291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/27(木) 18:54:46.56 ID:Gg747KB6
「朝野雑載」より尾藤知宣の話
秀吉公お取り立てで讃州を領していたが根白口で島津義弘を討ち取らなかったため改易となり、天下御構いとされたため秀吉に与しない小田原北条家に仕えた。
一方、柴田勝家の猶子である佐久間久右衛門安次(安政)、同源六郎実政(勝之)の兄弟も賤ヶ岳の戦いで兄の盛政が敗北し処刑されたのちは
遺恨を晴らそうと紀州の粉川(粉河)寺法師と語らい河内や南河内長野で秀吉に楯突きたびたび手強い合戦をしたものの敗れこれまた小田原に入り氏政に仕えた。
小田原落城後、金沢称名寺(金沢八景に称名晩鐘が取られている)に隠れていたところを秀吉公きこし召され
「伯父勝家が讐と思い、我らに数年楯突くといえども叶わず。
小田原へかけ入り、なおも遺恨をはらさんとせし、その志まことに大丈夫なり」
とてかの寺より召され、
「もはや四海はみな我らの手に入りたれば向後心をひるがえして降参いたし、秀吉を父と思え」
とて、兄久右衛門に一万五千石、弟源六に一万石くだされ、蒲生氏郷の与力につけらる。
尾藤「御敵柴田が一門だに御赦免あり。まして秀吉小身の頃より旧功ある我ならば御赦免うたがいなし」
と思い、剃髪染衣の姿で秀吉公が小田原から奥州へ出向く御道筋に罷りいで畠中に平伏した。
秀吉公「あれに見えたる大坊主は何者ぞ?」とお尋ねあり。
あらかじめ尾藤と打合せていた御駕籠廻り衆「先年ご改易なされし尾藤左衛門佐と見え候。
小田原にまかりありしが、かようの姿にまかりいで、お馴染みに甘え、お目通りにまかりいで候かと」
秀吉公、御気色かわり「佐久間兄弟が小田原にこもりたるは義理の至極なり。尾藤めは大罪人なり。
その謂れはまことに赦免を願わば洛外にもかくれ居て、この度小田原発向の先手へ加わり、陰の奉公をしてこそ尤もなれ。
氏政に奉公して我に弓を取り、落城以後かようの仕方、言語道断憎き次第なり」
と言って、御歩行衆に引っ張ってこさせ、備前兼光の御腰物にて、御手打ちに御成敗なり。
尾藤知宣が秀吉の前に現れ赦免を願った理由に、柴田の縁者の佐久間兄弟が赦されたから、というのもあったことになってる
「朝野雑載」より尾藤知宣の話
秀吉公お取り立てで讃州を領していたが根白口で島津義弘を討ち取らなかったため改易となり、天下御構いとされたため秀吉に与しない小田原北条家に仕えた。
一方、柴田勝家の猶子である佐久間久右衛門安次(安政)、同源六郎実政(勝之)の兄弟も賤ヶ岳の戦いで兄の盛政が敗北し処刑されたのちは
遺恨を晴らそうと紀州の粉川(粉河)寺法師と語らい河内や南河内長野で秀吉に楯突きたびたび手強い合戦をしたものの敗れこれまた小田原に入り氏政に仕えた。
小田原落城後、金沢称名寺(金沢八景に称名晩鐘が取られている)に隠れていたところを秀吉公きこし召され
「伯父勝家が讐と思い、我らに数年楯突くといえども叶わず。
小田原へかけ入り、なおも遺恨をはらさんとせし、その志まことに大丈夫なり」
とてかの寺より召され、
「もはや四海はみな我らの手に入りたれば向後心をひるがえして降参いたし、秀吉を父と思え」
とて、兄久右衛門に一万五千石、弟源六に一万石くだされ、蒲生氏郷の与力につけらる。
尾藤「御敵柴田が一門だに御赦免あり。まして秀吉小身の頃より旧功ある我ならば御赦免うたがいなし」
と思い、剃髪染衣の姿で秀吉公が小田原から奥州へ出向く御道筋に罷りいで畠中に平伏した。
秀吉公「あれに見えたる大坊主は何者ぞ?」とお尋ねあり。
あらかじめ尾藤と打合せていた御駕籠廻り衆「先年ご改易なされし尾藤左衛門佐と見え候。
小田原にまかりありしが、かようの姿にまかりいで、お馴染みに甘え、お目通りにまかりいで候かと」
秀吉公、御気色かわり「佐久間兄弟が小田原にこもりたるは義理の至極なり。尾藤めは大罪人なり。
その謂れはまことに赦免を願わば洛外にもかくれ居て、この度小田原発向の先手へ加わり、陰の奉公をしてこそ尤もなれ。
氏政に奉公して我に弓を取り、落城以後かようの仕方、言語道断憎き次第なり」
と言って、御歩行衆に引っ張ってこさせ、備前兼光の御腰物にて、御手打ちに御成敗なり。
尾藤知宣が秀吉の前に現れ赦免を願った理由に、柴田の縁者の佐久間兄弟が赦されたから、というのもあったことになってる
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