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玉にもぬける一柳か

2022年11月24日 19:01

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/23(水) 21:44:48.05 ID:NGU3s3zC
豊臣秀吉による小田原征伐の御陣中へは、御公家方の方々より、細川幽斎へ狂歌などが
沢山に送られた。
山中城攻めで一柳(直末)が戦死したが、この事を一女院様より送られたのが、狂歌の初めであった。

 あはれなり 一柳のめも春に もへいで渡る野べのかふりを

幽斎は返歌に

 いとけなく ぐそくをかけて鉄砲の 玉にもぬける一柳か

こういった御狂歌の返歌、また道記などを大帖(大きな屏風)に仕立てて秀吉公の御目にかけた所、殊の外
御感になったと聞こえた。
その道記、狂歌の大帖(屏風)がもし今も現存するとすれば、御出家方の元に有るだろうとの事だ。

川角太閤記


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とぼうとぼうとするぞあぶなき

2022年08月21日 14:45

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/20(土) 21:02:08.00 ID:bRKyMkPb
玄旨(細川幽斎)と里村紹巴が同道して鞍馬寺に花見へ御出の時に、岸より下人が飛び降りようとしていたが、
老足で心のままにならない様子を見られて

とぼうとぼうとするぞあぶなき 玄旨

人玉は やまひの床の休らひに 紹巴

寒川入道筆記



むくりむくりと あたまもたくる

2022年08月18日 19:02

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/17(水) 20:55:57.03 ID:tN2INKCJ
細川の幽斎、ある時(里村)紹巴の所にお尋ねになった時、丁度紹巴は沈酔しており、正体無く
臥せっていた。幽斎はこれを見て、「いかに紹巴いかに」と、二、三度、四、五度起こされたが。
枕を上げてはまた寝、枕を上げてはたどたどとしていたが、目も覚めずむくむくとしていたので、
(目も覚すむくゝゝとしてゐられたれハ)

むくりむくりと あたまもたくる 幽斎

すると

うころもち ありともしらず 野へにねて 紹巴

そのように言って起きられた。

寒川入道筆記

泥酔して寝ていても下の句を読むと咄嗟に目を覚まして句を継ぐあたり流石代表的連歌師



339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/18(木) 21:35:36.85 ID:u/CgpXqt
>>338
本多サド「これが本当のネタフリ」

細川藤孝の出生などについて

2022年03月04日 19:38

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/04(金) 19:06:52.10 ID:yxs+maSQ
或る本に、細川忠興の父は兵部少輔藤孝と云う。剃髪して幽斎と称し、従二位法印に叙任された。
彼は(足利)尊氏将軍十二代の後胤・義晴公の四男であった。母は環翠軒宣賢(清原宣賢)の息女であり、
飯川妙佐の妹であった。
(別記に、幽斎は三淵伊賀守(晴員)の子であると云う)

義晴公が東山鹿ヶ谷に移住された時に、清原宣賢の娘が寵愛され、程なく懐妊して男児を産んだ。
義晴公の嫡男は義輝公、二男は北山鹿苑院の周暠という。三男は南都一乗院の御門主覚慶(後に還俗され
将軍となり義昭公と称し、慶長二年八月二十八日、六十八歳で薨去された。霊陽院殿と諡す)

四男が即ち藤孝であるが、彼の母が藤孝を連れて、三淵伊賀守に嫁いだ。

後年、藤孝は細川右馬頭元常の養子となった。また現在、細川氏を長岡氏と言うのは、昔日藤孝が、
京都勝竜寺での合戦に戦功があり、故に織田信長公より、その息忠興へ、別に長岡の荘を所領として
拝領したことに依るのだという。

新東鑑

細川藤孝の出生などについて



79 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/05(土) 15:13:49.23 ID:Eoip3YAd
新東鑑は刊本の序文、跋文によると、安永2年(1773年)までに氏名不詳の近江人某氏が編纂したということですが、
誰が書いたにしろこの頃までにそういう話が広まってて、細川家でもいちいち否定とかはしなかったってことか

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/05(土) 15:53:35.20 ID:n7DgMSO6
そもそも細川家の家史である
「綿考輯録」の初っ端に「実は将軍義晴公御胤」と書かれているわけで

一つとして謗る所のない仁君であった

2020年11月17日 17:41

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/17(火) 16:35:15.06 ID:1LxEqmhq
細川藤孝公は、御家は細川殿にて尊くおわしけれども、凡下の者を卑しめること無く、
諸芸に達せられていたが、他を謗るということはなく、
禅法に心を尽くし、神道を極められ、空言をかまえた奇特・不思議を実とせず、物祝いをされず、
さりとて物を破ること無く、一つとして謗る所のない仁君であった。

戴恩記

松永貞徳から見た細川幽斎について



パワータイプだった細川幽斎

2020年11月16日 16:39

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/16(月) 12:04:11.15 ID:8B5u/Kgt
細川幽斎は御老後も力強かった。織田常真公(信雄)の所で御能があり、幽斎が訪問した所、
門番が彼を遮った。それでも通ろうとした所、門番は幽斎に向かって竹の枝を振り上げた。

しかし幽斎は、竹の枝とともにこの門番の手を握り、ひしいだ所、骨が砕け、門番はその後
湯治をすることになったという。

また和漢の歌詠があって、相国寺より月夜に、丸(松永貞徳)もお供して帰る道すがらに、牛車のある
小路をお通りになったが、

「若き時は車牛の引き置いてあるものに向かって、角を持って後ろに押しやって、力の程を試してみたものだ。
私は何度も押しやったものだよ。」
と物語された。

戴恩記

パワータイプだった細川幽斎



712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/19(木) 17:23:32.21 ID:5WarbLfs
パワー系歌人

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/19(木) 19:22:14.67 ID:B4oguUv3
牛を投げる男

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/19(木) 20:32:30.41 ID:4WBtVYgr
牛は投げる物

細川藤孝の干支

2020年11月15日 15:21

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/15(日) 12:30:38.84 ID:5UJIyJ5x
ある時、織田信長公が細川藤孝に「その方の干支は何年か?」とお尋ねになった。

「上様と同年であります。」
「さればうまの年か。」
「いかにも、うまの年ではありますが、出来れば変わりたいものです。」

そう申したため信長公は、「どうして変わりたいなどというのか。」と仰られると、藤孝は

「上様は金覆輪に鞍を置き、一方私は小荷駄馬であり、つねに背中に重荷が絶えません。」

そう申した所、万座の笑壺に入り、大笑いと成ったという。

戴恩記



細川幽斎、聚楽第行幸の際の代作

2020年04月18日 18:55

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 17:22:12.33 ID:Ref011sU
細川幽斎、聚楽第行幸の際の代作


天正16年4月16日、秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えた行幸の際、和歌御会が催された。
歌題の「寄松祝」に合わせて公家や武家などの参加者が和歌を提出したが、このとき
幽斎は豊臣秀次、足利義昭、豊臣秀長、蒲生氏郷の和歌を代作している。(『衆妙集』)

全部解説するのは大変なので、代作した秀次の歌だけ紹介。

をさまれる 御代ぞとよばふ 松風に 民の草葉も 先づなびくなり
(平和な治世であると呼び続ける松風に、民衆も草葉のように真っ先になびくのである)

この和歌は藤原定家の「をさまれる民の草葉を見せ顔になびく田面の秋の初風」や、
「をさまれる御代にあふぎの風ならば四方の草葉もまづぞなびかん」などを踏まえて
後陽成天皇の治世を慕って心を寄せる民の様子をうたうものとなっている。


幽斎自身は聚楽第行幸には参加していないが、晴れの場での代詠を頼まれることは
歌人として名誉なことであった。



16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 11:25:50.53 ID:/Aka1nDI
>>14
幽斎さんじゃなくて忠興ちゃんが出てたんだね

君が代の長きためしは松に住鶴の千とせをそへてかそへん
【『豊鑑』第三 内野行幸 天正13年(1585)4月 丹後侍従豊臣忠興(細川忠興) 後陽成天皇行幸の際の歌会にて】

豊鑑@toyokagami_bot にいろんな人の歌が出てきておもしろい

武士の「話」について

2020年04月02日 18:26

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/02(木) 03:31:39.34 ID:pq0QyS8J
人には何かしら好きな事が有るものだ。弓鉄砲、或いは馬、鞠、兵法、料理、乱舞、歌、盤上、鵜、鷹、
数寄の道、何れであっても好きな事が有のであれば、仮初にてもその事を話すものだ。
また人の話であっても、自分の好きな事であれば聞くものである。
また人により、武道の話をいたし、また人がそれを話すのも面白がって聞く者は、良き心がけの者であると
存じておくべきであろう。

大方、人々の心中は話、或いは愛する友を以て知れるものであると、松長という名人が申された(松永久秀の事か)。
誠に相違無いと見える。
とかく、どんな諸芸であっても、自分の心に染まらぬ事は、成らざる事であり、その心得が有るべきである。

常々ものを良く申していても。戦場に於いては有無のことを申さぬ人がある。
また敵との間が遠い時は何かと口を利くが、敵が近くなると物を言わない人もある。
そういった具合の将は、常々どれほど口を利き、物を良く申していたとしても、それは用に立たない事である。
殊に敵が遠いほど物を申し、近くなって合戦前になると萎れたような体となって居るのは、殊の外に見苦しい事である。

常には少々無口であっても。戦場に於いては諸人も聞き届くように下知をいたし、物の埒を申し分ける者は、
常に物を良く口を利く者より、増しているものである。

細川幽齋覺書

武士の「話」について



865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/02(木) 20:19:20.89 ID:fNTnUbyo
これは落ち着いてる幽齋さんですね
いつもこうなら良いのに

「松明の心得」「城はやし」「言葉争い」

2020年04月01日 17:21

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 12:05:31.82 ID:ihS7+uPT
城に竹束で仕寄を据える時、本陣までの道などが悪くて遠くにある場合は、城中から夜討ちなど致すことがある。
そのような危険がある時は。十人二十人であっても、松明に火をつけ両手に持ち、本陣の方から竹束の裏まで
行って帰り、幾度もこれを繰り返せば、夜討ちは無いものである。これを松明の心得と申す。

竹束にて仕寄、城を取り巻いた時には『城はやし』と申す事がある。
井楼の上に二、三人も上がり、拍子木を打って音頭を取り

『城になふなふ 明日は首をたもろふ ゑいゑいわっ』

と、竹束の裏に在る同勢一度に声をそろえ鬨の声を作り、鉄砲をはたはたと打ち掛ける。
それを致すのは夜の五時(午後八時頃)、又は夜明けにも致す。何度もこのように致せば。
城中に居る女子供、また籠城などした事のない不案内者は殊の外騒ぎ慌てるものである。
このすると、二十日持つ城も十日持ちかね落城するものである。

また『言葉争い』と申す事がある。口かしこき者井楼に上り、「御陣へ申度事候」と申せば、敵方よりも
「何事にて候」と答える、そこでこの方より申すのは

「御籠城、御大義に候。とても御持ちこたえること、中々成るまじきようです。御降参候へ。
そうでないのなら、何方からであっても突き破り、こちらに御出候へ!
御首を早く申し受けたいものです。とにかく、御首を申し受けなくては成らないものなのですから。」

などと敵の心に掛かることを申すのだ。ではあるが、慮外がましい事を言えば敵方からも悪口が帰ってくる。
敵の心を暗くするような事だけを申すものである。

細川幽齋覺書



鷹にとらせ申度候御免候へかしと申候得ば

2020年03月31日 16:39

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/31(火) 00:59:48.13 ID:agh7N04f
対陣している時、又は城を取り巻いている時などで、敵陣を攻めるにあたっての足がかりを見たくても、
それが出来ない時は、敵方に断りを申して、見たいと思う場所に鳥などが居る場合は、
「鷹に取らせたいので、御免候へかし。」
と申せば、大体は許すものである。
(鳥など居候はゞ、鷹にとらせ申度候御免候へかしと申候得ば、多分ゆるす物にて候。)

そういった時は、鷹に鳥を取らせることは二番にいたし、足がかりを専らに見るべきである。
そして鷹に鳥を取らせたら、敵方に送るのだ。そうしておくのは、重ねて見たい場所があった時の為である。

昔はこのような謀の為に、出陣には大将衆も、鷹を据えさせていたものだ。
現代ではこう言った事をしなくなったが、この心持ちは、色々に応用できるものだ。

細川幽齋覺書

細川幽斎の時代の、敵陣の模様を見るための謀。何というか、非常に牧歌的ですね。



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/31(火) 02:51:15.22 ID:Fdmi6ahG
鷹狩したいですといってはいって通してたのか、なにか通す側にも政治的メリットとかがあるんだろうか
軍事訓練的側面とか領内視察的側面とか、戦国期の鷹狩だけで一冊本できそう

合戦場にて鑓を合わせる時に

2020年03月30日 16:55

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 22:46:14.26 ID:PwHbEMaN
合戦場にて鑓を合わせる時に、色々稽古もあるのだが、先ず敵の真ん中を目当てに致し、ひたすら
叩くようにするべきである。そのようにすると、敵は嫌がり仰向けになるものだ。その時胸板を突けば
転んでしまう。惣別、武者は上をかぶくものであるから、造作なく転んでしまうのだ。
ただし敵より叩きつけられ。下鑓になってはこれは成らぬものであるので、心得の有るべきことである。

細川幽齋覺書

昨今は「鑓は叩くもの」と言われがちですが、ここでは叩いて起き上がった所を突いて転ばせる、とされているのですね。



細川幽斎による、鉄砲隊運用の心得

2020年03月29日 17:14

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:32:51.34 ID:PwHbEMaN
合戦で鉄砲の者を召し連れ、鉄砲を討たせる時は、たとえ敵が五間か十間の遠くに在ったとしても、
何か木陰などが有ればそこに召し連れ参り、そういった場所で撃たせるべきである。
そのようにすれば、こちら側に手負いは出ない。

何も知らない衆は、少しでも近くにと思い、敵から見晴らしの良い場所に鉄砲の者達を置いてしまう。
それ故に敵から散々に打たれてしまうのである。そうなれば、手負いが二、三人も出れば、此の方は
崩れてしまう。

鉄砲の命中率など、五間十間遠くても同じことである。(鉄砲の中りは五間十間遠く共おなじ事にて候)
そういった時は、此の方に手負いがないように見立てることが肝要である。

また、旗本より程遠くに在る時は、鉄砲大将の指物を、敵に近い場所に、塚でも、また小高い場所でも
有るならば、そこに指物を持たせ遣わし、立てておくのだ。そのようにすれば、脇より見て、
「誰々は早くもあそこまで仕寄せしている。」と見えるものである。

こう言ったことは、自ずから行うべきことで、鉄砲大将などは心得有るべきである。

細川幽齋覺書

細川幽斎による、鉄砲隊運用の心得



818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 09:16:16.15 ID:Zk6eD4N+

>>816
これは面白いな
ドラマなんかだとこれ見よがしにオープンな場所に
鉄砲隊が列をなしてたりする

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 11:14:23.06 ID:r1fXkJh+
>>818
その方がかっこよく見えるからかな
でも今だと、いやそうじゃない、と816みたいに解説する方が受けるかな?

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 12:30:06.93 ID:MVE+KsKB
映像での見栄えと戦い方って別の話だものねー
しかもこれの場合、あくまでも細川幽斎ならこうするってだけで本人も言ってる通り見晴らしのいいとこに鉄砲隊配置させる人もいるみたいだし

弾と火薬が豊富にあるなら隠れて連射のがいいんだろうけど、少ないならまた変わるだろうし

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 14:37:26.35 ID:Zk6eD4N+
>>819
見栄えの問題は確実よね
そもそもあんなオープンフィールドばっか日本にはないし

でも最近お金かけられないからドラマも
丘や林に布陣とかしてリアル志向ですとか
やらないかなぁ

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 14:54:15.21 ID:eVE4ARRj
>>821
戦国時代の山は禿山だらけだから、フィールド自体はオープンだったりする。斜面だけど。

古今箱伝授のこと

2020年03月23日 17:45

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 12:25:52.59 ID:aD4lGeCD
古今箱伝授のこと

烏丸殿光広、中院殿通勝、三条西殿(実条)、この三人の人々は常々、細川幽斎に古今(古今和歌集の秘伝)の口伝を
深く望まれていたが、未だその相伝の無い内に不慮の大変(関ヶ原の戦い)が起こり、幽斎も田辺城に籠城と成った。

ここで幽斎は思った
「今度は討ち死にすること必定である。然らばかの三人の人々に、古今の相伝を空しくしてしまえば残り多い。」
そう考えて、籠城支度の最中の忙しさの折節に、古今の口伝を書きしたため、箱の中に封じ入れ、三人の人々に
使いを立ててこのように伝えた

『古今の我が家の口伝を年来望んでいましたが、惣劇に妨げられ延べ引き申し、俄に大軍を引き受けて、老後の
軍の至りとなりました。今回は討ち死にすること近くにあります。もし討ち死にしたと聞かれたら、この箱を開けて
この中の物を見て下さい。』
そう、一つの箱を送った。あのように忙しい境界に、神妙なる生得である。それ心狂眼盲耳聾の三悖を以て
人を牽くは難しと云々、誠に幽斎玄旨は文武の二つを兼備した良将の器と見えた。

さて、三人の人々は、箱を受け取って伝授を得ようとは思ったが、幽斎の身の上を痛ましく思い、またそのような中、
都の風聞には、幽斎が討ち死にしたと云うものも有り、未だ落城せざりしが一両日は持たまじとも有り、頻々に
言いければ、中院殿、三条西殿両人は、田辺城の結果を待ちかねて、かの箱の封を解いて、開いてこれを見た。
今の世に『古今伝授』と呼ばれるものが、これである。

烏丸殿光広はかの箱を開けず、幽斎玄旨の落着を聞いた上でと考えていた。そのような中、忝なくも幽斎の事を
御門も惜しみ思召して、両陣に勅使を下され、幽斎は囲みを出た。
烏丸光広は幽斎の無事を大いに喜び、かの口伝を入れた箱の蓋に

『明て見ぬ かひもありけり玉手箱 二たひかへすうら島の波』

と書いて幽斎方に戻されると、幽斎は斜め成らず感じ入り、その志に耐えかねて、光広卿の邸宅に行くと、
直ぐに相伝が有ったとか。このような故に、光広は筆外の口伝を得て、古今の秘伝に精しいのだと承る。

丹州三家物語



772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 17:07:00.15 ID:jZuMQSyS
そもそも貴族の事なのにその貴族が悉く忘れてしまったことを細川藤孝1人が知ってるなんてことあるのかね

細川父子の入部と丹後

2020年03月19日 17:07

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/19(木) 02:20:30.21 ID:5aU48FEL
細川藤孝・忠興父子が丹後に入国してくることが聞こえると、国中の侍たちは、隣城縁家もよりよりに通談した。

現在、つらつらと世の盛衰を考えてみると、元亀天正の頃は天下未だに半治半乱とは申せども、織田信長が天下を
知ろしめす事、掌を指す如き状況であり、その信長のほど近くに在る細川がこの国に来ること、皆信長の指示であると
考えるべきであろう。

であれば、恣に細川に楯突いて後難を招くよりも、早く和睦を以て細川に対面すべきか、
又は国中の各々が合わさって軍を催し、難所を前に細川勢に当たり防戦すべきか、
或いは所々の険城に国衆たちの大将が立て籠もり、細川の人数を所々へ引き分けて討つべきかと、
評議まちまちであった。

また、そうは言っても、親しき者は遠路を隔てており、近所の者は年来仇を結び、或いは煩わしい関係の者共であり、
この事遂に熟談せず、それぞれの心々になった。

ここに、与謝郡大島の城主・千賀兵太夫、日置むこ山の城主・日置弾正という者、両人語らい細川入部の迎えとして
普申峠の麓まで、互いに連騎いたしたが、日置弾正は隠れなき美男にて、衣装・馬鞍に至るまで、華麗な出で立ちで
あった。
一方の千賀兵太夫は元より貧にして、にくさけ男の違風者であり、衣服、馬具まで見苦しかった。
そこで日置弾正は千賀に対して戯言を言った

「初めて細川殿と会うべき身であるのに、そのような見苦しい装束があるだろうか。戻って肩衣に着替えてくるべきだ。」

これに千賀は大いに腹を立て、口論募り、喧嘩に至って両人即座に打ち果てた。家来も互いに斬り合って、
忽ちに死人七、八人に及んだ。

丹州三家物語



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/19(木) 20:45:52.59 ID:Zi+2cZjs
どうなるのかと読み進めたら、斜め上過ぎる結果になって驚愕です

滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人である

2019年08月17日 17:01

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/17(土) 10:41:04.88 ID:+dFIgXP4
私(根岸鎮衛)のもとに来る正逸という導引(あんま)の賤僧がおり、もとより文盲無骨で
その言うところも取るに足りないわけだが、その彼が有る時咄た事に

「太閤秀吉の前に細川幽斎、金森法印(長近)、そしていま一人侍していた折、太閤曰く
「吹けどもふけず、すれどもすれず、という題にて、前を付け歌を詠め」
と有った

ある人は
「ほら(法螺)われて 数珠打きつて力なく するもすられず吹も吹かれず。」

金森法印は
「笛竹の 割れてさゝらに成もせず 吹も吹かれずすれどすられず。」

そう詠んだ。秀吉が「幽斎いかに」り聞いた所、
「何れも面白し。私が考えたものは一向に埒なき趣で、これを申すのも間の抜けた事ですが、
このように詠みました。」

「摺小木と 火吹竹とを取りちがへ 吹もふかれずするもすられず」

そう詠じたという。滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人であると見えるが。この事は軍談の書や
古記にも見当たらない。私の目の前にいる賤僧の物語であるので、その誤りもあるのだろうが、
聞いたままを記しておく。

(耳嚢)



筒井筒 五つに割れし井戸茶碗

2019年07月26日 17:43

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 13:21:54.29 ID:JJznDzuF
世間で『筒井の井戸茶碗』と呼ばれたものは、元々は南都(奈良)の水門町に居た善玄という侘び者が
所持していた高麗茶碗であったが、筒井順慶がご所望され彼の持ち物となり、その後順慶より秀吉公へ
献上されたのである。

ところがどうしたわけか、この茶碗を秀吉公の御前で割ってしまい、御機嫌を非常に損ねられた。
この時、居合わせた細川幽斎がとっさに狂歌を詠まれた

『筒井筒 五つに割れし井戸茶碗 咎をば誰が負いにけらしな』
(謡曲「井筒」の「筒井筒 井筒にかけしまろが丈 生ひにけらしな妹見ざるまに」をふまえている)

そう申し上げた所、殊の外よく出来た歌であると、秀吉公はすぐに機嫌を直されたという。

(長闇堂記)

なおこれは「多聞院日記」天正十六年二月九日条にも記載されており、どうも実際にあった事らしい

参照
秀吉の筒井茶碗と細川幽斎・いい話


117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 14:30:22.88 ID:F4qiylrx
政宗「俺の正宗、振分髪も持ってこようか」

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 16:25:54.00 ID:AwYufllE
幽斎がとりつくろわなかったら誰か死んでいたのだろうか

細川幽斎 酒の歌

2019年06月20日 17:11

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 15:25:51.96 ID:/uTZxkkg
細川幽斎 酒の歌

一切の其の味をわけぬれば 酒をば不死の薬とぞいふ。

二くさ(憎さ)をも忘れて人に近づくは 酒にましたる媒はなし。

三宝の慈悲よりおこる酒なれば 猶も貴く思ひのむべし。

四らずして上戸を笑ふ下戸はただ 酒酔よりもをかしかりけり。

五戒とて酒をきらふもいはれあり 酔狂するによりてなりけり。

六根の罪をもとがも忘るるは 酒にましたる極楽はなし。

七(質)などをおきてのむこそ無用なれ 人のくれたる酒ないとひ(厭ひ)そ。

八相の慈悲よりおこる酒なれば 酒にましたる徳方なし。

九れずして上戸を笑ふ下戸はただ 酒を惜しむが卑怯なりけり。

十善の王位も我も諸共に 思ふも酒のいとくなりけり。

百までもながらふ我身いつもただ 酒のみてこそ楽をする人。

千秋や万蔵などと祝へども 酒なき時さびしかりけり。

――『成功座右銘 名家家訓』

関連
細川忠興作、「酒の歌」


26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 19:27:05.19 ID:G6TF7YnI
天の原 ふる酒みれば かすかなる 三かさも呑みし やがて尽きかも

醒睡笑

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 21:21:20.96 ID:Sm7UgpM6
こんなお父さんだからねじ曲がってしまったんだろうか

松たけの おゆるを隠す吉田殿

2019年06月16日 17:24

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/16(日) 01:09:37.03 ID:0tIddNzO
吉田殿(吉田兼見か)の所有する山に松茸が生えたのだが、松茸の有ることが他所に聞こえると
いろいろと煩わしいと思い、ずっと秘密にしていた。ではあったが長岡(細川)幽斎へは少しばかり
贈りたいと思い「これは私どもの山に生えたのですが、世上には隠しています。ですがあなた様には
進上いたします。どうか他所へは秘密にしておいて下さい。」と遣わされたが、これに対し
幽斎は狂歌を詠んだ

『松たけの おゆる(生える、勃起を隠喩)を隠す吉田殿 わたくし物(秘蔵のもの、男根の異称)と人やいふらん』

(きのふはけふの物語)



172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/17(月) 01:26:50.49 ID:OuOOIOw1
>>170
忠興さんかと思った

よくよく見ればみかどなりけり

2019年06月12日 14:58

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 13:30:11.70 ID:ZQ+gJmmS
ある夜、豊臣秀吉公が夜食にそばがきをご所望なされ、御相伴衆にも下された。
その時ちょうど長岡玄旨(細川幽斎)が御登城され、秀吉公は早速彼にそばがきを据えさせた。
玄旨はその蓋を開けるとすかさず

『うすずみに つくりしまゆのそばかほを よくよく見ればみかどなりけり』
(薄墨で描いた眉のそばがほ(横顔)を、よくよく見てみるとみかど(帝と三角の蕎麦の実をかけている)であった)

と詠んだ
(きのふはけふの物語)



13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 17:45:52.66 ID:/fx/jYnt
まとめの6065
「秀吉がお伽衆に蕎麦掻きの料理を命じたところ」

に「戯言養気集」出典で既出