武田信虎と、駿河での子

2015年05月08日 18:55

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 19:40:16.96 ID:GDeBRSsV
永禄6年正月7日、遠州掛川の円福寺という、律宗の寺より一人の出家が甲府へと来た。
これに長坂長閑が付き添って、武田信玄公に申し上げた

「御父君である信虎公ですが、今川氏真公の御意に違いになり、この春のうちにも都に
御上りなされることに成りました。その事について、信玄公に仰せ渡したい事があります。
小身の侍のうち、信玄公が心やすく思われ、また何事にもしっかりと分別有る者を一人、
この僧と供に信虎公の元に寄越して頂きたいのです。」

そこで信玄公は、日向源藤斎を、正月13日に仰せ付け、その日に甲府を立たせて遠州掛川の
円福寺に向かわせた。
日向源藤斎は17日に掛川円福寺に到着。その夜に信虎公にお目にかかった。
信虎公は先ずこうに仰せに成った

日向源藤斎と名乗るお主は何者か?」

「私は日向大和の親類であります。信虎様が甲州から御牢人となられた26年前には、私は奉公もせず
日向大和に扶養されておりました。年齢も二十歳になっておりませんでした。
元来は、信濃が本国です。」

信虎公これを聞くと
「たとえ何者であっても、信玄が心安く思っているのならくるしからず。

私は信玄に出し抜かれこの体になり、45歳の時より当年まで26年の間、今川義元に扶持を受け、
今や70になってしまった。
義元が生きている間は。私も甲州に居た時と同じように待遇され、今川家の侍衆も、『御舅殿』と
崇めていたのだが、4年前の5月19日、義元が討ち死にすると、子息の氏真はこの信虎に祖父の待遇をしない。
よって去年の晴までは駿府にいたのだが、夏の間にこの円福寺に移ったのだ。

それから、私が牢人した次の年、駿府にて男子一人を持った。義元はこれも、小舅の待遇にしてくれ、
騎馬の者を20ばかり預け、武田上野守と名乗り、当年25になる。
この上野守が16の時に設けた子に、私が名を付けたが、信玄にあやかるようにと勝千代と付けた。
この子も、当年10歳となった。

この上野父子も駿府で過ごしていたが、私が円福寺に去年から移ると、三浦右衛門という今川氏真の出頭人が
遮って、上野父子は氏真から声もかけられない有り様で有る。

そこで信虎はこの3日の内に上洛し、都の辺りに居住するつもりである。
私は公家の菊亭晴季殿に、上野の妹で、当年19歳になるのを、義元が生きている時に祝言させたので、
菊亭殿は信虎の聟であり、これに頼って都に上る。
然れば、上野は信玄の弟であるから、この父子を懇ろに待遇するよう、信玄によくよく言うように。」

そう、日向源藤斎に仰せ付けになられた。

その夜半過ぎ、人々が皆寝静まった頃に、信虎公は日向源藤斎を召して言った
「私は信玄に対し恨みあるといえども、もはや過ぎて久しき事だ。また、信玄の方にも道理は萬々多かった。
あの当時は、良き上にも良くあるようにと思って、信玄に対し折檻したが、あれは皆、信虎の間違いであった。
なぜなら今や、信玄の誉れは名高く聞こえ、信濃を皆手に入れて、飛騨国、上野国までも一両年の間にに
治めるだろうという沙汰を聞く、信虎の喜びは、これに過ぎる事はないと、信玄に言ってほしい。」

源藤斎はこれに「かしこまりて候」と答えた。

(甲陽軍鑑)

武田信虎、駿河で作った子供を信玄に頼み込む、というお話。




757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 02:21:22.75 ID:Y5kEKSGr
武田の父子不和は遺伝的疾患かね?

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 06:25:36.51 ID:J2Y9jU6L
現代でも親たちの作った借金や制度に
子供たちが苦しんでるだろ

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 06:54:11.02 ID:Np3grdNi
親子不和なんて珍しくもないでしょ

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:05:54.45 ID:PWgJoWir
大塚家具とか

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:21:31.65 ID:ZLQ/3S+8
武田の父子不和は伝統芸やね

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:47:15.86 ID:aYn4wbvv
そもそも河内源氏自身が・・・・・・

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:58:02.50 ID:o4/pQzaX
あの世で新羅三郎も、子孫が身内で争ってることにこころを痛めただろうな

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 11:09:38.39 ID:Z/2crxAD
>>763
義綱「…」

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 11:47:54.68 ID:2EjhBKU2
家族でころころしあうのは源氏のお家芸みたいなもんやし

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信玄は義信を理解しようとしない。

2010年04月12日 00:01


63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/11(日) 17:47:39 ID:Fyd2D6aC

武田信玄と嫡男義信の間で諍いが起こった時の事。

「長禅寺の春国、東光寺の藍田、恵林寺の快川の三名が春の初めから現在(六月末)
まで色々とりなしを行ってきたが、未だ結論は出ておらず、他国へ放逐となった家
臣の帰国も叶えられていない」(快川紹喜の書いた手紙)

この頃には既に義信と信玄の間は決裂しており、義信が幽閉されて既に一年以上経
っている。
永録八年正月に幽閉、十年十月に死去。この手紙は九年六月末に書かれたとされて
いるモノだ。

「信玄はまったく義信について理解しようとしない。ほとぼりが冷めた頃、来年か
再来年くらいにでも信玄に一言言うべきだろうか。でも、私の様な路傍の僧侶が口
を挟んでも禍にしかならないかも知れない……」(快川紹喜の書いた手紙)

上の手紙とは別人に宛てた手紙だが、ほぼ同時期に書かれた手紙である。

さて、突っ込みどころはどこだろう。
「ほとぼり冷ますの長っ!!」
「アンタ十分口挟んどるやん!!」

……いやいや、突っ込みはいいんだ。今回はそーゆー話じゃなくて。

信玄と義信の対立に至る原因は実はハッキリとは判っていない。
今川との同盟を巡る意見対立だとも言われるが、義信幽閉から約四年、死後一年あ
まりも駿河攻めを起こしておらず、納得出来ない部分が残る。
が、上の手紙を見る限り、快川は非があるのは信玄だ、と考えているらしい。

信玄は一体、義信の何を判ろうとしなかったのだろう。
ほとぼりを冷ますのが長すぎた為か、快川が物申す前に義信が死んでしまったのは
残念なコトである。


ちなみに義信の死んだ時、快川は美濃に里帰りをしており、甲斐を留守にしていた。
幽閉されて約三年、腹を切る様子もなく生きてきた義信が、擁護派の快川が留守中
に謎の死を遂げる……どうにも意味深なタイミングだと思ってしまうのは私だけだ
ろうか?

何だか良くわからないが、とにかく義信にムカついていた信玄、というお話。




上杉謙信「武田の小伜(義信)に」

2010年01月17日 00:07

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 21:37:26 ID:Uruj26UE
上杉謙信は機嫌がよいとき、たびたび家臣たちに

「川中島の戦では武田の小伜(義信)にしてやられた。今でも悔しい」

と語っていた。やがて義信が切腹し、その報を聞くと謙信は

「信玄は了見ちがいをしおった。惜しい大将を殺して勝頼に家を継がせる
とは悲しきことよ……」

と義信の死を嘆いたという。




766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 22:21:52 ID:r3O8+XC9
そういう謙信も駿河攻めで手薄の信濃に攻め込んで留守居の勝頼がわずかな手勢で
迎撃に出てきた時にはその勇猛さに頬を染めて撤退していったという…

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 22:23:28 ID:ZYcHOQUs
>>765
> 川中島の戦では武田の小伜(義信)にしてやられた。

何をどういう風にしてやられたのか、って部分を言い残してくれているとありがたかったんだがなあ。