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相手によって褒めどころが有るのだ

2019年08月03日 17:39

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/03(土) 01:07:32.75 ID:Huf6utXP
金森出雲殿(可重)が伏見から宇治へ行かれて方々の茶会に出席され。さらに当地奈良に来られ、
ここでも方々で彼を招いた茶会が有った。その時、拝殿右馬丞という春日若宮の禰宜が持つ茶入を
ご覧になりたいということで、私も相伴しての茶湯があった。

出雲殿はこの茶会を称賛され、「京より南には無い茶会であった。」と言われたので、私が
「当地においては、下手と言われます。」と答えると、「他はともかく、都にもまれな掃除の良さであった。」
と仰られた。

侘数寄は気遣いを専らとするが、侘びであっても出来るのは掃除である。
名人というものは相手によって褒めどころが有るのだと思ったものだ。

その右馬丞の茶入というのは、現在は尾張大納言様(徳川義直)の元にある小肩衝の事である。

(長闇堂記)



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金森出雲殿が最も目利きの巧者と言われた

2019年08月01日 18:17

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/01(木) 17:36:48.65 ID:4/OV32Gj
古田織部殿の時代は、金森出雲殿(可重)が最も目利きの巧者と言われた。彼が堺で肩衝を
金子3枚で買われて領地の飛騨に下り、火口の釉薬がむさいと焼き直された。

この行為について上方で取り沙汰され議論となった座に、薮内紹智という古い目利きの巧者で、
かつ有名なひねくれ者が有り、彼が
「みなさんそう言われるが、出雲殿は焼き直される目があって買ったのだ。みなさんにはその目が
無いのだろう。」と言った。
そのような事を誰の前でも高言したため、人々から大変憎まれた。その後、夏切口(茶壺に封じた茶を
冬まで待たず初夏に口を開くこと)として、客60人ばかり、大名衆、京町方への振舞があったのだが、
これを主催する人々は紹智を嫌っていたため彼を除外し、「紹智講」と名付けた。

その人々が翌春、東山に各々茶箱を持ち寄って比べられた時、金森出雲殿も上京された。
かれは茶箱に例の焼き直された茶入を入れ、蓋と袋(仕覆)も作り直したものを取り出された。
これを見た人々は「あの茶入ならば、類なき侘びしさだ。」と評した。この後、茶箱に唐物茶入を
入れることが流行した。

金森出雲殿にどのように焼き直したかを尋ねたところ、灰を湿らせて釉薬を残したい部分を灰の中に
押し込み、廻りに火を置いて焼いたのだとの事であった。
その茶入は後に伊藤掃部殿(元豊臣秀長家臣)の所持となったが、海に取り落とされたのだという。

(長闇堂記)



128 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/08/02(金) 12:33:33.45 ID:Ps3Ppnlx
>>126
薮内の名誉回復は無い話なのか

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/02(金) 15:01:02.87 ID:Wd9Qn8xC
>>128
妙本だけど、書いてあるのはこれだけですね。

金森可重の愛妻遍歴

2009年11月27日 00:08

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 09:33:03 ID:idBdSMEq
金森可重の愛妻遍歴

飛騨国高山藩主・金森長近の息子(養子)に二代藩主・金森可重という男がいた
二代将軍秀忠の茶道指南役を任されたり何気にスゴイ人物だが
一人の女にゾッコンになるとどうにもならない面倒くさい人物でもあった。

最初の正室は遠藤慶隆の娘にちょっかいを出して正室に迎え
気持ち悪いぐらいに可愛がりあまりにも溺愛してくるので側室も多く不安の身では
あったが室町殿はあまり機嫌は損ねず妻として平穏な日々を暮らしていたはずだった・・・
が、とある風の噂が可重の耳に届いてしまった・・・。

可重が聞いてしまった噂は文禄三年(1594年)に絶世の美女と名高い
高家名護屋氏の娘(名護屋高久の娘)が津田織部と離縁したとの事だった。

そして今は弟の名護屋山三郎を頼り伊勢で二人で暮らしていると聞きつけ
可重はさっそく伊勢へお忍びで偵察に向かいあっさりと一目惚れしてしまった。

だが、この弟は主君の蒲生氏が亡くなっていたので喪に服している最中であり
離縁したばかりの姉と慰め合って生活している真っ最中で、森家の当主と妹の婚儀ですら
両家の友人代表として媒酌人を務めた細川三斎忠興の必死の説得で何とか出席したほどで
主君の死で気落ちと苛立ちの波にあり下手に近寄れなかったので可重は手紙攻撃に出た。

「重頼の母堂ハ名護屋因州女也始ハ津田織部嫁せられしか文禄年中離別有りて後弟の
三左衛門が許に居られしに美女なる故可重の乞求て伊勢国より入興なり」
 ※金森家『家説類聚』より

ストーカーしまくったあげくに一切引く気がないので名護屋氏の方のほうが折れて嫁いだ
そんなこんなで名護屋氏の方の呼び名は、「伊勢のかみさま」「中段さま」と呼び名が上がっていき
慶長十九年(1614年)室町殿との間の長男・重近を廃嫡、続け様に次男・重次すら遠ざけ
遂には室町殿を離縁、名護屋氏の方を継室にし二人の間に生まれた三男・重頼を藩主にしたので
室町殿母子たちは山内一豊に嫁いだ室町殿の叔母・千代を頼って家から出ていくしかなかった。

元和元年閏(1615年)6月3日に可重は最終的に「慈弘院」という号となった継室
名護屋氏の方の死後1カ月もたたずに謎の死(死亡理由が一切不明)を遂げた。




624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 18:52:14 ID:/mYZM9Uc
>>613
ひでぇな、これw

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 19:19:57 ID:GyLFU62o
重近って確か有名な茶人になってたような気がするけど、彼の廃嫡にはそんな背景があったんか…

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 19:21:21 ID:Vv/9T7oL
嫁さんが格上の家の場合に良くある話と思って調べたが

名君3代目も森家の小澤さんから従妹ゲットで4代目にして
4代目も本多家から森忠政の孫娘にあたる姫をゲットして5代目にして…

金山家には奥さんの家の血をひく嫁しか許さんって遺言でもあったのよw
政略婚だとしても三代続けて近親婚とかこわいわw

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 19:54:20 ID:/mYZM9Uc
必ず森家の血も混じるようになってしまたから金森家に改易される運命が待ってたんですね、
分かります


630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 21:53:21 ID:Vv/9T7oL
>>626
金山家ってなんだよ金森家か そして遺言でもあったのかよだった