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難波戦記によると、御宿越前は

2021年04月26日 18:19

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/25(日) 23:29:35.67 ID:TIXyTC0r
難波戦記によると、御宿越前(勘兵衛)は、(大阪夏の陣、天王寺・岡山の戦いで)討ち死にした時、
殊に強く戦ったため、白糸の具足が血に染まり、赤糸に見えたという。

これについて、池田光政様に、先の松平出羽守殿(松平直政カ)が物語されたことによれば、
御宿は元来、左手の指が欠損しており(元来左手無手棒ニテ候)、その最期の時は、赤糸の具足を着し、
指の欠損したまま、鑓を持って居たのを、越前(松平)家の何某がこれを能く見知っていたため、
そのまま討ったということである。

出羽守殿は越前家の手勢の事を詳しくご存知のはずであり、であれば、これが本説であるのだろう。
御宿は指が欠損していた故に、強く戦える状態では元来無かったのである。

烈公間話



686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/26(月) 10:50:42.87 ID:Omwm547S
出羽守「元来の渡辺勘兵衛の左指デワー」

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/26(月) 17:15:15.59 ID:rhtGunLN
http://samidare.jp/yoshiaki/data/15407904041.jpeg
出羽守のポリコレ棒をくらえ!

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/26(月) 18:36:23.46 ID:PQIaL2a9
小指切れてたら槍握るの大変だろなあ
ましてや親指だったら不可能でしょ
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御宿勘兵衛の最期

2019年07月15日 13:40

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 20:50:03.53 ID:S1JzbmpW
『難波戦記』に曰く、御宿越前(勘兵衛政友)の討死は強働きとある。白糸の具足は血に染まり、
赤糸に見えたとある。

光政様(池田光政。芳烈公)へ先の松平出羽守殿(直政)が御物語り致されたことには、御宿は
元来左手が無く手ん棒であるという(御宿事元来左手無手棒ニテ候由)。最期には赤糸の具足を
身に着け、手ん棒で槍を持たせていたという。越前家(越前松平家)の某はよく見知っていたの
で、そのまま討ったということである。

出羽守殿は越前の御手のことを確かに御存知のはずだから、これが本説であろうという。御宿は
手ん棒故に、強戦を仕る様子ではそもそも無いという。

――『烈公間話』



御宿勘兵衛の密告

2010年01月04日 05:05

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/03(日) 20:54:03 ID:lrnHU44B
御宿勘兵衛政友と言う侍がいた。
彼は武勇の者であり、今川義元、武田信玄、勝頼、北条氏直と仕え、
北条滅亡の後は結城秀康に一万石で仕えたが、秀康の死後、何が気に入らなかったのか牢人となり、
大坂の陣が始まると、豊臣秀頼の招きに応じ早速大阪城に入城した。

御宿勘兵衛この時秀頼より、戦に勝ち天下を取り戻せば越前一国を与える、との書付をもらい、
この時より『越前守』を名乗ったと言う。
彼は冬の陣において、蜂須賀への夜討などで大いに活躍した。

そして夏の陣、四月二十七日のこと
御宿は大阪を密かに出て、京の板倉勝重の下を尋ねた。
板倉、自分の所へと来た仔細を聞けば、御宿

「私は子にほだされてここへ参ったのだ。私の子が江戸で放埒な事を仕出かし、
禁獄されたと聞き及んだ。どうか、わが子を御赦免いただきたい。その為に私は、
侍として相応しくないことをこれより述べる。

明日二十八日、家康公、秀忠公の両御所様が、京より大阪に向けて御動座なされると聞く。
これにより防備が手薄になったところを、大阪方は古田織部と申し合わせ、
京、伏見を焼き払う計画を立てている。

秀頼公より過分の御恩に預かっていながら、このような密告をするのは武士の本意でないこと、
よくわかっている。しかしこれは、我が子を救いたい一心でのことなのだ。」

板倉はすぐにこれを家康に報告。家康はその内容を信用し、「御宿なら小田原にいた時から
存じておる。このたびの忠節、息子だけではなく御宿本人も許し、このまま我が陣に留まらせ
奉公させよ。」と、板倉に言った。

御宿は板倉よりこれを聞くが、「最前より申し上げているように、わたしは秀頼公より深い恩顧を
頂いている。この上はせめて、秀頼公のためこの身を捨てるしかないのだ。
出来うるなら、私の代わりに息子を召し出してやって欲しい。」

そう言うと又、大阪へと帰っていった。御宿からの情報により、二十八日の動座は中止となった。

五月七日、御宿勘兵衛は天王寺・岡山合戦にて討死。
奇しくも彼がかつて仕えた越前松平家の手の者に討たれた、とのことである。




482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/03(日) 23:15:20 ID:7d7kPH3S
息子思いのいい話、だけど武士としては一分の立たぬ悪い話…。

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/03(日) 23:49:57 ID:mPEJFC4w
>>481
極めて高確率でとばっちりのゲヒ殿かわいそす

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/04(月) 00:08:52 ID:ksdOHxYs
織部一家のその後を知ってると、とっても悪い話・・。


487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/04(月) 06:03:30 ID:PGh2hm7Y

>>481
なんだか高待遇なのに代替わりのときに跡継ぎが気に入らないとかいう理由で辞めちゃう人って
江戸時代初期にやたらいるイメージがある。なんでだろう?
戦国時代を生き残ってきた人たちにすると同時代を生きた主君以外の世代に
仕えたくないという感じの共通認識でもあったのだろうか?
もったいないことするよなぁって思うのは後世の人間たちの視点だからなんですかね?

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/04(月) 08:09:24 ID:i9CrBGsm
江戸時代というか戦国時代が何度も主変えるのが常態だったので
そういう気風がまだ残ってたんでしょう
それにまだまだ腕に覚えある人なら就職先には困らなかったし
だんだん平和な世になったのだと認識されるにつれ再就職は難しくなっていくが
 
だから解雇されないように忠とか義とか殉死などでアピールしなければならなくなるのだけど


489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/04(月) 09:12:04 ID:oipJTKXO
あとまあ、そういう人たちってのは代々の縁などなく、家ではなく主君個人との契約のような
意識があったというのも