天正三年(1575)、薄葉原の戦い

2011年05月09日 00:05

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:10:34.78 ID:2t9a0UkF
抗争を繰り返してきた那須家と宇都宮家であったが、天正三年(1575)、那須資晴宇都宮広綱は薄葉原で激突した。

両軍は川を挟んで対峙したが、那須家の若者たちは戦が始まるのを待ち切れず駆け出した。
これを見た大関高増は大いに怒り、
「戦場において軍法が重大であることは常識であり、皆も知っているはずだ。
抜け駆けは無駄であり戦に負けるもとだ。不忠なことをするな。」
と固く制した為、那須勢は留まった。

対して宇都宮勢の先手は我慢できずに渡河を始めたところ、那須方の野伏は矢衾を作り、散々に射かけた。
宇都宮勢に動揺が走ったところに、那須勢は川を渡り宇都宮陣営に切り込んだ為、宇都宮勢は悉く逃げ出した。
しかし、逃げ惑う宇都宮勢にあって、壬生義雄だけは手勢三百余騎で備えを作っていた。
高増はこれを見つけると
「壬生の動きがわからん。皆、油断するな。」
と留まるよう下知をした。
案の定、壬生は逃げずに那須勢に突撃し、その隙に広綱は退却することができた。

壬生の奮戦は、那須・宇都宮両軍に影響を与えた。
壬生の姿を見て引き返してきた岡本右京亮は、ここが最期と決め、那須勢を相手に一歩も引かず戦った。
岡本の様子に触発された高増の弟、福原資孝はこれに負けまいと前進した。
資孝の太刀の前に出た敵こそ不運であり、彼に次々と斬られ生きて帰る者は無かった。

この合戦の勝利によって、塩谷郡は那須家の勢力下となった。



補足…出典『関東古戦録』の通りの年数・人物にしましたが、内容的に天正十三年(1585)の
薄葉原の戦いのことだと思います
(しかも、元の逸話では千本資俊誅殺と同年とされているので)。なので宇都宮家当主も広綱ではなく
国綱だと思われます。

特に落ちの無い話ですが、格好いい高増兄弟がなんか新鮮だったので…




467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:14:27.53 ID:95KYMaqM
なんとなく那須家強い理由が分かる気がするな
策が目立つあの兄弟でもきっちり戦の何たるかをわきまえてると…。

あれ?大関さんたち文武両道じゃね?

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:20:46.97 ID:cPSN1PUw
>不忠なことをするな。


あんたがそれを言うのかw

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:27:09.34 ID:PRMhrxEs
対外戦で余分な負けをつけるのは大関たちにとっても何の利もないどころか身の危険にもつながるわけで。

要らんところで軍法違反して敗因つくるのは奸臣から見ようと忠臣からの視点だろうと不忠だろさw

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:36:45.22 ID:hRh8kYHF
まあ残念ながら下野国の覇権争いって、佐竹と北条の動き次第で領国を蹂躙されてオシマイっていう危うさでもある…。

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:41:10.38 ID:TKVBR2+K
那須は辺鄙だからあんま攻められないけどな。

攻めてくる物好きは宇都宮と佐竹ぐらいのもんだが毎度火傷するし。

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:58:58.37 ID:voUUrQ8Z
>壬生の姿を見て引き返してきた岡本右京亮は、ここが最期と決め、那須勢を相手に一歩も引かず戦った。
>岡本の様子に触発された高増の弟、福原資孝はこれに負けまいと前進した。

ここがいかにも坂東武者らしくて好きだな
古い鎌倉武者のような異様な負けん気の強さと利害計算から離れた勇猛さが伝わってくる

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:01:38.31 ID:Pk0uFdOn
やっぱり有能な人物だったんだよな

いい方にも悪い方にも

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:02:47.97 ID:4w+ddfVk
那須が強かったのは火山灰の貧しい土壌と洪水の多い土地で貧乏だったから

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:31:40.12 ID:8i1yk1jZ
薩摩隼人がこっちを見ている
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高増暗躍

2011年05月03日 00:00

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 23:18:30.15 ID:8RyvYDu7
高増暗躍

那須家分裂
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5047.html
↑に関する話。


主君那須資胤に処断されそうになった高増は佐竹義重に助けを求めた・・・というのが大筋の流れであるが、
それ以降の高増は驚くほどの迅速さで資胤陣営の調略による切り崩しにかかった。


まずは那須七騎の内、大関・大田原に工作の必要はない。
福原家はかつて資胤の弟である資郷が入っていたが、資胤の那須家督相続時に資郷が
森田氏に入嗣したので、高増の弟資孝を滑り込ませる事に成功しており、
まだ日が浅く資郷派も残っていたので掌握は完全ではなかったが、福原家はこの戦いで資郷派と資孝派に分裂した。
そして、伊王野家であるが当主資宗の母は大田原資清の娘であり、また前当主伊王野資直
大田原資清と懇意だった事もあってこちらの調略にも成功している。

続いて蘆野家であるが、こちらは那須資胤の妹婿であったものの地理的に那須家に味方しにくく、
去就を決めかねていたが
高増はそれを知るやすぐに駆けつけ、資泰の嫡男に娘を嫁がせることを約束して味方に引き込んだ。
これによって那須七騎で完全に資胤陣営に残ったのは那須を除けば千本家のみで、
あとは割れた福原や、大関家を乗っ取った高増を憎む大関家の古参ぐらいであった。

そして、七騎以外では稲沢家という小さな家があったがこちらは伊王野家とよく行動を共にしていたので
芋づる式に引き込みに成功し、
金丸家も当主義直が資胤に味方する事を決めたが、一門の金丸資満は大関高増の娘を娶っており、
高増が資満に働きかけて金丸家中を混乱させ、結局金丸家も高増に与すものが出始め分裂状態となった。


こうして佐竹家の進行前に那須家は徳俵に足がかかったような状態になってしまっていたのであったというお話。




977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 23:39:52.22 ID:sLafjqqG
ぱっと見の感想:高増汚いな高増汚い。

じっくり読んだ感想:伏線何重も張ってる資清汚な過ぎる。

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 05:48:18.45 ID:I7m/e0oK
資清も高増もあれだけ好き放題やって、長寿を全うしてるのが恐ろしい

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 05:53:10.55 ID:xVeB86Yo
そりゃ保身に成功したんだから当たり前っちゃ当たり前だ

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 07:32:59.94 ID:A4LePwAi
「俺がちょっと怒るとこれぐらい出来るんだぞ^^」って事か。

後々、何事もなかったかのように重臣に戻れたのはこれも理由にあるのかも。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 14:42:03.39 ID:P/RwscX3
この状態でも防衛戦には勝てる那須家

小田倉の戦い

2010年09月29日 00:00

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 23:54:14 ID:iU4/z8Gg
小田倉の戦い


1560年、関東に勢力を伸ばし始めていた上杉景虎に恭順の意を示さなかった那須家は上杉家の同盟相手である
蘆名・白河結城家の侵攻を受けた。
これに対し那須家当主、那須資胤は徹底抗戦を決意し先立って兵を進め白河領内に布陣した。

しかしながら兵は蘆名・白河連合3000に対して那須家はわずか600・・・まともにやりあって勝ち目はないので
那須資胤は佐竹からの援軍を頼むことにした。
当時の佐竹家との交渉役は大関高増。高増は交渉を見事に成功させ、荒巻為秀率いる1000の軍勢、
加えて高増とその弟の大田原綱清率いる100の軍勢が本隊に合流した。
しかしながらまだ圧倒的に不利である。ここで高増は資胤に『佐竹義昭からの言付け』と前置きし策を話した。

高増「地形的には小田倉原に本陣を置き、進軍してきた敵の隊列が伸びきったところを
側面から伏せていた兵が動けば必勝であるとのことです。」
資胤「皮籠原の方が良いのではないか?」
高増「白河城から近すぎます故に側面の兵が崩したとてすぐに後詰めが来るでしょう。」
資胤「なるほど・・・それで行こう。」

こうして資胤率いる600は小田倉に本陣を置き、夜闇にまぎれて大関・大田原・荒巻1100はそれぞれ
側方に展開し伏せるという布陣を取った。
そして翌日、その布陣を見た蘆名・白河連合は動いた。まず、連合軍の内1000が那須本陣に襲いかかる。
那須家も戦には強いので数では劣るが負けてはいない、戦況は互角であった。痺れを切らした連合軍は
更に1000を那須本陣の攻撃に当たらせた。
こうなると流石に那須本陣も苦しくなってくる、しかしまだ側方に伏せた軍勢は動かない。
ついには資胤本人も負傷するほどの大乱戦となり、弟の森田資郡が辛うじて支えているという有様であった。

資胤「おのれ・・・謀ったな高増!わしでここで自害する、あとは頼むぞ資郡!」
資郡「おやめ下さい!ここで兄上が自害すれば総崩れですぞ!」

こんなやり取りまでされる絶体絶命の窮地に本陣が追い込まれたところでようやく大関・大田原・荒巻が動いた。
すっかり隊列が伸びきっていた連合軍は崩れ始めるが、蘆名にはまだ動いていない本隊の兵がある。
そこで遅れていた千本資俊率いる100の軍勢が怒涛の勢いで蘆名の本隊に迫った。

蘆名「なに・・・まだ伏兵が?これは迂闊には兵を進ませれぬ、退けー!」

実はただ千本の軍勢は遅れてやってきただけであったのだが警戒した蘆名勢は進軍出来ず撤退を始めた。
こうして小田倉の戦いは那須軍の勝利に終わったのである。しかしながら資胤は納得がいかない。

資胤「高増!あの動きの遅さ・・・貴様一体どういうつもりだ!」
すると高増はいささか呆れた様子でこう答えた。
高増「遅れた?遅れたのは資俊殿でございましょう。私は那須家の勝利のために時期を待っただけです。
それによく引き付けねば作戦の意味がございませぬ。」
資胤「抜け抜けと・・・わしが討たれるのを待っていただろう!」
高増「何をおっしゃいます・・・被害も最小限で奥州勢を破ったでございましょう?那須家の勝利でございますぞ。」
資胤「何故蘆名を追わぬか!」
高増「それは無理です。蘆名の本隊が無傷なので深追いは危険でございましょう」
資胤「・・・」


正論といえば正論であるが資胤のこの時感じた高増・・・ひいては佐竹家への不信感は拭われることはなかった。




326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 23:59:01 ID:72ZG448q
さすがは冷血動物の大関さん

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/28(火) 00:41:28 ID:JRAHBZqz
大関高増ってやっぱり人を見下してるよね。

悪魔の囁き

2010年05月09日 00:00

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/08(土) 21:08:26 ID:aH+MF/Ne
悪魔の囁き


永禄7年(1564年)下野国の小領主、塩谷義孝は居城の川崎城で就寝中に賊の襲撃を受けていた。

義孝「ば、バカな!守備の兵は・・・木村は何をしておる!?」
家臣「木村和泉どのの手引きにより敵が侵入しております!」
義孝「そんな・・・何故だ・・・」

これは義孝にとっては全く信じ難いことであった。
木村和泉は義孝が一番信頼を寄せていた家臣であり、川崎城の守備を任せていた自身の右腕とも言える存在だったのである。
まさかの裏切りに川崎城は為す術無く陥落し、義孝も討死した。

賊の正体は義孝の実の弟、塩谷孝信の刺客。
親宇都宮家の義孝に対して孝信は親那須家の姿勢であり、以前より両者の仲は悪化していた。
そして、孝信が那須家寄りの考えになったのは那須家重臣の娘を娶ったことにあった。

大関高増「 私 で す ^^ 」


兄弟の仲を分裂させ、木村和泉にあらぬ想いを抱かせた犯人が彼であるかまでは定かではない・・・




637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/08(土) 21:16:16 ID:6/5S/ciy
大関高増キター
俺は木沢とかこういう人物ばっかり好きだな

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/08(土) 22:49:12 ID:z1t3y4yq
>636
流石は大関さん。安心のクオリティ

そろそろちょっと良い悪いスレの四天王を決めておきたい気分

大関高増の罠 最終章

2010年05月06日 00:01

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 11:08:51 ID:BSrIfwJF
大関高増の罠 最終章


天正16年(1588年)、大関安碩(高増)と長男晴増、大田原増清(三兄弟末弟、綱清の跡継ぎ)は
豊臣秀吉と謁見すべく聚楽第を訪れていた。
機を見るに敏な大関一党は九州を平定するなど日の出の勢いの秀吉に取り入ることは
間違いなく利になると判断したのである。
秀吉は一早く訪れた大関一党を歓迎し、特に大田原増清には「出雲守」を与え、
羽織を与えられるなど見事に取り入ることに成功した。
ところでこの時の大関一党の名目は「那須家家臣」では無かった。それぞれ独立した地方領主であると
自身の立場を説明したのである。

そして2年後の天正18年 (1590年)、ついに秀吉による北条征伐が開始される。
しかしながら那須家当主、那須資晴はここに至ってもまだ秀吉への謁見を渋っていた。
那須家は北条家に対してそれなりの恩義を持っていたのである。
大関一党らが引っ張る親秀吉派には資晴以外の殆どが付いた。もはや北条家に勝ち目など無いことは明らかである。

同年4月27日、ついに福原資孝、伊王野資信、蘆野盛泰、千本義政、大関親子らが秀吉の元に参陣した。
だがここで大関親子以外の諸将は秀吉の怒りを買っている。あまりにも決意表明が遅すぎた。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 11:11:10 ID:BSrIfwJF
福原資孝(兄者に増清め・・・抜け駆けしおったな。まさかもう秀吉に謁見を済ませていようとは・・・抜かったわ。)

大田原三兄弟の家の内、福原家だけが大名になれなかった理由はここににあった。
一応、所領は認められたものの福原家2600石、千本家2300石、蘆野家1100石、
伊王野家に至っては735石にまで所領を削られてしまう。
一方で大関家は13000石、大田原家は7900石にまで加増されるなど優遇措置を受けている。

さて、那須資晴はというと家臣たちが勝手に謁見を済ませる中でまだ秀吉への参陣を迷っていた。
秀吉への参陣に訪れたのはなんと北条家が降伏した後で有った。これはあまりにも遅すぎて那須家は
8万石の所領を没収されてしまうのである。
こうして大関家は小大名として独立を果たすのである。

後に哀れに思ったのか大田原晴清が秀吉に那須資景(資晴長男)を秀吉に謁見させ罪状を謝すると
秀吉も5000石での那須家再興を許可した




関連
残された妻・嶋子は秀吉のもとに差し出され・・・
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4101.html

続・大関高増の罠

2010年05月05日 00:00

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 20:13:00 ID:YZCiAKdB
続・大関高増の罠


天正13年(1585年)の年末頃、那須家の重臣、伊王野資信は大関家の侵攻を受けていた。
侵攻の口実となったのは黒羽城(大関氏居城)に程近い伊王野領内に新たに築いた前田弾正館にあった。
大関安碩(高増)はこれを「伊王野家による大関家への侵攻の前触れ」として伊王野攻めを決意、侵攻を開始したのである。

伊王野家からしてみればこんな事(大関高増の罠 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4087.html)をする人間を
信用する事も出来るハズも無いので
備えの意味も有ったのであろうが高増を目の前にしてこれはあまりに軽率な行動であった。
前田弾正館の建築を逆手にとって伊王野への侵攻のきっかけを掴んだのだから・・・

こうなれば老練な高増の独壇場である。那須七騎で那須家に継ぐ領地を動員を誇る伊王野家であったが
大関家と婚姻を結んだ蘆野盛泰なども出撃こそしないものの伊王野領近くをうろつくなど怪しげな動きを見せたために
兵力分散を余儀なくされた状態で大関勢との戦となった。
こうして有利な状況を生み出した高増は大関清増(高増次男)を派遣。結果として伊王野家は戦に敗れた。


戦後、伊王野家は3000石余りを大関家に奪われ大関家の那須家中での権勢はますます高まったのである。
もはや好き放題であるが気づけば那須家中殆どの家に高増の息がかかっており、主君である那須資晴です
ら大関を止める術を持たなかった。




547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 22:29:55 ID:d0ac5fRD
松永弾正も真っ青の大関クオリティ

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 23:02:15 ID:ebTInSN8
大関さんの所領は何処だったん?

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 23:13:18 ID:YZCiAKdB
>>548
昔の黒羽町の辺り

550 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/04(火) 23:36:06 ID:bt1H8Ynh
大関はんぱねっす

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 00:47:56 ID:XANsgSOK
本当に三兄弟は腐れ外道どすなあ

大関高増の罠

2010年05月03日 00:02

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 13:16:14 ID:CRgJAFZY
大関高増の罠


天正13年(1585年)12月、那須家重臣、千本資俊・資政親子は軍議を開くという事で
同じく那須家重臣の大関高増に滝の太平寺へと招かれていた。
先に着いたのでしばらく待っていると大関もやや遅れて太平寺に現れた・・・軍勢を引き連れて。

大関高増「わが主、資晴様の命により千本資俊・資政両名を討ち果たす!者共、かかれい!」

申開きをする暇もなく千本親子はあっという間に討たれてしまったのである。30年以上に渡って那須家に仕え、
度々佐竹を退けるなどした老臣の呆気ない最期であった。
しかしながらこの千本親子には謀反の兆候などの怪しげな動きは一切なかった。ではどうやって
主命を取り付けた上で千本親子を謀殺したのか?

大関高増には千本親子を憎む理由があった。実は千本資政は大関高増の娘を娶っていたのだが
姑との折り合いが悪く離縁させられていた。
後々、千本家に外祖父として影響力を及ぼせると踏んでいた高増にとってこれは全くもって面白くない事で、
高増は策謀を巡らせて千本親子の排斥に乗り出したのである。

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 13:17:14 ID:CRgJAFZY
まず、高増の策に二人の弟(福原資孝、大田原綱清)が乗る。
次に、千本家に養子として入っていたが、嫡子の存在により冷や飯を食わされていた義政(実家は茂木家)を
味方に引き込む。
更には計画の実行場所として定めた太平寺の住職を買収。
仕上げに高増は那須資晴へと千本親子の抹殺を進言する。もちろん、父の代からの譜代の功臣の排斥に
資晴も難色を示したのだが
千本資俊の30年以上前の事柄まで持ち出し、言葉巧みに不信感を植え付けついには了解を取り付ける。
これで一切の障害を取り払った高増は無罪の千本親子を始末したのであった。

この事件後、手はず通りに千本家の領地の「一部」を義政が存続。そして千本家の領地から800石を切り取り
太平寺の住職に与える(これが報酬である)。
最後に何故か大関高増、福原資孝、大田原綱清ら三兄弟が空いた領地を自分たちの裁量で三等分にし
我が物にするのである。

こうして千本家も大関高増の息のかかった家となり更には自身の領地の拡大までしたのであった。




509 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/02(日) 15:13:35 ID:cQTPpmhq
きたないな大関さすがきたない

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 15:14:55 ID:8+kw5bQr
全くあの親子はこれだから

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 18:51:33 ID:CRgJAFZY
大田原三兄弟は揃って外道だから困る。

大関夕安『雲はみな はらひ果てたる 秋風を 松に残して 月を見るかな』

2009年12月31日 01:18

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 16:35:15 ID:6KgjKYwY
下野の那須家重臣に、大関夕安と言う者がいた。

ある時宇都宮氏の軍勢が那須を襲ったが、那須氏はこれに大勝した。
もうすこしで相手の大将も討ち取れる、と言う時、夕安は追撃に反対し、
あえて宇都宮勢を撤退させた。
時の人々は夕安のやったことが理解できず、

「何故わざわざ逃がすような、不思議な真似をしたのでしょうか?
今回の戦ではあのまま追撃すれば、宇都宮を滅ぼす事もできたのに。」

と不満を持った。これに夕安

「こんな歌がある。『雲はみな はらひ果てたる 秋風を 松に残して 月を見るかな』

今、宇都宮の劣勢を利用して、那須優位の同盟関係を築く努力をする事無く、宇都宮を
滅ぼしてしまえば、我々は小田原の北条と直接に勢力圏を接してしまう。
もし国境を接した状態で強大な北条と敵対してしまえば、我々が那須を保持する事は
不可能だろう。ここは宇都宮を残し、彼らに北条の相手をしてもらい、その間に我々は
軍備を整え家中の紐帯を強くし、準備が整ったところで北条への敵対を宣言すべきなのだ。」

人々、夕安のこの答えに大いに感服したそうである。



ちなみに『雲はみな~』の歌についてだが、通常この歌の意味は
「雲をすっかり払ってしまった秋風を、松に残るさわやかな音として聞きつつ、澄んだ月を見ることだ。」
とされているが、もう一つの意味を後に徳川家康が説明している。それによると

「”雲”とは敵や不利な状況の事、”秋風”とは家臣、味方、優秀な作戦、といった自分たちの取りうる
手段の事である。すなわちこの歌は

『自身の努力や策謀が、敵を討ち悪状況を解消出来うるまで結実するのを待つ事ができれば、
最終的な勝利を手に入れ心安らかに月を楽しめるだろう』

と言う意味を含んでいるのだ。」

目の前の敵を倒し滅ぼすだけでは生き残ることは出来ない。戦国の深謀遠慮についてのお話。




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 17:37:24 ID:sE6J0gmM
大関高増だな。

頭はいいんだが悪いことばかりする事に定評のある大田原3兄弟の長男。
珍しく良い事してるが。

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 18:45:39 ID:z7D2qpf0
>>662
というか、こういう視点を持った戦略家だからこそ武功第一の脳筋系武将には
言ってることのイミが理解されず
「正面切って戦わず悪巧みばかり巡らす陰謀家め!!」て、なんとなく
敵味方から疎まれたんじゃなかろうか。


本多正信なぞは同じようなことをやらかした上で
「私は長期的視野に立てないあなたたちとは違うんです! フフン♪」とか
周りの三河武士をわざわざ挑発しまくって、
自分一人で恨み辛みを全て引き受けてから死んで、徳川家と幕府を残したんだろうね

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 19:10:04 ID:5qafYXL9
丹羽長秀「ああ、あの腸腐れね」

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 19:11:07 ID:kMbs7ZOj
>>663
ひょっとして本多家改易って親父が遠因なんじゃないか?

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 19:12:21 ID:sE6J0gmM
>>663
いやぁ、違うと思うけどなぁ・・・

悪い話スレになんか書いとこうかな、その内

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 19:45:32 ID:Q6Rc7Qxy
>>661
こりゃいい話だね。
下野・常陸の小豪族は、対立しつつも連合しないと
大勢力の北条家に呑み込まれてしまうからね。

陰謀家と言われる人は、見方を変えれば
深謀遠慮の知将だったということだね。

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 22:07:50 ID:LJ0oN3Gf
戦わずに済めは何よりだもんな

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 22:07:55 ID:6oALwCzA
常陸下野あたりで常識人を見つけようとするのは難しい


671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/30(水) 23:34:24 ID:iR0u7DDB
>>669小田氏治「よんだ?」