775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 00:30:26 ID:cM5xC/Mr
新米の季節なので。「米どころ庄内ビギンズ」
慶長出羽合戦のあと、最上義光は庄内領有に成功。
これでやっとねんがんの鮭がたべられるぞ! と喜んでいた。
(義光の庄内への野望は、鮭食べたさという伝承が山形にある)
しかし最上家中にひとり、複雑な気持ちのものがいた。北楯大学利長である。
彼は庄内の民が餓えているのを見て不思議に思った。
「なぜ平地なのに稲がないのだ?」「水がひけなきゃ稲作なんか無理ですって」
「そうか…水がないのが悪いのだな」
当時の庄内平野は広大だが水回りが悪く、荒れ地が広がるばかりだった。
大学はそれから日夜庄内を見回り、どうすれば水をひけるか考え抜いた。
彼の熱心さは周囲に奇妙にうつり、農民すら陰では彼を「水馬鹿」と呼んでいた。
それから十年近く経過した。
調査結果をたずさえ、北楯が山形に登城した。彼は庄内開発の利をとくが、
身分の低さゆえに誰も相手にしない。
義光はかねてより、北楯に好感を抱いていたこともあって前向きだった。
北楯に目だった武功はなかったが、義光はかつて彼の居城・狩川城を視察し
武具点検をしたが、装備が見事に揃っていることに感心した。
それ以来義光は北楯に目をかけ、細やかな気遣いを見せる書状を送り続けていた。
だが、主君の寵愛だけで藩を左右する工事は決定できない。
義光は事業が可能かわからず態度を保留した。そしてひそかに大工をやり、
北楯のプランが実行可能か調べた。
結果、「見事な設計、工事可能」という結果が出たため義光は工事許可を出した。
しかし北楯を侮る者は多く、妨害がたえない。義光はこまめに手紙で励まし、
北楯に異例の権限をあたえて工事をすすめた。義光や北楯は、埋蔵金と
いつわって金壷を埋めておいたり(まとめ参照)、上戸には酒、下戸には菓子を与えるなど、
細やかな気遣いで作業員をいたわった。途中、死亡事故が起きるなどしたが、
工事は予定より早くすすんでいった。
ところが最後の難所、青鞍之淵を埋めようとしたところ、水の流れが強すぎて
いくら土をいれてもおさまらない。困る北楯に彼を妬む同輩はいった。
「貴殿は工事がならなければ切腹する覚悟だったな?」
北楯はこの言葉に死を覚悟し、愛馬の鞍をはなつと祈りながら淵に投げ入れた。
すると不思議なことに、流れはぴたりとおさまった。皆喜びここに土を投げ入れた
ところ、淵はあっという間に埋まった。
こうして四ヶ月に及ぶ工事はやっと終わった。
艱難辛苦をへて、大堰と呼ばれる用水路が完成した。
これにより庄内平野の収穫高は十倍にふくれあがった。米どころ庄内のはじまりである。
義光は北楯大学の功績を喜び、
「きっと将軍家にも伝えて代々残るようにする。庄内末世の宝である」と絶賛した。
北楯大学は死後も水神として、庄内のひとびとに敬われた。
のちに明治になって、北楯大学の功績を賞した住民たちは「大堰」を「北楯大学堰」と
改称した。四百年を経てなお、北楯大学堰は庄内平野をうるおし続けている。
ちなみに北楯大学の肖像画や銅像が頭巾をかぶっているのは、義光が
「川風が寒かろう、これをかぶればいい」と頭巾を贈ったことからである。
…そして北楯大学が義光からもらった「鮭トンクスウマー」書状が、後世に義光の鮭中毒ぶりを
詳しく伝えることになった(ちなみに義光はフルーツも好きだったらしい)。
778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 00:46:17 ID:0Mocvpzj
>>775
義光が褒美として300石加増の他、
「この堤の御蔭で増える新田が何万石に成ろうと、全てを北楯の知行とする」って証書を与えてるのが凄いわな。
正に絶賛。
779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 00:53:41 ID:69DUr/TM
>>775
うわこれは凄い・・・「ちょっと良い」どころじゃない
知らないだけで偉人ってのは居るもんだな
780 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/27(木) 01:02:03 ID:yZ+s5QpQ
>>778
最上家が存続してればT_T
彼を登用した鮭様こそ名君に相応しいな
781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 01:11:40 ID:0Mocvpzj
>>780
因みに最上家改易の後、代わりに入って来た酒井家が召抱えようとするのを固辞し、
息子を300石で酒井家に仕官させて、本人は浪人として静かに余生を送ったらしい。782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 01:13:29 ID:c7s1WjCd
成富茂安、大谷休伯とならぶ隠れた内政家だな>北楯大学
786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 03:16:10 ID:EEb/vENH
>>781
酒井家は肥沃になった土地をただで手にいれてウマーなのに
功労者の北楯の子にたった300石とか・・・787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 05:42:34 ID:inr4++4V
酒井忠次「お前も我が子が可愛いか!」
788 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/27(木) 08:15:14 ID:yZ+s5QpQ
>>787
本多重次「オマエモナー」
789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 09:34:30 ID:zqby/RLA
>>781
それもまたいい話だなあ
790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 10:28:59 ID:hn3Br13y
>>786
庄内酒井藩は最上の旧領のうち一部をもらっただけ。収入は限られる。
しかも普通、家老クラスで表高の1/100の禄なんで、14万石の庄内藩が
外様に300石出してんだからむしろ妥当。791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 10:35:28 ID:KlC+SqFo
よっぽどの大藩でも、1000石以上なんて、お目見え以上(幹部クラス)だしね。
戦国時代の感覚で石高を見ちゃいかん。792 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/27(木) 10:52:08 ID:yZ+s5QpQ
>>791
加賀本多家(正信流本多家:陪臣)の五万石なんてのは極めて特殊な例だからなぁ
そういや、美術館にはそれを藩主にわたせば10万石にしてやるといわれた壷が展示してあったな
今度見てくるわ793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 13:40:03 ID:TDutbSxS
うちの先祖が仕えてた藩は5万石だが、千石取りなんて江戸中期に800石から加増された家老の本家だけ。
家老を持ち回りで勤めてた他の家は軒並み200~500石程度。
藩の石高の内の割合なら大体100石が同等だがこれもたまに家老を出す家柄だけ。794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 14:19:32 ID:Yp2oDNoT
騎乗身分ってやっぱりすげぇなぁ、と思ってしまうな
795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 15:13:17 ID:S3mAGxcL
騎乗身分ってなんかエロいなぁ、と思ってしまうな
797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 16:58:35 ID:wELQVAI/
憧れの騎乗死 いえ言ってみただけです804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 19:31:04 ID:hRHVFid7
>>797
討ち死にじゃねーかw
814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 22:04:27 ID:xKOlzuyi
>>780
亀レスだが、義光の北楯宛て書状に
「いい季節だし、工事を見に行けばみんな喜ぶだろうから、是非そうしたいけど、
病気で行けなくてとても残念だ」
とあってせつない。
義光はこの頃、病で体力的にかなりつらかったらしい。死ぬ僅か二年前です。
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