「実際はさぁ」

2015年01月08日 18:45

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 03:20:24.92 ID:FE/AjC1a
「実際はさぁ」

世間巷では上泉主水(上泉泰綱)が長谷堂合戦の折りに朴の木屋敷で討ち取られた話で、首級を挙げたのは
坂野弥兵衛か金原七蔵かってそんな内容で盛り上がる事が多いよね
でも、実際はさぁ、味方が前線で倒した敵で、首級実験でも名前のわからない身なりの良い
大剛の士分のものがあったんだけど、誰の首かわからないからそのまま放置されてた凄い形相のものが
その日の遅くに直江方から「そちら(最上軍)に討たれたものの内に上泉主水の首級があるから、
出来ればそれを返してくれ」と使者が来たから主の名前が判明したんだよね
事実ってそんな事が多いよね

「鮭延越前旧臣岡野九左衛門覚書」

使者が来なければ上泉泰綱を討ち取った事に当分気付かなかったであろう
最上軍の昔話




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鮭延秀綱、近習の者に昔話をする

2015年01月05日 18:45

158 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/05(月) 13:12:12.24 ID:A+nBxSmi
鮭延秀綱、近習の者に昔話をする

古河の鮭延翁が若い頃の話を近習の者にした事があった。これはその聞き伝えである。

鮭延翁曰く
「文禄の頃某(それがし)は殿(最上義光)について京都におったが、秀次事件で国屋敷が閉門を命じられていた事があった。
その頃施薬院玄以、寺西筑後、岩井丹波辺りであろうか、秀次事件始末の目付の者が太閤殿下に
『政宗・義光の両家の延沢、鮭延、遠藤文七、原田左馬、片小らの傍若無人な者ともが一揆(騒乱)を企て、
武器弾薬や兵を整え京都と大坂を焼き払い、太閤を攻め殺そうと評定が一致しているそうだ。
これに東国の大名小名が既に同意し、今にも大乱になるのではないかと
京都・大坂の町人どもが私財を鞍馬・高尾・八瀬・大原に運び入れ、逃げ支度をしている最中だと言うそうです。』と言上したそうだ。
これはまったくのデマだったんだよね。
伊達と最上の人々が無謀を企てるくらいなら、世の中に漏らす事なんてしないよね。
察するに、筋なき下々の者の噂話に尾鰭端鰭がついて、京童や町人らの間でさも本当の話の様に広がったんじゃないだろうか。
同じ頃に伏見の普請奉行の布施小兵衛と杉山主水、竹中左衛門ら三人が江戸中納言秀忠卿に言上して
太閤殿下の耳にもこの話が伝わったそうだ。
最上義光伊達政宗が協同して太閤を討ち取り、西三十三国を最上領、東三十三国を伊達領とし、
二人は西と東の将軍になろうと内談はすでに決している。伊達と最上を放置すると由々しき問題です』なんて馬鹿馬鹿しい話だと思わないか?」

「出羽の昔話」

さらりと伊達・最上の主力武将の中に自分の名を登場させる鮭延タソの京最上屋敷閉門時の昔話。




159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 13:19:53.39 ID:VCqYemYR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3473.html
この時の話か

寺沢代官に纏わる悪い話

2014年11月09日 17:04

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 02:16:02.79 ID:bxqb0l/Z
寺沢代官に纏わる悪い話

大谷吉継の上意によって山北小野寺領の南方は最上義光の差配する所となり、雄勝には楯岡満茂鮭延秀綱
軍奉行として入った
雄勝は元来の最上領からは有屋峠を境に異邦であったために、鮭延秀綱は郎党から大友右京といった者を
代官として雄勝の寺沢に置いた
しかしこの右京といった者は現地の百姓の疲弊を考えず、定められた年貢以上の取り立てを行い、
主君の秀綱の命令をわきまえずに勝手を強行し、少しでも従わない者がいれば私刑をも気のままに行った

寺沢近隣の民らは「こんな代官に居続けられてはたまったものではない」と考えたが
ある夜誰の仕業かわからないものの、大友が屋敷で殺される事件が起こった

大友の下人たちが鮭延秀綱の下に逃れて
「寺沢の土民らによって代官の大友右京が殺されました。私たちでは小勢のために仇討ちも出来ず、
長居もすれば全滅する可能性もあったのでこの事を注進するために在地から退散せざるを得ませんでした」と
報告した

秀綱はこの事を聞くと大層怒り
「主である右京を討たれて小勢だから逃げ帰っただと?武士なら仇を取るために切り死にして
名誉を守るものだろう?自分たちだけ助かろうとここにいる奴輩は武士の恥だ!」と寺沢から逃げて来た
下人20人ばかりの耳や鼻を削ぎ、追放してしまった

秀綱は「しかし右京を討った土民どもも放置する訳にはいかぬ」と金山城主の川田三右衛門に与力と足軽を付け、
在所の郷士や農民を徴用し、3000人ほどの兵力で雪の山北に遣わせた

山北では秀吉の検地以来一揆が頻雑していたが
山北に川田の兵らが向かっているとの知らせを聞くと
寺沢の土民らは「いくさの準備だ」と村の近くの横堀といった地に大雪を利用した雪壁を築き、都
合1000余人で高さ二丈・厚さ二尺、周囲七・八町の廓を設け、堀を割り
弓や鉄砲までを揃えて立て篭もった

(つづく)

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 03:05:15.29 ID:bxqb0l/Z
(つづき)

川田の鎮圧部隊と寺沢の土民とのいくさ場の山北横堀の地に裸武太之助といった男がいた

元は鮭延秀綱に仕える武勇で名の知られた豪傑であったが、度重なるいくさに嫌気がさし、
知行を捨て牢人になっていたが、寺沢の民らに助力を請われて横堀の雪壁内に百姓らと篭っていた

川田からの攻撃に武太之助は例のごとく身体に合う鎧がなかったので着物一つを腰に巻き、
素肌姿で帯に小旗を差し、大太刀を数本身に付け薙刀を杖の様について雪壁の前に現れた

武太之助「裸武者でござる!このたびは土民に助力し敵として相まみえる。川田殿、いざかかって来られよ!
我が首取って鮭延の殿に見せるがいい!」

最上兵は「武太之助は何を考えているのだ?大軍を相手に勝てるとでも思っているのか?
討ち取って手柄にしてくれよう」と50~60人が討ちかかった

武太之助「騎馬でさえ我を討てないのに、徒士のおまえらが束になってもワシに敵うものか?
武太之助の手並みを早くも忘れたのか」と打ち笑い、川田の兵らに切り込んだ

土民「武太之助殿を討たせるな!」

雪壁内から野武士や土民らが川田の兵目掛けて打って出たが
川田三右衛門はいくさに長けていたので伏兵を敵の後方に送り
雪壁を占拠すると前後から土民らを包囲殲滅にかかった

土民らは方々で討ち取られ
武太之助の周りにいた者も残らず討たれた

武太之助は鉄砲で身体の三ヶ所を打たれ、雪の中に倒れ、首を取ろうと近づいた敵兵を二・三人倒した所を
槍で次々と突かれ、ついに首級を取られて絶命した

川田三右衛門は生き残った土民らを集め「代官大友右京をどうやってあやめたのだ?」と尋ねたが
土民らは「我々は大友右京を討ってはおりません
我々も大友右京を危めようと策を練ってはおりましたが
代官右京は下人にも厳しく、家内でもたいそうな恨みを買っておりました
あの日屋敷の下人たちが主の右京を弑し、そのまま遁走したのでございます」と理路整然と答えた

川田はこの次第を聞き「大友が恨まれるのも当然か」と土民らをそのまま解放し
「もとの如くにあるべき」と立て札を建て最上領へと帰った

翌日にはいくさ場で討たれた者の遺骸が片付けられた

武太之助の妻と11才になる息子は早朝から横堀を訪れ七尺ばかりの首のない武太之助の遺骸に縋り付いて
号泣していた

高橋兵助といった者がこれを憐れみ、武太之助の遺骸を荼毘に伏し、遺族に骨を返した

鮭延秀綱川田三右衛門から大友右京の悪事と下人らの詐事の次第を聞くと、寺沢の民らを不憫に思い、
年貢や雑役を免除したと伝わる

『奥羽永慶軍記』



727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 02:24:56.05 ID:OXjmW04f
土民のくせに鳥銃まであるんかよ
修羅の国だな

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 08:22:12.70 ID:55E0dqL9
>>728
>川田からの攻撃に武太之助は例のごとく身体に合う鎧がなかったので着物一つを腰に巻き
とあるけど、初見にはなんで例のごとくなのかわからんちん

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 08:43:06.41 ID:bxqb0l/Z
>>732
既出の「鮭様のおやじギャグ」の逸話

奥羽永慶軍記を元に南方熊楠が書いたものから

近世豚の字を専(もっぱ)らブタと訓(よ)む。
この語何時(いつ)始まったかを知らぬ。『古今図書集成』の辺裔(へんえい)三十九巻、日本部彙考七に、
明朝の日本訳語を挙げた内に、羊を羊其(ようき)、猪を豕々(しし)として居る。
その頃支那人が家猪を持ち来ったのを、日本人が野猪イノシシの略語でシシと呼び、山羊をヤギと呼んだのだ。
古くは野牛と書き居る。
綿羊のみをヒツジと心得て、山羊を牛の類と心得たものか。
『大和本草(やまとほんぞう)』十六にこれ羊の別種で牛と形と相類せずと弁じ居る。
やや新しそうに思われたヤギなる称が、明の時代既に日本にあったと知ってより、ブタという名もその頃あった
証拠はないかと血眼(ちまなこ)になって捜索すると、本願空しからずとうとう見出しました。
それは『奥羽永慶軍記』二に最上義光、延沢能登守信景の勇力を試みんとて大力の士七人を選出す。
「一番に裸(はだか)武太之助、この者鮭登典膳与力にてその丈七尺なり、今東国に具足屋なし、
上方には通路絶えぬ、武具調うる事なかれば、戦場に出づるに素肌に腰指(こしざし)して歩(かち)にて
出陣すれども、いつも真先に駈けて敵を崩さずという事なし、
本名は高橋弾之助英国といいけるが、素肌にて働く故人皆裸とはいうなり、
余り肥え脹(ふく)れし故豕(ぶた)という獣に似たりとて豕之助と名付けしを、義光文字を改めて、
武太之助と戯れける」。

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 10:27:28.04 ID:KXu8kAK4
そんなんだから忌避されがちなんだと思うよ・・・

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 12:47:01.65 ID:mNil0/Ht
ちょっと龍造寺さんちの百武さん思い出した
変な名前をいい字に変えてあげた義光さん優しい

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 13:03:11.41 ID:0xQXnkUC
機会があるたびにど直球なネーミングセンスを存分に発揮してる権現様は・・・・
誰か突っ込まなかったんだろうか

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 09:12:54.61 ID:lf31lOQA
>>736
実際がとこ、そのネーミングがあの鬼記憶力とつながってんじゃないの。

名前を検索キーにしてるっていうか。

差首鍋(さすなべ)城

2014年11月07日 18:45

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 01:50:41.02 ID:trL7jKmu
差首鍋(さすなべ)城

天正9(1581)年、天童八楯を降し勢いに乗る最上義光に対し「山形に仕える道理は無いわ」と臣従を拒否していた
若き勇将鮭延秀綱の治めていた兼山領へ義光は出陣
氏家守棟の懐柔で幾つかの鮭延方の城館は戦わずして最上軍の傘下となったが、野沢の沓沢玄蕃といった者が
鮭延方で気を吐き、進撃する最上軍を相手に篭城戦を続けていた
玄蕃の篭る城は三方を川に囲まれた断崖絶壁の台地上にあり、城中には清水もあったがいくさの最中に水は枯れ、
兵たちは夜間に最上軍の隙を見ては城塀から
ふもとを流れる川にヒモを付けた鍋を吊り降ろして水をくみ、呑み水を確保し継戦した
結局城は焼打ちに遭って落城したが
この故事にちなんで当地は「差首鍋」と呼ばれるようになったという



703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 01:57:05.99 ID:trL7jKmu
(´・ω・`)「塀の上から首を突き出して、一生懸命にヒモの付いた鍋ではるか下方を流れる川から水を汲み上げる姿って、敵ながらシュールだと思うんよ」

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 08:24:42.72 ID:osbj2YI1
よい火縄の的になりそうだね

長谷堂攻め本格化す

2014年09月16日 18:52

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 14:57:44.73 ID:86qLHPKL
長谷堂攻め本格化す

(慶長5年9月14日に富山口を抜け長谷堂北方の山形盆地に進軍した直江兼続だったが
15日の楯岡光直と清水義親の夜襲を受けて、菅沢丘陵へと後退して陣を構えた)

其比(此)、長谷堂には志村伊豆守(志村光安)在城しける間
加勢として(鮭延秀綱の援軍)旗本百騎に小筒の足軽二百餘人籠りける

然るに九月十六日直江山城守(直江兼続)長谷城へ押寄、城十一町を隔て、菅澤山に陣をとれば
春日左衛門(春日元忠)は山の尾崎に備を立、既に春日は仰を窺、明日未明より可責と也
然は城中の若者一々次第に打而出んとはやりける所に、伊豆守(光安)同加勢(秀綱)と申合壱人も柵より外へ、□(※耳の右側に卯の字)爾に出さず
悉静りかへつて居たりけるが、其夜伊豆守家来に大風右衛門佐、横尾勘解由を大将として兼而夜討に馴たる若者二百人撰び出し互いに相ことばを定め二手に分け
十六日の曉春日左衛門尉が備へたる陣中へ忍入す
こへも立ず 、追伏々切ける間、思ひよらざる事なれば陣中上を下へと返しけり何れをかたき共味方共わけざれば同士討する事数多なり
去るに左衛門も馬に乗るべき隙さへなく漸く太刀斗追取て山城守陣中さして逃行ける
然る所に夜打の勢共は左衛門が陣を思ひの儘に打破り討捕し首共を百十五持来り
伊豆守実検に入ければ喜悦其限なく、夜討の大将は不及申其外のもの共に迄ほうびをえさせけり
其夜味方にも八人打死しけるとなり

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 15:22:57.92 ID:86qLHPKL
さて又かたきの方にはいよいよ無念を起し押付長谷堂へ取詰るのよし義光公被聞召鮭延越前守を召されのたまひけるは

(義光)「長谷堂の城へは最前より加勢を丈夫に遣し置といへ共いまだ心もとなき間
其方は急長谷堂へ行伊豆守合力後事の評定を致べし
かまへてかまへて日来申付ごとく城中の勢兵を壱人も柵より外不可出」

と有ければ

(秀綱)「畏て候」

とて手勢引くし長谷堂へ行、伊豆守に対面して御意の趣委申渡ける
然るに春日左衛門、十六日の敗軍口惜存、同十八日に先陣にて惣堀へ攻寄るといへども、城中には少もさはがず
四方の矢ぐらより鉄砲を一同あられのごとく打ければ時の間に多の死人出たりけり
寄手是を見て責めあぐんでや有けん、先手負共を助よとて本陣へ引返しける
然ば城の内にてはいよいよ悦就中はやりをの若もの共勝に来ていざや打て出追討なさんとていさみにいさんで打出んとせし所に伊豆守抑へ申けるは

(光安)「何とてかたかたは不入若げを働候哉
此城堅固にして数日送りなば必ず義光公後詰可有之間
其時内外よりもみ合戦候はば立所に勝利を得べし
然るに今卒爾に打て出付入などにせられてはあしかるべし
さて付入と申は昔よりも上杉家のえものとこそ聞及也
殊更義光公鮭延に被仰含候通城中の勢兵返々壱人成共柵より外へ不出可と
委細被仰越候所に卒爾成働共返々無用」

と申けれども若手の者聞も不入

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 15:56:55.00 ID:86qLHPKL
(長谷堂城兵の若者達)「(9月17日に南の上山城の里見勢が上杉軍の本村親盛や椎名弥七、松下杢助・平岩石見、岩井備中を討ち取り、数百の首級を挙げた戦果を伝え聞き)
上山、長谷堂とて同様に寄来るに上山にてはかたきを追払、分捕高名せし處に、此城なればとてなんぞ一戦もせざらんやは無念の次第なり」

と口々に申ける所節かたきの方には足軽共をあまた放し散らし作物を苅はこばしむるを越前守

(秀綱)「あれあれ御覧候へ苅田をなすとみへたり
さいわい若手者あまりにいくさ所望の上は我伴ひ出し一いくさすべき間引入候はん時あやうからぬ様に取計候へ」

とて既に打而出んとしけるを伊豆守申けるは

(光安)「かまへて足早に引き給ふべし何程かたき追たるとも返し合給ふ事合やめられて可然候
其後の事はともかくも我々に被任置候へ」

と申ければ越前守につこと打わらひ

(秀綱)「引入ての後は貴殿に預置候。唯今の合戦は随分とはげみ可申の間剛腕の程御見物候へ」

とて旗本組百騎許伴ひ大手の間を押ひらき、いさみにいさんで打て出
苅田をいたす足軽共を追立山際に備たる直江山城守が本陣へ切て入れば寄手も願ふ所の幸と入みだれ追つ返しつ一時程戦ひけるに
とかく味方の軍のつよきにや敵の物頭数多討取ける間、終にさぐり立られ後陣の勢へ逃入ける
味方の兵勝に乗て猶もつづひて入らんとしたりしを
越前守押留、日既に夕陽にかたぶけりとて軍兵る間
寄手是に利を得て更ば付入に乗とれとて手しげく追欠けれども
内々伊豆守と申合たる事なれば少もかまはず足早に引而入にけり
又寄手方よりも透間もなく追て乗入らんとしける所に
伊豆守兼てかく可有とおもひ足軽三百余人引具し大手の口より壱町程斗出し道を中にはさみ
弓手めてに備を立流かけたる事なれば
五間七間引離て三百丁の鉄砲を一度に放かけければ
先にすすむ兵共将□たをしをする如くやにわに三拾騎斗ばらばらと打たをす
後陣共に辟易して進み兼たる内に伊豆守足軽共を下知して手がろく引て入ける間
寄手も力およばずして本陣へ引返しけるなり

『義光物語』

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 16:11:10.28 ID:86qLHPKL
寡兵で上杉軍を翻弄した鮭延秀綱と、それをサポートした志村光安の記述




鮭延落城後の鮭延秀綱

2014年08月22日 13:48

989 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 04:17:34.80 ID:k/wP8bZN
鮭延落城後の鮭延秀綱

羽陽大梵寺(大宝寺)の城主・藤原駿河(武藤光安)は庄内大山の武藤義氏(大宝寺義氏)の一族の中にあって武威を誇っていた

しかし光安は乱暴なところがあり、大山の義氏には従わず、大宝寺城下で勝手に政事を敷いていた

一方の大宝寺義氏も領民に圧制を強いて「悪屋形」と呼ばれる程評判は良くはなかった

義氏は光安を排除しようとしたが、攻め切るには兵力が足りず、また、大山と大宝寺は近い場所にあったために、義氏派と光安派はあちこちで衝突を繰り返していた

そんなところに兼山の戦いで兵糧攻めにより落ち延びて来た鮭延秀綱らが現れた

鮭延秀綱「庄内では大山の大宝寺義氏の権威が霞むくらいに武藤光安といった者に勢いがあるという」

秀綱は武藤光安を訪ねた

光安「鮭延殿の武功は聞こえ及ぶところ。ゆっくりしていくが良い」

秀綱は光安に仕える事となったが、光安が些細な事で癇癪を起こし、近習や郎党を斬り殺すのを目の当たりにすると

秀綱「噂に聞いていた以上に乱暴な主君だ…
仕える家を間違えたな。
今は後悔しかしていない。
越後に流れて上杉家に仕えるか…
しかしもう少し庄内に留まって土地の倣いを覚えるか」

と志ならず(仕方なしに)滞在を延ばす事となった

「奥羽永慶軍記」

武藤光安は実在が不確かとされ
また鮭延秀綱は本来最上義光による鮭延城攻めの後に大宝寺義氏を頼った事から
色々と歴史事象との矛盾を含む悪いお話





ある日、見知らぬ客人が尋ねてきた

2012年11月01日 19:52

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 20:12:03.40 ID:Hy/vmaIW
最上家改易後、古河酒井家預かりの身となった鮭延秀綱
そこへある日、見知らぬ客人が尋ねてきた。
「越前どの、私は内豆民部の子です」
「さてどなたでしょう?」
「私は父があなたさまに割られた兜を保管しておりますよ」
「おお、それではあのときの…」
内豆民部とは、慶長六年の庄内攻めのときに秀綱が戦い、確かに兜を割った相手
であった。
民部はほどなく病死したが、そのときの話を息子に語り継いでいたのであろう。

これは庄内酒井家中では、わりと有名な話ではないだろうか。
以前江戸で、酒井家の高力但馬守が知っていると語っていたのを私は聞いたぞ、
と秀綱は付け加えた。

ちなみにこうした逸話が記録された『鮭延越前守聞書』は、秀綱本人の希望によって
娘婿の家臣・岡野九郎左衛門がかきとめ秀綱の十三回忌にまとめたものであり、
鮭延寺から古河早川家に伝わったものである。

なおこの記録は秀綱三十九歳までしか残されておらず、改易については一切記載
がない。




171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 21:09:59.95 ID:9VCDBAR3
最近、鮭延さんフィーバー状態だなこのスレw

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 00:26:10.06 ID:HK1rZBM2
>>171
鮭延ならぬ鮭述べ状態だな

さりげなく自慢を忘れない鮭延であった

2012年10月29日 19:57

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 21:22:53.80 ID:hbstFqpK
上杉と最上が庄内支配をめぐり争っていたころ、鮭延秀綱は三十歳ほどであった。
このとき、庄内に協力者が出たため最上義光は石高のより高い者よりも秀綱を選び、
1500人ほどをつけ庄内に先陣とし派遣した。迎え撃つには本庄繁長勢3000。
打出川を挟み対峙する両軍。渡河地点と中州をめぐり両者ひかず、射撃戦だけで
一日が終わることもあるなど、降着した戦況となった。
数では劣る最上勢は善戦し、自軍は損害がないが敵をひとり出すときもあるなど、
よく持ちこたえていた。
いよいよ繁長が川を渡るかと見え、秀綱は警戒し背後から回りこんで討とうと策を練ったが、
繁長はなぜかそのとき引き返し退陣。ようやく戦も終わるかと思われた。
数が劣るもよく戦った、勝ち戦として報告して最上に報告してもよいかなと秀綱が思っていると、
飛脚が最上から届いた。その内容は、
「山形が大火事で本丸だけ残して、二の町、三の町、侍町、通町、みな焼けてしまった。
もう庄内攻めはできないので、和睦したら急いで引き返してこい」
意外な幕切れである。義光は国元への手紙で火の用心をさとしていたり、
山形の植木市も火事がきっかけとされているが、これで大火事が裏付けられたというわけだ。

のちに、
繁長「そういえば昔、庄内の北目で川を渡り敵を倒そうとしたのに、敵がつけてまわり、
こちらの背後をついてきそうなので結局川を渡れないことがあった。
あのときの最上方は誰だったのだろう?」
某「あれは鮭延秀綱です」
繁長「おお、なるほど! かねてより聞いていたあの名高い武将鮭延か…」
という会話があったとか。さすが繁長、敵を褒めるのを忘れない。
そしてさりげなく自慢を忘れない鮭延であった。
(『鮭延越前守聞書』)




「最上の鮭延攻めおよび秀綱拒否の動機」

2012年10月29日 19:56

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 21:21:46.85 ID:hbstFqpK
鮭延秀綱の回想は誇張がなく、戦国武士の実際がわかるようでなかなか興味深い。
軍記しか材料がなく、わかりにくかった最上家の状況も、彼の証言によってあきらかになる部分もありそうだ。

22の歳に主君大宝寺義氏を失った鮭延秀綱だが、その後最上義光配下に入るのはご存じの方も多いであろう。
しかし、その課程には軍記と実際でかなり差があることがわかる。

「最上の鮭延攻めおよび秀綱拒否の動機」
軍記:
義光の優れた武勇と威光によって出羽はほぼ最上家支配下に入ったが、
気位の高い若武者・鮭延秀綱(16)は抵抗した。出羽統一のため、義光は鮭延へ出兵することとした。

秀綱の回想:
大宝寺家に仕えていた鮭延城主秀綱(24)は、二年前主家の滅亡にあうも、大宝寺にかわって
庄内を支配するようになった東禅寺筑前のはからいにより、城を確保できていた。
東禅寺は最上義光に接近し、義光もこれに応じて庄内攻めをしたいと考えた。
しかし最上と庄内のあいだには鮭延がある。
(庄内の)鮭を獲るためには鮭延をまず攻めよということで、義光は庄内攻めの先頭に立つよう依頼。
しかし秀綱は、「庄内あっての鮭延、なのに味方できるか」と拒否。
これを受け、延沢満延によって鮭延攻めが開始されるのであった。

「秀綱の夜襲」
軍記:
鮭延城を包囲した最上勢は、夜間水くみに出る鮭延勢を待ち伏せて攻撃していた。
そこで秀綱は一計を案じ、取水部隊に中に強者をひそませ逆襲、最上の武田兵庫を討ち取ったのである。
義光は秀綱の知勇に感じ入り、これに懲りて持久戦に切り替えた。

秀綱の回想:
秀綱はわずか三百で粘るが、最上側は氏家守棟も投入。
事態の打開のため、守備側は夜襲を思いついた。
秀綱は「よし、俺が偵察してくる」と自らこのとき城外に行くが、帰り道に敵だと勘違いした味方に襲われ、
あやうく同士討ちするところであった。
こんなに苦労したのに、戻ってみると「夜襲はやめましょう」とあっさり却下されてしまうのであった。
(つまり、実際は夜襲そのものがなかったと思われる)

「決着」
軍記:
いよいよ落城間近となったとき、秀綱たち一行は夜陰に乗じて城外に脱出した。
城を落としたあと、物資の尽きた様子を見た最上勢は「これなら力攻めしたら楽勝だったな」と感想をもらす。
しかし義光は「秀綱は見所があるから、敢えて見逃した。いずれ私のもとに来よう…」と言うので周囲はその度量と先見の明に感心した。
この言葉通り、秀綱は落城間際に庄内の大宝寺をたよって落ち延びたが、大宝寺滅亡後最上家に仕えるようになった。

秀綱の回想:
降着した事態は義光の根回しによって新たな局面を迎える。
秀綱が庄内の援軍を頼りに粘っていると考えた義光は、庄内の小野寺家から説得してもらうことにした。
秀綱本人は頑なであったが、小野寺家の説得を受けた家老が秀綱に意見し、ついに降伏して最上家に仕えることとなった。

こうして比較すると時系列が逆転していたり、夜襲をかっこよく描いていたり、義光の度量を強調している。
また、秀綱は武将の意地よりも庄内からの援軍を頼りに抵抗しているとわかり、
理想論だけではない戦国武士の現実的思考がわかるといえよう。
(『鮭延越前守聞書』)





その翌年、事件は起こった

2012年10月27日 18:08

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 09:38:59.22 ID:C9fQWpwr
鮭延秀綱は、鮭延城主定綱の子として生まれた。
しかし二歳の時、父と兄・氏綱の争いに乗じた大宝寺義増が鮭延城をのっとってしまう。
父と兄に置き去りにされた秀綱は、そのまま庄内へと連行され、十四歳で大宝寺家に
小姓として出仕することになった。
父と兄は鮭延に戻ることなく没したが、二十一歳になった秀綱は器量を認められ、大宝寺配下の
鮭延城主となった。

その翌年、事件は起こった。
かねてより評判の悪かった大宝寺義氏に対し、家老の前森蔵人が謀反を起こす。
前森に反対する者はなく、「もっと早くそうすればよかった」と皆口々に言う始末であった。
このとき秀綱はちょうど正月の挨拶ついでに、義氏のもとにいたのである。
秀綱は義氏の自刃に殉じるべく覚悟をかため、暗く放火された場内を探し回るが、
主君はいっこうに見当たらない。視界が悪いので名乗りつつ進んでいった秀綱は、
名乗ったとたん思いがけぬ目にあった。
「我こそは鮭延源四郎!(秀綱のこと)」
「何!」
敵はなんと、槍を捨てるとしっかりと秀綱を抱きしめてきたのだ!
「おまえは誰なんだ、はなせ!」
「放すもんかよ、おれは中村内記だ」
「あっ、中村のおじちゃん…」
この男中村内記は、まだ幼く実父と引き離された秀綱を、我が子のようにかわいがっていてくれたのであった。
内記は弟・孫八郎とともに秀綱を心配して二日間探し回ったがおらず、
あきらめかけていたところでやっとこうして見つかって喜んでいるのである。
「源四郎よう、あんな運の尽きた屋方に供をしてどうするんだよ。助かろうず」
「あんたたちが助けたくたって、前森はそうは思わないだろ! 後悔するだけなんだからはーなーせー!!」
秀綱は抵抗したが、怪我をして疲れ切ってもいたので兄弟に抱きかかえられて、町屋まで連れて行かれた。
内記が前森にかけあって、助命嘆願をしているにも関わらず秀綱は殺気だっていた。
「よう、源四郎。おまえよく助かったなあ」
「討手か!」
と、昔の仲間が様子を見に来てもこんな調子なので、まわりに誰も近づけないでいた。
孫八郎が、前森からもらった白米と薪を持ってきたところで、
「切腹を命じる奴にこんな日用品届けないよな」とやっと安心し、それから安眠したとのことだ。

命が助かった秀綱は、この数年後最上義光配下となり、八十五の長寿を得るのだがそれはまた別の話。
また軍記や通説では、前森蔵人の謀反は最上義光の謀略ということになっているが、
実際は関与していない模様(ただし義光はこのあと、蔵人を支援することとなる)。
(『鮭延越前守聞書』)





と、当時を振り返る秀綱であった。

2012年10月27日 18:06

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 23:06:27.36 ID:ulPhwur8
慶長五年、ご存じ長谷堂合戦の折。軍記ものでは颯爽と活躍している鮭延父子であるが、
その実態が当事者によって語られていた。
当時父の秀綱は38歳、子の左右衛門は15歳である。

子「父上、私も参戦したいです!」
父「ただでさえ味方が少なくて大変なのに、おまえごときに割けん。あきらめなさい」
子「ならば私ひとりで出るまでです」
父「あー、わかった。仕方ない、50人くらいつけてやる、がんばるんだぞ」
子「はい、父上!」

こうして出陣した左右衛門だが敵に深入りしてしまい、供回りの過半数が討たれ、
指物までとられそうになる始末であった。
父は子の窮地に気付き、半町ほど敵陣に入りこみ子を探すが見つからない。

父「むう、遅かったか。あとに残っているのかもしれんが…」
子「あっ、父上!」
父「これはいかん! 左右衛門、ついて来なさい」

父が探し回り子をやっとみつけ合流したが、父もまた大苦戦してしまう始末。
ついに父は子の目の前でありながら、余裕が全くなく半町あまりも先に退いてしまった。
「俺、息子の前なのに先に逃げちゃってかっこわるかったよね…」
と当時を振り返る秀綱であった。

それにしても正直に語り残さねば、颯爽とした活躍だけが記録に残っただろうに。
(『鮭延越前守聞書』)





47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 00:20:22.17 ID:aEIVsLLX

>>45
余裕が無い状況って分かってるのに参戦したがる15歳って凄いな。さすが武家の子

いやあ、流石におまえの文面案は素晴らしいね。

2012年10月26日 20:01

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 22:57:41.28 ID:NtEXG0w+
長谷堂合戦終結後、城を守り抜いた鮭延秀綱は庄内方面へそのまま転戦し、
横手まで進み小野寺義道の降伏交渉を行うことになった。
そのとき主君義光に手紙を送ったのだが、それに対する義光自筆の返事を彼ははっきりと覚えていた。

「おまえたちの活躍で多くの城を勝ち取ることができ、私は大変喜んでいる。
横手へ送る書状の文面案を志村、里見を呼びにも見せたが、皆は読めなかったぞ。
だが私は、水でも流すようにすらすら読めたのだ。
いやあ、流石におまえの文面案は素晴らしいね。直すところなんかまったくない。
秀綱こそ文武両道だと皆にも話しておいたからな。
これからもミスのないよう、しっかりやるんだぞ」

別にこんなものいちいち言わなくてもいいかもしれんけどと…前置きしつつ、
回想ではしっかり残す秀綱。義光に褒められたのがよほどうれしかったらしい。
ちなみに字が義光にしか読めない=達筆だね、ということらしい。
鮭延秀綱、主君に褒められたちょっといい話である。
(『鮭延越前守聞書』)





72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 23:01:01.52 ID:h13LrtpK
あああのよくある流れたような文字はやっぱ同時代人でも読めない場合あるのね
安心したw

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 23:17:51.48 ID:dpM0W+KM
得意気そうな雰囲気が伝わってきてかわいいなw

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 23:28:19.15 ID:PQEWfqae
鮭延(ドヤァ

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 07:11:39.31 ID:jNLYG0qQ
トルネコとエンドールの王様か

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 08:17:38.74 ID:wJxlblL8
下手に崩されると読めないよなぁ。
書状類も後世に写し間違いが多発してるし。

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 10:41:53.61 ID:a+9jzAvD
本人と鮭様しか読めない...。暗号だな。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 13:02:44.69 ID:X/xvHu/a
鮭様も読めなかったけど、読めたフリして鮭に丸投げすることで面目を保った悪い話

鮭延秀綱、ちょっと縁起の悪い話

2012年10月26日 20:01

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 22:54:00.08 ID:NtEXG0w+
慶長六年、東軍の勝利に乗じた鮭延秀綱は四月一日、夜のうちに酒田攻めに出立することとなった。
ところが具足箱にしまっておいた采配がなくなっている!
「なんか嫌な予感…あああ、ちゃんと勝てますように」
秀綱はそう思いつつ、そのへんにあった竹を切って代用した。
気を取り直して進む秀綱だが、四・五百人ほどの敵勢に待ち伏せをされてしまった。
しかもこのとき! なんと兜の緒が切れたではないか。
「今朝は采配なくすし、今度は兜かよ! 今日はもう討ち死にだろコレ」
すっかりヤケになった秀綱は兜を投げ捨てて進もうとした。
すると板垣牛之助という者が「おいおい、この大軍に兜なしで挑むとかありえないだろ」と止めに入る。
「ちょっと待って、今直するから」と牛之助はたくさんのこよりをより合わせ、即席の緒を作り、
兜をかぶせてくれた。
秀綱は気を取り直し出陣、見事に活躍したのであった。

鮭延秀綱、ちょっと縁起の悪い話。
(『鮭延越前守聞書』)





29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 01:00:13.74 ID:Xc640gXl
待ち伏せされたにしてはずいぶん余裕あるような

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 03:54:37.96 ID:8dhAPQZi
後ろで采配してたんだろうな
いい話だ

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 08:13:51.18 ID:wJxlblL8
こよりって戦場に持ち込むもんなんだろうか

乞食大名鮭延秀綱

2009年12月27日 00:20

494 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/25(金) 12:10:53 ID:w003/1n4
そういや乞食大名の話、まとめサイトに無いんだね。
もしかしてまだ未出だったのかな。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 00:04:49 ID:DjuibA9D
>>494
そう言えば出てないね。是非紹介を。

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 00:24:28 ID:hZMzdej0
>>494
乞食大名はあくまでフィクションなんだ。
実際の鮭延は五千石もらったのを、すべてくっついてきた家臣にわけあたえていた。
乞食大名だと家臣の家で養ってもらった、だったと思うけど逆なんだよね。
まあどっちにせよいい話だけども。家臣は彼を慕って鮭延寺を建立したという。

ちなみに鮭延は正室がすでに亡くなっていて、古河にうつってから別の女性とのあいだに
男児をもうけたけど、鮭延家は継がせずに意図的に断絶させている。
また、当初は徳川忠長家老職業五千石を幕府からオファーされていたりするのを蹴っている。
とか考慮していくと、逆にわざと改易ねらった!? という悪い話になっちまったりもするんだよな。
俗説だが、嫡男を義光に殺されたのを恨んでいたとか云々。
ただしこれは義光が、鮭延嫡男の壮大な葬式を出しているし、家臣の嫡男を殺す理由もないから
ガセとされているが。
真相は闇の中…。



511 名前:゚Д゚|!゚∀Y`∀´ ◆k71Imjgdp0b2 [sage] 投稿日:2009/12/26(土) 00:26:56 ID:vh6o6LDx
乞食大名について書かせて頂きます。ちょいと待ってね。

 人人人人人人人人人人人人人 
> ゆっくりしていってね! <
 ∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨ 

514 名前:゚Д゚|!゚∀Y`∀´ ◆k71Imjgdp0b2 [sage] 投稿日:2009/12/26(土) 01:01:20 ID:vh6o6LDx
秀綱が江戸神田橋土井利勝邸を宥免されて門を出たとき
垢面放髪、乞食のような集団から声が発せられた。
(´;ω;`)「殿、宥免祝着にございまする・・・」
改易の折、山形で付き従った家臣たちであった。
「おう、その方等息災でなにy・・・」
秀綱は胸がつまり、それ以上何も言えなかった。

数日後、神田川べりに乞食の掘っ立て小屋が立ち並んだ。
近くの人達は、身なりは粗末だが、人品・ふるまいは乞食とは思えず、
いかなる素性の人かみな首を捻った。

掘っ立て小屋の住人は物売りや商人、土方、物乞いなどがいたが、
頭領と見える初老の男を中心に、いつもほのぼのとした空気の中で暮らしていた。

八年後、駿台徳川中間衆がこの掘っ立て小屋の若い娘に乱暴しようとしたところ、
乞食たちが中間等を叩きのめし追い払った。
数日後、数十人の応援を得た中間たちが大挙して押し寄せると
掘っ立て小屋の中からいかつい初老の男が槍をかざして号令した。
(`・ω・´)「下郎共を叩き伏せよ!」
その号令で乞食たちが数に勝る中間に殴りかかった。
(`・ω・´)「鮭延越前勢の戦振りをひよっこ共に思い知らせてやれ!」
なにしろ長谷堂で直江兼続を押し返した猛将の戦い振りに中間達はさんざん痛められ逃げ去って行った。

この騒動の後、剛勇鮭こと秀綱とその旧家臣たちの忠義一徹ぶりが江戸の噂となり、「武士の鏡」としての
秀綱にオファーが各大名より掛かるが
(`・ω・´)「某は最上の臣にて。あしからずお引取りください」
とそれらの使者に対する秀綱の返答は決まっていた。

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 01:12:26 ID:qXPbFcLf
いい悪い話スレの投下でコテとかいらんから

516 名前:゚Д゚|!゚∀Y`∀´ ◆k71Imjgdp0b2 [sage] 投稿日:2009/12/26(土) 01:35:31 ID:vh6o6LDx
秀綱編・乞食大名ファイナル?

しかしこうしてる間にも秀綱も家臣たちも老いた。
時は非情である。
中間どもの襲撃の翌年、人足働きをしていた
下濃(すそご)又兵衛の三男が土木作業中に土砂崩れで圧死した。
その夜掘っ立て小屋に変わり果てた遺体が運ばれてくると秀綱は
草地に伏し、頭髪を掻き毟り号泣した。
(´;ω;`)「ワシのつまらん意地で
有望な若人を死に追いやってしまった・・・」

翌朝秀綱は土井利勝邸の門を叩き
「これまでたびたびのお勧めをいただきながら、
その都度辞退申し上げ、真に失礼仕りました。
今となっては心苦しきことなれど、先行きわからぬ老骨で
どれだけの奉公が勤まるかはわかりませぬが、
この老骨を土井家に飼うて頂けるよう、
かくは参上つかまった次第でござる。」
と言うと一礼した。

利勝は以前からの家禄の5000石で秀綱を家臣に迎えた。

土井家分限帳では
トップ土井内蔵10000石
次席寺田與右衛門6000石。
客分秀綱の大切にされた様が良くわかる。

ところで秀綱は利勝に願い出、この5000石を
山形以来の家臣20名に分け与え、自分は一文も受け取らず、
家臣の家々を居候しながらその生を終えたと言われる。

鮭延寺(けいえんじ)文書に
「14人の家臣に当分に知行を与え」といった表記があるため
最初20人いた家臣も流浪の生活中他界し
14人に減ったとも受け止められる。

海音寺小説の「乞食大名」により上記が有名になったが
実際は5000石の知行を貰った後は300石と屋敷を除き、
家臣に残りの180-190石をほぼ等分に分配し、
最上義光宜しく「友達君主」としての生を全うしたらしい。

あ、鮭延寺(茨城県猿島郡総和町大堤)は
旧家臣が秀綱が正保3年(1646)に死んだとき、
主君土井利隆に頼んで鮭延屋敷跡に菩提を弔う一寺を建立した
その「寺号」だお。




520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 02:16:01 ID:DjuibA9D
いや、面白い逸話だった。ありがとう。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 07:40:22 ID:YgZVF6Aq
>>519
面白かったですよ。
こういう落ちぶれても気概のある男たちの話は好きだ。

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 21:13:35 ID:qqWs6Wu+
>>516
亀レスかつ蛇足だが、
鮭延寺のある旧・猿島(さしま)郡総和町は
町村合併によって現在は古河市になっているよ。

鮭延秀綱のちょっといい話

2009年12月26日 00:04

488 名前:゚Д゚|!゚∀Y`∀´[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 01:00:30 ID:a+DSXneO
まぁ、有名なところなんだが載せておく。

鮭延秀綱のちょっといい話。

最上家の御家騒動で最上家信(義俊)は「奥羽に置ける鎮守の力量無し」として
近江大森と三河の合わせて1万石に大幅に減封された。

最上義忠を当主として最上家再興を願った真室(まむろ)鮭延城主秀綱も主家改易に伴い
土井家預りの身上となった。

数年後、土井利勝は秀綱に切り出した。
「太平の世とはいえ、お主ほどの剛の者を埋もれさすには忍びない。
大身で無いため、5000石程しか御用意出来ないが、家臣として仕えてはくれまいか?」
秀綱はこう答えた。
「某は亡き義光公に才を見出され、先代家親公にも最上の行く末を託された。
義俊様に節を尽くすことは出来なかったが、義光公、家親公に頂いた1万1500石、
米一粒たりとも欠けては最上に対する礼儀を失う。
他家に仕えることは考えておりません。」

この後の話は「乞食大名」で検索してもらった方が早いか。




489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 01:27:46 ID:WeYUHXFI
義俊の愛されなさはちょっとひどいと思う
まあ本人がどうこう言うより家中の派閥争いがひどかったんだろうけど、
もめたら改易食らうとは思わなかったのかね。

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 01:50:21 ID:a+DSXneO
>>489
家親36歳で頓死の時、最上義俊わずか12歳(だったと思う)。
将軍秀忠に顔の利くバリバリの働き盛り(家親)に死なれて、
海の物か山の物とも知らない子供(義俊)よりは、器量人と言われた家親の弟(義忠)に
期待するなーというのも酷な話だ。

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 01:53:27 ID:a+DSXneO
追加:DQ眼竜の甥っ子も最上の改易を聞いて
(●Д゚)<なにも潰すことはねえんじゃないの?
ーと言っていたのも有名な話。

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 02:30:31 ID:3BKadZZq
改易時は結構な大所帯だしなぁ最上。独眼竜も最上家臣、相当な人数
引き取ったよな。

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 04:58:42 ID:bwsBCTRe
幕府の仲裁を蹴っちまったからなぁ

494 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/25(金) 12:10:53 ID:w003/1n4
そういや乞食大名の話、まとめサイトに無いんだね。
もしかしてまだ未出だったのかな。

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/25(金) 16:45:40 ID:1BMAPNo0
>>492
結構どころか松平忠輝とかを除けばたしか最上家57万石改易が改易された大名の
石高トップなんじゃないかって気がする。
他の改易された大大名って
加藤家(熊本)52万石、福島家49万石、加藤家(会津)40万石、田中家32万石、堀尾家24万石
蒲生家24万石、筒井家20万石、森家18万石、生駒家17万石、中村家17万石
それに本多正純の本多家15万石ぐらいだったとおもうし。

あ、ある意味豊臣家65万石があるか・・・

有屋峠の合戦

2009年12月16日 00:03

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/15(火) 20:47:24 ID:arYNWK8B
難所に関する話…はこれくらいしか知らない

秋田県雄勝と山形県最上は険しい山地に隔てられており、現代も難所となっている。
中世においては、有屋峠というさらなる険路を通らねばならなかった。

天正14年、横手の小野寺義道は数千の軍を率い、この有屋峠へ出陣した。
かつて、小野寺氏の版図はこの峠を大きく越えて広がっていたが、
5年前に麾下の鮭延秀綱が最上義光へ降り、失陥してしまう。
義道はその回復に打って出た。
当時、最上家は庄内でも上杉派との戦を抱えており、それに乗じた行動である。
対する義光も1万余をもって出撃。
有屋峠を占める小野寺軍、それを見上げる最上軍の対峙となった。

さて、両軍は地形の険しさに警戒していたが、小野寺家重臣・八柏道為が策を施す。
囮で最上兵を引き寄せると、鉄砲三十ばかりで高所から撃ちかけたのだ。
最上軍は大混乱に陥り、大勢の死傷者を出した。
しかも、庄内に上杉軍が進攻、大将の義光がそちらへ急行するという事態になる。

窮地の最上軍にあって、ある人物が積極策を主張した。
かつての小野寺配下、鮭延秀綱である。
秀綱は間道を使い、軽兵を小野寺鉄砲隊の側面へ迂回させて攻撃した。
これに呼応して最上軍も攻勢に出、小野寺軍は峠を支えきれず、敗退。
陣取りは逆転し、峠を最上軍が、小野寺軍はその下へと転落した。

以後、羽後情勢にも翻弄され、義道は二度と優勢に立つことはなくなった。
かえって、秀綱らが峠を越え、小野寺領を蚕食していく。
一つの峠をめぐる、明暗のお話。




162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 01:22:32 ID:4ar6M6Qp
>>152
それは最上側からの記述だな。

小野寺側としては

八柏の策に恐れをなした最上勢は峠を越えて攻めて来る事は無かった。
後日、八柏の智略を恐れた最上義光は計略を仕掛ける。
八柏に内通の疑い有りと偽計をかけた。
小野寺義道はまんまと罠にはまり八柏を城へ呼び出し誅殺した。
義道は自らの手で貴重な人材を失う事になった。


163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 01:53:31 ID:QJHPzx/5
小野寺さんとこの義道君はよく「最上が卑怯な手を使ったんだ!」と証言するが
それって自分が騙されやすくて判断力がありませんって言ってるようなもんだからなぁ
そんなことに気づけないアホの子だから改易されるんだが


174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 14:48:34 ID:kaqy2Myc
>>163
最上が嫌いだから西軍についたんだっけ?
周辺の小大名も最上嫌いだけど、情報集めて勝敗見極めようとしてるのに、
南北朝みたいなことして……

鮭延の忠心・いい話

2008年10月16日 11:22

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/26(火) 21:06:53 ID:73X+dYWH
あいよあいよー 鮭いくよー 鮭話ファイナル

最上家は二代目藩主急死後、義光の孫・義俊が幼弱であるとして
義光の四男・義忠をかつぎあげる動きがあった
これの中心であったのが鮭延である
しかしこの動きが幕府に叛くものとされ、改易の憂き目にあう…

鮭延は幕府の土井利勝に気に入られたのか、古河に預けられ
五千石の身分となった
土井は優秀な官吏ではあったが武勇に功績がなく、そのため
武勇の誉れ高い鮭延を買ったのではとも言われている
ちなみに彼は長谷堂合戦では志村光安と並び活躍している
しかし鮭延は一切の政治から身をひき、五千石すべてを最上家から
己を慕ってついてきた家臣に分け与えた
また、改易の原因を作ったのを恥じたのか、鮭延家を意図的に断絶させた
彼の死後、その徳を慕った家臣は鮭延寺を建立し、彼をしのんだという

鮭オマケ
鮭延の主君・最上義光はあまりに鮭が好きなので、
「おまえは鮭喰らいたくて海とったろ」と後世言われたらしい
それは本当かどうかわからないが、家臣宛に
「鮭トンクスw 食べてみたけどマジウマー」と手紙を書いているので、好きだったのは確か




759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/26(火) 22:53:43 ID:bFEclT/R
もう俺の中では最上家のイメージが鮭で定着してしまった

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/26(火) 23:12:57 ID:Gf9PZXeg
そういえばやはり最上から流れてきた山野辺義忠をひらった水戸徳川家
水戸黄門こと水戸光圀も鮭中毒患者、特に鮭皮マニアだったらしい。

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/27(水) 09:13:35 ID:miiNU08i
シャケが大好きなんてきっと熊さんとも仲良しだったんだろうなw

最上義光と鳥海勘兵衛の恋・いい話

2008年10月16日 11:20

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/25(月) 22:01:27 ID:wXE9e13M
じゃあここはネタを投下する 直江つながりで対戦相手の最上ネタ。

最上家中鮭延秀綱配下に、に鳥海勘兵衛という若い侍がいた。
彼はある日、義光の奥方に仕える侍女に一目惚れしてしまい、ひそかに
恋文をやりとりするようになった。ところがある日、これが発覚し義光は激怒、
二人は死罪を言いつけられた。
これを聞きつけた鮭延秀綱は義光を諫め、勘兵衛がいかに勇敢か、過去の武功を説いたところ、
義光は二人を許し、勘兵衛に侍女を妻としてめあわせた。

これからおよそ半年後、長谷堂合戦で鮭延秀綱は志村光安とともに、
城の防衛にあたった。鮭延勢奇襲の際、あやうい秀綱を若武者が救い、
討ち死にした。鳥海勘兵衛であった。
彼の遺書には主君への感謝と、妻と過ごした日々の喜びが綴られ、
「この御礼には命をもって報いるしかない」と記されていた。
勘兵衛の妻は、夫の葬儀が終わると自害しあとを追った。
二人が夫婦であったのは、僅か半年ほどであった。

戦後、鮭延秀綱は義光にこの遺書を見せた。義光は号泣し、
かつて勘兵衛夫妻を罰しようとしたことを恥じて、手厚く弔ったという。




750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/25(月) 23:21:32 ID:Cw2LkE+y
>>745
鮭延秀綱、このスレで出番多いなw

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/26(火) 01:09:22 ID:EY/9yNZD
>>745
もっと鮭の話をくれ