細川真之殺害の実態は……?

2010年01月18日 00:07

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 12:15:18 ID:8jTvGoyI
戦国時代末期、四国の東半分に覇を唱える三人の兄弟があった。

といっても、父親は同じではない。
阿波守護細川持隆の子、真之。
その家臣である三好義賢の子、三好長治と十河存保。

天文二十二年に義賢が持隆を弑した際に、
真之の母である側室小少将を娶ったことで兄弟となった、異父兄弟の三人である。

父の世代が亡くなった後も権力と怨恨の関係はそのまま息子たちに受け継がれ、
天正五年に失政ばかりの長治を長宗我部氏と阿波国人の支持を得た真之が阿波で攻め滅ぼすと、
すぐさま讃岐を治めていた存保が阿波に入国して三好方の体制を整え、
五年後の天正十年十一月、真之の守る茅ヶ岡城を攻め落としてこれを自害せしめた。

細川真之を支持していた長宗我部元親は、こうした混乱を見て阿波に出兵。
同年八月の中富川の合戦で三好家の勢力を阿波から駆逐することになる。

と、いう流れが長宗我部氏の四国統一の流れで定説となっているが、だが少し待ってほしい。
日付を追いかけてみれば、どうにも順番がおかしくはないか。
史書に残る中富川の合戦は、天正十年八月二十八日。
勝瑞城の落城は同年九月二十一日で、一方三好軍による茅ヶ岡城攻略は十月八日。
つまり大打撃を受けて讃岐方面に駆逐された三好方が、
その直後に長駆して阿波の東南部(那賀郡那賀町)にある細川真之の城まで遠征軍を送り込み、
周囲の長宗我部方にも制止されることなく城を攻め落として帰還した、ということになる。

諸書に残る日付が間違っているのか、あるいは攻め滅ぼした側が伏せられてしまったのか……
ちなみに同年、細川真之の子で三好家支配を逃れるため反三好の雄・畠山高政の養子となり、
四国に戻ってからは長宗我部氏にしたがっていた畠山之照が謀反の咎で誅殺されたという話も見える。

今となっては確かめるすべもない話だが、はたして真之殺害の実態は……?
そんな悪い話の予備軍っぽいお話。




775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 12:34:31 ID:xxBlnurE
>>774
面白い。ミステリーの香りのするお話だなー。
長曾我部の四国統一の過程も、史書には出てこない、相当の紆余曲折が有ったんだろうね。

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 14:51:14 ID:MNxgQFfr
>>774-775
お母ちゃんの話はコッチで出てるね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2181.html

小少将は後に元親の側室にもなっててもう、わけわからん

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