永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

2017年02月07日 15:24

593 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:10.18 ID:l0/11MB8
永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

 塙(保己一)の『群書類従』の中に、『永禄六年諸役人附』というものがある。
これは足利氏の時代末期のものである。今その所載を抄書する。

「〔上略〕
外様衆 大名在国衆〔号国人〕
    山名次郎義祐改名左京大夫
御相伴 北条相模守氏康        御相伴 今川上総介氏実(真)  駿河
    上杉弾正弼輝虎  越後長尾      武田大膳大夫入道晴信 甲斐
    畠山修理大夫義継 能登之守護     織田尾張守信長    尾張
    嶋津(島津)陸奥守貴久         同修理大夫義久
相伴  伊東三位入道義祐 日向  
    毛利陸奥守元就            同少輔太郎輝元    安芸
    吉川駿河守              松浦肥前守隆信    肥前
    河野左京大夫通宜 伊予        有馬修理大夫義真 
    同太郎義純    肥前        嶋津(島津)薩摩守義俊
    宗刑部大輔    対馬        伊達次郎晴宗     奥州
    松平蔵人元康   三河        水野下野守      三河

関東衆〔以下略〕」

私、松浦清が説明を加える。
・山名義祐は、今交代寄合の山名靭負義問の祖先であろう。義問は六千七百石である。
・北条氏康は、今の相模守氏喬の先祖であろう。氏喬は狭山領主一万石。
・今川氏実は今の高家、侍従刑部大輔義用〔千石〕の祖先である。
・上杉輝虎は、米沢侯斉定の先祖、今十五万石。
・武田晴信は、今の高家、侍従大膳大夫信典〔五百石〕の先祖であろう。
・畠山義継もまた、高家で、侍従飛騨守義宜〔三千百石余り〕の先祖であろう。
・織田信長は、右大臣、今の羽州村山領主、若狭守信美の祖で、今二万石。
・嶋津貴久、義久は、薩摩侯隅州斉興の先祖で、今七十七万八百石。
・伊東義祐は、飫肥侯修理大夫祐相の先祖であろう。今の五万千八百石余り。
・毛利元就、輝元は、長州侯大膳大夫斉元の祖先で、今三十六万九千石余り。
・吉川駿州は、今の長州の属臣、吉川監物の祖であろう。防州岩国の城に居り、六万石を領している。
・松浦隆信は、わたくし清の十世の祖で、道可殿であられる。
・河野通宜は、今の久留島侯、予州の通嘉の祖先であろう。通嘉は今、豊後森領主で一万二千五百石である。
・有馬義真、義純は、今の丸岡侯徳純の祖先で、今越前で五万石。
・嶋津義俊は、誰か未詳だが、きっと今の薩摩侯の先祖であろう。
・宗は、今の対馬侯の先祖であろう。祖先の中に刑部大輔の称を見たことがある。
・伊達晴宗は、今の仙台侯の祖先で、元祖政宗の先祖であろう。今、斉邦は六十二万五千六百石余りを領している。
・松平元康は、かたじけなくも神君であられます。元康は始めの御諱であられる。
・水野下野守は、今水野越州、羽州、日州の先祖であろう。三氏は今それぞれ六万石、五万石、一万八千石。

594 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:34.61 ID:l0/11MB8
 以上のことを見よ。世の興廃はかくの如しだ。これは足利が公方と称したときの外様衆である。
しかし、かえって今は主君であった足利がわずかに御旗本の輩に入っているだけで、
大名在国衆なる者も、あるいは旗本または外藩護衛の身分となっている。

 予の先祖の公や有馬伊東の輩が、恐れ多くも神君の上にあれども、
今となっては皆、御当家を敬拝尊従することに至っている。
これというも、神君の御高徳は仁義知勇を備えられておられる御大勲で、
いわゆる立身行道し、名を後世に揚げて父母を顕す者であられるからだ。
上杉武田の両雄、織田の威顕もいつのまにか跡形もなく、
毛利嶋津伊達の強大も、今はわずかにその旧を保つも結局臣伏し、
ただ水野氏は御当家に新属し、かえって古より富めるに至ったのであろう。

 これというも、日光権宮の御深仁である。
明智は論ずるに足らず。
豊太閤は、まだこの時匹夫で名も無い。しかし、たちまち広大になって、
ついには外国を掠奪するに至っても、その道半ばにして身を喪った。
天がなしたのであろうか。
 我が隆信君の子の法印公(鎮信)君は、豊閤遠伐の役に随われ、
出色の勇武であったが、ついに外国で賊徒の名を負われた。
いまこのように太平の時に随従できて内外で非義不仁の名を負う事が無いのも、
まことに神祖の大恩・大恵に違いない。


(甲子夜話三篇)



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 07:07:58.26 ID:DeSn+Eio
>>593
山名義祐って赤松義祐のこと?

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此の寺の時の太鼓は磯の波

2016年09月01日 17:55

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/31(水) 22:33:15.10 ID:48wVr93/
 光源院(足利義輝)殿が京都四条の道場に陣をとっておられた時、
番の僧が夜九つの太鼓を寝ぼけて七つの時に打ってしまった。
 後で公方から御使いがあってその番の僧が呼ばれた。
きっと折檻に及ぶに違いないとぶるぶると参上すると
様子をお尋ねになられたので

「そうでございます。深く眠っていて、
目覚めると仰天してしまったためです。」

と、ありのままに申し上げると、思いのほかご機嫌が良く

此の寺の時の太鼓は磯の波 おきしたいにそうつといふなる
(この寺の時の太鼓は磯の波のようだ
押し寄せるので波打つというのだなあ)

と遊ばされ、僧には銭を与えられた。

(醒睡笑)




永禄の変

2015年02月05日 18:46

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/05(木) 16:11:12.70 ID:vXXKuKaA
古今の将軍家並びに管領、その他天下に権威を振るった人々の事、時代の移り変わりの有り様を、
ある草庵に蟄居する老人に対し、若輩である私が尋ねて、その答えの内容をあらましを筆に表した。

その言われる事によると、光源院殿(足利義輝)のご自害、同じくご舎弟鹿苑寺殿(足利周暠)、その他
諸侯が討ち死にした事件(永禄の変)のそもそもの事の起こりは、細川右京太夫晴元の被官であった
三好筑前守長慶が、この管領の権威を受けて五畿内に勢力をめぐらし、それを誇って累代主従の義を忘れ、
ついに右京兆に敵対し、当時晴元殿には、他にも股肱の臣、肩を並べる朋輩など居たが、これらを尽く
摂州江口において天文年中に尽く討ち果たした。これによって細川家は没落、言葉も無い有り様であった。

そして三好は甚だしく驕慢を極め、かつて萬松院殿(足利義晴)が朝倉氏を御相伴衆に加えた例を出して
御相伴衆の地位を望み、その後三好長慶は御相伴衆に進み、松永弾正少弼久秀も御供衆に進み、
重ねてほしいままの義であった。

彼らは忝なくも将軍の直参となり、猶以って将軍のために馳せ働くべきであるのに、返ってさらに公儀に対して
違背するばかりであった。そのような状況だったので、双方に遺恨も生まれると察せられ、もしもの時に、
謀反が起こる可能性も考えられた。そうなっては一大事であるからと、将軍家は御館の四方に深溝、高塁、
長関といった堅固な防御施設を造営しはじめた。

しかしながら三好一党は、御門扉以下、未だ工事が完成する前に、急ぎ御所を包囲することに議決し、
永禄八年五月十九日、清水参拝と号して早朝より人数を集め、公方様に訴訟があると申し触れ、その訴状を
捧げ、その内容を受け入れるよう申し請うた。その間に御溝に人数を入れていた。

公方様の母君である慶寿院殿は、訴訟が叶えば公方様の身は恙無いと考え、「如何様なりとも受け入れるように」と
泣きながらご意見を様々申し上げられた。そのご心中は察するにあまりあるもので、見る人聞く者、皆袖を
濡らしたのである。

訴訟受け入れの是非を伝える御使が館を出ると同時に、土居の四方より軍勢が侵入し即座に鉄砲を放ち、
殿中へと乱入しようとした。これを防ぐ諸侯は数百人あった。中でも進士美作守はこの訴訟の御使として、
様々に折衝したことを不覚であったと憤り、その場で自害した。
同朋衆である福阿弥は鎌鑓で相戦い、この鑓にかかるものは数十人あった。

御所様は一同に最後の盃を下し、細川宮内少輔は御前に控える女中衆の装束を着て立ち上がり舞を舞った。
その姿は優にして遅れたる色もなかった。

さて、それから御所様は御前に利剣を数多立て置き、これを度々取り替えながら敵を切り崩し、
その勢いに三好勢は恐怖して、半ばは向かってこようともしなかった。そこで義輝は刀を放り投げ、
敵の処卒に取らせるようにして、近づいてきた所を斬った。こうして重ねて御手にかかる者達も数名あった。

近習の内志あるほどの者達は御先に進んで尽く討ち死にした。残ったのは女房衆と、まだ幼い者達ばかりであった。
彼らが御一緒となって幾千万の軍兵と戦ったのは、かつて項羽がその十万の騎兵をわずか二十八騎にまで討ち
減らされても、漢軍百万余騎を駆け破り、大将三人の首を取って鉾に貫いたという話に類するものであっただろう。
こうして、足利義輝はその最後を遂げた。

ご舎弟鹿苑寺殿の元へは、三好方より平田和泉という者が差し向けられ、同刻、御生害された。
彼の御供衆は尽く逃げ去ったが、その中に日ごろ目を掛けられていた美濃家小四郎と言う者が、
彼は若年であったが、即座にこの平田を討った。その身卑賤であったが、名を後代に残す者であった。

御次男である一乗院殿は御生害には及ばず、三好、松永を粗略にしない書面を提出した。
(永禄記)

永禄記より、将軍義輝が暗殺された永禄の変の模様である。





足利義輝の母について

2015年01月18日 17:13

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 19:10:21.80 ID:A1D2OVqA
足利義輝の母について
「仕えている侍女たちは、ヨーロッパと何ら変わるところはない。
ただ荘重さのために、髪を引きずって後から取らせ、一パルモか二パルモの長さだけ、地上に靡かせている点が
異なるだけである。
私には公方様の母君は修道院の女子修道院長のように、他の家の者達は修道女の教団のように見えた。
というのは、その屋敷の静寂、節度、それに秩序が大いなるものであったからであり、とくに公方様の母君が
阿弥陀像の、大変美しく、珍しい装飾を施した礼拝堂を背にしており、その阿弥陀像は幼子イエスのように
彩色され、金の冠と光背を頭にした大変美しいものだったからである」

ただしフロイスが「幼子イエスのように」としているのは宣教師として言語道断ということで「少年のように」
に変えられたらしい。
新井白石も「キリスト教ではロザリオだの洗礼だのやるそうだが、数珠と潅頂の影響だろう」
とかキリスト教と仏教の類似を指摘してたなそういえば




将軍足利義輝側室、小侍従殿の最期

2015年01月17日 17:16

262 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 21:56:54.43 ID:uH5L2ZRf
永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好三人衆や松永久秀による将軍・足利義輝の暗殺、
いわゆる「永禄の変」が起こる。三好勢は将軍義輝を殺すと、その刃は関係者に向かった

『三好殿はあらゆる物を焼きつくし、宮殿の一部たりとも残さないようにと命じた。
都における動乱と残虐行為は非情なもので、それを見たり聞いたりした人々に少なからず憐憫の情を催させた。
すなわち、公方様の家臣なり友人は、どこで見つかろうと直ちに殺され、その家財が没収されたからである。
さらに三好殿は、公方様に仕えていた人々が住んでいる郊外一里の所にあった二ヶ村を侵略し破壊するよう命じた。

(中略)

公方様の婦人は、実は正妻ではなかった(側室の進士晴舎娘・小侍従殿)。
だが彼女は懐胎していたし、すでに公方様は彼女から二人の娘をもうけていた。また彼女は上品であった
だけでなく、公方様から大いに愛されていたので、近日中には彼女にラィーニャ(奥方)の称号を与える
事は疑いないと思われていた。何故なら彼女は、既に呼び名以外のことでは公方様の正妻と同じように
人々から奉仕され敬われていたからである。
彼女はこの変による火災と混乱の中、変装して宮殿から逃れ得た。

謀反人たちは早速数多くの布告を掲げ、彼女を発見したものには多額の報酬を取らせ、彼女が身籠っており、
男児を出産すればいつしかその子は成長して自分たちの大敵となりえるので、是が非でも彼女を殺さねばならぬと
言っていた。

その報酬の約束が煽った貧欲の力、もしくは科された刑罰への極度の恐怖心は、いとも高貴で今は寄る辺ない
夫人に対して、当然抱かれるべき人間らしい感情や憐憫に勝ったらしく、彼女の居場所はたちまち暴君たちに
告げられた。彼らは彼女を、都の郊外の何処かで殺すように命じ、彼女を乗せる為のリテイラ(駕籠)を
彼女のところに遣わした。

この不当な命令を執行することになった人々は、彼女にこう言った
「御台様はもはや都にお留まりになる事、叶わなくなりました。よって別の所にお移り頂くため、この駕籠が
届けられた次第でございます。」

彼女は郊外の一寺院に籠っていた。そしてその知らせがもたらせるとただちに、三好殿と霜台(松永久秀)が
自分を殺すように命じたのだとはっきりと悟った。そこで彼女は紙と墨を求め、当時まだごく幼かった
自分の二人の娘に宛てて、非常に長文の書状をしたためた。それは後に、これを読んだ人々すべてを感動させ、
読み聞かされた者は誰しも皆涙を流した。ついで彼女はその書状を封じ、晴れ晴れとした顔つきで僧院を出、
仏僧たちに対して、自分がその僧院でいとも親切に迎えられたことや、三日間というもの、そこで客遇され
敬意を表せられたことに感謝した。

そこから、三好の使者たちは彼女を駕籠に乗せて、都から約半理隔たった東山、すなわち東の山にある
知恩院という阿弥陀の僧院の方向へ連れて行った。そして彼らが四条河原と呼ぶある川辺に来た時、
彼女は同行者たちに
「あなた方が私を殺すことに定めている場所はここなのですか?」
と尋ねた。彼らはそれを否定し、「安心されよ」と言った。そして彼女は知恩院に導かれると喜んだ、
というのは、彼女にとってそこで死出の準備をするのは非常に好都合だったからである。
内裏の親族で、甚だ高貴な僧侶であった同僧院の長老が彼女を出迎えると、彼女はその人に次のように語った、
それはそこに居合わせた人たちから、後で報じられた。

263 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 21:57:31.97 ID:uH5L2ZRf
「尊師はおそらく、今私を、このような有り様でご覧遊ばすとは、よもやお考えにならなかったでしょう。
ところで、この度の事は私の名誉にとってひどい仕打ちでありますが、公方様も宮殿もあのような惨めな結末と
なりましたからには、私一人この世に留まることは相応しくありません。さらにまた、私が公方様に
こうして早々とお伴出来ますことは良き巡り合わせと存じます。そして何にも増して、私に喜びをもたらし
お頼り出来るのは、まもなく阿弥陀の栄光のもとに公方様と再会できるという思いでございます。
そして私は身重でありますから、生きながらえる間に私がある重い罪を犯したことは疑いを容れません。
そのために私がこのような死を遂げることは、多分相応しいことだったのでございましょう。」

次いで彼女は自分のために葬儀を行ってくれるようにと僧侶に懇願して、袖から86クルザードの価値がある
金の延棒2本を取り出し、纏っていたマント(上衣)を添えて、布施として差し出した。

その仏僧は次のように答えた
「拙僧は修行者でありながら、御台のご様子、並びにご事情に接しますと落涙を禁じえません。
さりながら公方様は、先に述べられたように身罷り給い、そのお世継ぎも運命を共に遊ばしました。
御台の公方様に対する愛情はいとも深いものがあったからには、御台が公方様のお伴をお望み遊ばされるのは
いかにもご尤もと存じ上げます。御台のご葬儀とご供養の儀は、拙僧しかと相果たします。

御下賜のご布施は、拙僧の末寺の間に分け施し、その諸寺においても大いに心をこめて供養を相務めるでしょう。
これについて、ご安心遊ばされたい。」

ついで彼女は阿弥陀の名を十度唱え、その仏僧から、十念と称されている罪の完全な赦免を受けた。
それから彼女はもう一度阿弥陀の祭壇の前で合唱して祈った。そして彼女がある知人の墓を詣でようとして
寺院を出た時に、彼女の首を刎ねることになっていたナカジ・カンジョウという兵士が抜刀して彼女に
近づいた。彼女は時至ったことを認め、跪いて阿弥陀の名を呼んだ。そしてその兵士が来ると、公方の宮廷の
習わし通り、束ねないでたらしていた頭髪を、兵士は片手で高く持ち上げた。

ところが、彼が彼女の首を刎ねるつもりで与えた強い一撃は、彼女の顔を斜めに切りつけた、
小侍従殿と称されたこのプリンセゼ(奥方)は言った

「御身はこの勤めを果たすためにまいられたのに、いかにも無様でござろうぞ!」

そして第二の一撃で、兵士は彼女の首を切り落とした。

かくてその後の日本人たちは、彼女は身重であったから、その再二人を殺したことになると言っていた、
彼女が懐妊していた子供は生まれる前に殺されたのである。そしてその場に居合わせた人々の内、
この悲惨な情景に多くの涙を流さぬものは一人としていなかった。
ルイス・フロイス「日本史」)

将軍足利義輝の側室、小侍従殿の最期の模様である。



265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 01:43:31.56 ID:cQ0PWvRE
しかしフロイスの記述は臨場感溢れるものが多いな

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 02:26:54.33 ID:PzY251zO
小説家になれる才があるよ

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 14:18:26.67 ID:mjMt0GNe
フロイスはヨーロッパの「上流階級婦人の処刑シーン」の定型をそのまま当てはめたのでは。
将軍を皇帝に、僧侶を牧師に、阿弥陀をキリストに、名前も欧風にしたら、そのままヨーロッパでも通じるんじゃないか。

足利義輝の室町御所

2014年04月14日 18:53

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 16:35:50.80 ID:AUVkqdDj
足利義輝の室町御所

「公方(足利義輝)様の御殿は深い堀に囲まれ、幅の広く造りのよい木橋が架かっていた。
入口には伺候するために各地から集まって来た三四百人の貴人がいる様であった。
また御殿の外の広場には多数の馬や輿が停まっていた。」
「極めて清潔で親しみを覚え、快適であった。
窓の外には杉、松、小さなオレンジ(蜜柑)や我等の国では名も知らぬ種類のみずみずしく
青々とした珍しい木々が植えられた庭があり、実に巧妙に培い、手入れされていて、あるものは
ベル(鐘)の形、またあるものは塔の形及び様々な形をしている」

ルイス・フロイス『日本史』

織田信長によって造り変えられ、二条城になる前の室町御所の風景。
諸大名の居城だけでなく、将軍様の所にも宣教師が上がり込んでいた記録。





永禄改元と足利義輝

2010年08月20日 00:00

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 05:24:37 ID:0YH424Xl
1558年2月、改元の詔が出され元号が弘治から永禄に改められた。
通常、改元が行われた場合、朝廷から幕府に通達され幕府が諸経費を負担していた。
しかし当時将軍であった足利義輝は三好長慶との戦いに敗れ、近江国朽木谷で5年近く
亡命生活をしていた為、朝廷は改元した事を義輝に連絡しなかった。

何も知らない義輝は失墜した将軍の権威を復興すべく、各地の有力大名に助力を求めて
書状を送っていたのだが、書状の中でも弘治の元号を使用し続けていた。
6月になりようやく改元の事実を知った義輝は激怒し朝廷に抗議をするが、後の祭りで
書状を受け取った大名達は改元された事すら知らない将軍を侮り、
その権威はさらに失墜してしまったのであった・・・




548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 09:14:27 ID:GesOHrhZ
京から朽木なんてすぐに行けるし朝廷はわざと教えてないな
毛利みたいにしっかり献金してるとこには改元の事教えてるし

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 09:50:21 ID:2ubUIU0y
>>548
>朝廷から幕府に通達され幕府が諸経費を負担していた。
これでしょ。教えてもあの羽振りじゃ献金不可能だから教えても意味ないと。
やはりいつの時代も世の中金だね。

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 10:07:11 ID:HvSs3wXX
>>549
正親町天皇が即位するときに毛利元就の他に三好長慶も献金してるから
長慶と敵対してる将軍に教えなかった可能性もある



552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 13:41:29 ID:p9GEypzu
>>547
某テル「俺がいまいちなのは名前のせいだった、俺は悪くない」

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 13:52:13 ID:6/FmrIf1
>>552
「義」のほうをもらっておけばよかった、ということか

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 14:02:07 ID:4anaXHxj
朝倉義景「私のようになりたかったわけだな輝元くん」

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 14:02:39 ID:p9GEypzu
>>553
中国一の弓取りになれたのに・・・

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 14:07:52 ID:4anaXHxj
と言うか気になって調べてみたが

・足利義輝の偏諱で「義」の方をもらった人物
朝倉義景(滅亡)、尼子義久(滅亡)、三好義興(松永久秀の手で毒殺?)、武田義信(切腹)、
最上義光(死後改易)

まともに家を保ったのは島津義久くらい。

…「輝」でよかったんじゃね?

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 14:23:21 ID:U52upxaZ
輝宗を考えたら、輝だって

いや、息子が名を馳せて家を栄えさせたから、義よりかはマシか

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 14:44:52 ID:v/7bCB2L
>>556
義輝の義をもらって滅亡に大内義長もいれといてー

559 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/19(木) 14:48:11 ID:6uexNkDy
上杉輝虎
毛利輝元

一応、幕末まで家は残ったな。お互い関ヶ原における家老のふるまいのせいで小さくなったけど。

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 14:59:53 ID:iWJef3NF
>>556
>最上義光(死後改易)
これはこじつけすぎんだろ
あと三好義継も入ってないぞ

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 15:21:19 ID:0ZxT7HPT
義輝と改名する前は義藤と名乗ってて
細川藤孝、足利藤氏、一色藤長なんかが一字拝領してる


毛利藤元・・・すごい雑魚武将ぽくてぴったりだと思うんだけどw


562 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/19(木) 15:27:48 ID:F9F0cpWL
それを考えると義もらって残った相良強ええ

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 15:39:57 ID:v9UrlJCz
辺境で邪魔にならないから、周囲から忘れ去られていただけ
陸の孤島の地の利が活きた


564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 15:40:15 ID:gTzMYHR4
しかし当の義陽さんは親友と戦わざるを得なくなって討ち死にしてるし……

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 17:57:41 ID:iKsp6cSj
>>564
汚い流石島津汚い
そして甲斐さんカッコ良いです…


566 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/19(木) 21:03:29 ID:++GALCsx
>>547
改元の宣旨があると、東国は半年以内くらいで改まるのに、畿内と西国は2年以上かかる例がよくあったりして。
意識の違いがはっきりしてますよね。

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 23:27:58 ID:tScjh9A9
でも東国では私年号が使われてたとか聞くけど?

568 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/19(木) 23:39:04 ID:wuziK0XY
>>567
頼朝とか持氏の時期じゃないの?
中央(平家、将軍)の改元には従わないって意味で

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 04:40:44 ID:QvJYit8o
>>547
清原枝賢が改元について、三好方へ「返書」を遣わすなど、永禄改元に
ついては三好氏が関与していた可能性が指摘されてるんだよね。
ほかにも長慶は朝廷内部の相論を裁許したり、義輝に従う幕臣・公家の所領を没収すると
宣言したり(結果途中で義輝から離れて都へ戻る公卿や幕臣が出ている)、公家の
家督問題に介入しようとした可能性があるなど、公家社会への影響力を増している。

ちなみに、義輝が天文22年の帰京した際には「朽木へ見舞いに来なかった公卿は
見参を許さん」と通達しており、公家社会への統制力を保っていたんだけど、この弘治~永禄初期は
朝廷との関係だけでみても、将軍の権威はかなり失墜しているんだよね。
近衛晴嗣が将軍からの偏諱を捨てて「前嗣」と名乗っているのもこの時期のようだし

足利義輝、激怒する

2010年02月10日 00:06

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 02:03:41 ID:JbK359LW
足利義輝、激怒する

永禄年間のこと、ある相論が政所沙汰によって処理され、政所の長官
伊勢貞孝がこれを裁定したことがあった。
敗訴した側が将軍足利義輝に泣きついたために、義輝は政所沙汰の
過程を調査しようとする動きを見せたが、それに対し松永久秀が噛み付いた。

久秀が言うには「義輝の行為は政所沙汰の裁決を改変しようとする意図のものであり、
そのようなことは伊勢貞孝の面目を失わせるものであるから、容認はできない」
ということだった。
(伊勢氏は三好長慶入京以来、三好氏と緊密な関係を築いており、貞孝は義輝の朽木敗走へ随行していない)
これに対して義輝は、沙汰の改変という意図はないと弁明したものの、やはり久秀の回答は同じだったため、
ついに義輝も激怒。

「少ひつ、よきやうにいたし候え(弾正、好きなようにするがいいわ!)」と「あらあらと」言うに至ってしまった(「蜷川家文書」774)。

さらに、上野信孝などといった義輝の近臣たちも久秀を批判しており、結局久秀は裁定の改変は拒否したものの、
判決に至るまでの経緯の調査については、譲歩を示すという形で決着を見たとのこと。
積極的に独自の活動を行おうとする義輝とそれを掣肘しようとする三好氏(松永久秀)の図だが、結局両者の関係は
将軍殺害という形にいきついたのだった、という話。




375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 03:52:21 ID:VzTu9/4Q
>>374
伊勢貞孝はこの後三好、松永とも関係を悪化させて、失脚、最終的に
滅ぼされて、幕府政所の伊勢氏支配を終焉させることになるが…

幕府の京都行政の中心である政所が実質的に解体されたのは、
義輝に取ってよかったのかどうか、考えどころだなあ。


376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/09(火) 09:34:24 ID:CJ1k701r
>>376
実はこれが契機になって後北条が上方との繋がりを決定的に絶たれ
後年の滅亡の布石を作ったってトンデモ説見たなあ
面白いけど

足利将軍の近臣・進士家の話

2009年11月09日 00:10

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/08(日) 02:02:47 ID:WoDzLfn7
足利将軍の近臣・進士家の話

天文20年3月、伊勢貞孝邸宅に三好長慶が招かれた時のこと。
どこからか刺客が紛れ込んでおり、歓待を受けていた長慶に斬り掛かってきた。
長慶は2太刀斬りつけられ負傷したが、その刺客は直ちに取り押さえられて
拷問にかけられた。すると、その刺客の正体は幕府奉公衆・進士美作晴舎の
甥・九郎賢光であり、将軍の命で長慶暗殺を試みていたことが判明。
賢光は直ちに処刑された。

それから十数年のこと。松永久秀父子や三好三人衆が将軍を襲撃したときのこと。
三人衆はまず訴えるべきことがあると称して訴状を出したが、このときに
取り次いだのが賢光の叔父・進士美作でしたが、この内容をみた美作は激怒し、
直ちに自害。当然この訴状は兵士をなだれ込ませる方便に過ぎなかったわけで、
三好勢が攻め込んでくると、進士美作の子息は幕臣として戦うべく討ってでた。

・・・ところまでは良かったがフロイス『日本史』によると、最初の敵と戦おうとしたところ、
いきなり進士美作の子息は殺されてしまったそうな。将軍義輝はもとより、摂津糸千代丸など
年少の者についても、立派な最期を遂げた話があるわけで、どうもパッとしない。
それにしても、賢光といい、美作父子といい、肝心なところでサッパリ役に立たない感があるのは
気のせいでしょうか?




75 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/08(日) 08:54:09 ID:OYFCW2lj
鬼がいなかったッス
だから室町幕府は滅びたッス
一家に一匹はいないと戦乱の世は乗り切れないッス

76 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/08(日) 09:48:32 ID:YQaOk6bN
信虎さまが将軍家にたまたま居候していれば…つか肖像画からして怖いし。

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/08(日) 11:44:58 ID:vPPfrzvH
ああ、あのチソチソ頭の肖像画

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/08(日) 12:52:25 ID:XUdFjP8i
>>75
義輝さん本人が鬼(ry

足利義輝と初老の僧・いい話?

2008年10月16日 10:34

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/21(月) 20:42:14 ID:+Rkb0OTe
足利義輝が将軍になった頃のお話。

ある初老の僧が、大変有能で気が利くので、義輝が「還俗して侍としてわしに仕えないか?」と言う。
しかしその僧は、

「わたくしは、8つ9つの頃に出家いたしまして、それから一心不乱に修行をし、ようやくこの齢になって
仏の道の何たるかが解るようになりました。もはや俗事に関わる気はございませぬ」

と、断った。
一同これに感じ入り、将軍はさらに仕官を勧める。そこで根負けしたこの僧は

「わたくしは無理ですが、私の息子ならば追い使って頂けますかと…」


義輝「…」
幕臣一同「…」

義輝「息子って…養子?」
僧「いいえ?実子。」
義輝「お前何歳のときに出家したって言った?」
僧「8つ9つ」
義輝「…」

僧「あ」