721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/01(金) 18:53:04 ID:d+cREI1Y
では川の使用権を巡る戦国時代の話を。
薩摩に入来院又六重時という男が居た。
島津以久の次男であり、初代佐土原藩主である島津忠興の兄に当たるのだが
入来院家に養子入りして伊作は花堂川一帯の地頭職に就いていた。
ある日のこと、彼が妻の八重、妻の妹のサクラと昼食をとっていたところ、
外から「おん大将ーっ」「地頭様ーっ」と子供達の声がする。
元来静かであるべき地頭屋敷の側で一体どうしたことか、番卒に問い合わせると
次のような仔細であった。
狭野の百姓の子供達が花堂川で漁をしていたところ、向こう岸の花堂の百姓の子供達が
漁場を奪いにやってきた。
しかも侍の子供を頭に押し立ててきたのである。
彼らは漁場を奪うのみならず川に立ち入ることまで差し止めているというのだ。
子供の争いとはいえ川の漁場は百姓の生計にも関わることである。
重時は直ちに双方の子供達の代表を屋敷に案内させた。
狭野の代表は百姓の子供の平太といい、花堂の代表は郷士の子供の岩尾正太郎といった。
「汝ら、子供とはいえ地頭屋敷の側で騒ぎを起こすとは不届き千万である。
このまま家に帰すことは相成らんぞ。」
地頭の重時が言うと百姓の子供たちは押し黙ってしまったが、武士の子である正太郎は違った。
「地頭様に御願いがあります」と口を切り、
「私は花堂の郷士、岩尾静馬が長男の正太郎と申します。花堂川はその名の如く花堂の物であり、
川の保守管理や川の幸を得ることで生計を立てている者もおります。
ところが狭野の悪童どもが花堂までやってきて狼藉を働くため、正義のため私がこれを排除しました。
今後は狭野側がこのような悪事を働かぬよう地頭様よりきつくお叱り下さるよう申し上げます」
実に堂々と口上を述べたのである。
(岩尾静馬も良い息子を持ったものだ)内心感心した重時だが片方だけを贔屓するわけにも行かない。
「元来、川は天が与えたものである。人はこれをあずかることは出来ても私することは出来ぬ。
今後はお互い自分達側の岸で漁をするように。人命の救助や特別の場合を除き
川の中心を超えてはならぬぞ。
投げ網や投石も同じじゃ。」と、双方の代表に申し渡し書を出した。
地頭屋敷で子供同士の争いが裁かれたのは後にも先にもこの一軒だけだったという。
ところで、この話にはおまけがある。
例の裁きから数日後、狭野の牛が夜中に大声で吠え出し、村中の者がたたき起こされたのだ。
これは平太をはじめとする子供たちが牛に草をやるのをサボっていたので牛達が
空腹に耐えかねたためであった。
裁きに感激した平太たち狭野の子供たちはすっかり重時になついてしまい、
子供たちは地頭屋敷の周りに集まって、近くの神社で武士の真似事をして遊ぶようになったのだ。
これを知った狭野の百姓達、
「さてもさても、最近の子供たちはどうして自分達が遊ぶことばかりを考えるのだろうか。
自分達が子供の頃は親が働くのを一生懸命手伝ったというのに」とぼやいたとか何とか。
どうやら、親の子供に対する愚痴というのはいつの時代も変わらないらしい。
では川の使用権を巡る戦国時代の話を。
薩摩に入来院又六重時という男が居た。
島津以久の次男であり、初代佐土原藩主である島津忠興の兄に当たるのだが
入来院家に養子入りして伊作は花堂川一帯の地頭職に就いていた。
ある日のこと、彼が妻の八重、妻の妹のサクラと昼食をとっていたところ、
外から「おん大将ーっ」「地頭様ーっ」と子供達の声がする。
元来静かであるべき地頭屋敷の側で一体どうしたことか、番卒に問い合わせると
次のような仔細であった。
狭野の百姓の子供達が花堂川で漁をしていたところ、向こう岸の花堂の百姓の子供達が
漁場を奪いにやってきた。
しかも侍の子供を頭に押し立ててきたのである。
彼らは漁場を奪うのみならず川に立ち入ることまで差し止めているというのだ。
子供の争いとはいえ川の漁場は百姓の生計にも関わることである。
重時は直ちに双方の子供達の代表を屋敷に案内させた。
狭野の代表は百姓の子供の平太といい、花堂の代表は郷士の子供の岩尾正太郎といった。
「汝ら、子供とはいえ地頭屋敷の側で騒ぎを起こすとは不届き千万である。
このまま家に帰すことは相成らんぞ。」
地頭の重時が言うと百姓の子供たちは押し黙ってしまったが、武士の子である正太郎は違った。
「地頭様に御願いがあります」と口を切り、
「私は花堂の郷士、岩尾静馬が長男の正太郎と申します。花堂川はその名の如く花堂の物であり、
川の保守管理や川の幸を得ることで生計を立てている者もおります。
ところが狭野の悪童どもが花堂までやってきて狼藉を働くため、正義のため私がこれを排除しました。
今後は狭野側がこのような悪事を働かぬよう地頭様よりきつくお叱り下さるよう申し上げます」
実に堂々と口上を述べたのである。
(岩尾静馬も良い息子を持ったものだ)内心感心した重時だが片方だけを贔屓するわけにも行かない。
「元来、川は天が与えたものである。人はこれをあずかることは出来ても私することは出来ぬ。
今後はお互い自分達側の岸で漁をするように。人命の救助や特別の場合を除き
川の中心を超えてはならぬぞ。
投げ網や投石も同じじゃ。」と、双方の代表に申し渡し書を出した。
地頭屋敷で子供同士の争いが裁かれたのは後にも先にもこの一軒だけだったという。
ところで、この話にはおまけがある。
例の裁きから数日後、狭野の牛が夜中に大声で吠え出し、村中の者がたたき起こされたのだ。
これは平太をはじめとする子供たちが牛に草をやるのをサボっていたので牛達が
空腹に耐えかねたためであった。
裁きに感激した平太たち狭野の子供たちはすっかり重時になついてしまい、
子供たちは地頭屋敷の周りに集まって、近くの神社で武士の真似事をして遊ぶようになったのだ。
これを知った狭野の百姓達、
「さてもさても、最近の子供たちはどうして自分達が遊ぶことばかりを考えるのだろうか。
自分達が子供の頃は親が働くのを一生懸命手伝ったというのに」とぼやいたとか何とか。
どうやら、親の子供に対する愚痴というのはいつの時代も変わらないらしい。
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