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言継卿記より、本圀寺の変について

2020年10月28日 17:49

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/27(火) 22:08:30.83 ID:AXIGWCDj
永禄十二年
一月四日
南方より敵(三好三人衆)が出張し、塩小路まで出てきたという。東岩倉の山本は敵になったという。
勝軍の城が焼かれ、その他田中、粟田口、角社一間、法性寺など、多く焼かれた。ぬかの小路は殆ど焼かれた。
京中は以ての外の騒動と成っている。

五日
三好日向守(長逸)、同下野入道釣竿(宗渭)、石成主税助(友道)以下、今日悉く本圀寺に取り詰め
これを攻め、午の刻(正午頃)に合戦、寺の外は焼かれ、中堂寺、不動堂、竹田などが放火された。
武家(足利義昭)の御足軽衆以下二十余名が討ち死にしたという。攻め手の衆も、死人手負いが数多あるという。

六日
内侍所の簀子より遠見をした。南方は所々放火され、四、五百ほどの人数が如意寺の嶽を越え、志賀は
少々放火されている。晩頭に帰る。南方(三好三人衆勢)の事について聞くと、方々で彼等は敗北したと言っている。

三好日向守以下は七條に向かったが、これに西より池田、伊丹衆、北より奉公衆、南より三好左京大夫(義継)が
彼等と戦い、三好義継が鑓を入れ、三方より斬りかかったため、三人衆以下は申の刻(午後四時頃)敗軍し、
多くが討ち死にしたという。その後黄昏に及んだため、殊更の事は無かった。

七日
七條において、昨日討ち死にした衆は千余人という。ただし彼等の名字や特徴は解らないという。
石成主税助は北野の松梅院に逃げ入ったという。そこに各々討ち入り、松梅院は破却されたという。
久我入道愚庵(晴通)によると、細川兵部大輔(藤孝)、池田筑後守(勝正)の姿が見えないという。
三好日向入道以下は、各々八幡へ落ちていったという。

九日
耆波宮内大輔が礼に来て、盃を勧めた。三好左京大夫、細川兵部大輔、池田筑後守等は西岡の
勝隆寺へ、昨夜入ったと言うことを雑談した。

十日
美濃より織田弾正忠(信長)上洛、松永弾正少弼(久秀)も同道したという

言継卿記

言継卿記より、本圀寺の変について



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「御小袖」鳴動

2020年10月19日 17:51

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/19(月) 13:29:43.01 ID:dubGELOS
永禄八年六月十五日

大和(大和三位入道宗恕家乗)と、武家(将軍家)の御小袖(足利尊氏が着用し、将軍家伝来の白威の大鎧)の
間での、鳴動について雑談した。

普広院殿(足利義教)が殺された時、兼日鳴動した。慈照院(足利義政)の御代にも鳴動し、そのため
御座所を改めた所、常の御座所は悉く転倒したという。
そして今度(永禄の変)でも鳴動し、また後日に重ねて、一日に三度鳴動したという。であるのに、
足利義輝は)御用心がまったく無く、故に御運が盡きたのだろう。

言継卿記

「御小袖」鳴動について



423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/20(火) 14:42:26.52 ID:WJP5InwS
二条御所の防衛強化したり
フロイス日本史だと、
前日に京都脱出しようとして説得されて思いとどまってるなど
間違いなく危機感があったようだけどね

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/20(火) 15:27:53.81 ID:klQ4c8bJ
長慶の死亡を知らないのにどうして危機感を覚えたんだろ
なんか最近三好勢の当たりが強いみたいなのがあったのかな

光源院殿の葬礼

2020年10月17日 17:27

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 22:28:43.99 ID:O+cHCO8f
永禄八年六月九日

光源院殿(足利義輝)の葬礼が等持寺に於いて、寅刻(午前四時)より、夜明けに及ぶまで行われたという。
しかし、前々には悉く参っていた昵懇の公家たちは、今日、一人も参らなかった。また五山十刹、諸宗などによる
読経も悉く無かったという。ご子孫がなかった故であろうか。
葬礼に在ったのは、相国寺衆、奉公衆、奉行衆ばかりであったそうだ。

言継卿記

言継卿記より、足利義輝の葬儀について。三好に睨まれるという恐れもあったのでしょうが、薄情なものですね。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 00:32:01.78 ID:Nku6hMSe
山科卿も伝聞ってことは行ってないのか

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 00:41:15.72 ID:B76PdEkK
言継は義輝の昵近公家じゃないしね。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 01:51:51.31 ID:ed/YEY0g
暗殺した連中に葬儀されてたら誰もこんわと思ってたけど、それは政元だったかな?

永禄の変についてのフロイスの報告

2020年10月14日 17:06

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 15:27:20.15 ID:fVPTpVlb
翌日、即ち一昨日、聖三位一体の日曜日の朝、三好殿(フロイスは長慶としているが義継)は騎馬の士約七十を
率い、偽って(京都)市外約七十レグワの寺院(清水観世寺)に遊ぶとして、少しばかり市外に出た後忽ち
引き返して、公方(足利義輝)の宮城に向かった。朝のことであり公方様の邸に在った者は二百人に過ぎなかった。
しかも多くは都の主だった大身であったが、直ぐに三好勢一万二千人に囲まれ、三好殿は宮城の堀に架けた
一の橋に至る一門に向かい、他二人の領主(松永久通、三好長逸か)は他の門に向かった。

城内にては、このような意外の叛逆を予想せず、門は悉く開かれていたため、銃手の大集団が侵入し、
公方様に対し、書付を呈したいと欲した故に、こちらに来てこれを受け取るようにと述べた。

前に報告したように、我々の教会に招待したこともあり、また公方様の昵近者にて我々を公方様に紹介した
老人(進士晴舎)が出て書付を受け取り、直ぐに読んだ所、第一に、公方様がその妻(側室)、即ち同老人の
娘を殺し、又他の多数の大身達を殺す事で。それが行われれば平穏に退出する、と云うことであった。
老人はこれに欺瞞を見て、書付を地に投げ捨て、主君である国王に対し、この如き叛逆を起こす者の、畏れ無く
恥無きを大いに責め、既にこのような状況であれば、彼自ら腹を切るべしと云った。

諸侯が敵に抵抗すること能わざる時は、短剣を取っておのれの腹を切るのが日本一般の最も古い習慣にして、
君臣共にこれを行う。

老人は内に入り、公方様の前に於いて自殺した。そして我等の親友であるその子(進士主馬允)が邸より出て
三好勢と暫く戦ったが、間もなくこれは殺され、外より邸に向かって激しく銃が放たれた。
この時公方様の武士四人が門前に来て、門を敲いて開くように求めたが、内より今これを開く事は出来ないと
答えられると、彼らは短剣を抜いて腹を切って死んだ。

暴君らの悪心は益々増長し、この上彼らの希望を延期することは出来ないと、宮殿に火を放つよう命じた。
公方様は外に出ようと欲し、その母と抱き合った。彼女は我等が大いなる歓待を受けた老婦人である。
公方様は火災、及び必要に迫られ、部下とともに戦を始め、腹に一鑓、頭に一矢、背に刀傷二つを受けて死んだ。

公方様の兄弟である、二十歳の青年の坊主(周暠)はその母とももに家に在ったが、(三好勢は)直ぐに
これを殺し、母を捕らえた。彼女の命を助けるべしと云う者、またこれを殺すべきという者があったが、多くの
刀傷を与え、子の側においてこれを殺した。

大身達の娘である宮中の婦人たちは、焼失した宮殿より出てきた所を、兵士たちはこれを斬り始めた。
十五人、乃至二十人が武器を恐れて宮殿の一の家に入ったが、その後火を逃れることが出来ず悉く焼死した。
また数人、外に出た者があったが、兵士たちはその衣服を奪った。その中に王妃(近衛稙家娘)が在ったと
云われるも未だ発見できず、今、刑に処するためこれを捜索し、その居る家を告げる者には巨額の金銭を与え、
またその髪を取って(捕縛して)彼らの前に連れてきた者には一層巨額の金銭を約束した。

公方様の娘二人が、兵士の足下に捨てられていたが、一人のキリシタンがこれを見つけて、救って屋内に
収容することを請うた。
十三、四歳の少年武士は、公方様の面前にて戦を始めたが、叛逆者たちは生きながらこれを捕え、殺さない
ようにと努力した。少年は公方様が死んだのを見て、生存するのは大いなる不名誉と考え、手中の剣を捨て、
短剣を取って少しばかり喉を切り、次に腹に当ててその上に伏した。
最も愛する者よ、これによってこの国民の、生命を惜しまない事がいかに甚だしいかを見るべし。

『一五六五年六月十九日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

永禄の変についてのフロイスの報告。これを素直に読むと、進士晴舎の切腹に激昂した息子の主馬允が
取り囲んでいた三好勢に戦闘を仕掛け、それに三好勢も反撃して戦闘が拡大した感じですね。



408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 15:39:12.60 ID:W9XfORRk
長慶の死亡の秘匿の保持されっぷりはなんなんだろうね
信玄とか秒でばれてるのに

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 16:17:46.24 ID:blxpQOBl
想像だけど、長く臥せていたから死の前後であまり変化がなかったんじゃないかと
信玄なんかは勝ってたのがいきなり撤退してこれからは勝頼が~だもの

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 17:31:21.23 ID:KvZqtLJB
長慶は晩年がアレなんで、政治的には死んでも大した影響が出ていなかったので隠せたのかもしれない。

正月の足利義輝謁見の様子

2020年10月11日 16:24

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/11(日) 00:16:50.80 ID:21YW+/jL
私はパードレ・メストレ・ベルショールの同伴した少年の所有していた、金襴の飾りの在る
古い長袍、及び船室に用いていた古毛氈一枚を豊後より持参していたが、パードレはこの毛氈によって、
開いた広袖の衣を作り、この衣と長袍を着し、その上に甚だ美麗なる他の衣を着し、黒頭巾を被った。
私はキモノとポルトガルの羅紗のマントを着し、準備を整えた。

パードレは輿に乗り、私は他の輿に乗ったが、支那の大官の用いる、閉じ囲んだ椅子に似ていた。
十五、ないし二十人のキリシタンが同行した。私は他の品も持っていないため、硝子の大鏡、帽子、琥珀、
沈香少量、及び竹の杖を持参した。
我等の住院より公方様(足利義輝)の宮殿(二条御所)に至る距離は一レグワの四分の一にして、道は真っ直ぐ、
かつ平坦であった。

我等は先ず、身分甚だ高き料理番頭(大炊頭の事か)の家に赴いた。彼は公方様の宮廷に於いて最も重用
されている者の一人であったが、その時は外出していたためその長子が出て、我等を大いに歓待し、
鍍金の器を以てカカンゾキ(cacanzoquy)を与え(盃か)、次いでその父も来たが、我等は彼に沈香少量を贈り、
共にその家を出て宮中に赴いた。

公方様の邸は甚だ深い堀を以て囲み、橋によってこれを渡る。邸外には兵士三、四百と多数の馬があった。
パードレ及び私は中に入ったが、大身たちは皆大いに我等を厚遇した。我等は一室に入って暫く待っていたが、
これら武士はその外に居た。

次いでパードレはかの老人とともに、更に二室を進み、公方様が我等を待っている場所に到った。
老人は礼を成して退き、私は侵入したが、ここで私は尊師に証言する。私は今日まで、全く木造にして
このように好く、美事なる家を見たことがない。どういう事かと言えば、公方様の居られた室の布(襖か)は、
尽く金の繍を施して、蓮及び鳥を写した、甚だ精巧にして種々の技巧が加えてあった。
窓の格子は嘗て見たものの中で最良のものであった。

外より三番目の室に在った時、(我等を案内した)料理番頭をして、パードレの着していたカバ(マント)は
「メンズラシ」(珍しい)、即ち我が国語にて美麗なる物であるので、これを見たいと伝え、これを持ち去り、
直ぐに還付された。

次に一室の中央にある他の戸を開くと、そこに王妃(近衛稙家娘)が座しており、老人は沈香を献じた。
我等が戸の外より礼を成したる後、老人とともに公方様の母(慶寿院・近衛尚通娘)の家に行った。
この家は同一の地所の内に在るが、他の庭を有していた。我等は三、四の甚だ美麗にして、また装飾を施した
室を通り、一室に到ったが、室には多数の婦人が座していた。老人はパードレのために、定例の紙(杉原紙)、
及び金扇、私のために金色の磁器を公方様の母に献じた。次にカカンゾキ、すなわち飲むに用いる盃を
持ってきた。彼女が先ずこれを取り、次に婦人等をして、これを我等に与えしめ、また我等の間における
オリーブの実と同じ「サカナ」(肴)を、食事の際に用いるファシ(箸)、即ち棒を以て自ら我らに与えた。
もし宮廷で寵愛を得ようとする者ならば、これを以て名誉と喜ぶであろう。

公方様の母は某寺院の女長老、その他家人と共に在った。その静寂、謙譲、整頓された様子は、私をして
僧院に在るかのような思いを成させた。
公方様の母は阿弥陀の堂の戸を後ろにして座していたが、堂は清浄なる装飾を施し、阿弥陀の像は
端麗なる少年のごとく色彩を施し、冠を被り、頭より金の光線を発していた。
我等の主デウス、彼を導きデウスが創造主、および救主であることを知り、彼にのみ仕えるに
至らしめ給わらんことを。

我等は最初に立ち寄った料理番頭の家に到った時、彼らはデウスの事について長い説教を聞くことを
求めた故に、これに応じたが、彼らは大いに喜んだ。

『一五六五年三月六日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

フロイスらの、正月の足利義輝謁見の様子



626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/11(日) 16:42:48.86 ID:JOvvvpsA
阿弥陀にやられそうになってて草

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/12(月) 08:45:34.32 ID:t/jZIG41
「日本通信」版では「少年のように」だけど
1565年3月6日書簡版では
「幼子イエスのように」
とキリスト教徒としてかなりやばい表現という

足利義輝に対する正月の進物儀礼

2020年10月10日 16:04

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/10(土) 00:43:35.73 ID:p7Z90aGV
本年(1565・永禄八年)の日本の新年は、我々の暦の二月一日に当たる。
当国各地においては、月の九日より十五日、又は二十日まで、諸侯は国王を訪問し。進物を献ずる
習慣であり、特に都においては、公方様(足利義輝)は至高の皇帝である故に、この習慣を守っていた。

公方様を訪問する者は、彼に服従しているわけではないが、みな高貴なる諸侯、又は身分高き坊主であり、
その際には各人、我が国の紙に比べて甚だ大きい紙(杉原紙)十帖と金扇を携帯するのが、古来の習慣
である。これらは献上の後、武士である僕がこれを受け取るのが例である。
そして公方様の母、及び后を同様に訪問し、或いは高価なる品、及び武器を献ずる者もある。

王は何人に対しても一言も発せず、ただ収入、及び所領多き数人の坊主に対し、少しばかりその手に
携えた扇を傾けるのみであった。

公方様を訪問出来るのは、その地位の名誉あり、また尊貴なるに因る。身分低き者は、たとえ黄金の家を
贈ったとしても訪問を許されることはない。
パードレ・ガスパル・ピレラはキリシタンたちの幸福のため、并びに異教徒がデウスの教えを軽蔑しない為に、
公方様を訪問する必要があった。また、これを成すことにより、パードレは公方様の保護を受けるに至る
ためにも、一人の大身の武士を介して、年頭にあたって拝謁をした。この人(大身)はおおいに
キリシタンに成ることを望んでいたが、戦争の際殺された。

日本人は外形を整えていなければ、その人を崇敬しないが故に、パードレはこの際、平常のごとくに
していては宮廷に入ることを許されず、主の栄光とキリシタンの幸福のため盛装をする必要があった。
最初の二回の訪問には。法衣と袈裟を着け、頭には朱頭巾を被ったが、他の二回はキモノを着し、
その上にポルトガルの羅紗のマントを着た。

『一五六五年三月六日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

足利義輝に対する正月の進物儀礼について



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/10(土) 08:31:38.87 ID:CvXxK6f+
旧正月か

現在、公方様はただ

2020年09月30日 17:55

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/30(水) 13:07:20.15 ID:y9xqxqNT
日本においては、諸人が日本全国の首である都に居住し、公方様と称する至高の君に服従すること、
(諸記録によれば)約四百年であるが(頼朝開幕より三百八十二年)、本来これに服従していた諸侯が
次第に興隆し、六十六ヶ国に別れるに至った。

現在、公方様はただ威厳の尊号を有するのみで、実力乏しく、他の諸王は少しもその優越を認めず、
またこれを尊敬せず、諸侯は欲をほしいままにして各地の諸侯を服従させ、その国を奪おうとし、
このために戦争が絶えることがなかった。日本に福音の教の平和を植え付ける事への、最大の妨害は
これである。

都には、宗旨の尊位にある他の君がある(天皇)。日本人はこれを日本の頭として、殆ど神の如く尊崇している。

『一五六五年二月二十日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(耶蘇会士日本通信

足利義輝の時代の、室町将軍に対する認識について。



公方家又京都御退座の事

2020年06月02日 18:52

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/02(火) 16:01:22.45 ID:tp5E/GjB
公方家又京都御退座の事

そのころ公方家(足利義輝)は、洛外の霊山に御城構え有るべしとして、今度天文二十一年(1552)十月十七日、
かの山に御普請初めがあった。細川晴元方の浪人である香西越後守元成等は先の三好長慶との和平を用いず、
また悉く蜂起して、同十月二十日、丹波国桑田郡へ打ち入って、細川氏綱方の内藤備前守と合戦し、内藤を
撃ち散らして勝利を得、その勢いで同十一月、丹波の篠口辺りを放火した。この時建仁寺の塔頭も炎上した。

そのような中、三好義賢(実休)がその主君である細川持隆を殺すという事件があり、それより都鄙では雑説が
しきりに起こり、三好長慶と言えどもまたこう言った心があれば、虎狼の野心を挟んで公方家も如何有らんかと、
諸人心安からず、公方家もまた御用心有って、貴賤皆危ぶみ暮れた。

翌天文二十二年の春、正月二十七日、三好長慶は上洛し、伊勢守貞孝と相談して営中洛中の政事を沙汰し、
京都は暫時静謐となったが、猶も人心は安からず、同三月、晴元方の浪人、一揆等が山城国の畑という場所で
蜂起したのを、長慶の執事である松永弾正久秀が馳せ向かって退散させた。

そうした中、三好長慶は摂州の芥川孫十郎が逆心したのを退治の為、同七月、京都を立って多勢で直に
芥川城に押し寄せ、城の向いと成る帯山に陣を取って向城を築き、遠攻めにせんと支度し日を送っていた
所に、この隙を見透かし、細川晴元が上洛して秘計をめぐらせ、様々に公方家に歎訴して長慶の事を讒言
した所、公方家も軽々しく御同意有って、晴元入道、江州の六角父子、その他の人数を催されれ、長慶を
誅伐有るべしとして、和睦は忽ち御改変あった。

かくして晴元入道も再度公方家の権を取って、縁者の六角父子その他所々の味方、譜代の輩、諸一揆を催し
京都に在る三好方の居宅などを一々に焼き払って悉く蜂起した。

この事が芥川へ注進されると、長慶は聞いて
「何ほどの事があろうか。しかし、先ず上洛して事の体を伺い見るべし」
と、芥川城には抑えの勢を差し置き、長慶は自身の人数、並びに河州の畠山高政、安見美作守等
都合二万余人を率いて、同八月朔日、芥川を引き払って直に上洛した。その威勢は辺りを払い、これに対して
中々一戦にも及び難く見えたため。公方家も晴元も早々に京都を開け、近江路へ御没落あり、朽木谷へ
入られた。

毎回のこのような軽々しき御事に、京童共も嘲りあった。この時、もし長慶が追尾して一戦に及んだなら
中々御滅亡疑い無い所であったが、長慶はいつもそういった沙汰に及ばなかった。
そして公方家に従わず京都に残っていた伊勢守貞孝などと洛中平安の政事をし、長慶はまた芥川に帰陣した。

それより公方家は朽木谷に居られたが、晴元や六角義賢の他に味方申す者も無く、次第に御衰微され、
この年の秋より永禄元年まで五年の間ここに御潜居あり、中々長慶を滅ぼされるべき御企ても思いつかぬまま
過ごされた。

續應仁後記

足利義輝二度目の京都からの没落について



103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/02(火) 16:18:05.67 ID:1uSSZG/t
続応仁後記の時点ですでに三好実休之相は名前間違えられてるのか

【雑談】足利義輝謀殺について

2019年06月06日 15:45

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 18:41:52.30 ID:yjPfJm9C
義輝さんて松永久秀から悪人呼ばわりされたこともあるとかなんかで見た
将軍家ってやっぱり少なからず陰謀しないと生きてけないんだろな

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 10:59:20.07 ID:d8YutnuM
>>112
義輝殺しって本当は義輝を操ってた側近を誅殺しようと引き渡しを要求したのに義輝が庇って要求を突っぱねたので攻め落とされたものらしいな

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 13:38:29.79 ID:ARU3QTOf
君側の奸を除くって、一番アレな挙兵理由じゃないですかー

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 14:27:08.64 ID:ktSs7bxg
永楽帝「君側の奸を除くために挙兵したというのに、
建文帝が自殺されてしまうとは、なんということだ」

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 14:34:44.85 ID:4tF7vR8z
>>117
安禄山「楊国忠を排除するための義兵だお」

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 14:43:41.92 ID:ktSs7bxg
今昔物語集巻10第7話 唐玄宗后楊貴妃依皇寵被殺語 だと
安禄山という「心賢く、思慮深い」大臣が
玄宗皇帝が楊貴妃に溺れ、その兄の楊国忠に政治を任せてるのに愁えて
世を正すために宮殿に兵を率いて押し行ったら、玄宗皇帝が勘違いして逃げちゃった
ってことになってるからセーフ

足利義輝の陰謀

2019年06月04日 17:01

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 14:53:53.73 ID:cSFIfsi/
一、畠山右衛門督高政は前将軍の時から牢人して紀州広という所にいたが、将軍(足利義輝)より密かに免
  状を差し遣わし、「実休(三好実休)を討ち取るべし」との由を仰せ付けられた。高政と細川・三好家
  は年来の仇敵である故なり。

  高政は畏まって紀州の諸侍や熊野根来まで借り催し、その勢1万5千余騎。永禄3年(1560)2月
  下旬に紀州を出立し、まず和泉岸和田城を攻めた。これは阿波から実休を誘き出そうとの謀なり。

  岸和田城は実休上洛中の宿りの城で、舎弟の安宅摂津守(冬康)を籠め置いていた。案の定、この由を
  聞き付けて阿波から実休が人数を引き連れ、後巻を仕る。さて久米田という所で一戦に打ち負け、同年
  3月5日に実休自害す。これにより高政はたちまちに運を開いた。

一、その後、和泉の筒井喜三という者は人数2万ばかりで阿波木本という所に打って出て、三好家と度々戦
  うが、ついに三好宗三(政長)に討たれた。これも義輝から喜三方への内意と聞く。その子細はこれほ
  どの大乱で三好左京太夫義誥(義継)は、両度の合戦に虚病を構えて出合わなかった。

  義誥は義輝公の従弟婿であることにより、両陣ともに出立しないようにとの由で、義輝公からの内書が
  あった故である。さて喜三討死の後は、義誥の他の三好家は義輝と不和になったという。

――『阿州将裔記』

史実と合いませんが義輝の策謀を伝えるものでしょうか



112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 18:41:52.30 ID:yjPfJm9C
義輝さんて松永久秀から悪人呼ばわりされたこともあるとかなんかで見た
将軍家ってやっぱり少なからず陰謀しないと生きてけないんだろな

大森伝七郎、切死の事

2019年05月09日 17:04

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 12:40:57.59 ID:fz55kaSk
大森伝七郎、切死の事

西岡東村に、公方(足利将軍家)数代の家の子で、大森伝七郎という侍が有った。
御所(足利義輝)すでに御滅亡(永禄の変)の後、隠れる場所もなかったが、かつて抱え置き、
懇ろに待遇していた者が西岡に在ったため、彼のもとに暫く滞在したいと思い、密かにそこを尋ねた。

ところがこの者は、大森が来たことを三好長慶方に知らせた(この頃三好長慶は既に死去している。
三好家が長慶の死を秘匿していたためか)。そこで三好方より薄武左衛門磯上甚六郎の両名に、
上下十人の頑強な足軽を添えて、討ち手として向かわされた。

薄武左衛門磯上甚六郎は到着すると、かの者の家の中に入り、大森伝七郎に向かって声をかけた。
「ここに大森殿が居られると承り、迎えにこの両人が参り候。はやく御出なされよ!」

大森は感の鋭い人物であったので、これを聞くより早く覚悟を据えて、立ち向かって聞いた
「私をどこへ召されるというのか」
三好長慶が探しておられる。はやく出させられよ!」
「それがしは入道(長慶)の元へ参っても何の用もない。また言うべきこともない。よって
参る必要はない。」
「そなたはそう思っているかも知れないが、筑前守(長慶)には尋ねたいことが有るとの事である。
はやくはやく、出て参られよ!」

そう、両名が大森に近付こうとすると、「しからば、いざ参らん!」そう言うと同時に、2尺3寸の
打物(太刀)を引き抜くと、薄武左衛門の頸に押し当て、左側の肩先まで斬りぬいた。
磯上甚六郎はこれを見るや「やるまじ!」と抜き打ちに斬りかかったが、この時二階の竹垂木に箕笠が
下げ置かれており、これを斬りつけてしまい、「あっ」と思い太刀を引く間に、大森はすかさず磯上の
高股を両断し、磯上は戌亥(西北)を頭にして倒れた。

続く三好方の郎党たちは、これを見て「逃さじ!」と斬ってかかったが、そこは茅葺きの小さな家のため
働き自由に成らず、天井が低いため斬り損じ、大森に寄る者は斬られ入れ替わる中、六人が同じ枕に伏した。
そして大森伝七郎

「今はもはや、罪造りにお前たちを殺しても何の意味があるのか。」と、座敷へつと走り上がり、
腹を十文字に切って死んだ。見る人聴く者、「天晴、かかる剛強のつはものを殺してしまった。一騎当千とは
ああいう者の事を言うのに。」と、彼を惜しまぬものは居なかった。
三好長慶もこれを聴いて大いに驚き、思わず手を打って、暫く物も言わなかった。

(室町殿物語)



14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 14:16:57.26 ID:xv5IJncU
>>11
六人「もう少し早く気づいて(´;ω;`)」
まあ武士の意地というもんかなぁ
全員殺しても次の追っ手がきていつかはやられるだろうし

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 14:26:43.35 ID:sLXFenpt
いや義輝死んだし

それも義輝公が愚弱だったため

2019年02月03日 21:25

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/02(土) 20:51:07.26 ID:AAgREs3T
楢村長高(長教)の室町殿日記を参照すると、三好筑前守義長(義興)は、将軍足利義輝の命を奉じて
泉州備前入道并びに同伊勢守(伊勢貞孝)を誅伐した。であるのに賞が行われず、義長はこのため、
備前入道の闕所を賜って従卒を扶助しその功を賞せんと考え、これを所望したが、賜ること無く、
義輝は彼の地を一円に伊勢加賀守(貞助)に与えた。これ故に三好義長は公方の御料所の代官を
私的に置き換えてその年貢を抑えようとした。公方は役人を下して三好の代官を追い払おうとするも、
三好は家人を遣わして公方の役人を追い払い年貢を横領した。

これ以降、公方より度々討手が向けられたが、毎回討手は敗北し、終には三好が御所を囲み攻めた。
そのため義輝は自害した。永禄8年5月19日の事である。尊氏将軍の嫡流は13代にて滅亡した、
それも義輝公が愚弱だったためである。

(安斉随筆)

伊勢貞丈先生、さすが足利義輝に厳しい。



716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/02(土) 23:46:05.23 ID:wsG0sIic
山科言継の日記でも義輝はあっさり切腹してるけど、討手と派手に斬り合いをして討死する話は後世の創作なのかな

武士は病に依りて死せず、戦争に於て死する

2018年11月16日 17:55

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/16(金) 17:32:58.59 ID:r88jfdPt
日本の島は六十六ヶ國に分れ、昔時は悉くダイリ(内裏)と称する君主に服従し、此君の下に
公方と称する軍隊司令長官(征夷大将軍)ありしが、互に争ひ司令長官は全國を領し、主なる君に服従せざるに至れり。
而して更に分裂し、各國の長官起ちて主なる君にも司令長官にも服従せざるに至れり。

主なる君(正親町天皇)は当都にあり、尊大にして地を踏むこと能はず、若し地を踏めば廃せらる(天皇が禁苑外
に出ないことか)。彼は少しも兵力を有せず、之が爲め常に困窮せりと難も諸人に尊崇せらる。但し服従する者なし。
軍隊司令長官(足利義輝)も都に在り、少しの兵力を有すれども頭を挙げて其地位を回復する程度に非ず。

此の如き状態は四百年来の事にして、頭なき爲め平和安寧なく、各人其兵数と勢力に應じ、各國を領す。
是彼等間に絶えず戦争ある原因なり。
彼等は大に武器を重んずるが故に其値甚高し。五千クルサドの値のものもあれど少数にして、千クルサドのもの
之より多く、五百クルサドのものは多数あり。短剣も又千クルサド、千五百クルサドのものあり。其他は値低し。
予が今之を述ぶるは如何に武器を尊重するか示さん爲めなり。
武士は病に依りて死せず、戦争に於て死する爲め生まるる者なりと信ぜり。

(一五六四年七月十五日附、都發、パードレ・ガスパル・ビレラよりポルトガルのパードレ、イルマン等に贈りし書翰)


足利義輝のクーデターの顛末

2018年04月06日 10:36

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/06(金) 09:30:29.36 ID:ZsWuJQrI
天文二十二年七月三日、三好長慶が芥川城攻めを行うため京を留守にすると、同月二十八日、
長慶と和解し帰京していた将軍足利義輝は、その和解の際に切り捨てたはずの細川晴元(入道一清)
の旧功捨てがたく思し召し、彼を赦免し京へ帰還させた。

すると晴元方の牢人千人余りも各所より入洛し、三好衆の宿所へ放火した。

この知らせを聞いた長慶は、芥川城に抑えの兵を置くとすぐに京へ取って返し、八月一日には
長慶勢に加え、河内の畠山政安、同美作守勢も引き連れ、二万あまりにて攻め上がった。

この三好勢の勢いに、義輝も晴元も戦いにもならぬと恐れ、取るものも取りあえず都より
逃亡し近江国へと落ちていった。

(足利季世記)

足利義輝細川晴元勢と起こした反三好のクーデターの顛末


永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

2017年02月07日 15:24

593 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:10.18 ID:l0/11MB8
永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

 塙(保己一)の『群書類従』の中に、『永禄六年諸役人附』というものがある。
これは足利氏の時代末期のものである。今その所載を抄書する。

「〔上略〕
外様衆 大名在国衆〔号国人〕
    山名次郎義祐改名左京大夫
御相伴 北条相模守氏康        御相伴 今川上総介氏実(真)  駿河
    上杉弾正弼輝虎  越後長尾      武田大膳大夫入道晴信 甲斐
    畠山修理大夫義継 能登之守護     織田尾張守信長    尾張
    嶋津(島津)陸奥守貴久         同修理大夫義久
相伴  伊東三位入道義祐 日向  
    毛利陸奥守元就            同少輔太郎輝元    安芸
    吉川駿河守              松浦肥前守隆信    肥前
    河野左京大夫通宜 伊予        有馬修理大夫義真 
    同太郎義純    肥前        嶋津(島津)薩摩守義俊
    宗刑部大輔    対馬        伊達次郎晴宗     奥州
    松平蔵人元康   三河        水野下野守      三河

関東衆〔以下略〕」

私、松浦清が説明を加える。
・山名義祐は、今交代寄合の山名靭負義問の祖先であろう。義問は六千七百石である。
・北条氏康は、今の相模守氏喬の先祖であろう。氏喬は狭山領主一万石。
・今川氏実は今の高家、侍従刑部大輔義用〔千石〕の祖先である。
・上杉輝虎は、米沢侯斉定の先祖、今十五万石。
・武田晴信は、今の高家、侍従大膳大夫信典〔五百石〕の先祖であろう。
・畠山義継もまた、高家で、侍従飛騨守義宜〔三千百石余り〕の先祖であろう。
・織田信長は、右大臣、今の羽州村山領主、若狭守信美の祖で、今二万石。
・嶋津貴久、義久は、薩摩侯隅州斉興の先祖で、今七十七万八百石。
・伊東義祐は、飫肥侯修理大夫祐相の先祖であろう。今の五万千八百石余り。
・毛利元就、輝元は、長州侯大膳大夫斉元の祖先で、今三十六万九千石余り。
・吉川駿州は、今の長州の属臣、吉川監物の祖であろう。防州岩国の城に居り、六万石を領している。
・松浦隆信は、わたくし清の十世の祖で、道可殿であられる。
・河野通宜は、今の久留島侯、予州の通嘉の祖先であろう。通嘉は今、豊後森領主で一万二千五百石である。
・有馬義真、義純は、今の丸岡侯徳純の祖先で、今越前で五万石。
・嶋津義俊は、誰か未詳だが、きっと今の薩摩侯の先祖であろう。
・宗は、今の対馬侯の先祖であろう。祖先の中に刑部大輔の称を見たことがある。
・伊達晴宗は、今の仙台侯の祖先で、元祖政宗の先祖であろう。今、斉邦は六十二万五千六百石余りを領している。
・松平元康は、かたじけなくも神君であられます。元康は始めの御諱であられる。
・水野下野守は、今水野越州、羽州、日州の先祖であろう。三氏は今それぞれ六万石、五万石、一万八千石。

594 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:34.61 ID:l0/11MB8
 以上のことを見よ。世の興廃はかくの如しだ。これは足利が公方と称したときの外様衆である。
しかし、かえって今は主君であった足利がわずかに御旗本の輩に入っているだけで、
大名在国衆なる者も、あるいは旗本または外藩護衛の身分となっている。

 予の先祖の公や有馬伊東の輩が、恐れ多くも神君の上にあれども、
今となっては皆、御当家を敬拝尊従することに至っている。
これというも、神君の御高徳は仁義知勇を備えられておられる御大勲で、
いわゆる立身行道し、名を後世に揚げて父母を顕す者であられるからだ。
上杉武田の両雄、織田の威顕もいつのまにか跡形もなく、
毛利嶋津伊達の強大も、今はわずかにその旧を保つも結局臣伏し、
ただ水野氏は御当家に新属し、かえって古より富めるに至ったのであろう。

 これというも、日光権宮の御深仁である。
明智は論ずるに足らず。
豊太閤は、まだこの時匹夫で名も無い。しかし、たちまち広大になって、
ついには外国を掠奪するに至っても、その道半ばにして身を喪った。
天がなしたのであろうか。
 我が隆信君の子の法印公(鎮信)君は、豊閤遠伐の役に随われ、
出色の勇武であったが、ついに外国で賊徒の名を負われた。
いまこのように太平の時に随従できて内外で非義不仁の名を負う事が無いのも、
まことに神祖の大恩・大恵に違いない。


(甲子夜話三篇)



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 07:07:58.26 ID:DeSn+Eio
>>593
山名義祐って赤松義祐のこと?

此の寺の時の太鼓は磯の波

2016年09月01日 17:55

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/31(水) 22:33:15.10 ID:48wVr93/
 光源院(足利義輝)殿が京都四条の道場に陣をとっておられた時、
番の僧が夜九つの太鼓を寝ぼけて七つの時に打ってしまった。
 後で公方から御使いがあってその番の僧が呼ばれた。
きっと折檻に及ぶに違いないとぶるぶると参上すると
様子をお尋ねになられたので

「そうでございます。深く眠っていて、
目覚めると仰天してしまったためです。」

と、ありのままに申し上げると、思いのほかご機嫌が良く

此の寺の時の太鼓は磯の波 おきしたいにそうつといふなる
(この寺の時の太鼓は磯の波のようだ
押し寄せるので波打つというのだなあ)

と遊ばされ、僧には銭を与えられた。

(醒睡笑)




永禄の変

2015年02月05日 18:46

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/05(木) 16:11:12.70 ID:vXXKuKaA
古今の将軍家並びに管領、その他天下に権威を振るった人々の事、時代の移り変わりの有り様を、
ある草庵に蟄居する老人に対し、若輩である私が尋ねて、その答えの内容をあらましを筆に表した。

その言われる事によると、光源院殿(足利義輝)のご自害、同じくご舎弟鹿苑寺殿(足利周暠)、その他
諸侯が討ち死にした事件(永禄の変)のそもそもの事の起こりは、細川右京太夫晴元の被官であった
三好筑前守長慶が、この管領の権威を受けて五畿内に勢力をめぐらし、それを誇って累代主従の義を忘れ、
ついに右京兆に敵対し、当時晴元殿には、他にも股肱の臣、肩を並べる朋輩など居たが、これらを尽く
摂州江口において天文年中に尽く討ち果たした。これによって細川家は没落、言葉も無い有り様であった。

そして三好は甚だしく驕慢を極め、かつて萬松院殿(足利義晴)が朝倉氏を御相伴衆に加えた例を出して
御相伴衆の地位を望み、その後三好長慶は御相伴衆に進み、松永弾正少弼久秀も御供衆に進み、
重ねてほしいままの義であった。

彼らは忝なくも将軍の直参となり、猶以って将軍のために馳せ働くべきであるのに、返ってさらに公儀に対して
違背するばかりであった。そのような状況だったので、双方に遺恨も生まれると察せられ、もしもの時に、
謀反が起こる可能性も考えられた。そうなっては一大事であるからと、将軍家は御館の四方に深溝、高塁、
長関といった堅固な防御施設を造営しはじめた。

しかしながら三好一党は、御門扉以下、未だ工事が完成する前に、急ぎ御所を包囲することに議決し、
永禄八年五月十九日、清水参拝と号して早朝より人数を集め、公方様に訴訟があると申し触れ、その訴状を
捧げ、その内容を受け入れるよう申し請うた。その間に御溝に人数を入れていた。

公方様の母君である慶寿院殿は、訴訟が叶えば公方様の身は恙無いと考え、「如何様なりとも受け入れるように」と
泣きながらご意見を様々申し上げられた。そのご心中は察するにあまりあるもので、見る人聞く者、皆袖を
濡らしたのである。

訴訟受け入れの是非を伝える御使が館を出ると同時に、土居の四方より軍勢が侵入し即座に鉄砲を放ち、
殿中へと乱入しようとした。これを防ぐ諸侯は数百人あった。中でも進士美作守はこの訴訟の御使として、
様々に折衝したことを不覚であったと憤り、その場で自害した。
同朋衆である福阿弥は鎌鑓で相戦い、この鑓にかかるものは数十人あった。

御所様は一同に最後の盃を下し、細川宮内少輔は御前に控える女中衆の装束を着て立ち上がり舞を舞った。
その姿は優にして遅れたる色もなかった。

さて、それから御所様は御前に利剣を数多立て置き、これを度々取り替えながら敵を切り崩し、
その勢いに三好勢は恐怖して、半ばは向かってこようともしなかった。そこで義輝は刀を放り投げ、
敵の処卒に取らせるようにして、近づいてきた所を斬った。こうして重ねて御手にかかる者達も数名あった。

近習の内志あるほどの者達は御先に進んで尽く討ち死にした。残ったのは女房衆と、まだ幼い者達ばかりであった。
彼らが御一緒となって幾千万の軍兵と戦ったのは、かつて項羽がその十万の騎兵をわずか二十八騎にまで討ち
減らされても、漢軍百万余騎を駆け破り、大将三人の首を取って鉾に貫いたという話に類するものであっただろう。
こうして、足利義輝はその最後を遂げた。

ご舎弟鹿苑寺殿の元へは、三好方より平田和泉という者が差し向けられ、同刻、御生害された。
彼の御供衆は尽く逃げ去ったが、その中に日ごろ目を掛けられていた美濃家小四郎と言う者が、
彼は若年であったが、即座にこの平田を討った。その身卑賤であったが、名を後代に残す者であった。

御次男である一乗院殿は御生害には及ばず、三好、松永を粗略にしない書面を提出した。
(永禄記)

永禄記より、将軍義輝が暗殺された永禄の変の模様である。





足利義輝の母について

2015年01月18日 17:13

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 19:10:21.80 ID:A1D2OVqA
足利義輝の母について
「仕えている侍女たちは、ヨーロッパと何ら変わるところはない。
ただ荘重さのために、髪を引きずって後から取らせ、一パルモか二パルモの長さだけ、地上に靡かせている点が
異なるだけである。
私には公方様の母君は修道院の女子修道院長のように、他の家の者達は修道女の教団のように見えた。
というのは、その屋敷の静寂、節度、それに秩序が大いなるものであったからであり、とくに公方様の母君が
阿弥陀像の、大変美しく、珍しい装飾を施した礼拝堂を背にしており、その阿弥陀像は幼子イエスのように
彩色され、金の冠と光背を頭にした大変美しいものだったからである」

ただしフロイスが「幼子イエスのように」としているのは宣教師として言語道断ということで「少年のように」
に変えられたらしい。
新井白石も「キリスト教ではロザリオだの洗礼だのやるそうだが、数珠と潅頂の影響だろう」
とかキリスト教と仏教の類似を指摘してたなそういえば




将軍足利義輝側室、小侍従殿の最期

2015年01月17日 17:16

262 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 21:56:54.43 ID:uH5L2ZRf
永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好三人衆や松永久秀による将軍・足利義輝の暗殺、
いわゆる「永禄の変」が起こる。三好勢は将軍義輝を殺すと、その刃は関係者に向かった

『三好殿はあらゆる物を焼きつくし、宮殿の一部たりとも残さないようにと命じた。
都における動乱と残虐行為は非情なもので、それを見たり聞いたりした人々に少なからず憐憫の情を催させた。
すなわち、公方様の家臣なり友人は、どこで見つかろうと直ちに殺され、その家財が没収されたからである。
さらに三好殿は、公方様に仕えていた人々が住んでいる郊外一里の所にあった二ヶ村を侵略し破壊するよう命じた。

(中略)

公方様の婦人は、実は正妻ではなかった(側室の進士晴舎娘・小侍従殿)。
だが彼女は懐胎していたし、すでに公方様は彼女から二人の娘をもうけていた。また彼女は上品であった
だけでなく、公方様から大いに愛されていたので、近日中には彼女にラィーニャ(奥方)の称号を与える
事は疑いないと思われていた。何故なら彼女は、既に呼び名以外のことでは公方様の正妻と同じように
人々から奉仕され敬われていたからである。
彼女はこの変による火災と混乱の中、変装して宮殿から逃れ得た。

謀反人たちは早速数多くの布告を掲げ、彼女を発見したものには多額の報酬を取らせ、彼女が身籠っており、
男児を出産すればいつしかその子は成長して自分たちの大敵となりえるので、是が非でも彼女を殺さねばならぬと
言っていた。

その報酬の約束が煽った貧欲の力、もしくは科された刑罰への極度の恐怖心は、いとも高貴で今は寄る辺ない
夫人に対して、当然抱かれるべき人間らしい感情や憐憫に勝ったらしく、彼女の居場所はたちまち暴君たちに
告げられた。彼らは彼女を、都の郊外の何処かで殺すように命じ、彼女を乗せる為のリテイラ(駕籠)を
彼女のところに遣わした。

この不当な命令を執行することになった人々は、彼女にこう言った
「御台様はもはや都にお留まりになる事、叶わなくなりました。よって別の所にお移り頂くため、この駕籠が
届けられた次第でございます。」

彼女は郊外の一寺院に籠っていた。そしてその知らせがもたらせるとただちに、三好殿と霜台(松永久秀)が
自分を殺すように命じたのだとはっきりと悟った。そこで彼女は紙と墨を求め、当時まだごく幼かった
自分の二人の娘に宛てて、非常に長文の書状をしたためた。それは後に、これを読んだ人々すべてを感動させ、
読み聞かされた者は誰しも皆涙を流した。ついで彼女はその書状を封じ、晴れ晴れとした顔つきで僧院を出、
仏僧たちに対して、自分がその僧院でいとも親切に迎えられたことや、三日間というもの、そこで客遇され
敬意を表せられたことに感謝した。

そこから、三好の使者たちは彼女を駕籠に乗せて、都から約半理隔たった東山、すなわち東の山にある
知恩院という阿弥陀の僧院の方向へ連れて行った。そして彼らが四条河原と呼ぶある川辺に来た時、
彼女は同行者たちに
「あなた方が私を殺すことに定めている場所はここなのですか?」
と尋ねた。彼らはそれを否定し、「安心されよ」と言った。そして彼女は知恩院に導かれると喜んだ、
というのは、彼女にとってそこで死出の準備をするのは非常に好都合だったからである。
内裏の親族で、甚だ高貴な僧侶であった同僧院の長老が彼女を出迎えると、彼女はその人に次のように語った、
それはそこに居合わせた人たちから、後で報じられた。

263 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 21:57:31.97 ID:uH5L2ZRf
「尊師はおそらく、今私を、このような有り様でご覧遊ばすとは、よもやお考えにならなかったでしょう。
ところで、この度の事は私の名誉にとってひどい仕打ちでありますが、公方様も宮殿もあのような惨めな結末と
なりましたからには、私一人この世に留まることは相応しくありません。さらにまた、私が公方様に
こうして早々とお伴出来ますことは良き巡り合わせと存じます。そして何にも増して、私に喜びをもたらし
お頼り出来るのは、まもなく阿弥陀の栄光のもとに公方様と再会できるという思いでございます。
そして私は身重でありますから、生きながらえる間に私がある重い罪を犯したことは疑いを容れません。
そのために私がこのような死を遂げることは、多分相応しいことだったのでございましょう。」

次いで彼女は自分のために葬儀を行ってくれるようにと僧侶に懇願して、袖から86クルザードの価値がある
金の延棒2本を取り出し、纏っていたマント(上衣)を添えて、布施として差し出した。

その仏僧は次のように答えた
「拙僧は修行者でありながら、御台のご様子、並びにご事情に接しますと落涙を禁じえません。
さりながら公方様は、先に述べられたように身罷り給い、そのお世継ぎも運命を共に遊ばしました。
御台の公方様に対する愛情はいとも深いものがあったからには、御台が公方様のお伴をお望み遊ばされるのは
いかにもご尤もと存じ上げます。御台のご葬儀とご供養の儀は、拙僧しかと相果たします。

御下賜のご布施は、拙僧の末寺の間に分け施し、その諸寺においても大いに心をこめて供養を相務めるでしょう。
これについて、ご安心遊ばされたい。」

ついで彼女は阿弥陀の名を十度唱え、その仏僧から、十念と称されている罪の完全な赦免を受けた。
それから彼女はもう一度阿弥陀の祭壇の前で合唱して祈った。そして彼女がある知人の墓を詣でようとして
寺院を出た時に、彼女の首を刎ねることになっていたナカジ・カンジョウという兵士が抜刀して彼女に
近づいた。彼女は時至ったことを認め、跪いて阿弥陀の名を呼んだ。そしてその兵士が来ると、公方の宮廷の
習わし通り、束ねないでたらしていた頭髪を、兵士は片手で高く持ち上げた。

ところが、彼が彼女の首を刎ねるつもりで与えた強い一撃は、彼女の顔を斜めに切りつけた、
小侍従殿と称されたこのプリンセゼ(奥方)は言った

「御身はこの勤めを果たすためにまいられたのに、いかにも無様でござろうぞ!」

そして第二の一撃で、兵士は彼女の首を切り落とした。

かくてその後の日本人たちは、彼女は身重であったから、その再二人を殺したことになると言っていた、
彼女が懐妊していた子供は生まれる前に殺されたのである。そしてその場に居合わせた人々の内、
この悲惨な情景に多くの涙を流さぬものは一人としていなかった。
ルイス・フロイス「日本史」)

将軍足利義輝の側室、小侍従殿の最期の模様である。



265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 01:43:31.56 ID:cQ0PWvRE
しかしフロイスの記述は臨場感溢れるものが多いな

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 02:26:54.33 ID:PzY251zO
小説家になれる才があるよ

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 14:18:26.67 ID:mjMt0GNe
フロイスはヨーロッパの「上流階級婦人の処刑シーン」の定型をそのまま当てはめたのでは。
将軍を皇帝に、僧侶を牧師に、阿弥陀をキリストに、名前も欧風にしたら、そのままヨーロッパでも通じるんじゃないか。

足利義輝の室町御所

2014年04月14日 18:53

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 16:35:50.80 ID:AUVkqdDj
足利義輝の室町御所

「公方(足利義輝)様の御殿は深い堀に囲まれ、幅の広く造りのよい木橋が架かっていた。
入口には伺候するために各地から集まって来た三四百人の貴人がいる様であった。
また御殿の外の広場には多数の馬や輿が停まっていた。」
「極めて清潔で親しみを覚え、快適であった。
窓の外には杉、松、小さなオレンジ(蜜柑)や我等の国では名も知らぬ種類のみずみずしく
青々とした珍しい木々が植えられた庭があり、実に巧妙に培い、手入れされていて、あるものは
ベル(鐘)の形、またあるものは塔の形及び様々な形をしている」

ルイス・フロイス『日本史』

織田信長によって造り変えられ、二条城になる前の室町御所の風景。
諸大名の居城だけでなく、将軍様の所にも宣教師が上がり込んでいた記録。