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「八幡の藪」事件

2022年04月14日 16:32

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/13(水) 22:48:27.28 ID:v2cJDMcC
広島県三原市八幡町字野串の山中に存在する宝篋印塔墓には、一つの伝説が伝わっている。

天正15年(1587年)、河野通直が二十四歳で没し、河野宗家滅亡。これに四十名余りの家臣も殉死したとされ……しかし、河野宗家の血は未だ絶えていなかった。
先代通宣の庶子、通昭。母方が荒木村重の一族である彼は、河野氏の改易後は山城の国芹川村で暮らしていたが、通直が死に遺臣一同の運動にも豊臣秀吉には河野氏再興を許す意思がないと判断するや、遂にその暗殺を決意。
当人は計画を実行する前に老齢で死去したので、これも高齢な長男通許六十二歳ではなく、次男通軌がこれを引き継ぐ。

文禄元年(1592年)4月9日、九州に下向する秀吉が備後国御調八幡宮に立ち寄って戦勝祈願をすると知った通軌は、一族の得能備後、和田左衛門、栗山因幡、土居兵庫父子、松本美濃ら河野氏の遺臣と神社の藪に潜み秀吉を狙撃しようとしたが、立ちどころに露見。
全員が秀吉が訪れる前に討ち果たされてしまったと言う。その際、討ち果たされた通軌の墓こそ字野串の宝篋印塔墓で、周囲の小ぶりは墓群は共に討ち果たされた遺臣達のものであると。

……この事は「河野家譜 築山本」や郷土史、貫心流剣術などの伝承に大同小異な異説が記されており、三原市は史実ではない伝承と市史で疑問を呈したり、史家によっては毛利家が不祥事を揉み消したのだろう等と推測したりもしていますが……。

一説に、この時に御調八幡宮の藪に待ち伏せていた河野氏の遺臣は三百人とか。
……斬り込みではなく狙撃で三桁も待ち伏せる必要があったのかと思いますが、そりゃ事前に露見しますよ。

尚、計画を何も知らされていなかった長男の通許は連座を恐れ、苗字を母方の築山姓に変えて諸国を流浪の旅に出る事で族滅を免れた。

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/13(水) 22:52:55.72 ID:v2cJDMcC
以上、「八幡の藪」事件とも呼ばれる秀吉襲撃未遂事件。

この場合、河野氏遺臣団の手際の悪い話か、六十を超えて計画は知らされていなかったのに父と弟のせいで諸国を流浪する破目に陥った長兄の運の悪い話か?



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豫州河野家の木鉄砲

2011年05月24日 01:12

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 11:30:39.39 ID:mqf8o2ov
永禄年間(1558~70)、伊予の河野通直は、安芸・毛利氏の拡大に対抗するため
豊後の大友義鑑(宗麟)と同盟した。

さてその頃、鉄砲の技術の先進地といえば永正よりこのかた、豊後大友家だとされていた。
そのため河野通直は友好関係を利用し大友家に頼み豊後府中より鉄砲技術者を派遣してもらい、
家中の者たちに煙硝の採取の仕方、弾薬の製造方法などを学ばせ、火器を大量に生産した。
この鉄砲の大量装備により河野家の防衛力は格段に強化され、その鉄砲術は
「河野流」として東国まで響き渡ったという。

しかして、瀬戸内海で中国、九州と面する長い海岸線を持つ伊予において、
その海邊を守るには鉄砲の砲弾を大きくすること、すなわち大筒の製造こそ
最も効果があると、当時の河野家は考えた。

ではあるが、ノウハウが無い以上すぐに大筒を作ることは無理である。
そのため河野家は大筒製造のため様々な研究を始めた。

ところで河野家が考えたのは、木の砲身の大筒であった。おそらく金属の砲身を作るような
鋳造技術がなかったためであろう。

まず、松の生木を繰り抜いて砲とし、これに金輪をはめてしっかりと固め、
この砲径に合わせた弾丸を作り弾薬を調合して発射実験を行った。
が、これは弾丸を撃ち出すと必ず砲身も破裂し、とても実用に堪えるものではなかった。

次に、同じく松の砲身を今度は縄で巻いた物で試したが、やはり砲身は壊れた。
このように様々な実験を繰り返したものの、どれも上手く行かなかった。

そんな時、ある者が工夫をなして、竹の輪を作って砲身を桶のようにせめ懸けて固め、
これで弾丸を発射。何と、これだと木筒は破損せず弾丸は無事発射された。

この事を喜んだ河野家は、さらに木筒の技術研究を薦め、その運用術も様々に実験した。
そして海邊にこれを多く設置し、敵船が攻め上がってくれば間近まで引きつけた上で
高楼より下に向かってこの大筒を発射。これに当たればいかなる大艦もたちどころに
破壊され、河野の大筒の威力に敵はあえて伊予の海邊に近づこうとしなかったという。

豫州河野家、木鉄砲のおはなし。
(南海治乱記)




773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 11:36:11.07 ID:Df+DbdQY
伊予の大名さんは研究好きだね

幕末の伊達も色々やってるけど

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 16:42:10.62 ID:wmKs6MBJ
大坂の陣でも登場するし
木砲って意外と頻繁に使われていたのかな。

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 16:52:49.84 ID:s4/UxCrB
木砲良さそうだけど火薬が大量に必要そう
貧乏大名じゃ気軽に発射出来ないな

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 19:34:28.92 ID:Iiy+65HJ
鉄製の大砲は輸送面で問題がでるそうだ。
道は悪いし、山道が多くて、重い鉄製の大砲は避けられたらしい。

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 20:05:26.96 ID:/vQHDJKn
モンゴル軍ばりのカタパルトはダメだったのか。

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 22:26:20.69 ID:pCDoygft
>>776
携帯に秀でた大砲といやあグスタフ2世アドルフだな
その名も皮製大砲<故障が多かったみたいだがな
だがスピードと破壊力は現代を凌ぐほど凄まじいものがあったらしい、確か検証してた

何とも微妙な河野通直の動物話

2010年02月07日 00:01

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 20:38:30 ID:Xzx3LBeL
動物を助けたからといっていつもいいことがある訳じゃないと思うんだ。
ということで動物話をもう一つ。

何とも微妙な河野通直の動物話。
一杯いる通直さんのうち、以下の話と同じ頃、同じ通直さんの話のようです。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3317.html

通直さんの奥方がある日突然二人になってしまう。
見た目も振る舞いにも違いがなく、どちらが本物なのか全くわからない。
ところが食事を与えると、一方が怪しくガツガツ食うのを見てそちらを捕らえると狐が正体を現した。

怒り心頭の通直さん、さっそく火あぶりにしてしまおうとするのだけれど、そこに大勢の狐たちが現れる。
そやつらは口を揃えて
「貴狐明神の末稲荷の使者長狐という狐の王で、殺してしまうと災いが起こるので命だけは助けてほしい」
と通直さんに頼み込んだ。

それを聞いた通直さんは狐たちが四国からいなくなることを条件に狐の命を助けることに。
誓文を書いた狐たちは四国を立ち去ったとのこと。
めでたしめでたし。

……で、結局四国から狐がいなくなったそうなのですが、
そもそもそんな偉い狐が奥方に化けて何したかったの?、とか
恩を返す訳でもなく追放するだけで何かいいことあったの?、とか
いろいろツッコミどころもある訳です。
挙句に孫の方の通直さんは自分が四国を立ち去る事になって河野氏自体滅んでしまうんですけどね。

ということで、タダのいたずらにしても騙す方、騙される方のウィット成分も少ない、
地味な戦国四国の狐にまつわる悪い(?)話、でした。




320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 21:06:03 ID:1aZx73Ey
>>319
四国といえば狸らしいから、その起源(ただし後付け?)話なのかな?

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 21:17:33 ID:PvfqiWZW
狐が四国から出て行くのは弘法大師の話

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/06(土) 21:21:35 ID:sfU/cvhk
>>321
それもあるねー。「鉄の橋が架かるまで戻ってこられない」ってやつ。
実際橋効果は絶大なのか、今日もニュースで四国では十数年前から狐の目撃例が増えたと言ってた。
戦国時代にも狐追い出し逸話があったんだ。
やっぱり皆なんで四国には狐いないんだろうと思ってたんだな。

河野通直、幕府御相伴衆任官まで

2009年12月13日 00:07

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:03:07 ID:MUPBnWCG
天文八年のこと。
権威付けのためか、伊予の河野通直は幕府御相伴衆になるべく、働きかけを行った。
さて、これが結構大変である。

通直は幕府中枢にパイプがなかったらしい。
どういう経緯か、名門公卿・近衛尚通の正室が動いている。
彼女は幕府内談衆の大舘晴光へこの話を持ちかける。
晴光は父親で、同じく内談衆として幕政を動かす大舘常興へ頼んだ。
常興は、将軍・足利義晴を擁立した実力者、近江の六角定頼へ仲介。
ここで初めて、御相伴衆就任についての検討が始まる。
定頼も加わった会議では、河野氏を加えることに反対意見も出たものの、義晴の存念次第と決まる。
この結果は定頼から常興へ伝えられ、常興は晴光に書状を送り、そして尚道正室へ知らされた。

翌年、通直が御相伴衆に任じられることが決定。
通直は御礼として義晴へ太刀と二千疋、嫡男の義輝にも馬と太刀を進上した。
こうして、ようやく通直は念願を果たしたのであった。




71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:37:32 ID:M5JKWG2p
権威付けにしてもその当時の室町幕府それほど権威あったのかな?

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:48:13 ID:NF0/lZXv
>>71
実権はともかくとしても、権威はそこそこ生きていたみたいだよ。
その幕府の権威ゆえに、三好長慶や信長だって苦労することになるわけだし

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 20:15:49 ID:DwFBCdhh
河野通直は河野氏の中では傍流(一説には来島通康の子)であり、
永禄11年(1568)に伊予守護、河野家当主となるものの、本来ならその権利は無かった。

この当時将軍直臣というものは、守護権力の掣肘を受けない権利があり、
通直は守護権力に対する自己の立場の強化も狙って、幕府御相伴衆への就任を
考えたのでしょう。


75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:27:15 ID:A3F3qu0x
>>73の通直と>>70の通直は同一人物ちゃう。河野氏は通直さんばっかりなので間違えないでね!
当主だけで通直3人、通宣2人いるのですよ……。
今の研究だと
1.教通(通直とも、応仁の乱の頃の人)
2.通宣(刑部大夫、何故か来島で死去)
3.通直(弾正少弼、>>70の人、晴通と争って負ける、来島通康に娘を嫁がせる)、>>70はこの辺
4.晴通(かつては分家出身と言われたが今では3.の通直の実子と言われる)
5.通直(数年後の晴通の病死?暗殺?で3の通直復帰)
6.通宣(左京大夫、晴通の弟、同じく分家出身と言われたが、今では3.の通直実子と言われる)
7.通直(伊予守、かつては庶流池原通吉実子と言われたが、最近では来島通康実子説と6.の通宣実子説が有力、かな)



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:29:22 ID:DwFBCdhh
>>75
おおお、勘違いしていたか…
しかし何とややこしいw

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:37:48 ID:A3F3qu0x
>>76
すまぬ、もう一人通直さん忘れてた。
教通の曾祖父、通尭も通直と名乗ったらしい。
通尭さんは戦国時代じゃないが超がつく苦労人。

子供の頃、同じ北朝のはずなのに隣の細川頼之に攻め込まれ父が討ち死に。
家臣に助けられて九州に落ち延びて南朝に転向。
九州で活躍の後、満を持して南朝の助けも得て伊予に帰国。
伊予を抑えると北朝に戻って伊予守護職を義満さんからゲット。
ちょうど中央では細川頼之が失脚。
といっても軍事力山盛りの頼之にやっぱり攻め込まれて伊予の世田山で討ち死に。
幼い子は何とか義満のおかげで伊予守護職を確保したけど……。

伊予は戦国時代の前から守護権力が怪しかったという全然よくない話でした。
スマソ

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/13(日) 08:19:49 ID:7bT5VcCl
>>77
地元の話題ktkr
世田山は新田義貞の弟が北朝の軍に敗れて自刃したりしてるね。