779 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 14:56:24 ID:KkN8aK1K
ごめん長くなるけど投下します。
宇佐美家の系譜1
上杉家の軍師として有名な「宇佐美定満」
その最後も謀反の疑いのあった長尾政景と共に野尻湖に沈んだという
最後まで上杉家の為に忠義を尽くした。
しかし、その息子「勝行」は「定満」の
「自分の死後は宇佐美家を取りつぶしてほしい」
という遺言通りに上杉家を解雇されてしまう。
その後、勝行は仙石秀久、黒田孝高、佐々成政など、
他家を転々としながらも武功を重ね、
一時は一万石の知行をもらうまでに出世したが、
最後は、つまらないイザコザで追い出され故郷の越後で病没した。
そして、その息子「勝興」は越後の稲垣家に仕えるがこれも出奔。
その後、尾張徳川義直に仕えるが、ここでもうまくゆかず出奔。
今度は、水戸の徳川頼房に仕えたがすぐに立ち去ってしまった。
しかしその後、高野山で紀州徳川頼宣と出会い「浪人分」として仕え
頼宣の軍学の師匠として仕えその地で病没。
最後「勝興」の息子「定祐」は徳川頼宣に正式に家臣として採用。
その後は軍学者として名を馳せたのであった。
以上、宇佐美家四代の波乱に満ちた系譜でした・・・・・・
では、終わらない。
実はこれのほとんどが嘘かもしれないのだ。
780 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 14:57:34 ID:KkN8aK1K
宇佐美家の系譜2
宇佐美定満の孫「勝興」が水戸への就職が決まりかけた時。
米沢藩主の上杉景勝が「宇佐美といえば我が旧臣。ぜひわが藩に」と申し出た、
ところが、かつて謙信にも仕えていた畠山義春に宇佐美家について問い合わせてみた所
「宇佐美定満には息子がいなかった」と答えた。
そのせいで米沢への就職はかなわず水戸を追い出されてしまった。
では「勝興」とは一体何者?そしてなぜ徳川頼宣は軍学の師匠として仕えさせたのか?
じつは、この「勝興」元は越後の稲垣家に仕える料理人の息子、
若い頃から軍学が好きで甲州流軍学などを学んでいた。
そして「宇佐美定満」の子孫と嘘をつき尾張などに仕える事になるのだが、
畠山義春に嘘を見破られ尾張を出奔するはめになる。
そして、高野山にいた所で徳川頼宣と出会い紀州に就職するのだが、
すぐには、紀州に行かず十一年もの間大阪住まいを命ぜられる。
さて、「勝興」大阪で十一年もの間何をしていたのか?
それは「歴史の偽造」である。
781 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 14:59:02 ID:KkN8aK1K
宇佐美家の系譜3
詳しい説明は省くが「勝興」はここで宇佐美家に伝来されたといわれる
大量の古文書の偽造を行っている。
それは、また畠山義春の時のように嘘を見破られては困るので、
何としてでも自分が宇佐美定満の子孫であるという証拠作りたかったのだ。
この偽造は息子「定祐」にも受け継がれ、
「定祐」も「北越軍紀」とその裏付けとされている一次史料の数々の偽造を行った。
そして畠山義春の息子に「父の発言は間違いだった」と証文まで書かせている。
だが、ここでこの宇佐美親子最大の嘘が作られる、それは
「宇佐美定満は謙信の軍師でもなんでもなかった」
782 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 15:02:32 ID:KkN8aK1K
宇佐美家の系譜4
宇佐美定満が謙信の近臣に当てた手紙にこういうのが残ってる。
「私には現在に至るまで知行を一カ所も渡されていない・・・・」
「私が無力なので家来たちはやる気をなくしている・・・・・」
何とも情けない手紙であるが、これを見る限り
定満は軍師としてどころか全く信用されていなかったようだ。
実際の宇佐美定満は、この手紙を最後に史料からは一切姿を消してしまっている。
しかし、なぜここまでする必要があったのか?
全ての黒幕は、紀州藩藩主「徳川頼宣」である。
783 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 15:04:08 ID:KkN8aK1K
宇佐美家の系譜5
徳川頼宣は家康の十男で、二代将軍秀忠により紀州藩初代藩主に命ぜられている。
今でこそ、紀州徳川と言えば「水戸」「尾張」と並ぶ御三家として名が知れているが、
当時は、将軍家の分家といえどもなにかあれば容赦なく取りつぶされてしまう。
そこで、徳川頼宣は紀州を「最強の軍事国家」にしようとし、関ヶ原や大坂の陣など
戦国末期に活躍した武士の子孫を新たに召し抱え、まず「最強の軍団」を作り上げた。
頼宣は「最強の軍団」と「最強の軍学」がそろってはじめて
「最強の軍事国家」が作られると考えていた。
当時は、甲斐の武田信玄の軍学である甲州流が流行り将軍家もこの甲州流を取り入れていた。
その将軍家に対抗しようと、信玄相手に互角に渡り歩いた謙信の越後流を取り入れようと考えた。
そこで、宇佐美の子孫という事になっている「勝興」と出会うのである。
そこで、徳川頼宣は上杉軍の軍師「宇佐美定満」を作り上げ、
その子孫を軍学者としてでっち上げ、「最強の軍学」を手に入れたのである。
徳川頼宣そして宇佐美親子の大掛かりな歴史偽造の話。
784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 15:06:18 ID:KkN8aK1K
以上です。
賛否両論あると思いますが、好きな話だったので投下しました。
あまりに長文&説明不足なところがあるとおもいますが、
ご勘弁ください。
785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:16:37 ID:nzfDT6cQ
『誰が歴史を捏造したか』だな。
吉宗の時代に定着しちゃったんだろう。
三河物語も槍玉に挙げられている。
徳川260年の罪のひとつ。
786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:20:51 ID:8jTvGoyI
太田資宗「家系の偽造とは感心しませんな」
787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:24:17 ID:xxBlnurE
まあ逸話と言うよりも「仮説」ではあるな。
788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:31:57 ID:SNLuR1KS
「宇佐美定行」という架空の人物に対して下すべき評価と若干混同してない?
資料価値では高く見られてる諸国衆太刀乃次第写じゃ、家臣団の序列十五位につけてるし、
軍師説は疑わしいけど宇佐美定満が相手にされてなかったてのはもっと疑わしいな
789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:33:14 ID:CGf880kT
まぁ面白かったから良いではないか
推理小説でも読んだかのようだわ
真偽鑑定なら検証レがやってくれるさ
790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:33:24 ID:w8fy5LPv
劉備「家系捏造なんて、そんな事する奴の顔が見たいですな」
曹操「全くだ」
孫堅「然り然り」
楊堅「不正をしても天が見ており、地が見ておる以上、
いつかはばれるものだと私の先祖も言っておりました。」
李世民「秦漢よりの名族で、母方は漢皇室の外戚に連なる、紛う事なき
漢人であるところの私にも到底信じられません。」
791 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 15:46:13 ID:KkN8aK1K
>>788
「北越軍紀」のなかでは「定行」が「定満」に改名した。
とあるので、「定満」に統一しました。
多分「定祐」は実在の「定満」をベースに
架空人物「定行」を作り上げたんではないかと自分は考えています。
これも、説明不足ですね。すいません
ごめん長くなるけど投下します。
宇佐美家の系譜1
上杉家の軍師として有名な「宇佐美定満」
その最後も謀反の疑いのあった長尾政景と共に野尻湖に沈んだという
最後まで上杉家の為に忠義を尽くした。
しかし、その息子「勝行」は「定満」の
「自分の死後は宇佐美家を取りつぶしてほしい」
という遺言通りに上杉家を解雇されてしまう。
その後、勝行は仙石秀久、黒田孝高、佐々成政など、
他家を転々としながらも武功を重ね、
一時は一万石の知行をもらうまでに出世したが、
最後は、つまらないイザコザで追い出され故郷の越後で病没した。
そして、その息子「勝興」は越後の稲垣家に仕えるがこれも出奔。
その後、尾張徳川義直に仕えるが、ここでもうまくゆかず出奔。
今度は、水戸の徳川頼房に仕えたがすぐに立ち去ってしまった。
しかしその後、高野山で紀州徳川頼宣と出会い「浪人分」として仕え
頼宣の軍学の師匠として仕えその地で病没。
最後「勝興」の息子「定祐」は徳川頼宣に正式に家臣として採用。
その後は軍学者として名を馳せたのであった。
以上、宇佐美家四代の波乱に満ちた系譜でした・・・・・・
では、終わらない。
実はこれのほとんどが嘘かもしれないのだ。
780 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 14:57:34 ID:KkN8aK1K
宇佐美家の系譜2
宇佐美定満の孫「勝興」が水戸への就職が決まりかけた時。
米沢藩主の上杉景勝が「宇佐美といえば我が旧臣。ぜひわが藩に」と申し出た、
ところが、かつて謙信にも仕えていた畠山義春に宇佐美家について問い合わせてみた所
「宇佐美定満には息子がいなかった」と答えた。
そのせいで米沢への就職はかなわず水戸を追い出されてしまった。
では「勝興」とは一体何者?そしてなぜ徳川頼宣は軍学の師匠として仕えさせたのか?
じつは、この「勝興」元は越後の稲垣家に仕える料理人の息子、
若い頃から軍学が好きで甲州流軍学などを学んでいた。
そして「宇佐美定満」の子孫と嘘をつき尾張などに仕える事になるのだが、
畠山義春に嘘を見破られ尾張を出奔するはめになる。
そして、高野山にいた所で徳川頼宣と出会い紀州に就職するのだが、
すぐには、紀州に行かず十一年もの間大阪住まいを命ぜられる。
さて、「勝興」大阪で十一年もの間何をしていたのか?
それは「歴史の偽造」である。
781 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 14:59:02 ID:KkN8aK1K
宇佐美家の系譜3
詳しい説明は省くが「勝興」はここで宇佐美家に伝来されたといわれる
大量の古文書の偽造を行っている。
それは、また畠山義春の時のように嘘を見破られては困るので、
何としてでも自分が宇佐美定満の子孫であるという証拠作りたかったのだ。
この偽造は息子「定祐」にも受け継がれ、
「定祐」も「北越軍紀」とその裏付けとされている一次史料の数々の偽造を行った。
そして畠山義春の息子に「父の発言は間違いだった」と証文まで書かせている。
だが、ここでこの宇佐美親子最大の嘘が作られる、それは
「宇佐美定満は謙信の軍師でもなんでもなかった」
782 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 15:02:32 ID:KkN8aK1K
宇佐美家の系譜4
宇佐美定満が謙信の近臣に当てた手紙にこういうのが残ってる。
「私には現在に至るまで知行を一カ所も渡されていない・・・・」
「私が無力なので家来たちはやる気をなくしている・・・・・」
何とも情けない手紙であるが、これを見る限り
定満は軍師としてどころか全く信用されていなかったようだ。
実際の宇佐美定満は、この手紙を最後に史料からは一切姿を消してしまっている。
しかし、なぜここまでする必要があったのか?
全ての黒幕は、紀州藩藩主「徳川頼宣」である。
783 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 15:04:08 ID:KkN8aK1K
宇佐美家の系譜5
徳川頼宣は家康の十男で、二代将軍秀忠により紀州藩初代藩主に命ぜられている。
今でこそ、紀州徳川と言えば「水戸」「尾張」と並ぶ御三家として名が知れているが、
当時は、将軍家の分家といえどもなにかあれば容赦なく取りつぶされてしまう。
そこで、徳川頼宣は紀州を「最強の軍事国家」にしようとし、関ヶ原や大坂の陣など
戦国末期に活躍した武士の子孫を新たに召し抱え、まず「最強の軍団」を作り上げた。
頼宣は「最強の軍団」と「最強の軍学」がそろってはじめて
「最強の軍事国家」が作られると考えていた。
当時は、甲斐の武田信玄の軍学である甲州流が流行り将軍家もこの甲州流を取り入れていた。
その将軍家に対抗しようと、信玄相手に互角に渡り歩いた謙信の越後流を取り入れようと考えた。
そこで、宇佐美の子孫という事になっている「勝興」と出会うのである。
そこで、徳川頼宣は上杉軍の軍師「宇佐美定満」を作り上げ、
その子孫を軍学者としてでっち上げ、「最強の軍学」を手に入れたのである。
徳川頼宣そして宇佐美親子の大掛かりな歴史偽造の話。
784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 15:06:18 ID:KkN8aK1K
以上です。
賛否両論あると思いますが、好きな話だったので投下しました。
あまりに長文&説明不足なところがあるとおもいますが、
ご勘弁ください。
785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:16:37 ID:nzfDT6cQ
『誰が歴史を捏造したか』だな。
吉宗の時代に定着しちゃったんだろう。
三河物語も槍玉に挙げられている。
徳川260年の罪のひとつ。
786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:20:51 ID:8jTvGoyI
太田資宗「家系の偽造とは感心しませんな」
787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:24:17 ID:xxBlnurE
まあ逸話と言うよりも「仮説」ではあるな。
788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:31:57 ID:SNLuR1KS
「宇佐美定行」という架空の人物に対して下すべき評価と若干混同してない?
資料価値では高く見られてる諸国衆太刀乃次第写じゃ、家臣団の序列十五位につけてるし、
軍師説は疑わしいけど宇佐美定満が相手にされてなかったてのはもっと疑わしいな
789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:33:14 ID:CGf880kT
まぁ面白かったから良いではないか
推理小説でも読んだかのようだわ
真偽鑑定なら検証レがやってくれるさ
790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:33:24 ID:w8fy5LPv
劉備「家系捏造なんて、そんな事する奴の顔が見たいですな」
曹操「全くだ」
孫堅「然り然り」
楊堅「不正をしても天が見ており、地が見ておる以上、
いつかはばれるものだと私の先祖も言っておりました。」
李世民「秦漢よりの名族で、母方は漢皇室の外戚に連なる、紛う事なき
漢人であるところの私にも到底信じられません。」
791 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 15:46:13 ID:KkN8aK1K
>>788
「北越軍紀」のなかでは「定行」が「定満」に改名した。
とあるので、「定満」に統一しました。
多分「定祐」は実在の「定満」をベースに
架空人物「定行」を作り上げたんではないかと自分は考えています。
これも、説明不足ですね。すいません
スポンサーサイト