992 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/27(水) 23:20:11.45 ID:FxsOh3OW
一年に一日だけの臨時駅
天正二十年(1592年)七月十八日、島津歳久、帖佐郷竜ヶ水(現在の鹿児島市吉野町平松)にて
自害す。享年五十六歳 戒名 心岳良空大禅伯
歳久の首級を確認した義久は号泣したという。
遺体は帖佐の総禅寺に埋葬され、義久は秘かに歳久の廟を島津家の菩提寺福昌寺に建て、
墓を同寺内の恵灯院に建てました。(現在、福昌寺の貴久の石塔の後方に歳久の石塔がある)
秀吉が没した後の慶長4年(1599年)に義久によって歳久の最期の地に菩提寺が建立され、
歳久の戒名の一部を取って曹洞宗滝水山心岳寺と号された。
歳久の命日には参拝の人々が多く集まり(「心岳寺参り」)島津忠良所縁の「日新寺参り」、
島津義弘所縁の「妙円寺参り」共に心岳寺に詣でることが大流行した。それぞれの命日に
それぞれの菩提寺に詣でるこの習慣は「鹿児島三大詣り」と呼ばれた。
「鹿児島三大詣り」は、実際は「お参り」というより鹿児島から夜を徹して長距離を徒歩行軍し
目的時間に到達する「軍事教練」に近いものであり、特に心岳寺への道は江戸時代までは
海岸沿いの街道(磯街道、現在の国道10号)及び鉄道(日豊本線)は全く無かったために
西側の裏山から断崖絶壁を下るという厳しいものであった。
(明治3年(1870年)に寺号を廃して神社へ改め、平松神社となる)
1908年(明治41年)「心岳寺参り」へのアクセス目的として、その日だけ使用される「心岳寺駅」が
重富駅 - 鹿児島駅間(現在の重富駅 - 竜ヶ水駅間。当時竜ヶ水駅は未開業)に設置された。
大正元年八月十九日付の鹿児島新聞には、
「十七日夜の客車は一回平均十一台を連結し、最も多く連結せしは、十一時三十分の
十五台なり。午後三時半頃より小児と老人多く、一般拝客は午後九時、十時最も多かりしと、
当夜の乗客は六千六十人・・・」
露店が数十軒並び、「猫も杓子も集まり、幅広き街道が身動きだもならず」
警察も「警視以下二十五、六人」整理にあたった。と当時の「心岳寺参り」の様子が記されている。
(また当日は垂水丸という船が鹿児島、平松間を一晩中往復運航していて、船首から船尾まで
電灯で飾られ満員状態、国道10号線は往く人帰る人の行列の波だったそうです)
歳久は「戦の神」として祀られた一方、「安産の神」としても信仰されていましたが、戦後は
「戦の神」いう側面がなくなり、心岳寺詣りが急速に衰退すると駅の利用客も激減したため、
1967年(昭和42年)に廃止されました。
(「島津歳久の自害 増補改訂版」「昔の鹿児島―かごしま 新聞 こぼれ話―」など)
「心岳寺参り」も行われなくなってしまっていたが、これを惜しみ伝統行事及び青少年鍛錬として
心岳寺詣りを山下りも含めて復活させようという試みも近年出てきています。
「心岳寺詣り」(平成23年11月23日開催)を紹介します!
http://archive.is/wl1i#selection-1171.0-1171.29
993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 07:50:45.52 ID:N+kdMWZx
自害理由:秀吉に謀反を企てたと思われたから
ってのも書いたほうがわかりやすいような
997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 09:23:11.61 ID:U/gwoNap
お寺詣りというのが、戦後の日本でずいぶんハヤっていたんだな。
連想した他のお寺詣りの宗派についてはここでは言わないけど。
一年に一日だけの臨時駅
天正二十年(1592年)七月十八日、島津歳久、帖佐郷竜ヶ水(現在の鹿児島市吉野町平松)にて
自害す。享年五十六歳 戒名 心岳良空大禅伯
歳久の首級を確認した義久は号泣したという。
遺体は帖佐の総禅寺に埋葬され、義久は秘かに歳久の廟を島津家の菩提寺福昌寺に建て、
墓を同寺内の恵灯院に建てました。(現在、福昌寺の貴久の石塔の後方に歳久の石塔がある)
秀吉が没した後の慶長4年(1599年)に義久によって歳久の最期の地に菩提寺が建立され、
歳久の戒名の一部を取って曹洞宗滝水山心岳寺と号された。
歳久の命日には参拝の人々が多く集まり(「心岳寺参り」)島津忠良所縁の「日新寺参り」、
島津義弘所縁の「妙円寺参り」共に心岳寺に詣でることが大流行した。それぞれの命日に
それぞれの菩提寺に詣でるこの習慣は「鹿児島三大詣り」と呼ばれた。
「鹿児島三大詣り」は、実際は「お参り」というより鹿児島から夜を徹して長距離を徒歩行軍し
目的時間に到達する「軍事教練」に近いものであり、特に心岳寺への道は江戸時代までは
海岸沿いの街道(磯街道、現在の国道10号)及び鉄道(日豊本線)は全く無かったために
西側の裏山から断崖絶壁を下るという厳しいものであった。
(明治3年(1870年)に寺号を廃して神社へ改め、平松神社となる)
1908年(明治41年)「心岳寺参り」へのアクセス目的として、その日だけ使用される「心岳寺駅」が
重富駅 - 鹿児島駅間(現在の重富駅 - 竜ヶ水駅間。当時竜ヶ水駅は未開業)に設置された。
大正元年八月十九日付の鹿児島新聞には、
「十七日夜の客車は一回平均十一台を連結し、最も多く連結せしは、十一時三十分の
十五台なり。午後三時半頃より小児と老人多く、一般拝客は午後九時、十時最も多かりしと、
当夜の乗客は六千六十人・・・」
露店が数十軒並び、「猫も杓子も集まり、幅広き街道が身動きだもならず」
警察も「警視以下二十五、六人」整理にあたった。と当時の「心岳寺参り」の様子が記されている。
(また当日は垂水丸という船が鹿児島、平松間を一晩中往復運航していて、船首から船尾まで
電灯で飾られ満員状態、国道10号線は往く人帰る人の行列の波だったそうです)
歳久は「戦の神」として祀られた一方、「安産の神」としても信仰されていましたが、戦後は
「戦の神」いう側面がなくなり、心岳寺詣りが急速に衰退すると駅の利用客も激減したため、
1967年(昭和42年)に廃止されました。
(「島津歳久の自害 増補改訂版」「昔の鹿児島―かごしま 新聞 こぼれ話―」など)
「心岳寺参り」も行われなくなってしまっていたが、これを惜しみ伝統行事及び青少年鍛錬として
心岳寺詣りを山下りも含めて復活させようという試みも近年出てきています。
「心岳寺詣り」(平成23年11月23日開催)を紹介します!
http://archive.is/wl1i#selection-1171.0-1171.29
993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 07:50:45.52 ID:N+kdMWZx
自害理由:秀吉に謀反を企てたと思われたから
ってのも書いたほうがわかりやすいような
997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 09:23:11.61 ID:U/gwoNap
お寺詣りというのが、戦後の日本でずいぶんハヤっていたんだな。
連想した他のお寺詣りの宗派についてはここでは言わないけど。
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