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「高田」の殺生石

2022年04月05日 16:50

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/05(火) 11:38:08.11 ID:j0gfoA8T
まとめのコメント見たら一国が褒姒や妲己扱い
褒姒も妲己も九尾の狐の化身と言われ、九尾の狐(玉藻前)が殺生石になり玄翁和尚に割られた伝説は有名だが
その破片が全国三ヶ所の「高田」という地名に飛び散ったと言われる
一つが豊後高田で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13411.html
この朽網の殺生石も豊後高田まで飛んでった殺生石の破片が70kmほど転がったものだとか
もう一つは美作高田か安芸高田で
最後の一つが越後高田
この忠直の乱行による改易のため、忠直の息子光長は越後高田藩主となったが、41年後に地震で高田が大きな被害を受け筆頭家老、次席家老が圧死
それにより台頭した小栗美作が改革を施行したら反対派とお家騒動となり、幕府裁定によりいったん小栗が勝ったが
館林城主から将軍になったばかりの綱吉が再審して両派に厳罰、越後高田藩は没収されましたとさ

いっそ忠直乱行も越後騒動も九尾の狐のせいにしてしまおう
綱吉も狐が建てた館林城主だったし



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「続片聾記」から「忠直公御乱行の事」

2022年04月04日 19:02

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/03(日) 20:46:46.65 ID:1Ul4dzbi
続片聾記」から「忠直公御乱行の事」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4468.html
とだいたいのあらすじは同じで
松平忠直がある時天守に登ると美人の絵姿が風に舞って忠直の所に来た。
その美人に一目惚れした忠直は家臣にこれとそっくりな美人を探せと命じたところ、関ヶ原におむにという女がいたため、
一国にも替え難い美しさ、ということで「一国」と名づけた。
しかしこの女は罪人が首を刎ねられるのを見ると悦んだため、忠直は死罪に当たらないような者でも一国の前で首を刎ね、気に入らない小姓や家臣も死罪とした。
そのうち首を刎ねるだけでは飽き足らず、平たい石で人の天窓(あたま)を叩き割る、白洲で磔にする、妊婦の腹を裂く、といった悪行を重ねた。
これに対して眉を顰めた、秀康公から仕えている武士をも死罪としたため、家臣たちは毎朝家を立つ時は最期の盃をかわして登城するようになった。

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/03(日) 20:48:52.87 ID:1Ul4dzbi
忠直の家臣に縣茂左衛門という者がいた。昔年大坂の陣で忠直に供をし、城中に入った十七騎の一人であった。
ある雨の夜、草履取りを供にして歩いていると、向こうから忠直公の駕籠が来たためあわてて平伏したが、
忠直公は「茂左衛門、供をせよ」と言ってきた。
茂左衛門は今度は自分が斬られるのか、と覚悟を決めた。
そのまま城中に行き、白洲に入ったため、茂左衛門は「もはや死は逃れられぬ」といよいよ覚悟した。
白洲は月明かりに照らされ、そこには老若男女の死骸が三十人ほど山のように積み重なっていた。
そのほか死骸がかけられた磔が林立していた。
茂左衛門が観念したところで、忠直公が「からめたる奴原を一々斬り捨て、我が慰みとせよ!」
と言ったため、茂左衛門は「案に相違し、身の逃れる嬉しさよ」とむごいことを思いつつ、連れられてきた二、三人の首を切った。
その後は忠直公に命じられるまま、あるいは袈裟懸けに、あるいは打首、と二十七人を斬った。
この褒美に忠直公から刀を授けられ、虎口を逃れた気持ちで城を出て家に帰った。
すると念仏が仏間から聞こえてきたため、茂左衛門が何があったのか聞くと、親も弟も妹も涙を流しながら
「茂左衛門が忠直公に斬られたと思い念仏を唱えていたのです」と答えた。
茂左衛門も自分の罪業のあまりの深さに恐ろしくなり、後に隠居して道甫居士と号したという。
かれから直に聞いた物語をここに記す。



片桐、勘気を免す

2022年04月03日 17:02

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/03(日) 13:25:58.33 ID:PZfYpEcu
或る記(難波戦記)に、越前・松平忠直の家臣、片桐丹波守は先に忠直の勘気を受けていたのだが、
大坂夏の陣に際し、この陣に忍んで供をし先手に居た。
この姿を本多伊豆守(富正)が見て、忠直朝臣の前に来て言った

片桐丹波守の事ですが、今、忍んで御供仕り、御先手に加わって居ます。その気色は、今日を最期と
存じ極めた様子に見えます。
御勘気されたまま討ち死にを遂げてしまえば、冥土、黄泉の障りともなり、不憫な事に思います。
それを哀れに思い、御勘気を御免あらば、二世の思い出となると考えます。」

そう、涙を流して訴えると、少将(忠直)は「勘気を免すので、早々に召し出すべし。」と申された。

これにより使番の深澤長左衛門が乗り切って先へ通り、丹波守に斯くと申し渡すと、そのまま旗本へ来て、
馬より降りて兜を脱いで畏まり、しきりに落涙していた。
この姿を忠直朝臣が見られ、「片桐、勘気を免す」と申されると、片桐は頭を地に付け、一礼して
立ち上がったが、「今になって許すとは聞こえないことだ」(只今になり許すとは聞えざる事)と
思っているような気色でその場を退き、馬に乗って駆け出した。

しかし先手の鑓が始まると同時に、兜付きの高名(兜を付けた武者を討ち取ること)して、持参したという。

新東鑑

大坂夏の陣での越前家の一コマ



「芳斎青木新兵衛の事」後半部分

2022年03月19日 14:05

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/19(土) 09:41:17.42 ID:yvHy8Bac
可観小説」から「芳斎青木新兵衛の事」後半部分

岡部自休入道は忠直卿の時に町方・郡方・公事方様々の奉行を兼役し出世頭であった。
自休の領地の百姓の女が布施但馬の領地の百姓に嫁ぎ、夫の方は佐渡の方へ用事で行った。
三年たっても音沙汰がなかったため、妻は近所の男と再婚し子供を産んだ。
その後、先夫が佐渡から帰り、妻のことを知り代官所に訴えた。
自休は郡方奉行であったが、「今は待て」と言ったきり判決も下さず年が暮れてしまった。
翌年、舅の方が現在の婿を一族ともども招いたところ布施但馬はこれを知り、自分のところの百姓を侮辱されたと思い
夜中に舅の家の周りに焼き草を積ませて、火を放って一人も残らず殺してしまった。
忠直卿はこれを聞いてお怒りなさり、「この件について訴人あらば黄金十五枚をとらす」と立て札をあちこちに立てた。
この時、但馬の家来の中野長兵衛というもの、かねてから但馬に恨みがあったため、訴人となって恨みを晴らそうと思い、妻に話した。
妻は長兵衛に異見をしたが、長兵衛は聞き入れず自休の方へ向かった。
妻の方は、主君を訴えるのは不義であり、このままでは罪なき子供まで殺されると思い、但馬に夫のことを打ち明け、子供の助命を嘆願した。
こうして長兵衛は但馬に捕らえられ、座敷に押し込められたが、調略を使って夜中に抜け出し、塀を越えた。
そのまま近くの牧野主殿宅に逃げ込んだが、牧野の舅である竹島周防により殺されてしまった。

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/19(土) 09:42:56.99 ID:yvHy8Bac
この趣旨を聞いた忠直卿は激怒なさり、とうとう布施但馬は自殺した(原文では「事長き故略す」としている)。
このことが駿府に聞こえ、家康公は激怒なさり、ことの発端の自休の進退も極まった(切腹?)。
また周防は訴人を殺したということで但馬の一味とみなされ、駿府において詮議されることとなった。
こうして青木新兵衛に周防の護送の任務が与えられたが、新兵衛は越前府中から三里いったところで
「上意とはいえ、お歴々の方に縄をかけるのは忍びませんので」と縄をほどき、そのまま駿府に連行した。
駿府での吟味に際し、周防は
「但馬は黄門秀康公取り立てのもので、すぐれたる武功も多く、しかも国政を知るものであり、百姓千万人にも替えがたい逸材でした。
もし長兵衛が存命であれば、但馬は処せられたでしょう。
かといって長兵衛は忠直卿に忠義立ていたしたということで殺す名分もありません。
そのため私の粗忽ということにして、長兵衛の首を刎ねたというわけです」
と申し上げ、これを聞かれた家康公は「周防の申すこといちいちもっともである」と赦免された。
このころ、青木を諸人は褒めたという。
新兵衛はのちに加賀藩の前田利常公に奉公して方斎と号したということだ。
また太閤記によれば、小田原の陣の山中城陥落の折、大母衣をかけた武者が搦手から討ち入り、武将の首をとり、太閤の御本陣へ参った。
太閤御覧ありて幸先がよいと金銭を賜ったとあるが、これが青木新兵衛という名だったそうだ。

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/19(土) 09:49:41.65 ID:yvHy8Bac
というわけで百姓夫婦のいざこざが不手際のために、どんどんおおごとになってしまった話。
布施但馬の死については

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6823.html
徳川家康「その道存とは誰だ」


にも書かれているが、上の話で秀康に青木新兵衛と間違われた永井善左衛門などが暗殺したことになっている。
しかも冤罪扱いで家康は但馬を是としているようだ。

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/19(土) 09:53:22.07 ID:yvHy8Bac
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/越前騒動
wikiみたら思ったより大きな騒動だった

前半
「芳斎青木新兵衛の事」前半部分


「芳斎青木新兵衛の事」前半部分

2022年03月18日 15:53

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:14:49.56 ID:l73Nz6xM
青地礼幹可観小説」から「芳斎青木新兵衛の事」前半部分

青木新兵衛(方斎入道)は方々へ渡り奉公をしていたが越前少将忠直卿に仕えた。
その経緯であるが、あるとき忠直卿の家臣、永見主膳が息子の着付けを三宿勘兵衛(御宿政友)に依頼した時、一座に居合わせた若い衆が武功咄を望んだ。
以下、

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4376.html
「真の武士とは」


とほぼ同じ話で、これにより永見主膳に出入りしていた浪人の青木新兵衛が忠直卿に召し出されることとなった。

なお「真の武士とは」では
永見主膳→狛伊勢守、三宿勘兵衛→阿閉掃部
と名前が違っており、
室鳩巣「駿台雑話」の「阿閉掃部」やそれを出典としたと思われる、
神沢杜口「翁草」の「阿閉掃部(注釈では阿閉貞征の息子)」では、「真の武士とは」と両者の名前が同じであるが
主題である「真の武士」という言葉が出てこないので、ほかの出典があるのだろうか。

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:20:32.17 ID:l73Nz6xM
青地礼幹は室鳩巣の弟子であり、師弟で同じ話を書いておきながら両者の名前が違う理由は不明。
青地は加賀藩士であり、青木新兵衛も最後は前田利常に仕えているため、師の間違いを青地が正したのかもしれない。
(「可観小説」では「駿台雑話」評や室鳩巣逝去についても書かれている)
また「翁草」には

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13192.html
中々鬼にて御座候


の、伊達政宗が青木新兵衛の松川での戦いぶりを褒めたところ、
帰邸後、秀康が永井善左衛門と取り違えて永井を褒め、永井が「それは青木新兵衛です」と訂正し
秀康が「まあどっちも我が家人なのだから強く穿鑿には及ばない」とごまかした話もあり、
この時点で青木新兵衛が秀康から認識されていたのなら忠直の時に無名だったのはおかしい気もする

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:23:29.67 ID:l73Nz6xM
ついでに山鹿素行「山鹿語類」の「士談五 剛操」には

青木新兵衛が越前で青木紀伊守(青木一矩)に仕えていたころ、同輩の荻野河内のところで寄り合いがあり
その席で武功話をせがまれた新兵衛が、賤ヶ岳の戦いにおける余呉の湖畔での戦いで、立派な前立ての武者と槍合わせをし、
新兵衛が槍をついたところ武者が退いた、という話をしたところ
亭主の河内が「それはそれがしなり。法斎(新兵衛)の具足や指物はこのようなもので、また胴には槍跡がなかっただろうか?」
と尋ねたところその通りだったため、
河内「よい時分におおせられて満足だ、しかしそれがしは槍でつかれもせず、退きもしなかった、
それだけははっきりと言っておこう!」
新兵衛「いや、たしかに某がついて、そなたは退いた!」
と双方引かず、すっかりみんなの興が醒めたところで、河内の十七になる子供が出てきて
「推参ではありますが申し上げます。そもそも殿軍の折ですから双方とも一騎討ちをなさったわけではなく、
それぞれ味方の軍からあまり離れないように戦ったわけですから、一歩、二歩退いたかどうかで言い争っても無意味でしょう。
そのようなことで議論なさるのは、御両人には似つかわしくないと思います」
と言ったところ、新兵衛も大いに感じて穿鑿をやめ、座中も感じて興を催したということだ。

という主君が忠直ではなく青木一矩で、組み合わせた相手も荻野河内と違うが、似た話がある
時代的には山鹿素行の方が古いが、もしこちらが元の話だとすると、青木新兵衛にとってはあまりかっこうのよくない話になる。

後半
「芳斎青木新兵衛の事」後半部分


402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 16:21:39.98 ID:Nc2Sr3bk
それ河内の息子のいい話だな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 20:07:44.51 ID:WPcSNcPa
新書太閤記に同じ話あるんだけど、吉川英治の創作だと思ってたわ

「さてさて、御老人たちは、戦場からお残り遊ばした余生を、恥よとも、勿体ないとも、思し召さず、よくもまあ、退いた退かぬなどと、愚かな喧嘩がおできになりますな。
こうして、寄合い振舞いなどのできるのも、誰のためと思し召すか。
五十年来打ち続いた合戦に、どれほどな武者輩が白骨となったでしょう。
思えば、その方々へ、蔭膳の礼もせずに、今日、一杯の酒とて、飲めた義理ではござりますまいに」

『当代記』より、越前騒動

2020年09月08日 18:06

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/08(火) 01:11:02.18 ID:wsCVZqJm
越前国の故三河守(結城)秀康が、去る慶長十二年に逝去した砌、家中の年寄七人が金子を隠取したと云われた。

そしてこの事、去年幕府より公事が申し付けられた折、この七人の内の岡部伊予と云う者、江戸へ下って
この事を言上する旨を相催し、美濃国大垣まで下ったところで、「これほどの事が上聞に達するのは如何か」と
当三河守(松平忠直)并びに家中の年寄達が人を遣わし、大垣にて追いつき、かの伊予を呼び帰した。

然れども当年(慶長十七年)、この公事が無事に落着すると、かの伊予は江戸に下り、また牧主殿(牧野主殿助)
と云う者も、あの七人の一人であったが、岡部と同道して江戸に下ると申していたが、どうしたわけか
高野山に直に登ったという。

十月十九日、かの七人の内の久世但馬という者が、屋敷を攻められ生害した。彼の息子は加賀国に有ったが、
この時駆けつけて、但馬と共に死んだ。また但馬の聟も駆けつけて同じく死し、その他、但馬の屋敷に於いて、
侍分百五十人が死んだ。中間小者は、悉く十八日の晩に逃げ出したという。
この時、久世但馬の屋敷を攻めたのは本多伊豆守(富正)であった。これも先の七人の一人であった。

これについて松平忠直は、先ず当座は宥し、忠直より人質を遣わし、本多伊豆の居城である府中に
かの人質を置き、伊豆は北の庄に参り登城した。
伊豆の人数の内、能き者共がこの時二十八人討ち死にした。手負いは四十人余りであったという。
その他寄手は、多賀屋(多賀谷泰経)の者共を始め、総じて二百ばかり討ち死にしたという。

同二十日、弓木左衛門(七人の一人である)が生害した。この屋敷に於いても寄手は三十人ばかり死んだ。
この弓木は、故秀康の時、知行方専一の用人であった。

同日、上田隼人(これも七人の一人)は寄手に理を云い送り、その身ばかり腹を切り、被官たちは屋敷から出した。
そのため寄手は心安く屋敷の中に入ったが、そこには隼人家臣の侍五、六人が留まり居て、寄手と戦い、
これによって寄手も討ち死にした。

今村掃部、□□(不明)兵庫、右の理を言上すべく、二十五、六日ころに北の庄を立ち東国へと下った。

当代記

当代記より、越前騒動(久世騒動)についての記事



見聞談叢より松平忠直の茶童

2020年09月06日 19:05

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/06(日) 18:54:22.91 ID:6ORzFz43
見聞談叢より松平忠直の茶童

越後の一伯候(越前の一伯候=松平忠直のことか)は甚だ剛勇な気質だったため、
側仕えの茶童まで殊の外気が強かった。ある時茶童に気に障ることがあって腹を立て
給い、茶童の右の手を手ずから煮えたぎる釜の中へ七、八寸もつけなさった。見る間に
茹で蛸のようになったが熱そうな顔もしなかったので、「許す」と仰って手を離される
と、「有り難し」と答えざまに、その釜は東大寺の九輪釜といって添書付きの名物なの
を、茶室の外に抱えていって石に打ち付け微塵に砕いた。「なぜそんなことをするのだ」
とお聞きになると、「私めの手を茹でた釜では、殿様に差し上げるお茶を淹れることは
できず、そうなるとあっても詮のないものです」と答えた。手を茹でられたことを怨み
怒る様子もなく、一伯候は感心された。その後お取立てあって忠節を尽くしたと、亡父
(伊藤仁斎)は常々お話しなされていた。



少将殿の仕置

2015年04月21日 18:21

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/20(月) 19:44:21.09 ID:apEtfDEE
越前少将殿(松平忠直)の家臣に、小野某という者があった。
彼は越前家の江戸屋敷に老母を残していたので、江戸に参り老母に会いたいと思っていて、
主人の江戸参府の供に当たることを3,4年待っていたが、当たることがなかったので、耐え兼ね
今度は支配に願い出た。これによって支配より申し立てたものの、その時にはすでに供方帳も
決定していたため、この度は相成らぬという沙汰であった。

小野某は憂悶し、ついに主君の少将に願書を提出した。その文の中に『数年老母に対面仕りません。
この度は是非是非お供仕って江戸に参って、対面したいのです。』とあるのを、少将は見て
「是非是非という申し分、法外のことだ!」
と、大いに立腹し、「切腹を申し付ける!」と言ったのを、家老たちが諌め
「若輩者が不調法申し上げたことは恐れいったことですが、それは孝行の心より起こったことですから、
切腹のことは御免下さるべし」と、様々に説得したため、塩川七之丞の所にお預けという処分に成った。
そうして小野某は一間に入れ置き、足軽12人が呼ばれ、昼夜6人ずつで番をする事になった。

ところで、この塩川七之丞の妻は、同藩平塚左衛門の娘であったが、この平塚平左衛門の妻というのが
奸曲な女であって、塩川七之丞に嫁がせた娘にも、夫に対する様々な悪意を申し含めたため、
自然と塩川と妻の仲も悪化した。

ある日、平塚平左衛門夫婦が塩川の所に来て、ふとした事から塩川と口論に成り、追々言い募り、
ついには平塚平左衛門の妻が

「左様な者の方には大切な娘は置けない!たった今連れて帰る!」

そう言い出し、塩川の妻を引き立て連れて帰ろうとした、平塚平左衛門も止める様子もなく、塩川の妻も
拒む様子もなく、3人共に同意と見えたため、塩川七之丞は暫く黙然としていたが、
「今は免し難し」
そう言うと刀を抜き打ちに、平塚の妻を斬り殺し、次に平左衛門、並びにその娘の自分の妻の3人を
忽ち討ち果たした。

これを見て小野某の番人たちは大いに驚き、小野に向かって
「塩川七之丞殿、乱心と見え舅平左衛門殿夫婦並びに自分の妻3人を皆斬り殺した!きっとこちらにも
斬りこんで参るだろう。こちらに来ない内に早く立ち去れ!」
そう言ったが、小野は

「心配していただいたのは、忝く思います。ですが私は、主命によってこのように籠居している身です。
何事があっても、私は一歩たりともこの外に出ることは出来ません。」

自若としてその場を動かないでいると、そこに塩川七之丞がやって来て、3人を斬り殺した趣意を語り
「この事は家老衆に書き残して私は切腹いたす。さて、貴殿とは御亡父より懇意を申し上げる仲であったが。
対面も唯今限りです。」
そう暇乞いをし、それから届書を認め、元の座敷に戻りその封書を床の間に置くと、平塚平左衛門夫婦の
死骸の上に乗って切腹して果てた。

その後、小野某は山口太郎右衛門へお預かりと成ったが、塩川七之丞が3人を斬り殺した騒動の時、
番人の者達は皆逃げ退いた中、一人主命を守って動かずに居たのを感ぜられて、それから程なく暇を出された。
また、逃げた番人の足軽たちは、その時の当番6人全員が死罪となった。

少将殿は武辺者であるが、武辺者過ぎて仕置も厳しすぎた、と言われている。

(明良洪範)



679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/20(月) 20:02:58.11 ID:lh78JhE4
この流れで暇を出されるのか…

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 02:10:29.36 ID:sgD726Jq
江戸に行って親孝行してやれ…と言う意味かと思ってたが越前屋敷にいるんだな
この場合お母さんはどうなるんだろう

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 02:13:59.64 ID:GmfWYMbu
暇を出されたって、禁固刑食らってたのを赦されたって事じゃないの?

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 10:05:55.08 ID:UbkiBjMC
それなら赦免されたとか許されたとか記されてるんじゃね?

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 19:22:45.07 ID:d9ATDP9Z
原文見ても「何共なく只暇を出されける」
としか書いてないか
「いとまごい」の暇で休暇ってことだとは思うが

息子は走り寄って、遺体を肩にかついで

2012年07月03日 21:00

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/02(月) 22:37:19.22 ID:ahYKAU7E
松平忠直の家臣の馬場三郎兵衛は息子とともに大阪冬の陣に参加したが、
敵の陣に突撃して討ち死にしてしまった。すぐそばで父の戦死を目の当たりにした
息子は走り寄って、遺体を肩にかついで、戦場から撤退しようとした。

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/02(月) 22:40:21.13 ID:ahYKAU7E
>>218の続き
銃弾の飛び交う中を6~7間ほどさがった時、息子はふと「これでは父親を
盾にして引きあげるようではないか。心得のある武士のすることではない」と
考えて、自分の家来に遺体となった父を囲ませて、敵の銃弾が当たらぬように気を配った。




220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/02(月) 23:10:10.08 ID:bO8stOcc
大阪冬の陣って事は下手すると初陣か・・・立派すぎる
しかし父としては自分を盾にしていいから生還してほしいと願いそうな気も

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/02(月) 23:30:17.93 ID:41/r/Fye
政宗「父を盾にする奴は父と一緒に撃ち殺してしまえ!」

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/02(月) 23:49:28.66 ID:pAZgF9/v
家来を遺体の盾にする分にはいいのね…

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 00:03:30.79 ID:HU9wdxzM
言われてみればw
部隊を率いる者としては一人前とは言えないなw

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 00:04:15.19 ID:IDaq8dwx
主君の遺骸を守るとか真の忠臣じゃないですか

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 00:40:45.54 ID:wIlRQ0aT
>>222
人は城、人は石垣、人は濠
盾に使って何が悪い(´・ω・`)

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 03:14:23.18 ID:8jTMfKbX
>>225
それはどこの人海戦術軍かと。
地雷原?そんなの兵士を散開させて進ませればいーじゃん、ていう考えは北の大国では今も健在なのだろうか…。

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 03:42:12.05 ID:IUnFH5m1
>>225
「疾き事屁の如く 徐かなる事屁の如く 侵略する事屁の如く 動かざる事屁の如し」

旗印にどうぞ

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 03:51:52.32 ID:Zxzeslwz
>>226
シベリアのスッカスカぶりに焦ってるらしいから、やんねーんじゃないな
その下の国(除くモンゴル)は、やりかねないけど

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 12:57:51.83 ID:8jTMfKbX
>>228
下の国も一人っ子政策の影響で兵士が跡取りばっかでうっかり死なせられないって嘆いてるって聞いたな。
その割りにどっちの大国も人命軽視なエピに事欠かないような気もするが(汗

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 13:28:04.70 ID:sEZ18WdI
共産主義っていうのはいろんなものを停滞させるのかな?
両国とも結局は資本主義、自由経済に飲み込まれたけど人の命の重さもふくめていろいろと
『オマエラもう中~近世じゃないんだからそろそろ慣れろよ・・・』って言いたくなる時代遅れっぷり
を感じることはよくある、地力はあるだけに隣人としては厄介この上ない

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 13:40:15.97 ID:wiZ0Tdq2
共産主義以前から、専制国家だった歴史が長いからだろ

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 14:15:16.27 ID:Mo9SyXmX
>>230
ああいうのは資本主義を利用しても、理念には馴染まないから強いんだよ
マフィアの強さと同類(笑)


233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 20:11:14.99 ID:IUnFH5m1
共産主義こそが堕落した資本主義の一歩先をゆくのだ

そして今や資本主義は崖っぷちに立っている!

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 23:00:44.07 ID:Rvoq3Uov
>>226


人間なんて10何億のトコは密集突撃で地雷原啓開だお。

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/03(火) 23:39:13.42 ID:y0G7Djti
>>233
一歩先に崖から落っこちたのはどこのどいつだい?

松平忠直とおむに

2010年07月29日 00:00

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 19:21:51 ID:nApKwByj
それは一枚の絵から始まった。

越前中将、松平忠直がある夏の日の夕涼みのおりに、一枚の美人画が落ちているのを見つけた。
その絵の女の美しさに心奪われた忠直は、家臣たちに「この絵にそっくりな女を探してくるように!」と命ずる。
家臣たちは大いに苦労した挙句、ついに関ヶ原で絵にそっくりな女を見つけた。
これを連れ帰ると忠直は大いに喜び、彼女が「一国と変えても惜しくない美貌だ」として、『一国』と名づけ
寵愛した。ところがこのおむに、その美貌と共に、大変に残酷な女でもあった。

ある時、おむにが言った。
「私は今まで人が殺されるところを見たことがありません。一度くらいは見ておきたいのです。」

「そんなものは簡単なこと」
忠直は直ぐに、既に死罪と決まった罪人を連れてこさせ。おむにの前で斬り殺した。
おむにはこれを見ると、かわいらしい声を上げて大いに喜んだ。

それからは忠直は、おむにを喜ばせたいと思う毎に、罪人を連れてこさせ斬り殺した。
しかし死罪の確定した罪人もそうそういるわけでもなく、ついにはごく軽い罪で捕まった罪人まで、
斬り殺されるようになった。

さらに忠直は罪人だけでは飽きたらなくなり、自分の小姓であっても少しのミスで
斬り殺すようになった。

忠直が人を殺すたびに、おむにはコロコロと喜んだ。
おむにの喜ぶ顔を見たさに、忠直もますます人を殺した。

これをみて、おむにに取り入る奸臣も現れた。名を小山田多聞と言う。
彼はあるときなど、自分の領内の百姓の家に押し入り数十人を生けどり、それを忠直の
試し切りの生贄として捧げ渡した。

こうして松平忠直は、徳川秀忠によって改易されるまで、1万人以上を惨殺した、とも言われる。


陰惨な血の彩りに覆われた、松平忠直とおむにの逸話である。




230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 19:38:31 ID:PrpAjCjM
これまたテンプレ通りな暴君と毒婦だな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 20:07:09 ID:FWI3mkJw
これは酷い
もしかして>>197の側室がおむに?
つうか一国って書いておむにって読むのか

松平忠直の残虐な趣向

2010年07月28日 00:00

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 18:26:37 ID:k2yq5SnQ
暑い夏にこんな話を。

越前の大名、松平忠直は残虐な趣向が好きであった。
彼には妊婦を臼の中に放り込み、杵でついて殺した、などという不気味な逸話もある。

そんな忠直がある時、寵愛する側室と共に家臣の屋敷に御成をすることとなった。
これに側室が甘えた声で言う

「ただ普通に御成りをするのはつまりませぬ。」

「ほう?お前に何か考えでもあるのか?」

「ええ一つとびきり面白い事を思いつきました。殿様もお喜びになると思います。
どうぞ今回の御成の趣向、私にお任せください。」


御成の日

その家臣の屋敷には、入り口から屋内までぎっちりと、無数の罪人の首が並べられていた。
そのあまりの不気味な光景に、屋敷の者たちも付き従った家臣たちも皆、恐れ怯え、
蒼白な顔をしていたが、忠直とこの側室だけは大変面白がり、終始上機嫌で愉快にこの御成を
過ごしたのだという。

松平忠直の残酷な趣味に関する、逸話の一つである。




198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 18:33:26 ID:uKg5gCfr
桜の森の満開の下ですか

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 19:13:18 ID:ovhYHduN
暴君伝説としてありがちなとかうんぬん

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/27(火) 23:23:09 ID:a6YPF0Lp
>>197
ヨーロッパや中東あたりでは珍しくもない話だが
日本ではこういう人あまりいないね・・・