赤松広通を知っているものは少ない

2009年12月17日 00:08

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 19:52:52 ID:RfTzExv2
藤原惺窩に教えを受けた1人に斎村政広という武将がいた。
旧名を赤松広通といい赤松政秀の子として生まれ、後に但馬竹田城を領し
惺窩に小早川隆景や直江兼継と並んで文に秀でた武将と言われた人物である。

1600年に政広が故あって自刃した時、惺窩は悲しみのために、声をあげて激しく泣いた。
惺窩は政広が孔孟の道を期することができる人物だと考えていたのだ。

惺窩は朝鮮儒者姜への手紙に、こう書いている。
「赤松公は今新たに四書五経の経文を書し
 私に宋儒(朱子学)の意を持って和訓を字傍に加えることを頼んで、以て後学に役立てようとした。
 日本において宋儒の義を唱える者は、この本を原本とするだろう。」
この四書五経に惺窩が加えた和訓がいわゆる「惺窩点」(1599年、政広自刃の前年に完成)であり
それをもとに弟子の林羅山が発展させた「道春点」が、羅山が幕府に召し抱えられることで
全国に広まった。

また姜の「看羊録」には「日本の将兵は悉く是れ盗賊なるも、ただ広通のみ頗る人心が有り。」
という惺窩の発言や
政広が三年の喪を行うなど明・朝鮮の礼を好んだ事
但馬の領地に孔子廟を建てて、家臣に朝鮮の冠服で祭儀を習わせた事などが記され
惺窩とも共通する政広の大陸趣味が見て取れる。

慶長三年に惺窩が姜と初めて会ったのは政広の屋敷
惺窩が姜から学んだ孔子を祀る礼『釋典(せきてん)』を弟子たちと行ったのも政広の下
前述の四書五経の浄書と引き換えに姜の帰国費用を出したのも政広であり
広く学問の後援者だった。

日本文化史に残る事業の後援者の割には地味な人物の話

余談だけ19世紀初頭に書かれた「先哲叢談」藤原惺窩の項には
「今の世の中で徒に上杉謙信、小早川隆景、高坂昌信、直江兼続が
 戦乱の時代に文を好んだことを知っている者でも赤松広通を知っているものは少ない。」とある。
惺窩が認めた5人の中でもマイナーなんだよね。家が途絶えたというのもあるんだろうけど。




181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 20:41:34 ID:5BCzAONP
惺窩四天王・・・?

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 20:48:19 ID:ORt1OHN8
惺窩先生は学問に厳しい人で、弟子でも成績が悪いと直ぐに破門したのだそうな。
これがホンマの惺窩主義。なんてな!

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