ子になされたの
である。これもしきりに出世して寛永15年(1638)の5月、町奉行の職に補せられ叙爵して
備前守に任ず。寛文元年(1661)に致仕し、同2年に入道して宗休と号す。世に“三老人”と言
われた1人であるという。守世と元勝の子孫は多い。
――『以貴小伝』
阿茶の局は飯田筑後(直政)といった者の娘で、今川の家人・神尾孫兵衛忠重の妻である。
天正5年(1577)7月、忠重に先立たれて同7年に東照宮(徳川家康)に仕え奉り、阿茶の局
という。その子の五兵衛は僅か6歳であったのを長丸君(徳川秀忠)の扈従になさった。(原注:
寛永の家譜には、五兵衛守世は天正11年(1583)に初めて見参して15歳であると記す。家
の伝えに誤りがあるか)
この局は殊に出世した人で(家康が)大方御陣中にも召し連れなさる程のことだった。慶長19年
(1614)の冬、大坂の御陣でも常高院殿(初)に連れ添って城中に入り、御調停の事を(家康
の)思召すままにやり遂げ、この局の才覚の程が知られた。
東照宮が神去りませし(逝去した)後、江戸に参ったので竹橋の内に宅地を賜り、また中野村に3
百石の地を宛て行わられた(原注:寛永の系図に清水門の内に『一位様』と記しているのは、この
女房のことである)。
元和7年(1621)の6月、台徳院御所(秀忠)の姫君(和子)を内裏に参らせなさる時、
忝くも御母代に参って都に上り、従一位に叙されたので世では“神尾一位”と申した。されど寛
永の系図にはこの事が見えず、ただ『一位と号す』と記している。
寛永9年(1632)に台徳院が御逝去なされて後、局は出家して“霊光院”という。これより先の
慶長6年(1601)の頃、東照宮の御許しを得て、神田の伯楽町に一寺を営んで“龍徳山光厳教寺
雲光院”と名付けたので、今自らの号をこのように言ったのだろう(原注:この寺は明暦の火の後、
神田田所岩井町に移され、天和3年(1683)に再び深川に移された)。
かくて年は積って83歳、寛永14年(1637)の正月に病重篤に及ぶと(徳川家光は)聞こし
召し、酒井讃岐守忠勝朝臣をもって見舞いなされ「望むことあらば申すべし」とあれば、「雲光院
に寺領を賜りたい」と望み申したので、それならばと50石の地を寄せられたのである。この月2
2日に亡くなった。それから雲光院で後の法要があって御弔いに白金千両を賜われた。
五兵衛守世もしきりに登用なされて、従五位下の刑部少輔になる。母のお陰といいながら、自身も
器量のあった人であるという。弟の内記元勝というのは尼公(阿茶)の養子で、真は松平周防守康
親の家人・岡田竹右衛門(元次)の子であったのを、尼公が布施兵庫の娘に合わせ子になされたの
である。これもしきりに出世して寛永15年(1638)の5月、町奉行の職に補せられ叙爵して
備前守に任ず。寛文元年(1661)に致仕し、同2年に入道して宗休と号す。世に“三老人”と言
われた1人であるという。守世と元勝の子孫は多い。
――『以貴小伝』
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