細川幽齋覺書より、戦場での心得について

2018年02月21日 20:24

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 21:22:39.27 ID:c3U9fY9D
一、戦場において、幟ほど大切なものはない。幟さえ崩れなければ、敵方より仕掛けられる
  事はない。逆に軍勢が多く揃えてあっても、幟が倒れれば、こちらは敗軍したと敵は見て、
  合戦を仕掛けてくるものなのだ。

  幟大将を致すほどの人物が、他の者が敵と手を合わせるのを羨ましく思い、自分もそのように
  しようとすれば、幟の役が立たなくなってしまう。たとえ他の人々が、どれほど敵と手合わせ
  していても、幟さえ倒さなければ、敵と手合わせした人の手柄と同然であり、またそのような
  理屈をしっかり理解していないと、出来ない役である。
  名将と呼ばれる人々も、そういった資質が無い人間には、幟大将は務まらないと申されていた。

一、武士には、信心が無くてはならないものだ。殊に愛宕八幡には、別して信仰が有るべきである。
  ただし、火の物絶ち(火を通した食べ物を摂らない事)は全く無用である。私は若い頃、火の物絶ち
  を致して懲りたものだ。とにかく、物を食わねば何事も成り難い。

一、男道はあまりに律儀な計りでも成らぬものだ。少々人を出し抜く用に心がけなければ、
  優れた手柄も成らない。ただし、他人の協力がなければ出来ない事もある。そういう時は
  状況次第である。

一、陣に立つ時、具足の綿かみに梅干しを付けて参るべきだ。のどが渇いても水のない時は
  どうしようもないが、そういった時梅干しのことを思い出せば、口に唾の貯まるものである。

一、巾着には、干飯でも米でも、何か食えるものを常に絶えぬよう入れておき、普段居住している所に
  掛け置きしておいて、草鞋、脚長一足につき巾着袋を一つ付けておくべきである。そして主君が
  鷹野、または狩りなどに出られる時、腰につけて参れば、何があっても対応できるのだ。
  とにかく、物を食わなくては手柄も成らないものなのだ。

一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。陣中、又は忙しき時にはそうは出来ないし、
  殊に常々の御奉公のさわりにもなる物である。こういったことは、常々より嗜んでおくべきである。

一、戦場にて、地面の塵やごみを蹴り立てると、煙のように空に上る。これを地煙と呼ぶ。
  この地煙が高く上るところは、馬上の武者が多いと心得、低いところは徒武者の居るところだと
  考えるべきである。ただし風など吹く時は、そういう心得も変えなければならない。

一、敵陣に物見に参る時、なんとも参る手立てのない時は、商人にまぎれて参るものだ。
  陣において備蓄が無い時は、敵味方が人数を立てあっている最中ですら、酒売商人など
  参るものである。当然、自分たちの方へもそういった者が参るわけで、少しも油断
  してはならない。

(細川幽齋覺書)

戦場での心得についていくつか



657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 23:40:37.28 ID:jlZaj6kt
>一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。陣中、又は忙しき時にはそうは出来ないし、

ワイ将、大腸過敏の長距離電車通勤組、毎日陣中(電車)で我慢

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 00:21:20.09 ID:yMVZx1uC
マニュアル作るの好きなんだなあって分かる

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 01:45:46.22 ID:UTaI4uHy
一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。
幽斎でも大小便をするんだ…

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 02:03:49.36 ID:7XdmiP1b
フン!って力むから卒中するんだよな

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 02:48:38.93 ID:X2fLifG2
不識庵「なんやて」

662 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/21(水) 08:20:06.28 ID:u0yUUzj8
マニュアルかなぁ?
単に危機管理の為のノウハウの蓄積をしようとしてるだけとしか。

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 16:45:23.98 ID:lUc9Phna
マニュアル以前のメモ書きだよな。
ただそんなメモ書きでも書いておけば役に立つ。
食料や道具の準備について大分項目を割いているが、
それだけ何の準備もなく参陣する奴が多かったんだろうなぁ。

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 17:12:32.37 ID:i4qjyDOk
梅干しの話はまんま望梅止渴の故事からだろうけど実際効果の程はどうだったんだろう
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細川幽齋覺書より、川を挟んだ合戦

2018年02月17日 09:55

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 00:09:50.53 ID:Qls51LFz
一、敵が川を前に軍勢を立てている時、その軍勢が厚く立てられている場合は、その川は浅いと
  心得るべきだ。逆に軍勢が薄い場合は、川が深いと心得るべきである。

一、敵方が川を渡ってきた場合、その川の三分の一ほど越えた時に、こちらは川端まで押し寄せ、
  鉄砲を撃って渡川を妨害しなければならない。川を渡られてしまうと、敵には勢いがつき、
  味方は勝利を失ってしまうものなのだ。

一、敵が川向うに居る時、此の方より川を渡す場合、少し川上から馬を乗り上げ、水の流れに
  つれて渡すようにすれば、早く渡れるものだ。少しでも早く、などと考え、川下から川上へ
  渡るような真似をすれば、結果遅くなってしまうものだ。

一、川を前に陣を取った場合、何よりも先ず筏を組める物を心にかけ、準備しておくことが大切である。
  とは言うものの、筏に組めるものが無く、また川を渡らなくてはどうにもならない、という状況に
  なった時は、「道具筏」といって、鑓などを組み合わせて、それに乗って渡る事もある。
  また「馬筏」といって、手綱を互いに取って組み、これにて川を渡すことも有る。このようにすれば
  弱き馬も強き馬にひかれ、造作なく渡れるように成る。
  「道具筏」「馬筏」とは、こういったもののことを言うのだ。

一、敵が川を渡ってくると予め解っている時は、此の方に柵を構築し、渡さないようにすべきである。

(細川幽齋覺書)

川を挟んだ合戦に関するお話



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 15:41:22.33 ID:nC83Xr0m
>>641
>馬筏
男塾みたいなやりかたで草

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 18:31:41.07 ID:lPtSpuum
>>641
幽斎様なら馬を担いで渡れそう

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 22:09:49.78 ID:uHB/+4zH
上流で馬の集団を渡河させて、流れを弱めて、歩兵を渡したエピがあったと思うんだが、
新田義貞だっけ?

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 23:32:00.13 ID:GZSKK4fO
シーザーがやった話なら知ってるが

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 07:35:51.26 ID:cjiShSU3
上流で糞尿を流して水の手から疫病を発生させたんだっけ

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 09:40:16.59 ID:xa+2aYDi
馬上で糞尿を垂れ流して焼き味噌と言い張った?

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 13:45:15.27 ID:8Qu9Piho
徳川軍の兵士が大井川上流で人間堤防を作って下流を渡渉する織田軍を接待した話もあったな

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 14:59:17.72 ID:CtdKoPGM
男塾名物とかでありそうだな

細川幽齋覺書より、竹束に関連するお話

2018年02月13日 18:04

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/13(火) 11:45:47.06 ID:AnKMBnJ2
一、竹束を設置する時、敵より鉄砲を厳しく撃ってきて負傷者なども出た場合は、竹束を
  2,3も結合わせ、それを取り付けた盾を背負い、後ろ向きになって進み、敵に近づいた所で
  その陰から突き出すようにするのだ。

一、敵城に対して竹束にて仕寄りを作った時、本陣との間が道が悪いなどの理由で遠い場合は、
  城中より夜討ちなど行われることが有る。そういう危険の有る時は、10人でも20人でも、
  松明に火をつけて両手に持ち、本陣の方から竹束の裏まで幾度も往復するのだ。
  こうしておくと夜討ちは無い。これを「松明の心得」と云う。

一、竹束にて仕寄りし、敵の城を取り巻いた時に行う、「城はやし」というものがある。
  これは仕寄りのための井楼の上に二人三人も上がり、拍子木を打って音頭を取り、
  城に向かって「なふなふ明日は首をたもろふ えいえいわっ」と、竹束の裏に居る軍勢が
  一度に声を揃え鬨の声を作り、鉄砲をはたはたと撃ちかける、という物である。
  これを致すのは夜の五時(夜8時ころ)から夜明けにかけてである。
  何度もこれを行うと、城中に居る女子供たち、または籠城の経験の少ない者は殊の外
  騒ぎ慌てるものにて、それにより、20日保つ城も10日も保ちかね落城するものだ。

  また、「言葉戦い」と申す物もある。口の上手いものが井楼に上がり、的に向かって
  「御陣に申したきことがある!」と呼びかける。敵側から「何事にて候」と答えてくるので
  此の方よりこう言う「御籠城御大儀に候。ですが持ちこたえるのは中々成るまじき事故、
  御降参されるように。そうなさらないのなら、どうそ何方なりとも突き破りこちらを攻めに
  出て来られよ。あなた方の御首、はやく申し請けたいものです。  まあどちらにせよ、
  あなた方の御首を申し請けないと言うことにはならないでしょうが。」
  そのように敵の心にかかることを申すのだが、この時、慮外かましき(無礼で不躾な)事を
  言っては敵方からも悪口が返ってくるだけだ。なので敵が心のなかで心配に思っていることだけを
  言うべきなのである。

(細川幽齋覺書)

竹束に関連するお話

細川幽齋覺書より、取った頸の扱い方

2018年02月12日 18:15

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/11(日) 21:54:07.70 ID:bA4eZOJj
一、合戦において頸を取った時、自身はその場に残り、頸は家臣などに持たせて主君へ遣わすのだ。

一、「頸をとっても捨てて、耳鼻だけ取るように」と大将より下知があった場合、鼻とともに
  唇を削いでおくべきだ。髭が無ければ女・童とまぎれてしまう。しかしながら若年の者は髭が
  無いので、その場合は何かその者の道具を取っておくと良い。

一、母衣武者の頸を取った場合は、その頸を母衣きぬにて包むのだ。通常の武者の場合は指物絹にて
  包むべし。ただし、こういったことも忙しいときには出来ない。そういう隙がないと判断される
  場合には、その討ち取った者の刀脇差しなどを取って、その頸に刺しておくとよい。

一、取った頸の耳に紐を通して持ち運ぶ者を見ることが有るが、それではおおかたちぎれ落ちてしまう。
  紐を口から顎に通して取り付け、これを馬の脇につけて運ぶのがよい。

(細川幽齋覺書)

細川幽斎の覚書より、取った頸の扱い方について



632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/12(月) 00:17:34.05 ID:3ZUmUOeV
庭師の首はどう扱えば良いんだろ?

細川幽齋覺書より、兵糧・食料のこと

2018年02月10日 10:55

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 08:11:39.97 ID:NnOG2X3L
一、御陣のときは、下々のことは申すに及ばず、自身も一日一夜の兵糧米は腰につけ、馬のはみをも
  携帯しなければならない
一、陣頭において兵糧米のない時は、何で有ってもその時々の草木の実を食うものだ。私も青麦などを
  炙り揉んで喰って合戦し、敵と手を合わせたものだ。桑の実などは、殊の外旨き物であった。
一、旅陣の時は、侍も小物も中間も、小屋の材料、武具の輸送を行っているが、陣頭においては
  野菜の類、また水が必要であり、無くてはならぬものだ。こういったものは小屋の材料や武具に
  結い付けて持っていくのが良く、これを運ぶ者には言葉も懇ろにかけ、少しであっても遣わす物の
  内に、心付けがあるべきだ。
  人によっては、食物に関することを話すのは恥ずかしいことだ、などと言っている者もいるが、
  そういう考えは何の役にも立たないと心得ておくべきである。
一、敵の城を取り巻く時は、それが山城で有っても先ず水の手を専らに見立て、陣を取るのが良い。
  大将から持ち口を仰せ付けられたのなら是非もないが、一夜二夜の事であっても、水の手は肝要である。

(細川幽齋覺書)

細川幽斎の覚書より、戦場における兵糧、食料のことなどについて


細川幽斎「武家に仕える者は」

2017年08月17日 17:14

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/16(水) 21:55:42.25 ID:18h3KstQ
細川幽斎「武家に仕える者は」


(幽斎の)御座の間の近くでたくさんの小姓衆がどんなに騒ぎ暴れていても
(幽斎は)少しも叱ることはなかった。

賄いの恩斎と申す者が時々(小姓衆を)叱るようなことがあると
幽斎公は
「武家に仕える者は、事が起こってしまえば今すぐにでも命を失う物だ。
 可哀想だから、子供は暴れていても制してはいけないよ」
と仰せられていたので
召し仕えている衆は自分の親よりも(幽斎のことを)
深くありがたく思い、例え大名になるとしてもこの御家を出て
別の主君を頼みにしようと思う者はいなかっただろう。
だからこそ小勢で不慮に籠城をなされたのに(※1)
多勢の寄手が容易く攻めることが出来なかったのだ。

この幽斎公の御俗名は犬打つ童まで(※2)も知っている細川兵部大輔藤孝公と申す。
若き時より弓馬は言うに及ばず、和歌、連歌、鞠、包丁、打ち囃子の道までも
心得られて、その道の極みに至るまで情趣を解することによって
人に劣るような芸は持たない人である。


――『戴恩記』

(※1)田辺城の戦いのこと。
(※2)犬を追いかけ回す三歳の児童でも知っている、という意味。



149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/16(水) 22:27:22.30 ID:KCxrewke
細川だと進士流なのかな?

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/16(水) 22:27:49.97 ID:KCxrewke
ああ、包丁道のことね

日本国に歌道が流行れば

2017年07月28日 16:10

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 00:45:57.36 ID:5+Yov4kP
日本国に歌道が流行れば


細川幽斎の弟子松永貞徳の『戴恩記』に出て来る幽斎の思い出話。

あるとき(幽斎が)丸(貞徳の自称)の数寄の程が
あはれであると仰せられた時だったか
「日本国に歌道が流行ればそこも人に知られるでしょうにね」
と仰せられたので、丸が気が済むまで
「丸はこれが流行らぬのは幸せだと存じています。もし流行れば
 大名高家の人が我先に(幽斎の)御意を得られるでしょう。
 そうなればいつわたくし如きの者が御前に出られるでしょうか」
と申すと、尤もですねとお褒めになられた。

またあるとき、(幽斎が)
「禅定殿下(九条稙通)から源氏物語を御相伝されていれば
 御身とは弟子兄弟になっていましたね」
と冗談を言われたので、丸が思い切り
「よき御兄弟を持たれることは、誠に御果報並々ならぬ事ですね!」
と申し上げれば、一層機嫌よく笑われていた。


白鷺か何ぞと人の問いし時

2017年06月15日 17:42

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 00:30:38.37 ID:dWS33giL
長岡幽斎が鶴の料理法を人にお教えされるとき、
その人は貴重な鶴の替わりにと
白鷺を板に乗せて出したので、
とっさに、

白鷺か何ぞと人の問いし時 鶴と答えて食いなましものを

「『伊勢物語』の

白玉か何ぞと人の問いし時 露とこたえて消えなましものを

の本歌取り」

(昨日は今日の物語)



32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 18:43:51.74 ID:Dny9w7CR
>>30
「昨日は今日の物語」ってタイトルめっちゃオシャレや!

なお本文の意味はわからない

三斎は実は

2017年06月08日 00:27

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 02:47:35.45 ID:/PRBbIyV
幽斎は細川への養子で、本名は三淵である。幽斎の兄を三淵大和(藤英)
という。光源院殿(足利義輝)の弟(義昭)は幽斎を頼みにして信長に頼った。

(信長と義昭の間には)20ヶ条の掟があったが、(義昭は)後にこの掟を
用いずして槇島に籠城した。信長は(義昭を)熊野に追い込みなさった。

光源院殿の御宮妾が懐妊3ヶ月の時に、幽斎は御宮妾を与えられたので、
三斎は実は光源院殿の子である。三斎は光源院殿に顔が似ていた。

本願寺東泰院の父(教如)も光源院殿の落胤という。稲葉能登守(信通)は
三斎の孫である。

(光源院殿妾御宮。懐妊三月に幽斎は被下候ゆへ。三斎は実は光源院殿子
也。光源殿に顔似たり。本願寺東泰院父も。光源院落胤と云。稲葉能登守は
三斎の孫。)

――『武功雑記』


松永貞徳が見た幽斎、物の上手と名人

2016年12月25日 17:14

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/25(日) 10:58:33.36 ID:8tbksLrh
松永貞徳が見た幽斎、物の上手と名人


関白秀次の時代聚楽第で能があったとき《朝長》の懺法太鼓を
其の頃の"上手"である金春又右衛門という者が勤めた。

[金春又右衛門は織豊期の太鼓の名手で、細川幽斎とは兄弟弟子であった。]

日が暮れてから(又右衛門は)幽法公(細川幽斎)のところへ参り
「今日は(幽法公の)ご見物ゆえ胸が躍り手は震え、前後を忘れてしまう程でした。
どうだったでしょうか」
とおそれかしこまって申した。
幽法公は休まれていたが、対面すると今日の所作を褒められて一献下された。

宴もたけなわの頃に(幽法公は)
「くたびれているだろうが、一番太鼓を打ってくれないか」
と仰せられて、自分で小鼓をお打ちになられた。
大鼓は平野忠五郎、笛は小笛亦三郎、諷は勘七など
みな普段からの(幽法公の)御近習で《杜若》を囃した。
(又右衛門の)太鼓は能を聞きなれぬ者の耳にも変幻自在で
(聚楽第より)こちらで打った太鼓の方がひときわすぐれて聞こえた。

又右衛門は忠五郎に向かい両の手をついて
「もう一番。今生の思い出に(幽法公の)太鼓をお聞きしたい」
と申したので、(幽法公は)久しく打っておらず忘れてしまっているとしながらも
「夜更けに聞き手もいないだろうし、興に乗ってきたところなので」
と言ったので、《遊行柳》をクセから謡わせたが、太鼓に差し向かう様子や
御掛け声、御撥音なども並の者のしわざとは到底思われなかった。

屋敷中が神妙になり、皆息も継げない様子で(聞いていたので)
我らが易々と感嘆してしまったので不思議に思われたのだろうかと
又右衛門の顔をじっと見ていると、いつにない様子で
額を畳に擦り付けるようにして、声も漏らすことが出来ないようであった。
喉が塞がったような気持ちがして、(幽法公が)打ち終わりになられた。
(又右衛門は)ついていた手を膝に上げ、うつむいていた頭を振り仰いだので
その顔を見ると、両目から感涙が雨のようにこぼれていました。

物の上手と名人の変わり目はあるものだと、心に思い知ったものです。


――『戴恩記』



細川家の取り成しで

2016年01月13日 22:39

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 02:19:26.40 ID:o6xk6LZS
萩原殿は吉田にお館があるようである。その館とは細川幽斎公の別荘である。
元来萩原殿は豊国大明神の社司で、大仏の南、今は宮様のお館になられていますところに一万石領されていた。
ほかに一万石を豊国の修復料としてもらっており合わせて二万石領されていた。

そうであるところに、大坂落城したため豊国社は破却され、二万石も召し上げられました。
そのとき萩原殿は細川三斎公の御息女御菊殿の婿君であったので、吉田の別荘を細川家から進上されて、
細川家の取り成しで段々と千石を領することができた
(本阿弥行状記)



その歌は忘れた。

2015年12月12日 16:55

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/11(金) 18:00:12.33 ID:k31EZdAK
 中院也足軒通勝公が勅勘された間、丹後田辺の細川玄旨(藤孝)公の介抱に預かって、勅免の後上られてときの歌、
唐土の蘇武に自分の身を比べたられたようである。いかなるゆえであろうか。
蘇武は忠義の人である。玄旨公は親友仁愛の人であるのに、也足軒の心入りは甚だ怪しいものであろう。
かような心得違いから勅勘などに遭いなさったのであろう。その歌は忘れた。
(本阿弥行状記)

思ひきや雁の便をしたひしに  雲井にかへる身をことしとは

たぶんこの歌ですね

蘇武が匈奴に捕らえられたときに、雁の足に手紙を付けたことを基にしたみたいですね



757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/11(金) 21:12:08.46 ID:MM3vXgKr
幽斎様は李陵かね

源氏物語は和国の奇筆である

2015年11月30日 07:21

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 03:04:13.42 ID:J6leepVc
 源氏物語は和国の奇筆である。細川玄旨法印(藤孝)の扈従に、宮木善左衛門孝庸という武士が、因州の牧に仕えなさっておられる。
私は若年の時から彼に随っていて、委細を伝授してもらった。慣例通りに、口伝での共有であった。

 あるときのこと、孝庸は玄旨法印に世間で便なる書は何を第一にするべきか、と尋ねなさったら、源氏物語と答えなさった。
また歌学の博覧の第一の物はと問いなさったら、同じく源氏と答えなさった。
玄旨法印からは何もかも源氏で済むことだと承った。源氏を百偏つぶさに見たものは、歌学が成就すると仰られた

と、孝庸は私に語られたことがある。
(本阿弥行状記)



ある時、織田信長は細川藤孝に

2013年11月27日 19:02

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 18:23:13.51 ID:Hw+bNMU+
ある時、織田信長細川藤孝に干支を問うた。

「甲午です」

「ならば我と同い年だな」

「君の午は、たとえれば、良馬にして金稜の鞍をそなえているようなものです。
臣は駑馬にして粗悪な鞍の午なのです。どうして同列に語ることができましょうか」

これを聞いて信長は微笑した。

――『日本智嚢』




714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 19:47:42.64 ID:kU9V66kv
会話が噛み合ってるような、いないような…

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 20:08:41.60 ID:YSG+f5uB
自分で甲言うたんやないかw

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/26(火) 20:15:33.91 ID:WwPQEH4B
微笑というか苦笑いだろうな
なんでそうなる?みたいな

『封域分数貢税誌』

2013年06月28日 19:51

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 17:07:50.49 ID:xlmzqz8w
ある時細川幽斎が、次男の頓五郎殿(興元)に、このような事を語った

「古の、室町将軍義満公の御時、日本の国々の、大小、上下、方角、米高、名物、等を調べさせ、
記録された、その書の名を『封域分数貢税誌』という。
この書は先祖より伝わり我が家にある。今、当国(丹後)の事を調べてみたが、国の形容、
全く違わず書かれていた。」

そう言うと、この抜き書きを頓五郎殿に与えたそうである。
(丹州三家物語)

忠興にはどうしたのだろう…?と思わせる逸話である。
しかし足利義満の時代に本当にそんな書物が編纂されていたとすれば、現在に残っていたら
もの凄い重要な史料になったのに、おしい。




970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 19:19:21.27 ID:la3ElqeK
忠興は別の細川家を継ぐ身で
藤孝の細川家は所領もろとも興元に継がせる予定
少なくとも当時の藤孝はそのつもりだったという事かと

973 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/28(金) 22:45:28.93 ID:pYm2hN06
>>969
室町幕府の貴重な史料は応仁~明応のゴタゴタで消失したのが多いからなあ。

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 00:30:46.73 ID:K2g9GWNi
「細川家には、昔はもっと良い宝物があったんですが、戦争でかなり焼けてしまったんですよ。
いやいや太平洋戦争の時ではなく、応仁の乱の時ですがね」

とのちに子孫が語ったのである

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 00:42:29.55 ID:a/5/lKhC
細川家が平成の世に天下取るとは忠興さんも予想出来なかっただろう
あっという間に切り崩されたけど

細川幽斎、百姓の落書に

2013年06月26日 19:55

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 20:49:05.24 ID:QPS4wqfJ
細川幽斎が丹後の領主だった頃の話

ある時、幽斎が白杉という場所に鷹狩に出かけた所、何者かが道の端にある田の畦に、
竹の枝を立てかけ、そこになにか書いた紙が付けられていた。
何かと思って幽斎がこれを見ると、おそらく百姓の仕業と思われる落書であった。
その内容はこうである

『いち(1)めいわく仕るハ、苦々(2)敷御仕置にて、さん(3)ざん志(4)ほうけ言語(5)道断、
六(6)月の日てりにハ七(7)ひんほうをかかけ、はち(8)をひかくふせい、
国(9)に堪忍なるやうに、十(10)分に無之とも仰付られ可被候。』

(何より迷惑なのは、細川幽斎の苦々しい政治である。散々な失政であり言語道断だ。
もし今の状態で6月に日照りが起これば、我々は南無妙法蓮華経を唱えて、鉢を持って
物乞いをしなければならない有様である。この国の人々がせめて我慢出来るように、例え充分で
なくても、この国の住人のための政治をしてほしいものだ。)

これを読んで幽斎は大いに笑い、閑雪という側坊主を召し出して、その紙の裏に、
自分がこれから言う通りに書けと命じた。

「このまれる十(10)分のよの中に、く(9)せ事を申百姓哉、八(8)幡きくましきとハおもへとも、
七(7)志やうより此のかたろく(6)になきハ地下の習、こ(5)くもんにかくるか
志(4)はりて腹をゐんとおもへとも、さん(3)りんにかくれぬれハ、に(2)くき志かたを
引きかへて、一(1)国一命ゆるすもの也」

(今のような好ましい世の中だというのに、何とけしからぬ事を言い出す百姓であろうか、
八幡にかけて聞き届けることはないと思ったが、七回生まれ変わったとしても
ろくなものでは無いのが地下の者達と言うものである。
獄門にかけるか、縛り首にして腹立ちを癒そうとも考えたが、これを書いた百姓も山林に
隠れているだろうから、このような憎いやり方を我慢して、その一命を許してやる。)

そう書かせると、元の場所に置かせたそうである。
(丹州三家物語)

細川幽斎、粋な政治批判の落書に、粋に見事にゼロ回答、というお話


参考
丹後に入部した細川藤孝と領民の直訴・いい話?


952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 10:12:48.28 ID:s/lZUpkv
>950
まあ、そんなふうに幽斎様に戦いを挑んでも勝てないわな。w

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 12:08:36.22 ID:pORULxaX
一番落書・落首勝負をしかけたら駄目な相手だからな(勝てない的な意味で)w

尚ラスボスにしかけると落命で返ってくる模様

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/26(水) 19:56:23.00 ID:dYZuCYsc
>>950
中身のない批判だなぁ
というか批判になってない

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/26(水) 23:04:18.59 ID:0LbL04cn
>>958
中身のない批判だから取り合うまでもないとして、こういう返しをしたんだろ

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 10:58:10.61 ID:bsXfUkG7
こんなおふざけにマジレスしても野暮なだけだしな

殺るくらいマジだとまた別のメッセージを発信するけどさ

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 16:34:58.11 ID:unbWrIWQ
マジギレした場合は落首が文字通り落とした首の横に貼り付けられるんです


964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 19:21:26.80 ID:+cLt+UhQ
>>950
今更ながら既出っぽい
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2023.html
なぜかいい話にされてた

ちょっとした戯言が

2013年06月24日 19:50

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 19:24:22.16 ID:C2MQo52C
天正9年に、細川藤孝、忠興親子が丹後に入国した時のこと。
与謝郡大島の城主・千賀兵太夫、日置むこ山の城主・日置弾正という者達が、
両人語らい、細川入部の迎えとして普申峠の麓まで、互いに騎馬で連れ立った。

ところが、日置弾正は隠れなき美男であり、衣装・馬鞍に至るまで美麗な出で立ちであったのだが、
千賀兵太夫はもとより貧乏であり、しかも醜悪な容貌で装束も異風であり、衣装から馬具に至るまで
見苦しいものであった。

そのため日置弾正千賀兵太夫に戯言を言った

「初めて細川殿にお会いするというのに、そのような見苦しい装束があるものか!
一度戻ってその肩衣を着替え給えよ。」

この言葉に千賀兵太夫は大いに腹を立て口論し、終には喧嘩になり両人はたちまちの内に
相打ちとなった。
家来たちも互いに斬り合って、双方の死者は7,8人に及んだとのことである。
(丹州三家物語)

ちょっとした戯言も戦国の世は生き死にの事態になるのだ、というお話。




928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 20:28:50.12 ID:X+UyQuNF
千賀さんに助太刀!

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 22:34:50.07 ID:XaG9f4fz
日置弾正っていうから弓神さまかと思ったわ

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 08:02:26.69 ID:/UYbUpo3
>>927
細川殿のような風流人が来なければこんな事には・・・

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 11:35:25.40 ID:W+rti0yd
そんな争っている暇があれば連れだって細川殿の奥方を見に行けばいいものを・・・

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 11:40:50.20 ID:HJEOFeWU
これが戯言になってしまうって、日頃からなにかあったのか

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 13:25:19.18 ID:VpgB5A2X
読み違えじゃないかな「たわごと」じゅなくて「ざれごと」だよ

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 14:47:25.69 ID:0xhh3kub
>>927
装束の事だけだし真面目な忠告っぽいけど貧乏を馬鹿にしやがったなってことなのかしらね

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 18:17:39.52 ID:Zh4sXWVo
>>927
せめて容姿が逆だったら格好もついたのにな

細川幽斎の信長・秀吉評

2013年01月23日 19:51

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/22(火) 22:07:54.93 ID:9EE5taSl
信長様の御軍法は、御敵になった者は子々孫々までも殺してしまい、
その名跡をも取り上げるほどに厳しいもので、こうして天下を治められた。

内裏の御修理などを仰せ付けられ、衰えた王法を盛り立てなさり、
後に仔細あって京の地子を免除なされて、万事賞罰正しく
仰せ付けられたので、万民にいたるまで仰ぎ奉った。

しかしながら、一度御敵となれば御詫言を申し上げて御旗下となろうとも
御心を許されず、憎しみも浅くはなかったので謀叛人も多くなり、
そのような時には、強引にというばかりにもいかなかった。

太閤様はそれをよく御覧になっていたので、御敵となった者には厳しく
仰せ付けても、御詫言を申し上げて御旗下となれば御譜代同然に
懇意になされ、気兼ねなくなされたから、昨日までの御敵となった者でも
身命を捨てて忠節を尽くそうとし、謀叛人もおらず、
早々に天下を御治めになった。

両大将の御軍法は、このように裏腹に違っている。
この心持ちは小身の者でも心得ておくべきことだ。

――『細川幽斎覚書』

細川幽斎の信長・秀吉評か。




164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/22(火) 22:35:01.35 ID:3LFIQHqX
だけど裏切り者には手厳しい秀吉であった。
まあどこもそうなんだけど。

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 10:05:47.23 ID:2GwMkXWk
しかし言われるほど「一度敵になった者は味方になって忠誠を尽くしても許さない」なんてあったかね信長?

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 10:14:06.72 ID:weTpr0ej
>>170
そりゃあ、一度は信行に与したものの、その後ずーっと信長に忠実に仕えていた宿老の林秀貞が、
信行事件から24年後に、その話を蒸し返されて追放されるんだぞ?

この一件だけでも、信長はそういう印象持たれても仕方ない。

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 11:12:06.46 ID:n4oZ2zd4
それどころか、ずっと真面目に勤めてきたのに追放されちゃった佐久間さんみたいな人もいるし・・・

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 12:34:49.00 ID:mSY/6VCm
通政が死ななければ隠居ですんだろうにな

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 22:01:11.07 ID:U74InqaX
>>170
どっちかというと降った後も敵なんだか味方なんだかよくわからない挙動を取る人間に
甘い傾向にあるきがする

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/24(木) 10:42:31.49 ID:QuJJ83a1
めんどくさい軍団だと喧嘩してもいつのまにか配下に戻ってるんだろうな

細川藤孝が代鼓をうつと

2012年11月15日 19:52

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 00:54:27.53 ID:g6F5c+if
伏見城で太閤殿が名人芸者を集められ、諸大名に見物させた。
小唄の名人の隆達を能舞台にあげて、小鼓を伴奏に唄わせることとなった。
見物者たちが小唄の隆達節ではその場にそぐわないと思ってると、案に相違して
隆達の歌唱は筆舌に尽くしがたいほど素晴らしく、太閤殿もことのほか賞賛なさったが、
太閤「隆達の小唄はあっぱれではあるが、鼓が合っていない。さてどうしたものか」
細川藤孝に問うた。
藤孝「それならば隆達の歌に合わせて藤孝が鼓をうちましょう」
細川藤孝が代わりに隆達の歌に合わせて鼓をうつと、その拍子は絶妙な取り合わせであり
太閤殿はじめその場に居合わせたものすべてが感嘆しきりであった。

「焼残反故」より




細川幽斎という人は高ぶる気性のない人であった

2012年07月24日 20:53

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 16:25:49.16 ID:Chx9nd01
細川幽斎という人は高ぶる気性のない人であった。

ある時、連歌師の里村紹巴が、他人より常に優れようとする病を持っていると見て取って、

「人というものは心より、形、言葉に至るまで全てへりくだるべきものであるぞ。
お主は能くその心に立ち返らねばならない。」

と、懇ろに教訓した。

またある時、蒲生氏郷がこ幽斎に出会ってこんな事を言った

「貴殿は芸能の誉れがあるためか、あなたの武功について語る人は少ないですね。
であれば、武士にとって多芸に長ずるというのは要らざることではありませんか?」

これを聞いた幽斎、うち笑って

「私は確かに芸を嗜みますが、みな口すさび手遊びばかりで、しかも他人より優れたものなどありません。
いわんや武士としての働きにおいては、一体誰が私に劣るでしょうか?」

そう、返事をしたそうだ。これは、この場面を側にいて聞いた人の物語ったものである。
(関原軍記大成)

細川幽斎の謙譲
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2928.html


氏郷への返事、いかにも京都人らしい、真綿に棘がしっかり入っている言葉ですねw
そんな幽斎様の人格についてのお話

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 17:14:25.44 ID:IbZESrud
武功の事で蒲生氏郷ごときに言われたら、そりゃ腹も立つわな。

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 17:16:32.10 ID:ZhMUpG1o
こりゃうまく刺しかえしたな、さすが幽斎様

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 17:56:12.38 ID:aMTTgEaO
京の風流人の皮肉オソロシス(´・ω・`)

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 18:03:39.86 ID:+1NTIAmg
氏郷に幽斎をくさすつもりはなかったんだろうけどねえ。
有力者に可愛がられて育ってきたエリートの世間知らずのようなものを感じるな。

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 19:05:16.84 ID:+siyYB5f
>>582
言ってるそばから上から目線で説教してるやん
同じ穴の狢っすよ幽斎さん

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 19:09:24.97 ID:gthLpY0h
>>587
いやいや、説教なんてヒトコトも言ってないだろ?
文字通りものすごくへりくだってるだけで。

これはへりくだるというのがどれだけ恐ろしい技術かを言ってるんだよw

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 19:22:57.54 ID:+siyYB5f
>>588
前者の逸話のこといってるんですけど・・・。

まあ後者の逸話も言葉でへりくだっても心が全くへりくだってないので台無しっす。

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 19:32:58.06 ID:gthLpY0h
>>589
ああ、そのへんは、里村紹巴は同じ京都の古くからの教養人仲間という”ミウチ”で、
蒲生氏郷はミウチではない、という部分を感じないとわかりにくいかもしれないな。
ミウチにはちゃんと本音を言うのさw

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 19:38:59.19 ID:GW9DHHV3
工場長言うても幽斎様からすりゃ倅のダチ程度のもんだからなぁ

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 19:46:38.20 ID:yOkWmfnc
>>591
社長の娘婿だけどな(´・ω・`)

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 21:22:05.01 ID:+Hk6Ulcz
忠興があんな風に育っちゃったのがわかった気がする。

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 22:24:58.52 ID:cK+S3Ghl
三歳さんは幼少期に幽斎さんの薫陶をあまり受けてないんだっけ?

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 22:31:17.50 ID:i8gfB5xJ
三斎様は礼儀正しくて人付き合いも丁寧だよ
ただ感情の振幅が大きすぎるだけで