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江口道連の出自

2014年09月14日 18:54

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 12:03:47.44 ID:pXZRTHXC
江口道連の出自

江口五兵衛道連(光清)は天文13(1544)年摂津の斯波頼宗の長男として生まれ初名を国時といい、
後に姓を江口と改めた
永禄5年(1562)年18歳の頃、最上義光に仕え、33歳で戦功を立て、義光より「光」の一文字を賜り
光清と名乗った

畑谷江口一族に伝わる江口道連の出自



789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 07:35:08.21 ID:r+QJpQHy
>>781
ほんとに摂津人なのかね
親父の名前でググると、別人かもしれんが山形での逸話があがってくるんじゃが

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 08:32:09.39 ID:nOmT0qUw
>>789
光姫伝説の斯波頼宗は数代前の話だから、別人だと思われる。

江口氏の摂津出身の話は『畑谷城主・江口五兵衛光清四百回忌供養塔建建』記念誌が元か。

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畑谷城、江口道連の漢の意地

2010年01月11日 00:13

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/10(日) 01:17:41 ID:z8drVaX4
畑谷城、江口道連の漢の意地

奥羽版関ヶ原の合戦といわれる慶長出羽合戦で
最上方江口五兵衛光清(法名道連)は最前線の畑谷城に配置されていた。
直江兼続が山形を攻めた際、進撃の道なりに当然畑谷城も攻撃を受けた。
最上義光は犠牲を最低限に抑え山形城に兵力を集中させるため、

(´・ω・`)「畑谷城のような小城で戦ったって、とうてい持ちこたえることは
できないよ。急いで山形に帰り生死を共にして。義光のお願い」
と再三道連に使者を出し撤退を命じたが、
道連は「我常々この城を預かるは、このような時のため。
敵を目前にして城を捨てたとなっては、殿(義光)の家臣たるもの
末代の名折(恥)。元より命捨てる覚悟あり。忠義の心を後世に残す所存。」
と義光の命令を聞き入れなかった。

直江兼続の降伏勧告も光清はこれも無視し、
兵士・一族500人と共に上杉軍相手に激しく抗戦し、
城兵はすべて上杉勢に討たれた。

後日談
道連が徹底抗戦を決意するに至った時点で、
一族の子女を密かに城外に逃がした。
城から出た子女らは、畑谷から小滝街道沿いに逃げ延び各地に匿われた。
現在の上山市狸森地区・小白府地区・南陽市小滝地区にかけて、
その子孫が現存している。