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深溝松平家の事

2010年01月13日 00:09

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 20:58:12 ID:U/6EcxyD
ただただスレを埋めるだけのレスをするのも無粋なので良くも悪くもなく面白くもない話を投下

去年の梅雨頃に愛知県岡崎市の隣の幸田町という小さな町の深溝という集落にある
本光寺というお寺から小判やヨーロッパ製のグラスなどが出土したという記事を
覚えている方はいらっしゃるだろうか?

この本光寺、徳川家と共通の祖を持つ深溝松平家の菩提寺で深溝松平家
代々の当主が埋葬されている。
出土した小判などは松平忠雄の埋葬品でこの人は島原藩の2代目藩主だった人物

この深溝松平家、地味ながらも徳川家によく尽くした家柄で

2代目好景 善明堤の戦いで敵方を深追いし伏兵に討たれ討ち死
3代目伊忠 三河一向一揆では家康に従い、掛川城攻略、姉川、三方が原両戦役で武功を立て、
        長篠の戦でも信玄の弟を討つなど活躍するも追撃戦時に小山田昌行の猛反撃を喰らい
        討ち死
4代目家忠 21歳という若さで家督を相続。主に城郭の普請を従事した事から
        土木の才能があった模様
         関が原の合戦の際には鳥居元忠の副将格として伏見城に篭り共に玉砕

といったように当主が3代続けて戦死するというなかなか苛烈な一族である。

さてその家忠の息子の5代目になる松平忠利は三河武士らしいめんどくさい一面をほんのりと発揮する。
伏見城で玉砕した父の仇を討つと駄々をこねるも家康に止められて結城秀康と共に上杉の抑えに従軍。
戦後の論功行賞では家康の関東移封された時に深溝松平家は下総の小見川に
一万石を与えられていたので家康が当地に加増を薦めるも忠利は旧領の深溝への復帰を望み、
加増無しで旧領に帰り咲く。

その後、深溝松平家は三河吉田藩、三河刈谷藩、丹波福知山藩そして肥前島原藩と
次々と移りつづけ明治維新を迎えることになるのである。

以上、徳川を創成期から支えた無名の三河武士の一族の駄文長文失礼致しました。




999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 21:15:11 ID:tcZElVhz
>>996
4代目家忠さんの家忠日記は面白いよねー。
アレだけでも歴史に残る仕事をした。

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