725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 02:16:02.79 ID:bxqb0l/Z
寺沢代官に纏わる悪い話
大谷吉継の上意によって山北小野寺領の南方は
最上義光の差配する所となり、雄勝には
楯岡満茂と
鮭延秀綱が
軍奉行として入った
雄勝は元来の最上領からは有屋峠を境に異邦であったために、
鮭延秀綱は郎党から
大友右京といった者を
代官として雄勝の寺沢に置いた
しかしこの右京といった者は現地の百姓の疲弊を考えず、定められた年貢以上の取り立てを行い、
主君の秀綱の命令をわきまえずに勝手を強行し、少しでも従わない者がいれば私刑をも気のままに行った
寺沢近隣の民らは「こんな代官に居続けられてはたまったものではない」と考えたが
ある夜誰の仕業かわからないものの、大友が屋敷で殺される事件が起こった
大友の下人たちが
鮭延秀綱の下に逃れて
「寺沢の土民らによって代官の
大友右京が殺されました。私たちでは小勢のために仇討ちも出来ず、
長居もすれば全滅する可能性もあったのでこの事を注進するために在地から退散せざるを得ませんでした」と
報告した
秀綱はこの事を聞くと大層怒り
「主である右京を討たれて小勢だから逃げ帰っただと?武士なら仇を取るために切り死にして
名誉を守るものだろう?自分たちだけ助かろうとここにいる奴輩は武士の恥だ!」と寺沢から逃げて来た
下人20人ばかりの耳や鼻を削ぎ、追放してしまった
秀綱は「しかし右京を討った土民どもも放置する訳にはいかぬ」と金山城主の
川田三右衛門に与力と足軽を付け、
在所の郷士や農民を徴用し、3000人ほどの兵力で雪の山北に遣わせた
山北では秀吉の検地以来一揆が頻雑していたが
山北に川田の兵らが向かっているとの知らせを聞くと
寺沢の土民らは「いくさの準備だ」と村の近くの横堀といった地に大雪を利用した雪壁を築き、都
合1000余人で高さ二丈・厚さ二尺、周囲七・八町の廓を設け、堀を割り
弓や鉄砲までを揃えて立て篭もった
(つづく)
728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 03:05:15.29 ID:bxqb0l/Z
(つづき)
川田の鎮圧部隊と寺沢の土民とのいくさ場の山北横堀の地に
裸武太之助といった男がいた
元は
鮭延秀綱に仕える武勇で名の知られた豪傑であったが、度重なるいくさに嫌気がさし、
知行を捨て牢人になっていたが、寺沢の民らに助力を請われて横堀の雪壁内に百姓らと篭っていた
川田からの攻撃に武太之助は例のごとく身体に合う鎧がなかったので着物一つを腰に巻き、
素肌姿で帯に小旗を差し、大太刀を数本身に付け薙刀を杖の様について雪壁の前に現れた
武太之助「裸武者でござる!このたびは土民に助力し敵として相まみえる。川田殿、いざかかって来られよ!
我が首取って鮭延の殿に見せるがいい!」
最上兵は「武太之助は何を考えているのだ?大軍を相手に勝てるとでも思っているのか?
討ち取って手柄にしてくれよう」と50~60人が討ちかかった
武太之助「騎馬でさえ我を討てないのに、徒士のおまえらが束になってもワシに敵うものか?
武太之助の手並みを早くも忘れたのか」と打ち笑い、川田の兵らに切り込んだ
土民「武太之助殿を討たせるな!」
雪壁内から野武士や土民らが川田の兵目掛けて打って出たが
川田三右衛門はいくさに長けていたので伏兵を敵の後方に送り
雪壁を占拠すると前後から土民らを包囲殲滅にかかった
土民らは方々で討ち取られ
武太之助の周りにいた者も残らず討たれた
武太之助は鉄砲で身体の三ヶ所を打たれ、雪の中に倒れ、首を取ろうと近づいた敵兵を二・三人倒した所を
槍で次々と突かれ、ついに首級を取られて絶命した
川田三右衛門は生き残った土民らを集め「代官
大友右京をどうやってあやめたのだ?」と尋ねたが
土民らは「我々は
大友右京を討ってはおりません
我々も
大友右京を危めようと策を練ってはおりましたが
代官右京は下人にも厳しく、家内でもたいそうな恨みを買っておりました
あの日屋敷の下人たちが主の右京を弑し、そのまま遁走したのでございます」と理路整然と答えた
川田はこの次第を聞き「大友が恨まれるのも当然か」と土民らをそのまま解放し
「もとの如くにあるべき」と立て札を建て最上領へと帰った
翌日にはいくさ場で討たれた者の遺骸が片付けられた
武太之助の妻と11才になる息子は早朝から横堀を訪れ七尺ばかりの首のない武太之助の遺骸に縋り付いて
号泣していた
高橋兵助といった者がこれを憐れみ、武太之助の遺骸を荼毘に伏し、遺族に骨を返した
鮭延秀綱は
川田三右衛門から
大友右京の悪事と下人らの詐事の次第を聞くと、寺沢の民らを不憫に思い、
年貢や雑役を免除したと伝わる
『奥羽永慶軍記』
727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 02:24:56.05 ID:OXjmW04f
土民のくせに鳥銃まであるんかよ
修羅の国だな
732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 08:22:12.70 ID:55E0dqL9
>>728
>川田からの攻撃に武太之助は例のごとく身体に合う鎧がなかったので着物一つを腰に巻き
とあるけど、初見にはなんで例のごとくなのかわからんちん
733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 08:43:06.41 ID:bxqb0l/Z
>>732
既出の「鮭様のおやじギャグ」の逸話
奥羽永慶軍記を元に南方熊楠が書いたものから
近世豚の字を専(もっぱ)らブタと訓(よ)む。
この語何時(いつ)始まったかを知らぬ。『古今図書集成』の辺裔(へんえい)三十九巻、日本部彙考七に、
明朝の日本訳語を挙げた内に、羊を羊其(ようき)、猪を豕々(しし)として居る。
その頃支那人が家猪を持ち来ったのを、日本人が野猪イノシシの略語でシシと呼び、山羊をヤギと呼んだのだ。
古くは野牛と書き居る。
綿羊のみをヒツジと心得て、山羊を牛の類と心得たものか。
『大和本草(やまとほんぞう)』十六にこれ羊の別種で牛と形と相類せずと弁じ居る。
やや新しそうに思われたヤギなる称が、明の時代既に日本にあったと知ってより、ブタという名もその頃あった
証拠はないかと血眼(ちまなこ)になって捜索すると、本願空しからずとうとう見出しました。
それは『奥羽永慶軍記』二に
最上義光、延沢能登守信景の勇力を試みんとて大力の士七人を選出す。
「一番に裸(はだか)武太之助、この者鮭登典膳与力にてその丈七尺なり、今東国に具足屋なし、
上方には通路絶えぬ、武具調うる事なかれば、戦場に出づるに素肌に腰指(こしざし)して歩(かち)にて
出陣すれども、いつも真先に駈けて敵を崩さずという事なし、
本名は高橋弾之助英国といいけるが、素肌にて働く故人皆裸とはいうなり、
余り肥え脹(ふく)れし故豕(ぶた)という獣に似たりとて豕之助と名付けしを、義光文字を改めて、
武太之助と戯れける」。
734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 10:27:28.04 ID:KXu8kAK4
そんなんだから忌避されがちなんだと思うよ・・・
735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 12:47:01.65 ID:mNil0/Ht
ちょっと龍造寺さんちの百武さん思い出した
変な名前をいい字に変えてあげた義光さん優しい
736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 13:03:11.41 ID:0xQXnkUC
機会があるたびにど直球なネーミングセンスを存分に発揮してる権現様は・・・・
誰か突っ込まなかったんだろうか
740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 09:12:54.61 ID:lf31lOQA
>>736
実際がとこ、そのネーミングがあの鬼記憶力とつながってんじゃないの。
名前を検索キーにしてるっていうか。