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「豊筑乱記」から戸次川の戦いについて

2022年11月23日 19:10

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/23(水) 17:45:02.57 ID:FQfy/CRW
豊筑乱記」から戸次川の戦いについて
太閤秀吉公は島津に再三上京を命じたにもかかわらず島津は聞き入れなかった。
そこで天正十四年(1586年)九月十二日、秀吉公は仙石権兵衛尉元親(ママ)と長曾我部土佐守信親を上使として豊後に下しなされた。
大友義統公を通じて島津に上意を通じられたが、島津は見向きもしなかったため、仙石・長曾我部とも島津を慮外者とののしった。
島津は大友家の武将を次々と調略し、豊後に攻め入り、戸次城も陥落間近となった。
大友義統公はこれを聞き、加勢の人数を送り出そうと思ったものの、もう代を重ねた家臣も信用できないため見過ごそうとされた。
いっぽう仙石・長曾我部は島津の逆意について知らせる遣いを秀吉公に送り出し下知を待つ間ではあったが、戸次城が危ないと聞き六千騎で向かった。
十二月十二日早朝に戸次川を渡り、一挙に島津陣所に攻め入ろうと評定した。
これを察知した島津家久は一万八千騎の軍勢に「上使両人とともに討ち死にする気構えで戦え」と下知した。
こうして十二月十二日の曙に両軍鬨の声を挙げ、矢合わせをしたのち合戦を開始したが、どうしたことか島津方の伊集院軍が上使の軍勢に攻めかかられ引いた。
上使の軍が我先にと逃げる伊集院軍を追い討ちしているところに、二番備えの新納大膳正が三千騎で高所から仙石・長曾我部本陣に攻め入り、
大将島津家久と三番備えの本庄主税軍も一軍となって上使軍に攻め込んだ。
こうしてたった一時の合戦で敵味方三千騎が討ち死にし、長曾我部信親は血気さかんな大将であったため、あまりに深入りしすぎて、数カ所に深手を負い討ち死にした。
上使軍は多勢に無勢、あまりに多く討たれてしまい、仙石元親も勇猛な大将であったがわずか五、六騎を連れ戸次川を渡って豊後の府内めざして引いた。

仙石秀久長曾我部元親が混同されちゃったようだ



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仙石橋 白滝橋

2018年03月09日 11:01

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/08(木) 18:53:20.58 ID:XBnrOpcr
仙石橋

大分県字船頭町より西大分町字勢家に通ずる間にあり
仙石の名称は天正十四年十一月、仙石秀久、秀吉の命を奉じ
兵を率い大友氏を援けるに際し、大友義統、道路を修繕しこの橋を架け
もって秀久一行を迎えた事に因り、名付けて「仙石橋」という

おそらく当時架けられたものは土橋で
現在の石橋に改まったのは承応二年、城主日根野吉明の時である
架橋の竣工なるや日根野吉明、同年五月七日をもって渡橋式を行い
堀川町幸松興右衛門をして一番に渡らせた
その際興右衛門、子孫従僕合わせて八十余人
皆々盛粧してこの橋を渡ったそうだ


白滝橋

長宗我部信親の愛馬は真っ白な鬣(たてがみ)を持ち
馬を走らせると滝の様に流れて見えたため
「白滝」と呼ばれていた
戸次川合戦にて信親は討ち死にを遂げるが
残された愛馬は川のほとりにいつまでも佇み
それがまるで主人の帰りを待つかの様に見えたため
地元の民が逸話として語り継ぎ
この地に橋を架ける際、その名を取って
「白滝橋」と名付けたそうだ

(大分案内記:名勝旧跡ほか)

戸次川合戦にまつわる二つの橋の逸話
仙石橋は大正初年に崩落してしまいましたが
白滝橋は国道10号線に架かる橋として現存しています



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 00:08:22.71 ID:/J7dFos7
>>683
丹生島城の戦いで名付けられた臼杵の甚吉坂(吉岡妙林の子の吉岡甚吉が活躍した小坂)が好きだな

元親記による信親の最期

2017年11月07日 09:14

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 17:46:34.12 ID:ewVS0Zz3
折角なので元親記による信親の最期の様子も

長宗我部軍も是非に及ばず陣触れをして、一足遅れて出撃したが、川を渡って
陣容も整わぬうちに、黒雲のように薩摩軍が押し寄せて来た。
年光城攻めを差し置き襲ってきたのだ。これが薩摩と土佐の史上初の激突である。
仙石軍は猛攻を避け、北方の豊前に退いた後だった。

群がり来る敵の中で、信親は馬を捨て四尺三寸の大長刀で八人を薙ぎ伏せ、
さらに刀を抜いて六人を切り据えた。
物の具の上から打ち合うので刀の刃はぼろぼろになっていた。
(信親は)辺りの敵を追い払って腹を切ろうとすると、多勢の者が走り寄り、
同じ場所で次々と自決した。
福留隼人(儀重)と細川源左衛門は元親のそばに駆け寄り、
この世の暇乞いをしてから命を絶った。

(中略)

討死した信親は二十二才だった。身の丈六尺一寸、平素は長船の名刀
三尺五寸の兼光を腰に差し、剣術に優れ、身のこなしの敏捷さは比類なかった。
走り跳びに二間を跳び越え、跳びながらこの刀を抜いた。
これほどの人なので、樊カイにも劣るまいといわれて、元親も最も期待していた。

信親がこの日帯びていた刀は、先年信長公に名をもらった時、その祝儀に
拝領した左文字の太刀であった。

(元親記)



249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 18:09:41.59 ID:zLyaVyxg
>>247
信長、左文字の太刀とくると義元からぶんどったやつが思い浮かぶが
あれは別に伝わってるから他にもあったのかな

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 19:47:28.06 ID:o4NOSjYb
信長に貰った太刀や着ていた鎧兜がボロボロになっていて凄まじかったらしいね
この時、権兵衛が大人しくしていれば後の歴史が結構変わっていたかな?

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 20:16:18.73 ID:hnPtJm7D
>>248
年光じゃなくて利光だろう

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 21:12:51.84 ID:ewVS0Zz3
>>251
一応原文ママだよ
まあよくある当て字だね
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-066306&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%85%83%E8%A6%AA%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=62

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 22:25:40.59 ID:JfPQ4w+X
>>250
関ヶ原のとき盛親じゃなくて信親だったらってとこか。なかなか渋いif

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 04:16:34.83 ID:qysCJnfh
案外、旗幟鮮明にして最初から西軍参加でやっぱり関ヶ原戦場で壮絶な討ち死に遂げてそう。

戸次川合戦長宗我部信親の最期

2017年11月06日 17:27

242 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/06(月) 13:27:04.80 ID:STEkgEWa
戸次川合戦長宗我部信親の最期

去る程に信親は、味方皆打ち負けて散々になり
元親の生死も知らざれば、今はこれまでとただ一途に思い定め
上下心を一致して龍粧(戸次川地名)に備を配り
静まり返って敵を待ち受けた

勇気最盛なる新納勢は、僅かな長宗我部勢が控えているの見て
ここはいささかも休むべきにはあらずと、三手に別れ閑閑と打ってかかる
信親七百余騎、三手に颯爽と別れて駆け合い
汗馬東西に駆け違い、旌旗南北に開き分かれ
追いつ返しつ、巻きつ巻きられつ、互いに命を惜しまず七、八度と戦い
新納が五千余騎、残りわずかまでに討たれたが
長宗我部勢も大半が傷をこうむり、(血で)朱になってその場にとどまった

伊勢兵部丞一千余騎、戦い屈したる長宗我部勢を
弊に乗って討たんとして横合いに駆け向うが
信親もとより思い切った事なれば、相懸かりに懸りて
弓手に側め、馬主に背け、打っては駆け通り、突いては押し払い
四武の衛陣堅きを砕き、揉み違い入り乱れ、喚き叫んで戦い続けた
敵味方の討たれた者は数知れず、互いに龍虎の争いなれば
このいくさ、いつ果てるのかもわからなかった

(続く)

243 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/06(月) 13:29:50.91 ID:STEkgEWa
新納武蔵守は槍を取り、猪の怒れる如く大きく猛って突いて回る
細川源左衛門これを見て、願う所と槍を提げて向かい
武蔵守、物々しやと人を交えもせずに戦ったが
源左衛門に左腕をしたたかに突かれ、危うくなったところに
郎党二人駆け来たり、武蔵守を押し隔てて戦い
さらに伊勢兵部丞が馬を駆け寄せ、源左衛門に槍を付けたので
源左衛門ようやく若党に首を取られ討ち死にした

信親はあまりに手広く駆り立て戦う内に、乗り換えたる馬は三頭
平頭三太刀斬られて、犬居にどうと臥した
敵これを大将と見知ったので、駆け寄せ討ち取らんと進み近づくが
信親四尺三寸の大長刀を提げ、大勢の中へ割って入り
籠手・薙手・開手・十文字、八方乱して切りつけ
強靭の兵二十四、五騎を薙ぎ払ったので、長刀の柄は中より折れてしまった

(続く)

244 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/06(月) 13:40:06.17 ID:STEkgEWa
敵二人得たり賢しと両方から飛びかかり打つ太刀を
信親さっと飛び違え、二人共に同じ枕に蹴り倒し、太刀を抜き胴を切り捨てた
新納これを見て、一騎打ちの勝負は叶うまじ
総軍一度に懸かれと下知すれば、蟻の如く集い、蜂の如く行き合い
信親の上に重なって前後左右より押し取り巻き
穂前を揃えて突く槍を、ひらりと飛び越え
持って開いては丁と切り、飛び違えては、はたと切る
されどもその身鉄石にあらざれば、精力疲れ、ついに鈴木内膳に討たれた
信親行年二十二歳、その死を惜しまぬ者はいなかった

吉良播磨守、本山将監、石谷兵部少輔らも何のために惜しむ命ぞやと
真っ先に敵の中に駈け入り、枕を並べて討ち死にした
これらを始めとして、桑名太郎左衛門……
(以下数頁に渡り延々と討ち死にした者の列挙が続く、下画像参照)
https://imgur.com/a/krw3g
https://imgur.com/a/2iU01
seGpd7c.png
NovRfsD.jpg


……この他精兵都合七百余人、我先にと駆け出で駆け出で
一騎も残らず皆斬り死にした
味方の討ち死には二千七百二十七名と聞いている

(土佐物語)



245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 14:30:51.09 ID:TScJL+6v
センゴクすごく悪い話だ

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 14:54:27.14 ID:uHhFmV3f
>>242-244
脚色もあるんだろうけど凄まじい、描写が詳しくてこのまま剣劇にできそうだ。

信親忠死の跡なれば

2017年08月31日 16:58

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 14:48:51.99 ID:D/ZmCpnd
去る程に豊後の軍、仙石権兵衛が無法ゆえに寄手大きに打ち負け
十河・田宮を始め、軍兵どもあえなく討たれ、仙石・大友は豊前国へ逃げゆき
弥三郎(信親)は討ち死にし、宮内少輔(元親)は生死知らざる事が
追々都へ聞こえて来たので、秀吉公大いに怒りて仰せつけられるには

「権兵衛は元来強気無法の者であれば
 敵を侮るな、一人駆けはするな
 衆議一同の上進退せよと再三かたく示したのにその議を用いず
 宮内少輔の諫言を聞かず、我意に任せる事は上を軽侮し
同僚を軽慢するのと同じであり、曲言の専一である。
 察するに彼は、先年宮内少輔に手痛く当たられた事を深く心意にはさみ
 この度公議を借りて讐を返し、元親に恥辱を与えんとして
 かえって己に及んだのであろう。これは武士の本意ではない
 一方弥三郎は同列の罪逃れざるを知って潔く討死した。不便というにも余りある
 我、彼が不快を知らず、相将に列した事は甚だもって落ち度であった
 今更悔やむに益はなし、しかしながら元親がもし討死となれば
 土佐国の一揆供がその弊に乗って狼藉する事もあるだろう」

そうして信親忠死の跡なればとして
土佐国政の事を仰せつけられ
増田長盛、藤堂高虎を上使として土佐国へ差し下し
長宗我部家に慰問をなし、例え元親親子相果てたとしても
領地は安堵して次男香川五郎二郎に遣わすべしとの御朱印を下された。

(土佐物語)



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 10:50:37.09 ID:tjcfsPmD
十河家.....。

土佐物語より、長宗我部信親はこんな人!

2009年12月05日 00:15

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 00:24:06 ID:rAiR0wW/
土佐物語より、長宗我部信親はこんな人!

・背丈は6尺1寸(約185センチ)、色白で容貌は柔和
・言葉は少ない。
・礼儀作法を心得ているが、だからと言って厳しくは無い
・馬鹿な話にも付き合うけど、猥雑ではない
・家臣たちを愛し、家中の者達も父母のようになついていた

・手習いは吸江庵の真蔵主、恩蔵主を岡豊に呼んで学んだ
・謡は藤田宗印を京から呼び寄せて学んだ
・鼓は勝部勘兵衛を泉州堺から呼び寄せて学んだ
・笛は京で玄笛の伝授を受けた小野菊之丞に学んだ
・太鼓は頭我惣右衛門親子を京より呼び寄せて学んだ
・蹴鞠は飛鳥井曾衣が下向された時に指導を受けた
・碁は京で本国坊の元に学んだ大平捨牛、森勝介に学んだ
・礼儀作法は京で小笠原家より伝授を受けた桑名太郎左衛門、大平市郎右衛門に学んだ

・馬術は産方休少に学んだ
・槍、長刀は真道流の大平市郎右衛門、また京より甲藤市之丞を呼んで学んだ
・太刀は須藤流、また伊藤武右衛門と言う精参流の名人に学んだ
・弓は大蔵才八に学ぶ。岡豊城の的場で毎日夕暮れに的を射た
・鉄砲は近澤越後に指南された。毎月1日に鉄砲揃をして射撃の腕を見た。

・和歌は小松谷寺覚桜に師事
・連歌は蜷川新右衛門入道道標を宗匠とする

・このような教育を受けた信親であったが、武道のほかは雑事であると、
 それほど熱心には学ばなかった。
 しかし生来器用だったため、なにをやっても見事にこなした。

・常に軍書を研究し、戦略戦術について議論をし、剣術、体術の習得に熱心であった。


まあ早くに、しかも悲劇的な死に方をしたせいでだいぶ理想化されすぎているきらいはあるが、
ともかく、長宗我部家中にとって信親は、大事に大切に育てられ、本人もそれに大いに答えて
成長し、家中の期待を一身に集めた、パーフェクト嫡男だったのです。




856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 00:47:43 ID:LxFIJ8o/
信親の母は奉公衆石谷光政の娘(斎藤利三の異父妹)だけど、元親が自ら上洛して
娶った女性なんだよな。近隣の豪族では無く中央との繋がりを考慮しての嫁取りに
元親の考え方が伺える。

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 00:48:24 ID:PR7Hnd6g
>碁は…森勝介に学んだ

「森勝蔵に学んだ」に見えたいい悪いスレに毒されたバカは俺だけでいい…

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 01:08:33 ID:mDZa7cBY
>>855-856
連歌は“あの”蜷川新右衛門さんの裔に学んだってか……
 斉藤内蔵助、石谷兵部は知ってたが蜷川氏も巡り巡って長宗我部の親戚だったんやねーなるほど

ttp://www.rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1118

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 01:27:44 ID:wdfRKWyq
>>858
蜷川家の当主は代々新右衛門を名乗るんじゃなかった?

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 04:43:05 ID:E5eRvgjz
>>853
関東や甲信越、九州ならともかく、
土佐からなら「わざわざ京大阪まで」何て書き方するのは変じゃないか?
長曾我部は水軍だって持ってるし、大阪との交易も盛んだったはず。

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 07:43:58 ID:BICm9q/l
>>855
あまりに完璧すぎて泣けた、生きてたら五大老も務まりそうだ
これだけの男を仙石ふぜいの指揮下に入れてたのが失敗だったか

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 08:32:06 ID:rfM1A1r9
後世に作られたから完璧なんだろ?



863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 09:31:41 ID:lDxo0nF3
戸次川で信親を守って死んだとされる死体の頭蓋骨を調べたら、
刃物で斬られ過ぎて何回斬られたか分からないありさまだったとのこと

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 09:36:00 ID:XXqInJgu
それって、なかなか死なずに奮戦したというよりも
敵兵がしっかりトドメをささず、倒れた相手を滅多打ちにしていただけでは?

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 09:45:45 ID:lDxo0nF3
かもね

どれだけ混沌とした戦場だったんだろう
信親隊の遺品とされる甲冑はぐちゃぐちゃでなんだかよく分からない事になってるし


867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 11:37:41 ID:qX/azpga
壊乱状態で、かつ完全に多勢に無勢
それでいながら島津は味方の負傷率が跳ね上がるのも無視して押し包み殺る
ってな感じ?

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 12:09:32 ID:NLC0CTdn
>>861
もとから潰すために仕組んだとかね
無能の下で壊滅してくれたら万々歳じゃん

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 12:34:00 ID:ieQFlP1g
まあ秀吉にしてみりゃ四国の弱体化は
かえって好都合かもしれんからな

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 13:28:08 ID:BICm9q/l
当時は四国の弱体化なんかよりも、秀吉軍が島津軍に負けてしまったダメージのほうがでかいだろう
長曽我部が四国の雄だといっても、すでに牙は抜いたんだし


872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 13:43:20 ID:kwW8ePUF
>>862
後世だったら山内だろう?
長宗我部のいい話など作るわけがない気がするぞ

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 14:12:03 ID:NLC0CTdn
>>872
領主の話題だからって作るのも領主って事じゃないでしょ
今のがアレだから以前のを持ち上げて~ってのは大昔からある話だし

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 14:32:18 ID:PR7Hnd6g
「判官贔屓」で亡んだ旧領主を顕彰する事は考えられるよね
「火のない所に煙は立たず」だから信親が勤勉だったのは確かだろうけど

まあこれ以上は検証スレでやらないか?

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 14:44:36 ID:pLyTOpW7
弟が酒井家に使えてるよね>長曽我部

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/04(金) 15:27:22 ID:/+gjK+Xr
>>855
ちょっと関係ないけど、馬術弓術と並んで鉄砲が教育に盛られてくるあたりが面白いね

使者、片桐且元と長宗我部信親

2009年12月04日 00:13

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/03(木) 22:25:51 ID:gz12Gg9j
天正13年(1585)6月、正二位内大臣に任官された羽柴秀吉は四国の長宗我部氏攻討伐を
決定し、宣戦を布告するため片桐助作且元を派遣した。
長宗我部の前線基地、伊予大浜城の前までわずかな供を率い、徒歩でやって来た且元は
「それがしは内大臣家の家人、片桐助作にござる。城の御大将に申すべきことあって
参上いたした。この旨をもって開門されたし!」と、堂々と言い放った。

城兵は敵の来訪に色めきたったが、城将の長宗我部信親は
「使者の作法、故実にかなって見事なり。失礼あらば『南海の田舎者、礼節を知らず』と
笑われよう。そうなれば、死後までの恥辱となるぞ?」と言い、門を開けさせた。

且元と対面した信親は、彼を上座へ導いた。
「貴殿は、仮にも内大臣のお使者。無位無官の信親と対座は、はばかりがあります。
どうぞ、こちらへ。」
且元は一礼してこれに応じた。
「ただ今、秀吉公と長宗我部殿と一戦仕る上は、まず互角の応対あるべきでしょう。
しかしながら助作は大臣家の家人である以上、長宗我部殿の上座など神罰が当たらぬか
恐ろしくはござるが、御免を被って口上を述べさせていただく。」

城兵みな、二人の礼節に感心せざるは無かったという。




851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/03(木) 22:40:22 ID:HfqsS2Hr
短命だから逸話も少ないんだろうなぁ
まぁ四国自体逸話が少な(ry

それはそれとして礼儀礼節を理解出来るんだから城兵も大したもんだ
最近の若僧に煎じて飲ませたい

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/03(木) 23:00:54 ID:K9HrDQes
秀吉の四国攻め前だから二十歳前後で最前線の城主が
勤まってこれだけの対応ができる息子に先立たれる
そりゃ元親もおかしくなるわ

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/03(木) 23:37:27 ID:MQ6313Ux
>>851-852
元親自身に田舎者コンプレックスあったのか、家中ですごい有識故実の勉強させてんだよな。
土佐一国の貧乏領主が、わざわざ京大阪まで家臣を派遣して習わせてんの。

四国内の最大敵手、三好一党が小笠原流の支族で教養人も多かったから、
阿波や讃岐の慰撫にもそういうソツのなさが必要だった、て実利もあっただろうけど。

んで息子も手塩に掛けて育てたからこんなだった戸次川の死に様も見事だし……
潔すぎるのは戦国武将としてはむしろ弱点なんだけどね、そこが若さだよな。

854 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/03(木) 23:59:27 ID:a9wwzpMk
信忠もそうだけど、若いときにはもがいて一縷の望みに掛けてほしかったな


勝頼の追い詰められた上での自害を見たばかりだから、ああいうのは
嫌だというのがあったかもしれないけどさ



関連
片桐且元と占いの結果・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-298.html

信親の遺品

2009年12月04日 00:11

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/03(木) 01:20:38 ID:hjHTzJBv
豊臣秀吉による九州、島津征伐の緒戦、戸次川の戦いで大敗を喫し、
嫡男信親を失った長宗我部元親も、大将仙石秀久と共に伊予へと撤退する。

信親を失った事に痛切極まりない元親は、家臣谷忠兵衛を、かねてから親交があり、
戸次川の戦いでも戦いあった島津の重臣、新納忠元の元に派遣した。

忠兵衛、忠元に元親の言葉を伝える

『この度の豊後、戸次川合戦でのあなたの働き、古今に見られぬほどのもので、
どれだけ称えても、称えきれないでしょう。

そこにおいて、我が愚息弥三郎(信親)は戦死を遂げました。
これは武士の本意に適うものであり、また天下のお役に立ったものでもあり、
我が一家の誇りとするところであります。

そこでどうか、彼の遺骸をお引渡しいただきたいのです。』

忠元はこれを聞いて涙を流し、言った

「私は先年より不思議な縁があって、宮内少輔(元親)殿と親交を結ぶようになりました。
それからお会いする事は無かったものの、書状にてよしみを深めました。

然るに、去る12月12日の合戦において、ご子息弥三郎殿の部隊と出会い一戦に及び、
我が方も多くの兵が討たれましたが、武運が少しばかり勝っていたのでしょう、我々が勝利し、
弥三郎殿は戦死を遂げられました。
武士の習い、戦の習いとは申しますが、弥三郎殿の戦死は私にとっても最近に無く、
本意に無いことであります。
その御遺骸を直ぐにでも送るべきであったのに、忙しさにかまけそれを怠ったこと、
旧交を忘れた所業だと言われてもしかたがありません。

武士が合戦にて討死する事、元より望むものとは言いますが、親子の恩愛は不朽とも言います。
宮内少輔殿のご心底、お察し申し上げます。

弥三郎殿の奮戦は素晴らしく、その名誉は人々に語られております。
どうかこの事を以って、お心をお慰めください。』

そう伝えよと使者に言い含め、信親の遺骸は既に痛んでいたため火葬をし、
遺骨と、遺品である甲冑、太刀を持たせて、元親の元に返させた。



元親は、使者の持ち帰った信親の遺品を一目見たとたん、目を背け、嗚咽した。
余りの嘆きように近習たちは、すぐにその遺品を、元親の目に付かない場所へ運んだと言う。

その遺品、太刀は鍔元から切っ先まで隙間も無く敵の切り込みを受けた跡があり、
もはや太刀の形をしていなかった。
甲冑には矢弾の跡、太刀、槍の跡が数え切れないほど残っており、袖や草摺の部分は
途中から千切れていた。

これを見たものは皆、『信親様はなんと激しく戦ったのか』と、驚き、涙を流さないものは
いなかったと言う。




805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/03(木) 05:54:14 ID:wLHU0Ls8
いい話スレに投下すべきじゃないか?
どこが悪い話かわからん。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/03(木) 06:06:39 ID:Vo0sATNp
まぁ長曾我部にとっては、その後の滅亡の遠因にもなった悪い話ではあるな。
でもいい話スレ用だね、確かに。

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/03(木) 08:02:56 ID:ouQkfAov
九州戦線で大敗を喫し、自家どころか長曽我部家まで衰退させた仙石家にとっての悪い話じゃね

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/03(木) 12:54:52 ID:myrkjWlM
>>805
まあ、遺品の状態が悪い話ということで。

これは涙を誘う話。

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/03(木) 16:36:01 ID:ZUMuJeLY
息子を見殺しにして逃げた悪い話?

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/03(木) 17:55:20 ID:y7x7KVRJ
見殺しってか家臣に馬の尻引っぱたかれたんじゃなかったかね。
ま、四国勢壊滅させた仙石さんの悪い話に被害被った(運の)悪い話だな

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/03(木) 19:38:11 ID:rPd1Wp+1
>>804
切ないな…



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