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「朝野雑載」より尾藤知宣の話

2022年01月28日 17:47

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/27(木) 18:54:46.56 ID:Gg747KB6
朝野雑載」より尾藤知宣の話

秀吉公お取り立てで讃州を領していたが根白口で島津義弘を討ち取らなかったため改易となり、天下御構いとされたため秀吉に与しない小田原北条家に仕えた。
一方、柴田勝家の猶子である佐久間久右衛門安次(安政)、同源六郎実政(勝之)の兄弟も賤ヶ岳の戦いで兄の盛政が敗北し処刑されたのちは
遺恨を晴らそうと紀州の粉川(粉河)寺法師と語らい河内や南河内長野で秀吉に楯突きたびたび手強い合戦をしたものの敗れこれまた小田原に入り氏政に仕えた。
小田原落城後、金沢称名寺(金沢八景に称名晩鐘が取られている)に隠れていたところを秀吉公きこし召され
「伯父勝家が讐と思い、我らに数年楯突くといえども叶わず。
小田原へかけ入り、なおも遺恨をはらさんとせし、その志まことに大丈夫なり」
とてかの寺より召され、
「もはや四海はみな我らの手に入りたれば向後心をひるがえして降参いたし、秀吉を父と思え」
とて、兄久右衛門に一万五千石、弟源六に一万石くだされ、蒲生氏郷の与力につけらる。
尾藤「御敵柴田が一門だに御赦免あり。まして秀吉小身の頃より旧功ある我ならば御赦免うたがいなし」
と思い、剃髪染衣の姿で秀吉公が小田原から奥州へ出向く御道筋に罷りいで畠中に平伏した。
秀吉公「あれに見えたる大坊主は何者ぞ?」とお尋ねあり。
あらかじめ尾藤と打合せていた御駕籠廻り衆「先年ご改易なされし尾藤左衛門佐と見え候。
小田原にまかりありしが、かようの姿にまかりいで、お馴染みに甘え、お目通りにまかりいで候かと」
秀吉公、御気色かわり「佐久間兄弟が小田原にこもりたるは義理の至極なり。尾藤めは大罪人なり。
その謂れはまことに赦免を願わば洛外にもかくれ居て、この度小田原発向の先手へ加わり、陰の奉公をしてこそ尤もなれ。
氏政に奉公して我に弓を取り、落城以後かようの仕方、言語道断憎き次第なり」
と言って、御歩行衆に引っ張ってこさせ、備前兼光の御腰物にて、御手打ちに御成敗なり。

尾藤知宣が秀吉の前に現れ赦免を願った理由に、柴田の縁者の佐久間兄弟が赦されたから、というのもあったことになってる



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尾藤知宣、戸田勝隆について

2021年12月18日 15:48

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 21:34:40.99 ID:7+jAGShj
忠臣蔵で有名な兵法学者・山鹿素行武家事紀」から
尾藤知宣戸田勝隆について

尾藤左衛門佐
初名十二兵衛、尾藤源内(森可成家人、坂本の戦いで討死)の子。
尾州人、秀吉の旧臣たり(神子田、宮田、戸田、尾藤、人皆これを並べ称す)。
もっとも軍事に通ず。秀吉に従いて戦功度々。
越中佐々征伐の時、尾藤軍奉行をつとむ。
加賀越中の境、砺波山の道筋は砦多きゆえ、砺波山・羽生の宮の北の方のソワ道(険阻な道)をおのおの越ゆ。
この時、馬の履は皆はねすて、両方へ差し縄をつけ、馬取り両方へ引っ張り、馬の手綱をむすび前輪にかけ、馬の足をそろえ、これを滑らすべきよし下知し、
いずれもその通りにいたし、人馬あやまちなし。人もってこれを賞す。
同国外山(成政の居城)乱入の時、大河多く馬を泳がしむ。
この時、尾藤が下知によって人馬さらに水に溺れず。
(ぬかるみをはずし、馬の頸を川上の方へあげ、後輪にのりかかり、川下のあぶみを強く踏みて声をかくるなり)
はじめ秀吉・信雄不快の時、尾藤大垣城に至りて池田・稲葉らの諸将と軍事を議す。のち西国平均して讃岐国を賜わる。

島津征伐の時、大納言秀長に属し豊後路より日向にいたる。
この時、島津、高城より兵を出し、宮部善浄房(啓潤)が陣営に夜戦をなす。
秀長の陣営ら、これを援けんと議す。尾藤しいてこれを留めて、後巻(うしろづめ)延引す。
のちに秀吉この事を糾明あって、尾藤ついに闕国せらる。
天正十八年七月、小田原滅亡の後、秀吉自ら奥州にいたりたまう。
尾藤野州那須野に出でて謁す。
秀吉すなわち刑戮せしめたまう
(あるいはいう。秀吉駕籠をとどめして、乗馬を二、三遍のらせたまいて見物。その後、尾藤の刑戮を命ぜらる、うんぬん)。

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 21:40:10.22 ID:7+jAGShj
戸田民部少輔
初名三郎四郎、尾藤とともに秀吉の旧臣、もっとも度々の戦功あり。
四国平均の後、伊予国を賜わる。
その子、自らの刀にて、あやまちいたし死す。
折節、民部少輔、放鷹の出先にて聞き、
「己が刀にてあやまち死するほどの気質にては、役に立つべき器にあらず。見るに及ばず」と言いて、ただちに放鷹す。
その後、子なく、朝鮮征伐の中で民部病死す。



兎と鯉を

2015年05月04日 13:53

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/04(月) 09:40:02.75 ID:/piRYIUZ
三郎(戸田勝隆)と甚右衛門(尾藤知宣)が、ともに狩に出かけたことがあった。
三郎は山鳥と兎を仕留めたが、甚右衛門は何も獲物が無かった。
がっかりした甚右衛門に、三郎が「獲物がなくば面目もたつまい。ならば釣りでもしよう」
と誘い、帰り道の沢で餅を食いながら釣りを始めた。
すると今度は、甚右衛門は見事な鯉を二匹釣り上げたが、三郎は何も釣れなかった。
そこで、二人は兎と鯉を交換して帰った。
秀吉公がまだ長浜城主だった頃の話である。

(松庵説)

(*゚∀゚)=3 ウホ




「尾藤甚左衛門はいないのか」

2012年10月22日 20:31

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/22(月) 07:33:02.40 ID:tbKKK4Yy

ある戦いで織田信長の先手が敗北し、既に旗本まで危うくなってきた。
この時、信長が「尾藤甚左衛門はいないのか」と家臣に尋ねた。

「三の備えにおります」
「ならば苦しからず」

そう答えた信長は騒ぐ様子もなかった。案の定二の備えも破られたが、
三の備えが受け留めて突き返し、敵は敗れて引き退いた。

――『名将言行録』

甚左衛門って…甚右衛門知宣のこと?




尾藤知宣追放顛末

2010年10月05日 00:00

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/04(月) 17:55:52 ID:8o1Rz01M
豊臣秀吉の九州征伐の、最後の主力決戦となった
天正15年4月16~17日にかけて行われた日向根白坂の戦。

さて、この戦いに、日向方面の大将である豊臣秀長は出陣しなかった。
この事が秀吉の耳に入ると彼は弟への憤りを隠さなかった

「大納言(秀長)はどうしてそんな油断をしたのだ!?
幸いに薩摩勢の方から出てきたのだ、秀長の陣地は特に念入りに普請し
防衛力に問題はなかった。ならば軍勢の一部を陣地に置いて、秀長の手廻りの人数を始めとして
密かにひたひたと敵に取り付けば、薩摩勢を一人もとり逃すことなく殲滅できたはずだ!
この油断、沙汰の限りである!

薩摩軍に襲撃された宮部継潤の近くに陣取っていたものは誰か、その様子など絵図面に取って早々に持って来い!」

すると、尾藤知宣が宮部の陣の近くに陣取っていたことが解った。
秀吉は尾藤の元に、森(毛利)勘八を叱責の使者として送った


森勘八は聞く
「秀吉公は『甚右衛門(尾藤知宣)はどうして薩摩勢に攻撃しなかったのか、さては裏切ったか!』と
ご立腹になっております」

これに尾藤
「その事でありましたら、私はあの時秀長様に『幸いにも薩摩勢が出てきました、一人残らず
討ち果たせるでしょう!彼らを破った勢いのまま直に薩摩に入ることも可能です。
秀吉公から激賞を頂けるのも、眼前のことでございます!』
これには黒田官兵衛・長政親子も賛同し、共に秀長様に申し上げました。

しかし秀長様は
『それぞれの持ち口の陣中を堅固に固めよ。
薩摩の戦術は表より裏に人数を多く控えさせているものだと聞いている。
今襲撃に出ている薩摩勢に対し人数を出すことは、まったく無用である。』

このように言われた上は私にはどうしようもなく、そのまま陣にとどまったのです。」
そう証言した。

さて、秀吉の使者である森勘八はこの後豊臣秀長の元に行き、尾藤の証言内容を確認しようとした。
秀長は尾藤の証言内容を聞くと、ふと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4695.html
で、尾藤が自分に放った悪口を思い出した。そして

「甚右衛門はそんな事はまったく言っていない!黒田官兵衛は確かにそう言ったが、
薩摩勢が山の裏に人数を控えさせているという情報が入ったため、大事をとって動かなかったのだ!」

そう、森勘八に申し聞かせた。

この双方の証言を聞いた秀吉は、やはり兄弟であるためだろうか、秀長の言うことを全面的に信じ
尾藤知宣を追放処分とした。

黒田官兵衛には、秀長の証言より問題はないということで、何の処分も下されなかった。



尾藤知宣追放にまつわる逸話である。




472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/04(月) 18:45:31 ID:/sG/3cGv
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3487.html

二枚舌すぎるだろ、尾藤知宣……

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/04(月) 18:58:37 ID:Jsc5Z0wd
これ見ると逆恨みで秀長の悪い話に仕立て上げたんじゃないかという想像すら出来るなぁ

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/04(月) 19:08:08 ID:a4yrJLZY
>>472
>>473

>>471は川角太閤記にある話なので、事実かどうかはともかく尾藤の追放に関してそういう話が
当時言われていたのは確かでしょうね。

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/04(月) 19:51:31 ID:DZ2skrXP
秀長さんは直臣の高虎が手柄あげてたしねー。

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/04(月) 23:17:40 ID:SAordeq+
>>475
二股膏薬と400年後大歴史小説家SIBAに罵倒される私ですが、この時代は忠義者だったんですよ。
だって秀長様と私はあーっの間柄だったんです。

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/04(月) 23:27:34 ID:1bUqGJ47
最近、秀長さん評判悪いなw

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/04(月) 23:48:21 ID:QR7Q7wFZ
>>471
ラスボス「この一件だけが原因ではないぞ
かつて長久手で軍監やらした時に
援軍を待たずに強硬策を採決した挙げ句に
優秀な武将2名を見捨てて逃げた
尾藤知宣を許せると思うか?
豊臣幕府に無くてはならなかった彼らを死なした罪は重い!」


481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/05(火) 00:35:41 ID:i1vxcE3V
>>480
作戦立案、あんたですやん…
忍城水攻めといい、なんだかなぁ。

尾藤甚右衛門知宣、豊臣秀長を批判する

2010年10月02日 00:03

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/01(金) 18:25:38 ID:6lCDoIFL
九州征伐における
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4683.html
の、日向根白坂の戦いの前、宮部継潤をはじめこの地に陣取っていた豊臣軍は、深刻な食糧難に陥っていた。

宮部の陣に程近くに陣取っていた黒田親子、並びに尾藤知宣の陣では兵糧が尽きて4日間も経ち、
食料といえば山に入って取ってくる山芋や筍、といったものしかなかったという。

そんな時大納言、豊臣秀長が兵糧1万石を携えて日向の浦に入った。
日向に滞陣していた諸将はみな、その兵糧を自分たちに分け与えてくれるものと考えていた。
所があにはからんや、秀長はこの兵糧を販売すると言い出したのだ。しかもたいへんな高額で。
これには日向滞陣の豊臣軍全体が憤った。

しかし憤ったものの、秀長はこの方面の大将であり、大名小名はみな、秀長のもとに挨拶に出た。

さて、毛利輝元が秀長のもとに挨拶に行った時のことである。
そこには先に2、3人の大名があり、秀長は輝元にこう声をかけた

「今日は雨が降っております。雨が止むまでこちらでゆっくりとよもやまの話でもして過ごしましょう。
食事も用意しますので、他のみなさんもどうぞごゆっくり。」
こう言われて、輝元を始めその場に居た大名たちもそれに従った。

ところで尾藤知宣も挨拶に来ていたのだが、一足先に帰ってしまっていた。
そこで秀長は使いを出し、帰る途中の尾藤を捕まえて戻ってくるように言った。

「皆様お残りになって秀長様よりご馳走をいただくそうです。尾藤様もお戻りになって
皆様とご一緒してください。」

これに尾藤は激怒した。使者に対し
「わしは戻ったところで秀長様に支払う食事代の持ち合わせもない!よって
このまま直に陣屋に帰らさせていただく!」

そう言い捨てて帰陣した。
これは兵糧米を売って利益を得ていた秀長への、強烈なあてつけの言葉であった。

「尾藤は秀長の兵糧米の売買がどうしても許せず、そのようなことを言ってしまったのだろう。」

人々はそう囁きあったという。


尾藤甚右衛門知宣、秀長を批判する、と言うお話。




378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/01(金) 18:42:41 ID:2n3PWEX4
当時は自弁が基本なんだから、そりゃあ秀長も無料ではやれんわな

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/01(金) 18:54:49 ID:0hHHAOTW
九州征伐で島津がもうすこし我慢すれば兵糧不足で豊臣方が自滅したという宣教師の観測は
やっぱり当たってたのか。
しかし、数万の大軍が食料の足しにできるほど山芋や筍があったのかw
どれだけ豊かな山なんだ

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/01(金) 19:09:05 ID:c0fcTMIs
>>380
いや、根白坂の時点では秀長軍が合流しているのだし、秀吉本隊もあるしで、
あそこからいくら我慢しても無駄。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/01(金) 19:37:02 ID:k+hVjsQy
きのこの山・たけのこの里

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/01(金) 21:13:36 ID:w/aBGDTQ
兵站の概念をもってなかった武将が多いってこと?
小田原攻めた時は深刻じゃあなかったでしょ。改善したの?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/01(金) 21:19:46 ID:t0566sm2
尾藤が消極論に終始して失脚を遂げるが、このへんが伏線かね

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/01(金) 21:26:07 ID:J0qrwTO9
>>384
兵站システムでは秀吉が世界の最先端を行ってたから、
各大名ごとに差があったのがまだ統一されてなかっただけじゃね?

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/01(金) 22:52:30 ID:BrMA9QwP
九州征伐で島津がもうすこし我慢すればきのこ・竹の子論争で豊臣方が自滅したという宣教師の観測は
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堀川城の尾藤一族

2010年04月16日 00:06

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/14(水) 21:43:32 ID:jZTmGP3L
天文の頃、遠州気賀に住み着いたある一団があった。
信州の小笠原、木曽の傘下であったのが武田信玄に圧迫されて、今川氏を頼って移った尾藤主膳、竹田高正、
山村修理らの諸将である。
彼らはここに堀川城を築き、新天地で安息の時を得るかに見えた。

ところが永禄三年、桶狭間の合戦で今川義元が敗死すると、ここ遠州には徳川家康の手が伸びてくる。
そして永禄十二年、押し寄せる徳川軍を前に気賀の住人は老若男女城に立てこもって善戦するも、
家康の手によってついに陥落、住民3000人の内1700人が討たれるという壮絶な撫で斬りにあって滅亡した。

このとき、城将尾藤主膳、山村修理、斎藤為吉、竹田高正、同高直、同高道らも討死・自害して、
高正の4男乙若丸と、桶狭間の後に尾張で森可成に仕えていた主膳の弟源内が残された。
しかしこの源内も嫡男又八郎とともに宇佐山城の戦いで主君可成に殉じ、
次男・甚右衛門と三男・久右衛門が残される。後の豊臣家臣、尾藤知宣と宇多頼忠の兄弟である。

尾藤知宣は豊臣秀吉に早くから仕え、小牧の役、四国征伐に従軍して5万石を領し、黄母衣衆に名を連ねて
羽柴四天王の一人とも称される。
遠州に残って武田氏に仕えていた頼忠も、兄を頼って秀吉に士官、秀長の家臣として1万3千石を領する重臣となる。
政権の腹心石田三成とも娘を嫁がせて結びつき、兄弟の行末は安泰かに見えた…

だが、さらにさらに悪い運命がこの一族を襲うのである。
まず兄・知宣は九州征伐で失態を演じて改易され、小田原攻めで秀吉の前に現われて許しを乞うも、
許されずに処刑されてしまう。
そして頼忠も所領を返上し、三成の元へ身を寄せたのだが、
後に起こる関ケ原の役で西軍は敗戦、彼も燃え落ちる佐和山城と運命を共にしたのであった…。

一方、堀川城の悲劇を免れた竹田乙若丸。
3歳で故地信州木曽に逃れた彼は、数年の雌伏を経て高治と称し、尾藤兄弟と同じく豊臣家に仕えた。
そして、大坂の陣では毛利勝永隊に属して戦っている。竹田永翁である。
しかし父兄の仇敵家康の率いる天下の軍勢の前に大坂も落城、
永翁も鴫野の戦いで戦死したとも、大坂城千畳敷で自害したとも言われている。


そんな、代々ついてない一族の話




157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/14(水) 21:49:54 ID:D2BGxzg4
>>156
家康が若い頃に皆殺しやってたなんて意外だ・・・
まあきれいごとで戦国大名が務まるはずもないが。

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/14(水) 22:44:21 ID:nqPitrgM
>>157
堀川城は掛川城で和睦した帰りの家康に、領民主体で家康襲撃を計画して、
それを察知した家康が雑兵の姿になって難を避けたことがあった。

そのくらい堀川城は反家康的な空気が強かったのだろう。
それもあっての撫で斬りだと思われる。

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/14(水) 23:10:28 ID:kLlbWRsQ
家康って、基本的には鷹揚だけど、反抗的な有象無象な人材には容赦ないって感じかしら?
本田正信とかくらいなら、許されるにしても

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/15(木) 00:13:20 ID:lMY6nLDS
>>159
つーか堀川城の撫で斬りで、それに連携していた周辺の城は全て、家康に戦わずして
屈服したので、当時の家康としては必要なことだったんだろう。

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/15(木) 00:38:01 ID:FzIA41Jx
>>163
家康が、堀川城を撫で斬りにすれば他は降参してくると予測したから、あえて撫で斬りしたってこと?
そんな神がかったシミュレーションって、実在の人間に可能なのかね?

報復のために撫で斬りにしたら、思いがけず周囲の城砦まで自落してくれたので儲けた、って話の方が可能性が高そうだ。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/15(木) 00:54:10 ID:gRl4P4Ja
>>164
むかーーしからある手段ではあるからね
チンギスハンも最も近くにある町は残虐非道を尽くし皆殺しにしてその噂が広まったところで
次の街からは降服勧告だけで落として行ったらしいし

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/15(木) 00:56:00 ID:lMY6nLDS
>>164
戦国期の撫で斬りって言うのは、敵対する勢力に領民の安全保障をする能力が無いことを
知らしめるための戦術、と言うのが今の歴史学では定説だと思う。

この撫で斬りで家康は、反徳川の勢力には家康に対抗して住民の安全を保証する
能力が存在しない、と言うことを知らしめたわけで、遠江を侵略する立場であった
家康としては、その権威の確立のためにもどこかで見せしめが必要だったとは思う。

家康に限らず戦国大名には、強面の面を見せて住民を屈服させないといけない時期が
必ずあるものだよ。良い悪いとは別の意味でね。
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仙石秀久と尾藤知宣、その異なった運命

2010年01月16日 00:07

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/15(金) 16:05:54 ID:J9JXBIrV
秀吉の九州征伐において、軍監として九州に赴いた仙石秀久が、戸次川の戦いで
島津軍に大敗し、秀久が軍監を解任、改易されたこと、これは有名であるが、
実は久秀の後任の軍監も、おなじ目にあっている。
羽柴四天王の一人、尾藤知宣である。

豊臣軍による高城攻略の最中、宮部継潤の守る根白坂砦に島津軍が夜討を仕掛けたとき、
羽柴秀長らは援軍を出すことを主張したが、軍監の尾藤はこれに慎重論を唱えた。

「仙石の時のように、これが罠であったらどうするのか。」

秀長もそれを了承したが、秀長麾下の藤堂高虎は独断で救援に出撃、これにより島津軍は
大損害を受け撤退した。
撤退の情報が入っても、尾藤は慎重を旨とし追撃を控えさせた。

この報告を受けた秀吉は激怒。すぐさま尾藤を軍監から解任、改易させた。
九州征伐の軍監は、二代続けて改易されたのだ。

さて3年後、小田原の陣が起こる。

仙石秀久は早速甲冑に身を固め、諸侯に先駆け一番に秀吉のもとに参陣した。
秀吉はこれに大いに感じ入り、彼に山中城攻めを命じた。秀久の帰参はかなったのだ。
ところが尾藤の方は、小田原陣が終わった後剃髪して、下総の古河にいた秀吉の前に、
許しを乞いに現れた。

秀吉は「尾藤」と声をかけ、さらに自分の馬を引き出させ尾藤にそれを乗らせ、これを見物する
などをした。尾藤は秀吉のこの扱いに大いに喜んだ。が、下野において突然、「尾藤を成敗せよ」と
命を下した。

尾藤知宣は耳鼻を削がれ、さらに手足を斬り落とされた上で首を撥ねられるという、
残忍な殺され方をしたのだと伝わる。


仙石も尾藤も、同じく秀吉草創の頃からの古参であり、又同じ頃改易を受けたのに、どうして
これほどまでの違いが起きたのか。

「仙石は小田原陣が始まる前に参陣したのに、尾藤がお目見えしたのは北条降参の後だったためだ。」
「そもそも九州の時、仙石はやるべきではない戦をしたが、尾藤はやるべき戦すらしなかった。
同じく法に背いたとは言え、尾藤の方には勇気が無い。ここが根本的に違ったために、
秀吉の扱いも異なったのだ。」

人々、この二人の異なった運命について、この様に語り合ったそうである。





723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/15(金) 16:42:05 ID:Cn8SFSK4
長宗我部信親・十河存保「そんな勇気誰得だよ……」

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/15(金) 17:28:05 ID:0Da3/Ulr
長宗我部元親「最初から尾藤の方を軍監にしといてくれよ……」

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/15(金) 17:28:12 ID:BP6+3zm+
生駒親正「俺得です^^」


737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 00:03:31 ID:+GOgm4VM
仙石秀久の場合、家康のとりなしがあるから神子田や尾藤とは
同列に語れないんじゃないか?


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尾藤知定(知宣)の最後

2009年08月01日 00:53

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/30(木) 23:58:31 ID:oBQ+7EEX
小田原陣のあと、東北を平定しようとした豊臣秀吉の前に
一人の男が現れた。

秀吉「尾藤…」

尾藤知定(知宣)は長浜時代から秀吉に従った家臣だった。
秀吉は尾藤の勇猛さを愛したという。しかし尾藤は九州征伐
で失敗して改易された。そして今、尾藤は剃髪して秀吉に
許しを請うている。だが…

秀吉「この男を殺せ」

秀吉はそう家臣に命じた。秀吉は尾藤が小田原陣の結果
を見て自分のもとにやって来たことを見抜いていた。尾藤
は秀吉の不興を買って殺された。それは尾藤と同じく失態
を演じて改易されながら、小田原陣で活躍して返り咲いた
仙石秀久とは対照的であった。